武蔵の五輪書を読む
五輪書研究会版テクスト全文
現代語訳と注解・評釈

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五輪書 水之巻 2  Back   Next 

 
   4 「観」と「見」、二つの眼付け
【原 文】

一 兵法の眼付と云事。
目の付様ハ、大に廣く付る目なり。
觀見二ツの事、
觀の目強く、見の目弱く、
遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、
兵法の専也。(1)
敵の太刀を知り、聊敵の太刀を見ずと云事、
兵法の大事也。工夫有べし。
此目付、ちいさき兵法にも、
大なる兵法にも、おなじ事也。
目の玉うごかずして、
両脇を見る事、肝要也。
かやうの事、いそがしき時、
俄にハわきまへがたし。
此書付を覚、常住此目付になりて、
何事にも目付のかはらざる所、
能々吟味有べきもの也。(2)

【現代語訳】

一 兵法の眼付けという事
 眼の付け方は、大きく広く付ける目である。
 「観」〔かん〕と「見」〔けん〕の二つの事(については)、「観」の目は強く、「見」の目は弱く、遠い所を近く見、近い所を遠く見ること、これが兵法の専〔せん・第一とすべきこと〕である。
 敵の太刀を知り、少しも敵の太刀を見ないということ、それが兵法の大事〔だいじ・真髄〕である。これを工夫してみなさい。
 この目付けのことは、少さい兵法〔少数の戦い〕でも、大きな兵法〔合戦〕でも、同じことである。
 目の玉は動かずに両脇を見ること、それが肝要である。
 このようなことは、急場になって、にわかに会得できるものではない。この文書に書いてあることを覚えて、つね日頃、この眼付けになって、何ごとにも眼付けの変らないところ、それを、よくよく吟味しておくべきである。
 

 【註 解】

 (1)觀の目強く、見の目弱く
 目付け、目の付け方である。これも具体的で、かなり懇切な教えである。
 さてこの目付け、現代語でも「目付き」と「目付け」は違うのは、承知されていることであろう。前に「身なり」のところで、目を少し細めるようにして、うらやかな顔にみえるような目つき、という話であった。それは自分の目つき・顔つきのことだが、こんどは、対象をどう見るかという具体的な目の付け方の話である。
 まず、目の付け方は、大きく広く、である。そしてさらに、武蔵は目の付け方には、「観」〔かん〕と「見」〔けん〕の二つがあるという。話は明解で、分析的である。
 しかし、この観見二つが何であるかということになると、若干の迂回説明を要するであろう。
 観と見は、むろん仏教用語で、仏家では伝統的に語られてきたことである。観は、坐禅行のおりの観想の観、「止観」「中観」をはじめとして証悟の意であり、辞書的な意味では、心静かに対象を観察し、真実を悟るという具合である。たとえば、空海の詩や文を弟子の真済が編集した『性霊集』に、
《花蔵を心海に観じ、実相を眉山に念ず》(観花蔵於心海、念実相於眉山)
とあるところである。これに対し、「見」の方は、たとえば、四漏〔しろ〕に「欲・有・見・無明」を算えるように、否定的な意味である。道元の『正法眼蔵』に、
《いまいふところの見、またく仏法にあらず》(弁道話)
とあるように、現代語では言えば「見解」「意見」の意味である。仏教では「見」は、誤った見解、謬見の意に用いる。
 なお一方で、時代が下ると、能でいう「見」、演者が観衆に与える視覚的効果の意味が現れる。『花鏡』に、
《能の出で来る当座に、見・聞・心の三あり》(比判之事)
とあって、これは仏教用語の「見・聞・心」であるようでいて、その実、換骨奪胎して「見」はヴィジュアルな効果という意となる。かくして、もうすでに、武蔵のいう「見」の意味に近いわけである。
 すなわち、通俗解釈として、目で見るのが「見」、心で見るのが「観」といった図式的要約が流布するようになる。たとえば先に挙げた柳生宗矩の『兵法家伝書』も、この種の俗説を導入している。つまり、同書に、
《目に見るを見と云ひ、心に見るを観と云ふ》
というテーゼのあるところである。これに対し、武蔵の教えの方は、そんな甘い図式的抽象的思考ではなく、もちろん「観」「見」二つを、実践的に具体的に語るのみである。
 すなわち、目の付け方は、大きく広く、である。これで「観」の意味としては過不足はない。逆に、細かく狭く見るのが「見」である。それが武蔵の「観見論」である。
 武蔵が述べているのは、こうだ。――「観」の目は強く、「見」の目は弱く、遠い所を近く見、近い所を遠く見ること、これが兵法の専、戦闘術で重要なことである、と。これ以上に何も付け加える必要はないのである。
 このシンプルな合理的説明に対して、柳生宗矩の観見二様相の説明は、禅味というより、禅臭いのである。ところが、近代の五輪書解釈において、この柳生流が横行してきたというのが実状である。武蔵を柳生流で読む弊害が生じているのである。言うも愚かなことだが、五輪書は武蔵流に読まなければ五輪書を読んだことにはならない。
 さらにもっと劣悪な通俗解釈本となると、観は本質を見抜く目、見は現象(見かけ)に惑わされる目、といったぐあいに、本質/現象の対立図式に還元してしまう。そしてそこから、どんな時代でも物事の本質を見抜く目が必要であり、それゆえ武蔵は現代にも通じる思想家である、といった大笑いの結論を導き出すのである。これはしかし、我々の時代の五輪書読解環境の、嗤えない惨状なのである。
 こうした頓馬な解釈本の諸説と逆に、「観」とは、物事に本質も実体も存在しないと悟ること、本質とは、(ヘーゲル流に言えば)現象の現象にすぎない――のであるが、仏教的伝統のなかではこれは初歩的な要点。しかし、こうしたことを、改めて説かねばならないであろうか?

 しかし、既成現代語訳では、戦後になって、あきれ返るほどの事態が生じている。《觀見二ツの事、觀の目強く、見の目弱く、遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、兵法の専也》――ここが五輪書のうちでも最も有名な箇処の一つだから、訳者は気合いが入った様子だが、途方もない脱線を演じている。
 それが神子訳である。それを見るに、もはや語訳というものではない。解釈文である。しかも誤解釈の陳列である。いわく、――観、すなわち物ごとの本質を深く見きわめることを第一とし、見、すなわち表面のあれこれの動きを見ることは二の次とせよ。離れたところの様子を具体的につかみ、また身近な動きの中から、その本質を知ることが兵法の上で最も大切である、云々。
 そんなことが、どこに書いてあるか。戦前の石田訳と対比すれば、どれほどの脱線が演じられているか、明かであろう。
 後の大河内訳は、さすがにそこまでの脱線はせず、前半部分を記しているが、《遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事》という後半部になると、「遠いところを的確にとらえ、身近なところの動きから大局をつかむこと」として、神子訳の脱線を踏襲している。また、鎌田訳もその点同じ脱線のふるまいである。
 武蔵が言っているのは、――観の目は強く、見の目は弱く、遠い所を近く見、近い所を遠く見ること、これが兵法の専、重要なことである、ということである。これは文字通りに読めばよいのであって、現代語訳では、何も余計なことを付け加える必要はない。
 それを文字通りに読めず、蒙昧胡乱な文言をかぶせて、武蔵の言説を台無しにしてしまっているのが、これらの現代語訳である。早々に廃棄すべきであろう。
 なお、岩波版注記に、《目の付やうは、大キに廣く付る目也》の箇処の「目」について、「衍か」として、衍字の可能性を示唆しているが、それは誤りである。
 細川家本しか見ないから、そういう憶測をしたようだが、他の諸本、とくに筑前系まで渉って通覧すれば、そんな憶測の余地はない。この「目」字は、現存写本すべてに記すところである。
 上記の既成現代語訳が、書かれていないことを読んでしまう妄想であるのに対し、これは逆に、書いてある文字を見まいとする例である。ただし、後でみるように岩波版は、別の箇処では底本の細川家本にない文字を入れるのだから、その逆のこともあるということである。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 















長保寺蔵 和歌山県下津町上
重文 天台大師像

東寺蔵
重文 弘法大師像(談義本尊)














*【現代語訳事例】
目の付け方に觀と見の二種あって、觀の目を強くし見の目を弱くし、遠い所を近く見、近い所を遠く見ることが兵法において専ら大事である》(石田外茂一訳)
《観、すなわち物ごとの本質を深く見きわめることを第一とし、見、すなわち表面のあれこれの動きを見ることは二の次とせよ。離れたところの様子を具体的につかみ、また身近な動きの中から、その本質を知ることが兵法の上で最も大切である》(神子侃訳)
《観と見の二つについては、「観」の目を強く、「見」の目は弱くして、遠いところを的確にとらえ、身近なところの動きから大局をつかむことが、兵法では最も大切なことである》(大河内昭爾訳)
《目には観の目と見の目とがあるが、観の目をつよくし、見の目は弱くする。離れたところの動きをはっきりつかみ、また身近な動きにとらわれず、それをはなして見ることが兵法の上で最も大切である》(鎌田茂雄訳)
 
 (2)敵の太刀を知り、聊敵の太刀を見ず
 このあたり、なかなか面白い思考が目白押しである。
 まず、敵の太刀を知り、少しも敵の太刀を見ない、というのである。この知/不見という対比は、観/見に対応したものであるが、少しも敵の太刀を見ない、というのが、意表をつくような刺激的な教えである。
 ふつう、どんな武器でも戦闘に及ぶとき、相手の武器の動きを見るはずであり、見なければこちらが危ないはずである。武蔵伝説にも、武蔵は一寸、五分という間合いを見切ったとする。つまり、相手の太刀先を、そんなほんの僅かな隙でかわせたという伝説である。
 これは、相手の太刀の動きを、しっかり見ているからできるのではないか、少しも敵の太刀を見ないなどということの正反対ではないか?――というのが、一見したところの感想である。
 ところが実際には、速度の早い運動を見切るには、ある特定対象を注視してはならないのである。これは高速運動と、それにともなう視角度狭窄の問題である。つまり、求心性の視野狭窄が起きるのを避ける。
 これは、目の玉を動かさずに両脇を見ろ、という武蔵の教えと関係している。つまり、それは視軸を動かさずに視界にあるものを拾うということだが、これは上記のように視点を遠くに措いたときの方が、視界幅が大きい。視界幅員が大きいということは、複数の敵を相手の戦闘には必須のことである。
 したがって、敵の太刀を知り、少しも敵の太刀を見ないというのは、注視による求心性の視野狭窄を起さないということ、――具体的な方法として、基本的な視点を遠くに措いて、視界幅員を広くとることである。
 むろん、武蔵は、「近くを見るな、遠くを見ろ」というのではない。《遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、兵法の専也》というわけだから、ようするに、近くであれ遠くであれ、求心性の視野狭窄を生じる対象注視をするな、ということである。
 そうすると、前述の「身なり」にあったように、目は凝視しない、目を少し細めるようにして、のどかな感じのする顔つきになるのである。むろん、このどかな顔つきは、達人の余裕の顔ではなく、武蔵に随えば、初歩的な目の付け方からくる戦闘者の顔なのである。
 こういう目の付け方は、急に身につくものではなく、ふだんから練習しておくこと、というわけだ。これも基本の練習なのである。
 それゆえ、ここでも同じだが、武蔵は、「対象に捉われるな、状況を全体的に把握せよ」などという一般論を言っているのではない。求心性視野狭窄は教訓を導く隠喩ではない。逆である。
 ここでの話は、戦うときの眼の付け方をどうするか、という具体的で合理的な、むしろ物理的な話なのである。いわば、仏教的観法論は、武蔵において、物理学へ変換されているのである。
 なお、後の風之巻(他流に目付と云事)には、もうすこし具体的な話が出てくる。
 他流では、その流派により、敵の太刀に目を付けるものもあり、または手に目を付ける流派もある。あるいは顔に目をつけ、あるいは足などに目を付けるものもある。そのように、とりわけて特定の部位に目を付けようとしては、肝心なことを見失う心があって、兵法の病というものになる、というわけである。
 武蔵流は、目付けといっても、他流のように特定部位に目を付けるようなことはしない、というわけである。
 そのわけは――ということで、武蔵が譬えに出すのは、蹴鞠〔けまり〕と放下〔ほうか〕の曲芸である。どちらも、しっかり目を付けることはないけれども、上手に鞠を蹴り、いろんな物を手玉にとることができる。ふだん手にしなれているので、おのづから見えるようになっているのである。
 兵法の目付は、だいたいその相手の心に付けた眼である。「観」「見」、二つのことも出てきて、観の目を強くして敵の心を見、その場の位〔状況〕を見、大きく目を付けることを言う。小さく目を付けるなということである。細部に小さく目を付けると、それによって、大きな事を取り忘れ、あちこち目迷う心が出て、確実な勝ちを取り逃がすぞ、というわけである。基本的な論点は、同じである。

