武蔵の五輪書を読む
五輪書研究会版テクスト全文
現代語訳と注解・評釈

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五輪書 地之巻 5  Back   Next 

 
   10 拍子ということ
【原 文】

一 兵法の拍子の事。
物ごとにつき、拍子ハ有ものなれども、
取わき兵法の拍子、
鍛練なくしてハ、及がたき所也。
世の中の拍子、顕て有事、
乱舞の道、伶人管弦の拍子など、
是皆よくあふ所のろくなる拍子也。
武藝の道にわたつて、弓を射、鉄炮を放し、
馬に乗事迄も、拍子調子ハ有、
諸藝諸能に至ても、拍子を背事ハ有べからず。
又、空なる事におゐても、拍子ハあり、
武士の身の上にして、
奉公に身をしあぐる拍子、しさぐる拍子、
はずの相拍子、はずのちがふ拍子有。
或ハ、商の道、
分限になる拍子、分限にても其絶拍子、
道々につけて、拍子の相違有事也。
物毎、さかゆる拍子、おとろふる拍子、
能々分別すべし。(1)
兵法の拍子におゐて、さま/\有事也。
先、あふ拍子をしつて、ちがふ拍子をわきまへ、
大小遅速の拍子のうちにも、
あたる拍子をしり、間の拍子をしり、
背く拍子をしる事、兵法の専也。
此背く拍子、わきまへ得ずしてハ、
兵法たしかならざる事也。
兵法の戦に、其敵々の拍子をしり、
敵の思ひよらざる拍子を以て、空の拍子をしり、
知恵の拍子より発して勝所也。
いづれの巻にも、拍子の事を専書記す也。
其書付を吟味して、能々鍛錬有べきもの也。(2)

【現代語訳】

一 兵法の拍子の事
 どんな物事にも拍子はあるものだが、とりわけ兵法の拍子は、鍛練なくしては及びがたいところである。
 世の中の拍子で(よく)顕われているのは、乱舞〔能舞》の道や伶人管弦〔雅楽》の拍子など、これらはすべて、よく調和したろく*な拍子である。
 武芸の道では全般に、弓を射たり鉄炮を発したり、馬に乗ることまでも、拍子・調子があり、さまざまな芸能〔武芸〕に至っても、拍子に背くことはあるべきではない。
 また、空なる事〔人の境遇》においても拍子はあり、武士の身の上では、奉公に身を仕上げる拍子、反対に仕下げる拍子、はず〔筈〕の合う拍子、はずの合わない拍子がある。あるいは商売の道では、分限〔金持〕になる拍子、分限であってもその家が絶える拍子、(人生の)道それぞれについて、拍子の相違がある。
 (そのように)どんなことでも、栄える拍子、衰える拍子がある。それをよくよく分別すべきである。
 兵法の拍子には、さまざまな拍子がある。まず、合う拍子を知って、合わない拍子をわきまえ、大きい小さい、遲い速いの拍子の中にも、当る拍子を知り、間の拍子を知り、背く拍子を知ること、それが兵法の専〔せん〕である。
 この背く拍子をわきまえることができないようでは、兵法は確実なものにならない。兵法の戦いに(あっては)、その敵それぞれの拍子を知り、敵の予期しない拍子をもって、空の拍子を知り、智恵の拍子から発して勝つのである。
 (本書の)どの巻にも、拍子のことを、専ら書き記してある。その書かれていることを吟味をして、よくよく鍛練あるべきである。
 

 【註 解】

 (1)兵法の拍子、鍛練なくしてハ、及がたき所也
 この拍子論は、特に説明を要しないであろう。ところが、この拍子という言葉、そのまま読んで了解できればいいが、これを別の言葉に翻訳するとなると難しい。それだけ独特な概念だと言わねばならない。
 たとえば、最初に舞踊や音楽の例がでてくることだから、これはリズムと理解していい。伶人管絃というのは、古典的な雅楽のことで、とくに伶人〔れいじん〕と云う場合は、宮中の楽人を指す。
 また「乱舞」という言葉が、本書の他の箇処にもでてくるが、これは「らんぶ」ではなく、当時の用法では「らっぷ」と読む。もとは、酒宴の席などで楽器にあわせて歌い踊ること、能で速度の早い動きの舞を謡い奏して舞うことである。武蔵はこの「乱舞」の話を時々出してくる。この人は、能や仕舞に堪能であったようである。
 話をもどせば、――また、武芸でも、弓や鉄炮、乗馬という例は、これも運動のリズムである。リズムに乗らないと何ごともうまくいかない。弓や鉄炮という飛び道具でもそうである。
 ここで《諸藝諸能》というのは、「諸々の芸能」という意味である。ただし、この場合の「芸能」はいわゆる芸能一般ではなく、武芸のことである。繰り返し言うが、「芸能者」のみならず「芸者」という場合ですら、武芸者を指すのである。
 ところが次に、《空なる事におゐても拍子はあり》、――つまり、「空なる事」においても拍子はある、と武蔵は云う。この《空なる事》とは、いかなることか。ここでの文脈からすれば、以下に例に挙げているのは、ひとの人生のことである。
 すると、この《空なる事》の「空」とは、「くう」ではなく「そら」と読むべき語である。
《旅のそらに助け給ふべき人もなき所に》(竹取物語)
 つまり、「そら」としての「空」なる事とは、人生の境涯、境遇のことである。こうした語の選び方に、武蔵的なものがある。兵法者武蔵の「脱俗」というポジションからすれば、人生世俗の事は、空〔そら〕なる事、あるは「うつせ」なる事である。
 ところで、この《空なる事》について、的外れな誤解釈が支配的になっているのは、どういうわけか。それはどうやら、この「空」を「くう」と読んでしまった結果らしい。
 既成現代語訳にそれが現われているが、戦前の石田訳は、これを「無形のもの」としている。空〔くう〕なる事だから、無形というわけである。戦後になると、神子訳がこれを「抽象的のもの」とした。苦しい誤訳である。かりに空〔くう〕なる事だとしても、これは的外れである。
 その後現われた岩波版注記では、これを「目に見えない無形のこと」とする。神子訳の「抽象的のもの」ではあんまりだと感じたのだろう、戦前の石田訳を流用したのだが、「目にみえない」という余計な増幅がある。「無形のもの」ではなく「無形のこと」とするが、これでは何のことやら文意不明となった。
 大河内訳は、「形のないもの」として、これは石田訳の言い換えにすぎない。何も考えていないのである。鎌田訳は、岩波版注記から「目に見えない」という部分を頂戴している。空〔くう〕の方向なら、別の工夫もあろうに、よく考えもせず、こんな誤訳をしているのである。
 ようするに既成の語釈語訳は、戦前の石田訳以下、《空なる事》の「空」を「くう」と誤読したために、「無形のもの」から「目に見えないもの」にまで至る、こんなわけの分らぬ話になってしまったのである。
 この「兵法の拍子の事」の後半に、《空の拍子》という語句が出てくるが、その「空」は訳さない。しかるに、この《空なる事》は無理やり訳そうとする。それは戦前以来のことだが、下手に訳すと間違うという例である。
 正しくは、この「空」は、「そら」と読むべき語である。そして《空なる事》とは、人生における境涯、境遇のことである。このことをわきまえないと、いつまでたっても、この箇処の誤訳は訂正されないであろう。
 さて続いて、次に、別の語釈の問題であるが、
《武士の身の上にして、奉公に身を仕上る拍子、仕下る拍子、はずのあふ拍子、はずのちがふ拍子あり》
という。この「奉公に身を仕上る、仕下る」というのは、立身する、没落するという意味である。
  《伊勢から来て一代で仕上た人さ》(浮世風呂)
という用例のあるところである。武士が大名に仕えて立身出世することもあり、また逆に、先祖由来の知行を失って没落することもある。
 戦国の時代が過ぎて、社会秩序が安定したので、武士たちはその身分社会の中で安定した地位と生活を得たと思われがちだが、それは現代人の錯覚である。
 実際には、近世を通じて、武士個々人、それぞれの家には浮沈が多かった。小身から大身へ出頭出世する者が出る一方で、先祖の武功にもかかわらす、没落する武家も多かった。武士も苦労の多い職業だったのである。武蔵のこの言説には、武家の浮沈という切実な事情が反映されているのである。
 また、《はずの合う拍子、合わぬ拍子》という「はず」は、もとは弓に弦をかける部分、弓弭〔ゆはず〕だが、ここでは弓射のとき矢を弦にかける矢筈〔やはず〕のこと。「はずが合う、合わぬ」は、転じて調子が合う、合わないの意。現代語では「そうなるはずだ」「こんなはずではなかった」といった言い回しに残る「はず」である。
 武士が出世したり落ちぶれたり、どんどん調子よく進んだり、調子が狂ったりする、それにも拍子があるという。商人も金持になったり破産したりする拍子がある。どんなことでも栄える拍子、衰える拍子があるという。この場合、拍子はリズムというよりも、「調子」である。
 つまり、調子がいい/調子が悪い、というときの「調子」である。勢いでもある。これを「拍子」というのは現代語にもないことはない。これが第二の意味である。
 そして第三の意味が、次の兵法の拍子である。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 











能 「猩々乱」










*【現代語訳事例】
無形のものにも拍子はある》(石田外茂一訳)
抽象的のものにおいても拍子がある》(神子侃訳)
形のないものでも拍子はある》(大河内昭爾訳)
目にみえないものについても拍子がある》(鎌田茂雄訳)











