宮本武蔵 サイト篇
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現地徹底ガイド 明 石 城 下  (兵庫県明石市)  Back   Next 


明石城 巽櫓


国立公文書館蔵
播磨国明石城絵図
正保2年(1645)作製
 こちらは、武蔵が一時住んだ明石の城下町である。
 どうして武蔵が明石にいたのかというと、小笠原忠政(忠真)が信州松本から明石へ栄転してきて、その忠政が武蔵を客分として招いたことによるらしい。
 客分なのでずっと住んでいたわけではなかろうが、武蔵が明石に縁があった時期は、明石藩創生期の元和〜寛永の時代である。明石の城も城下町も港も、この小笠原忠政の時代に建設開発されたのである。かくして明石の開発事蹟に武蔵関与のさまざまな伝説がのこる。
 本サイトにおける焦点の人物の一人、宮本伊織が少年時おそらく忠政の小姓であったろうが、伊織が武蔵に器量を見込まれて養子になったのも、この明石である。養子縁組という以上、これは家のことであり、武蔵の宮本家は、先に姫路で宮本三木之助を養子にした宮本家、それに続いて、この明石で宮本家が新設されたのである。したがってある時期、姫路と明石に二つの宮本家が並立していたのである。養子縁組をきっかけにした宮本武蔵家の創設、これは加古川泊神社棟札が記す、武蔵の代になって氏を宮本に改めた、という記事とも符合する。
 やがて小笠原家が九州小倉へ転封になると、武蔵と伊織の宮本家も主君に隨って九州へ行く。明石の小笠原時代は15年ほど、その間のある時期が、明石と武蔵の関係したころということになる。
 ここでは、明石の武蔵関係地を紹介する。とはいえ、武蔵の事蹟がはっきりしているのではなく、明石のどこに住んでいたかわかっているわけではない。伊織が小笠原家家臣であったから、武家屋敷のエリアに宮本家はあった、ということしか現段階では言えない。
 あるいは武蔵関係地といっても、後世の文献が拾った伝説によるもので、これが史実であるとする確証はない。そのていどの話だということは承知されたい。
 しかし、具体的な事蹟と場所が明確な証拠をもたないのに対し、明石という町全体は武蔵関係地なのである。したがって、明石の武蔵旧跡はそれが伝説であろうと、そんな伝説を有する町として、廻って観ておくことにするのである。

明石海峡大橋

武蔵関係地と明石
 まず、明石(兵庫県明石市)という町はどこにあるのか。
 図のように、明石は大阪と姫路の中間にある町。旧国制では播磨国の東端、明石海峡に面した港町である。
 明石といえば、淡路島との間の海峡、鯛で有名だが、蛸もおろそかにはできない。明石の蛸は、たこ焼き関西文化においてブランドなのである。
 この明石へ行くにはどうするか、鉄道では、車では?

 【電車利用のケース
 電車にのって行く人は、新幹線で東から行く人なら、まず「西明石」まで行って、そこから一駅東隣のJR「明石」駅下車である。
 ところが「西明石」はひかりはまず停まらない。そこで、東から行く人は、手前の「新神戸」で下りて、そこで次にくるこだまに乗り換えて、「西明石」まで行く。そこで、在来線(JR神戸線)に乗り換えて一駅もどることになる。
 西から行く人で、「姫路」まで行ったばあい、こだまに乗り換えて「西明石」まで行ってもいいが、接続が悪いケースもある。
 そのときは、「姫路」駅で在来線(JR神戸線)に乗り換える。神戸方面行きの在来線「新快速」(十五分おきに走っている)で、この「明石」まで行く。姫路駅からは三十分ていど、「加古川」「西明石」「明石」と三駅目である。
 このJR「明石」駅で降りたら、武蔵関係地はほぼ歩行距離圏なので、歩いて廻れる。しかし足弱の人は、駅前のタクシーを利用すればよかろう。近年は明石でも、武蔵ゆかりの地を知っているタクシードライバーが増えた。

 【車で行く人の場合
 こんどは車で行く人の話である。こちらも交通マップから見ていただきたい。
 比較的近い神戸・大阪の人は、阪神高速・第二神明と来て、「玉津」ランプで下りて、国道175号で行くというルートが、その後がわかりやすくていい。
 もっと遠くから行く人は、西からでも東からでも、いずれにしても山陽自動車道まで行くこと。
 そうして、東から行く人は、「三木・小野」ICで下りる。すると、国道175号線である。これを、南の明石方面へそのまま二十五キロほど走れば、海岸部へ出て行ける。
 むろん、三木JCTから、明石海峡大橋方面へのルートをとって、途中布施畑JCTから北神戸線へ入り、さらに伊川谷JCTから第2神明へ合流して、「玉津」ランプまで行くという方法もある。
 西から行く人は、上記と同様に山陽自動車道の「三木・小野」まで行って、国道175号線へ下りて、明石まで行く。
 あるいは、行程が高砂・加古川とセットなら、前ページの案内を参考にしていただいて加古川バイパス経由、これも、「玉津」ランプで下りて、国道175号で明石まで行く。
 以上どのルートで行っても、ポイントは国道175号である。これで、南へ向って、国道2号線との交差点(和坂・かにがさか)まで行き、これを左折して、明石の旧市街地へ入る。


 明石市内武蔵関係地ご案内

 まずは、何といっても明石城であろう。明石駅のすぐ前に、明石城公園があるから、これはだれも間違わない。
 明石城の築城は、小笠原忠政のときである。天守閣のない城砦としての城である。この小笠原入部以前は、明石川の西に、かのキリシタン大名・高山右近が築城した船下(船上 ふなげ)城があったが、これを廃止して新城を建設したのである。
 明石城の縄張り(基本計画)は、小笠原忠政の舅、つまり奥さんの親父、本多忠政がやったという。忠政・忠政でややこしいが、とにかく、本多忠政は大坂の陣で勝手に堀を埋め立ててしまって、徳川方の勝利に貢献したという策略家、豊臣が滅んだあと、本多は姫路、小笠原は明石と、この舅と聟で播州の守りを固めたということらしい。
 築城は大急ぎの突貫工事でやったらしく、数年で完成している。もちろん悠長なことは言っておれないので、京都の伏見城の一部を移築したり、廃城にした近隣の城から建材を運んできたのである。寺や神社も壊されて材料になったらしい。ずいぶん乱暴な話だが、勝ち組の覇権者のことで、好きなことができたのである。
 現在の明石あたりは、明石浦といって古くからの月の名所であった。柿本人麻呂ゆかりの地であり、人麻呂塚はもともとは明石城のある丘にあったが、築城のためこれを移転したという。これも不遜な仕儀だが、移転しても残されただけまだマシなのである。たしかに城から見る明石海峡は、月の名所であろう。
 一九九五年の阪神淡路大震災は、この明石のすぐ前の海が震源地であった。城も被害を受けた。その後修復工事をやって、現在はきれいな城になって復活している。
 城は海岸段丘の上に築城され、同時に港も整備し、城の前面に港町でもある城下町が建設された。西国街道はここを通した。
 ところが、この明石の町割り(都市計画)を武蔵がやったという伝説があるのである。武蔵没後七十年ほどして書かれた享保年間の文書(明石記)に《宮本武蔵ト云士町割有之ト云》との記事があり、これは平野庸脩の『播磨鑑』にも引用されている。
 へえ、剣豪武蔵がそんな都市計画までしたの、とすぐさま眉に唾する人もあろうが、兵法家というのはそういうこともしたのである。都市計画といっても、現代の町づくりではない。この当時はまだ城塞都市というべきである。イザとなったときの防御を想定したのが、城下町の町割りである。軍事と土木建築のテクノロジー、ミリタリー・エンジニアリングとシヴィル・エンジニアリングは一体であった。『五輪書』にもそのことは窺える。
 しかし、本当に武蔵がそういうことをやったかどうか、それには確証はない。けれども、かなり早期にそんな言い伝えがあったわけである。ともあれ、武蔵が町割りをしたという伝説のある町は、ここしかない。そう思って歩いてみるの一興である。




明石への交通マップ






明石アクセスマップ







明石案内図






明石町割図 『明石記』所収




播磨武蔵研究会作製
享保期明石城下町図
御 城   侍屋敷   足軽屋敷
寺 社   町 家
(播磨武蔵研究会作製)
 さて、町割り云々の話とは別に、武蔵が造園設計をしたという庭をもつ寺が、市内には二つある。こんどは武蔵の造園か、やれやれ――とうんざりする人もあろうが、町割りよりは実はこちらの方がもっともらしい、とも言える。
 それというのも、武蔵は画家としての一面もあることが知られているように、そんなアーティスト武蔵にすれば、造園というのはやった可能性がありそうである。ご存知のように水墨画に山水画というのがあるが、中世以降日本庭園はもともと山水画から発生したアートなのである。
 というわけで、武蔵設計という伝説の庭がある寺の一つは、本松寺(明石市上の丸一丁目)である。場所は明石城の東、少し離れていて、アプローチがやや難しいが、神戸大学付属小中学校の東向いの、道路角にあるからわかりやすい。
 本松寺はもと船下村にあったが、城の移転とともに、こちらへ移されたのである。『播磨鑑』は、この話とともに、月照寺のある人丸山と本松寺の間の清水寺谷に妖怪が出るという話を採録しているが、本松寺に武蔵作の庭があるとは記していない。
 伝説によれば、この寺の庫裏書院の庭が武蔵作庭という。庭はいわゆる枯山水で、築山や滝を結構し、現在は楠や山桃の大樹を背景にしている。やはりここも阪神淡路大震災のときに土塀が崩壊し、現在ではRC打放しの塀で少し趣が変ってしまったが、比較的保存状態のよい庭である。
 庭の見学は、石段を上がって正面建物の玄関に入り、見学を申し込むこと。そうすると、庭の東の戸を開けてくれるから、そちらへ廻って入る。

本松寺 明石市上の丸


本松寺付近図


本松寺庭園枯山水

本松寺庭園石組結構


円珠院 明石市大観町
この門を入ってすぐ左に庭がある




円珠院庭園
 もう一つの寺は、円珠院(明石市大観町)である。場所は、明石駅から南西に一キロほどのところにある。明石川に近い。
 円珠院庭は、小さいながら池泉式の庭園である。ただし、現在は池泉が枯れてしまって、枯山水になってしまっているのが、ご愛嬌である。一部古型をとどめるものの、おそらく庭の原型は現状とは違うもので、この庭を武蔵当時のままとはしにくいが、伝説は伝説として受け取っておきたい。
 この庭は、道路に面した円珠院の門を入ってすぐ脇にある。断りなしにだれでも自由に入れるようになっている。車で行ったら、下図の戒光院の前庭に駐車スペースがある。
 円珠院という以上これは塔頭で、寺は善楽寺という、平安時代からの古刹である。善楽寺の寺域は現在ではかなり小さくなっているが、円珠院のほかにも、隣接して戒光院、実相院などあり、またそれと西の奥に無量光寺がある。
 面白いのはここが、あの『源氏物語』明石巻ゆかりの場所であることだ。こういう話は『播磨鑑』の昔からあったようで、つまり、戒光院はかの明石入道館跡であり、無量光寺にいたっては、光源氏が住んだ屋敷だという。こうなっては、もうお手上げだが、ヴァーチャルなものとリアルなものがかくも入り乱れて混淆しているところは、まさにポストモダンなスポットと言えるだろう。
 それはともかく、明石浦が月の名所で、謡曲『源氏供養』の、紫式部の亡霊が出て、安居院の法印の供養の礼に舞う仕舞の部分に、「生死流浪の須磨の浦を出でて、四智円明の明石の浦にみおつくし…」とある。四智円明と月と明石の連想から「円明流」の名が生じたのだろうとは綿谷雪の説だが、そういう縁もあるわけで、明石・光源氏・宮本武蔵の三項は、無関係ではないのである。