――――――――――――











視点と視野幅員の関係
垂直方向:距離 水平方向:視界













*【他流に目付と云事】
《目付と云て、其流により、敵の太刀に目を付るも有、又は手に目を付る流も有。或は顔に目を付、或は足などに目を付るも有。其ごとくに、とりわけて目をつけんとしては、まぎるゝ心有て、兵法の病と云物になる也。其子細は、鞠をける人は、まりによく目をつけねども、びんずりをけ、おひまりをしながしても、けまわりても、ける事、物になるゝと云所あれば、たしかに目にみるにおよばず。又、ほうかなどするものゝわざにも、其道に馴ては、戸びらを鼻にたて、刀をいくこしもたまなどに取事、是皆、たしかに目付はなけれども、不断手にふれぬれば、をのづからみゆる所也》(風之巻)
 五輪書では、そういうことだが、後の肥後兵法書では話が違ってくる。たとえば、目を付けるというのは、昔は色々あったが、今伝えるところの目付けは、たいてい顔に目を付けるのだ、という。
 これを見るに、他流のように、手であれ顔であれ、特定部位に目を付けるようなことはしない、という五輪書の論点が消えている。だいたい、武蔵の教えには、太刀を敵の顔に付けろとはあるが、目を敵の顔に付けろとは教えていない。敵の顔に付けるのは、「目」ではなく、「太刀」なのである。
 肥後兵法書は、今伝えるところの目付けというが、これでは、まったく武蔵流ではない。むしろ、武蔵の云う、兵法の病というものになる也、である。いったい誰からそんな教えを伝えられたというのか。明らかに教義の変質である。
 そのほか、《其目にて見れば、敵の業ハ不及申、兩脇迄も見ゆる目也》というのも、五輪書の《目の玉うごかずして、両脇を見る事、肝要也》という話とは、趣旨がかなりズレている。あるいは、敵に知らするという目あり、意は目に付け、心は付けぬものだ、というあたりも、五輪書には記述のない話であり、武蔵以後の肥後門流における理論の変質がうかがわれるところである。
 このあたりは、寺尾求馬助の門流が、独自の展開をみせる過程で、出てきた考えであろう。話の目の付けどころが、五輪書の武蔵流というよりも、どちらかというと、新陰流など他流派の考えに近くなっている。そんな、兵法の病というべき偏向が生じたものらしい。
 これも「昔は色々あったが、今伝えるところの目付けは」という、肥後兵法書における修正主義的新義である。むろん、このような明白な教義の変質という遷移プロセスがあるにもかかわらず、今も支配的な、「三十五箇条兵法書から五輪書へ」という進化論的ストーリーは、はじめから物事を逆立ちさせているのである。ようするに、肥後兵法書をまともに読めていないから、そんな逆行の倒錯に陥るのである。

 これと同じことは、「兵道鏡」なる文書の扱いにもいえる。この文書については、五輪書よりも、そして三十五箇条兵法書よりも前に書かれたと、一部で錯覚されている。それは、この文書の写本の奥書の日付が慶長年中であり、その奥書を無批判に頭から信じ込んだわけで、まことに信じがたいナイーヴな愚劣である。
 ようするに、兵道鏡が何を書いているか、それを読んでいないのである。たとえば、この目付の事について、兵道鏡はどう書いているか。それは肥後兵法書と同じく、顔に目を付けろと教えている。
 つまり、目の付け所というのは顔である。顔以外に別の所に目を付けるな。心は顔にあらわれるものだから、顔にまさりたる目の付けどころなし――という具合である。
 敵の顔にあらわれた表情を読めというわけか、心は顔にあらわれるものだから、顔以外に別の所に目を付けるところはないという論法である。こうして見ると、「昔は色々あったが、今伝えるところの目付けは」という肥後兵法書における歴史的変遷の意識もない。顔に目を付けろという偏向は、肥後兵法書より一段と増悪しているようである。
 もちろん兵道鏡がいうところの、遠くを見るというその具体例においては、武蔵の流儀からの乖離が大きい。というのも、こういう説明があるからだ――。
 敵の顔を見るさまは、一里ほどもある遠い嶋に、薄霞がかかっている、その岩や木を見るがごとし、という。さらにまた、雪雨などのしきりにふる間より、一町ほども先にある屋台(神輿)などの上に、鳥などがとまっている、その鳥の種類を見分けるような目つきであるべし。その屋台の破風や懸魚、蛙などの彫刻を見るにもおなじ、と。
 これは遠くの物の細部までよく見分けるように、遠くに焦点を合わせろ、という教えである。しかし、五輪書の目付けというのは、そんな話ではない。
  《遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、兵法の専也》
 むろん、遠いところに焦点を合わせろという話はない。遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、というのは、ようするに、近くであれ遠くであれ、対象に焦点を合わせて見ようと思うな、という教えである。
 武蔵がもちだした蹴鞠や放下などの喩えはそれである。焦点を合わせようとすると、視野狭窄を生じて、かえってうまくいかない。それを武蔵は却けるのである。
 ということであれば、兵道鏡の教説は、武蔵の教えとはまったく反対のことを語っている。肥後兵法書のケースは、顔に目を付けろ、というにとどまるが、兵道鏡では、なぜ顔に目を付けるのかを説明し、さらには遠い島の岩木や屋台の彫り物など遠くにある対象をよく見分けるようにと、目付けの教えがまったく脱線してしまっている。
 このように、肥後兵法書の段階で、「顔に目を付けろ」と言い出した修正主義的偏向が、兵道鏡では一層ひどくなって、ついには五輪書の教えとは逆の話になってしまった。あたかも他流の理論のごとくである。
 これは、兵道鏡の原型と想定しうる「兵法教之巻」などの龍野円明流伝書でも、目付けについてすでに同じ記述がある。ようするに、五輪書からの逸脱は、肥後兵法書にはじまり、兵道鏡ではそれがさらに脱線して逆立するに至る。
 兵道鏡では、この目付けについては「教外別伝」だという。これは禅家のいう教外別伝、不立文字の意味ではなく、口伝があるということである。異本にはこの箇処に「猶口傳在之」ともある。しかし、もともと五輪書では、こうした目付けのことは初歩の初歩である。秘儀化するような話ではない。元来はそうであったが、後のものほど事大主義的になって、秘密や奥儀が生じるのである。
 これらが示唆するのは何事であろうか。いうまでもなく、それは、
    兵道鏡 → 肥後兵法書 → 五輪書
という、近年一部で主張されている進化論プロセスそのものが、逆立していることである。言い換えれば、倒立像をもって実態と錯覚しているのである。しかし、実際には、
    五輪書 → 肥後兵法書 → 兵道鏡
という理論変質の遷移過程があったにすぎない。それを証言するのは、肥後兵法書と兵道鏡におけるこの目付けの教えの偏向と逸脱である。このプロセスは不可逆である。云うまでもないことだが、そのことからすれば、一部で妄信されているのとは違って、肥後兵法書や兵道鏡は、武蔵の著作ではない。後人の作物である。
 以上は余談じみた話の成行きのようだが、実はそうではない。肥後兵法書や兵道鏡の記事と比較して、五輪書の記事を読めば、武蔵の教えが奈辺にあったか、逆にそれがよくみえる。そのようにして、皮肉にも偽書を通じて、逆に武蔵の理論の際立ったところが知れるというわけである。   Go Back

*【肥後兵法書】
《 目付と云事
一 目を付と云所、昔ハ色々あれども、今傳る所の目付ハ、大抵顔に目を付る也。目の納めやうハ、常の目よりも少細き樣にして、うらやかに見る也。目の玉を動かさず、敵合近くとも、いか程も遠く見る目也。其目にて見れば、敵の業ハ不及申、兩脇迄も見ゆる目也。觀見二ツの見樣ハ、觀の目強く、見の目を弱く見るべし。若又敵ニ知すると云目あり。意ハ目に付、こゝろハ不付もの也。能々吟味あるべし》

龍野歴史資料館蔵
肥後兵法書 当該箇処
「顔ニ目ヲ付ル也」



*【兵道鏡】
《 目付の事
一 目の付所と云ハ顔なり。面をのけ、よの所に目を付事なかれ。心ハ面にあらわるゝ物なれバ、顔にまさりたる目付所なし。敵の顔見様之事、譬、一里計もある遠き嶋に、うすかすミのかゝりたる内の、岩木を見るがごとし、又、雪雨などのしきりにふる間より、一町計も先にある、やたいなどの上に、鳥などのとまりたるを、いづれの鳥と見わくる様なる目つきなるべし。やたいの破風懸魚、かわづなどを見るにもおなじ。いかにもしづまりて、目を付べき也。うち所を見る事あしゝ。脇を見、首をふる事なかれ。うか/\と見れバ、五躰一度に見ゆる心もあり。顔の持様、まゆあいに、しわをよすべし。ひたいにしわをよする事なかれ。教外別傳也》




