宮本武蔵 サイト篇
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現地徹底ガイド 赤穂郡赤松村  (兵庫県上郡町赤松)  Back   Next 




小倉手向山武蔵顕彰碑
北九州市小倉北区赤坂



細川家本『五輪書』地之巻冒頭
新免武藏守藤原玄信と記す




 揖東郡宮本村から、いきなり西へ飛んだのだが、これには訳がある。播磨の武蔵所縁の地を周るというこの[サイト篇]の趣旨からすると、こちらは先に巡回しておかねばならない土地である。
 まず最初に、赤松氏のことである。武蔵は赤松の末流、あるいはその一族だという話が、初期の伝記から語られてきた。
《播юヤ松末流新免武藏玄信二天居士碑》(小倉碑文)
《播чp産、赤松末葉、新免の後裔、武藏玄信、二天と号す》(同前)
《新免武藏守玄信ハ播州ノ産、赤松ノ氏族》(丹治峯均筆記)
 こういうわけであるから、現代の武蔵評伝にも、武蔵が赤松氏であることは疑わず、そういう風に書いている。
 ところが、本サイトの諸論攷で指摘されているように、もし武蔵が新免氏をフォーマルな名のりとしたすれば、武蔵が赤松氏であるというのは、必ずしも正しくはない。
 というのも、新免氏は、徳大寺実孝を祖とする家系であって、その限りにおいて、武蔵の姓は藤原氏なのである。したがって、『五輪書』地之巻冒頭に、「新免武藏守藤原玄信」と記すわけである。
 これに対し、赤松氏は村上源氏の流れに属する。姓は源氏である。とすれば、武蔵自身が、新免を名のり藤原氏を称している以上、武蔵を赤松氏とするのは誤りである。
 しかるに、武蔵諸伝はどれも武蔵を赤松氏とする。これはどういうわけであろうか。
 たぶんそれは、武蔵の養子・宮本伊織が建立した小倉の武蔵顕彰碑(小倉碑文)が、「播юヤ松末流」「播чp産、赤松末葉」と記したことによるのである。初期の伝記はどれもこれも小倉碑文を参照している。その結果、武蔵が赤松の末流だということになってしまい、そのうち、末流どころか、その氏族、赤松の一族になってしまったのである。
 ところで、当の宮本伊織は、「新免」伊織ではない。あくまで、「宮本」なのである。では、伊織はどの姓を名のったかというと、泊神社棟札に記しているように「源貞次」、つまり源氏である。
 伊織が新免氏ではなく、宮本氏である以上、それは差し支えない。宮本家が赤松氏であったというわけだから。ところが、そこから次に問題が発生する。それは、承応二年(1653)の泊神社棟札より前、武蔵が死んだ翌年の正保三年(1646)に、伊織が寄進した米田の神宮寺の鰐口には、
《於豊州小倉小笠原右近大輔内 宮本伊織朝臣藤原貞次敬白》
と記していて、こちらは「藤原貞次」とあるように、明らかに武蔵と同じ藤原姓なのである。そうすると、正保三年(1646)と承応二年(1653)までの七年ほどの間に、伊織の気が変わって「藤原」から「源」へと姓を変えたということである。
 これは理由がはっきりしない。宮本氏を名のる以上、新免氏と同じ「藤原」では具合が悪い、「源氏」にしようという「訂正」であったのだろうか。それにしても、この訂正が武蔵の死後行われたことに注目せざるをえない。この点は別論で述べられるであろう。
 さて武蔵伝記に関し問題の、《播чp産、赤松末葉、新免の後裔、武藏玄信、二天と号す》と小倉碑文に記された「赤松氏」であるが、どうやら情報が少ないらしく、今でも武蔵評伝には頓珍漢な間違った解説が多いので、少しは正確な知識を得ておく必要がある。
 そういう誤った情報がどこに由来するかといえば、たとえば肥後系の武蔵伝記『武公伝』には、《新免武藏守藤原玄信先生ハ…》と書き出しているが、《玄信公、播州赤松ノ家族也。赤松ハ貴族ナル故ニ常ニハ謙退シテ宮本ト云フ。蓋シ兵書等ニハ不避之》とあって、武蔵が播州生れであるとするまではよいが、武蔵を「播州赤松ノ家族」とするのである。これでは、赤松末流・赤松末葉どころではない、武蔵が赤松氏になってしまうのである。
 つまり、赤松末流・赤松末葉という表現では、播州に多い赤松一統に属する異姓諸家の一つというにすぎないが、伝聞ゲームの常で、話が端折られて武蔵を「赤松末流」ではなく「赤松」にしてしまう。こうした情報の単純化が誤伝を生産する。
 後世の、時間的に遠い時点の説話生産というだけではなく、地元播州から遠い九州での説話生産だから、情報の正確さをチェックする制動が作用しないのである。小倉碑文や『丹治峯均筆記』ならまだ誤りではないが、これに対して、肥後系の『武公伝』はすでに誤伝の路線を敷設している。かくして、本来「赤松武蔵」なのに、どうして「宮本武蔵」と称したか、というぐあいに話が流れて、そこから、「赤松」は貴族だから、その名を憚ってふだんは「宮本」という通称を用いたという「解釈」をして、それを理由にしていまうわけである。
 ここには武蔵のフォーマルな名のり、新免氏については何の情報もない。あるいは、もっと立ち入って、当の「宮本」が、播州諸家の多くと同様に異姓の赤松末流だろうといった見地もない。播州から遠い九州での説話生産であるから、「赤松」は貴族だからふだんは「宮本」という通称を用いたという憶測をしてしまうのである。
 同じく肥後系の『二天記』は『武公伝』を継承した伝記であるが、これになると、もっと変形が進む。《新免武藏藤原玄信、其先、村上天皇ノ皇子具平親王ノ後胤、播磨國佐用ノ城主赤松二郎判官則村入道圓心ノ末葉也》などとあるのは、まさにそれである。「藤原玄信」と自身記しながら、その意味が分からず、「赤松」といえば赤松円心という程度の知識からこう書いたのだが、ご丁寧にも『武公伝』になかった情報を付加する。
 つまり、武蔵は赤松円心の末葉だが、《故有テ外戚ノ氏姓宮本ニ改ム。又兵書等ニハ新免ト書セリ》と記すのである。ここでは、武蔵の宮本姓は「外戚」の氏姓だとするのである。外戚というのは父系のリネージからすれば母方のことである。つまり武蔵は、本来「赤松弁助」だったが、「故あって」母方の姓を名のり「宮本弁助」に姓を替えたというわけである。この「故あって」という韜晦が話のミソで、何やらもっともらしく聞こえるような仕掛けであるが、もとよりそんな「故」なんぞあろうはずがない。これは説話上のルアー(囮)なのである。
 こういう憶説は十八世紀中には出来上がっていたらしく、十九世紀には「赤松武蔵」という名が堂々と登場する。たとえば、『嬉遊笑覧』で有名な喜多村信節に『瓦礫雑考』(文政元年刊)あり、それには、猪狩氏所蔵「赤松武蔵肖像」というものを模写した下手糞な絵が収録されている。





*【武公伝】
《玄信公、播州赤松ノ家族也。赤松ハ貴族ナル故ニ常ニハ謙退シテ宮本ト云フ。蓋シ兵書等ニハ不避之。天正十二年甲申二月、播州ニ生ル》



赤松円心 本朝百将伝


*【二天記】
《新免武藏藤原玄信、其先村上天皇ノ皇子具平親王ノ後胤、播磨國佐用ノ城主赤松二郎判官則村入道圓心ノ末葉也。故有テ外戚ノ氏姓宮本ニ改ム。又兵書等ニハ新免ト書セリ。天正十二年甲申年暦三月、播州ニ生ル》




赤松武蔵肖像
喜多村信節『瓦礫雑考』所収

個人蔵
赤松武蔵像 手本画
天保四年

個人蔵
左掲図部分
「播ъ御物 赤松武蔵像」

 これは、武蔵の肖像画はこう描くべしと教える手本の画を写したものらしい。その手本画には、肩衣の模様はこうだとか、ここは白、ここはハナダとか色指定までしている。武蔵像は門流内部だけではなく、需要が多かったとみえて、武蔵像はかく描くべしというこの種の手本画がいろいろあったのである。たとえば、上掲右側の画像「赤松武蔵像」はその一例である。
 これは、《播ъ御物 赤松武蔵像》《天保四年於東都寫》とあるから、その頃江戸で写されたということである。「播ъ御物」とは、いかにも勿体をつけたかっこうだが、江戸ではこうした武蔵像手本画が出回っていたらしい。
 この画には、裏に、《新免無二之助之子、新免武蔵。初名弁之助。天正十二年甲申三月、播сj生。正保二年五月十九日、千葉城ニ而病死。歳六十二》云々とあるから、もともとこの画像原本は、肥後の武蔵門流から流出したもののようである。
 ようするに、「新免無二之助」とか、天正十二年「三月」生れとか、「千葉城」とか、そういうことを記すのは、ほかならぬ肥後系の特徴である。上述の『武公伝』『二天記』をみれば、それがわかる。そうしてみると、「赤松武蔵」などと言い出したのは、肥後の武蔵門流なのかもしれない。
 ともあれ、「赤松末流」「赤松末葉」と記した小倉碑文から約一世紀半、ついには「赤松武蔵」名の武蔵が出現するのである。これも武蔵の正式な氏姓は「赤松」だと思い込んだ学者研究の産物である。それに比すれば、巷間通称の「宮本武蔵」の方がまだ正しいのは言うまでもない。
 ともあれ、肥後系の『武公伝』から『二天記』へ至る過程で、武蔵伝記はどんどんズレていったのだが、その変形過程は、小倉碑文と『武公伝』、『武公伝』と『二天記』を対照させてみればわかる。伝記というものは、後のものほどディテールが増殖するのが通例だが、同時に、端折りや誤解釈によって、不正確から誤謬へといたるものである。
 赤松末葉という話についても、『二天記』の記事は赤松円心を多少研究した成果であって、この後世の「研究」が余計な記事を増補するのである。こういうことは現代でも同様で、研究が事実にアプローチするものとはかぎらない。研究すればするほど、どんどん的外れになっていく、というのはよくあることである。