円珠院付近図

善楽寺山門

無量光寺 明石市大観町

雲晴寺庭園遺構 2004年
雲晴寺庭園遺構 2004年
 ところが実は、武蔵作の庭という場所が、二〇〇四年一月にもう一つ出たのである。出たというのは、明石市教育委員会が庭の遺構を発掘したからである。
 場所は、雲晴寺(明石市人丸町)で、本堂再建工事にあたって掘り返したところ、庭園の遺構が出た。その遺構は岩組、池、石橋等を備えた近世初期のものと見えないことはなく、そこで早速、武蔵の作風と共通する、武蔵作の可能性がある、と言い出す者が現れた。
 しかしそうは慌てずに、先入見を排してじっくり調査研究してもらいたいものだ。というのも、すぐ近所に、前述の本松寺庭園があるわけで、近世初期様式と確認できれば、本松寺庭園と同等の武蔵作の可能性があるからだ。
 必ずしもこれを新発見の武蔵作庭とできるわけではないが、これで、明石市内の武蔵作なる庭園はもう一つ増えることになろう。
 しかし、この雲晴寺は、後に記すように、別の意味で重要な武蔵関係スポットなのである。
 以上の3箇処の武蔵作庭は『播磨鑑』にも記載のない伝説によるものだが、ところで武蔵作の庭という物件は、実はもう一つある。えっ、まだあるの、と言われそうだが、こちらは口碑ではなく、文献資料に記載のある庭である。
 つまりそれは、小笠原家関係文書(清流話、小笠原忠真一代覚書)に、武蔵が明石城内の「樹木屋敷」の造園を手がけたという記事がみえる、その樹木屋敷である。
 樹木屋敷というのは、ふつう、大坂城や伏見城で秀吉が作ったような、山家暮らしの鬱蒼とした森の自然環境を人工的に造ってしまう、いわゆる市中山居の、きわめて贅沢な数寄である。小笠原忠政もこれを城内に作らせたらしい。「山里曲輪」と記す明石城絵図もある。
 上掲文書によれば、樹木と御茶屋、築山、植木、泉水、滝、諸事の「物数寄」を宮本武蔵に仰せ付け、一年で完成させたという。これも突貫工事で、夥しい数の人足を集め、また領内の寺院から樹木を集め、大坂や堺まで手をのばして植木を集めたという。
 これを特記しているところをみると、よほどの工事だったらしい。物好きは物好きでも、こんな物数寄には大変な人手とコストがかかる。山里をひとつ造ってしまうほど広大な樹木屋敷の、市中山居の数寄は、それこそ贅沢の極みであるが、この土木造園事業を武蔵に取り仕切らせて完成させた、というのがこの樹木屋敷の話のようである。
 アーティスト武蔵という方面からは武蔵作庭は大いに可能性がある。それに武蔵は、小堀遠州(1579〜1647)と同世代だったことを忘れてはいけない。遠州は明石城縄張りのとき作事奉行として来ていたのである。

*【清流話】
《明石三ノ丸之西頬きしに付、北之方へ長く細き捨曲輪有リ。家居もなく芝原なりし処ニ新き御樹木屋敷を御取建有て、御遊興所と被成御茶屋出来候而、御座敷御風呂屋鞠の懸り旁結構千万也。御茶屋築山泉水瀧なと植木迄の物数寄ハ宮本武蔵ニ被仰付、一年懸り御普請成就ニ而候。此御普請の時御家中より人足を出シ夥敷事ニ候。築山の石ハ阿波讃岐の小豆島迄も大船を遣し御取寄せ被成候。植木ハ明石三木両郡の在所寺院共ニ見廻り候而宜き木を引寄せ、又大坂堺ニ而植木を買調へ船ニ而廻し候。其比ハ右近様江戸江御越之儀ハ無之、御苦労事無御座候而、何事茂御心任せに候。今ニ至り奉考候得ハ、其分か御徳ニ成り候儀と奉存候》



明石城本丸

明石城内(明治19年測量圖による)

 明治から大正まではこの樹木屋敷(山里曲輪)のエリアはそのまま残っていたらしい。大正末期の公園図面でもそれはわかる。御殿の居屋敷は陸上競技場で潰されているが、山里曲輪はまだ残っている。この平面図では、樹木屋敷(山里曲輪)の面積は約一万坪であると知れる。
 では、この明石城の樹木屋敷、いまはどうなっているのか。答えは――かげもかたちもない、それどころか、とんでもないことになっている。ようするに、かの樹木屋敷は何と陸上競技場になってしまっているのである。たぶん池のあったあたりがグラウンドである。
 同じく藩主居館(居屋敷)跡が野球場になっている。これについて言えば、明石城の史跡はあまりにも粗雑に扱われてきたのである。陸上競技場や野球場が市中のド真中にある必要もなく、郊外に移転させればよい。代わりに居館跡や樹木屋敷を復元すれば、観光明石の恰好の客寄せができるだろうに。

明石公園平面図(大正末期)

樹木屋敷跡



明石公園樹木現況 桜堀付近

明石城公園 現況
 ――というのが我々の意見であったが、二〇〇三年の武蔵ブームにあやかった客寄せのために、兵庫県農林水産部という役所が、何と「明石城武蔵の庭園」というものを新造してしまったのである。
 しかしブームにあやかるつもりだったのに、完成したのが翌年春。いやはや何とも、お役所仕事はこうでなくては、というわけで、ブームは過ぎていさいさか間の抜けたオープンだったのである。しかし問題はそういうことではない。
 まず第一に、この「武蔵の庭園」が、また何とそれが樹木屋敷のあった場所ではない。同じ城内だが、以前乙女池周辺に大正期に整備した庭園を「活用」して、上記「清流話」の記事内容に沿って、それらしきものを「整備」してしまったのである、要するに擬い物を。
 ある種、こうした杜撰な企画においても、理由がないわけではない。つまり、(1)大正期に庭園を造ったとき植木庭石などを樹木屋敷から持ち込んだらしい、(2)樹木屋敷の地割(計画)が乙女池庭園と類似しているようだ、といった、まあ(おそろしく曖昧な)この二点なのである。
 樹木屋敷を復元するなら、それなりのことをしなければならない。現在の陸上競技場をぶっ壊して綿密に発掘調査をし、その考古学的調査に基づいて可能なかぎり復元を試みるのでなければならない。しかるに、今回の「明石城武蔵の庭園」たるや、別の場所に造られた大正期の庭園を流用して、それを「武蔵の庭園」にしてしまったわけで、これはまったく考証もへったくれもない。いかにもいい加減な企画であって、御用委員の諸君は何を考えていたのか、理解に苦しむような事業であり、はっきり言ってしまえば、武蔵が作庭したという樹木屋敷の復元とはまったく関係のない話なのである。
 そもそも樹木屋敷の雰囲気は、明石公園の剛の池や桜堀から上の図書館あたりのゾーンの鬱蒼とした森林繁茂ぶりに残っているアレである。しかるに平成新造「明石城武蔵の庭園」は規模は四分の一、当時の「樹木屋敷」や「山里曲輪」の形容にまったく似ていない、あっけらかんとした能のない庭である。
 どうせ金をかけてやるなら、きちんとしたことをやるべきであった。これが将来「バカなことをしたもんだ」とされ、赤っ恥をかくのは眼に見えているし、役所もずいぶんいい加減な税金の無駄遣いをするものだ――という県民の声をきくのであり、むろん播磨武蔵研究会としては、これを「武蔵の庭園」などとは認定することはできない。
 というわけで、つい余計なことまで言ってしまったが、この明石の武蔵関係地は、以上の明石城、本松寺、円珠院、(二〇〇四年遺構発掘の)雲晴寺、それに陸上競技場である。






明石城武蔵の庭(樹木屋敷??)

もっとディープな武蔵スポットはないのか?
 以上は、武蔵ガイドブックならどれでも紹介しているスポットである。我々の武蔵サイトらしいコメントも出たのだが、やはりマニアにとっては不満が残ろう。
 「うーん、明石城と本松寺、円珠院、そして今年遺構発掘の雲晴寺かい。なるほど、陸上競技場というのは面白かったが、他にもっとディープな武蔵スポットはないのかい?」という声が聞こえてきそうである。
 しかし残念なことに、明石にはあまりディープな武蔵スポットはない。寛文六年(1666)の仮名草子『海上物語』には、明石で武蔵と無想権之助が立ち合ったという話が出てくる。これは武蔵死後二十年ほどの書物で、武蔵説話の成立が早いのが取柄だが、たいていのガイドで紹介されているので、いまさらという気がして、マニアの期待に答えられそうにない。



*【海上物語】
《宮本武蔵と云兵法者あり。十六歳より名ある者と仕あひをなす事、六十余度に及ぶに、皆利を得たり。一とせ播州明石に住す。或時人来り、案内をこうて、「無想権之助と申者なり、承及候間御見舞申」と云。武蔵が弟子共、出て見るに、六尺ゆたかの男の、大刀をさし、我におとらぬ弟子共を八人まで、つれゐたり。彼権之介も名有者にて、内々聞及ひし所に、殊に大勢にて来れは、武蔵弟子おのゝけをたつる事すくなからず…》
 そこでまずは、武蔵は明石のどこに住んでいたのか、という問いがあろう。それはわからない、というのが我々の答えなのだが、武蔵の住居は「人丸社下」にあったという伝説が昔あった。
 人丸山の下ならありうる、というのが我々の所見だが、これが、武蔵が町割りをやったということと、どう関係するかと言えば、城下町図を見ればわかるように、武蔵住居が堀で囲んだ城域の外にある点に注目である。
 つまり、明石城及びその家臣団屋敷が工事中、とすれば、その工事区域の外に武蔵が住居を構えていた、という話の成り行きである。まあ、そういうことからすれば、人丸神社の下という場所は、妥当な線なのである。
 柿本人麻呂を祀った人丸社は、もとは明石城を造る山にあった塚を、築城のためここへ移設したのである。現在は柿本神社という。
 「人丸社下」で特定しうるのは、現在では、明石市の人丸山公園の山下にある人丸町内の土地である。ただし、この一件は『播磨鑑』にも記事はなく、我々のこの紹介は、こういう伝説もある、という以上のものではない。それをお断りしておく。