個人蔵
赤見家本五輪書 当該箇処



個人蔵
兵法教之巻 当該箇処

 
   5 太刀の持ち方
【原 文】

一 太刀の持様の事。
刀のとりやうハ、
大指、ひとさし(指*)をうくるこゝろにもち、
たけ高指しめずゆるまず、
くすしゆび、小指をしむる心にして持也。
手のうちにはくつろぎの有事悪し。(1)
太刀をもつと云て、持たるばかりにてハ悪し。
敵をきるものなりとおもひて、太刀を取べし。
敵を切ときも、手の内にかハりなく、
手のすくまざる様に持べし。
若、敵の太刀を、はる事、うくる事、
あたる事、おさゆる事ありとも、
大指、人さしゆびばかりを、すこしかゆる心にして、
兎にも角にも切とおもひて、太刀を取べし。(2)
ためし物など切ときの手のうちも、
兵法にしてきる時の手のうちも、
人をきるといふ手のうちにかハる事なし。(3)
惣而、太刀にても手にても、いつくと云事を嫌ふ。
いつくハ、しぬる手也。いつかざるハ、いくる手也。
能々心得べきもの也。(4)
【現代語訳】

一 太刀の持ち方の事
 太刀の握り方は、親指と人指し指は浮かせた感じで持ち、中指は締めず緩めず、薬指と小指を締める気持で持つのである。持った手の内に遊びがあるのはよくない。
 太刀を持つといっても、ただ持っているだけということではいけない。敵を切るのだと思って、太刀を取るべきである。
 敵を切る時も、(太刀を持った)手の内に変化はなく、手の竦〔すく〕まないように持つべきである。もし敵の太刀を、張る、受ける、当る、おさえるということがあっても、親指と人指し指だけを少し変える感じで、何が何でも切るのだと思って、太刀を取るべきである。
 試し斬りで切る時の手の内も、実戦で切る時の手の内も、人を切るという手の内に変ることはない。
 (我が流派では)総じて、太刀でも手でも、居つく〔固着する〕ということを嫌う。居つくのは死んだ手である。居つかないのは生きた手である。よくよく心得ておくべきである。
 

 【註 解】

 (1)太刀のとりやうハ…
 ようやく太刀の持ち方である。まったく武蔵の教えは周到で懇切である。
 武蔵の言う太刀の握り方のポイントは、次のようなものである。
   ・親指と人差し指は、浮かせた感じで持つ
   ・中指は、締めず、緩めず
   ・薬指と小指を締める気持で持つ
   ・握った手のうちに遊びがあるのはよくない
 お気づきの人があると思うが、この持ち方は決して太刀に限ったことではない。ゴルフ・クラブのような棒状の道具、テニスのようなラケット形の道具でも、握り方は基本的には同じである。
 太刀は人差し指の方向に刃がある。逆手〔さかて〕といって、反対に小指側に刃がくる持ち方は、短刀などの場合だが、これは握り方が太刀とは違うのである。ようするに、太刀は、ゴルフ・クラブやテニス・ラケットと持ち方は基本的に同じで、束を握るにも五指それぞれの締め方が違うのである。
 こうしたことは、剣道をやっている者には分かりきったことであろうが、どのように太刀を持つか、などというこんな初歩の初歩が書いてあることからすると、五輪書は、超入門篇を含んでいるのである。
 前にも述べたことだが、五輪書は、決して上級練達者向けに書かれた秘伝奥義書なのではない。まったく初心者を含めた普遍的な読者を想定しているのである。
 かくして、現代の、剣道などやったことがない諸君でも、五輪書を読めば、太刀の握り方がわかるということになる。まさに、この事実に驚くべきであろう。
 しかし、どうして、薬指と小指で締めるということになるのか。これは初歩の初歩だが、剣道研究家に聞いても明確な答えをくれた者がこれまでいなかった。それの方が振るのに自由である、という経験則以外を彼らは知らないのである。これは奇妙なことである。
 しかし、これを解剖学的見地から再検討すれば、その答えを得られるのである。ご存知のように、腕の構造は、肘の関節で上腕・前腕に分かれる。そして上腕骨は一本だが、前腕骨は二本立てである。尺骨(Ulna)と橈骨(Radius)である。小指側が尺骨で親指側が撓骨である。右腕の肘を左手で固定して前腕を回転させてみる。前腕が回転するのは、尺骨を軸として橈骨が捩れるからである。「橈」とは櫂に同じ、舟を推進させるに漕ぐものである。
 以上の構造からすれば、薬指と小指で締めるというのは解剖学的に十分な理由があったわけである。尺骨が回転軸になるから、尺骨の小指側を締めて、橈骨の親指側は自由にさせるのである。したがって、これはすぐれて合理的な教えなのである。
 このあたり、他流では「辰ノ口を開く」ともいう。この辰ノ口は、親指と人差し指のかたちを龍の口に見立てたもののようで、それを開くと教える。そうすれば、おのづから薬指・小指が締まるのである。だから、「辰ノ口を開く」と教える他流と、薬指と小指を締めると教える五輪書の教えとは基本的に同じである。
 ただし、相違に注目すれば、五輪書は、親指と人差し指をゆるめるというだけではなく、薬指と小指は締めると教える点で、その教えはより具体的で懇切なのである。そのように、初心者にもわかるように、というのが五輪書の教えのスタンスである。

――――――――――――

 語釈のことでは、蛇足ながら言えば、この「大指」は親指、「ひとさし」は人さし指、「たけ高指」(丈高指)は中指、「くすしゆび」は薬指、ということである。
 なお、文中「ひとさし」とあって、ここには「指」字はない。本条の後で、「人さしゆび」が出てくる。
 諸本校異を見るに、前者の「ひとさし」は、筑前系・肥後系を通じて「ひとさし」として「指」字を入れない例があり、また他方、「指」字を入れるケースもある。
 筑前=越後系でも石井家巻子本は「指」字を入れる。ところが同じ石井家の冊子本は、「指」字に朱点を打って、衍字たることを示している。同じく越後系の近藤家本・伊藤家本は「指」字を入れない。他方、猿子家本では「指」字を入れるが、これは後発的な衍字である。したがって、越後系でも、基本的に「指」を入れず、「ひとさし」だったと知れる。
 この点、肥後系も同じで、基本的には「指」字を入れない。ただし、円明流系統は「指」字を入れる。これは、後で「人さしゆび」が出てくるので、それとの整合性で「修正」したものである。これは円明流系統が派生した後の変異であり、越後系猿子家本と同様に、後発的な衍字である。
 したがって、寺尾孫之丞段階では、ここは「ひとさし」と書かれていたと思われる。また、人さし指を「ひとさし」(人差、食指)と記す例は一般に多いから、武蔵のオリジナルもそうだった可能性もある。とすれば、前後の「ひとさし」「ひとさし指」には語句のゆらぎがあったと、まずはみなしうるだろう。
 しかしながら、何れにしても、他の箇処には「ひとさし指」として「指」字を入れるのだから、ここにだけ「ひとさし」とあるのは、奇妙なのことである。したがって、これが単なる脱字でないとすれば、ここでのもう一つの可能性は、寺尾孫之丞段階での誤読である。
 つまり、武蔵の草稿では、「人差指」とあった。その三文字を、寺尾は「食指」〔ひとさし〕の二字に読んだ。そして「食指」では読み難しと考えて、仮名で「ひとさし」と書いた写本を、柴任他、門人に伝授した。――この可能性もあろう。ようするに、
    「人差指」 → 「食指」 → 「ひとさし」
という変異プロセスである。これについて言えば、五輪書は漢文ではなく和文の著書であるのみならず、仮名が多用してあるところが特徴であるが、そのすべてが武蔵の草稿にあったものかというと、そうではない。我々の所見では、寺尾孫之丞段階で、武蔵草稿の漢字を仮名書きに変えた、と思われる点が多々ある。
 この「ひとさし」の例は、寺尾孫之丞段階での誤読、そして仮名表記への書き換え、この二段階の変異を推測せしめる箇処である。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 






太刀の握り方
太刀の握り方











前腕二骨 尺骨と撓骨












*【吉田家本】
《大指、ひとさしを、うくるこゝろにもち》
*【近藤家甲乙本】
《大指、ひとさしを、うくるこゝろにもち》
*【石井家本】
《大指、ひとさし()を、うくるこゝろにもち》
*【伊藤家本】
《大指、ひとさしをうくるこゝろにもち》
*【猿子家本】
《大指、ひとさしを、うくる心に持》
*【楠家本】
《大指、ひとさしを、浮る心にもち》
*【細川家本】
《大指、ひとさしを、浮る心にもち》
*【富永家本】
《大指、人さしを、浮る心に持》
*【狩野文庫本】
《大ゆび、ひとさしゆびを、浮心に持》
*【稼堂文庫本】
《大指、人差を、浮る心に持》



石井家冊子本 衍字「指」
 
 (2)敵をきるものなりとおもひて、太刀を取べし
 太刀を持つといっても、漫然とただ持っているだけの気持ではいけない。敵を切るんだ、そう思って、太刀を取るべきだ、と武蔵は言う。人を切る、殺す、そういうつもりで太刀を持てと云うのだから、話はとたんにハードボイルドである。現代の道場試合で竹刀を振っているのとは、わけが違う。なるほど、実戦で人を切るという教えが五輪書だった。
 実戦で人を切るとなると、経験がないと興奮して手が固くなってしまう。あまりきつく握り締めたりして、指がそのまま解けなくなる。束を放そうとしても指が解けない。それで、一本ずつ引き剥がすようにして手を解く。実際にはそういうものである。
 だから武蔵は、敵を切る時も、太刀を持った手の内に変化がないように注意しろ、手が竦〔すく〕まないようにしろと、教える。斬り合いの交戦中でも、親指と人指し指だけを少し変える感じ、ようするに持ち方は、前項の基本から外れるな、ということである。
 敵の太刀を張るという「はる」は、これからも五輪書の中でしばしば出てくる表現だが、ぴしゃりと叩くことである。これは「打つ」とは違う。また「打つ」は「当る」とは違う。これらの語感は、次第にわかって来ると思うが。
 ただし国語学上、注意が必要なのは、「切る」という語は、この「打つ」「張る」「当る」とは同じレベルには属していないことだ。人を切るは殺すと同義である。これは「打つ」「張る」「当る」というテクニカルな概念とは異なるのである。
 さて、武蔵の教えは、――太刀を持つといっても、ただ持っているだけということではいけない、敵を切るのだと思って、太刀を取るべきである。何が何でも切るのだと思って、太刀を取るべきである。――ということである。
 これは、後出の「五方の搆の事」でも同じである。構えはいろいろあろうと、すべてどれも人を切るためのものである。搆えは、この五つより外はない。どの搆えであっても、搆えると思わず、切るのだと思うべきである、云々。
 こういう武蔵のストレートな教えに対して、『兵法家伝書』の柳生宗矩では、――兵法は、人をきるとばかり思うのは、ひがごとである。人を切るにはあらず。悪を殺すのである。一人の悪を殺して、万人を生かすはかりごとだ、ということを述べている。
 この「人を切るにはあらず。悪を殺すのだ」というところが、柳生宗矩一流の詭弁であり虚偽である。「一人の悪を殺して、万人を生かすはかりごと」というのが、その政治性である。
 この政治的言説では、戦いはすでに純粋な戦闘行為ではない。善と悪との闘争である。何が悪かといえば、支配秩序を破ることが悪である。
 これは今日でも通有の政治的ロジックである。これは戦争ではない、テロリズムとの戦いだ、という論理が一時横行した。戦争がどちらにも理がある戦いだとすれば、定義上、戦争はすでに存在しない。なぜなら、敵に理がないからであり、すなわち敵は悪だからである。
 これを政治警察(politico-police)の論理と呼ぶ。人を殺すのではない、悪を殺すのだ、という柳生宗矩のロジックは、政治警察の論理である。これはすでに兵法論ではない。
 これに対し、兵法を論じるに、武蔵は、そんな詭弁を弄するようなことはしない。武蔵は、兵法を、その戦闘を、その殺人行為を、どちらが善かということで正当化するようなことはしない。それが、武蔵と柳生宗矩との根本的な相違である。
 武蔵は、兵法をテクニカルな次元で語る。柳生宗矩は、兵法を政治警察の論理で語る。いづれが兵法の真理で、いづれがイデオロギーあるか、それは論を俟つまでもない。

