宮本武蔵 サイト篇
Real and/or Virtual Sites Guide

Home Page

 揖東郡宮本村   赤松村   龍野城下   米田村   明石城下   平福村   作州宮本村    サイト篇 目次 

現地徹底ガイド 姫 路 城 下 1  (兵庫県姫路市)  Back   Next 



武蔵関係地と姫路




駅前大通りと姫路城







姫路城天守閣
別名「白鷺城」ともいう

 播州姫路である。左図を見てもわかるように、いろいろな意味で播州の宮本武蔵関係地探訪の中心となる場所である。それゆえ、武蔵ガイドブックには、有名な姫路城をはじめ、武蔵所縁というスポットが紹介されている。
 ところが、そういう吉川武蔵流のありきたりの武蔵スポットではなく、姫路にもっとディープなスポットはないのか、という問いが武蔵マニアからまき起こるのである。そこで、余儀なくして、この「姫路城下」のページを増補することになったのである。

 姫路城のある姫路は、大阪から西へ約百km、近世は城下町が形成され、播州の中心となった町である。
 もちろん言わずと知れた姫路城がある。城はJR姫路駅から北へ一km足らずだから、駅前の大通りを歩いて行けばよい。
 車にのって行く人たちなら、姫路近辺まで行けば、姫路城はこちらという案内板が道路にやたらあるから、それを頼りに行ける。カーナビがあれば、むろん困らない。駐車場は城の前にかなり大きな駐車場があるから、そこへ車を置いて、堀端の大手門から入る。
 姫路城は日本の城郭建築の代表であり、国宝かつ世界文化遺産である。どこでも紹介しているから、このサイトでは省略させてもらおう。  Link 
 ただ念のため注意しておけば、姫路城で入場券を買うとたいてい「好古園」という庭園見学とセットになっている。この庭園は広さ一万坪ほどあり、立派なものだが、何せ平成四年の新造庭園、土木屋だった当時の市長肝いりの「作品」であり、本来の姫路城とは関係ないと思ってよい。だから、姫路城だけ見たい人は百円安い入場券を買うこと。
 ちなみに云えば、地元姫路の人たちは、今でも姫路城のことを「御城」と呼ぶ。江戸時代藩政期の呼び方がまだ生きているのである。したがって、播州姫路で、「姫路城は…」などと語るのは、モグリである。「御城は…」と云うのが正しい。

 姫路城はほんとうに巨大な城郭である。こんな巨城を造ったのは池田輝政。関ヶ原の恩賞で、播磨・備前・淡路・因幡など諸国計九十七万石を得て、「西国将軍」と言われた。
 巨城の理由はそれだけではなく、豊臣秀頼の大坂城への対抗するという戦略的意味づけがあった。姫路城は築城には時間がかかった。武蔵の三十代の頃まで、まだ延々築城中だっただろう。現在の天守の姿が出現するのは慶長十四年(1609)、城の全容が完成するのは元和四年(1618)だ。
 であるからして、映画やTVなどで、若き武蔵が姫路城内で沢庵和尚にしごかれるシーン、姫路城天守閣の実写が背景にデンとあるのは、時代考証がまちがっているわけだ。つまり、あの壮麗な姫路城の天守はまだ存在していないからだ。
 それにしても、ある意味では、姫路城と武蔵は似ている。なぜなら、両者ともに、兵乱や殺人の時代が過ぎ去った後、つまり自身が無用物に化した段階で、事後的に出現したシンボリックな軍事的存在だからである。リアルな暴力はすでに消滅し、美学化された暴力としてしか存在しない時代である。

姫路城 天守閣部分
林原美術館蔵
池田輝政像

姫路城全体模型
 姫路城の天守閣は、権力のシンボリックな造形物であって、ふだんは立ち入る者もない部分であった。そこで、この天守閣をめぐっていろいろ伝説が発生することとなる。
 第一はこの姫路城を建設した池田輝政に関するものである。たとえば、松原集山「播陽物語」(宝暦七年序)が「諸国百物語」から採取したという「廿四、姫路城ばけ物の事」に、こういう話がある――。




姫路城天守閣 夜景
 輝政がある夜のつれづれに、家中の者を集め、「この城の5重目、最上階に、夜な夜な火がともる。だれでもよい、見てくる者はないか」と言う。ところが、だれも引き受ける者がない。すると、十八歳になる若侍が、「私が見て参りましょう」と言う。輝政は、「では、しるしを持たせてやろう」と提灯をもたせた。これは話の伏線で、あそこに見える火をこの提灯の蝋燭に点けて来い、という意味である。それが「しるし」、証拠となる。
 かくして、この若侍が天守閣へ登る。
《かのさむらい、ちやうちんをもち、天守にあがりて見れば、としのころ十七八なる女らう、十二ひとへをきて、火をとぼし、ただ一人ゐ給ふが、かのさむらいを見て、「なんぢハなにとてこゝへきたるぞ」とゝひ給ふ》
 この女神、年のころ十七八の上掾A十二単を着て座っておったというのが、すでに化物である。彼女が火を灯していたのである。「おまえは、どうしてここへ来たの」との問い。
 若侍はまるで怖いもの知らずの阿呆のようで、「私は主人の仰せで、ここまで登ってきました。その火をこれに灯してください」と頼む。すると女は、「主命とあれば、許してあげよう」と、火を灯してくれたのである。
 この女=化物は、こういうイノセントな若侍だから、危害を加えず許したのである。若侍はうれしく思って帰るが、三重目まで来ると、その火が消えた。
 それでは火を採る役がすまないので、若侍はまた上階に登って、女にたのんだ。「どうしても消えないように火をともしてください」というと、女は蝋燭を取り替え、火を灯してくれた。そのうえ、「別のしるし(証拠)にしなさい」と、一対の櫛の一つをもたせてくれたのである。この櫛も物語の伏線である。
 若侍はよろこんで帰る。
 輝政のところへ戻って、提灯の火を差しあげると、輝政は不思議に思って、さてそこで、その火を消してみようとする。ところが、その霊火はどうしても消えない。しかるに若侍が消すと、すぐ消えたのである。若侍は女神の格別の恩寵を蒙っているわけだ。
 そこで輝政は、先の伏線に沿って、「他に不思議はないか」と問う。若侍は女にもらった櫛を取り出す。輝政がそれを手にとって見ると、自分が具足櫃に入れておいた櫛である。不思議に思って、具足櫃を開けて見ると、一対二つを入れておいたのに、一つがないのである。おそらくこれに興奮したらしく、輝政はこの不思議を確認したくなって「すぐ行って見よう」と言い出した。
 ここまでが話の前半である。つまり、輝政は若侍の行動をこれから反復する。
《さてそれより輝政「ぢきに行て見ん」とて、たゞ一人天守にあがり玉ヘバ、ともしびばかりにて、なに物も見へず。しばらくありて、いつもの座頭きたる》
 輝政が天主に登ると、れいの灯火だけで、だれもいない。美女はいなかったのである。しばらくして、その代わりに姿を現わしたのが、「いつもの座頭」、盲目の琵琶法師、おそらく御伽衆の一人であろう。
 「どうして来たんだ」とその座頭に輝政が問うと、「一人でおさびしいと思いまして、やってまいりました」と答え、「琴の爪匣の蓋がとれないのです」と言う。座頭は輝政慰めのために一曲語ろうとしたが、肝腎の琴の爪を入れた箱の蓋が取れない、という場面である。
 輝政は「それをよこせ。おれが開けてやろう」と、これは親切である。
《「これへよこせ、あけてとらせん」とて、爪ばこを手にとられければ、手にとりつきてはなれず、「くちおしや、たばかられける」とて、足にてふみわらんとし給へば、足もとりつきける。さてかの座頭は、そのたけ一丈ほどなる鬼神となり、「われはこのしろの主なり、われをおろそかにしてたつとまずんバ、たゞ今引さきころさん」といひければ、輝政さまざまかうさんせられけるゆへ、爪はこもはなれ、ほどなく其夜も明にける。天守の五重めかとおもはれしが、いつもの御座の間にて有しと也》
 かくして、この「爪匣」が贈物としての玉手箱にあらず、まさしく怪物の身体の一部、言い換えればアブジェクトな身体の一部、ヴァギナとして輝政にとり憑くのである。
 その瞬間、かの座頭は身のたけ一丈もある鬼神の姿を現わし、「おれはこの城の主である」と宣言する。その宣言の相手は、姫路城を建設した城主・池田輝政なのである。この鬼神はまさしく地主神、「おれを疎かにして尊ばないなら、たった今、身体を引き裂いて殺してやる」とのたまうのである。
 驚愕した輝政は「さまざまかうさん」、いろいろに降参の言葉を述べて赦してもらう。すると、(鬼神は姿を消し)手足にとり憑いた爪匣も離れ、ほどなく夜が明けた――と思うと、輝政は、天主最上階にいたはずなのに、いつもの御座の間に座っていた。