個人蔵
城下町の屋敷割
熊本之図




矢 筈
 
 (2)兵法の拍子
 現代剣道でも「拍子」という。太刀や体さばきの流れやリズムのこと、相手との呼吸の意味もある。
 この拍子について、『劍道秘要』の註で三橋鑑一郎は、右掲のごとく記している。これだと拍子は、「転んだ拍子に頭を打って」という用法、つまりは、もののはずみ。さらにそこから「好機」、チャンスという意味にある。チャンスを知って機に乗ずるのである。
 しかし、武蔵は「敵それぞれの拍子を知り、敵の思ひよらざる拍子をもって勝つ」というから、三橋の解釈は少しずれている。武蔵のいう拍子には、相手の拍子の裏をかくことや、相手の拍子を狂わせることも含まれる。
 要するに、武蔵の話は――まず、合う拍子を知って、合わない拍子をわきまえ、大きい小さい、遲い速いの拍子の中にも、当る拍子を知り、間の拍子を知り、背く拍子をわきまること。それができないようでは、兵法は確実なものにならない。――ということである。
 もとより、ここで興味深いのは、「背く拍子」について相互に背反する二つのポジションが語られていることである。
《諸藝諸能に至ても、拍子を背事は有べからず》
《此背く拍子、わきまへ得ずしてハ、兵法たしかならざる事也》
 戦闘は楽器の合奏ではない。第一段の教えは「拍子を背く事はあってはならない」であるが、次には、「背く拍子をわきまえろ」と云うのである。相手の拍子を撹乱して勝つ、ということである。
《兵法の戦に、其敵々の拍子を知、敵の思ひよらざる拍子を以て空の拍子を知、智恵の拍子より発して勝所也》
 これが拍子論の要諦である。兵法の戦いにおいては、その敵それぞれの拍子を知り、敵の予期しない拍子で空の拍子を知れ、ようするに、智恵の拍子より発して勝て、というところである。
 背く拍子、敵の思ひよらざる拍子、これは「智恵の拍子」というものである。智恵とは、このケースでは、勝負のかけひきにおける策謀のことであり、武蔵はその策謀の拍子から発して勝て、と教えるのである。戦いに勝つには「智恵」が必要なのである。
 興味深いのは、武蔵がここで、「空の拍子」という語を出していることである。敵の予期しない拍子によって「空の拍子」を知れ、という。
 この「空」は、前出の《空なる事》とは違い、「くう」と読む語である。その「空の拍子」を出したので、その換喩(metonymy)のシフトから「智恵の拍子」という語が続いて出るわけだ。「空」と「智慧」は、仏教教学では、相互に連合する概念である。
 ただしこれは武蔵的な用語であって、ここでは「空」とは「虚」の意味である。ただし、それも、哲学的な「虚」(emptiness)ではなく、もっと実際的な「虚」(unawareness)のことである。つまり、敵の予期しない拍子、敵の虚を突く拍子である。この「虚の拍子」を、武蔵は「空の拍子」と修辞したのである。
 このあたり、「文」の人としての武蔵の背後が垣間見えるところである。武蔵は難しいことは書かないが、時おり、こうした語の運用において、裏地としての教養をちらりと見せることがある。ただし、従来の五輪書研究は、そのあたりについて無知に等しい。そこまでフォローした五輪書読みが、これまで出なかったのである。
 ともあれ、この「拍子」ということについては、ここでは少しだけ語られたにすぎない。武蔵が書いているように、後に本書の随所で言及される、そんな重要なテーマである。

――――――――――――




*【劍道秘要】
《拍子と云う事は劍道に取りて極めて大切の詞なり。拍子とは今日にて云う「機会」の事なり。即ち「はずみ」の事なり。何事にても物の機会はあるものなり、事を為すに此の機会に乗じ、「はずみ」に付込みて為せば為しやすきが如く、劍道にては殊に此の拍子即ち機会を知りて期に乗ずる事肝要なり》

















伝王義之書 般若心経
 なお、この部分の校異の問題を挙げてみる。筑前系諸本と肥後系諸本では、写本間に相異がある。筑前系/肥後系を区分する特徴的な差異である。
 一つは、肥後系諸本が、《敵のおもひよらざる拍子をもつて、空の拍子を、智恵の拍子より発して勝所也》とするところ、つまり、《空の拍子を、智恵の拍子より発して》という部分である。むろん、空の拍子を智恵の拍子より発して、では意味不通である。
 それに対し、筑前系諸本では、これを、《空の拍子をしり、智恵の拍子より発して》とする。つまり、この「知り」という語の有無が問題である。
 もちろん、この《拍子を知る》ことは、武蔵の教説の重要なポイントの一つである。前に見たように、地之巻「此兵法の書、五巻に仕立事」において、空之巻の内容を予告する文にも、
《時にあひては拍子をしり、おのづから打、おのづからあたる、是皆空の道也》
とあったところである。
 したがって、ここでも、武蔵は、《空の拍子をしり、智恵の拍子より発して勝所也》と書いたはずなのだが、肥後系諸本は、この《しり》という二字を落としている。
 これは、写本ではよくあるところの、語の脱落であろう。すなわち、同じ文字が連続して現われる場合、書写者はしばしばこれを衍字として、一方を勝手に削除してしまうことがある。
 このケースでは、当初、《空の拍子をしり、智恵の拍子より発して》とあったのを、肥後系早期写本で、まず、「しり」という仮名を漢字「知」と書き、さらに「智恵」とあるのを、同字二つが連続するので、《知、々恵》と表記したものであろう。
 これは偶発的な書き換えである。ところが、次に、この《知々》を「智」一字に誤読した書写が出てしまった。その結果、後続派生写本では、たいていこの《空の拍子を知》の「知」という字を欠くようになってしまったのである。つまり、このケースの遷移プロセスは、
   (Phase0) 空の拍子をしり、智恵の拍子より発して
   (Phase1) 空の拍子を知、々恵の拍子より発して
   (Phase2) 空の拍子を恵の拍子より発して
ということなのである。最初の書き換えは偶発的なものだが、それが呼び水となって、誤写を結果することになった。
 寺尾孫之丞は、おそらく、それを見越して、わざわざ《しり》と仮名で書いたかもしれない。それが「知」と漢字で書くようになって、案の定、この誤記を誘発してしまったのである。
 肥後系諸本がおしなべて《しり》の二字を缺くという事実は、この誤記が早期に生じたことを意味するが、同時にそれは、肥後系諸本の先祖が複数ではなく、ある特定の元祖一本から派生したということを示唆する。言い換えれば、肥後系に特徴的なこの脱字は、あちこちで偶発するものではなく、まさにある段階での特定の写本作成時に、書写者の誤読から発生したものなのである。

富永家本 当該箇処

吉田家本 「知り」
 この件に関して、肥後系のうち興味深いのは、富永家本である。そこには、いったん「知り」とは書いたが、脇に「智」と書いて訂正している。富永家本系統の祖本には、《空の拍子を知、々恵の拍子より発して》という字句を記した写本があったかもしれない。あるいはまた、そうではなく、書写者は、文脈から思わず「空の拍子を知り」と書いてしまったが、誤記に気づいて訂正したということかもしれない。
 何れにしても、富永家本のこの書写措置は興味ふかいところである。というのも、肥後系諸本が忘却した「知々」字が「知り」となって、ここに不意に浮上しているからである。
 史料批判作業において、しばしば遭遇することだが、書写者の無意識の筆が、思わず、正しいことを顕在化していることがある。ある意味では、文化の集合的無意識が作用したとも云える場面である。
 ともあれ、富永家本は無意識の内に「正しい」ニアミスを演じているが、それもそれきりのことで、他の肥後系諸本は、その早期写本で生じた誤記をそのまま反復している。もちろん肥後系諸本しか見ていない状況では、「智恵」と記す文字表記に、「知り」という字句の抹消があったということさえ、気づかない。しかし、肥後系だけではなく、筑前系諸本を横断して照合すれば、その異変に気づき、また、ここに痕跡の抹消があったことが知れるのである。
 校異のもう一つは、末尾の箇処で、筑前系諸本に、
《其書付を吟味して、能々鍛錬有べきもの也》
とあって、《書付を吟味して》とするところ、肥後系諸本には、《書付の吟味をして》としている。
 これは文意に大して影響のない相異であるが、筑前系/肥後系を截然と区分する指標的差異なので、看過できないところである。
 この相異の様態についてみるに、これは筑前系諸本に共通するところから、筑前系初期にあった文字列であろう。他方また、肥後系の方も、早期に派生した系統の諸本にも共通するところから、これは肥後系早期にはこの語句があったものらしい。
 したがって、問題は、この変異が、寺尾孫之丞段階にまで遡りうるか否かである。つまり、これは語句表記のゆらぎであり、寺尾孫之丞相伝時期の相異、その前期と後期の字句に違いがあったものとみなしうるか、ということである。
 言い換えれば、そうでなければ、門外流出後早期に、この異記が発生したのである。もとより、《書付を吟味して》とするのに対し、《書付の吟味をして》の方は歯切れが悪いし、差分は加増だから、これを寺尾孫之丞に帰することには難がある。
 そうでなくとも、《書付を吟味して》と記すのが筑前系諸本に共通するところからすれば、寺尾孫之丞前期、柴任美矩が相伝した五輪書の字句の可能性が高い。少なくとも古型を探るとすれば、《書付の吟味をして》を採る理由もない。これと同じパターンは、他にいくつもある。   Go Back


*【吉田家本】
《敵の思ひよらざる拍子をもつて、空の拍子を知り、智恵の拍子より發して》
*【中山文庫本】
《敵の思ひよらざる拍子をもつて、空の拍子を知り、智恵の拍子より発して》
*【立花隨翁本】
《敵の思ひよらざる拍子を以て、空の拍子をしり、智恵の拍子より發して》
*【渡辺家本】
《敵の思ひよらざる拍子を以て、空の拍子をしり、智恵の拍子より發して》
*【石井家本】
《敵の思ひよらざる拍子を以て、空の拍子をしり、智恵の拍子より發して》
*【楠家本】
《敵のおもひよらざる拍子をもつて、空の拍子を【】、知恵の拍子より発して》
*【細川家本】
《敵のおもひよらざる拍子をもつて、空の拍子を【】、智恵の拍子より発して》
*【富永家本】
《敵のおもひよらざる拍子を以て、空の拍子を知り)恵の拍子より發して》
*【狩野文庫本】
《敵の思ひ寄ラざる拍子を以、空の拍子ヲ【】、智恵の拍子より發て》
