――――――――――――







最上義光歴史館蔵
長谷堂合戦図屏風






*【五方の搆の事】
《五方の搆は、上段、中段、下段、右の脇に搆る事、左の脇に搆る事、是五方也。搆五ツにわかつといへども、皆人を切らむため也。搆五ツより外はなし。何れの搆なりとも、搆ると思はず、切事なりと思ふべし》(水之巻)

*【兵法家伝書】
兵法は、人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。人をきるにはあらず。悪をころす也。一人の悪をころして、万人をいかすはかりごと也》
 この部分の諸本校異のことに立ち入れば、まず目に付くのは、肥後系の細川家本系統に脱文のあることであろう。また、それを落さない肥後系諸本にも、校異の問題がある。そこで、以下にまとめて示すことにする。

*【吉田家本】
《手の内ハ、くつろぎの有事悪し。太刀をもつといひて、持たる斗にてハ悪し。敵を切ものなりとおもひて、太刀を取べし》
*【楠家本】
《手のうちハ、くつろぎのある事あしゝ。太刀を持といひて、もちたる心ばかりにてハあしゝ。敵をきるものなりとおもひて、太刀をとるべし》
*【丸岡家本】
《手の内【】は、くつろぎの有事あしゝ。太刀を持と云て持たる心ばかりにてはあしゝ。敵を切ものなりと思て、太刀を執べし》
*【石井家本】
《手のうちは、くつろぎの有事悪し。太刀をもつといひて、持たるバかりにては悪し。敵をきるものなりとおもひて、太刀を取べし》
*【細川家本】
《手の内は、くつろぎのある事悪シ。【★★★★★★★脱文★★★★★★★】。敵をきるものなりとおもひて、太刀をとるべし》
*【富永家本】
《手の内【】ハ、くツろぎの有る事あしゝ。太刀を持と云て、持たる心斗ニ而ハ悪し。敵を切る者なりと思ひて、太刀を取べし》
 ここに示すごとく、細川家本は、《太刀をもつといひて、持たるばかりにてハ悪し》という一文が丸ごと脱落している。同系統の常武堂本でも同箇所の脱文がある。これは、肥後系諸本の中でも、細川家本・常武堂本の系統にのみ見られる脱文であるから、この両本の祖本の段階で発生した欠落である。
 こういう特異性のある脱文脱字は、偶発的な誤写であるが、史料批判の視点からすると、無意味なものではないし、たんにネガティヴなものではない。それというのも、そういう誤写が当該資料の位置づけを可能にしてくれるからである。
 別の箇処で見るように、楠家本と細川家本にのみ共通する脱文脱字があることから、この両本は近縁関係にあると知れる。そして、このケースのように、他の諸本にある字句が、細川家本の系統には脱落している。したがって、これは、楠家本の系統と分岐派生した後の、脱文発生である。
 右掲図のようにしてみれば明らかであるが、この細川家本の脱文は、かなり後発的なものである。したがって、ここから細川家本のステイタスも知れる。細川家本は決して早期の写本ではなく、後発的な写本である。それをこの誤写が示している。
 この水之巻の「多敵の位の事」でも同じく、細川家本系統のみが大幅な脱文を示している。他の諸本にはない特異性のある誤写である。その脱文の意味は、このケースと同じく、後発的な誤写である。このあたり、細川家本の写本としての史料評価に関わることである。むやみに細川家本を古いと信奉してはならないという証拠である。
 しかし、この細川家本を底本にしたはずの岩波版には、この脱文について、何の断りもない。これは校訂者の怠慢である。諸本を校合比較するという手続きをしていないのである。
 ところが、現代語訳は岩波版に依拠するものらしく、ここに脱文のあることも知らず、いきなり、《敵をきるものなりとおもひて、太刀をとるべし》の訳文を出す。《太刀をもつといひて、持たるばかりにては悪し》という前段がないから、これではいかにも唐突である。しかし、そんな現代語訳が流布されてきたのである。
 この点は、読者にとくに注意を喚起すべきところである。
 さて、校異の本道に話を戻せば、このように細川家本に脱文のあるところ、肥後系諸本はそれを保存しているのだが、やはりそこに校異の問題がある。すなわち、それは、筑前系諸本に、
《太刀をもつといひて、持たるばかりにてハ悪し》
とあって、《持たるばかり》とするところ、肥後系諸本には、《持たるばかり》と、「心」字を入れる。
 これは、筑前系/肥後系を区分する指標的相異である。つまり、筑前系は共通して、「心」字を入れないのに対し、肥後系諸本は共通して「心」字を入れるからである。
 これは、肥後系で早期に派生した系統の子孫たる富永家本にも「心」字を入れるから、おそらく肥後系早期にあった文字とみえる。したがって、次の問題は、これが寺尾孫之丞段階にまで遡れるか否かである。
 筑前系諸本は、早川系も立花=越後系諸本も共通して「心」字は記さないから、筑前系では初期から「心」字はなかったとみなしうる。言い換えれば、柴任美矩が寺尾孫之丞から相伝された段階では「心」字はなかったということである。
 もとより文意からすると、「ただ持っているというだけではいけない」ということで、とくに「心」字がある必要はない。逆に、肥後系諸本のように、《持たる「心」ばかりにては》とすると、「心」字の座りが悪い。もし「心」字を入れるのなら、《持たるばかりの「心」にては》とすべきところであろう。「ただ持っている心だけではいけない」というよりも、「ただ持っているだけの心ではいけない」という文の方が妥当であるからだ。
 したがって、こういうことからすると、肥後系諸本の《持たる「心」ばかりにては》とする文は、寺尾孫之丞段階ですでに存在したとは想定しがたい。おそらく、門外流出後に、ここに「心」字を入れた写本が発生したのであろう。その後、肥後系写本はこれを受継いで、伝播して行ったものと思われる。その結果が、現存肥後系写本の文言である。
 こうしたことも、肥後系写本ばかりを見ていては分らなかったところである。たとえ、細川家本の脱落字句を回復するとしても、楠家本や丸岡家本あたりしか参照せず、その結果、「心」字を残してしまうようでは、原状回復は不充分なのである。ここは、我々のテクストのように、「心」字はなかったとすべきところである。   Go Back


細川家本 脱文箇処

○寺尾孫之丞―早期写本…流出…┐
 ┌―――――――――――――┘
 ├…………………富永家本 脱文無
 |
 ├…┬…┬……楠家本 脱文無
 | | |
 | | |脱文発生
 | | └◎┬……常武堂本 脱文
 | |   |
 | |   └…細川家本 脱文
 | |
 | └…┬……丸岡家本 脱文無
 |   |
 |   └………田村家本 脱文無
 |
 └…流出……円明流系諸本 脱文無















楠家本 「心」字
 
 (3)ためし物など切とき
 ところで武蔵は、太刀の持ち方に関連して、何が何でも切るのだという気で太刀を持て、という。そして、試し斬りで切る時の手の握り方も、実戦で切る時の手の握り方も、同じく人を切るということだから、握り方に変りはないという。
 このあたりになると、ハードでかなりキツイ話になってくる。リアルな殺し合いである。人を切り殺す、そのとき何が何でも切り殺すという闘志が必要だ。しかし実戦ではない、「ためし物など切る時」も、人を切るという手の内に変りはないというあたり、現代人には極めておぞましい話ではある。
 ここで「ためし物」というのは、試し斬りのことである。ただしこの試し斬りは、物を斬るのではなく、人を斬るのである。死罪で斬首になった屍体を斬るばあいが多いが、罪人など無抵抗の人間を切り殺すこともある。これは主として実際に人間を切り殺す練習であり、人を殺害する度胸をつけるためだったらしい。こうした残酷な慣習がこの五輪書の時代まで、少なくともまだ存続していたということがわかる。
 柳沢淇園の話が伴蒿蹊『近世畸人伝』に出てくるが、淇園は度過ぎた客好き、池大雅が辟易する逸話の一方、淇園は屋敷に人を呼び込んで「試し物」の材料にするのではないかと懼れられたという記事がある。*
 このように試し斬りは、「殺人の練習」としての殺人である。いかに練習だからといって、人を殺すことには変りがない。その意味をきちんと受け止めて、この殺人練習をするように、というのが話の楽屋裏である。
 ところが、武蔵が言及したこの殺人練習について語る五輪書解釈本は見たことがない。むしろ逆に、この試し斬りを、切るのは人ではなく物だと曲解する始末である。これが明らかなミスリード、誤解釈であることは、ここで指摘しておくべきであろう。   Go Back

 
 (4)いつくハ、しぬる手也
 この条文末尾は、補足である。本文からの流れではない。ある種、唐突だが、居つかないように、と教えを追加したかたちである。
 ここで、「いつく」というのは、居着く、居付く、つまり固着するということである。固定(fixation)ではない、固着(adherence)である。
 ここで、この巻が「水」の巻であったことを思い起こすべきである。形態自由、大小自在、その水の流動的様相は、まさしく固着を嫌うのである。
 かくして武蔵は、これを、
《いつくハ、しぬる手也。いつかざるハ、いくる手なり》
と定式化するのである。固着は死であり、固着しない流動は生である。これを哲学的に一般化したくなる者もあろうが、ここの話は、手も太刀も固着は死だと心得ろという、これまた実践的な教訓なのである。
 このように武蔵は固着を嫌うが、その生涯をみれば、これは、この人の根本的傾向であったのではないか、とも思えるのである。

――――――――――――




*【近世畸人伝 柳沢淇園】
ある時、〔池〕大雅大和に行しに、路費尽たれば、仮初に立よりて是を借るに、例の如くとゞめ、門を閉て還さず。家臣又いふこと有、幸にとゞまりて内を好まるゝの病を諫給はれ、多慾のために身を亡し給んを憂といふ。こゝに大雅諫て、其よしを説て曰、もし諫に従ひ給はゞ止らん。聞給ずば速かに還んと。あるじ首をふりて、諫にも従はじ還しもせじと。ますます門を堅くして守らしむ。大雅、終に裏の垣をこえて帰りしと也。或時は駅路に出て、回国あるひは順礼の道者をも引て、礼をあつくして留るに、鑓をたて供人あまた具したれば、刀のためしものゝ料にあざむかるゝならんと心得て、大に懼てにぐるもの多かりし。又博奕の罪によりて此境を放たるゝ者を、吏に私して邸の内に引入ていふ、生涯こゝに宿さば、猶禁獄も同じと。