個人蔵
上掲「赤松武蔵像」 裏書



赤松氏関係地図





円心挙兵の苔縄城址
兵庫県赤穂郡上郡町苔縄

 さて『二天記』の豊田景英は、祖父や父の『武公伝』に対し情報を追補し、赤松円心という名を引っ張り出すのみならず、これを「播磨國佐用ノ城主」とするわけだが、余計なことを書いたこれがそもそも間違いなのである。円心の根拠地は佐用城ではなく、赤穂郡赤松であり、居城は白旗城なのである。
 本来、佐用庄は関白九条家所領の荘園で、佐用・赤穂・宍粟三郡にまたがる。佐用の城主といえば、これは佐用氏のことである。佐用氏は後世、別所・宇野・小寺の三家とともに「赤松四天王」の一とされるが、もともとは赤松氏より古い氏族で、佐用村に城を築き佐用氏を名のっていたのである。赤松円心が出頭して後、赤松一統に属し、播磨・美作の諸郡に数万石を領知した。だから佐用の城主といえば、刑部少輔兵庫助頼景以来、佐用氏なのである。
 赤松則村は有名で、周知のように法号が「円心」、赤松円心である。『太平記』には《播磨国の住人、村上天皇弟七御子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に、赤松次郎入道円心とて、弓矢取りて無双の勇士有り。元来其心闊如として、人の下風に立ん事を思はざりければ…》(巻之六)とあって、およそこの『太平記』の記事が後世のイメージを左右したのである。ある意味で、赤松円心は近世有名になった人である。というのも、近世初期に太平記読みが流行して、その記事がたいていの人間の耳に入り頭に入っていたのである。その名を知らぬ者はないというわけである。
 『二天記』の赤松円心関連記事も、そのソースは明らかに『太平記』である。円心を「播磨國佐用ノ城主」とするのは、『太平記』に円心が《佐用庄苔縄の山に城を構て》とあって、これを端折って「整理」してしまったからである。「佐用庄苔縄の山」に構えた城とは、赤松氏初期の苔縄城であり、円心は大塔宮の宣旨を奉じてここから蜂起したのである。
 かくして『二天記』の「播磨國佐用ノ城主」が不正確であるだけではなく、誤りであるのは言うまでもないのだが、このようなことをここで記さねばならないのは、この『二天記』を奉じた説が未だに跡を絶たないからである。『二天記』の《播磨國佐用ノ城主赤松二郎判官則村入道圓心》という記事が『太平記』に由来し、しかもそれを変形した誤伝である点は、明らかにしておく必要があろう。
 では、武蔵が赤松氏とどういう所縁があったのか、となると、これはなかなか難しい。というのも、一つは、播州人ならたいていは、赤松三十六家、八十八家といわれる家筋に関係しているからだ。播州人なら「赤松末葉」はごく普通のことで、ことさら言うべきほどのことではない。
 これは言うならば、地元播磨では申すまでもないことでありながら、九州という遠方の地で語られた話だから、小倉碑文以来、わざわざ「赤松末葉」と言い出したのである。
 とくに『二天記』に、《播磨國佐用ノ城主赤松二郎判官則村入道圓心ノ末葉也。故有テ外戚ノ氏姓宮本ニ改ム》などとあるのは、それだけでも誤りである。九州からみると、「赤松円心の末葉」というと苗字まで赤松だと思い込んでいるが、赤松三十六家、八十八家といわれる多数の家筋はすべて苗字が違うのである。故あって外戚の氏姓「宮本」に改めたというのは、もっともらしく捏り出された講談話である。
 赤松氏そのものが、佐用荘の地頭宇野氏から派生して、赤松村に拠って、そこで赤松を名のるようになったのである。この赤松村が思いもよらぬほど小さな村であるのに驚く人が多いが、それが事実なのである。
 武蔵が新免氏義子となって、九州の墓誌に至るまでフォーマルな名のりは「新免」なのだが、他にいわば通称として「宮本」を名のってもいたというのは、おそらく出身地が「宮本」という村であったからだろう。これが第一の推測なのである。
 もう一つの問題は、では武蔵の出自が赤松氏末流だとして、どの家筋か、ということが把めない点である。しかし、赤松末流を「宮本」姓で検索しても無駄である。赤松諸家系図にそれはないのである。というのも、武蔵の代になって宮本と名のるようになったと、養子・宮本伊織の証言がある(泊神社棟札)わけだから、それ以前に宮本姓が赤松末流諸氏に見当たらないとしても、不思議はない。
 そこで、我々のマニアックな探索は、十分な迂回をして、問題の中心にアプローチして行くことにするわけである。
 赤松氏の系譜によれば、村上天皇の皇子具平親王の子師房が源姓を賜り、師房五世の孫師季が播磨に配流され、同国佐用荘に土着したのが始まりとする。師季の子季房の代になって勅免され、播磨を領有して白旗城に拠ったという。『赤松略譜』によれば、師季が佐用荘に配流されて季房が生まれ、のち季房は勅免をうけて上洛し従三位になったとする。
 これが公式の系譜であるが、師房五世の孫師季が播磨に配流され…というのは、よくある起源説話の貴種流離譚のパターンである。師季の八世孫に円心が出るのだが、師季は寛元元年(1243)に出家した人で、かたや円心は建治三年(1277)の生まれとされるから、師季後八世とはすこし数が多すぎるわけである。
 赤松氏の始祖として遡及しうるのは、おそらく、師季四世の孫とされる則景あたりがせいぜいである。鎌倉期に播磨へいろいろ御家人が移ってきたので、その中の一人であったかもしれないという説もあるが、やはりこれは不明としなければならない。
 『赤松略譜』は季房の代で赤松を称するようになったというが、別の史料は、季房−季則−頼範−則景−家範と続いて、この家範のとき、はじめて赤松氏を名のるようになったとする。家範のとき、はじめて赤松氏を名のるようになったというから、その前は何かというと、佐用荘の地頭であった宇野氏らしい。つまり、宇野は赤松の支族ではなく、赤松が宇野の支族なのである。支族の赤松が出世してしまったので、本末が逆転したのである。宇野の地名は佐用郡内にあり、また赤松は佐用荘の南部の、というよりも佐用郡ではなく赤穂郡の、赤松村を名のりとするものである。
 佐用荘の地頭であった宇野氏から独立して、赤松を名のった家範から久範、茂則を経て、則村に至る。嵯峨山一如軒の『赤松記』(天正十六年)に、
《爰に赤松の初を申さば、人王はじめて六十二代村上天皇と申す。その御子具平親王より三代、右大臣顕房の御子、第一は中院左大臣雅房と申す。久我殿の御先祖なり。第二丹波守季房の御子の時、播磨の国佐用庄赤松谷といふ所に流され給ひて、其子孫住み給ふ。かくて五代目を則景と申す。此人宇野という所を知行し、宇野名字の元祖なり。此時、関東に下り給ひて、北条殿の縁者となりて、建久四年七月四日、佐用庄地頭職を頼朝の御下文御拝領なり。是よりして宇野播磨守則景と申す。その弟二人あり。第一は宇野新大夫則連、その弟得平三郎、これなり。是は佐用庄の内、得平名といふを取たるにより、則得平と名乗る。今ニ出井分と申すはこの所なり。則景より四代目を次郎家範と申す。その子則村、赤松と名乗り、赤松孫次郎と申す。法名円心、この時、播磨備前美作三ケ国御取候》
とあって、ここでは、赤松の名のりは円心から、という異伝である。いづれにしも、則村が赤松の創業者なのである。系譜はそこから遡及的に構成される。

○村上天皇─具平親王┐
┌─────────┘
└師房─顕房─雅兼┐┌為助
┌────────┘│  
└定房─定忠─師季┐├頼景
 ┌───────┘│  
 └季房─季則─頼則┼則景──┐
          │    │
          └将則  │
           宇野 江見
           佐用 小寺
┌──────────────┘
├家範┬久範┬茂則┬則村┬範資
赤松│  │  │円心
│  └長範└光則│  ├貞範
│        │  │
├景盛 上月    │  ├則祐
│        │  │
├景能 間島 大田 │   └氏範
│     中山 │
└有景 櫛田    └円光┬敦光
            │ 別所
            └重光
              黒田