 物語は以上である。物語の反復構造からすれば、若侍と輝政の反復と差異は顕著であるし、美神と鬼神の間に座頭という第三項が設定されている。灯火・櫛という贈与物と爪匣の機能の対立構造も明らかである。
 もう一つ、同じ「播陽物語」にある輝政の姫路城をめぐる妖怪譚(廿三、池田輝政煩の事)も興味深いが、こちらは、輝政の病魔調伏のため叡山の阿闍梨が呼ばれたが、姫路城の地主神が出現して、調伏阿闍梨を蹴り殺してしまう、というシンプルな話である。
 こういう民話は、外来の支配者に対する地主神の威力と尊厳を語るが、これは言うまでもなく、被支配者としての領民の間に発生した説話で、民話レベルでの「逆襲」があったということである。
 池田氏は播磨で五十万余石を得たが、それには納まらず、秀吉検地高をさらに二割割り増して、十万石分を積み上げた。輝政の時代までは、大名は領国支配を勝手にできた。しかし輝政の検地で播州の村々は二割増税となった。これが輝政の「二割打出し」で、姫路城建設資金となったのである。
 輝政の搾取は過酷で糞壷まで課税したという話もある。姫路城の石垣には墓石や石棺の類まで詰め込まれている。かくして住民の怨嗟が、こういう姫路城天守祟り神伝説の発生源だとは言えようが、それよりも、この伝説が後世ますます変異進化するところを見れば、これはとくに池田氏に限ったことではなさそうである。
 姫路城天守祟り神伝説は、本来の城主とはだれかをつねに指示している。それは外来の領主ではなく、魔神と化した地主神、それゆえ壮大な姫路城天守閣の意味は、支配者の政治権力のシンボルから、土民崇敬してやまぬ地主神を斎き祀る神の社へと換骨奪胎されてしまうわけである。



姫路城天守南北断面図
木造五重七層




姫路城天守断面図
(外観5階建・内部7階造)





*【播陽物語】
《池田三左衛門殿、御わづらひすでに大事におよぶ時、ゑい山よりあじやりをしやうじ、天守にていろいろのきとう、七日七夜なさるゝとき、七日めの夜半のころ、とし卅ばかりなる女、うすげしやうをして、ねりのきぬをかつぎ、あじやりにむかつて、「何とてさやうにかじし給ふぞ、とてもかなわぬ事なり、はやくやめ給へ」といふて、護摩のだんへあがり、あじやりをにらミて、たちゐければ、あじやりもとよりたつとき僧にて、「なに物なれば女人のかたちにて、それがしにむかつてことばをかわす」と、いろいろもんどうしけれぱ、その時かの女、にわかにたけ二丈ばかりの鬼神となりてみせければ、あじやりそばなる剣をぬきもつて、すでにつかんとし給ヘバ、かの鬼神いひけるハ、「われハ此国にかくれなきごんげんなり」とて、あじやりをけころし、かきけすやうにうせ給ふと也。池田の家の侍しう、かたり侍》(廿三、池田輝政煩の事)
 ではここでひとつ、姫路城の宮本武蔵伝説とされているものを。それは妖怪退散の話で、すでにいくつかヴァージョンがあるが、だいたいは以下のようのなものである――。
《木下家定が城主であった時代のこと、姫路に立ち寄った宮本武蔵は、名前を隠して足軽奉公をしていた。その頃、城に妖怪が出るという噂が広まっていが、武蔵が平気で夜の出番を勤めていたことが家老の耳に入り、名高い武芸者であることが知られた。
 木下家の客分にとりたてられた武蔵に、妖怪退治の命が下った。武蔵がある夜、灯ひとつを持って天守閣に登り、三階の階段にさしかかった時、すさまじい炎が吹き降り、地震のような音と振動が押し寄せた。武蔵が腰の太刀に手をかけると、辺りはまた元の静けさに戻った。四階でもまた同じことがあったが、構わず天守を登り、明け方まで番をしていたところ、美しい姫が現れ「我こそは当城の守護神、刑部明神なり。その方がこよい参りしため、妖怪は恐れて退散したり。よって褒美にこの宝剣を取らす」と言って姿を消した。武蔵の前には白木の箱に入った郷義弘の名刀が残されていたという》
 この話は、姫路城の案内サイトなら、だいたい掲載しているもので、これをみると、そういう話が単体で「伝説」としてあったということになる。
 しかしこれは「伝説」というよりも、ほんとうは、明治の実録小説『宮本武蔵』(増補英勇美談・明治十六年)や、それを下敷きにした講談の中の話なのである。十九世紀初頭の享和年間刊行の『繪本二島英勇記』(本サイト資料篇参照)は、それらより古く、また原型になったものだが、もちろんそんな話はまだ出ていない。ある作者がひねり出した創作ネタを「伝説」だと勘違いしてしまってはいけない。これは広報担当者に注意しておきたいことである。
 けれども、刑部神を取り込んだ武蔵物実録小説や講談が近代の創作であるとしても、それだから否定すべきだというのではない。「吉川武蔵」以前の、いわば「プレ吉川武蔵」の姿を知っておくことは、むしろ武蔵マニアにとっておそらく興味深いことであろう。とくにそれが、姫路城あるいはその城下を舞台にしている以上は、ここで採り上げざるをえないはずである。





*【繪本二島英勇記】
平賀梅雪〔ひらが・ばいせつ〕作、十巻。自序に享和3年(1803)の日付あり。天正年間、佐々木巌流が姫路に来て、城主・此下〔このした〕高貞(モデルは木下家定)に引き留められ、剣術師範役となる。姫路城下に立寄った吉岡太郎右衛門が巌流とトラブル、吉岡は巌流を打ち負かす。その屈辱を恨んだ巌流は、姫路を辞し、筑前名島城下で、吉岡を闇討ちにして殺す。さて、吉岡の実子が宮本無三四、肥後の宮本武右衛門の養子になっていたが、実父の敵討ちに出る…という設定。本サイト資料篇で全文現代語訳で読める。→   繪本二島英勇記 
 さて、講談の宮本武蔵、どのヴァージョンでもよいのだが、吉川武蔵の直前、あるいは同時期に演目としてあったもの、たとえば伊東陵潮ヴァージョン(『講談全集』第五巻 昭和四年)などいかがだろうか。
 この話によれば、播州赤松村出身の吉岡太郎左衛門、足利将軍御前試合で名だたる剣客と勝負して無敗、無二斎の称号を賜った。何となく聞いたような話である。とくに無二斎が吉岡姓であるところなど、なかなか皮肉が利いている。
 それで、吉岡無二斎、足利幕府が滅んで毛利家へ仕官して、剣術を教える。息子が二人あって、二男が七之助、のちの宮本武蔵である。どうして吉岡が宮本になったかというと、七之助は父の旧友・宮本武左衛門の養子になったからである。とれもどこかで聞いたような話である。
 宮本武左衛門は加藤清正の家来で、肥後住であるから、少年武蔵(七之助)は肥後へ連れて行かれ、そこで修行して二刀流剣客として名をあげる。
 ところが、その間に、実父吉岡無二斎は佐々木岸柳に暗殺されてしまうのである。佐々木岸柳が無二斎を殺したという設定に首をひねってしまわずに、まあ話を聴こう。
 無二斎が岸柳に殺されたのは鉄砲による闇討ちである。どうしても岸柳は無二斎を殺したかった。というのも、話は以前に遡るが、佐々木岸柳は姫路城主お抱えの剣術指南であった。毛利に仕え萩にいた無二斎は有馬温泉の湯治の帰りに、故郷姫路へ立ち寄り、そこである経緯があって、佐々木岸柳と対戦して打ち負かしてしまう。そこで、それを恨んだ岸柳は、武者修行へ出るといって萩まで行って、無二斎を闇討ちにしたのである。
 というわけで、話は因縁めいて、宮本武蔵は親の仇として佐々木岸柳を探索するというのが、この話の骨格なのである。