近世畸人伝 柳沢淇園
『近世畸人伝』 挿図
柳沢淇園



 ここで、本条に対応する肥後兵法書の記事を見ておくことにする。
 太刀の持ち方で、若干変化があるのは、五輪書では、たけたか指(中指)は締めず、ゆるめず、という教えだが、それに対し、肥後兵法書では、《たけたか指を中にしめ》と、要点が変化しているということである。これは、他流の影響を蒙ったために生じた、教えの変質である。
 その他、全体は、一見するに、五輪書の教えを敷衍しているようだが、肥後兵法書のスタンスは、五輪書の「居つくのは死んだ手である。居つかないのは生きた手である」という末尾の武蔵テーゼへ話を片寄せている。その結果、何が何でも敵を切るんだと思って太刀を取れ、という五輪書の強調が稀薄になっている。
 つまり、五輪書では、「太刀を持つといっても、ただ持っているだけということではいけない。敵を切るのだと思って、太刀を取るべきである。敵を切る時も、(太刀を持った)手の内に変化はなく、手の竦まないように持て。もし敵の太刀を、張る、受ける、当る、おさえるということがあっても、親指と人指し指だけを少し変える感じで、何が何でも切るのだと思って、太刀を取れ」とあるところである。
 しかるに、肥後兵法書では、それを「切る事、肝心也」と意味を弱めて、「切る事をわすれて居つく手を、死ぬるという」と、「切る」と「居つく」を妙な具合に結び合せて、話をあらぬ方向へ導いていく。
 つまり、生きるというのは、いつとなく、太刀も手も、出合いやすく、かたまらずして、切りよいようなのを、生きる手というと。つまり、居つかないのが生きる手だという武蔵テーゼを逆にして、述語の位置にあった生きる手を、主語=主体の側に回してしまう。
 武蔵の教えにある、何が何でも敵を切るんだと思って太刀を取れ、というのは、戦場の実戦における文字通り殺伐とした話である。肥後兵法書はそうした殺伐を回避して、太刀も手も居つかぬように、固まらぬように、という無難な方へ話をシフトするのである。
 これも、武蔵の実戦的教義の変質であり、戦場から離れた時代の修正主義的新義であるが、しかしそれだけではない。おそらく、何やら、「人を切るとばかり思うのは、ひがごとである」という柳生流の言説に同調する気分でもあって、五輪書の反時代的な言挙げにはもはや追従できないという有様のようである。いわば、武蔵流の教義が柳生流イデオロギーへ回収されてしまうのである。
 なお、ここでも兵道鏡の記述如何と見れば、その「太刀取様之事」は、肝腎な点が大きく変っている。つまり、五輪書や肥後兵法書では、「大指、人さし指をうかせて」とあるところ、兵道鏡では、浮かせるのは人差し指だけで、大指(親指)は他の指と同じく、締める方にまわっている。これは明らかに教義の変質である。
 この変質過程を見れば、まず、肥後兵法書で、たけたか指(中指)が締める方へ変位し、次いで、兵道鏡では、大指(親指)までが締める側に参加するのである。かくして、五輪書の、薬指と小指の指二つで太刀を振るという教えは、どこかへ霧散してしまったのである。
 したがって、親指も締めるとするこの兵道鏡の記述は、教義の変質というには、偏差が大きすぎる。言い換えれば、ふつうとは違う特異な持ち方へ逸脱してしまったのである。
 むろん、太刀の持ち方について武蔵は何か特別なことを教えているのではない。他流の教えでも、親指と人差し指は浮かせる。太刀の持ち方を教える五輪書の記述は、初歩の初歩だが、それだけに諸流普遍的なものである。
 しかるに、兵道鏡は、その五輪書の教えからは大きく逸れている。云うならば、武蔵の教えとはまったく違うことを書いているのが、兵道鏡のこの条文である。したがって、この点においても、武蔵が兵道鏡を書いたという説は、ありえざる妄説なのである。   Go Back

*【肥後兵法書】
《 太刀取やうの事
一 太刀の取やうハ、大指、人さし指をうけて、たけたか指を中にしめ、くすし指、小指をしめて、持(候)也。太刀にも手にも、生死と云事あり。搆る時、うくる時、留る時などにも、切る事、肝心也。切事をわすれて居付手を、是、死ぬると云也。生ると云ハ、いつとなく、太刀も手も、出合やすく、かたまらずして、切能やうなるを、是生る手と云也。手首かゞむ事なく、ひじハのびすぎず、かゞみすぎず、うでの上筋よわく下筋強く持也》




















*【兵道鏡】
《 太刀取様之事
一 太刀の取やうハ、人指しゆびを浮て、大指、たけたか、中指、くすし指、小ゆびをしめて持也。持様、右も左も同じ事也。太刀組合たる搆、太刀の鐔際、六寸先に、小太刀の切先五寸かけて搆る也。ひぢは、かゞみたるがあしく候。され共、余り直にてハ、すくみて見にくきもの也。右の臂、弐寸五分、左のひぢ、三寸五分、かゞみて能候。手首は、そりたるも、くずしたるも、見にくき也。筋骨立ざる様にすべし。太刀を能取候得ば、敵も自在にうたるゝ心候間、如斯取を本とし候也。口傳有》

 
   6 足のつかい方
【原 文】

一 足つかひの事。
足のはこび様の事、つまさきをすこしうけて、
くびすをつよく踏べし。
足つかひハ、ことによりて、
大小遅速は有とも、常にあゆむがごとし。
足に、飛足、浮足、ふみすゆる足とて、
是三つ、嫌ふ足也。(1)
此道の大事にいはく、
陰陽の足と云、是肝心也。
陰陽の足ハ、片足ばかりうごかさぬもの也。
切とき、引とき、うくる時迄も、
陰陽とて、右左/\と踏足也。
かへす/\、片足踏事有べからず。
能々吟味すべきもの也。(2)
【現代語訳】

一 足づかいの事
 足の運び方のことだが、爪先を少し浮かせて、踵〔かかと〕を強く踏むべし。
 足の使い方は、状況によって、大きい小さい、遅い速い(の違い)はあっても、ふだん歩くのと同じようにする。足に、飛足〔とびあし〕、浮足〔うきあし〕、踏み据える足というのがあるが、この三つは、(我が流派では)嫌う足である。
 この道の大事〔枢要〕に曰く、「陰陽の足」ということがある。これが肝心である。
 陰陽の足とは、片足だけ動かすようなことはしないものである。切る時、引く時、受ける時でさえも、陰陽といって、右、左、右、左と踏む足である。決して片足を踏むことはあってはならない。よくよく吟味すべきである。
 

 【註 解】

 (1)常にあゆむがごとし
 手の次は足である。ここは足の運び方、フットワークである。これもまったく基本的な教えである。
 ところがこの基本、決して読み飛ばせるものではない。
 まず、爪先を少し浮かせて、踵を強く踏むということ。――さて、これはどうであろうか。「爪先を少し浮かして踵を強く踏む」というのは、足の親指を中心に爪先を浮かせて、踵を浮かさない歩き方である。
 これは下肢に力の入った歩き方で、足をしっかり地面をつけて、足を運ぶのである。そうすると、足は地面を蹴らない。真下に踏みつけるので、足首の関節は使わない。腰で歩くという格好で、自然といわゆる「がに股」になる。
 これは、日常の足遣いとは違ったのではないか。というのも、足半〔あしなか〕といって、かかとにあたる部分のない半分だけの草鞋を日常的に用いていた日本人からすると、踵を浮かせて歩いたり作業したりするのが普通である。踵を強く踏むなどということはない。
 現代スポーツでも、球技であれ格闘技であれ、実際に運動するばあい、同じように踵を浮かせる。というのも、どんな方向でも素早く動くためには、爪先に体重をかけ踵はわずかに浮かせて、身体の重心をやや前に措く姿勢でなければならないからである。これはボクシングのケースを想定すれば解ろう。モハメド・アリは、蝶のように舞い蜂のように刺すといわれたものだ。
 ところが一方、相撲の場合では、「すり足」といって、踵を浮かせたりせずに、素早く動くのである。必ずしも踵を浮かせた方が素早いとは限らないのである。このばあい足は右左交互であるし、腰の割り方は別にして、足のことだけ言えば、武蔵のいうようなフットワークに近いようにみえる。
 したがって、踵を強く踏むというのは、踵を浮かせた足遣いとは違う、もう一つの別の伝統的な運歩法である。ただし、これは相撲の「すり足」ではないし、能狂言役者の足運びとは異なる。足首の関節を使わず、真下に踏みつける「がに股」の足遣いである。しかもこれで、実は素早く動けるのである。
 ここで武蔵が指摘する忌避すべき三つの足のうち、「飛足」〔とびあし〕はジャンプのことで、「踏みすゆる足」は踏み据える足、ドスドスとした足使いというよりも、むしろじわりと踏みしめる感じであり、「沈み足」ともいうのがそれであろう。「浮足」〔うきあし〕は、下肢に力を入れない、足のつま先で体重を支え踵の上っている状態のことだとすれば、ボクシングのばあいなどはまさにこの「浮き足」なのである。
 しかしながら、武蔵は「常にあゆむがごとし」というのである。これはどういうことであろうか。
 ようするに、フットワークといっても、必ずしも軽快敏捷に動くのがよいのではない。ことに戦場では重い甲冑を装着するし、また障碍物の多い具体的な状況では、現代スポーツのような軽快なフットワークをしていては、文字通りコケてしまう。倒れ込んだら敵は攻撃しにかかるから、命はそれっきりである。
 というわけで、戦場、その実戦現場でこそ、特殊な足遣いは無用である。常にあゆむがごとし、ふだんと同じ、でよい。ただし、その日常の運歩法が、現代一般の歩行法とは異なっていた。それについては、次に述べることにする。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 





丹羽信英像
武蔵流の足




足半(あしなか)