*【赤松略譜】
《人皇六十二代村上天皇第七之皇子具平親王之長子、贈太政大臣從一位師房、後一条院寛仁四年十二月二十六日始而出王氏賜源氏姓、是則村上源氏之始也。(中略)定房嗣堀川家、此赤松氏之太祖也。定房子正三位大納言定忠、其子從三位左中将師季。然師季被配流播州佐用之庄、而於播州生一子、號季房、其頃有勅免領播州。季房又被任從三位侍從矣。從斯當家之家名稱與赤松、始而立武家、赤松氏武家之始也。從赤松氏雖爲武家、依爲堀川正統、當家之子孫雖爲無位無官、蒙永准三位、列公卿之席、禁色昇殿之勅免云々。季房子從五位上近江守季則、其子從五位上播磨守頼則、其子從四位上播磨守則景、其子從四位上左衛門佐家範、其子正四位下左衛門督久範、其子正五位上播磨守茂範、其長男五郎法師圓光、次男四位判官播磨守則村。圓光子敦光、是號別所、而別所氏之祖也。則村爲入道、號赤松圓心。從是赤松氏大著于世》



 しかし問題は残る。赤松氏がどのような由来をもつか、上記の知見だけではやはり明らかではない。赤松系図はだいたい近世に入って作製されたものであり、多数ある系図は相違点が多く、現段階ではどれが正しいか、決め手はない。とくに円心以前の起源部分には問題が多い。
 そこで、中世史学の助けを借りて、このあたりを解くことになる。つまり、揖東郡宮本村のページで話題に出た、れいの『峯相記』の話の続きをしなければならない。

 赤松円心以前、ということなら、播磨の悪党の代表的人物として知られている寺田法念がある。中世史学で有名な矢野荘の公文である。これは赤松村がある千種川の谷ではなく、もう少し東の現在の相生市の市域にほぼ重なる地域である。矢野荘は相生湾まで含むのである。
 寺田法念の「公文」というのは、荘園の現場で荘園管理事務や年貢の徴収などを行なった荘官のことである。この矢野荘が中世史学で重要なのは、その所領関係が複雑で、そのような複雑な所領関係が中世的な領地支配の実態を示すからである。
 つまり、矢野荘は当初皇室領であったが、永仁七年(1299)に亀山上皇が禅僧無関普門に帰依し南禅寺に寄進、ま正和二年(1313)に矢野荘「例名」領家職を東寺に寄進、こうして南禅寺領、東寺領を含むことになる。さらに矢野荘の預所職をもっていたのは藤原隆信とその子孫であるが、たとえば藤原冬綱は永仁五年(1297)室町院の令旨を賜わって矢野荘預所職を安堵され、さらに徳治二年(1307)には後宇多上皇の院宣でその職を確認された。このように領家職と預所職の権利の二重性はこれを土地分割で処理してみたものの、問題の解決には到らなかった。冬綱の支配は悪党横行によって有名無実になる。
 矢野荘「例名」の領主となった東寺は支配を強化して、延慶二年(1309)冬綱を預所職から追放するとともに寺僧導智を預所に任命して、公文の寺田法念にも預所の下知に従うことを誓わせた。ところが、寺田法念は正和三年(1314)九月四日、「別名」に討ち入って強盗・殺害・放火など狼藉の限りをつくし、まさに悪党の張本として登場する。
 「例名」領主東寺と「別名」領主南禅寺は、寺田悪党の鎮圧を繰り返し朝廷や幕府に訴えた。東寺などは自ら武装兵力を派遣して寺田党と戦った。荘内の名主百姓の中には寺家使に味方して寺田党と戦闘する者もあった。
 しかし、寺田法念とは何者か、というところで、悪党の内実がわかる。すなわち、開発領主秦為辰の子孫と称する者で、いわば土着の正統性を有するのである。寺田というのは、矢野荘に寺田という地があるから、そこの住人であろう。開発領主の子孫と称する者が矢野荘「例名」の公文職を相続していたのである。
 もう一つ見逃せないのは、寺田法念の悪党が偶発的な徒党ではなく、すでに十分な武装集団であること、である。つまり、この寺田党の構成は、
(a) 寺田一族…法念とその子少輔房、その孫の孫太郎と彦太郎、法念の弟大夫阿闇梨、舅の顕性、孫太郎の舅で書写坂本の住人である兵庫助など
(b) 寺田家の被官…右馬三郎・新左衛門・紀三郎入道父子五人・五郎次郎父子・孫二郎・若四郎・兵大三郎・藤兵衛尉など
(c) 荘園の役人・荘官…石見房(山僧で例名の当雑掌)、安芸法橋(別名の前給主代)など
(d) 近隣の地頭御家人や武士たち…坂越地頭・飽間八郎泰継代親佳、小犬丸地頭・岩間三郎入道、那波浦地頭・海老名孫太郎、下揖保地頭・周防孫三郎、上揖保荘の揖保七郎、浦上誓願など
 南禅寺「別名」の雑掌の報告では、これが攻撃してきた悪党の顔ぶれである。このように、寺田一族やその被官だけではなく、荘官や地頭御家人まで含むとすれば、これは偶発的な暴虐事件ではない。地域の政治関係が変動していたのであり、まさにその秩序解体の主役が寺田法念であったらしい。
 この悪党蜂起事件の下部構造は、那波浦市場の利権という経済関係である。寺田法念を中心とする悪党が「別名」に乱入したのは、そもそも那波浦の経済権力をめぐる紛争であろう。山僧石見房と安芸法橋はいづれも仏僧の体であるが、那波浦を拠点とする借上(金融業者)であったようである。ことに安芸法橋は前給主代であったから、罷免された所職の回復をもくろんで悪党の仲間に身を投じたものであろう。
 文保元年(1317)になると事態はさらに煮詰まってきた。後宇多法皇は寄進から除外していた別納の地(重藤名・那波浦・佐方浦)を寄進し、矢野荘「例名」のすべてを改めて東寺に寄進した。東寺は信性を重藤名預所に任命して、矢野荘「例名」全体の支配をさらに強化する。重藤名は寺田氏根本地らしい。とすれば、法念は東寺領から追放されたのである。従来は南禅寺領「別名」を侵略しも、東寺領「例名」には手を出さなかった寺田法念は、ここに到って東寺と全面的に対立するようになった。
 とくに元応元年(1319)の東寺例名に乱入しての戦闘は、寺家の軍勢との合戦であり、かなり激しいものだったらしい。その後も、建武年間まで寺田党の寺領侵略事件が続き、これは赤松円心が中央に進出して後もこの悪党は存続していたのである。
 さて、播磨の悪党については、これが反体制勢力の運動だとみなして、いささかロマンチックに過ぎる論説があったのは、周知の通りである。歴史に自身の心情を投影して、対象をむやみに賛美してしまうのは、歴史学とは云いがたい。
 寺田党もローカルな武装勢力として、鎌倉末期の秩序解体運動の一端を担ったのだが、実際問題としては、上述の那波浦の金融・商業の利権をめぐる紛争に武力が行使されたというのが実態であり、この点ではロマン主義的な悪党観も褪色を余儀なくさせられるであろう。
 しかし、こうした悪党の所業も、中世武士の発生現場ということでは、しっかり認識が必要である。ことに武装集団としての武士が地域の覇権を握っていく過程は、それがたんなる合戦での勝利の所産ではなく、まさに合戦勝利をもたらすもの、すなわち軍事費を調達しうるには商業金融など経済的な力を不可欠としたこと、これを看過しては武士の発生点を押さえたことにはならないのである。


*【峯相記】
《問云ク、諸国同事ト申ナカラ、当国ハ殊ニ悪党蜂起ノ聞へ候、何ノ比ヨリ張行候ケルヤラム。答云、其故上岡高家等ニ所務相論ノ事共候ケレトモ、サノミ無理ナル事ハサリケルヤラム。正安乾元ノ比ヨリ、目ニ余リ耳ニ聞へ候シ所々ノ乱妨、浦々ノ海賊寄取、強盗山賊追落シヒマ無ク、異類異形ナルアリサマ、人倫ニ異ナリ。(中略)警固ノ守護モ彼ノ権威ニ恐レ、追罸ノ武士還テ憚ヲ成ス。仍、追捕狼籍苅田苅畠打入奪取リ、結句ハ残ル庄園アルヘシトモ見ヘス。偏ニ虎狼ニ肩ヲ並へ、龍蛇ニ座ヲ交ヘタルカ如シ。上載ハサマテ濁ラシ。ナレトモ或ハ賄賂ニ滞リ、或ハ勇威ニ憚ルカノ間、御下知成敗用サルニ科ナシ。御教書催役イタツラニ魚網ヲ尽ス。国中ノ上下過半、彼等二同意スル間、廉直ノ士、神妙ノヤカラ、耳ヲ押へ目ヲ塞テ旬ヲ亙ル処ニ、ハタシテ元弘ノ重事出来ル。併此輩カ所行、武家政道ノ過失也》






矢野荘 現・兵庫県相生市





*【寺田党の攻撃】
正和3年(1314)9月、別名の矢野太郎兵衛清俊の屋敷に討入
正和4年(1315)2月、謀書人某とかたらい悪行を働く
同年8月、殺害・放火・苅田
同年10月、数百人で南禅寺領別名に討入、政所はじめ民屋数十宇を焼払、殺害刃傷、年貢数百石を掠奪。さらに城郭を構え立てこもる
元応元年(1319)、東寺例名に乱入、寺家の軍勢と合戦
嘉暦3年(1328)、荘内乱入、作麦刈取、農民を追捕
建武2年(1335)、例名侵略