立花隨翁本 当該箇処












*【吉田家本】
《其書付を吟味して、能々鍛錬有べきもの也》
*【中山文庫本】
《其書付を吟味して、能々鍛錬有べきもの也》
*【立花隨翁本】
《其書付を吟味して、能々鍛錬有べき物也》
*【渡辺家本】
《其書付を吟味して、能々鍛錬有べき物也》
*【石井家本】
《其書付を吟味して、能々鍛錬有べき物也》
*【楠家本】
《其書付の吟味をして、能々鍛練有べき物也》
*【細川家本】
《其書付の吟味をして、能々鍛練有べき者也》
*【富永家本】
《其書付の吟味をして、能々鍛練可有もの也》
*【狩野文庫本】
《其書付の吟味をして、能々可有鍛練者也》


 
   11 地之巻 後書
【原 文】

右、一流の兵法の道、
朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、
おのづから廣き心になつて
*)
多分一分の兵法として、世に傳る所、
始て書顕す事、地水火風空、是五巻也。(1)
我兵法を学んと思ふ人ハ、道をおこなふ法あり。
第一に、よこしまになき事をおもふ所。
第二に、道の鍛錬する所。
第三に、諸藝にさハる所。
第四に、諸職の道を知事。
第五に、物毎の損徳をわきまゆる事。
第六に、諸事目利をしおぼゆる事。
第七に、目にみヘぬ所をさとつて知事。
第八に、わずかなる事にも気を付る事。
第九に、役に立ぬ事をせざる事。
大かた、かくのごとくの利を心にかけて、
兵法の道鍛練すべき也。(2)
此道にかぎつて、直なる所を、廣く見立ざれば、
兵法の達者とはなりがたし。
朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、
おのづから廣き心になつて
*)
此法を学び得てハ、一身にして、
二十三十の敵にもまくべき道にあらず。
先、氣に兵法をたへさず、直なる道を勤てハ、
手にてうち勝、目にみる事も人に勝、
又、鍛練を以て、惣躰自由なれば、
身にても人に勝、又、
此道になれたる心なれば、
心を以ても人に勝。此所に至てハ、
いかにとして、人に負道あらんや。(3)
又、大なる兵法にしてハ、
善人をもつ事に勝、人数をつかふ事に勝、
身をたゞしくおこなふ道に勝、
国をおさむる事に勝、民をやしなふ事に勝、
世のれいほうをおこなふ(事)に*勝。
いづれの道におゐても、人にまけざる所をしりて、
身をたすけ、名をたすくる所、
是兵法の道也。(4)
【現代語訳】

 以上、我が流派の兵法の道を、(朝に夕に修行することによって、おのづから広い心になって*)多分一分〔たぶんいちぶん〕の兵法として世に伝えるところを、初めて書きあらわす。それが地水火風空のこの五巻である。
 我が兵法を学ばんと思う人には、道を行う法〔規則〕がある。
 第一に、思いをまっすぐにするところ。第二に、(兵法の)道を鍛練するところ。第三に、(一芸だけではなく)さまざまな武芸を経験するところ。第四に、さまざまな職業の道を知ること。第五に、どんな事であれ得失をわきまえること。第六に、諸事に目が利くように訓練すること。第七に、目に見えぬところを悟って知ること。第八に、些細な事にも気をつけること。第九に、役に立たぬことをしないこと。
 だいたい、このようなことを心にかけて、兵法の道を鍛練すべきである。
 とくにこの道〔兵法の道〕においては、真っ直ぐなところを広く見立てることがなければ、兵法の達者とはなりがたい。(朝に夕に修行することによって、おのづから広い心になって*)この方法を会得できれば、たった一人でも、二十人、三十人の敵にも負けるものではない。
 まず、気持に兵法を絶やさず、真っ直ぐな道を修行すれば、手で打ち勝ち、目に見る事も人に勝つ。また鍛練によって全身が自由になれば、身体においても人に勝つ。またこの道に習熟した心であれば、心をもってしても人に勝つ。ここに至っては、どうして人に負けることがあろうか。
 また、大きな兵法〔合戦〕のばあいは、よき人〔有能な人材〕を持つ事において勝ち、人数〔軍勢〕を使う事において勝ち、身を正しく行う事〔修身〕において勝つ。国を治める事〔政治〕において勝ち、民を養う事〔経済〕において勝ち、世の例法を行う事〔法律施行〕において勝つ。
 何れの道においても、人に負けないところを知って、身を助け名を助ける*ところ、これが兵法の道である。
 

 【註 解】

 (1)始て書顕す事、地水火風空、是五巻也
 まず、語釈の問題を片づけておくと、「一流」というのは、現代語でいう一流、二流のそれではなく、自流、つまり我が流派ということ、武蔵は二刀一流もしくは二天一流と称するが、要するに武蔵の流儀のことである。一流相伝、一流伝授というと、これは当流の技能芸術の伝えの完了、ということである。
 また、《多分一分〔たぶんいちぶん〕の兵法》とある。「多分」とは、現代語の「たぶん、そうだろう」というときの「多分」ではなく、数が多いという意味である。この五輪書のケースでは、「多分」「大分」の兵法というが、合戦のような多数の集団的戦闘を指す。
 これに対し、「一分」の方は、自分一身、一人のことである。五輪書の語例では、「一身」ともいうが、一人で戦う個人戦の兵法のことである。この「多分」の兵法と「一分」の兵法は、後の巻で頻出し、繰り返し言及されるところである。
 しかるに、ここではあくまでも《多分一分の兵法》であって、《多分の兵法「と」一分の兵法》なのではない。これは武蔵の兵法論としての《多分一分の兵法》なのである。
 本書五巻構成を解説するところで、
《合戦の道、一人と一人との戦も、萬と萬との戦も同じ道也。心を大なる事になし、心をちいさくなして、よく吟味して見るべし》
と語られていたところである。つまり、《一人と一人との戦も、萬と萬との戦も同じ道也》というテーゼによって直指されるのが、この《多分一分の兵法》と呼ばれる兵法論である。
 ここで、注意されるのは、
《多分一分の兵法として世に傳るところ、始て書顯す事》
とある箇処である。これだけではよく判らないが、武蔵流の「多分一分の兵法」として世間に伝えられた兵法論があった。これは講義のような口頭形態しかなかったが、その内容をはじめて書物にして書きあらわす、ということになる。
 本書の総序とも言うべき冒頭にも、《兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練之事、始て書物に顕さんと思ふ》とあったのは、すでに見た通りである。
 ところで、「兵法の道」あるいは「多分一分の兵法として、世に傳る所」をはじめて書くというあたり、看過すべきでないことが二点ある。
 ひとつは、武蔵には、五輪書以前に、多分一分の兵法として世に伝えた兵法論があったということ。もう一つは、武蔵が兵法論を「書く」のははじめてだ、ということである。それまでは、兵法理論を語ってきたが、書いたことはなかったのである。
 釈尊や孔子は、弟子たちに語り教えたが、書かなかった。それで、「如是我聞」や「子曰く」というスタイルの経典が残るというのが、教説の東洋的古代的様式である。武蔵も同様に、弟子たちに語り教えたが、文書に書くということはなかったのである。
 それは、文書に書くとなれば、どうしても他流と同じ奥義秘伝書のかたちになる。それを武蔵は嫌った。しかし、ここに至って、自身の兵法論を書物に書き残そうという気になった。それはなぜか?
 おそらく、武蔵は兵法書の新しいスタイルを発明したのである。武蔵の思想的ポジションとしては、世間に多い奥義秘伝書の類いは書かぬ。兵法書は、そうした秘密文書ではなく、むしろオープンな書物であるべきだ。そこで、武蔵が書く気になったのは、いわば普遍的な入門書としての兵法教本を書くということであった。ただし、それは本朝未曾有の兵法書であった。

 とすれば、五輪書に武蔵が、「多分一分の兵法」として世に伝えるところを、はじめて書あらわす、と書いている以上、五輪書以前に、世に知られた彼の兵法論はあっても、それは、曰く語られた教説であって、書かれざる教え(unwritten teachings)であったということである。
 かくして、明敏な読者ならすでに気づいていることだろうが、我々はここで、極めて重要な問題に行き当たっていることになる。つまり、兵法書物をはじめて書くと、武蔵が再三明確に書いている以上、五輪書以前には、「書かれた兵法論」は存在しなかった、という事実である。
 では、どうして、五輪書以前に書かれたという武蔵作の兵法書――たとえば、三十九箇条であれ三十五箇条であれ、かの肥後兵法書が存在するのか?
 それは云うまでもなく、後世、武蔵作と仮託された文書にすぎない。五輪書に「はじめて書く」と明記している以上、五輪書以前には、書物(written)としての武蔵の兵法書は存在しないのである。
 肥後兵法書は、武蔵死後、寺尾求馬助系統で発生した文書である。これは、寺尾求馬助門流の者に帰すべきもので、武蔵本人に帰すべき書物ではない。それを武蔵作にしてしまったのは、求馬助以後の世代であろうが、そうなると、肥後兵法書は、武蔵作と仮託された偽書ということになる。
 立花峯均の『丹治峯均筆記』には、五巻の兵書(五輪書)の他に、別の兵法書があるとは書いていない。もしそれがあれば、柴任美矩は立花峯均にそれを言い伝えただろう。柴任が知らないということは、彼が肥後に居た当時、そんな兵法書は肥後にはまだ存在しなかったということだ。したがって、肥後兵法書は、柴任が肥後を去った承応年間以後に作成された文書であり、むろんそれは武蔵死後のことであり、武蔵が書いたものではない。
 このかぎりにおいて、肥後系武蔵伝記『武公伝』の記事は、まさに後世の伝説である。しかも、これを真に受けた諸説が、今日に至るも絶えないのである。
 曰く、武蔵は、二十代のころ宮本武蔵守義輕名で兵法書「兵道鏡」を著述した。曰く、武蔵は、「兵法三十五箇条」を書いて、寛永十八年二月、細川忠利に献上した、云々。
 こうしたことを書く武蔵論がいまだに跡を絶たないが、それは、一次史料としての五輪書を読まずに武蔵論を書いているのも同然である。そうでなければ、五輪書に、これほど再三にわたって「はじめて書く」と書いているのに、それを見てみぬふりをしているのである。
 したがって、この点でも、五輪書は真っ当に読まれたためしのない書物なのである。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 