 しかし武蔵マニア諸君らは、もっと突っ込んで問うて来るのである。知りたいのは、武蔵は明石のどこに住んでいたか、である。伝説によれば、それは上述のように「人丸社下」だ――では、それが現在の場所では具体的にどこなのか、と。
 かくして武蔵マニア諸君は、あくまでも武蔵屋敷の現地比定にこだわって、それを要求するのだが、これにはほんとうは答えようがない。これは伝説であって、何か証拠があるわけではない。
 すると武蔵マニア諸君は、それが伝説なのは承知の上で、「人丸社下の武蔵屋敷」の位置を特定してもらいたい、とのマニアックな要求なのである。そうなると、我々の見解を表明せざるを得ない仕儀に立ち至るのである。
 まず、「人丸社下」とはどのあたりか。柿本神社西参道は元禄十二年に設けられたという話があるが、寛永から慶安のころの大久保氏城主時代の「播州明石城図」をみると、むしろ現在の西参道がメインのアプローチのようである。この図だと「神主権太夫」の家が参道上り口にある。すると、「人丸社下」というのは、このあたりに違いない。
 すると、場所特定はそう難しいことではない。それというのも、人丸山の下のゾーンは当時、寺院の領域にほぼ占領されていて、残る場所は限られているからである。
 上記の図では、堀の外に侍屋敷がはみ出しているが、それが武蔵の明石時代にあったとはいえない。大名は転封とともに、自家の寺を持ち歩いたのである。小笠原忠政は、先祖伝来の寺々を信州から明石に持ち込んだが、甥の長次が龍野城主になってその一部を龍野へ移し、また自身の豊前への転封とともに、小笠原家の寺々をもって行った。小笠原忠政の時代、人丸社下にそれらの寺々が一種の寺町のごとく存在したことであろう。
 興味深いのは、播州明石城図によれば、「本性寺」(本松寺)が現在の長寿院の場所にあることである。すると、武蔵作庭という本松寺庭園は、実は現在の長寿院の寺域にあったということになる。したがって、今日の明石観光案内を混乱させることになりそうだが、現在の本松寺庭園は武蔵作庭の可能性がなくなる。でなければ、本松寺は移転とともに、武蔵作の庭までもって行ったということになる。
 しかしもう一歩推測を進めると、人丸社下にに武蔵屋敷があったから近隣の寺に武蔵作庭伝説が生じた、という逆の発想も可能である。人丸社下に武蔵屋敷があり、これがもとの本松寺(本性寺)と隣接し、その武蔵屋敷の庭が本松寺庭園に化けたということである。これは、上述のように、すぐ隣の雲晴寺もまた武蔵作庭伝説を有することによって裏付けられる。ようするに、人丸社下の寺院の武蔵作庭伝説は、ここに武蔵屋敷があったという痕跡なのである。
 とすれば、具体的に武蔵屋敷の場所を特定できるか。当然手がかりはないが、無責任な場所特定をすれば、寺域以外で人丸山の下というと、「播州明石城図」の神主権太夫の家が目印になる。しかもここが、すぐ背後に山を控えて、屋敷内に庭園を作るにはもってこいのところであり、武蔵の数寄からして、ここしかあるまい、という場所なのである。
 そうすると、その比定地(人丸町三)は、柿本神社西参道の鳥居のある西のあたりである。鳥居脇には明石の名水、播磨三名水のひとつと地元明石で主張している「亀の水」がある。なるほど、近所まで行くなら、ボトルご持参を勧めるスポットである。茶の湯に必須のこの名水湧出、これも「数寄者」武蔵に何らかの縁がありそうな環境である。
 亀の水の石碑には「一七一九年以前より湧出」とあるが、これは手水鉢寄進の時期・享保四年を記す『播磨鑑』に拠ったもので、しかしそれでも同書にはまだ「亀の水」の名はない。むろん武蔵屋敷はそれより百年も前のこと、おそらくこの霊泉名水も、もとは実は武蔵屋敷の一部だったかもしれない、とは当方勝手な憶測である。
 この武蔵スポットの現状は、下の写真の通り、いかにもファリックな形状の天文科学館の塔が聳えるのが間近に見える、細い路地の人家の密集している場所で、むろんそこには「人丸社下の武蔵屋敷」とする何の標識もないし、これまでここをそれと特定した説もない。そういうわけで、ここはディープな場所とまでは言えないが、現段階ではマニアックなスポットなのである。
 かくして、我々の所見をここで公開してしまったので、「人丸社下の武蔵屋敷」という伝説の場所を特定する標識が、ここに設置されることになりかねない。観光名所捏造を教唆しているようで、はなはだ遺憾なことだが、武蔵マニア諸君の問いに応じるとすれば、以上のようなことなのである。


*【万葉集】
天離る鄙の長路ゆ恋来れば
  明石の門より大和島見ゆ(柿本人麻呂)



人丸山柿本神社 明石市人丸町






武蔵屋敷伝説比定地
BaseMap: 播州明石城図(寛永〜慶安)




武蔵屋敷伝説比定地周辺図



柿本神社西参道と亀の水

*【播磨鑑】
《手水鉢 西坂鳥居下に有り。常陸國飯塚氏寄付。手水鉢ノ上、亀型石樋水口、享保四年己亥年十二月ニ成る》
【子午線と武蔵屋敷】
 東経一三五度、いわゆる子午線が明石を通る。日本標準時の座標である。ただし正確には、明石天文科学館の場所が東経一三五度ではなく、二〇〇二年以後適用された世界測地系では、上記武蔵屋敷比定地付近を子午線が通る。GPSをお持ちなら現地でテストなさるとよい。我々は武蔵マニアの向けの現地比定ゲームにおいて、「武蔵屋敷は厳密に東経135度00.000分の位置にある」と規定している。


武蔵屋敷付近 明石市人丸町3
この路地あたりが武蔵屋敷か

柿本神社西参道鳥居下
亀の水を汲みに来る人々が群れる

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明石から福聚院まで


谷口から福聚院まで


福聚院




福聚院庭園
 というわけで、GPSによる誤差十m以内というおそるべき厳密性と、武蔵屋敷伝説そのものの本来的な恠しさ、という究極のアンバランスを愉しんでもらった後は、さらにマニアックな武蔵スポットの探索が続くのである。
 そこで、別のディープな武蔵スポットということでは、福聚院はどうだろう。これは明石近辺でもう一つ忘れてはならない武蔵作庭伝承のある寺である。
 場所は明石市内ではない。神戸の市域(神戸市西区櫨谷町谷口)にある。しかし神戸市域だからといっても、それは近年のことで、本来は明石郡櫨谷庄である。神戸市という役所が、今のように何兆円も借金を抱えて四苦八苦しているのではなく、その昔「神戸市株式会社」と呼ばれて威勢がよかった頃、どんどん周辺郡部を市域に編入する勢い余って、隣国播磨の明石郡の村々まで取り込んでしまった結果であるにすぎない。現代の行政区域の線引きは、伝統的な国境を無視しているわけである。
 ところで、福聚院をディープなスポットに数えてよいのは、そのアクセスの難しさによるのである。明石城公園の堀の西を北上する県道52号で、真っ直ぐ七キロほど、櫨谷〔はせたに〕町谷口あたりまで行ける。山の向うに西神ニュータウンの高層集合住宅が林立しているのがみえる。これでは田舎の風情はブチ壊しである。
 ここまではだれでも来れる。問題はそこからで、初めて来訪の人はたいてい途方にくれる。県道に案内板表示一つ出ているわけではない。
 しかし、アプローチの仕方を示せば、まずは谷口の信号が県道にできたので、それが目印になる。そこから未舗装の細い道路(二〇〇四年現在)をしばらく進み、左に折れて山間の谷筋の道に入る。ここからは単に細いだけではなく心細い道をたどるわけである。道の途中には何やら資材置場みたいな無粋な建物があり、山間の谷の道なのに決してよい環境とはいえない。それだけでもメゲてしまう人がいるかもしれない。
 ただし、そんな心を励まして行くべきであり、やがて如意寺の前を通り過ぎ、それでもますますあやしくなる一方の細い道を先へ進めば、小川の小さな橋の手前で二股道である。左手の道は荒れ田の中の細道で、進めそうにもない。右手はその先は何やら行き止まりのようにみえる。
 かくして卒然、途方に暮れて、引き返そうということになるはずである(とくに車で来た場合は)。ところが、実はこの左手の細道こそが正解であって、そこへ進入し細道を何とか辿って上がっていけば、福聚院なのであった。
 寺院のたたずまいは清澄である。「福聚律院」とあるように、これは当地に珍しい律院である。元来は天台宗如意寺塔頭の一つで慶長年間の検地帳にそれを確認しうるが、元禄十一年の比叡山安楽律院立制とともに律院となり、明治の廃仏棄釈を経てもなお残ったという。
 本尊阿弥陀仏を安置する本堂は近世初期の建築で、本来は茅葺だったが現在は瓦葺である。文殊堂と庫裏は明和年間(十八世紀後半)と新しい。しかし文殊堂にある吉祥天像はかなり古く、またそこにある阿弥陀仏と開山坐像は近世の作品ながらなかなかすぐれた彫刻である。
 さて、この福聚院のことである。信州から入部した小笠原忠政はここ明石郡の領主となって、前述のように明石城を建設しそこに拠ったのだが、この櫨谷にある天台宗の古刹・如意寺の三重塔の改修を行ったらしい。そうすると、小笠原忠政の如意寺とのこの所縁をもってすれば、福聚院の庭が武蔵作というのも、明石市中の作庭伝説とそう遜色はない口碑である。
 ところが、明石市内からはずれているために、武蔵作庭伝承のあるもう一つの寺院であることが忘れられはじめているわけである。ただ、気の利いた武蔵ガイドなら、一応取り上げるスポットなので、ここでそう大して力説すべきものではないが、それでも武蔵ガイドブックにこれを洩らす例が多くなったのである。ここの参観にはやはり予約が必要である。前もって電話を入れて都合のよい日時をきいてから行くといい。→ Tel 078-991-4818
 福聚院の庭は、とくに阿弥陀堂と庫裏が並ぶその北庭、裏山を取り込んだ枯山水である。大滝・小滝の二つの枯滝を組み、蓬莱石・遠山石を結構し深山幽谷の模型とみえる。この滝や泉水を擬した庭は百坪ほどと大きなものではなく、現状はありふれたものにしか見えないが、これはしっかりした調査をすればおもしろい結果が出るかもしれない庭である。
 帰りには、やはり如意寺を観ることを勧める。この寺は法道上人が大化元年(645)に開いたという古刹。鎌倉期の阿弥陀堂、室町期の三重塔と文殊堂と、なかなかよい堂塔建築が残っている。いずれも重文指定の建造物である。

如意寺阿弥陀堂

如意寺三重塔


福聚院から櫨谷城址

*【播磨鑑】明石郡の端谷城
《端谷城 竪六十間横五十間 櫨谷庄在寺谷村
城主ハ、衣笠五郎左衛門掾範弘長子同豊前守範景。父ハ、大永年中ニ置鹽赤松、浦上カ爲ニ衰ヘシ時、忠義ヲ盡セシ人也。範景は三木別所の幕下トナリ天正ノ亂ニ忠義ヲ盡シ討死ス》