那波浦と城址
兵庫県相生市那波本町





矢野荘現況
兵庫県相生市矢野町

 結論をいえば、『峯相記』に見える「悪党」という武装集団、その中から赤松氏も抬頭してきたもののようである。その『峰相記』が、「諸国同事ト申ナカラ、当国ハ殊ニ悪党蜂起ノ聞へ候、何ノ比ヨリ張行候ケルヤラム」と記したように、播磨は悪党の支配する領域で、鎌倉幕府や六波羅探題の鎮圧がままならず、国中上下過半が悪党に与するという状況――《国中ノ上下過半、彼等二同意スル間、(中略)ハタシテ元弘ノ重事出来ル》――赤松氏起源を語るには、これを考慮に入れる必要がある。「元弘ノ重事」とは大塔宮令旨を奉じた赤松円心の蜂起を含む一連の事件のことである。
 『太平記』のこの部分(巻之六 赤松入道円心賜大塔宮令旨事)を読んでみればよい。
《其比、播磨国の住人、村上天皇第七御子・具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に、赤松次郎入道円心とて、弓矢取て無双の勇士有り。元来其心闊如として、人の下風(したて)に立ん事を思はざりければ、此時絶たるを継、廃たるを興して、名を顕し忠を抽〔で〕ばやと思けるに、此二三年、大塔宮に属纒奉て、吉野十津川の艱難を経ける円心が子息律師則祐、令旨を捧て来れり。披覧するに、「不日に揚義兵率軍勢、可令誅罰朝敵、於有其功者、恩賞宜依請」之由、被戴。委細事書十七箇条の恩裁被添たり。条々何れも家の面目、世の所望する事なれば、円心不斜悦で、先〔づ〕当国佐用庄苔縄の山に城を構て、与力の輩を相招く。其威漸〔く〕近国に振ひければ、国中の兵共馳集て、無程其勢一千余騎に成にけり。只、秦の世已に傾んとせし弊に乗て、楚の陳勝が異蒼頭にして大沢に起りしに異ならず。頓て杉坂・山の里二箇所に関を居、山陽・山陰の両道を差塞ぐ。是より西国の道止て、国々の勢上洛する事を得ざりけり》
 赤松円心は蹶起以前に大塔宮護良親王に接近しており、とくに円心三男の則祐は、宮と行動をともにしていた。この則祐が後に赤松嫡流を形成する人物だが、則祐が円心にもたらした大塔宮令旨により、円心が糾合した一千余騎の軍勢が播磨で蜂起して、状況は大きく動いていく――という場面がこれである。

 元弘・建武の内乱のとき円心は出現した。護良親王の令旨を受けて、播州赤穂郡苔縄城で蜂起、御醍醐天皇方として戦功があったが、恩賞が佐用荘のみであったため不満、足利尊氏の反逆に与したとされる。尊氏の東上に際しこれを室津に迎えるとともに、楠木正成を湊川に破った。室町幕府が成立するや、円心則村には播磨守護職、長子範資は摂津守護職となり、赤松氏は有力守護にのしあがった。
 赤松円心は三男則祐を嫡子とし、以後、この則祐の系統が本宗家となる。則祐の嫡子義則は播磨・備前の守護を継ぎ、侍所頭人に就任、京極・一色・山名らと並ぶ四職の一となった。明徳二年の山名氏清の乱後は美作守護職も手中にし、播磨から美作に勢力を拡大した。義則の時代、赤松氏支配の最大領域を実現した。以来、播磨・備前・美作の、いわゆる播備作の三国が赤松氏本来の所領とされるようになる。

京大図書館蔵
近衛本太平記 巻第六目録


埼玉県立博物館蔵
則祐が円心に大塔宮令旨を届ける
太平記絵巻




赤松氏守護領国

赤松氏本拠地ご案内

智頭急行路線図
 さて、武蔵マニアなら、《赤松末葉新免武蔵玄信》という言葉を看過できないはず。ということで、この赤松村(現・赤穂郡上郡町赤松)へ行ってみよう。
 赤松への行き方は、鉄道なら姫路からでも岡山からでもJR山陽本線である。その「上郡」〔かみごおり〕駅まで行って、智頭急行へ乗り換えである。これは3セク鉄道で「ちづきゅうこう」と読む。岡山県までずっと行くと、れいの「宮本武蔵」駅がある、武蔵マニア御用達の楽しい鉄道である。
 智頭急行の上郡駅から、一つ目と二つ目の、「苔縄」〔こけなわ〕駅と、「河野原円心」駅が、今回の関係駅。だから乗り換えてすぐである。
 車で行く人は、山陽自動車道の「龍野西」ICか「備前」ICで国道2号に出て、上郡方面へ行き、国道373号へ入ればよい。上郡からはこれも近い。
 同じく中国縦貫道で行く人は、「佐用」ICでおりて、これも国道373号で、千種川沿いにどんどん下ればよい。どちらも表示があるから間違わない。

赤松根拠地案内図

道路アクセスマップ
 赤松氏根拠地のガイドは、まず、苔縄〔こけなわ〕からにしよう。苔縄は、智頭急行で来た人なら、「苔縄」駅で下車する(これは当り前か)。車で来た人なら、国道から千種川の苔縄橋を渡って、駅の方へ行く。山側に小学校がある。その向って右手方向に、法雲寺がある。円心お手植と伝える樹齢700年のビャクシンの大樹がそびえ立つのが目印である。
 「法雲寺」(上郡町苔縄)は、建武四年(1337)、赤松円心が苔縄城の麓に建立した赤松氏の菩提寺である。鎌倉期以来、武家は氏寺を創建する風があったのである。
 開山は雪村友梅。この人は越後の人、十八歳で当時元朝の大陸へ渡って留学、帰朝してからはあちこちに住したが、山城の西禅寺にいたところを、高倉範秀の推挙によって赤松円心の氏寺創建の開山となった。住房は大龍庵と称した。
 雪村は貞和元年(1345)京都建仁寺の住持に任ぜられ、当地を離れるが、一年で急逝。赤松円心は禅師追悼のため、建仁寺に塔頭を設け、名も同じく大龍庵とした。雪村死後まもなく観応元年(1350)、円心も京都で歿。墓所は建仁寺の大龍庵である。
 現在、建仁寺の久昌院にある宝篋印塔が円心の墓だとされている。というのも、大龍庵廃絶後この墓は放置されていたが、富岡鉄斎が発見して建仁寺久昌院に移されたという話である。
 円心には「月潭」という道号がある。建武のころ東福寺の住持であった乾峯士曇による、月潭というその道号頌に、
   銀蟾印破碧波心 誰把秋毫辨浅深
      萬古蒼龍蟠屈處 頷珠莫認夜光尋
とあって(乾峯和上語録四)、萬古蒼龍の蟠屈する處というのがまさにこの播磨の赤松なのである。
 話が京都まで行ってしまったが、とにかく雪村友梅は京都建仁寺の住持に補任されるほどの禅僧であり、それが円心の招きによってこの田舎に住したのである。現在の法雲寺は昔日の面影はない。建っている建物は、それまで朽ち果てる任せられていた寺を、昭和五十八年に「再建」したもので、もちろん建築は見るほどのものではない。
 法雲寺境内には円心の供養塔が建っている。また、驚くほど小さいが、その名もずばりの、「円心堂」があり、武者姿の円心像が安置されている。この背後の愛宕山の東の山が、円心が最初に旗揚げした苔縄城のあった場所である。
 したがって、苔縄では、法雲寺の境内にある円心の供養塔、円心堂と円心像、それにビャクシンの大樹(県指定天然記念物)である。