*【此兵法の書、五卷に仕立事】
《第三、火の巻。此巻に戦の事を書記す也。火は大小となり、けやけき心なるによつて、合戦の事を書也。合戦の道、一人と一人との戦も、萬と萬との戦も同じ道也。心を大なる事になし、心をちいさくなして、よく吟味して見るべし。大なる所は見へやすし、ちいさき所は見へがたし。其子細、大人数の事は、そくざにもとをりがたし。一人の事は、心ひとつにてかはる事はやきに依て、ちいさき所しる事得がたし。能吟味有べし。此火の巻の事、はやき間の事なるに依て、日々に手なれ、常の事とおもひ、心の替らぬ所、兵法の肝要也。然に依て、戦勝負の所を、火之巻に書顕す也》(地之巻)

*【自序】
《兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練之事、始て書物に顕さんと思ふ。時、寛永二十年十月上旬の比、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拜し、觀音を礼し、佛前に向》(地之巻)























熊本市立博物館蔵
肥後兵法書
「二天一流兵法三十五箇條
寺尾信行五法技解併ニ奥書」




*【武公伝】
《寛永十八年[辛巳]二月忠利公ノ命ニ依テ、始テ兵法ノ書三十九箇条ヲ録シテ、献之》
《正保二年[乙酉]五月十二日、五輪書ヲ寺尾孫之亟勝信[後剃髪、夢世云]ニ相傳在。三十九ケ条ノ書ヲ寺尾求馬信行ニ相傳ナリ。同日ニ自誓ノ書ヲ筆ス》
 諸本校異の問題で、指摘すべきところがある。それは、たとえば、筑前系諸本に、
《右、一流の兵法の道、朝な/\夕な/\勤おこなふに依て》
とあるところ、肥後系諸本の中にはこれと同じ文言を記すものもあるが、他方、誤写による異変を記すものがある。
 つまり、《夕な》とすべきところを、楠家本や富永家本のように《暮な》としたり、《朝な/\夕な/\》とあるべきところを、丸岡家本のように《朝々暮々》とする。これは何れも、諸本の系統における後発的な誤写である。
 これに対し、筑前系/肥後系を横断して共通する文言は、《朝な/\夕な/\》であるから、これが正しい語句である。
 さて、この部分、実は問題はそうした校異にとどまらない。諸本校異というよりも、もっと根本的な問題がある。つまり、文脈上異変と思えるところがあることに注意したい。改めて、この書き出し部分を示せば、
《右、一流の兵法の道、朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて、多分一分の兵法として、世に傳る所、始て書顕す事、地水火風空、是五巻也》
とあるのだが、《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》と、その後の文章が連続しない。そのあたりに異変があると見える。
 ところが、これは字句の相違はあっても、筑前系/肥後系を横断して諸本に共通するところなので、これは寺尾孫之丞段階に帰すべき文言である。諸本校異というレベルの問題ではない。
 五輪書五巻のうち、この地之巻全般について云えることだが、他の諸巻と比較して、地之巻は草稿状態の文章が多々ある。おそらく、水・火・風の三巻は先にほぼ仕上がっていたが、地之巻はまだ現在進行中の原稿である。
 このケースも同様で、まず気づくのは、《…おのづから廣き心になつて》と文章が来て、それ以下が続かない。ここに断絶があり、脱文がありそうだとも見えるが、よく見ればそうでもないようである。したがって、ここは、
《右、一流の兵法の道、多分一分の兵法として、世に傳る所、始て書顕す事、地水火風空、是五巻也》
とあった方が、不具合がない。つまり、《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》という文が、浮いている。異質で余計なのである。
 寺尾孫之丞が編集するとき、おそらく武蔵の原稿の行間にあった、この《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》という書きさしの文を、忠実にここへ書き流したのだろうが、そのために、文章が混乱してしまったのである。
 ただし、これを見るに、寺尾には罪はなく、むしろ師の遺文をいささかなりとも落さない、という編集方針であったらしい。それゆえ、他の箇処に見るように、書きさしの断簡もそのまま収録している。ここも同様であり、行間書き込みとはいえ、それをその位置に忠実に保全したのである。それがたとえ文章の混乱を帰結するにしても、余計な操作はしない、ということであったらしい。
 この寺尾孫之丞の無作為によって生じた文章の異変については、もうひとつ、重要な事が知れる。それはすなわち、寺尾は草稿五輪書を武蔵から遺贈されたが、寺尾はたぶん、それまでこの草稿を見たことがなかった。武蔵が死んではじめて、師の遺稿に接したのである。
 寺尾が五輪書の内容をすべて理解していたとは思えない、そういう箇処が他にもある。理解していないため生じたとみえる明らかな誤記もある。
 ここはそうした誤記ではないが、武蔵草稿の行間文を、その位置で本文に入れ流したとなれば、この問題の文の本来の位置を知らなかったのである。それというのも、寺尾孫之丞は、武蔵が死んではじめて、師の遺稿に接したからである。
 截紙であれ折紙であれ、紙幅がなくて書き余った文を、前の文の行間に書き流すことがある。この《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》という部分もそのケースであったとすれば、後の文の余りがここへ書き込まれたのである。
 では、この文、《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》は、どこから紛れ込んだのか。これについては、もはや確かなことは言えない。繰り返して言えば、これは未完成原稿なのである。言い換えれば、決して実現されたことのない未完成の文章である。
 ゆえに復元には制約がある。そのことを承知のうえで、場所の定まらぬこの問題の文言の本来の位置を、本条の文章内で探せば、おそらくは、後に出てくる《此法を学び得ては、一身にして、二十三十の敵にもまくべき道にあらず》の前にあるべきところであろう。
 そこで、我々の措置としては、《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》という部分を、ここでは括弧に入れておくことにした。そしてこの文は、後の部分に再現することになる。それは後の当該箇処で改めて検証されるであろう。   Go Back

*【吉田家本】
《朝な/\夕な/\勤おこなふ》
*【中山文庫本】
《朝な/\夕な/\勤おこなふ》
*【立花隨翁本】
《朝な/\夕な/\勤をこなふ》
*【渡辺家本】
《朝な/\夕な/\勤おこなふ》
*【石井家本】
《朝な/\夕な/\勤おこなふ》
*【楠家本】
《朝な/\な/\つとめおこなふ》
*【細川家本】
《朝な/\夕な/\勤おこなふ》
*【丸岡家本】
朝々暮々勉行ふ》
*【富永家本】
《朝な/\な/\勤行ふ》
*【狩野文庫本】
《朝な/\夕な/\勤行》