野見宿祢と当麻蹴速 芳年
野見宿祢と当麻蹴速
月岡芳年画
 
 (2)陰陽の足
 武蔵は、ふだん歩くのと同じように足を運べという。歩くのは、右、左、右、左と交互に足を運ぶのだから「陰陽の足」という。『素問』五運行大論に「天地者萬物之上下、左右者陰陽之道路」などとある。左右を「陰陽」というわけだ。ただし左右どちらが陰陽と決まったわけではない。
 ところが、この、ふだん歩くのと同じように足を運ぶとあるのは、かなり問題のある指摘なのである。武蔵は剣聖だからというので、五輪書をすらすら読んでしまっては、いけない。
 分かりやすい話をしよう。現代剣道で足さばきをどう教えているか。一般にそれは、基本的には以下の四種である。
【歩み足】
 日常生活で行う歩行と同じ要領で交互に足を前に出す足運びで、相手との距離があり、送り足では間を詰めにくいとき使う。前後に遠く速く移動する足さばきで、最も遠い間合いから打突の技を出す時に用いる。
【送り足】
 最も基本的な足運び。基本の搆えをしたときの右足が前で左足が後ろの形をとる。進行方向の足から移動を開始し、ついでもう一方の足を移動した足に引き寄せる。諸方向に近く速く移動する場合や、打突の時の足さばき。一足一刀の間合いから打突の技を出す場合に用いられる一般的な足さばき。
【開き足】
 相手の打突を、身体を左右にさばいてかわすのに用いる足さばき。左に捌いたばあい左足が前になる。近い間合いからの打突をする場合にも用いられる。
【継ぎ足】
 後ろ足を前足に引きつけ、前足から前進する足運び。送り足と違うのは、相手との距離が遠くて打突が届かないとき、大きく踏み出すために用いる。遠い間合いからの打突だが、相手との「間合いを盗む」としばしば言われるのは、相手に悟られないように左足を右足まで継ぎ、大きく踏み込んで打突するからである。
歩み足
(歩み足) 左右の足を交互に踏み出す

送り足
(送り足) 右の足を踏み出し左足を引き寄せる

継ぎ足
(継ぎ足) 右の足を大きく踏み出し左足を引き寄せる
 空手でも歩み足・送り足・継ぎ足をいう。したがって現代武道では、これはとくに剣道に限ったフットワークではない。
 武蔵は、ふだん歩くのと同じように、右、左、右、左と交互に足を運ぶ歩み足にしろというのである。これは無理な非現実的な教えなのか。
 しかし、昔は基本的に、こんなことはせず、左右の足を交互に出す歩み足だった。空手でも古型は継ぎ足などせずに、歩み足だったという。とすれば、現代武道の方が、特殊化し変則化しているのかもしれぬ。
 それというのも、近代以前の日本人の歩行法は、あまり腕や手は振らず、云うならば肩で歩いていた。もし手を振るとすれば、右図のように、出る脚と同じ側の手が前に出ていたのであり、馬の並足と同じこの順手歩行(常歩)は、現代の歩行法とは違うのである。
 これを「ナンバ」と言ったという者があるが、それは一般的名称ではあるまい。少なくとも関西語圏ではその語は確認できない。日常あたりまえの歩行法だったので、特に名があったとも思われぬのだが。
 現代日本人のように、出る脚と逆の手を前に出して、背骨を捻って歩くようになったのは、さして古いことではなく、明治以降である。これは近代の軍隊・学校という制度が、日本人の身体に刻印した歩行術である。現代人である我々の身体は、前近代の日本人のような順手歩行には困難を感じる。それほど制度の刻印は深い。しかしながら、これは先天的なものではなく、後天的な習性、言い換えれば、歴史的な人為としての身体習性にすぎない。
 そのことはさて措いても、武蔵が云うのは、右、左、右、左と交互に足を運ぶ「常歩」にしろ、ということである。これを現代人の歩き方で想像すると、肝心なことを間違うことになる。
 それというのも、この運歩は背骨や骨盤を捻って歩くものではない。右から前へ、左から前へと、交互に脚の外旋を繰り返しながら進む。そのばあい、身体軸は中心軸一本ではなく、左右二つにある。その左右の二軸の運動を一つにせず、二つながらにしておく。それが「常歩」である。武蔵は、手において二刀流だが、足においても左右「二足流」である。
 こうした運歩において武蔵は二元論者(dualist)あるのに対し、他流派の足遣いは、身体軸を一元化するようである。現代剣道に見られる足さばきにも、少なくとも歴史的起源がある。おそらく、両手で一刀をもつことから、こういう送り足・継ぎ足系の足さばきが主流になったのであろう。両手に刀を持つ、あるいは片手で太刀を持つ、という武蔵流ならば、これは歩み足の「陰陽の足」でなければならない。
 武蔵はいう、――陰陽の足とは、片足だけ動かすようなことはしないものである。切る時、引く時、受る時でさえも、右、左、右、左と踏む足である。決して片足を踏むことはあってはならない。
《かへす/\、片足踏事有べからず》
 おそらくは、このようなことを書いているのは、当時すでに歩み足ではなく、上記のような送り足系の片足を踏む足捌きが出てきたからであろう。本書風之巻では、他流の足遣いを批判している。
 それによれば、他流でいろいろな特殊な足遣い(さつそく)をするが、これを却下して、我が兵法において、足の踏み方に変ることはない、常に道を歩むがごとし、と云う。それを、ここでは、《足つかひは、ことによりて、大小遅速は有とも、常にあゆむがごとし》として、左右二足の「陰陽の足」を言う。武蔵は、ある意味で、古型を維持する保守主義だったであろう。
 戦場の実戦では、両手で一刀を握ることはないのと同様に、足も送り足・継ぎ足ではいけない。歩み足、常歩で運歩前進するのが、基本なのである。それは重い甲冑を装着して戦うのが常態であるだけではなく、前述のように原理的に、身体軸は中心の一軸ではなく、左右一対になっていたからである。その軸の二元性(dualism of axes)を、左右の二足で運用する。それを武蔵は「陰陽の足」というのである。
《此道の大事にいはく、陰陽の足と云、是肝心也》
 この道の大事に曰く、というのに注意したい。この「大事」は、定式化された重要事項、武蔵流テーゼと言うべきものである。武術にかぎらず芸能諸流派で、「大事」はしばしば秘伝・奥儀のことだが、ここで武蔵のいう「此道の大事」はそれとは違う。つまり、そうした秘事(secret)ではなく、オープンなものである。
 これを見るかぎり、武蔵は以前から、この陰陽の足を兵法論のテーゼの一つとしていたようである。そして、それも、昔からの「常歩法」の武蔵流の定式化なのである。武蔵は、手のみならず、足でも陰陽の二天流なのである。

空手継ぎ足
空手の継ぎ足



歩行法の違い
左:前近代 順手歩行
右:近代 逆手歩行















*【他流に足つかひ有事】
《足の踏様に、浮足、飛足、はぬる足、踏つむる足、からす足などいひて、いろ/\さつそくをふむ事有。是みな、わが兵法より見ては、不足に思ふ所也》《我兵法におゐて、足に替る事なし。常に道をあゆむがごとし。敵のひやうしにしたがひ、いそぐ時は、静なるときの身のくらゐを得て、たらずあまらず、足のしどろになきやうに有べき也》(風之巻)
――――――――――――

 ここでは校異の点で大した相異はない。ただし、筑前系/肥後系を区分する指標的差異が一つある。それは、筑前系諸本が、
《陰陽の足ハ、片足ばかりうごかさぬもの也》
として、《陰陽の足ハ》とするところ、肥後系諸本は《陰陽の足ハ》として、「と」字を入れるのである。文意に関わるほどの差異ではないものの、やはり、筑前系/肥後系を区分する指標性を有する校異なので、無視はできない。
 この件に対する我々の答えは、これも筑前系諸本共通の字句のことゆえ、前の諸例と同じく、筑前系初期にあったものとし、肥後系諸本が記すこの「と」字を採らず、これを衍字とみなすのである。
 文脈からする内容分析の点においても、「とハ」という語句は、ここではやや納まりが悪い。それというのも、直前に、《此道の大事にいはく、陰陽の足と云、是肝心也》と書いているから、この「陰陽の足」については、武蔵は周知のテーゼとして語っているのであって、それを「陰陽の足とは――」と、改めて定義しに懸る必要はないからである。「陰陽の足は――」と云えば、それで済むことである。
 それに対し、後世の者には、リアルタイムの武蔵の言説から遠く、陰陽の足について、それは何かと問う意識が先に立って、ついつい、ここに「とハ」と書き入れたのである。しかし、それは門外流出後のことであろう。
 肥後系のうち、早期に派生した系統に属する富永家本や狩野文庫本も、「とハ」と記すから、これは肥後系の早期、門外流出後に発生した字句であろう。いわば、この「とハ」には、外部の人間の意識が投影されている。これに対し、筑前系諸本は、「陰陽の足は――」という門流内の意識をそのまま伝えている。その相違がここにある。
 また、肥後系のうち、富永家本や狩野文庫本は、《動か【★】ぬもの也》として、「さ」字を脱落する変異を見せている。これは二次的な偶発的変異発生であろう。円明流系統の多田家本なども後期写本だが、ここを《動かさぬもの也》として、脱字はない。
 同じ脱字は、越後系猿子家本にも見られる。何れも偶発的な脱字だが、これが筑前系/肥後系の双方に発生しているのは、脱字しやすい箇処だったということらしい。




*【吉田家本】
《陰陽の足、片足ばかりうごかさぬもの也》
*【中山文庫本】
《陰陽の足、片足ばかりうごかさぬもの也》
*【伊丹家甲本】
《陰陽の足、片足バかりうごかさぬもの也》
*【赤見家丙本】
《陰陽の足、片足ばかりうごかさぬもの也》
*【近藤家甲乙本】
《陰陽の足、片足ばかりうごかさぬもの也》
*【石井家本】
《陰陽の足、片足ばかりうごかさぬもの也》
*【楠家本】
《陰陽の足とハ、片足ばかりうごかさぬもの也》
*【細川家本】
《陰陽の足とは、片足ばかりうごかさぬもの也》
*【富永家本】
《陰陽の足とハ、片足斗動か【】ぬもの也》
*【狩野文庫本】
《陰陽の足とハ、片足斗動か【】ぬもの也》
*【多田家本】
《陰陽の足とハ、片足斗動かさぬもの也》
――――――――――――