法雲寺 円心堂とビャクシン


京都建仁寺三門    円心墓 久昌院


法雲寺 円心堂

苔縄城址と苔縄集落

円心 供養塔

円心像 円心堂

智頭急行 苔縄-河野原円心



河野原橋から宝林寺方面を見る



宝林寺 上郡町河野原
白壁の建物が円心館




宝林寺 円心館



赤松円心坐像 宝林寺円心館



赤松則祐坐像 宝林寺円心館
 次に行くのは、智頭急行で一駅の「河野原円心」駅の近辺である。列車は一時間に一本である。時間をよく見て、回らなければならない。ただしたっぷり時間のある人なら、天気さえよければ、約5キロである、千種川沿いに歩いたってよいだろう。
 車で来た人は、橋を渡って国道へ出てしばらく走り、また千種川にかかる狭くて古い河野原橋を渡って対岸へ行くと、「河野原円心」の駅の近くである。線路の高架をくぐった向う、山側の左手に田舎寺の風情の建物が見えたら、それが「宝林寺」(上郡町河野原)である。「円心館」という看板が立っている。
 円心死後、赤松根拠地の播磨国守護に任じられたのは、長男範資ではなく、三男則祐であった。これは三男則祐が嫡子となるということである。この点につき、赤松氏は将来に禍根を残すことになった。なぜ範資は播磨国守護になれなかったのか。
 円心譲状に、氏神白旗八幡宮と鎮守春日神社の神主職を範資に譲るとある。赤松郷の氏神と鎮守の祭主たるべき者とは、赤松氏の総領である。したがって赤松氏の宗家は、円心の遺志では長男範資なのである。
 ところが、赤松根拠地の播磨国守護職を範資が継承できなかったのは、どうやら足利将軍の差配によるらしいという説がある。
《兄二人(範資・貞範)ハ等持院(足利尊氏)ヘ不忠、等持御タノミヲ兄二人ハ嫌ト申、第三(則祐)領掌申也》(蔗軒日録・文明18年12月11日条)
 こうあってみれば、兄二人(範資・貞範)が尊氏に「NO」と言って忠実ではなかったのに、三男の則祐が忠実であったから、ということだが、これも京の東福寺あたりの禅僧の噂話にすぎない。
 創業者・円心にとって、自身が獲得した所領をだれに託すかは既定の課題であったはずである。長男範資を赤松郷の氏神と鎮守の祭主とするとは、赤松のシンボリックな中心たる職を継承せしめることであり、播磨国守護という世俗的な職は実力のある者が継承すべしということだったのである。これはいわば聖俗分離であり、長子が聖の領域を、弟が世俗領域を、という分離相続は、おそらく古代的な形態である。
 さて播磨国守護となった赤松則祐は、延文二年(1357)「宝林寺」を創建した。赤松山宝林永昌寺である。開山は、雪村友梅の法嗣、大同啓初である。このころ播磨各地で雪村友梅の法嗣を開山とする禅寺新設が相次いだらしい。
 すでに赤松氏の氏寺として苔縄の法雲寺がある。だから宝林寺は、宝所庵(雪村友梅の塔所)以外の塔頭を建立することを許さず、と寺則に定めた(宝林寺常住条々事・延文二年十一月)ように、あくまでも法雲寺の一塔頭なのである。ところが、則祐が備前国守護職を併せもち、また義満の養親になるなど幕府中枢において実権を拡大するにつれて、この則祐の宝林寺も「出世」して、やがて則祐の子・義則の代には、寺格が上がって十刹に列せられるまでになった。
 宝林寺開山の大同啓初は貞治七年(1368)、関東は鎌倉の禅興寺へ移り、その翌年彼地で没した。その遺骨が門弟によって宝林寺へ戻ってきた。このあたり、五山文学の代表者の一人、義堂周信の詩に次のように評されている(空華集・巻二)。
    阿師霊骨玉珊瑚 包裏帰蔵何処山
       潭北湘南休著眼 蒼龍不在窟中蟠
 これを読めば、ようするに大同師の骨が、潭北(播磨)であろうと、湘南(鎌倉)であろうと、どこにあろうと、かまわないではないか。あなた(赤松則祐)も、もう蒼龍(円心)が不在の、その窟中に蟠るだけではないか、というところか。なかなか以って意味深長である。
 さて現在、宝林寺境内には「円心館」という、ややチープな白壁の建物があり、これがいわば赤松氏資料館である。館内にはいわゆる「赤松三尊像」が展示されてある。赤松三尊像とは、赤松円心、則祐、それに雪村友梅(寺伝では別法和尚という)と覚安尼(則祐の娘千種姫)の像である。そのほか円心の肖像画、白旗城四城主の絵馬、赤松諸家系図など、赤松氏ゆかりの資料が展示されている。
 このうち、赤松則祐の木像に関していえば、次のような流転がある(蔭涼軒日録)――建仁寺が応仁の乱の兵火に焼かれたさい、宝林寺殿(則祐)と龍徳寺殿(義則)の木像が行方不明になった。それで延徳四年(1490)、赤松政則がそれを探させて、ようやく相国寺の塔頭・雲沢軒にあるのを発見した。明応元年(1492)政則はこれを播磨へ運び、宝林寺に安置した。
 ただし『蔭涼軒日録』の上記の記事は宝林寺殿(則祐)と龍徳寺殿(義則)二つの木像とするが、義則像の方は絵像である。もう一体が円心像である可能性もあるが、これは、はじめから宝林寺にあったとすれば、ポジティヴな理由がない。
 というわけで、円心と則祐の像を、我々は見ることができるのである。二つの木像はのちに彩色が施されたらしく彫刻を損ねているが、それがなければ重文級の室町彫刻である。
 絵像はどうしても画一的な様式化された似姿になるが、彫刻は鎌倉期以来リアルな姿であるのがおもしろいところである。円心も則祐もなかなかよい顔貌である。これは一見の価値がある。

赤松根拠地案内図(再掲)

上空からみた赤松氏根拠地
 赤松氏根拠地探訪ということで、次にもう一つ廻りたいのは、やはり「赤松」という地名の村である(上郡町赤松)。これは、宝林寺からすると、対岸の集落である。千種川の橋を渡ってすぐのところである。歩いてもさして時間はかからない。
 赤松には「松雲寺」という寺がある。宗旨は真言宗で、境内にカヤの大樹がある。赤松貞範(円心二男)が白旗山の麓に建立した栖雲寺を継承するという寺である。赤松氏文書や足利義詮・細川勝元やの文書多数を所蔵している。
 ここから近い東に、赤松円心の居館があったという円心屋敷跡がある。赤松幼稚園のところである。
 『播磨鑑』に、《赤松村ニ圓心ノ屋敷跡一段高キ所、門前ニ銀杏ノ大木今有之。川ヨリ西ニ有御影堂》とある(赤穂郡 白幡城の條)。川西の御影堂というのは、宝林寺の宝所庵(雪村友梅の塔所)であろうが、この円心屋敷跡は今でもわかるが、何もない。平野庸脩のいう銀杏の大木もない。
 ところで、前述の松雲寺が継承したという「栖雲寺」の場所は、赤松から谷を少し入った細野口である(上郡町細野)。ここは「せうじ」と呼ばれた場所で、栖雲寺の名の転訛である。
 栖雲寺と赤松貞範の結びつきは、貞範の謚号が「栖雲寺月舟世貞」で、栖雲寺殿と呼ばれるところからくる。とくにそれ以外の根拠史料はなく、どうして貞範がここに栖雲寺を創ったのか不明である。
 遺跡は三十年ほど前に宅地開発工事で荒らされたままで、そのとき遺物人骨が出たらしいが、その後発掘調査が行われたかどうか知らない。そこにあった五輪塔は細野の墓地に移されて、いま若干のこるにすぎない。
 栖雲寺址の上に、「白旗八幡社旧跡」がある。明治三十二年に村内の諸社を合祀して、赤松村の集落の中に神社を創った。松雲寺のそばの五社八幡神社がそれである。白旗八幡社は赤松氏の氏宮である。円心譲状に、氏神白旗八幡宮と鎮守春日神社の神主職を長男範資に譲るとあるが、その白旗八幡宮である。
 『播磨鑑』赤穂郡の白幡城の條に《白旗山ノ麓ニ塔ノ九輪ノ金輪近キ比マテ有シト也》とある。この九輪塔があったのが、白旗八幡社旧跡であろう。台座とみられる3間四方の石組がある。
 ところで、ここは白旗山の麓であり、白旗城の足元である。「白旗城」は赤松円心の居城であり、のち赤松氏の本拠であった。白旗城址は標高四百四十mの白旗山の尾根に展開している。全長五百mをこえる山城で、曲輪や土塁・堀切などの遺構が今も残されている。白旗の名の由来は、築城工事をはじめると一流の白幡が山の頂上に降下した、この瑞兆に因み白旗城と名づけたということである。
 この白旗城のハイライトは、建武三年(1336)、足利尊氏が新田義貞に敗れて九州に落ちのびたとき、これを助け、尊氏を討伐のため播磨に進攻してきた新田義貞の軍勢六万を、五十日間白旗城に釘付けにした、というあたりであろう。その間に足利尊氏が勢力を盛り返し、円心与力して湊川の合戦に勝利する。
 そして尊氏は京都に入り光明天皇(北朝)を擁立、室町幕府を創設した。後醍醐天皇は吉野へ逃れ、ここに南北朝の対立が始まった…というのは、日本史の教科書にも書いてある話である。円心は功績によって播磨守護職、長男範資には摂津守護職に任じられたのである。
 白旗城は中世山城の一典型として、戦国史学上の重要遺跡である。武蔵マニア諸君に、白旗城址まで登れとは言わぬが、登攀道は「近畿自然歩道」として整備されている。時間があって山道を歩ける靴と脚なら、登ってみたい。山上からは赤松郷が一望できる。

 赤松円心の根拠地、そこは、西播磨、備前と国境を接する赤穂郡の千種川の谷筋にある。あの赤松氏の本拠としては、おどろくほど小さな土地である。しかし、これが中世の都市のスケールなのである。
 何やら期待して来た人には気の毒だが、赤松氏由縁の寺たちは往時の姿をとどめることなく、ありていに言えばみすぼらしく、落胆するかもしれない。しかし、そこがディープなスポットを愛する武蔵マニアなら、京都奈良の観光寺院にはない田舎寺の風情を味わえるはずである。
 とりわけ、現在の赤松根拠地は、その様子が600年前の円心当時と大して変っていない。そういう意味で、播磨から興ったこの守護大名の発祥の地は、見て楽しめるスポットであろう。


松雲寺 上郡町赤松


円心屋敷跡


白旗八幡社旧跡五輪塔 上郡町細野


*【赤松盛衰記】(宝暦年間写本)
《赤穂郡白幡城主従三位季房、村上源氏末流に当る。西征将軍として播州加古郡に下る。其後夜々白幡を夢に見るゆへ国中を尋ね問に、赤穂郡赤松ノ庄に高山あり。白幡この地に止る。よつて城を築き此所に居住す。時に鳥羽院天永二年。従三位季則此城を相続、保延二年父季房に相代る》(赤松白旗城主代々之記)



白旗城本丸址


白旗山から赤松を望む

その後の赤松氏

赤松円心
┌────┘┌[満祐]        ┌義充
│     │           │
├範資┬光範┴満弘─教弘─元久─政資┼義村
│  │              │
│  ├師頼─頼康─範親      └政世
│  │
│  └師範─範康─満範