吉田家本 当該箇処
 
 (2)道をおこなふ法あり
 ここに提示された九ケ条は、五輪書解説本において必ず引用されるもので、定式化された規則ということで、さしづめ「武蔵コード」である。
 だいたい、このようなことを心にかけて、兵法の道を鍛練すべきである、という。兵法鍛練のうえでの心がけであるが、この武蔵コードが、他の兵法書の規則と異なる点は言うに及ばない。
 第一テーゼはごく基本なことである。《よこしまになき事をおもふ》とは、心をまっすぐにすることである。本条中に《此道にかぎつて、直なる所を、廣く見立ざれば、兵法の達者とはなりがたし》とある文に対応する。あるいは、空之巻に《たゞしくあきらかに、大き成所を思ひとつて》とあるところに相応する。
 ただし、《よこしまになき事をおもふ》とは、当時の人々であればこれを見て、即座に『論語』(爲政篇)の、《子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪》を連想したことであろう。
 つまり、「子曰く、詩三百、一言以てこれを蔽へば、曰く、邪しまに無きを思ふと」とあるところだが、ようするに孔子は、四書五経の一つ『詩経』の約三百篇ある詩について、それを一言でカヴァーしていえば、《思無邪》、邪しまに無きを思ふ(Think no evil)ということだと述べた――というわけである。
 これは幼少から素読の習いがあった武家の子なら、だれしも知っている文言だから、武蔵は「よこしまになき事をおもふ」と、ここに書き付けたのである。武蔵は本書自序に、《今此書を作るといへども、佛法儒道の古語をもからず》と書いてはいるが、少年の知識レベルに寄り添うように、『論語』の有名な文言を引き合いに出して、懇切な教え方を示している。五輪書読みは、そんな武蔵のスタンスを看過してはなるまい。
 第二テーゼは、《道の鍛錬する所》である。兵法の道を鍛錬することである。「鍛錬」には刀鎗など金属武器を鍛えて製造するイメージがある。いわば武器としての戦闘身体を獲得するために、兵法の道を鍛錬するのである。
 ここで、武蔵は《道の鍛錬》を述べているが、いわゆる「精神鍛錬」なるものを語っているのではないことに注意、である。メンタルな方面は、前条の《よこしまになき事をおもふ》につきる。直なる所を広く見立てること、正しくあきらかに大きなる所を思ひとる、ということである。
 以上の第一、第二テーゼはごく根本的な事柄である。これに対し、以下の条々は武蔵的なスタンスを示している。すなわち、第三、(一芸だけではなく)諸芸に触れる、第四、諸職の道を知る、というあたりは、武芸は剣術だけに限定してはいけないという指示や、前にみたごとく士農工商四職のなかでも、大工の道をもって武士の道を語るといった武蔵の教説に対応している。
 つまり武蔵は、専門化や専業化といった収斂・収束傾向を嫌うのである。何でもそうだが、一所懸命の専一の美徳が信じられているところが現代にもある。しかし武蔵は、虚空を飛ぶ鳥のように、多領域を自由に横断する、いわば――その昔、ドゥルーズとガタリがその著作で示した意味での――ノマディックな存在である。これは、一生仕官せず帰属先をもたない。その生涯についても言えるし、また多芸に渉るその活動にも示されている。
 それゆえ、この武蔵コードにおいて、第六に諸事目利をしおぼゆる事、第七に目にみヘぬ所をさとつて知る事、第八にわづかなる事にも気を付る事、ということにしても、一見平凡なテーゼであるようでいて、これが兵法書とは思えない指示である点からすれば、いかにも異例なものが立ち騒いでいるとみえるのである。
 そうしてとりわけ、第五の、物毎の損徳をわきまゆる事、第九、役に立ぬ事をせざる事、というあたりになると、まったく兵法書らしからぬ綱領の振舞いであり、一体これは何だという驚きを誘発するであろう。
 武蔵はいう、《大かた、かくのごとくの利を心にかけて、兵法の道鍛練すべき也》と。ここでも武蔵は「利」である。「理」というのではなく「利」である。結局、高邁高上な精神とは逆に、極めて低きにつく、プラグマティックな武蔵のポジションを示しておもしろいのであるが、それも、ある意味で戦国の時代の諸領域横断的な、あるいは脱領域的なノマディックな存在の、最後の生き残りが武蔵だったという証左であるかもしれない。
 武蔵は《我兵法を学んと思ふ人ハ、道をおこなふ法あり》と述べて、以上のようにして、武蔵は兵法の道へみちびく。漢語の「道」は、動詞なら「みちびく」である。「我兵法」という以上、それは武蔵流だが、これら条々をみるに、武蔵は決して狭いことを考えていない。普遍的な兵法の道を学ばしめること、それが武蔵の企図するところであった。
 なおまた、以上に関連して言えば、武蔵の規則にはもう一つ別のものがある。いわゆる「独行道」である。ただし、こちらは、『武公伝』に「自誓の書」とあって、自戒条々のかたちであるから、性格の異なるものである。門人への教訓ではない。しかも、二十一ヶ条だったり十九ヶ条だったりして、何ぶん武蔵自身が書いたという証拠がない文書なので、言及するまでもあるまい。
 これとは別に、ここで初公開となるが、最近越後で数本発掘した「先師遺教拾箇条」がある。つまり、先師武蔵の遺した教訓ということで、十ヶ条である。こちらは、十八世紀後期に筑前から越後へ伝播した道統のものである。
 五輪書の武蔵テーゼと比較すれば、一部重なる条々もあるが、他は、道徳臭の強い条項で、少年たちへの教訓のようである。入門と同時に、教訓として与えたものである。先師遺教という伝えだが、むろん五輪書の記述に照らして、かなり変形を蒙っている。丹羽信英の段階ですでにこうなっていたかどうか、それは確かではないが、後世のその変容ぶりもまた興味深い。参考までに両者対照表を以下に示しておく。











「思無邪」扁額

*【思無邪ついて】
今日通例、《思無邪》は「思い邪しま無し」と訓んでいる。それに対し、「よこしまになき事をおもふ」と武蔵が記すところをみると、当時は「思い邪しま無し」ではなく、「邪しまになき事を思う」と訓んでいたと知れる。これは現在の『論語』英訳に見られる「Think no evil」と共通する。中国語は英語と文法が似ているから語順が同じである。
 『論語』のいう《思無邪》は、本来『詩経』魯頌・駉(けい)篇の文辞である。ただし一般の註解によれば、『詩経』は「思」を助詞に用いており、「思(ここ)に邪しま無し」「思(これ)邪しま無し」と訓む。しかも『詩経』の当該詩文は、馬の賛美表現であって、『論語』に語る意味とは相違がある。いわゆる「断章取義」であって、抽出した文言を原文脈から切り離して用いたものである。










蘆雁図
蘆雁図





















先師遺教拾箇条
五輪書 九箇条 先師遺教拾箇条
 
 第一 よこしまになき事をおもふ所
 第二 道の鍛錬する所
 第三 諸藝にさはる所
 第四 諸職の道を知る事
 第五 物毎の損徳をわきまゆる事
 第六 諸事目利をしおぼゆる事
 第七 目にみヘぬ所をさとつて知る事
 第八 わずかなる事にも気を付る事
 第九 役に立ぬ事をせざる事
 
 一 起居動静、兵法を忘ざる事
 一 忠孝の道に心をつくす事
 一 用にたゝぬ事をせざる事
 一 物ごとの損得を知る事
 一 萬事人にほこらぬ事
 一 死道をわきまへ、不義におちいらぬ事
 一 志をいやしくせず、操をたがへざる事
 一 身を謹、善悪二つの道をゑらび、悪道に組せざる事
 一 天地の恩、父母の恩、師の恩忘れざる事
 一 善友を親ミ、悪友にまじハざる事
 
――――――――――――

 ここで、校異の問題にふれておく。それは、筑前系諸本に、
《大かた、かくのごとくの利を心にかけて、兵法の道鍛錬すべき也》
とあって、《かくのごとくの利》とするところ、肥後系諸本には、これを、《如此理》や《如此の理》と記す。
 つまり、その特徴的差異は、ひとつには「かくのごとく」を《如此》等と漢字表記にすること、二つには、「利」字を「理」字に作ること、三つには、肥後系諸本の間で「の」字の有無の相違があることである。
 肥後系において《如此》等と漢字表記にすること、「利」字を「理」字に作ること、この二つは諸本共通するところであるから、これは肥後系早期に発生した表記変更であろう。
 これについて言えば、筑前系では諸本共通して、《かくのごとくの利》とするので、これが初期形態である。したがって、《如此》等と漢字表記にすること、「利」字を「理」字に作ること、これらは何れも後に肥後で発生した変異である。
 しかも、《如此理》と《如此の理》というように、肥後系において「の」字の有無がある。これは、筑前系諸本と照合すれば、《如此の理》の方が古く、「の」字のない《如此理》という形の方が後発のかたち、ということになろう。こちらは、「かくのごとき理」という読みになるのだが、《如此》等と漢字表記にしたため、その読みによって「の」字が脱落したのである。
 そうしてみると、丸岡家本と富永家本は早期の型を残し、共通して「の」字を闕くという近縁性を示す楠家本と細川家本は、系統派生後の後発的脱字を有するのである。言い換えれば、これに関するかぎり、楠家本と細川家本は、ともに後発的写本なのである。
 ところで、問題は、肥後系において、「利」字を「理」字に作ることである。これは、文脈からして、ここは漢字「利」では不都合だと見て、それを「理」字に訂正したものである。
 ただし前にも述べたことであるが、この「利」字は漢字とは限らない。仮名「り」(利)字のケースがある。肥後系の訂正者は、それを漢字を見て、「理」字に訂正した。こういう訂正を勝手になしうるというのも、書写が門外流出後のことだからである。
 筑前系では、「利」字をそのまま伝えた。それは門流内で五輪書が相伝のツールだったから、古型をそのまま伝承したということである。
 ちなみに付け加えて言えば、五輪書において、この「利」字は頻出多用文字の一つであるが、その運用によって、語意には強い意味と弱い意味がある。強い意味の場合には、文字通りの「利」である。やや弱くなれば、「戦い方」というほどの意、弱い意味の場合には、ほとんど「利」の意味が消えて「事」と訳した方がよいところである。
 これと類似の語句は「心」である。これも強い意味の場合には、文字通りの「心」である。弱い意味の場合には、「心」の意味が消えて「意味」と訳した方がよいこともあれば、さらに意味が弱くなれば「事」と訳した方がよいこともある。
 いまの《大かた、かくのごとくのを心にかけて》のケースでは、「利」はその弱い意味である。このようなことを心にかけて、という文意である。
 したがって、肥後系諸本が訂正したように、「理」字に書いてしまうと、本来の意味が逸れることになる。「理」と書いて、「ことわり」と読ませたいところ、しかし本来ここは、「り」(利)という仮名だったのである。   Go Back



*【吉田家本】
《大かた、かくのごとくの利を心にかけて》
*【中山文庫本】
《大かた、かくのごとくの利を心にかけて》
*【立花隨翁本】
《大かた、かくのごとくの利を心にかけて》
*【渡辺家本】
《大かた、かくのごとくの利を心にかけて》
*【石井家本】
《大かた、かくのごとくの利を心にかけて》
*【楠家本】
《大かた、如此を心にかけて》
*【細川家本】
《大形、如此を心にかけて》
*【丸岡家本】
《大形、如此の理を心にかけて》
*【富永家本】
《大形、如是の理を心に懸て》
*【狩野文庫本】
《大形、如斯を心に掛て》



富永家本 「如是の理」
 
 (3)一身にして、二十三十の敵にもまくべき道にあらず
 まず、武蔵は言う。――この道に限って、真っ直ぐなところを広く見立てることがなければ、兵法の達者とはなりがたい、と。この道に限って、ということは、とくに兵法の道においては、という意味である。
 真っ直ぐなところを広く見立てる。――これは武蔵的なパラドクシカルな表現である。真っ直ぐに見ようとするに、ついつい狭く一途一道に見立ててしまう。そうでなく、広く見立てること、真理は一本ではない。あるいは、リニアな線状のものではなく、幅のある平面(plane)である。こういう武蔵的な物の見方、真理次元のありように注意されたし。
 そこで、前に留保した問題の文のことである。つまり、本条冒頭近くに、《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》という、納まりの悪い文言があった。それを捨てずに、どこか相当の場所を探すとすれば、どこであろうか。もしかりに、それを、ここへ持ってきては、いかがであろうか。
 かくして、復元文章の案文は、
《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて、此法を学び得ては、一身にして、二十三十の敵にもまくべき道にあらず》
 つまり、前の文から展開すれば、――とくにこの道〔兵法の道〕においては、真っ直ぐなところを広く見立てることがなければ、兵法の達者とはなりがたい。朝に夕に修行することによって、おのづから広い心になって、この法、つまり、真っ直ぐなところを広く見立てることを会得できれば、たった一人でも、二十人、三十人の敵にも負けるものではない。
 このように、「真っ直ぐなところを広く見立てる」、「おのづから広い心になって」、という具合の連絡をつけたのである。さしあたりは、こうしておくが、それはそもそも、草稿の一言半句も捨てないという寺尾孫之丞の無作為の作為から、保存された文言である。それを我々も捨てずに、その本来の場所に戻してみるということを試みたわけである。