櫨谷城址
神戸市西区櫨谷町寺谷
 上述のように、ここは大規模ニュータウン開発に包囲されて、かろうじて残った谷筋である。
 言い換えれば、秘境のイメージがあるが、すぐ側の住宅地からは徒歩圏内、いわば散歩コースである。それゆえに、ディープであるはずの場所は、ディープでもなんでもない。「道に奥も口もない」とは『五輪書』の言葉だが、まさにそのように、どん詰まりの最奥部が、膨大な住宅群と背中合わせなのであった。まことに明石からは遠い奥地だが、実は神戸都心に直結する地下鉄西神線の駅「西神南」から伊吹台の住宅地を抜けて、歩いて来ることもできる。
 そういうわけで、我々はここをディープなスポットに加えるに躊躇せざるを得ないのだが、現状、そのたたずまいの一面からして、ここをマニアックな武蔵スポットに指定しておくということである。
 ただし、これが実は「櫨谷」〔はぜたに〕という地名を有することで、かの衣笠氏の拠った櫨谷(端谷)城と一つのゾーンであることにより、はじめてこの櫨谷がディープな武蔵ゾーンとなるのである。
 なぜ、衣笠氏の拠点であるこの櫨谷が、マニアックな武蔵スポットであるかについては、本サイト[資料篇]の諸論文を参照していただくことにして、ここでは、櫨谷城主・衣笠範景のことである。すなわち、天正五年(1577)秀吉が播磨に入ると赤松一族の多くは帰順したが、翌年三木城の別所長治が秀吉に叛旗を翻し、このとき櫨谷城の衣笠範景は別所長治に与して三木城に籠城して、秀吉軍と戦った。天正八年三木城落城とともに範景は戦死したという。
 『播磨鑑』明石郡の端谷城の條には、《端谷城 竪六十間横五十間 櫨谷庄在寺谷村》とあって、城主の衣笠豊前守範景のことを記している。
 端谷の衣笠氏は滅んだが、範景の弟・衣笠久右衛門(因幡守景延)はのちに黒田二十四騎の一人として筑前で三千石の中老になったという。寛永八年(1631)歿、享年七十九歳、兄と違って半世紀も長生きしたわけである。
 櫨谷城址は、櫨谷町谷口よりまだ六キロほど奥の、櫨谷町寺谷にある。三の丸跡地に満福寺という寺がある。しかし、衣笠氏と武蔵が何の関係があるかというと、これは美作説の『東作誌』のせいなのである。

兵法三代 柴任三左衛門美矩
 ここで話は替わるが、実はもうひとつ、とっておきのスポットが明石市内にある。これまで明石に関する武蔵関係地ガイドはさまざまあったが、そのどれも知らなかった、ディープな場所なのである。
 すなわちそれは、柴任美矩(しばとう・よしのり)の墓である。柴任美矩と云っても、まだ知る人は少ないが、兵法三代、つまり、武蔵の孫弟子にあたる人物である。その柴任の墓が、播州明石に現存するのである。
 柴任の墓を具体的に記録した文献史料としては、「藤郷秘函」がある。それによれば、安永年間というから、柴任歿後約七十年後のことだが、筑前福岡の黒田家臣で、筑前二天流八代・大塚藤郷(藤実)が人を介して明石に照会し、柴任の命終日・法号・葬地の情報を得た。そしてその記録に、宝永七年庚寅閏八月二十日、明石に卒す。同郡大蔵谷雲晴寺に葬し、法謚して萬境院固岳道隨居士と云う――とある。柴任の葬地に関する江戸時代の資料は他にもあるが、それを、雲晴寺と明記した史料は他にはない。その意味で貴重な記録である。
 さて、云うところのその「大蔵谷雲晴寺」は明石に現存する。つまり、上述の武蔵作庭に関して話題に出た雲晴寺(現・明石市人丸町)がそれである。そして、大塚藤郷の記録にある柴任美矩の墓も残っている。


世記 藤郷秘函巻之八

雲晴寺 明石市人丸町

雲晴寺墓地

柴任夫婦の墓
 墓碑正面の法名は「固岳道隨居士」、墓碑背面を見るに、「柴任氏道隨重矩」と晩年の名が記されており、また、命終日は破損があって見えないが、「宝永七庚寅年」とまでは刻字がのこる。
 隣の墓は、「清窓貞殷大姉」と法名が刻まれ、元禄十五年十月十八日の命終日がある。背面には、「柴任氏重矩妻、大原氏岩」の名があり、和州(大和国)郡山に産れ、播州明石に於て卒すとある。まぎれもなく、柴任の妻の墓碑である。
 そうして、墓の建立者として、柴任右傳士重正と大原清三郎正矩の名がある。この二人は後述のように、柴任夫妻が養子にした者で、実は橋本七郎兵衛の息子たち、柴任夫妻には孫にあたる。それぞれ、柴任の家名と、妻の実家・大原氏の家名を嗣いだのである。
 この柴任の墓は、同寺墓地内であちこち移されたらしく、昔見たという人の話とは今は場所が違っている。近年は無縁墓に紛れ込んでいたらしいが、つい最近(二〇〇九年)になって分りやすい所に移設され、墓域も整備されて、和尚による解説看板も立ててある。
 まさに行方不明になりかけたが、危ないところで救われたのである。歴史というのは綱渡りのようにリスキーなところがある。この柴任夫婦の墓は、明石の文化財産である。向後、大切に伝えて行くようにしていただきたいものである。
 さて、墓碑もまた歴史資料である。他の文献史料にはない情報も、この墓碑にはある。そのあたりを確認しておくためにも、以下一通り柴任美矩のことを見ておく。



柴任墓背面側面
柴任氏道隨重矩 墓
宝永七庚寅年
 それは、享保十二年(1727)の『丹治峯均筆記』の自記に、著者・立花峯均〔みねひら〕が書いている明石でのことに関連する。
 立花峯均は筑前黒田家の家老立花重種の息子で、自身、黒田綱政に仕えた家臣である。兵法は、四代・吉田実連〔さねつら〕に学び、一流を相伝された者である。吉田実連のことは、[サイト篇]姫路城下のページで述べられている。
 峯均は吉田実連のもとで修行を続けていたが、そのうち実連が病気になり、年を追って気力が衰えて、兵法伝授ができなくなった。そこで実連から、その師匠・柴任美矩へその事情を伝えた。弟子の立花を何とかしてやってくれませんか、というわけだ。
 この柴任美矩は、峯均にとっては師匠の師匠である。柴任は武蔵晩年肥後にあったときの直弟子・寺尾孫之丞の弟子である。老人だが、まだ存命中である。この柴任が、そのとき明石に住んでいたのである。
 『丹治峯均筆記』によれば、吉田実連自身、柴任から一流相伝を承けたのは、明石においてである。吉田が江戸御留守居を命じられて江戸へ行く途中、明石に立寄って柴任から相伝された。これは延宝八年(1680)のことだというから、立花峯均が明石で柴任に会う二十年以上も前である。じっさい、柴任が明石に居住した期間はほぼ三十年にわたる。そういう意味で、柴任は明石に縁の深い人物なのである。
 さて、立花峯均は、元禄十四年(1701)に主君参勤のお供で江戸往きの途中、明石で柴任美矩に腕前を覧てもらったことがあった。それで元禄十六年(1703)吉田実連は、師匠の柴任美矩に、この立花峯均に兵法伝授してほしいと申し入れた。柴任はこれを了承し、当時江戸勤務であった峯均に対し、明石で伝授しようと言ってよこした。
 (余談になるが、元禄十六年の春となると、前年暮れ吉良討ちをした大石良雄以下赤穂浪士が切腹仕置となった頃である。その前後、峯均は江戸にいて、討入り事件と遭遇したのである)
 同年四月、主君御入国(筑前福岡へ帰国)のとき、峯均はそれに随行し、大坂での御用等を済ませ、一人勝手に明石へ行く許しを得て、このときは大坂から小船で直接明石へ向った。この年は大雨が続いて河川が増水し、大坂は橋の下を御座船が通れず、大坂に両日御逗留であったので、そのチャンスを逃さず、明石へ先回りしたのである。おそらく小船で海路行ったのは、途中の兵庫まであたりが洪水で陸路踏破ができなかったせいだろう。
 さて小船で明石へ着岸した峯均は、柴任の家へ行き、二晩止宿して、このとき直通伝授があったわけである。だから、峯均は四祖吉田実連の弟子だが、このように三祖柴任美矩からも伝授のことあり、という少し変則的な相伝者なのである。
 柴任の家で二泊して伝授の成果を得たところで、もう明石の沖を藩主綱政の御座船が通る予定の日である。峯均は柴任に見送られて浜から漕ぎ出した小船で御座船に乗り移っただろう。それから長崎に下着する随行を終えて、五月二十八日、吉田実連から(兵法書)「空之巻」を渡され、三箇之大事を再授して、一流成就した、という次第である。

 ところで、峯均に兵法伝授した柴任美矩は明石にいた。では、柴任の家は明石のどこにあったか。
 武蔵マニアなら周知の通り『丹治峯均筆記』によれば、道隨〔柴任の号〕の居宅は、明石の「水主町のはずれ」で、海辺からほど近いところにあったという。では、明石の「水主町」とはどこなのか?――これが、マニアの期待水準に応じうる、まさしくディープな問いであろう。
【筑前二天流系譜】

大祖 新免武蔵守玄信

2祖 寺尾孫之允信正

3祖 柴任三左衛門美矩

4祖 吉田太郎右衛門實連

5祖 立花專太夫峯均



*【丹治峯均筆記】
《(吉田実連は)其後、一倍ノ御加恩ニテ、江戸御留守居被仰付、東府ヱ参カケ明石ヘ立寄、柴任出會一流相傳アリ。コレ延宝八年庚申四月廿二日ナリ。兼テノ目利ニタガハズ、一流成就セシ事、美矩後マデモ自賛セラレシ也》
《予、二十一歳ノ春ヨリ吉田實連門人トナリ、十三年之功ヲ積ンデ、元禄十六年癸未五月廿八日、一流相傳セリ。十九歳ヨリ、邦君綱政公之御膝下ニ勤仕シ、少ノ暇、日夜無懈怠兵術修行ストイヘ共、不省ノ身、イカデカ此道ヲ成就センヤ。コレ、ヒトヘニ實連ガ兵法、愚父重種ガ恩儀タルノチナミヨリ事發レリ。實連門人数百人之内、予一人ナラデ傳授ノ者ナシ》
《柴任モ愚父旧友ノ志深ク、度々文通。元禄十四年辛巳四月、東府ヨリ御下國ノ節、摂州兵庫御泊船、明石ヱノ御暇申上、鶏鳴ニ兵庫ヲ發足シ、明石ヘ相越、柴任面會、終日稽古セシナリ。柴任妻[大原惣右衛門妹。翌年卒ス]、此時迄ハ息災ニテ、夫婦悦ビニタヘズ。其外、婿ノ橋本七郎兵衛、同人一男善兵衛、二男柴任源太郎、三男大原清三郎、七郎兵衛婿弟等、一類中コゾリテ饗セリ。同夜半兵庫ヘ帰着ス》
《コレヨリ前、實連病差出、年ヲ追テ氣力衰ヘ傳授成ガタキユヘ、柴任方ヘ實連ヨリ其趣ヲ達ス。道隨モ前々年予ガ兵法一覧アリシユヘ、点頭シ、明石ニテ傳授可有旨、元禄十六年ノ春、東府ヘ申来ル。同四月御入國ノ刻、大坂ニテ御用等相仕廻、明石ヘノ御暇申上、此節ハ、同所ヨリ小船ニテ、直ニ明石ヘ着岸ス。道隨居宅、明石ノ水主町ノハヅレニテ、海辺ヨリ程近シ。[今年打ツヅキ強雨、川水増、大坂橋ノ下、御通船成ガタク、同所ヘ両日御逗留也] 早々通達、老人迎ニ出ラレ、両夜止宿シ、直通傳授アリシナリ。前々年ノ如ク、一族コゾツテ奔走セリ。
 御座船明石ノ沖御通船ノ節、乘移ル。下著長崎御供相仕廻、五月廿八日、實連ヨリ空之巻被相渡、三ケ之大事ヲ再授シテ、一流成就セリ》



播磨武蔵研究会作製 享保期明石城下町図から
「水主町」はここだ


播州明石図
播州明石図(十七世紀後半)