├貞範┬顕則┌満則┬貞村─教貞─範行─則秀
│  │  │  │
│  └頼則┤  └貞祐─元祐
│     │
│     └持貞─家貞
│  ┌義房      
│  │
├則祐┼義則┬満祐─教康
│  │  │
│  │  ├祐尚─則尚
└氏範│  │     ┌義村┬晴政─義祐
   │  ├義雅─性存│  │
   │  │    │ ├真龍└政元─政範
   │  ├祐之 政則
   │  │     └村秀―政秀┬広貞
   │  ├則繁─繁広→     │
   │  │    ↑       └広秀
   │  └則之┌満直 
   │     │
   ├満範─満政┴祐則 
   │
   ├義祐─持家─元家─則秀─澄則─則景
   │ 有馬
   └持範─持祐┬祐利─則実
         │
         └祐定─義充─義氏─氏貞
           広瀬



赤松氏関係地図
 さて、左の系図にみるように、赤松円心則村の嫡流は、三男則祐の系統へ流れ、則祐の次代・義則が没すると、義子・満祐が継いだ。満祐は当然、義則の遺領、播備作の三国を相続できると思っていたが、将軍義持は、播磨国を取り上げて、傍系の赤松持貞の実質的な所領としようとした。播磨国は赤松の本国である。これを赤松宗家から剥奪するというのだから、これに憤激した満祐は京から引き上げる。そこで幕府は満祐追討軍を組織する。いまにも戦争という情勢は、しかしどんでん返し、赤松持貞は「女事」のスキャンダルで自害を命じられ、満祐は京に復帰した。
 しかし赤松所領問題は潜在しただけある。足利義教が将軍のときである。赤松嫡流の所領を剥奪し、これも傍系の赤松貞村に与えるという噂が流れ、かねがね義教の専制に脅威を感じていた満祐は機先を制した。将軍義教を自邸に招き、宴の最中に殺害した。嘉吉元年(1441)の、いわゆる「嘉吉の乱」である。


赤松満祐追討綸旨

 満祐は将軍を殺したが、そのまま播磨に退き、城山(木山)城に拠って細川・山名ら幕府軍と戦うが敗北、自害して果てた。ここで赤松宗家は滅び、さしも強大な赤松氏も衰退してしまった。しかしその後、遺臣らが満祐の弟義雅の孫政則を盛り立て、赤松氏再興を許されて旧勢力を取り戻すことに成功した。以後、この赤松政則の系統が嫡流となって、応仁の乱からはじまる戦国時代を生き延びていくのである。
 そこで、赤松政則の代の赤松再興の一件が、ここでの関心事なのである。
 赤松三十六家のうち、石見氏がある。これは後醍醐天皇方に属して功のあった野中志摩守貞国からの派生である。伊豆守則景から五代目の貞国が印南郡野中城に拠って野中氏を称し、この野中貞国から分岐する子孫に、福地・坂上・井上、さらに石見・舟代の諸氏がある。石見・舟代は石見庄の地名であり、ことに舟代は宮本南隣の村である。石見庄宮本村周辺に関係する氏姓である。
 同じ赤松氏同士が戦った嘉吉の乱に軍功をあげた石見刑部左衛門定秀、その子太郎左衛門雅定は赤松政則に属した。ともあれ、赤松政則の代の赤松再興の一件に、この石見氏がからんでいるのである。
 嘉吉元年(1441)赤松満祐は将軍足利義教を殺して、自身の赤松嫡流を自滅させるに到った。石見太郎左衛門は神器奪還によって赤松再興というドラマの立役者になった人である。南北朝並立が帰趨未だ知れざるあたり、嘉吉三年(1443)内裏に南朝方が侵入し、剣と璽を奪って吉野へ去った。剣は戻ったが、神璽は奪われたままであった。
 この件に関しては諸々資料があるが、いま、赤松諸家大系図(法雲寺蔵)によれば、赤松政則の項に――康正元年嘉吉の変が生じた後、赤松一族が滅んで、殆ど凍の如くなってしまって消滅した。ここに、赤松の家臣で、石見太郎左衛門雅助という者があった。三条内大臣実量と親しかった。そこで、実量に天皇へ奏してもらうことにした。もし南方の宮を殺して神器を奪い返して禁内に納入したとすれば、赤松満祐の大罪を許して再び赤松の後裔を立ててよいか。願うや否や、帝は許可したまわり、武家もまたこれを容認した。雅助は大いに喜んで、同じ赤松党の間嶋三郎四郎雅元、中村五郎祐直と相謀って、二人といっしょに南方へ仕え、甚だ寵幸を得た。そしてついに長禄元年(1457)、宮に逼って殺し、神器を奪い去った。宿衛の武士たちが追いかけてきて、中村祐直は防戦して死んだ。その間に石見雅助と間嶋雅元は逃走して、神器と首級を禁内に納めた。帝は大悦して、赤松の後裔、次郎政則(法師丸)、時に四歳を立て、加賀半国を賜う。時に長禄二年(1458)八月のことである。そしてその後、播州備前二国を回復することができた。応仁元年(1467)五月十一日、政則が再び姫路の城を営んでこれに居して、また美作を治め、早くも播備作(三国)の旧領を復した。文明元年(1469)、置塩山の城を新築してこれに移った。家臣小寺伊勢守豊職を姫路城に居らしめた、云々。
 これが『赤松記』はじめ一般的な神璽奪還・赤松家再興物語の要旨であるが、実は石見らが奪還した神璽と宮の首は、もう一度奪い返されている(吉野旧事記)。翌年、こんどは小寺藤兵衛豊職が計略をめぐらし、悪党に賞金を与えて盗み取らせた(大乗院日記)。かくして、長禄二年八月三十日、神璽入洛となったのである。

 姫路や龍野のことは当該ページで案内があるが、ここで注意したいのは、まず第一に、嘉吉の変で赤松嫡流が滅んで、それが「再興」される必要があったということである。そして第二に、その再興された赤松氏の求心点が赤松政則であり、しかもその中心の居城が、姫路城から置塩城へ移ったということである。
 戦国期の城も進化したものらしく、たとえば嘉吉の変のときには、赤松満祐は円心時代の白旗城に拠らず、城山(木山)城を決戦の場にしている。あるいは貞範の時代に建設した姫路城や庄山城という城砦もあったが、それにも依拠していない。これは、防備戦闘の点で城山城が改良されたものだったからである。そして赤松政則の時代になって、置塩城を新設してこれに拠ったのも、もっと新しいタイプの要害であったからである。
 応仁の乱以後の西播磨の中心は、赤松宗家が拠ったこの置塩城である。置塩城というのは、夢前川中流域にある山城である(現・姫路市夢前町)。置塩城の赤松政則を本拠として、宍粟郡の長水城、揖西郡の龍野城が展開する。姫路城は支城となり家臣の小寺氏に預けられた。
 このように十五世紀半ばの戦国時代前期、置塩城・長水城・龍野城といった実戦的な山城に依拠するようになるのだが、これが、それより前の、白旗城・木山城・坂本城・庄山城という赤松氏居城の布置とは異なることは申すまでもない。
 その後は赤松家内部に下克上があって、備前の浦上氏が実権を握り、また姫路の小寺氏、三木の別所氏が抬頭してくる。それが播磨の戦国時代である。


吉野宮址 南朝妙法殿


金剛蔵王権現像
金峯山寺 蔵王堂


*【赤松諸家大系図】
《康正元年生嘉吉軍後赤松族滅而殆至凍如消也。于茲赤松之家臣有石見太郎左衛門雅助者。与三条内大臣実量善。以是令実量奏云、若殺南方偽主而取神器以納禁内耶、然則許満祐之大罪而再立赤松之後。願否、帝許可。武家亦容之。雅助大悦、与其党間嶋三郎四郎雅元中村五郎祐直相謀、伴仕南方、甚得寵幸。終逼偽主殺之、奪神器去。宿衛之士庶追之、祐直防戦死之。其間雅助雅元遁免而納神器首級於禁内。帝大悦、立赤松之後次郎政則、于時四歳、賜加賀半国。于時、長禄二年八月也、而後克復播州備前。応仁元年五月十一日再営姫路城居之、而亦治美作、早復播備作之旧領。文明元己丑年新築置塩山城移之。令家臣小寺伊勢守豊職居姫路城》


赤松氏関係地図(再掲)


置塩城址(城山)
姫路市夢前町町村


赤松村周辺案内――矢野荘
 赤松村あたりまで来たのなら、ここは播磨の悪党の現場、有名な矢野荘の真ん中まで行ってみなくてはなるまい。すでに述べたようにかの寺田法念の根拠地、藤堂あたり(相生市矢野町森)までは行こう。
 ここのアクセスは、鉄道利用なら、まずJR「相生駅」まで行く。これは上述のとおり、JR山陽線でも新幹線でもよい。そして相生駅からはバスで近くまで行ける。はじめての人は駅前で尋ねるとよい。「羅漢の里」というのがある瓜生のあたりが目印になる。
 車のケースは、山陽自動車道の「龍野西」ICで下りて、国道2号線へ出て西の相生方面へ進む。「相生駅」のそばを通り過ぎて、やがて「播磨科学公園都市」とか「テクノポリス」とかいう看板が出ている県道44号線へ曲がって、それを北に進めば、5kmほどで目的地である。途中の目印は、県道5号との交差点、「真広」である。