姫路城天守閣 刑部大神

 ところが、その宮本武蔵が、親の仇を探すために姫路へ来て、足軽奉公するという、これまたとんでもない話になる。どうして足軽奉公か、というと、佐々木岸柳が武者修行から姫路へ帰ってくるまで待っていよう、そのために自分の正体を匿して、足軽に身をやつすというわけである。すでに武蔵は二刀流の剣客として有名なのであったし。
 それで武蔵は、天守閣の御番を勤める足軽組に入った。天守閣は秀吉が造ったもので、何人も立ち入らせないないために見張り番をするわけである。ところがこの聖域には気味の悪い噂があって、足軽どもは恐れて天守閣の御番を勤めたがらない。しかし武蔵だけは怖がらず、天守閣の「宿直」をしている。
 そうこうしているうちに、身をやつした武蔵の正体はすぐにバレてしまう。そこが講談の、面倒な筋立てにはしないという美点である。一般に掲載されている姫路城妖怪退散の話は、やっとそこからはじまるのである。
 姫路城天守閣に妖怪が出るというので、木下家家臣の勇者が二人退治に出たが、どちらも誑かされて相手にならない。そこで、武蔵に妖怪退治の役が回ってくる。
 武蔵が天守閣を登る。すると、火炎や振動など恐怖の不思議が生じる。武蔵はそれに欺かれず、かまわず最上階まで登る。刑部明神の祠がある。何も怪異は生じない。そこで、武蔵は夜明けまで眠ることにした。しばらくウトウトとして、すると、出た。
「英雄、目覚めよ。英雄目覚めよ」
 という鈴を転ばすごとき声。ハッと心づいて武蔵が眼を開いて見ると、忽然と前へ現れたるは、十二単に緋の袴、ぼうぼう眉に薄化粧、丈なす黒髪をを後ろへ長く垂れ、朱の長やかなる房のついたる檜扇を開きたる、見るも綺羅びやかなる美女。
「さてこそ怪物、動きおるな」
と傍らに置いたる貞宗の一刀を取り、柄へ手を掛け抜かんとしたが、身体痺れを覚えて動くこと能わず。
「いかに英雄、我こそは当天守の守護神と祀られる刑部〔おさかべ〕なり。近頃当天守へ大なる悪魔棲まいをなし、殿下人の出入を禁じたるためますます増長なし、我が力をもつてはこれを退散せむること能はず。英雄これへ参りたるにより、最早その悪魔も退散なさん。この刀はその褒美として汝へ取らせる。漫りに人に見せることなかれ」
 言うかと思えば姫の姿は掻き消すごとくに相成りました。武蔵先生、ホッと一息吐いてみると、これなん南柯〔なんか〕の一夢、身体びっしょり汗を生じております。四辺の様子を見回すと、前に白木の箱がある。
 この「英雄、目覚めよ。英雄目覚めよ」という声が興味深い。まさに、目覚めよと神の呼ばわる声である。衰弱した近代小説では出てこない言葉である。
 ところで、刑部神のプレゼント、白木の箱に入っていたのは、郷義弘〔ごうのよしひろ〕の短刀である。
 郷義弘〔江義弘とも〕は鎌倉時代末の刀工、越中国松倉(現・富山県魚津市)の住人。相州五郎入道正宗に師事したとされ、天下三作として粟田口吉光、五郎正宗、郷義弘と挙げられるその一者である。この伝説で郷義弘の名が出てくるのは、それがだれでも知っているほどの名刀という以外の意味ではない。
 昔から「郷と化け物は見たことがない」と言われるほど在銘品は皆無である。本阿弥家による極め物の作風で、中には本阿弥家が義弘らしい姿に研ぎ直し義弘に「出世」させたものもあるとのこと。要するに、「郷と化物は見たことがない」という俚諺の伏線がこの武蔵妖怪譚にある、というほどのことは知っておいてよいのである。
 さて、郷義弘を女神からもらったはよいが、そのために武蔵は窃盗の疑いをかけられる、という仰天の展開がある。武蔵が天守閣に登った夜に、この名刀が城中から消えたからである。何者かが盗んだに違いないと捜索していると、案の定、武蔵が持っていたから、「実はこれはあの夜刑部神からもらったんだ」と申し開きをしても誰も信じない。そうして武蔵は、処分保留のまま、家老雨森宅に預けの身となり、軟禁状態。それでも、しかたがない、そういう状態のまま、親の仇の佐々木岸柳が帰ってくるのを待つことにした。
 やがて数年たって、そのうち佐々木岸柳が戻ってくる。そうして武蔵は、城内で岸柳と対戦させられることになった。つまり講談宮本武蔵では、武蔵と岸柳の決闘は、関門海峡の巌流島ではなく、何と、まず姫路で行われるのである。巌流島以前に武蔵と岸柳は対戦していた――これはかなりマニアックな話題であろう。
 この公認決闘は、武蔵に名刀盗みの嫌疑があって、しかも白黒不確定、そこで岸柳と対戦させて、負ければ死に、勝っても追放、という放ち討ちという刑なのである。これは古代の裁判に似ている。しかし、こうなっても、武蔵はどういうわけか、佐々木岸柳が親の仇だと言わないのである。
 講談の佐々木岸柳は悪人という設定なので、岸柳は策略を講じる。つまり、宝山流の振り杖という、分銅が飛び出る武器を使う。仕込み杖であることを秘密にして使うという卑怯な手である。なぜなら岸柳は悪者だから。
 両者の対戦は、打ち合ったその結果、振り杖の分銅が武蔵の頭をかすめた。ところが、それが素早くて見物の眼には見えない。武蔵の鉢巻に血が滲んだ。岸柳、「勝負あった」。
 皆は振り杖に気づかず、となると、岸柳が勝ったとみた。武蔵はこれを卑怯なりと抗議して、はじめて「親の仇」とまで言って抜刀する。が、これまた遠すぎて皆の耳には聞こえない。それどころか、負けた腹いせに武蔵が狼藉に及ぶとみて、殿様の木下若狭守は、武蔵を召し取れと号令する。とんでもない展開である。
 そこで武蔵は包囲の家臣たちを斬って、その場を逃げ出し、城の濠へ飛び込む。ところで、これは講談のこと、まさにちょうどよいとき、その場に、武蔵の味方をする一番家老・木下将監が大坂から戻ってくるのである。そこで、やっと佐々木岸柳の振り杖を使った汚い手が暴露され、岸柳は追放、かたや武蔵には追討をかけず、そのまま放任となった。
 かくして、話はまだまだ続く。岸柳が姫路を離れたから、武蔵は諸国をめぐって、この親の仇を探索することになるからである。講談宮本武蔵の本編は岸柳(巌流)島での決戦で終るが、その前段に、この姫路での対戦を語ったものである。
 いずれにしも、この講談の話は、場面がどんどん転変する民話的構造を備えている。姫路城天守の刑部神の一件だけでも、正体を隠す=身をやつすことから始まり、正体露呈と怪物退治へと展開するが、女神を救済して褒美の贈物=宝剣を得るというところは、古代のスサノヲ型神話と連続する。
 しかし、説話の熟成度は浅く、さして古い話ではないことを示す。これは姫路城伝説ではなく、近代になって流布した講談なのである。ようするに、この「武蔵伝説」とされているものは最近の錯覚で、この話が武蔵講談であるを知らず、何やら姫路城にまつわる昔からの伝説のごとくみなしているわけである。姫路城関連サイトは訂正の必要があろう。