 もちろん、これが武蔵マニアにとって難易度が極度に高い問題設定であることは云うまでもない。たしかに、これは武蔵研究史上未聞のことであって、だれも解答を出した者がないのである。しかし、いままさに諸君が見ているこのページで、はじめて柴任美矩の明石の居宅がつきとめられるのである。
 では、水主町はどこかというと、享保年間の絵図でみると、たしかに明石湊の奥深い入江をつくる中崎に「御水主町」という一角がある。このケースでは「水主」の読みは「すいしゅ」ではなく「かこ」であり、したがってこれは「おかこまち」と呼んだのだろう。
 「御水主」とは藩主の御座船の水夫たちのことである。入江の御水主町の前が「御船登場」である。入江の対岸には、月の名所・浜光明寺と並びに「御船宮」がある。ここが御座船の船泊りであろう。
 明石藩では御座船の水夫たちを、入江を抱いた中崎に住まわせて、御水主町としたのである。もっとも、大昔から明石浦の水主は諸記録にあるから、ここはもともと水主の村だったかもしれないが。ともあれ、『丹治峯均筆記』のいう明石の「水主町」は、絵図史料で場所を特定しうるのである。
 もとより、寛永〜慶安時代の「播州明石城図」には、明石湊の西に「船手」の住む区域があって、当時はここに水夫たちを住まわせていたものであろう。ただし「船手町」という名はない。また、同図には中崎に上記「御水主町」はまだない。ところが、慶安以後、松平氏入部以前の状態を示す「播州明石図」には、当の場所に水主町の集落形成が確認しうる。したがって、この間に移転があったものであろうと推測しうる。
 『丹治峯均筆記』の「水主町」とは中崎の御水主町であるとして、それでは「水主町のはずれ」とは、どういうことか。これは城下町中心からみて外側のことだろうから、水主町の「東」のはずれ、つまり入江のいちばん奥の方、大蔵谷村との境に近いあたり、というのが我々の結論である。
 ここまで来て、おそらく「ムサシ・マニアな心」は、ほぼ満足の体であろう。『丹治峯均筆記』が云うところの《道隨居宅、明石ノ水主町ノハヅレニテ、海辺ヨリ程近シ》という一節をめぐる長年の鬱積が解けたことであろう。三祖柴任美矩が住んでいたのは、たしかに浜辺に近い、すぐ海辺である。
 さて、ここでさらにもう一つ、この[サイト篇]ならではのことだが、武蔵マニアを自認する諸君にサービスしておけば、
――では、現在の明石の町で、かの柴任宅はどのあたりなのか?
という現地比定問題への解答であろう。我々はこの件についても、すでに比定地を絞り込み、特定もしている。
 まず、水主町という地名は現存しない。しかも海岸線は埋め立てられて、昔よりもかなり前へ出ている。現在の国道28号のラインが当時の海浜であっただろう。かようにも周辺はかなり変貌している。
 そこで、我々は問題の「水主町」につき、現在の明石市役所、市民会館の北向いにある相生町の一部をそれとみなしている。享保絵図によれば、このあたりに松林があったと見える、おそらく、「相生の松」の換喩的操作から、水主町は相生町へ名を変えたものであろう。現状もたしかに松並木が存在する。
 したがって、入江はどこまで来ていたか、という問題には、我々の解答に符合するように、痕跡が現存する。すなわち、「中崎遊園地」という公園空地やその東部、住宅や駐車場が混在している東西に細長いエリアがそれである。
 そうすると、「水主町のはずれ」というのもほぼ確定できる。すなわち、それは現在の中崎公会堂(明石市相生町1丁目)の西側あたり、このポイントこそ柴任美矩居宅のあった近辺なのである。現在の地名地番では、相生町一丁目八番地あたりである。
 中崎公会堂の場所は、市役所・市民会館が並ぶ前の道路(国道28号)を、東へ数百m行ったあたり、十字路の角の、少し地形が高くなったところに建っている。ここが中崎の背梁の東端であって、道路を隔てた東のエリアはかつての大蔵谷村である。
 かくして、柴任宅現地比定問題への解答は、以上である。もし将来、奇特な人があって、柴任美矩居宅旧跡の碑を建てたいのなら、上記番地付近の松並木の一角にでも建立なさるがよい――とは、我々の現地比定研究に基づく提案である。

明石市内現在図




柴任宅現地比定図

比定地付近の松並木 道路右手はもと入江部分
明石市相生町一丁目八番地付近

中崎遊園地 もと入江の一部
明石市相生町二丁目十三番地付近
 さて、中崎公会堂というのも、公共施設(明石市立)としてはかなりおもしろい。この公会堂は木造で、千鳥破風の屋根や鬼瓦のある和風の建物、建築は明治四十四年である。西洋化一辺倒の熱がいったん沈静し、むしろ逆に日露戦争後の国粋主義高揚の時代の建築意匠である。それがまだ保存されているだけではなく、現在もなお、地域のコミュニティホールとして現役でありつづけている。それがユニークなところである。
 この中崎公会堂の落成記念に講演会を開催したのだが、講師にだれが来たか――かの夏目漱石なのである。講演の題目は「道楽と職業」、無用な道楽を職業とする話、漱石論などでときどき引用される有名な講演記録である。
 かくして、『丹治峯均筆記』、立花峯均、柴任美矩、そして漱石がこの場所でリンクしてしまうのである。そればかりか、まさに漱石講演が道楽をテーマにしたというのであるから、これは武蔵の号の一つという「道楽」とも符合してしまうのである。
 ――というわけで、明石にはあまりディープな武蔵スポットはない、と最初に言ったのは、まさに韜晦と申すべく、実はこれほどのマニアックなスポットが存在するのである。

中崎公会堂

夏目漱石 千円紙幣
漱石先生も、よもや自分がお札になろうとは
夢にも思わなかったであろう
*【道楽と職業】 中崎公会堂落成記念講演
《明石という所は、海水浴をやる土地とは知っていましたが、演説をやる所とは、昨夜到着するまでも知りませんでした。どうしてああいう所で講演会を開くつもりか、ちょっとその意を得るに苦しんだくらいであります。ところが来て見ると非常に大きな建物があって、あそこで講演をやるのだと人から教えられて始めてもっともだと思いました。なるほどあれほどの建物を造ればその中で講演をする人をどこからか呼ばなければいわゆる宝の持腐れになるばかりでありましょう。したがって西日がカンカン照って暑くはあるが、せっかくの建物に対しても、あなた方は来て見る必要があり、また我々は講演をする義務があるとでも言おうか、まアあるものとしてこの壇上に立った訳である》
《私は職業の性質やら特色についてはじめに一言を費やし、開化の趨勢上その社会に及ぼす影響を述べ、最後に職業と道楽の関係を説き、その末段に道楽的職業というような一種の変体のある事を御吹聴に及んで私などの職業がどの点まで職業でどの点までが道楽であるかを諸君に大体理会せしめたつもりであります。これでこの講演を終ります》(明治四十四年八月明石において述)

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 ところが、柴任の明石での事蹟については、まだ続きがあった。これを付け加えておかねばならない。
 姫路城下のページで述べられているように、柴任は姫路城主・本多忠国(政武)に召出され、その後数年勤めたが、事情があって姫路本多家を致仕した。そのとき年齢はおそらく六十前であろう。
 姫路を去った柴任は、明石へ戻った。戻ったというのは、姫路出仕以前、明石にいたからである。つまり、『丹治峯均筆記』によれば、延宝八年(1680)四月、参府の途中、明石で柴任から一流相伝したとある。とすれば当時、柴任は明石にいたのである。その後、柴任は明石の本多家を致仕して、近江の大津に居た時期があるが、それからまた明石へ戻って、そうして姫路の本多忠国(政武)に召出されたというわけである。
 このように明石が柴任の居留地になっていたのは、『峯均筆記』によれば、妻の姪を養女にして、この養女がその夫と明石で一家を営んでいたからである。夫の名は、橋本七郎兵衛、『峯均筆記』に、《松平若狭守殿家臣、橋本七郎兵衛》とある者である。
 柴任が姫路から明石へ帰ったときの明石藩主は、越前大野から転封した松平若狭守直明(1656〜1721)で、これが橋本七郎兵衛が仕えた主人である。若狭守直明の子が左兵衛督直常(1679〜1744)で、父の直明が元禄十四年(1701)に引退して家督相続、以来、寛保三年(1743)まで40年以上にわたり明石城主であった。
 ともあれ、柴任の養女(妻の姪)の夫・橋本七郎兵衛は、松平若狭守直明に仕え、明石に住んでいたわけである。しかし、彼らもそれまで安穏にやって来れたのではなかったようである。
 というのも、おそらく橋本七郎兵衛が柴任の養女と夫婦になったのは、明石ではなく、おそらく大和郡山時代である。つまり、橋本七郎兵衛は柴任と同様に本多出雲守政利(1641〜1707)の家臣であり、政利の明石転封に従って、明石へ来たものであろう。ところが、前に少し触れた大原家家督問題がここに生じた。
 つまり、柴任の妻は大原氏で、その実家・大原惣右衛門家が、甥の代に無嗣子となるに及んで、柴任が大原家存続のために運動したが、それが実現しなかったのである。かくして、大原家は廃絶、柴任は憤激して明石の本多家を去った。
 こののち、明石城主・本多政利は、放蕩・粗暴など素行が悪いという理由で、天和二年(1682)陸奥国岩瀬郡一万石に改易されてしまう。この本多政利改易後の明石城主が、松平若狭守直明である。
 陸奥ではその後も政利の不品行と苛政の不徳行為がおさまらず、結局、元禄六年(1693)領地没収、身は庄内藩主・酒井左衛門尉忠真に預りとなった。それでも政利の狂気の振舞いはおさまらず、元禄十五年(1702)こんどは三河岡崎城主・水野監物忠之へ預けられたという。政利は岡崎城内に幽閉されたのである。
 この水野忠之は、前年暮れの赤穂事件のおりも討入り浪士九人を預かっている。吉宗の下で老中になる人である。政利は岡崎城内に監禁されたまま、宝永四年(1707)に死んだ。六十七歳。墓は岡崎の源空寺(愛知県岡崎市東能見町)にある。
 本多政利は「鬼内記」とあだ名された政勝の長男である。おそらく政利の「狂気」は、古い武士の暴力的な血が騒いでいたのである。柴任が九六騒動の後この本多政利に進んでついたとすれば、政利の焦燥に付き合ったものであろう。それで転封にも随って明石まで移ってきたのである。
 しかし、大原家家督問題が生じるに及んで、柴任は本多政利を見限った。そうして致仕牢人して、一時明石を離れるが、おそらく婿の橋本七郎兵衛が、新城主の松平若狭守にありついて、明石で再就職したことで、柴任夫婦も再び明石で暮らすようになったのであろう。
 それ以後は、柴任が姫路城主・本多忠国に五百石で仕官することもあって、柴任は一時明石を離れ姫路に住んだ。それもしばらくの間で、柴任は姫路本多家を致仕して、また明石へ舞い戻ったのである。



姫路城


*【丹治峯均筆記】
《夫ヨリ、柴任播州明石ニ往〔き〕居ス。城主松平若狭守殿[左兵衛督殿御父]家臣、橋本七郎兵衛、柴任婿ナリ。三左衛門無嗣子、女ハ妻ノ姪ナリ。七郎兵衛子供大勢アリ》