 ところで、足遣いについてのこうした武蔵の教えが、後世変質する過程を示すのが、肥後兵法書の記事である。
 同書には、対応する足遣いの条々が、ひとつではなく二つある。それも妙なことだが、もともと求馬助の覚書から出た文書なのだから、そのあたりは、ひとつではなく二つだとしても、そういう解説法もありうるのである。
 一つめは、どこであっても、常に歩むがごとく、たしかに足を踏むということ。ここで、嫌う足として、「飛足、浮足、蹈すゆる足、ぬく足、後れ先だつ足」という列記がある。五輪書では、嫌う足は、「飛足、浮足、蹈すゆる足」の三つだったが、肥後兵法書になると、「ぬく足、後れ先だつ足」というのが増えている。これは武蔵の教義にはなかったものである。
 他方、風之巻に、武蔵が不足に思う「さつそく」(左足/早足)というのが出てくる。それは、「浮足、飛足、はぬる足、踏つむる足、からす足」などである。こちらは、「はぬる足」「からす足」というのが出てくるが、それらは肥後兵法書には記載がない。ようするに、こうした様々な足について、肥後兵法書には余分な増加もあれば、消えて不足するものもある。
 もう一つは、五輪書の記事にある「陰陽の足」についての、いわば修正主義的解釈である。
 五輪書の教えでは、「陰陽の足とは、片足だけ動かすようなことはしないものである。切る時、引く時、受ける時でさえも、陰陽といって、右、左、右、左と踏む足である。決して片足を踏むことはあってはならない」ということであった。
 つまりは、戦場では重い甲冑を装着して戦う。そのときの実戦現場での教えである。飛んだり跳ねたりはむろん、軽く足を踏むわけにはいかない。右、左、右、左と、左右両足を確実に踏んで、決して片足を踏むな、ということである。
 しかるに、肥後兵法書では、これが左右両足ではなく、「二つの足」ということに化けている。「二つの足」というのは、太刀を一回打つ間に足を二つ踏め、という足はこびの拍子の話なのである。居つかないように、そういう足つかいをしろ、ということである。そこで、継ぎ足を是とする。むろん、これは五輪書の教えではありえない話である。
 繰り返せば、武蔵の教えは、戦う時も、ふだん歩くのと同じように、右、左、右、左と交互に足を運歩しろということである。ふだん歩くのに、継ぎ足で歩く者がどこに居るか。肥後兵法書は、《二ツと思へば、常に歩む足なり》と記すが、その矛盾に気づいていないようである。
 ようするに、五輪書の「陰陽の足」、左右両足をたしかに踏めという教えが、継ぎ足のような「二つの足」に変ってしまったわけである。これは、肥後兵法書の段階における新義である。実戦からほど遠い、いわゆる道場剣法の時代を反映しているし、肥後の武蔵流が新陰流など他流の影響を蒙ったということである。
 興味深いことに、三十九箇条肥後兵法書では、「陰陽二つの足」とあるが、三十五箇条版では、この「陰陽」という二文字を消している。たしかに、「陰陽の足」では、左右両足のことだから、これは具合が悪いのである。
 こうして、武蔵があれほど強調した「陰陽の足」が、肥後兵法書の段階で「二つの足」にすり替った。こうした教義の変質という事実も、従来の武蔵研究では看過されてしまっていた。それというのも、肥後兵法書は五輪書より前に書かれたという思い込みが眼を曇らせているわけである。足遣いについての教義において、肥後兵法書は明らかに修正主義的な新義を示している。それが読めないようでは、五輪書も肥後兵法書も読んだことにはならないのである。
 これに関連して、兵道鏡の対応条文「足遣之事」をみれば、足をつぎ合わせて打つというあたりは肥後兵法書に同じであるが、他の記述は、足つかいの教えからは逸れて、場の取り方へ話が流れている。
 いわば、五輪書の、片足を踏むな、右、左、右、左と交互に足を運歩しろという陰陽の足の事はすっかり消えてしまっているのである。「足遣之事」と見出しを付けながら、足つかいのことは記述がない。それが兵道鏡の条文である。これは教義の変質、新義というよりも、テーマそれじたいの伝承崩れである。   Go Back







*【肥後兵法書】
《 足ふみの事
一 足づかひ、時々により、大小遅速ハあれ共、常に歩がごとし。足に嫌事、飛足、浮足、蹈すゆる足、ぬく足、後れ先だつ足、是皆嫌ふ足也。足場いかなる難所なりとも、かまひなきやうに、慥に蹈べし。猶奥の書付にて能々しるゝ事也》






*【肥後兵法書】
《 陰陽二ツの足と云事
一 陰陽二ツの足とハ、太刀一ツ打内に、足二ツはこぶ者也。太刀にのり、はづし、つくも引も、足ハ二ツのもの也。足を継と云心、是也。太刀一ツに足一ツ蹈バ、居付はまるもの也。二ツと思へば、常に歩む足なり。能々吟味すべし》

















*【兵道鏡】
《 足遣之事
一 足つかひハ、太刀追取やいなや、少もよどみなく、つる/\とかゝり、敵の現に乗時、足をつぎ合て打なり。若、太刀追取と懸りにくき事有バ、我右のかたへ廻りよるべき也。左の(かたへ)まはりよれバ、結句まハり過て、我方つまるもの也。敵太刀位を見て、左へ廻る時、亦我も左へまハりもどり、俄に先をかけぬれバ、せをすりて、其侭しちやうにかゝり、打所慥に見ゆる物也。そこにて油断する事悪し。深く入らず、ひし/\と打べし。轉變肝要也》

   
   7 五方の搆
【原 文】

一 五方の搆の事。
五方の搆ハ、上段、中段、下段、
右の脇に搆る事、左の脇に搆る事、
是五方也。
搆五ツにわかつといへども、
皆人を切らむため也。
搆、五ツより外ハなし。
何れの搆なりとも、搆ると思はず、
切事なりと思ふべし。(1)
搆の大小は、ことにより、利にしたがふべし。
上中下ハ、躰の搆也。両脇ハ、ゆふの搆也。
右左のかまへ、上のつまりて、
脇一方つまりたる所などにての搆也。
右左ハ、所によりて分別有。
此道の大事にいはく、
搆の極は中段と心得べし。
中段、かまへの本意也。
兵法大にして見よ、中段は大将の座也。
大将につぎ、跡四段の搆也。
能々吟味すべし。(2)
【現代語訳】

一 五方〔ごほう〕の搆えの事
 五方の搆えは、上段・中段・下段、右の脇に搆えること、左の脇に搆えること、以上の五方である。
 搆えを五つに分けるとはいえ、どれも人を切るためのものである。搆えは、この五つより外はない。どの搆えであっても、搆えると思わず、切るのだと思うべきである。
 搆えの大きい小さいは、状況によって、有利なほうに従えばいい。
 上段・中段・下段は「体」〔たい、本体・基本〕の搆えである。左右両脇の方は「用」〔ゆう、働き・応用〕の搆えである。
 右左(の搆え)は、上の方がつかえていたり、脇の一方がつかえている所などでの搆えである。右左は場所によって違いがある。
 この道の大事に曰く、搆えの究極は中段と心得るべし、と。中段は搆えの本意〔本来あるべきもの〕である。
 兵法を大きくして(合戦に当てはめて)見よ。中段は大将の座である。その大将についで、残りの四つの搆えがある。よくよく吟味すべし。
 

 【註 解】

 (1)五方の搆
 五方〔ごほう〕の搆えである。書いてある通り、上段・中段・下段、右脇に搆える、左脇に搆える、以上の五通りの搆えである。
 とはいえ、この五方の搆え、有名なわりには、具体的に知っている人は少ない。たしかに、書いてある文字を見ただけでは具体的なイメージがわかない、という人がほとんどであろう。とくに、右脇に搆える、左脇に搆える、などはどうするのか、普通はイメージしにくいのが当然である。
 そこで、この五つの搆えをイラストレイト(図解)してみれば、以下のようなものである。
○此条諸本参照 →  異本集 









 中段は、二刀を相手に向けて、八の字にして突き出すかたちである。たんに刀を相手の体に向けるのではなく、相手の「顔」に向けて突き出す。これが最も基本的な搆えである。
 上段は、後出の「有搆無搆の教の事」に、上段も、少し太刀が下る感じであれば、中段となり、中段も、場合により少し上れば、上段となる、とあるから、中段の搆えをそのまま上へ上げたものであろう。
 しかし、別の搆え方もあるようで、右図のように、太刀を上げるといよりも、太刀を握った右手の拳が顔の脇、耳の傍にくるようにして、太刀を右肩にかついだ形である。太刀先が後を向くのである。左手の刀の方は前へ向ける。――かなり特異な形であるが、これが、現今、しばしば紹介もされている上段の搆えである。
 しかし、この搆え方の問題は、第一に、これが現行諸派の伝承だとしても、それは十八世紀を遡らないものであること、第二に、またそれに何より、五輪書にはそういう格好にしろとは書いていないこと、第三に、上記の「有搆無搆の教の事」の記事、つまり、上段も、少し太刀が下る感じであれば、中段となり、中段も、場合により少し上れば、上段となる、とある記事とも一致しないのである。
 したがって、五輪書の上段の構えが、太刀を右肩にかついだ格好だとするには、確証がないだけではなく、いろいろ難点もある。我々の所見では、ここは五輪書の沿った搆え方を、その上段の搆えとして提示しておく。
 次に、下段は、刀を下げたかたちである。太刀先は下を向いている。したがってこの搆えは、下方から上へ攻撃する搆えである。武蔵の肖像にはこのかたちに近いものがよくあるようだ。
 左脇の搆えは、かなり特殊である。太刀が左脇にくるようにする。このとき太刀先は、左後を向いているかたちである。左手の刀は前に向けている。
 右脇の搆えは、太刀が右脇にくるようにするが、右腕を横に伸ばして搆えるのではなく、太刀先は下を向いているのである。左手の刀は前に向けている。この引っ提げた右手の太刀を振り上げて打ち下ろす。
 のちほど、それぞれの搆えについて説明があるので、この五通りの搆え、五方の搆えを頭に入れておいていただきたい。
 さて、武蔵が言うのは、太刀の搆えはこの五通りしかないということである。つまり、《搆、五ツより外はなし》である。
 ところが他の流派では、それこそ何十、何百という搆えのあるものがある。しかし、武蔵は搆えにこだわらないから、要するにこの五通りの搆えにすべては還元されると言うのである。
 それよりも、武蔵が強調するのは、搆えを五つに分けるとはいえ、どれも人を切るためのものだということある。搆えはこの五つより外はない。しかもどの搆えであっても、「搆える」とは決して思わず、人を切るのだと思うべきである、と。
 したがって、五輪書を読むとき、まさしく、これが人を殺傷する戦闘技術の教本であることを忘れはいけない。精神鍛錬や、まして処世術のための書ではないのである。   Go Back