 こうした手続きを経て、こんどは文の内容に立ち入ってみる。
 すでに述べたように、五輪書は格別な超上級者向けの奥義書ではなく、まったくの初心者を相手の兵法教本である。それは、この部分にも表れている。
 我は兵法の道を学ばん――という気を起した者に、武蔵のようになりたい、武蔵のようになれると思う心を起こさせ、研鑚努力させること、それを狙って書かれているのがこの部分である。
 ここはまさに、「勝つ」「負けない」の大行列である。アジテーターとしての武蔵の面目である。要するに、
《此法を学び得ては、一身にして、二十三十の敵にもまくべき道にあらず》
なのである。真っ直ぐなところを広く見立てるという武蔵流を会得できたら、一人で二十人や三十人を相手にしても負けることはありえないと言うのである。
 まさにこれが武蔵の惹句である。しかもこれが本書のなかで再三反復されるものであったとすれば、こんなあざとい誘惑もまた、カリスマとしての武蔵流なのである。
 たしかに、一人で二十人や三十人を倒すのは、歴史に名が残るほど稀なことである。まず現実にはありえないことである。武蔵のように天才的な資質と体力を有する者ならば可能性の条件があるが、そんな者は他には存在するわけがない。武蔵は若い頃、京都で吉岡一門を相手にこれをやった、という伝説を背景に、この言葉が語られているのである。
 これは譬えていえば、自動車メーカーがF1レースカーのイメージで、それとは似ても似つかない平凡な車を売るのに似ている。しかしユーザーは錯覚に陥って買うのではない。怪物的なF1カーと凡庸な市販車の違うことを十分知っているが、それでもF1カーとのイメージ連合には抵抗しない。そういう知識とイメージとは違うからだ。
 武蔵がここで演じている煽動も、それと似たものである。「勝つ」「負けない」とカリスマ的モデル自身が繰り返し語ることによって、初心者を「その気」にさせるのである。
 おそらく、一人で二十人や三十人を相手にしても負けない、という非現実的な奇蹟的イメージほど人を鼓舞する力がある。だれも自分が怪物武蔵のようになれるとは決して思わない。しかしそのイメージには抵抗できない。武蔵のように強くなりたいと思う心を起こさせる。まさに語の正しい意味での誘惑(seduction)である。
《先、氣に兵法をたへさず、直なる道を勤てハ、手にてうち勝、目にみる事も人に勝、又、鍛練を以て、惣躰自由なれば、身にても人に勝、又、此道になれたる心なれば、心を以ても人に勝。此所に至ては、いかにとして、人に負る道あらんや》
 むろん、この「勝つ」という語が、現代語訳すれば「まさる」というほどの意味であることは、言うまでもない。優劣を競うに、他者にまさること、である。しかし武蔵は「勝つ」に独特な意味合いを仕込んでいるから、我々の語訳では「勝つ」という語をそのまま使うわけである。
 武士は、何よりも、戦闘の職人、殺人の技術者である。ただし、死ぬために戦うのではない。勝つために戦うのである。この点、武蔵ほど明確に規定した者はいない。
 手で勝ち、目に見ることでも勝つ。身でも勝ち、心でも勝つ。この――手、目、身、心という――諸器官(organs)の具体的カテゴリーの亢進。武蔵において、身体はむろんのこと、心でさえも、戦闘の道具なのである。
 ここでの、「勝つ」「負けない」という語の反復が、無意識的なものの次元で作用する。もっと言えば、無意識的なものの平面に記入され書き込まれる。そういう意味で五輪書は、兵法教本として、まさに「直道」としての正しい道を進むのである。
 そして事実、その効果は、我々のこの現代にまで及んでいて、いまここでこの註解を読んでいる諸君も、たしかに五輪書にすでに誘惑されてしまっていて、さらに次の巻を繙いてみたいという衝動を抑えることはできないはずである。そうではないかね?   Go Back







*【寺尾孫之丞写本】
《右、一流の兵法の道、朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて、多分一分の兵法として、世に傳る所、始て書顕す事、地水火風空、是五巻也。我兵法を学んと思ふ人は、道をおこなふ法有り。
   (中  略)
大かた、かくのごとくの利を心にかけて、兵法の道鍛練すべきなり。此道にかぎつて、直なる所を、廣く見立ざれば、兵法の達者とはなりがたし。此法を学び得ては、一身にして、二十三十の敵にもまくべき道にあらず》

*【復元後当該文章】
《右、一流の兵法の道、多分一分の兵法として、世に傳る所、始て書顕す事、地水火風空、是五巻也。我兵法を学んと思ふ人は、道をおこなふ法有り。
   (中  略)
大かた、かくのごとくの利を心にかけて、兵法の道鍛練すべきなり。此道にかぎつて、直なる所を、廣く見立ざれば、兵法の達者とはなりがたし。朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて、此法を学び得ては、一身にして、二十三十の敵にもまくべき道にあらず》

















F1 Honda Racing 2002


 
 (4)身をたすけ名をたすくる所、是兵法の道也
 直前に語られていたのは、――手で勝ち、目に見ることでも勝つ。身でも勝ち、心でも勝つ――という一分の兵法において勝つことである。同様のロジックで、
《又、大なる兵法にしてハ、善人をもつ事に勝、人数をつかふ事に勝、身をたゞしくおこなふ道に勝、国をおさむる事に勝、民をやしなふ事に勝、世のれいほう(例法)をおこなふに勝》
というわけで、大分の兵法〔合戦〕においても、善人〔勝れた人材〕をもつことでも勝ち、人数〔兵員軍勢〕を指揮することにも勝つ。――このばあい、「善人」とは、善人・悪人の善人ではなく、「よき人」ということで、「能き人」の当て字である。つまり、戦場において役に立つ勝れた人材、有能な人物というほどの意味である。
 と、ここまではよいが、さらに別の局面へ、この「勝つ」は越境し氾濫する。
 身を正しく行うとは修身のこと、その自身一個の行いの道にも勝ち、国を治める事、政治行政においても勝ち、民を養う経済においても勝ち、そして世の例法、法律の施行においても勝つ。
 かくして、この「勝つ」のオン・パレードは、修身、政治、経済、法律にまで波及するのである。というのも、武蔵において兵法とは、武士の道であって、狭義の軍事のみならず、人々を組織し、政治、経済、法律をもカヴァーするものであるからだ。兵法なくして、武士は成り立たないのである。
 それゆえ、ここでの結語として、語られるのは、
《何れの道におゐても、人にまけざる所をしりて、身をたすけ、名をたすくる所、是兵法の道也》
ということである。
 前に、武士は死ぬ覚悟があるかどうかで決まるのではない、人に勝つということが武士の職務だという話があった。これは後世のいわゆる「武士道」の精神とはまったく違ったものであることが注意されなければならない。
 しかもここで《身を助け名を助くる》というところ、まさしく「忠君」ではなく、我が身を助け我が名を助けるのである。この自助たるべき「利己」のポジションは、少なくとも元和偃武以前の武士の姿である。まだ武士が本来の戦闘者でありえた時代の精神である。
 おそらく、武家の世界ほど競争競合の激しい世界はなかった。それは「自治体」に他ならぬ領主としての武家の本質から来る。政治学でいう封建制とは、大名から名主のレベルにいたるまで、その自治(autonomy)の安堵される状態、秩序の固定した状態にすぎない。したがって、それはすでに「人に勝つ」という行動倫理とは別のものである。
 我々が武蔵の思想的なポジションを見定める時、重要なことは、この「武士」なるものが、まだ野生の集団であって、封建制秩序確立以前の存在だということである。それが近世初頭の武士のエトスであるとともに、その後の封建的な武士のそれとの決定的な相異である。
 統治とは、暴力の抑圧と同時にその昇華された様態にほかならない。関ヶ原以後なお形式上は主君であった豊臣家を大坂城に攻めて滅ぼした時、家康は、まさに「人に勝つ」、いわゆる下克上を実演した。しかしそれは、下克上を終結させる最後の下克上(the final supplanting)であった。つまりそれは、最後の人食いを演じた人食い種族の喩えに等しい。近世封建制はまさに最も反封建的な行為によって創出されたのである。
 これとともに開始された偃武の時代、もはや「人に勝つ」ことは秩序を撹乱する行為を意味するものとなった。このとき、多くの武芸者・兵法者の類が「人に勝つ」ことを演じたのが、剣術の隆盛に他ならない。
 武蔵は二十代までの六十余度の決闘に無敗という記録をもって、生前すでに、まさにそうした剣術の時代の伝説的なモデルになってしまった。しかるに、五輪書を見るかぎりにおいて、兵法教本を書きながら、同時にその剣術の時代を否定しているのである。かくして、
《何れの道におゐても、人にまけざる所をしりて、身をたすけ、名をたすくる所、是兵法の道也》
という一文は、誤解なきように読むべきである。武蔵がこの後書で「勝つ」「負けない」という語を呪文の行列のように並べ立てているのは、他でもない、武蔵的な意味での自律的な武士的存在が死滅していくという状況への批判に他ならない。まさに、こうした思想状況を背景にして、五輪書というテクストは読まれなければならないのである。
 それというのも、前に武蔵は、武士の道は「死ぬ」ことではなく「勝つ」ことにある、と明言していたのだった。これは戦国の武士の行動原理である。武士が実戦の戦闘から離れてしまう泰平の時代になってはじめて、「死ぬ」ことが過剰な美学的価値をもつようになったのである。
 武蔵の世代では、「人に勝つ」ことが武士の行動原理である。これは秩序内に回収されない自立的個人としての武士の生き方からくる。武という暴力、戦闘者としての実力だけが、どんな権威にも屈しない個としての自律独立を支えるのである。
 したがって、内戦が終焉し偃武泰平の世になって、なおも「人に勝つ」ことを主張するとは、まったく反時代的で壊乱的な言説であった。
 武士たちは、すでに、「勝つ」というよりも「後れをとらない」といった消極的な行動を重んじはじめていた。個としての突出した功業よりも、集団的な秩序志向が完成しつつあった。
 そこから「勝つ」という武士の行動原理の貶価が生じるのも当然であって、剣術においても、たとえば柳生宗矩の、
《かたんと一筋におもふも病也。兵法つかはむと一筋におもふも病也》(兵法家伝書)
といった言説が、世間に受け入れられる土壌が出来上がっていた。言い換えれば、戦闘術が「兵法」というよりも「心法」になってしまうところ、本来暴力的存在である武士における、そのような剣の精神化が始まったとき、武蔵はあえて――きわめて下品にも――「人に勝つ」ことを、武士の規範として定式化するのである。
 この「人に勝つ」というテーゼは、前述の通り、戦国の気風の保守であり、同時に偃武以後の秩序世界の中では、まさしく壊乱的な振るまいに他ならない。
 要するに、以上のことを念頭において、この一節は読まれなければならない。しかも、そのような了解を前提にしてはじめて、この五巻の書を読む意味があるというわけである。