国宝 郷義弘作 名物「稲葉江」
徳川黎明会蔵。無銘の作で、「稲葉郷」とも。表に「天正十三 十二月日 江本阿弥磨上之(花押)」、裏に「所持稲葉勘右衛門尉」とある。稲葉勘右衛門は秀吉の近習、郷義弘を所持していたので斯様に歴史に名を残した。郷義弘とされた刀にはそれぞれ号が付けられ、たとえば「芦葉江」という名の刀(高松市歴史資料館蔵)の由来は、細川三斎がこの刀を詠んだ歌「難波江のうどのゝ里に来て見ればあしとは見えぬ義弘の太刀」から「芦葉江」と呼ばれるという。




錦絵 岸柳鶯敵討




【振り杖】
杖はそれ自体でも十分に武器となる。振り杖は、棒の芯をくり貫いて、その中に分銅付きの鎖を仕込んだ武器。この分銅は、棒を振り下ろすと繰り出される。そこから振り杖の名がついた。分銅が飛び出して予期せぬ一撃を加える。その最初の一撃が必殺の一撃となる。何度も瞬時に鎖を出し入れして敵を倒した話があるが、仕懸けるのは弟一打。分銅自体が先端の蓋となるものと、蓋が開いて鎖が飛び出すものがある。堤宝山の宝山流振り杖が最も有名である。







月岡芳年筆 妖怪刑部と宮本無三四
 この刑部(おさかべ・長壁とも)神は「刑部大神」とも称せられ、もとこの姫路城が建つ姫山の地主神である。この神が祟り神で、姫山に城を築くなどという暴挙に対し瞋っているわけだが、祟り神は後世馴致される例に洩れず、ここでも刑部神は美神と妖怪に分裂しているのである。
 『甲子夜話』が拾った伝説では、姫路城には「ヲサカベ」という妖怪が長い間住んでおり、天守閣に居て、いつも人の入ることを嫌っているが、年に一度だけ城主のみが対面し、他の人は恐れて近づかない。城主と対面するとき、妖怪はその姿を現す。それは老婆の姿に現じるという。こちらの方は、分裂以前の地主神の形態だが、神の崇高性は失われ妖怪に零落している。しかし神と神主(城主)という祭祀関係の構造は保全されている。
 姫路城の刑部神の由緒にはいろいろ説があったようである。三木冬月「播州小刑部社記」(正徳3年)に、これを考証しているが、すでにこの時期までに多くの説があったと知れる。
《伏見院御近仕小刑部の前と云人勅勘をへて播州国衙庄に下り、志深政所に御預ケ、政所息に泥ミ、嫁契し、七年をへて、兵庫といへる武士密契し、彼地へ越。其後本夫を妬ミ、十年を経て相果る。此怨念府辺に霊姓あり、仍て小刑部社とまつる。神霊故事に見ゆる》
 そのほか、嘉吉の乱の赤松満祐が落城の時、室津に妾あり、この娘が小刑部。山名の武士が探出して殺した。この霊が山名氏が姫山の城に居た時、祟ることがあったので、おさかべ社と祀った。あるいは小寺氏加賀守政隆〔職隆〕娘小刑部の霊を祀ったともいう。ところがいずれも小刑部という女の記録はない。
 あるいは、姫山のきつねを小刑部とまつる。姫山のおよし狐は六百年の白狐、名古山万太郎狐と契るという。また、姫路城北方の広峰社に関係して、池田輝政の城普請が完成した折、奉行小役左太夫という者が、広峯山社家小刑部と碁の勝負のいざこざで打死した。この霊祟りあり、よって小刑部社を祀った。しかし、『播磨鑑』は小寺氏時代のもう少し違うヴァージョンの類話を採録している。
 さらにまた、むかし坂田長兵衛という武士が、白国の小鷹長者に止宿した。例の安達原に似た「石枕血絞り」の様子と見えたが、長者の娘がこの美男に恋慕し夜逃して、国衙庄井出南双山にこの男女が居ついて夫婦となった。女の居るところを姫山、男の居るところを男山という。この女をおさかべの社と祀るとある。これは播磨風土記流の神話のレベルの説話である。
 「播陽府中巡行」にいう、光仁天皇の御后不義の事にて、その御女富姫君、播磨へまよい下られ、鷺井の本館に御入の後、御親方とて三品大政宮事刑部親王を姫山にまつる説[太政宮事ハ官事ノ誤ナラン]、これを三木冬月「播州小刑部社記」は実とすべしという。古記に多く刑部親王を名づけ祀る由見ゆとする。
 この富姫の居た山だから姫山というとの説があるが、いずれにしての、正徳あたりには「富姫」「姫山」「刑部神」の接合と混淆が生じていたのである。
 かくして、泉鏡花「天守物語」の素材は整うのだが、こちらは鏡花流の擬古的体裁の伝奇物語、とはいえ実はモダンな小説である。封建道徳に抵抗する性愛というモダニズムのパターンで、ポストモダンな現代では陳腐化した説話形態。しかし今日、五代目坂東玉三郎演出の舞台や映画で人々の知る如く、姫路城妖怪譚はこちらの「天守物語」で有名、という具合になりつつある。
 ともあれ一連の説話群をみれば、姫山・男山の神話レベルから、輝政化物遭遇譚、妖怪狐伝説等々へ変化したわけで、熟成不足だが、それが姫路城宮本武蔵妖怪退散説話へとつながるのである。





*【播磨鑑】
小刑部之事
《當山地養社〔に〕奉仕御燈をかゝけ供物を調進する小林小刑部職右〔もとみぎ〕と云者有。北條氏縄か末葉也。天文年中地養社修覆のため國中を勧進す。其節於姫路山正明寺當城主小寺美濃守侍安藤十太夫と小刑部と双六を打、口論をなし、十太夫抜太刀、小刑部を切。小刑部も朱鞘の太刀を帯して抜合といへ共、先〔せん〕太刀に深手をかうむる故に當座に死する也。十太夫は宿所に歸りて切腹す。小刑部は則正明寺に葬る。脇指刀等に上ると云云。其後小刑部愁魂白狐と化り、人をなやます。猶亦池田輝政姫路山に城郭を築きしより霊魂轉〔た〕徘徊す。通力自在にして人を誑す。故始而八天堂を建立し、小刑部と號し祭之。自爾以來女體に化して人に逢と云云。死して顯陰體〔陰体をあらはす〕、尋常〔よのつねの〕事也。其由緒により地養社を輝政より建玉ふ。棟札等有之》(広峰社)