柴任美矩関係地



*【本多家略系図】

 ○本多忠勝┐
  ┌―――┘
  ├忠政┬忠刻
  |  |
  |  ├政朝―政長=忠国→
  |  |
  |  └忠義―忠平
  |
  └忠朝─政勝政利





岡崎城 愛知県岡崎市康生町

*【丹治峯均筆記】
《元禄十四年辛巳四月、東府ヨリ御下國ノ節、摂州兵庫御泊船、明石ヱノ御暇申上、鶏鳴ニ兵庫ヲ發足シ、明石ヘ相越、柴任面會、終日稽古セシナリ。柴任妻[大原惣右衛門妹。翌年卒ス]、此時迄ハ息災ニテ、夫婦悦ビニタヘズ。其外、婿ノ橋本七郎兵衛、同人一男善兵衛、二男柴任源太郎、三男大原清三郎七郎兵衛婿弟等、一類中コゾリテ饗セリ。同夜半兵庫ヘ帰着ス》


*【柴任美矩子孫】

○本庄喜助┬本庄角兵衛
     |
     └柴任三左衛門
        │
       ┌ 柴任妻
       |
 大原勘右衛門┴惣右衛門┐
 ┌――――――――――┘
 ├惣右衛門 無嗣廃絶
 |
 └女 柴任養女
    ├─――┬善兵衛
 橋本七郎兵衛 ├柴任源太郎
        └大原清三郎




柴任夫妻墓 側面背面
雲晴寺墓地
















*【本庄家別冊家系譜】
《其後宝永七年閏八月廿日卒于明石領中ノ庄。子孫無シ。号一鑑道随》





明石城










*【本庄家別冊家系譜】
《其後[年月不分明]、大和郡山太守・本多内記殿ニ被召出、食禄賜四百石。同家中大原勘右ヱ門女ヲ嬰ル。無子ヨツテ、兄正薫妻ノ姪・浦上十兵ヱ女ヲ養女トシ、彼地ニ連越居住ノトコロニ、其女無程病死。本多侯モ身上被滅ニ依テ、暇ヲ乞、又々江戸エ趣ト云々。
寛文七年一族中見廻ノタメ肥後エ来、無程江戸エ趣ト云々》
 『丹治峯均筆記』の記事によれば、元禄十四年(1701)に立花峯均が明石の柴任宅へ行って、柴任から稽古をつけてもらったとき、これは摂津兵庫湊からの日帰りであったが、上述の水主町のはずれの柴任宅へ、一族の男たちが集って歓待してくれたという。
 そのとき峯均を歓迎した人々は、柴任夫婦(柴任妻は翌年死去)、そのほかに「婿ノ橋本七郎兵衛」とその子どもらの名がある。ちなみに橋本の男子は三人、それに「七郎兵衛婿弟」まで来たというから、嫁にやった娘がいたのである。
 『丹治峯均筆記』には、柴任妻は翌年卒と書いている。このときは、元禄十四年(1701)である。翌年というと、元禄十五年(1702)である。これは、上に見た雲晴寺の墓碑の刻字と一致する。すなわち、柴任妻の歿年は、雲晴寺の墓碑と『丹治峯均筆記』の記録とで一致する。
 立花峯均は、翌々年明石を再訪するから、この間に死去した柴任の妻のことが印象深く記憶に残り、ここに割註して記したのであろう。
 しかし他方、墓碑だけが記す情報もある。それは一つには、柴任妻の命終日が元禄十五年の十月十八日だったということである。もう一つは妻の名である。法名は別にして、女性の俗名は残らない時代だが、この墓石にはそれが記してある。柴任の妻の名は「岩」、つまりお岩さんなのであった。
 他方、『丹治峯均筆記』には、橋本七郎兵衛の息子たちの名を記載している。
      (長男)  善兵衛
      (二男)  柴任源太郎
      (三男)  大原清三郎
これをみるに、善兵衛は橋本七郎兵衛の嫡男で、橋本家の嗣子であろうが、二男と三男が、「柴任」源太郎、「大原」清三郎とあって、「橋本」ではない。つまり、橋本二男の源太郎は柴任の家を嗣ぎ、三男の清三郎が柴任妻の実家・大原家を嗣いでいるということである。
 これを雲晴寺の墓碑で確認すると、柴任美矩の墓の建碑者として、「柴任右傳士重正」と「大原清三郎正矩」の連名がある。二男のこの「右傳士」というのは珍しい名である。柴任源太郎は後にこの名を称したのである。もう一つ注意したいのは、この両人の諱記載は、他の文献史料にはないことで、雲晴寺墓碑のみが伝える情報である。
       柴任右傳士
       大原清三郎正
 しかも、こうしてみると、柴任の晩年の諱「重矩」を、二人それぞれ偏諱して与えている。これで、源太郎と清三郎、七郎兵衛の二男三男が、祖父母である柴任夫婦の養子になったという傍証を得る。
 あるいはまた、大原清三郎が祖母・岩の墓に、「孝子」と記すのも、母を亡くした子としてである。養子は擬制の親子関係だが、養子になった以上は、こうして、祖母の墓に「孝子」と記すのである。
 この建碑者の名を見るに、雲晴寺の柴任墓の建立時期がわかる。これは後の子孫が建てたのでなく、孫である二人の養子が、柴任歿後まもなく建てたものである。柴任は上記のように宝永七年(1710)卒であるから、そのころである。また、柴任妻の墓碑にしても、夫の墓と同じ様式のものであるから、おそらく夫婦両墓として同時に建碑したものであろう。
 源太郎と清三郎はこの祖父母所縁の柴任・大原の両家名を継いだのである。言い換えれば、柴任は一族のゴッド・ファーザーとして、妻の実家・大原家も、そして自分の柴任家もちゃんと後嗣を設けていたのである。

 しかるに、肥後熊本の柴任実家・本庄家の子孫は、柴任に子孫はなかったという誤伝を記している。つまり、本庄家別冊家系譜には、柴任美矩に「子孫なし」とする記事がある。おそらく、柴任死後は明石との関係が途絶したのであろうが、「子孫なし」と記すとは、この資料の信憑性のなさが窺われるというものである。
 これに関説して云えば、柴任関係資料としての本庄家別冊家系譜の本文に関する限り、おおむね柴任最晩年の情報しかなかったようで、しばしば誤りが露呈されている。
 たとえば、姫路本多家を致仕した柴任が明石へ戻って、橋本七郎兵衛宅に同居したとあるが、この橋本七郎兵衛を「松平左兵衛督家中」と記す。これは、柴任晩年ならいざしらず、姫路から明石へ立ち帰ったときのことだとすれば、これは「松平若狭守家中」と記すべきである。若狭守直明が隠居して嫡子の直常が家督相続して左兵衛督になるのは、まだ先の話である。これをみるに、別冊家系譜の本文は、最晩年の情報をもって遡行させる傾向にあると言える。
 また、柴任が姫路から明石へ戻って、橋本七郎兵衛宅に同居して「中ノ庄」に住んだというくだりがあるが、これは柴任が最晩年橋本七郎兵衛宅に同居し、またその卒地が中ノ庄の橋本宅であったことから、このように記したものであろう。つまり、これも情報の欠落を埋める遡及的構成の一例なのである。
 柴任の住所については、元禄十四年と同十六年に実際に柴任宅を訪問した『峯均筆記』の立花峯均の記事に分がある。すなわち、立花峯均が訪れた柴任宅は、「水主町のはずれ」にあったというから、これは中ノ庄、つまり中庄村とは別の場所である。
 総じて云えば、本庄家別冊家系譜という柴任関連資料は、それが収録した柴任書状や宛行状(折紙)写しには一定程度信憑性があるが、家系譜の本文となると、憶測で記しており、信憑性に欠ける記事がみられる。
 たとえば、『峯均筆記』で大原家家督問題から柴任が本多家を致仕したとある一件では、別冊家系譜はこれを「本多侯身上被減」、つまり本多家が家禄を削減されたためだ、と記している。しかもその時期たるや、前後の文脈からして、柴任が親族見回りのため肥後へ一時帰ったという寛文七年以前である。「本多侯身上被減」というのも事実ではないが、これをかりに例の九六騒動のことだとすれば、それは寛文十一年本多正勝が死んだ後のことで、当然時期が合わない。またこれが、本多政利が明石転封後改易されたことを指すとすれば、これは天和二年(1682)のことで、もっと時期がずれる。そうなると、別冊家系譜が記す「本多侯身上被減」は、どこにも該当する事件がないのである。
 ところがその反面で、別冊家系譜が記す肥後に関係する記事には、無視できないものがある。たとえば、柴任が浦上十兵衛の娘を大和郡山へ連れて来て養女にした、というくだりである。この肥後から来た養女は、兄嫁の姪にあたるが、大和郡山に来て間もなく死亡したという。これは『峯均筆記』にはみられない記事で、柴任の兄嫁の実家・浦上家と関係がなければ書けない記事である。
 このように本庄家別冊家系譜の本文記事には、信憑性のレベルにかなり幅がある。それを斟酌した上で、この柴任関係資料を通り扱うべきである。
 そういうわけで、本庄家別冊家系譜の記す柴任終焉の地記事は、それが柴任最晩年の情報を伝えるものとして、注目されるのである。柴任終焉の地は、「中ノ庄」という場所。これは、柴任婿の橋本七郎兵衛宅があった地域であろうとは、先述の通りである。
 この中ノ庄がどこかというに、上述武蔵作庭の件に関して探訪した、円珠院の善楽寺や無量光寺のある明石市大観町を含む一帯である。ふつう中庄〔なかのしょう〕村といい、城下の町に対する「在」の地域である。
 明石の城下町は、『播磨鑑』など地元史料によれば、小笠原忠政の代の「開発」である。人工的に造った町である。それまでは、中庄村・明石村・大蔵谷村など海辺の村々があったにすぎない。そこへ突如として新城と町を建設したわけで、旧来の村の地名は、城下町の辺縁に残ることになった。
 中庄村は市街の外で、城からすると南西方向、裏鬼門の方角である。しかしそうなったのは、近世以後のことで、もともと古い寺や神社が多い地域である。小笠原時代以前のはるか昔から開けた土地である。明石浦として知られ、日本文学史におけるいわば固有名を有するゾーン。『源氏物語』明石巻の明石入道の居館があったとか、そういう伝説の発生する場所である。
 さて、都市構造上の観点からみるに、城郭と家臣団居留地は堀の内にあって、中庄村は堀の外である。この堀の外の地域は、町人の住む区域であるが、それとともに、いわゆる「足軽屋敷」が展開し、小身の下級武士たちの居留地でもある。
 したがって、橋本七郎兵衛の家が堀の内ではなく、中庄村にあったということは、明石藩内における橋本のポジションを推測せしめる。つまり、橋本は本多政利改易でより残された武士の一人、浪人していたのを松平家に拾われた者で、新参の部類に入る。おそらく微禄の小役人であっただろう。とすれば、堀の内に屋敷がないわけで、中庄村在ということになる。
 この中ノ庄の柴任の家だが、本庄家別冊家系譜によれば、明石の殿様である松平直常が、たびたび老齢の柴任に会いにやってきたらしい。柴任は、本多政利が、大和郡山・明石時代を通じて四百石で抱え、また姫路城主・本多忠国が五百石で召抱えた人物である。柴任婿の橋本七郎兵衛は松平家中の士であるが、柴任は客分でもなんでもない。しかし城下に、宮本武蔵所縁の面白い有名人がいるとあって、殿様も話を聞きに遊びにきたというわけであろう。国元では殿様もざっくばらんなものである。
 かくして柴任終焉地は中庄村とみなしうるのだが、ピンポイントで特定できる水主町のケースとはちがって、これは広すぎて場所を特定することはできない。前掲地図でいえば、中庄村の足軽屋敷のゾーンのどこか、という以上のことは特定できないのである。
 ところが、それでは納得しないのが武蔵マニア諸君のうるさいところで、根拠の薄い推測であろうと、もう少し具体的な現地比定をしろ、という要求なのである。したがって、資料のない現段階では、ここでもマニアックなゲームとしてしてなら、という留保条件の下で、柴任終焉地の橋本七郎兵衛宅の場所を絞り込んでみよう。