矢野荘現状(矢野川)
相生市矢野町菅谷


矢野荘 感状山
相生市矢野町森

 矢野の平野が谷筋にかかるあたり、正面に砦跡を頂上にいただく山がみえる。これが感状山である。この山の麓の集落が目的地である。
 行ってみてもとくに何もない。だが、鎌倉末期この辺りから出て、周辺の地頭御家人まで組織して、矢野荘の秩序を荒らしまくって悪党の名を得た、その寺田党の根拠地。一見の価値はあろう。それが思いのほか小さな村なのは、赤松村と同様である。鎌倉末期から南北朝にかけての中世武士の拠点はこんなスケールである。
 集落の背後、感状山の南麓に矢野城跡があって、この場所が寺田党の城砦の一つであっただろうが、もちろん現存石積みは後世のものである。

 ところで、気になるのは背後の感状山の城址である。感状山城は別名を「瓜生城」あるいは「下原山城」といい、原型は鎌倉時代に瓜生左衛門尉が築いたものである。のちに赤松円心の三男則祐がこの城を守り、白旗城の出城となった。
 上掲地図をみればわかるように、赤松氏の城は、白旗城から東へ、この感状山城を中継地として、揖保川沿いの龍野の北にある城山城まで、一列をなしている。この東西の築城線は、中世の城砦配置戦略を見る上で興味深い。
 感状山城が歴史に登場するのは、建武三年(1336)足利尊氏が南朝方に敗北して西国に落ちのび、新田義貞の軍勢がこの近辺に押し寄せたときである。赤松則祐が籠城し大軍の攻撃を防いでよく戦ったが、ついにはこの城から撤退して白旗城へ移り、円心と合流して新田軍の侵攻を防いだ。足利尊氏が覇権したのち、赤松則祐に感状を与えたので、この城の名が「感状山城」とよぶようになった、という話である。ともあれ、この山が歴史の一瞬に登場したことは間違いない。
 その後、この城は赤松義村が居城とし、ついで晴政・義祐という赤松氏が拠点としたので、戦国時代を通じて生き残った城だったようだ。最終的には天正五年(1577)に秀吉の播磨制圧のとき落城し、赤松の城という歴史を閉じたのである。
 さて、感状山城跡へ登ってみたいという人は、瓜生の「羅漢の里」から登って行く(上掲地図参照)。水車小屋を左に見てしばらく歩くと分岐点がある。これを左へ行けば、羅漢石仏がある。この分岐点をそのまま登れば感状山である。頂上までは登山道がって整備されている。麓から感状山城址がある頂上まで小一時間である。
 山頂の城址からは、矢野荘中心部が見渡せる。古い山陽道のあたりまでよく見えるのだが、眺めていると、この感状山の城が矢野荘にとって何であったか、少しは実感しうるのである。

矢野荘アクセスマップ


矢野荘 近隣図


矢野城跡 相生市矢野町森


感状山城跡 相生市矢野町森


瓜生の羅漢石仏

感状山城址曲輪礎石群

感状山頂上城址

感状山から矢野荘を望む


矢野荘 近隣図 (再掲)


観音堂 相生市矢野町菅谷


観音堂内部の絵馬


野見宿禰塚 竜野市龍野町


伝武蔵筆相撲図絵馬 写真
相生市提供
市のHPにこの絵馬の紹介がある
ので参照されたい。→
  Link 
 ここまで引っ張っておいて、おやおや、と意外に思う人があるかもしれないが、実はここに、まさにディープな武蔵スポットがある。播磨悪党の矢野荘と宮本武蔵、そんな話はこれまで聞いたことがない、というのは当然で、播磨武蔵研究会のサイトならではのマニアックな案内と申すべし。では、それを紹介してみよう。
 回りくどい話は抜きにすれば、要するに、武蔵が描いたという相撲図絵馬があったというわけである。どこに、といえば、古山陽道沿いの観音堂(相生市矢野町菅谷)がそれなのである。
 もう一度、矢野荘近隣図を見ていただく。「真広」という、県道5号と県道44号の交差点があることは、上述の通りであるが、この交差点の百五十mほど北に、細い道と交わっているところがある。車で行く人ならつい見逃してしまいそうなほどの細い道なのだが、これが古い山陽道、つまり「古山陽道」である。近世以後の山陽道は、もっと南の方を通っている。
 この道を西へ入り、途中、矢野川の橋を渡り、そこから五百mほどそのまま行くと、集落の道沿いにお目当ての観音堂がある。かなり古びた建物である。堂内に立入って上を見れば、赤穂義士の古い絵馬がずらり架かっている。
 さて、話は二十年ほど前のことになる。この観音堂に武蔵作という絵馬があった。田舎のこととて、常住の僧がいるような寺院ではなく、堂守りしかいない。その当時、近隣で寺社に盗みに入る事件が相次いだので、この武蔵作という絵馬も危ないというわけで、大事をとって堂守りの家に保管することにした。
 ところが、運の悪いことがあるもので、その堂守りの家が火事で全焼してしまった。大事をとったつもりがアダとなるという例である。そして、そのとき、わざわざ家へ運んで保管した肝心のその絵馬も焼失してしまったのである。これが昭和五十九年(1984)のこと。であるからして、残念なことに、現物はすでに存在しない。
 かつて昭和四十年代には、市の広報冊子などで、この絵馬を写真入りで紹介していたらしい。ところが、その広報たるやまことにローカルなものだったので、当時でさえ我々の視野にこの絵馬は入っていなかったのである。そうして、我々はこの絵馬とついにすれ違ってしまったのである。
 しかも最近になって、ようやく我々は、当時撮ったモノクロの写真が残っているということを知ったのである。それで、写真を見せていただくと、もちろん撮影目的が資料調査のためではなかったので、絵馬に記されていたはずの記録文字も撮られていない。それでも、たった一枚写真だけでも残っていることはありがたいことなので、これの提供を享け資料保存した、という次第である。
 播州に残る武蔵作という絵馬は、他に戦前有名であった播磨惣社(姫路市本町・[サイト篇]姫路城下参照)のものがあるが、これも戦災で焼失したのである。こちらは曽我物語から題材をとった「河津股野之絵馬」らしい。それに対し、この矢野町の観音堂の相撲絵馬の方は、写真によるかぎりおそらく野見宿禰の故事に題材をえたものと思われる。垂仁天皇の代、当麻蹴速を蹴り殺して勝ったと日本書紀にある。
 この相撲の元祖は、播磨風土記によれば龍野で死んだらしく、龍野(立野)の地名由来伝説として伝えられたものである。この地が龍野と隣接し、現在の県道5号の路線にあった古山陽道で直結していることを考えれば、この観音堂に野見宿禰の相撲絵馬があって当然なのだが、現在のこっている観音堂の絵馬の多くは赤穂義士である。もちろん赤穂はここから近いのである。


伝武蔵筆相撲図絵馬 部分

 この観音堂の相撲図絵馬は、胡粉絵具の残存があるものの写真では線描が不鮮明だが、図は魁偉な容貌の二人が格闘するシーンで、一方が後から抱えあげて投げようとするところ、他方がその首を絞めて防戦するようすである。
 こういう相撲図絵馬を武蔵が実際に描いたかどうか、不明である。しかしそれを実検しようにも、我々がその所在を知ったときはすでに遅く、現物は失われてしまっていたのである。江戸後期の画論には、武蔵作品と伝えられる画には極彩色の馬の図もあったという情報もある。いづれにしても、播州にこうした伝武蔵作の絵馬があったということは、武蔵研究において興味深いことであって、ここにその所在と非在の両方を記録しておきたい。

ついでに周辺案内
 相生まで来てしまっているから、ついでにこの周辺を周ってみたいという人のために、簡単な案内をしておきたい。
 相生の町は入江が深く入り込んだところにあり、昔はここに中世栄えた那波浦という湊があった。それを巡って寺田党の騒動があったのは上記の通りである。那波は「なば」と読む。これは名和・那覇とおなじく湊の古語のようである。
 藤原惺窩の弟子に那波活所〔なば・かっしょ 1595〜1648〕あり、林羅山・堀杏庵・松永尺五とともに惺窩門四天王と称されたこの人は、播州姫路の人であるが、その姓からして先祖はこの那波浦に関わるものらしい。
 この那波浦に城があったようで、現在は学校や図書館などがある、入江に面した岡である。貞和年間(1350年頃)赤松義則が築城、後に義則の女婿越智通則の居城となった。その後天正七年(1579)に秀吉の播磨制圧のさい落城するまで、戦国時代には現役の城であったようだ。
 この那波浦城跡は現在、「中央公園」というものになっており、相生市立図書館の隣に歴史民俗資料館がある。ここには、簡単ながら、矢野荘の歴史展示コーナーがある。つまりは、ほとんど全国唯一といってよい中世悪党の資料館でもある。ゆえにマニアックな探訪者には必須ポイントである。ここへのアクセスは少しわかりにくいが、近所まで行ったら立ち寄ることをお薦めする。→  Link 


那波浦現況
向いの山は大島城址



歴史民俗資料館
相生市那波南本町





相生周辺マップ



室津港現況


室津港周辺航空写真


賀茂神社 揖保郡御津町室津


播州室津賀茂皇太神宮小五月大祭禮船行列之図
小五月祭礼図

*【石川丈山】  室津賦
  山上~祠山下淵 圍江遶岸屋相連
  古松鬱々聳岩畔 楓葉霏々落水邊
  窓外輕抛多少釣 櫓前近繋往來船
  鐘聲傳響孤村裏 薄暮漁翁擧網還