 しかしながら、このあたり、既成現代語訳を見るに、戦前戦後を通じて、いかにも馬鹿げた状況が展開していることが知れる。
 戦前の石田訳は、《善人を持つ》を「立派な人物を家来を持つ」と誤訳した。「善人」というのは、軍事においては、役に立つ有能な人材、というほどの意味で、「立派な人物」というような道徳的意味合いはない。また、《人数をつかふ》の訳にしても、これを現代語の「人数」の意味に錯覚してか、「多人数」と誤訳している。五輪書にある《人数》とは、兵員軍勢の意である。古語の素養が足りないこうした石田の誤訳が、戦後においても無反省に流用されるのである。
 ただしそれ以外は、石田訳は原文をきちんとトレースして、しかも「勝ち」という語を隠していない。ところが、戦後になると、神子訳以来、意訳というよりも「超訳」で臨むようになった。というのも、あまりにも武蔵が、露骨にも「勝ち」を連発するのに辟易して、その「勝ち」という肝腎なキーワードを隠蔽するのである。
 右掲にみる如く、この隠蔽路線は神子訳にはじまった。つまり、――すぐれた人と結びつくことに成功し、多くの部下をたくみに使い、わが身を正しく持し、国を治め、民を養い、天下の秩序を保つことができる――。石田訳と比較すれば、歴然としているが、まさしく武蔵の「勝ち」というキーワードは跡形もなく抹消されている。
 その後現れた岩波版注記では、《善人を持つ事》について、戦前の石田訳の誤訳を継承して、「立派な人物を部下に持つこと」と誤釈した以外は、この箇処についてノーコメント、注釈を回避している。
 以後の大河内訳は、ほとんど神子訳のパクリで、しかも岩波版注記の語釈を流用したにとどまる。また、鎌田訳も、大河内訳と同じく、神子訳のパクリと岩波版注記を反復する以外、何の新味もない。
 このように、戦後の現代語訳は、原文の露骨な「勝ち」の連発にたじろいで、それをひたすら隠蔽する傾向にある。これは戦後の五輪書読みが、戦前よりも逆に秩序志向的になって、武蔵の壊乱的な言説を抑圧しにかかったもののようである。
 これはたんなる誤訳なのではない。こうした戦後の現代語訳の一貫した特徴は、いわば「戦後精神」の貧困を反映している。そして、そのようにして、戦後、事実上、五輪書は読めなくなったのである。
 それに対して、我々のここでの五輪書読解は、そうした戦後発生した偏向と悪弊を矯正するために、あえて武蔵の言説が内包するものを強調してみたのである。言い換えれば、それは、武蔵の五輪書を「読める」ようにするということである。そのための第一条件は、むろん、武蔵が露骨にも連発する「勝つ」というキーワードを、抑圧と隠蔽から解放することである。

――――――――――――








出光美術館蔵
大坂夏の陣図屏風







日光東照宮蔵
徳川家康























*【兵法家伝書】
《かたんと一筋におもふも病也。兵法つかはむと一筋におもふも病也。習のたけを出さんと一筋におもふも病、かからんと一筋におもふも病也。またんとばかりおもふも病也。病をさらんと一筋に、おもひかたまりたるも病也。何事も心の一すぢに、とどまりたるを病とする也。此様々の病、皆心にあるなれば、此等の病をさつて心を調る事也》













*【現代語訳事例】
《大なる兵法においては、立派な人物を家来を持つ點で勝ち、多人數を使ひこなす點で勝ち、身を正しくする點で勝ち、よく國を治める點で勝ち、よく民を養ふ點で勝ち、世の法律をよく行う點で勝ち》(石田外茂一訳)
広義の兵法としては、すぐれた人と結びつくことに成功し、多くの部下をたくみに使い、わが身を正しく持し、国を治め、民を養い、天下の秩序を保つことができる》(神子侃訳)
広義の兵法としては、立派な人物を部下に持ち、その多くの部下を上手に使い、わが身を正しくし、国を治め、民を養い、天下の秩序を保つことである》(大河内昭爾訳)
集団の兵法としては、立派な人物を部下にもつことに成功し、多くの部下を上手に使い、わが身を正し、国を立派に治め、民をよく養い、世の秩序を保つことができる》(鎌田茂雄訳)

 ここで、校異の問題をいくつか取り上げたい。それは、ひとつには仮名・漢字の表記の問題である。
 右のように、肥後系は多くが《例法》と漢字表記をしているが、対するに筑前系は、共通して《れいほう》と仮名で記している。
 これは筑前系/肥後系を截然と区分する相異である。おそらく、これは寺尾孫之丞の前期/後期の書字変化とみなすべきところである。つまり寺尾は、柴任美矩に伝授した前期には、オリジナルそのままの仮名書きにしていたが、寛文あたりの後期になって、漢字で書いたということである。古型は、《れいほう》と仮名書きする方であったのである。
 しかるに、同じ肥後系でも、楠家本と細川家本は、他が《勝》と漢字で書いて共通するところを、《かち》と仮名書きしている。これは、筑前系諸本と同様に、肥後系も早期には《勝》と漢字で書いていたが、楠家本・細川家本両本共通の先祖の写本の段階で、《勝》を《かち》と書き換えたようである。この仮名書き《かち》は、楠家本と細川家本の近縁性を示すものであり、同時にその祖本が後発的写本であったという指標である。
 またこの箇処で、校異に関して、もう少し複雑な問題がある。それは、筑前系/肥後系を通じて、多くの写本が、
《国をおさむる事に勝、民をやしなふ事に勝、世のれいほう(例法)をおこなひ勝》
とするところ、つまり、「おこなひ勝ち」とするところであるが、これはかねがね不審を抱く箇処であった。というのも、国を治める事に勝ち、民を養う事に勝ち、と来て、次に「世の例法を行い勝ち」では、文章が整わぬからである。
 しかるに、これは筑前系では吉田家本・中山文庫本も《おこなひ勝》であるし、肥後系の諸本もおおむね同じである。
 我々の従来の知見の範囲では、肥後系の富永家本、円明流系統と思われる稼堂文庫本、そして丸岡家本と同系統の山岡鉄舟本に、《行ニ勝》《行に勝》とあって、「おこなふに勝」する例があった。しかしこれらはいづれも後期写本だから、後世の弥縫かと思われた。
 とすれば、この《おこなひ勝》は筑前系/肥後系に共通だから、寺尾孫之丞段階での誤記と見るべきところである。しかし、それにしても、余りにも明白な誤記なので、腑に落ちないということには変りがなかった。
 ところが、筑前系の異系統、立花峯均系の越後諸本と遭遇するに至り、その渡辺家本・石井家本・伊藤家本等に《おこなふに勝》の語句を見つけることになった。さらにその後、立花増寿が丹羽信英へ伝授した地之巻を発掘して、《をこなふに勝》とあるのを確認できた。そうすると、筑前系にも「おこなふに勝」とする例があったということになる。そこで、我々の所見を改める必要が出てきたのである。
 つまり、諸本に《おこなひ勝》とするところ、それは「行勝」とあったのを、「行勝」と誤読した結果の産物ではないか、ということである。「に」(仁)字を「ひ」(比)字と読み違えたのではないか、という見当である。
 この線で行けば、同じ筑前系でも、早川系の《おこなひ勝》は誤りで、立花=越後系諸本の《おこなふに勝》が正しいということになる。すると、肥後系の富永家本等は、後期写本とはいえ、早期に派生した系統の子孫だから、その《行ニ勝》は、肥後系早期写本にそうあった痕跡である。
 というわけで、筑前系/肥後系を横断して共通する語句が、二通りあるわけだが、ここでは原型の復元という趣旨から、文意の通じる方を優先して、《行(おこなふ)に勝》とする語例を、我々のテクストでは採っている。
 ただし、もう一つ言えば、武蔵のオリジナルが、その《行(おこなふ)に勝》であったかとなると、そうとは見えない。というのも、このあたり、文は直前に、
《善人をもつに勝、人数をつかふに勝、身をたゞしくおこなふに勝、國をおさむるに勝、民をやしなふに勝…》
と続いたのだから、ここは、《おこなふに勝》ではなく、《おこなふに勝》と、「事」字があったはずではないか、ということである。
 つまり、オリジナルは、《行事に勝》とあったのだが、その「事」字が、寺尾孫之丞の段階で「ふ」字と誤読されて、この文言が《行ふに勝》とされ、「事」字が脱落してしまった。その結果、寺尾の編集段階で、文言が《おこなふに勝》となった可能性がある。筑前系の立花=越後系諸本が伝えるのは、そのような古型であるが、武蔵のオリジナル、原型ではない。
 したがって、我々の復元テクストでは、さらにもう一歩を進めて、脱落したかもしれぬその「事」字を、( )に入れて示している。