明石柴任関係地図
御 城  武家屋敷  足軽屋敷
寺 社  町 家






明石港付近現況






播州明石城図(17世紀後期)部分

柴任終焉地(橋本宅)比定図


比定地周辺現況
 資料は、前掲「播州明石図」で、大久保氏時代の市街図である。ここに中ノ庄のやや具体的な情報がある。現在の大観町の無量光寺は「無量寺」、実相院あたりは「丈実坊」、そして武蔵作庭伝説の円珠院あたりには「薬師」とある。しかし「無量寺」の東には「中間」とあって、これは足軽屋敷であり、また道路付けの具合からしてみると、現在の円珠院の庭は当時存在しなかったらしい――とすればこれも、明石観光案内にとって迷惑な情報であろうが。
 ところで、この図の中ノ庄のゾーンに、「龍谷寺」の名が見え、その西側の通りの北部に、十軒ばかり住人名入りの小さな一角がある。他は「中間」として無名で、足軽屋敷である。この名入りの一角は「中ノ庄小役人」と記している。
 そこで、この一角が松平氏入部以後も継続されたと仮定すれば、この十軒ばかりの一区画こそが、橋本七郎兵衛宅のあった場所とみなすこともできる。つまり、中ノ庄の足軽屋敷ゾーンにあって、そこだけ異なる特別な一角、つまり名入りの一区画に着目し、そこに「小役人」としての橋本七郎兵衛が住んでいたものとするのである。
 かくして、このような推測の妥当性はしばらく措くとして、これを武蔵マニア諸君の現地比定ゲームへの当面の回答である。現在の町名では、日富美町と材木町の間の道、これが旧西国街道(県道718号)に出るまでの区画がそれである。
 ただし、松平氏時代の中庄村の様子が違っていたとすると、これはもうアテにはならない話である。つまり、前提とすべき情報資料がないからである。
 さて、ついでながら、話がかなりディープになったところで、最後にもう一つマニアックな話題を。
 宝永七年(1710)柴任は自身の死の近いことを予感してか、肥後の実家の本庄喜助へ、具足その他、黒田家・本多家などに仕官したときの俸禄証書、柴任一身の重要書類を譲った。
 本庄家別冊家系譜には「甥本庄喜助」とある。しかし甥とは、兄角兵衛正薫の息子・角左衛門であろう。角兵衛は延宝五年(1677)隠居、翌年卒、嫡子・槌之助が二百石の家督を相続して、角左衛門。だが、貞享四年(1687)「行跡不被爲叶」という理由で、知行も屋敷も剥奪されてしまった。しかし、当時の家臣団はよくしたもので、元禄三年(1690)角左衛門の息子・角兵衛高房が十五歳になったとき、親角左衛門の旧知二百石を新知に直され、家禄を回復した。加えてそれまで柴任姓であったのを、もとの本庄姓に戻すのを許されたのである。したがって、宝永七年当時の本庄家当主は、この角兵衛高房である。先祖の名跡・本庄喜助を名のり、年齢は三十四歳になっている。
 そうすると、本庄家別冊家系譜に「甥」本庄喜助と記すのは、記者の誤りであろう。後世の子孫の書物だから他にも誤伝がかなりある。柴任美矩の甥は、角左衛門であって、本庄喜助は甥の子である。角左衛門は当時存命で、隠居の身である。したがって、本庄家別冊家系譜に「甥」本庄喜助とあるが、ここは、「甥の子」本庄喜助と訂正しておく。
 柴任美矩から本庄喜助への譲り物だが、荷物は「飛脚」で送ることにした。しかし、それでは心配なので、家来を一人この輸送に付けたようである。「仲間藤次郎」というのがその人物である。
 仲間という語は現代語の意味ではなく、中間と書いて「ちゅうげん」と読むものに同じ。しばしば中間・小物といって、武家の奉公人の雑卒のことである。柴任はこの藤次郎について、明石領長坂村という所の庄屋の倅で、よく奉公してくれていると紹介している。庄屋の息子が武家奉公していたということである。
 この長坂村は、戦後昭和二十二年の神戸市編入による境界変更とその後の宅地開発で、周辺原状はもはや窺いがたいが、地名は残っている。我々の現地比定では、神戸市西区伊川谷町長坂がそれである。今は神戸市のエリアに入っているが、昔は播州明石郡内である。長坂村は明石川の支流・伊川筋にあり、明石城からすると東北東に1里ほどの距離である。
 ここの村の庄屋の息子が、柴任宅に奉公に出ていたわけである。藤次郎は柴任の荷物を送り届ける役目で、肥後まで行ったのである。大きな人口移動が終熄してすでにかなり時のたつ当時、播州の庄屋の息子が九州まで行くという機会は滅多にあるものではなかっただろう。
 この書状にある藤次郎の旅は、具体的な情報はないが、明石と熊本の二つの地点をつなぐ中継地として〔つるさき〕という地名が記されているところから、そのルートを推測できる。
 この崎(鶴崎)がどこか、これが問題を解く鍵である。我々はそれを豊後の鶴崎とみなしている。とすれば、明石から船で瀬戸内海を進み、豊後の鶴崎まで行ってそこで上陸して、それから陸路肥後熊本まで向ったものであろう。なるほどこれは最短ルートである。崎から熊本までの駄賃、つまりこの区間の陸路輸送費は本庄喜助の方で払ってくれ、との指示が書状にある。
 この豊後の鶴崎は、現在の大分市鶴崎である。いまは海岸部が埋立てられ工場地帯となって往時の姿はないが、鶴崎は大野川の河口湊であった。明石から船でここまで来れたのであろう。
 九州の他の港ではなく、どうして豊後の鶴崎に上陸したかというと、実は鶴崎は熊本藩細川家の領地であった。こんなところに飛地をもっていたのは、参勤交代のための御座船の基地としてである。細川の殿様はここから海路東へ向ったのである。
 参勤交代のために自家用の港をもつというのは、熊本藩に限らなかった。この大野川河口あたりは、岡藩や臼杵藩など諸藩の領する飛地があって、それぞれ利用されていたようである。
 当時のこういう交通事情を知って、文中の「崎」を我々は豊後の鶴崎と特定したわけだが、これを中継地とするのが最短ルートというだけではなく、肥後出身の柴任にとって豊後鶴崎まで船で行くというのが通常のコースであったらしい。
 では、主人柴任美矩に託された荷物をもって藤次郎が行き着いた、熊本の本庄喜助の家、それはどこにあったか。これについていえば、「御小姓組二番組脇歩頭御弓頭、屋敷京町 二百石」(肥陽諸士鑑)という記録があって、屋敷は京町にあったと知れるが、しかしそれだけだと具体的な場所はわからない。
 ところが、幸い元禄中期の屋敷割絵図(熊本県立図書館蔵)があって、本庄喜助の家の場所が確認できるのである。それによれば、喜助の家は熊本城の北方の、豊前街道に出る道筋の京町にあって、町屋が並ぶ京町筋の北端、そこから武家屋敷がはじまるあたりの角にある。




*【柴任本庄家略系図】

○本庄喜助┬柴任角兵衛正薫┐
     |       |
     └柴任三左衛門 |
 ┌―――――――――――┘
 └角左衛門―角兵衛高房
   知行召上  本庄喜助










長坂村の位置



藤次郎旅のコース


鶴崎釼八幡宮蔵
鶴崎入港絵馬



熊本城

本庄喜助屋敷位置図
京町之絵図
本庄喜助屋敷付近図
 これは現在地名では、熊本市京町二丁目。このあたりは、昔と町筋がほとんど変わっていないので、わかりやすかろうというので、(藤次郎のように明石から熊本へ飛んで)これもついでに現在地比定をしておけば、北へ向かう京町筋が、京町台公園の南でクランクする地点がそれである。近隣には仏厳寺という寺が当時と同じ名で現存する。現地で確認すればわかるが、現在の道路は、角にあった本庄喜助の屋敷を斜めに切りつぶす形で敷設されている。
 北隣の京町台公園には、京都帝国大学初代総長・木下広次の父という以外、地元でしか知られていない幕末の儒者・木下犀潭の碑がある。そんなことなら、もしかりに武蔵関係遺跡として、本庄喜助旧宅跡の碑を建てるとすれば、この公園がよろしかろう。というのも、測量するまでもなく、公園の南側境界線は、数メートル本庄喜助屋敷地側に入り込んでいるはずだからだ。
 ともあれ、京町の屋敷割絵図で本庄喜助の家の所在が確認されるのだが、我々がこれを見つけたのは偶然で、それは村上平内の屋敷を探索していたときである。これもマニアックな話になるが、村上平内正雄は、肥後武蔵流兵法村上派の元祖である。ところが村上平内は所行粗暴を理由に、元禄十年(1697)、先祖以来の二百石の知行を召上げられたという人なのである。それから死ぬまで四十年以上、浪居して兵法指南、息子の平内正勝と八郎衛門正之から村上派道統が派生した。その村上平内正雄を居宅を探していて、たまたま本庄喜助の名を見つけたのである。
 かくして、村上平内が召し放ちに遭うまで居た屋敷の所在が知れたのだが、同時に、そのころ村上平内の屋敷の近所に本庄喜助がいたという事実が判明した。柴任美矩が藤次郎を遣った宝永七年まで、喜助が同じ場所に居たという保証はないが、元禄中期、京町筋の角に屋敷があった、当面これが唯一の材料なのである。
 ちなみにいえば、元禄十五年(1703)暮の赤穂事件の後、細川家は江戸屋敷に大石内蔵助以下討入り浪士の身柄を預かった。翌年春赤穂浪士たちは切腹となるが、江戸に居た細川家臣はそれぞれ切腹を介錯した。首を斬る役目である。本庄喜助(角兵衛)もそのとき江戸詰めで、浪士の一人間瀬久太夫を介錯した。のち、享保十二年(1727)本庄喜助は、江戸で乱心により自殺した。不可解な死であるが、角左衛門は自殺した息子よりさらに三年長生きした。角左衛門と角兵衛(喜助)親子二代、この家には不幸なことが連続したと言わねばならない。
 さて、それよりはるか前の宝永七年(1710)、播州明石から長い旅をして荷を運んできた藤次郎は、本庄喜助の屋敷にたどり着いただろう。柴任の書状は、譲渡目録を記すとともに、藤次郎にご馳走してやってくれ、熊本見物をしたいというなら数日泊めて案内してやってくれと、これはまた細かい気の配りようである。柴任が藤次郎をかわいがっていたことが窺える文面である。
 このとき八十二歳の柴任は、おそらく二十代半ばで肥後を離れ、その後の長い生涯、離郷者として生きたのだが、自身着領の甲冑その他一式を故郷へ送り届けることにより、こうして始末をつけたということであろう。







本庄喜助屋敷付近現況




播磨武蔵研究会作製 享保期明石城下町図から
柴任居宅と墓所・雲晴寺


*【筑前二天流略系統図】

○新免武蔵守玄信―寺尾孫之允信正┐
 ┌――――――――――――――┘
 └柴任三左衛門美矩―吉田実連―┐
┌―――――――――――――――┘
立花系
立花峯均┬立花権右衛門勇勝
|    |
|    ├立花弥兵衛増寿―┐
|    |        |
|    ├桐山作兵衛丹英 |
|    |        |
|    └中山伊右衛門  |
|┌――――――――――――┘
|├立花弥兵衛種貫―立花種純→
||
|└丹羽五兵衛信英越後二天流