上段の搆




新免玄信提二刀像
 
 (2)搆の極は中段
 ここも分りやすい話である。搆えは五つ、しかも、その搆えの大きい小さいは、状況次第である。となると、搆えを細分して何十と型を教える剣法は、無意味な遊戯である。
《上中下は、躰の搆也。両脇は、ゆふの搆也》
 五方の搆えのうち、上中下段の三つは「体」〔たい〕の搆えで、左脇右脇の搆えは「用」〔ゆう〕の搆えだという。この「体用」〔たいゆう〕は、本体/作用、実体/属性という意の対をなす概念で、一般的な語彙である。連歌誹諧にも体用を云う。
 この武蔵の教えでは、体用は厳密な意味ではなく、世間で流通している「ゆるい」意味で用いられている。つまり、ここでの体と用の意味は、基本的なものと付属的なもの、というほどのことである。
(体の搆) 中段・上段・下段
(用の搆) 右脇の搆、左脇の搆
 武蔵のシステムは、きわめてシンプルである。このシンプルな合理性が、武蔵の教えの特徴である。
 しかし左脇右脇の搆えは、ちょっと変っているが、どんな時に使うのか。それは、上の方がつかえていて、基本形では無理な時、あるいは脇の一方がつかえている所などでの搆えである。左脇がつかえていたら、左脇の搆え、右脇がつかえていたら、右脇の搆えをとればいい。
《此道の大事にいはく、搆の極は中段と心得べし。中段、かまへの本意也》
 何れにしても、もっとも基本的な搆えは中段である。それ以外の四つの搆えは、従たる位にある。したがって、武蔵はあらゆる搆えを、この中段の搆えに還元しうるものとみなす。
 搆えの究極は中段と心得るべし。中段は搆えの本意である。この「本意」は、真意・本心というソリッドな意よりも、ここでは、本来あるべきかたち、というほどの意味である。
 ここでも「この道の大事に曰く」が出てくる。直前には、足つかいのところで、「この道の大事に曰く、陰陽の足という…」という言葉があった。
 これを見るに、やはり、武蔵の教えには、以前から、「搆の極は中段と心得べし」というテーゼがあったようで、その定式化された「大事」を武蔵はここで引用するかたちを取っている。
 前にも申した通り、「大事」というのは、他流派ではたいてい秘儀秘事のことだが、武蔵流では逆にオープンに定式化されたテーゼである。言い換えれば、このテーゼが周知のものになっているという状況から、この自己引用=参照(self-reference)の身振りがある。
 そのようなオープンな大事、《搆の極は中段と心得べし》を引用してみせて、武蔵は、中段は構えの本意だというのである。「本意」というちょっと難しい言葉を出してしまったので、武蔵は、合戦になぞらえて云えば、中段は大将みたいなものだな、という。
 中段は大将みたいなものだな、というのは子供にもわかる譬えである。そこで、究極至極の奥義書である五輪書に、どうしてこんな子供相手のような表現が入っているのか、どうも解せない、という者があった。
 しかしそれは物の見方が転倒しているのである。そもそも、五輪書が至極の奥義書だとするのが錯覚なのである。むしろ逆に、五輪書は、子供にも分るように書かれた兵法教本なのである。それを示すのが、中段は大将みたいなものだな、というこの表現なのである。
 さても、そうであるなら、右のような搆えを武蔵に取らせた像は、きわめて不適切である。これは五方の搆えの何れでもないし、まして搆えの究極たる中段でもない。それゆえ、こんどどこかに新規に武蔵像を制作する向きがあれば、発注をうけた彫刻家は五輪書をきちんと再読して、必ず中段の搆えを取らせてもらいたいものである。   Go Back
































武蔵の里 宮本武蔵銅像

 
   8 太刀の軌道
【原 文】

一 太刀の道と云事。
太刀の道を知ると云ハ、
常に我さす刀を、指二つにて振る時も、
道筋よくしりてハ、自由に振もの也。
太刀をはやくふらんとするによつて、
太刀の道さかひて振がたし。
太刀ハ、振よきほどに、静に振心也。
或は扇、或は小刀などつかふ様に、
はやくふらんとおもふに依て、
太刀の道違ひて振がたし。
夫ハ、小刀きざみといひて、
太刀にてハ人のきれざるもの也。(1)
太刀を打さげてハ、あげよき道へ上、
横にふりてハ、横にもどりよき道へもどし、
いかにも大にひぢをのべて、
強く振る事、是太刀の道也。(2)
我が兵法の五つの表をつかひ覚ゆれバ、
太刀の道定て振よき所也。
能々鍛錬すべし。(3)
【現代語訳】

一 太刀の道〔軌道〕という事
 太刀の道を知るというのは(以下のようなことである。――)
 常に自分が差す刀を、(薬指と小指の)指二つで振るときも、(太刀の)道筋をよく知れば、自由自在に振れるものである。
 太刀を早く振ろうとすると、太刀の軌道に逆らって、振るのが難しくなるのである。(だから)太刀は振りよい程に、静かに振るという感じにする。
 扇あるいは小刀などを遣うように、太刀を早く振ろうと思うから、太刀の軌道がはずれて、振れない。それは「小刀きざみ」といって、太刀では(そんな振り方をすると)人を切れないものである。
 太刀を打ち下げては、上げやすい軌道へ(振り)上げ、横へ振っては、横に戻りやすい軌道へ戻し、できるだけ大きく肱〔ひじ〕を延ばして、強く振ること、これが太刀の道筋である。
 我が兵法の五つの表〔おもて〕のやり方を習得できれば、太刀の軌道が定まって振りやすくなるのである。よくよく鍛練すべし。
 

 【註 解】

 (1)太刀ハ、振よきほどに静に振心也
 太刀を振るには、軌道というものがあるということ。これは、野球のバットでもゴルフのクラブでも同様であろう。棒状のものを振り回すには、その軌道をよく心得る必要がある
 太刀は、野球のバットより重くそれなりの重量のあるものだが、武蔵流ではこれを、片手で、しかも指二つで振るのである。前にも見たように、この指二つは、薬指と小指である。後の三指は添え物である。
 となると、力まかせに振るのではない。片手で太刀を持つのだから、両手で一刀を握って振るのとも訳が違う。
 武蔵は云う、――太刀を早く振ろうとすると、かえって太刀の軌道に逆らって、振れないものである。刀の軌道を十分会得できれば、自由自在に振れる。
 それはどういうことかというと、武蔵は、太刀は振りよい程に靜かに振るという感じにしろという。この「振りよいほどに靜かに振る」というところがポイントである。
 扇や小刀など、小さいもの軽いものを遣うように、太刀を早く振ろうと思ってはいけない。このばあいの「扇」を、ふつうのよくある扇だと錯覚している者があるが、それは間違いである。この「扇」は鉄扇のことである。八寸から一尺二寸(24cm〜36cm)ほどのものだが、これも小刀(短刀)と同じく武器の一つである。だから、ここでは《或は扇、或は小刀などつかふ様に》といって、扇も武器として「遣う」ものなのである。
 早く振ろうとして、鉄扇や短刀を振るみたいにして太刀を振る。そんなやり方で太刀を振っては、人は切れないと、武蔵は言う。太刀で人を切るには、それなりの方法があり、技術と訓練が必要なのである。つまり、振る太刀の軌道を知らねばならない。
 なお、ここにいう「小刀きざみ」は、「小刀細工」に同じ、いわゆる小細工のことである。目先の小さなことにかまけること、いたずらにセコい策略を弄することである。ところが、ここで武蔵はこの比喩を、字義通りの「小刀きざみ」へ返す、というワードプレイ(言語遊戯)を演じている。
 ここでは掲示しないが、この点に関し、既成現代語訳は、それぞれに不適切である。岩波版注記に、これを《実戦には役に立たないことの比喩》とするが、これはそんな比喩ではなく、まさしく、文字通りの「小刀きざみ」なのである。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 






野球のバットスイング



鉄扇 一尺二寸
 五輪書は、太刀を早く振ろうと思うなと、ここで扇と小刀を引き合いを出しているが、肥後兵法書では、小太刀と「そくひへら」を持ち出している。
 この「そくひへら」というのは、糊箆のこと、つまり染色などで糊付けをするときの箆棒である。箆であるから、ごく軽い。しかし、五輪書に、扇や小刀とあるのに、肥後兵法書が「そくひへら」をどうして持ち出すのか、そのあたりを穿鑿してみるのも面白かろう。
 穿った見方をすれば、これは吉岡流への当て擦りのように見える。吉岡憲房が染色業者であり、常日ごろ糊箆を使っているうちに、小太刀の極意を得たという咄が巷間にあったが、そういう俗説がここへ反映されたという可能性がなきにしもあらず。もちろんそれは後世の伝説だから、実際の事蹟とは無縁なことである。これも肥後兵法書が後人の作物たる徴候である。
 肥後兵法書では、その「そくひへら」が小太刀とともに出る。ということは、これは富田流小太刀も言外にあるということである。そうして小太刀といえば、「そくひへら」の吉岡もそうだな、という具合である。しかし、そうなると、太刀の道という話は若干ズレてくる。
 五輪書風之巻に小太刀への偏向批判がある。風之巻の小太刀批判は、どちらかというと、隙を狙って飛んだり跳ねたり転んだりする奇手への偏向批判である。太刀を早く振ろうとするな、という趣旨ではない。
 太刀の軌道という五輪書の本条へもどれば、扇や小刀を振るように早く太刀を振ろうと思うな、それは「小刀きざみ」といって、そんな振り方をすると人を切れないぞ、太刀は静かに振れ、という教えである。しかるに、肥後兵法書の作者は、そのあたりの趣旨を理解していないようで、「小刀きざみ」の小刀を、小太刀と錯覚したらしい。肥後兵法書の記述には、そういう理解のズレによる不正確さもある。この点も注意すべきところである。 Go Back



*【肥後兵法書】
《 太刀の道の事
一 太刀の道を能知ざれバ、太刀心のまゝに振がたし。其上強からず。太刀のむねひらをわきまへず、或ハ太刀を、小太刀、或ハ、そくひへらのやうに仕つけれバ、肝心の敵を切時の心に出合がたし。常に太刀の道を辨て、重き太刀のやうに、太刀を靜にして、敵に能あたるやうに、鍛錬あるべし》
 
 (2)太刀を打さげてハ、あげよき道へ上
 太刀の軌道が定まれば、太刀は振りやすくなる。容易で自由なところへ行けるのは、練習の賜物だが、いずれにしても、無理なことをやっていてはいけない。物事には合理性、合法則性というものがある。
 太刀は打ち下げたら、上げやすい軌道へ振り上げ、横に振ったら、横に戻しやすい軌道へ戻し、できるだけ大きく肱を延ばして一気に強く振る、これが太刀の道筋である。
 ――と、教えは明確でシンプルである。太刀の振り方も物理法則に従わねばならない。その法則を体得するのが重要である。容易で自由(easy and free)という武蔵の教えの境位は、法則と合致したところに生じる。このあたり、職人としての合理性が発露しているところである。武蔵のラショナリズム(rationalism)である。
 実はこの、武蔵の合理性、合法則性ということに注意しなければならない。それは武蔵が巨漢で、言い伝えでは大力の男だったからだ。常人の何倍も膂力の強い人間だが、その人物が、やみくもな力まかせではなく、このように静かにスムースに太刀を振れと教えるのである。
 だからこそ、武蔵の「理論」に説得力があったのだと思われる。つまり武蔵の戦闘術の天才は、その持って生まれた肉体によるのではなく、物理法則を把握する能力にあったということである。   Go Back

 
 (3)我が兵法の五つの表
 兵法の五つの「表」〔おもて〕という言葉が出てきた。この「表」は、当時の兵法用語では、表/奥、表/裏の「表」である。目録には、たいてい、表につづいて奥や裏などの術名リストがある。
 しかるに、武蔵の教えの特徴は、表はあっても、奥や裏がないことである。奥や裏というものを設けて、いかにも裏や奥があるように修行システムを構成する流派がほとんどだった。だが、そんな裏や奥というものは、見せかけにすぎない、というのが武蔵のスタンスである。裏なき表、奥なき表、――これが武蔵的なシステムである。
 また、「表」を「基本形」と訳してしまう現代語諸訳の傾向は、いわゆる「超訳」に等しいもので、適切ではない。「表」は「表」である。それでよいのである。
 しかし、現代人の概念に相応させるために、本来の語義である表/奥、表/裏の「表」であることを無視して、むりやり「基本形」とせざるをえないのが実状である。それでも、武蔵の「表」をいうばあい、あくまでも、裏なき表、奥なき表、という根本は念頭に置いてもらいたいものである。  Go Back





武蔵の体躯(想定図)



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