泉鏡花「天守物語」  Link 



「天守物語」 松竹映画1995年
坂東玉三郎監督主演


**********************************************************




姫路城と増位山






増位山隨願寺本堂 姫路市白国






増位山隨願寺 鬼追い行事



 姫路城天守閣について怪談ばかりあげていると、「なんだ」と思う人がありそうなので、ここで、宮本武蔵の大まじめな話をひとつ。
 それは山田次朗吉『日本劔道史』(大正十五年)に収録している説話で、教師武蔵の姿を示す教訓話である。
 ――ある者が武蔵に、「どうすれば兵法修業で上達できましょうか」と訊ねた。すると、武蔵は畳のへりを指して、「そこを歩いて渡ってみなさい」といった。そのようにすると、武蔵は「もし一間(一・八m)くらいの高さの所で、その畳のへりの幅でも渡れるか」と問う。「それは、ちょっと難かしいですね」と答えると、「しからば、三尺(九十cm)の幅があれば、渡れるかね」という。「それなら渡れます」と答える。このとき武蔵はうなづいて、「当地姫路の天守の上から、増位山の上へ三尺幅の橋を掛けたら、それを渡れるか」と問う。「それは、とても渡れるとは言えませぬ」というと、武蔵は、うんとうなづいて、
「さもあらん。剣法もそれと同じで、畳のへりを渡るのは容易だが、六尺の高さとなれば、幅三尺の板でやっと安心できて、天守と増位山の高さとなれば間隔が一里(四km)あるから、三尺幅の橋では心もとなく、踏み外すのを恐れる臆病が出てくる。それが修業の足らぬところである。始めはたやすく、中間は危うく、それを過ぎれば、もう危ういことはない。この始・中・終の本心をしっかりと静めるときは、何の危うい所もない。だから、精気を鍛錬して、畳のへりを踏んでよく練習すれば、長さ一里、高さ百丈(三百m)あっても、怖れることなく、三尺幅の橋桁を踏み外すことはない」
と語った。これが武蔵の教えである。ふつう、畳のへりは踏むなというのが一般なのだから、畳のへりで練習しろという武蔵の教え方はおもしろい。
 ところが同じ話でも、これが畳のへりではなく敷居だとするものもある。こちらは楠正位が「水南老人」の名で『武徳会誌』に連載した講話「宮本武蔵」(明治四十三〜四年)である。畳のへりなら一寸、敷居なら4寸くらいはある。しかも楠正位の講話では、これが姫路の商人赤壁屋の息子・道意に武蔵が教えたというわけで、話は具体的ディテールを備えている。同じ話でも違うのだが、どちらが正しいか、などと問うのは伝説においてはナンセンスである。伝説はどんどん成長変化するものである。
 さて、この宮本武蔵教授譚の場所が姫路であったことは、楠正位が「姫路の赤壁屋」と語り山田次朗吉が「当地姫路」と記すことから明らかである。話に出てくる増位〔ますい〕山は、姫路城の北方にある、広峰・増位の連山の一つである。高さ百丈の話があるのは、この山が標高三百mほどであることによる。一里という距離も正しい。したがって、この話が姫路をよく知る者の伝説であることがわかる。


姫路城天守閣から見る広峰・増位連山

 増位山に隨願寺という古刹があり、聖徳太子の発願により高麗層・恵便〔えべん〕を開山とし、のち行基が中興したとされる。平安時代、山上には36坊あった大寺であった。皇族貴族の信仰を受け、「梁塵秘抄」にもこの山を歌った歌が収録されている。大相撲の「増位山」はこの山の名である。
 戦国期には武装寺社の例にもれず、隨願寺も峯続きの広峰神社とともに一帯に勢力を張って戦さをしていた。天正元年(1573)三木の別所長治に攻められ全山焼失、別所氏を滅ぼした後、これを再興したのが豊臣秀吉。武蔵が知っているのは、再建後の増位山隨願寺である。

**********************************************************






三宅軍兵衛屋敷の位置
播州姫路城下絵図

 山田次朗吉『日本劔道史』の話が出たついでに、それに関連して、マニアックな比定地探索をひとつ。本サイトならではの、マニア向けの余興だと思ってもらえばよろしい。
 この[サイト篇]龍野のページで、武蔵に負けて現代に名を残した三宅軍兵衛の話をしておいた。そのとき、述べられているのは、三宅軍兵衛の子孫はその後も本多家家臣として、三宅軍兵衛を襲名して存続したこと、しかも本多家はいったん姫路を去り、大和郡山、奥州福島へ移封され、忠国の代に再び姫路へ還ってくるが、そうした転変にもかかわらず、三宅軍兵衛の子孫も主家に従って姫路へ戻っていること、三宅軍兵衛の屋敷は、姫路城の東のゾーンにあった――そういう話になっていた。
 三宅軍兵衛の屋敷は姫路城の東のゾーンにあった、ということだが、それは子孫の三宅軍兵衛の屋敷のことである。子孫とはいえ三宅軍兵衛の屋敷がわかれば、それはよい、先祖の屋敷とはそう大して違った場所ではあるまい、探索如何、との要望があって、我々の資料は、本多忠国時代(十七世紀後期)の屋敷割りを示す「播州姫路御城図」(元禄八年写本)である。
 この絵図に、三宅軍兵衛や三宅理兵衛などの名を記す一角がある。場所をマッピングしてみると、姫路城の東のゾーンで、もっと特定して言えば、三宅軍兵衛屋敷の現在地は、淳心学院というカトリック系私立中高校(姫路市本町)のあたりである。三宅軍兵衛屋敷比定地は、学校の正門を含む区域だから、探訪するには分かりやすいはずだ。
 ともあれ、こんな探索は、まことにディープな境界におけるもので、他のだれもこれまでやろうとしたことのない、ほとんどバカげた瑣末事であり、それゆえにこそ、武蔵マニア垂涎の情報となろう。
姫路城郭研究室蔵
三宅軍兵衛屋敷の位置
播州姫路城下絵図 部分


三宅軍兵衛屋敷の位置を
現状市街地にマッピング


姫路城天守閣から見る
三宅軍兵衛屋敷比定地 淳心学院

**********************************************************

 宮本武蔵は画人としても知られる。絵を描いたのである。姫路城周辺で、武蔵スポットというと、武蔵が描いた絵画があった(ある)という二つの場所である。どちらの絵も現在では忘れられて、話題にものぼらない。そこで我々のマニアックな、武蔵スポット探訪は、これをあえて紹介するのである。

 武蔵の絵画があったという一つは、姫路城の東南にある播磨国惣社(姫路市惣社本町)、射盾兵主〔いだてひょうず〕神社ともいうが、根本は伊和大神、すなわち大巳貴〔おほなむち〕神、大国主命である。古代の播磨国府があったところである。
 ここに伝武蔵作の絵馬があった。「ある」というのではなく「あった」というのは、昭和二十年七月三日深夜の米軍空襲による火災で、それが灰燼に帰してしまったからである。これが戦前は展覧会にも出品された有名な絵であり、とくに巌流島で佐々木小次郎と対戦する前に奉納したという伝説の由緒つきであった。
 しかしこの絵馬が、それより以前から知られていたのは確かである。つまり、菅原国枝による「菅公図宮本武蔵筆匣書」(享保三年)の記事がある。これはかなり早期に武蔵を「播陽揖東宮本邑之産」としたもので、この武蔵サイトでも注目されている記録だが、それによれば、
《其の正筆、播州姫路一宮惣社神前に、河津股野之絵馬有り。同所宮之内不動院の重宝、武蔵自画自讃の達摩之絵有り。其の外、世に画図多く残る》(原文・其正筆播州姫路一宮惣社神前有河津股野之絵馬。同所宮之内不動院重宝武蔵自画自讃有達摩之絵。其外残于世画図多)
と記している。すなわち、この惣社の神前に曽我物語から題材をとった、「河津股野之絵馬」があった。これは河津三郎祐泰と俣野五郎景久の相撲の図のことである。またこの記事に拠れば、もうひとつは、同じ惣社の不動院の重宝とされていた達磨の絵、「武蔵自画自讃有達摩之絵」。武蔵が自身の画に自ら賛を入れた絵であるという。
 菅原国枝匣書によれば、この二点が惣社にあったということになる。このうち後者は、逸失されて我々が見ることはできない作品である。達磨図は武蔵がかなり多く描いた画題で、現存作品にも達磨図は数点存在する。それゆえこの武蔵自画自賛達磨図がいかなるものか、興味深いところであるが、残念ながら実見できないのである。
 前者の、戦前までは存在し米軍空爆で焼失した相撲図絵馬は、これも同様にもはや見ることはできない。しかし、幕末の嘉永二年(1849)、佐藤正持という画家がこれを模写した画の写真があって、これを見るに、画は俵屋宗達の風神雷神図に似た描法と知れる。
 このことから、武蔵作相撲図絵馬を琳派スタイルとして、武蔵的画法ではない、と速断する慌て者がいるが、そんな論法は誤りである。宗達の絵画作品が、風神雷神図式の描法だけしかないわけがない。他にも違う描法の作品がある。だいいち、琳派の成立は武蔵死後のことである。
 風神雷神図式の描法は宗達に帰しうるものではない。当時珍しいものではなかった。だから、武蔵がこういう描法の画を描かなかったと結論づけることはできない。むしろ、武蔵にもこの系統の画法があったと見た方がよい。
 播磨国惣社は、姫路城大手門南の公園(地下駐車場)の東にある。郵便局の脇に鳥居があるから、そこがアプローチである。しかし武蔵の絵馬はない。