早川系
└早川瀬兵衛実寛―月成実久―┐
     ┌――――――――┘
     └大塚重寧―大塚藤郷


*【兵法列世伝】
《道隨師遂ニ明石ニ終ラル。大倉谷ノ禪創ニ葬ル》
《立花増壽江都ノ往來ニ大倉谷ノ道隨師ノ寺ニ詣デラル。予モ又彼寺ニ詣デシニ、老師ノ墓ハ五倫ノ塔ニテ、常ニ参詣スル人モ有ト見ヘテ、掃除モ能シテ花抔立テ有ケル。年久シクナレバ、其寺ノ號モ忘ル丶而已カ、老師ノ捭名モ忘レヌルハ、不忠ノ至リ也》




雲晴寺 明石市人丸町



*【世記】
《柴任三左衛門、諱ハ重矩、後ニ道隨ニ改稱ス。二天流劍術ヲ善ス。某ノ年、肥後國熊本ニ生レ、寶永七年庚寅閏八月二十日、明石ニ卒ス。同郡大藏谷雲晴寺ニ葬シ。法謚シテ萬境院固岳道隨居士ト云。初大原氏ヲ娶ル。先テ卒ス。男ナシ。嗣絶ユ。女アリ。明石郡代橋本七郎平ガ妻トナル。其孫橋本七郎兵衛[禄二百石]某、今物頭官タリ。即道隨居士ノ外曾孫ナリ》(藤郷秘函巻之八)
 藤次郎をつけて、遺品を肥後熊本の実家・本庄家へ送った柴任美矩は、その年、閏八月二十日に死去した。
 明石で歿した柴任の葬地はどこか。――これについては、上記のごとく、雲晴寺に墓碑が残るから、この曹洞宗寺院がそこである。また同じく上述のように、大塚藤郷の記録(世記)によれば、宝永七年庚寅閏八月二十日、明石に卒す、同郡大蔵谷の雲晴寺に葬し、法謚して萬境院固岳道隨居士という、とある。
 この法名は、雲晴寺の柴任墓碑に、「固岳道隨居士」とあるのに一致する。「萬境院」という院号は墓碑にはない。したがって、柴任法名の院号は、この筑前の文献史料によって知れるのである。
 従来の史料でいえば、『丹治峯均筆記』や本庄家別冊家系譜には、柴任葬地記録はない。『丹治峯均筆記』は柴任出家後の道号を、「固学道隨」としているが、これは立花峯均の記憶の誤りである。「こがく」という語音は覚えていたが、文字を間違えて記したのである。
 本庄家別冊家系譜には、柴任の法号を「一鑑道隨」と記録している。本多家家老の梶金平が、「梶川民部」に化けたりするこの文書のことだから、これは本庄家子孫の誤伝であろう。
 しかし、柴任の卒年に関しては、本庄家別冊家系譜は、「宝永七年閏八月廿日卒」と正しく伝えているが、他方、『丹治峯均筆記』には、「宝永三年丙戌閏八月廿日、病テ家ニ卒ス」として、年を間違えている。これは、雲晴寺の墓碑が刻字している通り、宝永七年(1710)が正しい。
 上記の大塚藤郷は、雲晴寺の柴任墓碑を実見していないようだが、同じく筑前二天流の伝承者で、この柴任の墓に墓参した者があった。
 越後の史料、すなわち、立花峯均の孫弟子・丹羽五兵衛信英(1727〜91)による記事(兵法列世伝)には、立花峯均の甥で、峯均から一流相伝を受けた立花弥兵衛増寿が、江戸参勤往還の途中、「大倉谷の道隨師の寺」に墓参したとある。寺院名の記載はないが、これは雲晴寺のことである。
 そして丹羽信英自身も、ここを訪れて墓参したようで、老師(柴任美矩)の墓は五輪塔であり、常に詣でる人があるらしく、掃除もよくしてあって花など活けてあると。しかし丹羽信英はこの記事を書いた時すでに老齢らしく、年を経てその寺の名を忘れてしまった、老師の法名も忘れてしまった。これは不忠の至りだと自責している。
 ちなみに、上述の丹羽信英は、武蔵伝記『兵法先師伝記』の著者である。その先祖は、黒田二十四騎の一人、桐山丹波(孫兵衛信行 1554〜1625)で、あながち播磨に縁のない人ではない。この丹羽信英が故あって黒田家を出奔し、諸国流浪後、越後に居着いて、同地で兵法を教えた。これにより、越後蒲原郡・岩船郡に丹羽信英の門流が発生し、明治まで存続したのである。我々が現地で調査して得た資料に、丹羽信英が書いた諸師列伝(兵法列世伝)があり、そこには柴任美矩が「大倉谷」の禅刹に葬られたとある。
 そうしてみると、筑前福岡黒田家中の二天流の相伝者のうち、立花増寿や丹羽信英という立花系の者は、明石雲晴寺に墓参している。柴任が住み、そしてその墓もある播州明石は、遠い筑前福岡の者にとって、一種の聖地だったのである。
 丹羽信英は老師(柴任美矩)の墓は五輪塔だったと書いている。だが、これは丹羽信英の記憶違い。雲晴寺の墓碑をみればわかるが、五輪塔ではない。ただし、おそらく当時、柴任の墓所には五輪塔も建っていたのであろう。
 その丹羽信英は、後になって柴任墓所の寺院名を忘れてしまい、書き残せなかった。これに対し、同じ筑前二天流の系統でも、早川系の大塚藤郷は一度も明石に墓参することはなかったが、知人に頼んで明石に照会し、柴任の卒日、法名、そして墓所の雲晴寺の名を知った。実際に墓参した者は忘れ、墓参しなかった者が情報を後世に残したわけで、これも、皮肉といえば皮肉なことである
 大塚藤郷は、柴任墓の所在を正しく記録していた。しかし、「男ナシ。嗣絶ユ」と記す。柴任が孫の源太郎を養子にしたという情報は得なかったらしい。その反面、同時代の人として、柴任の曾孫にあたる橋本七郎兵衛のことを記載している。この橋本七郎兵衛は物頭で二百石、おそらく祖父の橋本七郎兵衛の代とは違って、出世もしていたのである。
 以上縷々述べてきた柴任という人物のこと、その墓が現存するとは、思えばまことに不思議な気がする。橋本七郎兵衛が仕えた明石松平家は、明治維新まで明石を動かなかった。それゆえ、柴任の墓も残ったのであろう。
 明石の雲晴寺。柴任美矩はこの禅寺で入道参学し、「固岳道隨」の道号を得たものらしい。そして、死後はここに葬られたのである。この雲晴寺も、明石における柴任関係地の一つとして登録しておきたい。

ついでにどこか見たい人のための周辺案内






たこフェリー


明石の蛸
 我々の明石案内はマニアックなものを含めて、以上のようなものだが、ここまで来たのだから、近所に何かあればついでに見てみたい、という人もやはりあろう。これまで「宮本村」「米田村」の案内でもそうしたので、こちらもやらなくては不公平、ということで、そのつもりはなかったのに、やっぱり観光ガイドみたいになってしまうのである。
 しかし例によって偏った案内なので、念のため「ふつう」の観光案内を見たい人は、右記のリンクから一般的なガイドを得てもらいたい。

 さて我々の方は、まずひとつめは、やはり「たこフェリー」である。明石は明石鯛というが、そんな高級魚よりも、いまや蛸なのである。それで、「たいフェリー」ではなく「たこフェリー」なのである。
 このたこフェリーは対岸の淡路島の岩屋港まで行っている。所要時間二十分。ごらんのように、世界一の吊り橋が完成しても、まだケナゲにがんばっているところが、いじらしい「たこ」さんなのである。
 とはいえ、このフェリーに乗れば、明石海峡大橋を足元から観ることができる。何とまあ壮大なスケール、これに比べれば東京のレインボーブリッジなんぞ、まるで子どものオモチャである。そういうわけで、明石海峡大橋観光なら、橋を渡るよりも、この「たこフェリー」である。料金も安い。
 フェリー発着埠頭は、昔で言えば、中崎の突端、浜御茶屋があったあたり。藩主の海岸別荘である。それがいまや「たこ(さん)フェリー」が発着するのである。

明石市観光協会  Link 






たこフェリー  Link 
明石市中崎2-7-1
TEL 078-911-2872




魚の棚商店街 入口
明石市本町1丁目




近隣案内マップ



明石焼き(玉子焼)
 ならば、本物の蛸を、それもたこ焼きをという人には、すばらしいゾーンが明石にはある。明石駅からたこフェリーへ行く道路のちょうど中間あたりにある、かの有名な「魚の棚」〔うおんたな〕商店街(明石市本町)である。以前は東魚町といったらしい。
 関西では、京都の錦市場、大阪の黒門市場が有名だが、明石のこの「魚の棚」をそれらと比肩させる人もあるほどのスポット。商店街には、鯛や(ヒラメじゃなくて)蛸があふれかえっている。とても活気のある商店がずらり並んでいる。土産に鮮魚を持ち帰ることのできる人は、ぜひ買ってみるとよいし、イカナゴのくぎ煮や焼きあなごもいい。
 魚の棚のたこ焼き屋といえば、だれでもまず挙げるのが、「たこ磯」、一番有名な店。それから「よこ井」、商店街西端の「よし川」 もある。魚の棚のたこ焼き屋はマスコミで紹介されたり本に書かれたりしているので、明石以外の人でも知っている。土産話のネタにどうぞ。
 実は明石のたこ焼きは、「明石焼き」(明石玉子焼き)というものである。何がどう違うのか。明石焼きは、見た目は大阪風たこ焼きと同じだが、卵とダシ汁を多く使っていて、大阪風たこ焼きよりも柔らかく食感がフワフワである。それに、たこ焼きはソースをかけて食べるが、明石焼きの本来の食べ方は、温めないダシ汁につけて食べる。
 明石のたこ焼きは、店で食べると木の板にのって出てくる。明石焼きはたこ焼きの元祖というが、それはよく知らない。ただ全国的に有名な大阪風たこ焼きがソースをつけるところからすれば、ダシ汁につけて食べる明石のたこ焼きの食べ方はそれより古そうである。
 魚の棚ではないが、すぐ近所の交差点の角にある「きむらや」(明石市鍛冶屋町)も有名な明石焼きの店。味はこちらの方がお好み、という人も多い。ダシ汁につけて食べるのはこの店が元祖ともいわれる。看板に「玉子焼」などと書いているから、間違えそうだが、なるほど、明石で「玉子焼」というのは、たこ焼きのことであった。
 本来の明石焼きは、具が蛸だけというシンプルなものであって、生地にカツオと昆布ダシなどを使ってコクと旨味を出している。この点も大阪風たこ焼きと違うところだったが、近年は、蛸以外にもネギ・ショウガ・天カスなどを入れるようになった。これも時代なのか、明石焼きにも変遷があるのである。
 明石市内には70軒以上の明石焼きの店があるといい、各店「秘伝」の味付けで、同じ明石玉子焼でも、名店はそれぞれ持ち味がちがう。讃岐のうどんと同様、これは一種の文化財なのである。

魚の棚商店街   Link 




たこ磯
明石市本町1-1-11
TEL 078-914-5103




きむらや  Link 
明石市鍛冶屋町5-23
TEL 078-911-8320


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