*【吉田家本】
《世のれいほうをおこなひ勝》
*【中山文庫本】
《世のれいほうをおこなひ勝》
*【立花隨翁本】
《世(の)れいほうををこなふに勝》
*【渡辺家本】
《世のれいほうをおこなふに勝》
*【石井家本】
《世のれいほうをおこなふに勝》
*【伊藤家本】
《世のれいほうをおこなふに勝》
*【楠家本】
《世の例法をおこなひかち》
*【細川家本】
《世の例法をおこなひかち》
*【丸岡家本】
《世の禮法を行ひ勝》
*【富永家本】
《世の例法を行ニ勝》
*【稼堂文庫本】
《世の例法を行に勝》
*【山岡鉄舟本】
《世ノ例法ヲ行ニ勝》


左:立花隨翁本 「をこなふに」
右:富永家本 「行ニ」

――――――――――――

 もう一つ、本書の体裁に関わる根本的な問題の検討を付け加えるならば、諸本には、この地之巻はじめ各巻末に、年月日と記名、宛名が記されていることである。もっとも一般的なのは、
 
    正保二年五月十二日   新免武藏守玄信 在判
          寺尾孫之丞殿
 
とするもので、この日に武蔵が記名して、寺尾孫之丞へ伝授したという体裁である。これは少なくとも寺尾孫之丞の段階まで溯りうる形式である。
 筑前立花系の伝書なら、これにとどまらず、寺尾孫之丞以下、代々の相伝年月日を列記して、伝系をあきらかにしている。下掲の例は、六代立花増寿が七代丹羽信英に伝授した地之巻の奥書である。武蔵にはじまり自身に至る系譜を明示している。それは筑前から伝わった越後の門流にしても同様で、以下、八代、九代、十代と幕末までその系譜を記している。


立花隨翁本 地之巻奥書伝系

 他方、肥後系の写本では、伝系記載があったとしても、せいぜい寺尾孫之丞の門人どまりである。現存写本の範囲では、肥後では、五輪書をきちんと伝える正統伝系がなかったとみえる。
 むしろ、肥後系写本奥書には、不備が多い。武蔵の名を正しく記さない、年月日を欠く、そのほか、寺尾孫之丞の宛名さえ欠くものがある。こうした問題点については、後に空之巻で関説する。ただし、地水火風の四巻について共通するところなので、下に、肥後系諸本の奥書を示して、若干述べておきたい。












*【立花隨翁本地之巻奥書】

      新免武藏守玄信 在判
正保二年五月十二日
      寺尾孫之丞信正 在判
承應二年十月二日
      柴任三左衛門重高 在判
万治三年五月朔日
     吉田太郎右衛門實連 在判
元禄八年十月十二日
      立花專太夫峯均 在判
         法名 廓巖翁
享保七年正月十七日

      立花彌兵衛
         法名 隨翁
           [朱印]
寶暦十一年九月十九日  増壽 [花押]

      丹羽五兵衛殿
【楠家本】

 (年月日なし)   新免武藏守玄信

 寛文八年五月日   寺尾夢世
          [花押印]

       槇嶋甚介殿
【細川家本】

正保二五月十二日    新免武藏

      寺尾孫丞殿

寛文七年
   二月五日    寺尾夢世勝延
           [花押]

      山本源介殿

【丸岡家本】

 正保二年五月     新免武藏
           玄信


    (宛名・伝系なし)

【富永家本】

正保二年五月十二日
        新免武藏守玄信
            在判


     (宛名・伝系なし)

【常武堂本】

正保二年五月十二日    新免武藏

      寺尾孫丞殿


寛文七年二月五日  寺尾夢世勝延

      山本源介殿

【狩野文庫本】

        新免武藏守玄信
正保二年五月十二日    在判

      寺尾孫亟殿
      古橋惣左衛門殿

 まず、楠家本を見るに、武蔵から寺尾孫之丞が本書を授かった「正保二年五月十二日」という年月日記載がない。これが第一の過瑕である。
 しかるに、寺尾孫之丞が槇嶋甚介へ相伝した年月日は「寛文八年五月日」と記している。つまり、「寛文八年五月」の何日か、それを記さない。相伝文書にあるまじきこの曖昧さは、寺尾孫之丞の仕業とも思えない。後世の仮託文書の徴候的特徴である。
 もとより、写しであることが明白なのに、「在判」とは書かず、寺尾の花押・印判まで描いている。これはやり過ぎという行為で、武蔵の曰く「あまりたるは足らざるにおなじ」という例である。
 次に、細川家本になると、伝授年月日は記載されている。ただしそれが、「正保二五月十二日」とあって、異例の文字がある。細川家本の地之巻以外の他の諸巻は、これを「年」と記す。また、同系統の常武堂本をみると、地之巻でもそれは「年」という文字であって、諸本と同じである。とすれば、これは細川家本作成者の恣意的な文字使用である。
 また、細川家本の武蔵の記名は、「新免武蔵」とのみあって、「玄信」という諱を欠落させている。それは同系統の常武堂本も同様。他の諸本には、諱「玄信」を記すから、これは常武堂本・細川家本の祖本の段階で生じた脱落変形である。
 あるいは、細川家本系統では、「寺尾孫丞殿」「山本源介殿」の二重の伝書の体裁である。これは武蔵から授かった本書を、寺尾が自身の奥書を付して、山本へ伝授した体裁を装ったものである。しかし、寺尾前期伝授のかたちを伝える筑前系写本には、そんな体裁のものは存在しないから、これは後世の作為である。
 また、楠家本のように印判まで写しはしないが、細川家本は、それでも寺尾の花押を模写している。それも、楠家本の花押とはおよそ似ていない。他方、同系統の常武堂本には、細川家本と同じく、「寺尾夢世勝延」という名を記すが、花押はない。常武堂本の祖本にはそんな花押はなかったのである。この花押は、祖本にはないのに、細川家本の作成者が創作したもののようである。これらの作為は、本物らしく見せようという所為で、これもやり過ぎて馬脚を顕したというところである。
 丸岡家本は、「正保二年五月」と記して、どういうわけか、「十二日」という日の記載をしていない。また、「新免武蔵/玄信」と諱まで記すが、そこにわざわざ「識」という文字を付加して、相伝書にあるまじき体裁をさらしている。しかも、肝心の「寺尾孫之丞」という宛名も伝系も記さない。
 富永家本は、「正保二年五月十二日/新免武藏守玄信/在判」と記して相伝書の形式であるが、寺尾孫之丞の宛名もしくは伝系を記さない。寺尾孫之丞の宛名を記さないのは、丸岡家本と同様であり、肥後系早期の写本には、寺尾孫之丞の宛名を記していなかったようである。
 最後の狩野文庫本は円明流系統の一本だが、年月日、武蔵の記名ともに記しているが、問題はその宛名である。なんとここには、寺尾孫之丞の名に並べて、古橋惣左衛門の名を記しているのである。これは、古橋系の何者かが作為的に付加したものであろう。それにしては、古橋系の伝系を記していないのも、相伝書ではありえない体裁である。

 以上を要するに、寺尾孫之丞が本書を発給した段階の体裁を基準にすれば、筑前系諸本はそれを保全しているが、肥後系諸本は、おおむね相伝文書としての体裁が崩れている。しかも、諸本それぞれ、崩れ方が異なるのである。それは門外へ流出した後の写本の子孫だからである。
 しかしそれは、いづれにしても後世のことであって、寺尾孫之丞以前、そもそも、武蔵のオリジナル草稿の各巻末に、年月日・記名・宛名があったか、――となると、それは恠しい。むしろ云えば、発行年月日・記名・宛名を記すこういう奥書の体裁は、オリジナルにはなかったと思われる。
 というのも、第一に、寺尾孫之丞へ託されたのは、草稿のままの五巻の書であること。草稿状態の書を相伝文書にすることはない。したがって、各巻に、発行年月日、武蔵の記名があるというのは、ありえないことである。
 第二に、五輪書の内容は、奥義秘伝書のそれではなく、初心者を含めた不特定多数の一般的な読者を想定して書かれた兵法教本である。したがって、特定の人物、たとえば寺尾孫之丞という宛先があるはずはない。
 もし、年月日・記名・宛名を記す奥書があったとすれば、それは最後の空之巻のみであろう。ただしそれも、本書の相伝ということではなく、武蔵から寺尾孫之丞への遺贈、形見分けという意味である。この件については、後に空之巻の読解でまとめて述べる。
 おそらく、各巻にこうした奥書のある体裁を設定したのは、宛先人たる寺尾孫之丞であろう。そして、筑前二天流の相伝形式に見られるように、その寺尾の門弟以下代々、相伝者の名を連ねて行くようになったのである。
 ともあれ、武蔵のオリジナル草稿の各巻末に、年月日・記名・宛名を記す奥書があったとは思えないが、柴任美矩はじめ寺尾孫之丞の門人が伝授された五輪書各巻末には、如上の年月日・記名・宛名があったのである。つまり、武蔵の死後、寺尾孫之丞が、門人にこの五巻の兵書を相伝するようになったとき、この奥書の体裁を設けたのである。
 したがって、我々の五輪書テクストでは、空之巻以外の四巻には、如上の年月日・記名・宛名を記載しないことにする。それが武蔵オリジナル草稿のかたちだと考えるからである。
 ――かくして、地之巻の「地業」につきあって、長い助走になったが、次の水之巻から具体的な兵法指南がはじまるのである。   Go Back



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