 さてもう一つの武蔵画の場所は、姫路城の西にある景福寺(姫路市景福寺前)である。上掲「姫路城周辺マップ」参照。
 この寺は鎌倉期創建の古い禅宗の寺である。ここに武蔵作として伝わる墨画「寒山拾得図」がある。襖絵だったものを二枚の掛軸にしたという話である。
 ただし、この画は非公開ということで、ここでは案内できない。とりあえず、所在のみお知らせ、ということにしておく。



姫路城周辺マップ




播磨国惣社 姫路市惣社本町




佐藤正持 武蔵作絵馬模写



武蔵の養子・宮本三木之助を探索する


書写山アクセスマップ


書写山ガイドマップ
 ここで姫路城から離れて、少し遠くへ行ってみよう。ひょっとすると、かなり遠くまで関係するかもしれない。
 まずは、武蔵ガイドブックならどれにも書いてあって、さしてマニアックなスポットではない(!)が、書写山円教寺(姫路市書写)である。「しょしゃざん・えんぎょうじ」と濁音で読む。ここには、前後二度姫路城主だった本多家の廟所があり、そのなかに、ご存知の通り、武蔵の養子・宮本三木之助の墓がある。
 まず、ここへの行き方は、JR姫路駅から市営バス「書写ロープウェイ」行で約三〇分、終点で下車である。山陽自動車道の巨大な橋梁の向うに、ロープウェイの乗り場がある。
 車で行くなら、姫路城の真ん前の道を道なりに六kmほど行くと、「横関」〔よこぜき〕という川端の交差点まで出る。その脇にある橋を西へ渡ってすぐ右折、山陽自動車道の橋梁の下、手前に、かなり大きな駐車場がある。そこへ駐車できる。
 バスで来ても自家用車で来ても、この山への登りは、ロープウェイで上がるというのが特徴である。朝八時半から夕方五時か六時まで、十五分間隔で運転している。運転の終りが早いので、注意。遅れると、山道を歩いて降りなければならなくなる。→ Link 
 ロープウェイの山上駅で降りて、それから歩く。三〇分ほど歩くと、摩尼殿〔まにでん〕という重厚な建物の前に出る。脇に床几のある茶店があるから一休みである。そこから、左手西へ数百m歩く。大講堂・常行三昧堂・食堂の重文三棟、いわゆる「三之堂」前庭の手前東に、本多家廟所がある。


書写山円教寺 本多家廟所

三之堂前庭

摩尼殿


本多家廟所


*【本多家略系図】

○本多忠勝┬忠政忠刻
     |  |
     |  ├政朝―政長=忠国
     |  |
     |  └忠義―忠平
     |
     └忠朝─政勝─政利

 しかしそれにしても、円教寺は相当広いから、歩きに難渋する人は、山上マイクロバスが運行されているので、それを利用するとよい。一時間に三本はある。
 西国巡礼二十七番札所の当寺については、重文級が多くあるその見どころも含めて、円教寺HPに譲る。→ Link 
 三木之助の墓は本多家廟所にある。廟所門前には、「姫路城主・本多家の墓所」の案内看板が出ている。塀で囲われた墓域内には、本多忠勝、忠政、政朝、政長、忠国の霊屋五棟が並んでいる。
 この五人が姫路城主だったわけではない。この本多家は、忠政(1575〜1631)の代に姫路城主に封ぜられた大名家である。父の忠勝は、徳川四天王の一、家康関東入部の時、十万石で上総大多喜城を与えられ、ついで桑名城主になった。政長は政朝の子だが、後に大和郡山城主で終始した。したがって、この五人のうち、姫路城主だったのは、忠政、政朝、忠国の三人である。
 それに、政朝の跡を継いだ従弟の政勝の墓がない。本多家は、忠政以後、政朝→政勝→政朝→忠国(政武)と次第する。政勝は家督後すぐに大和郡山に移封されのだが、本多家代々を言えば、政勝の墓があってもよさそうなのに、それがない。本人の遺志により、長く城主を勤めた大和郡山に葬られたというが、墓は高野山にある。政勝は熱心な真言宗門徒であったらしく、家督以前に播磨黒田氏の根拠地・多可郡黒田庄の荘厳寺へ境内五十六町を寄進したし、大和郡山へ移って十年後にも同寺へ梵鐘を寄贈している。書写山円教寺は天台宗。だから、政勝の墓はここにないわけである。
 また、政長は幼少ゆえ姫路城主になれなかったが、後に政勝死後、家督を継いで大和郡山城主になった人で、忠国の義父だから、忠国の代にここに霊屋を設けたのである。

本多家廟所門前

本多家廟所配置図 (右図は忠刻墓部分拡大図)







茨城県水海道市 弘経寺蔵
千 姫







個人蔵
本多忠政


中根家文書
本多家中知行高附
七百石 宮本三喜之助




忠刻と三木之助主従の墓
 廟所の配置をみると、十七世紀前期の寛永時代、政勝の代に本多家が姫路を去って大和郡山へ移った折に、本多忠勝、忠政、政朝までの霊廟と忠刻の墓も一列に並べて設営していたようで、その後、約半世紀後の忠国代に姫路城主に復帰した際に、まず政長の墓を前に増設し、さらに忠国が死去して、宝永年間に本多家が再びに姫路を去って、越後村上へ移るときに、忠国の墓も増設しておいたものらしい。
 かたや、忠政の嫡子だった忠刻(1596〜1626)の墓には覆屋がない。家督以前に死んだので、そういう扱いらしい。忠刻の左脇にある墓は、忠刻の子の幸千代である。幼児で早世したが、忠政嫡系の孫であり、しかも千姫(1597〜1666)の産んだ子だから、二代将軍秀忠の外孫、というわけで、疎略にも扱えず、墓を設けたものであろう。
 忠刻は、大坂陣後、徳川家康の孫娘で、豊臣秀頼の妻であった千姫を嫁にもらいうけた。忠政はまだ家督を忠刻に譲っていなかったが、将軍秀忠はこの長女千姫の婚礼に、化粧料として十万石という途方もない贈与をした。忠刻は家督相続以前ながら、並の大名以上の知行を得て、千姫とともに姫路城に住んだのである。
 この忠刻の墓の背後に、三木之助ら三人の墓がある。というのも、それらは忠刻の死に殉死した者らの墓だからである。
 この本多家廟所は、ふだんは日祝日しか一般公開をしていない。それでも立入れる範囲は限られていて、近年は三木之助の墓の側までは行けないようにしてある。だから、三木之助の墓と対面したい人は、円教寺に問合わせて、墓参を申込む等の手続きをとる必要があるかもしれない。この点、注意しておきたい。