浄雲寺 揖保郡御津町室津

 海岸まで来ているから、ここは、相生からもう一つ足を伸ばして、国道250線を東へ行けば、歴史上有名な港町、室津である。ここは隣の揖保郡になるが、むしろ相生から近いのである。
 室津の岬の山上には室山城という城があった。室山城は赤松円心の時代にはすでにあったらしい。建武年間、足利尊氏が京都で敗れ九州へ敗走するが、赤松円心は新田義貞の追討軍を阻止する。上述の感状山城と同様、播磨と備前の兵三千騎を付けてこちらは長男・範資に室山城の防衛させた。
 新田義貞軍に攻撃され範資は白旗城へ退却、しかし円心が白旗城で抵抗し、義貞軍が攻めあぐねる。そのうちに九州で勢力を回復した尊氏が海陸両道から大軍を率いて東上してきた。そこで、義貞は白旗城の包囲を解いて兵庫に退き、赤松円心はこの室津で尊氏と再会し、合流して湊川の合戦へと向う。その後は周知の通り、足利幕府開設に至るのである。
 赤松満祐が将軍・足利義教を殺した嘉吉の乱(嘉吉元年・1441)では、同じ赤松一族である赤松満政が満祐追討軍に参加し、城山城に籠もる満祐を攻めたとき、この室津に上陸した。このどさくさのおり、赤松満祐の弟・義雅が千代丸(赤松時勝、政則の父)を連れて満政に降参して自害、千代丸は満政の手で室津に匿われて、さらに義雅夫人の実家三条家に隠身する。
 応仁の乱の後、赤松政則が旧領播磨・備前・美作を回復し、備前三石城の浦上則宗に室山城を守らせた。この浦上氏も赤松家臣で、揖保川と林田川が合流するあたりの浦上荘を本地とするものである。このあたりの室津の歴史はきわめてドラマティックである。
 浦上氏は室津を拠点として商業金融で大いに栄えた。その結果、主家赤松氏と対立するほど勢力増大、則宗の孫・浦上村宗の代には、主君赤松義村を室津の見性寺で殺害する。その後赤松政村(晴政)が父・義村を殺した村宗を殺害したものの、浦上氏を排除できず、浦上氏はそののちも室山城を拠点とする。
 やがて置塩城に拠った赤松宗家が衰退する。そうして龍野城の赤松村秀・政秀父子が抬頭してくる。赤松政秀は室山城の浦上政宗と対立し、浦上政宗は子清宗の嫁に姫路城主小寺職隆の女を迎え、小寺氏と結託しようとしたが、その婚礼を襲撃した赤松政秀が、室山城を落とし、ついに廃城となったという話である。
 室津に賀茂神社という古い神社がある。これは古代、洛北賀茂社の別雷神を分霊したに始まる。鎌倉期には、安志・林田とともに室津が京都上賀茂神社の社領(御厨という)になった。中世、この室津が上賀茂神社の社領であったことは、この地の商業金融の栄華をもたらしたのである。現在の社殿は織豊期から寛永時代あたりの建築。したがって武蔵の時代の建物である。
 室津がもっとも栄えたのは、やはり江戸時代。参勤交代の途中、西国大名たちがここへ停泊したので、船本陣が多数あった。人口も現在の三倍もあったともいう。
 室津は「遊女発祥の地」だという話だが、そんなふうに決まったのは井原西鶴『好色一代男』のせいである。「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起りて、いま国々になりぬ」。日本の遊女は朝妻と室津にはじまり、そこから全国にひろまったというわけだ。元禄の頃にはそうなっていたのかもしれないが、『好色一代男』がその説を不動のものにしてしまったので、以来それを信じた「定説」こそが普及したのである。
 平安末期のころ、室津の花漆という遊女が、唐人からプレゼントされた宝の小箱を朝廷に献上して、褒美に千金を賜り、それを資金に室津に五つの寺を建てたという伝説があり、今もある見性寺はその一つだという。
 《花漆ぬる人もなき今宵かな 室ありとても頼まれもせず》(花漆)
 もともと室津の遊女の長は代々「室君」(むろぎみ)と呼ばれた。しかしこの遊女が難しい。本来は神に奉仕する女性である。賀茂神社という神社があって、それと縁が深い。彼女たちは和歌や舞いその他諸芸に秀でていたというだけではなく、おろそかに扱えない存在であった。書写山の性空上人と遊女との結縁を語る話が「撰集抄」にあるが、そこでは室の遊女は普賢菩薩の化身なのである。
 このあたりの話は、我々にお馴染みの『播磨鑑』にだいたい書いてあって、後世の人間はそれ以上の伝承情報をもたないのである。
 近代文学では、『播磨鑑』の記事をソースにした谷崎潤一郎の未完の小説『乱菊物語』が、おそらくそうした室君の姿を描いた最良のものであるだろう。その物語の背景は、置塩城に本拠をおく戦国赤松氏の世界である。しかも中世海賊やインターナショナルな海上交通の背景をきちんと押えて、あのもっとも印象的な、天空に展開する幻想のスペクタクル・シーンを現出してみせたのである。歴史学者の下手な説明よりもフィクションの方が真実を語りうるという一例である。→  Link 
 室君を描きえたのはこの作家ならではのことである。もちろん室君にはさまざま伝説があって、そういえば、法然と室津の遊女の説話もある。「法然上人絵伝」によれば、建永の法難で法然が四国に流される途中、室津に立ち寄った。そのとき遊女が小舟を漕ぎ寄せて法然と会うのである。
 「絵伝」からさらに展開した後の伝説では、その遊女は友君といって実は木曽義仲の夫人であったとか。法然は念仏の功徳を説いて得度させ、そのとき与えたという歌がある。
 《仮そめの色のゆかりの恋にだに あふには身をも惜しみやはする》(法然)
 法然は友君の求めに応じて自身で刻んだ頭像を授けた。友君はこの頭像に胴体をつくり、法然上人の像を完成させたという。この友君の墓が室津の浄雲寺にある。
 この友君というのは伝説の人物で、「遊君」(いうくん)からきた名であろうが、いづれにしても歴史上の有名人が、室津の遊女と縁があったという話は多い。それで、宮本武蔵も室津の遊女のもとへ通ったという話もある。
誠忠義士伝 三代歌川豊国
大石蔵之助藤原良雄


国立国会図書館蔵
北斎仮名手本忠臣蔵


くいしん坊
赤穂市加里屋88-6
0791-42-5059

さくらぐみ
赤穂市加里屋南6-2
0791-42-3545
 それから近隣にはもう一つ、「忠臣蔵」で有名な播州赤穂がある。赤穂観光のポイントは、赤穂城・大石神社・大石良雄宅址・花岳寺である。ここは有名であり、情報には事欠かない。書物もサイトも多い。だから、そちらを参照されたい。→  Link 
 「忠臣蔵」のヒーロー・大石良雄と宮本武蔵の共通点は何かといえば、それは、近世中期の十八世紀ころ、両者ともに演劇化されて英雄になったことである。「忠臣蔵」で敵討ちの定型ができたが、そのせいか演劇の宮本武蔵も、いつのまにか親の敵・佐々木巌流を討つという話になってしまった。
 「忠臣蔵」の原型は事件直後の中村座が初演だが、寛延元年(1748)八月の、大坂竹本座の人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」(二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳作)が定型をつくった。その興行は四ヶ月におよぶ大当りとなった。そこで「仮名手本忠臣蔵」は、ただちに歌舞伎に取入れられ、その年の十二月から大坂嵐座、翌寛延2年3月には京都早雲座で上演された。江戸でも同年二月に森田座、五月に中村座・市村座と、三座揃って「仮名手本忠臣蔵」を演目に出すありさま、かくして三都の劇場はそろって「忠臣蔵」の競演となったという。
 注目すべきは、この「忠臣蔵」の成功と同時期に、武蔵物の演劇化、歌舞伎や浄瑠璃の上演も盛んだったことだ。藤本斗文作・歌舞伎「仇討巌流島」(元文二年・1737年)、その後、浅田一鳥作・浄瑠璃「花筏巌流島〔はないかだがんりゅうじま〕」(延享三年・1746年)、菅専助他作・「花襷会稽褐布染〔はなだすきかいけいのかちんぞめ〕」(安永三年・1774年)等々が算えられる。
 かくして武蔵物演劇は「忠臣蔵」と平行して連綿として続き、ともに近代へと手渡されたのである。
 赤穂で食事をするなら、瀬戸内のうまいものを食べたい。和食では「くいしん坊」、ちょっと値が張るがそれだけの値打ちあり(要予約)。それから何といっても赤穂城前のイタリア料理店「さくらぐみ」、こちらは値段もリーズナブルでおすすめ。予約はとくに必要はないが、人気店なので、待ち時間を覚悟で行くこと。
 赤穂土産はもちろん「塩味(しおみ)饅頭」。小豆あんの甘さに赤穂の塩味を効かせたなかなか上品な味の茶菓子である。店はいろいろあって、それぞれ味もちがう。どれがおすすめか、となると、オーソドックスなところでは、「かん川本舗」。しかし、元祖老舗の味にこだわりたい人には、「播磨屋」である。

赤穂城址



上:大石神社
下:大石良雄宅跡


浅野家菩提寺 花岳寺

かん川本舗
赤穂市加里屋駅前町56
0791-43-2555
播磨屋
赤穂市尾崎222
0791-42-2300



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