 さて、ここに墓がある宮本三木之助は、武蔵の最初の養子のようである。この三木之助が第一の養子、三木之助が死んで、その後に明石で伊織を養子にした、という順序である。
 この三木之助の出自については、荒唐無稽な話が後世形成されたが、後に見るように、三木之助は、水野日向守勝成の家臣・中川志摩助の息子である。徳川家康が豊臣家を滅亡せしめた慶長末の大坂陣では、武蔵は水野勝成に属して参戦したから、その縁があって三木之助を養子にしたのであろう。
 その後、武蔵は養子の三木之助を、姫路城主・本多忠政に出仕させた。徳川四天王の一人・本多忠勝の嫡男が、この忠政である。武蔵と本多忠政の縁は、おそらく直接には大坂陣以来のことであろう。それで、大坂陣後の諸大名配転によって本多忠政が、桑名から姫路城主へ栄転になったとき、いわずもがな、姫路近くの出身であるこの有名な兵法者を、身近に引き寄せたらしい。むろんこれは家臣としてではなく、客分としてであろう。
 この縁で、武蔵は養子の三木之助を、忠政の嫡子・忠刻〔ただとき〕の兒小姓として仕えさせた。後に三木之助の知行は七百石である(本多家中知行高附)。かくして、武蔵は、養子・三木之助により姫路本多家中に宮本家を創設したのである。
 しかるに、この忠刻は、寛永三年(1626)五月七日、病死してしまう。行年三十一歳。まだ若かった。その忠刻死去の後、家臣二人が殉死した。その一人が三木之助であった。
 彼らの墓は今も忠刻の墓の脇にあって、現存する。こうした殉死のケースでは家臣の墓を主君廟所に設けることがあるわけである。三木之助の墓には「平八供、宮本三木之助」とあって、この「平八」が、本多家嫡子「平八郎」の名を承けた忠刻である。忠刻の御供をしたというのは、つまり殉死したということである。
 三木之助が殉死したのは、忠刻の寵愛に報いるということである。これは単なる主君恩顧ではなく、君が死ねば俺も生きていないという衆道の誓約によるものであろう。こういう武士の同性愛は当時珍しいものではない。むしろ武士の古き道であった。もちろん戦士と同性愛は西洋にも古くからある習俗であって、とくに日本だけのことではない。ただし、衆道と殉死のリエゾンとなると、これは特殊日本的なものである。
 書写山の本多家廟所に、忠刻の殉死者の墓があるということは、本多家でもこの事件をおろそかに扱わず、むしろ君臣関係の模範たる「事業」として後世までもと記念して伝えたようである。
 ところで、この殉死事件については、以上のような一般的な解説に終らないのが、本サイトの案内である。以下は、聞いたこともない咄を聞きたいという人たち向けの講話である。
 実は従来の武蔵研究には問題があって、この殉死事件については、いわばあやしげな説しか語られていなかった。とりわけ、この事件の舞台である肝腎の本多家中の資料は死角とも言うべきところで、近年ではだれもそれを再検分した者がいないという始末であった。何ごとも検証もされないまま、孫引き・曾孫引きばかりでこの一件が語られてきたのである。
 本多家系譜には家中のものも含めて多数存在するが、これは言わば正史なので、忠刻の事蹟記事において、その死去に際し殉死者があったことは記さない。しかし、野史のみこれを記すかというと、必ずしもそうではない。たとえば、代々家老を勤めた中根家文書のような本多家中の史料にその記事がある。それゆえ、ここで、そうした本多家中の史料には、この件がいかに記録されているか、それを再検証してみる。
 以下に挙げるのは、いづれも十八世紀前期の文書もしくはその写しである。十七世紀後期の天和年間、本多家は忠国の代に二度目の姫路城主となって復帰するが、忠国が死去すると、越後村上へ移封された。これらの文書には、その十八世紀初期の宝永年間あたりまでの記録があるから、一応、そのあたりの記録と見てよい。
 興味深いのは、これら諸文書の記事が、殉死事件に関する野史をも取り込んでいることである。その時期からすると、元禄後期の姫路の町において存在していた伝説を取り込んだものであろう。もう一点注意したいのは、そのように時期にさして隔たりのない文書であるが、それら記事には相違があることだ。そこに、この事件に関する伝説の、いわば発生状態の姿がある。それに注目して、以下に見ておくことにする。まず、「本多要櫃記」によれば、
《中務太輔忠刻公、生國上総。奉仕秀忠君。御入輿之時、於播州、新知賜拾万石。寛永三年五月七日、播州姫路之於城卒シ給リ。三拾壱歳。御法名、圓泰院殿前鳳閣黄山宗(異本「崇」「蒼」)雄大居士。同国書写山ニ葬、廟ヲ建ツ。家人伊原伊木左衛門、宮本三木之助、両人殉死ス。三木之助家来、宮田覚兵衛、同死ス。廟前ニ右三人之廟有リ》
 というわけで、忠刻が死んで書写山に葬って、廟(墓)を建てた。そして、その「家人」伊原伊木左衛門と宮本三木之助の二人が殉死し、さらに、三木之助の家来である宮田覚兵衛が同死した。忠刻の廟前にこの三人の墓があるということである。
 三木之助の家来である宮田覚兵衛のことは、後世の不慥かな伝説以外にはわからない。忠刻に殉死する主人三木之助を介錯して、追腹を切ったのであろう。したがって、宮田は忠刻に殉死したというよりも、三木之助に殉死したのである。
 また、三木之助とともに名が挙がっているのは、「井原伊木左衛門」という者である。これは、分限帳にみえる伊原市左衛門のことか。すると三木之助と同じく七百石取りである。二人とも忠刻の寵愛をうけた者であろう。

個人蔵
本多家廟所古図  忠国の廟はまだないので忠国代の絵図か
忠刻の墓の背後に宮本三木之助ら殉死者の墓の記載あり

 さて「本多要櫃記」の記事は比較的古いかたちをのこすものである。そこでは、上記のように、ごく簡潔に殉死の事蹟のみが述べられている。では、これより後の史料であれば、どう記述しているか。原本が十八世紀初期の著述と思われる「本多家系」の忠刻条の記事をみると、やはりこの殉死の一件が書かれている。
 この系譜をみると、殉死者の二人の名は、伊原伊木左衛門と宮本右兵衛である。つまり、ここでは三木之助と記さず、「右兵衛」なのである。そのように三木之助が右兵衛と名のったという傍証は、前後の史料にはまだ見当たらない。したがって、これは何とも言えないのだが、宮本「右兵衛」と書いた本多家中の史料もある、ということに注意を喚起しておく。
 興味深いのは、「本多家系」によれば、宮本「右兵衛」は、忠刻病死のころ、故あって家を離れ、蟄居して隠棲していた、とあるところである。これは「御家」と記さず、「家」と記すから、本多家を致仕して、ということではなく、宮本家を離れて蟄居していたということらしい。記事をそのまま読めば、親の武蔵との間に何か問題があったかのような話である。
 そうして、宮本「右兵衛」は、忠刻死去の報を聞いて、(姫路へ)立ち帰り殉死したというのである。後のものほど話の尾ひれがつくものだが、十八世紀初期には本多家中では、そういうことになっていたらしい。
 この話が、三木之助ではなく「右兵衛」と記す文書が初出だということがポイントである。要するに、右兵衛は故あって姫路を離れて蟄居していたが、主君死去を知って、姫路へ帰り追腹を切ったというのは、話としては面白いが、だれか別人の説話素と混雑した可能性もある。
 ところで、この「本多家系」には、殉死の日と殉死者の行年を記す。それが、五月十三日。忠刻死去の初七日である。行年は井原が二十一歳、宮本が二十三歳、そして宮本の家来・宮田「角」兵衛が三十一歳である。これらの記事は、後出の宮本家の記録と一致する。おそらく墓誌を見たものであろう。
 おもしろいのは、これが「本多家系」、主家・本多家の系譜であるにもかかわらず、ここではそのほかに、この殉死者二人の辞世まで記録するようになっていることである。主人の忠刻に辞世があったともなかったとも書かないのに、である。この文書は、本多家が二度目の姫路城主時代に書かれたものであり、前回の本多家城主時代をめぐる姫路の野史を取り込んだらしい。
 その辞世にしても、伊原の《二世までとおもいしことのかないきて、きみもろともにゆくぞうれしき》や、宮本の《おもわずも、雲井のよそにへだゝりし、ゑにしあればや、ともにゆくみち》は、追腹を切った殉死者のものとして大かた妥当なものだが、宮本の第二歌、《龍田山峯の嵐に誘れて谷の紅葉も今ぞちりけり》となると、これは首をかしげる人もあろう
 それも当然で、いうまでもないことだが、殉死の時は五月、季節は夏である。にもかかわらず、この歌は、「嵐ふく三室の山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり」という能因法師流の秋の紅葉である。季節があわないのである。しかも、本歌の「龍田」は「川」であって「山」ではない。
 このあたり、いささか杜撰なところがあり、巷間伝説が生産した辞世の馬脚があらわれている。本多家が姫路を留守にしていた、かれこれ半世紀の間に、当地播州姫路では、三木之助らの殉死事件について、あれこれ伝説の開花があったようである。

 もうひとつ、ここで挙げておく第三の史料は、前者よりやや後の、本多家が姫路から越後村上へ移封されたあたりのもので、系図や諸記録をまとめて編集した「本多家覚書」である。写本は誤記脱字もあってあまり善本とは言えないが、これにも殉死の一件を記録するから、見落とすわけにはいかない。
 この文書の記事も大かたは前掲「本多家系」と同じである。しかしいくつか注意すべき記事もある。
 ひとつは、伊原伊木左衛門を、伊原「牛之助」と記すところである。この「牛之助」が伊原伊木左衛門の初名であったか否か、確かめようはない。ただ、後の文書に出る「岩原牛之助」などの異名の原型になった名の初出がこれである。
 三木之助についても、「本多家系」では、《有故離家、蟄居而隠》とあったところ、本書では、故あって浪人、と記す。宮本家を離れて蟄居、というのが、こんどは(本多家を去って)浪人、というわけだから、話がより進んでいるのである。
 もうひとつは、前掲「本多家系」では、行年記事が現れていたが、ここではさらに法名を記す。三木之助の諒傳安志門などがそれである。後のものほど咄が詳しくなるようである。
 しかし、もっとも興味深い増加記事は、なんと、三木之助の家来・宮田「角」兵衛にも辞世の句があったとするところである。
 前にも「本多家系」について述べたように、これは本多家系譜中の忠刻の記事である。系譜には、忠刻について、秀忠の長女(千姫)を嫁にしたという以外にさしたる記事がない。にもかかわらず、この殉死事件を欠かさず記すばかりか、後のものになると、殉死者の辞世を記録するようになった。そのあげくが、三木之助の家来・宮田角兵衛の辞世まで収録するようになったのである。
 ところで、この覚書では宮田の辞世は、「死タムナ、アラ死タムナ、サリトテハ、思ハ深臣ノナサケニ」とあって、「臣」は「君」の誤写であろう。この「死タムナ」は、「死にとむな」、死にとうない、ということである。ようするに、この歌は、死にたくない、死にたくない、けれども、思えば、深い主君の情けがあった、それに報いるには、やはり死ななければ…という戯れ歌である。
 そのように一種の戯れ歌なのだが、本多家中には、実は宮田のこの辞世の「本歌」とでも云うべきものがあったようである。江戸後期の旗本で、勘定奉行などを勤めた根岸肥前守鎮衛(1737〜1815)の『耳袋』によれば、「梶金平辞世の事」(巻之五)に類似の歌がある。梶金平は、家康から本多忠勝に附属された武将である。その子孫は、代々「梶金平」を襲名して本多家中に家老として存続した。
 その『耳袋』によれば、梶金平の辞世は、《死にともな、あら死にともな、死にともな、御恩に成し君を思へば》というものであった。
 この辞世について、編著者の根岸鎮衛は、いささかも他人の批判や賞美をも顧ざる所が面白い、と記している。勇猛な武士は死ぬのを屁とも思わないのが当然、という通念があったとすれば、豪気無骨の豪傑・梶金平が、「死にたくない、死にたくない」と繰り返す、そこがおもしろい、というわけである。
 しかし、この歌をよく見れば、御恩になった君を思えば、死にたくない、といっているわけで、云うならば、「恩を蒙った君に先立って死ぬのは残念だ、死にたくない」というのが、梶金平の辞世の句である。だから、たんに「死にたくない」といっているわけではない。
 旗本の根岸鎮衛の聞書に、この辞世を拾っているところを見ると、これは本多家中のみならず、世間では有名な辞世だったらしい。そうしてみると、梶金平の辞世を本歌取りした、上記の宮田角兵衛の歌とされるようなものも発生するわけである。
 ところが、おもしろいことに、同じ「死にとむな」の歌であっても、宮田のものは意味が逆転している。こちらは、まずは、「死にたくない」のである。しかし、「さりながら」である。死にたくないが、深い主君の情けを思えば、それに報いるには、やはり死ななければ…というわけである。
 しかし、殉死に極まる武士道の本音、真情はこういうものだったと、安易に断じることはできない。それは個人心理を読みたがる近代人の感想である。むしろ、興味深いのは、ここには殉死に対するクリティシズムがあることだ。当時、赤穂浪人の義挙以来、忠臣への崇敬が世間では大きくなっていた。すでに稀になった殉死に対する賛美の聲も、むしろ世間では大きい。しかし、そんな世間の風潮に対する批判がここにある。
 これを殉死者・宮田覚兵衛に帰したとすると、これは中々手だれの揶揄である。むろんそんなスタンスは、忠義を重んじるのが建前の武家の世界では発起しにくい。おそらく、姫路の町人社会の間から発生した揶揄の戯れ歌であろう。本多家中に「本歌」というべき梶金平の「死にとむな」の辞世が言い伝えられていたのだから、これは梶金平の「本歌」を知った上での、明らかな揶揄である。
 したがって、殉死の辞世なら他にもいくらもありそうなのに、かなり訳ありのこうした戯れ歌が、本多家家老・中根家の文書に収録されているのが、興味深いところなのである。この覚書の筆者は、姫路の野史にあったこの宮田角兵衛作という辞世を、これは面白いと思って、捨てずに拾って収録したのである。これは一種の民俗学的スタンスであって、おそらく筆者は柔軟な思想のできるそれなりの知識人であろうし、それゆえこれを自家秘録として残したのである。

 さて、以上一通り、本多家中の史料を見たので、ここで、この殉死事件に関する記事の相違を整理しておく。


三木之助墓基壇
「平八供 宮本三木之助」の刻字




中根家文書
本多要櫃記




本多家廟所殉死者墓
左手前が三木之助、右が宮田覚兵衛






*【本多家系】
《○同十三日、家臣伊原伊木左衛門殉死。二十一歳。其言云、「人間萬事一日夢」。又、「今ぞとも誘ふにつるゝ杜鵑」。又、「二世までとおもいしことのかないきて、きみもろともにゆくぞうれしき」
○宮本右兵衛、二十三歳。有故離家、蟄居而隠處、聞忠刻卒去之旨、立歸殉死。其言云、「おもわずも、雲井のよそにへだゝりし、ゑにしあればや、ともにゆくみち」。又、「龍田山峯の嵐に誘れて谷の紅葉モ今ぞちりけり」。同宮本家人宮田角兵衛、右兵衛介錯而自殺。歳三十一》











姫路城下絵図










*【本多家覚書】
《同月十三日、忠刻家臣殉死。伊原牛之助、二十一。法名右覚道心門。○「人間萬事一日夢」○「今ゾ友サソフニツル丶時鳥」。「二世マデト思シ事ノ叶来テ、君モロ共ニ行ゾウレシキ」
宮本三木之助、故有浪人、卒去聞、立帰殉死。二十三。諒傳安志門。○「ヲモハズモ、雲井ノヨソニヘダ々リテ、ヱニシアレバヤ、供ニ行道」○「龍田山、峯ノ嵐ニサソハレテ、谷ノ紅葉モ今ゾチリケリ」。 宮本家人宮田角兵衛、爲介錯、自害。三十一。爲臣鑑道彼門。○「死タムナ、アラ死タムナ、サリトテハ、思ハ深臣(君?)ノナサケニ」》












*【耳袋】
《御當家御旗本の豪傑と呼ばれ、神君の御代、戦場にて數度武公を顯したる梶金平、死せる時、辭世の歌とて、人の咄けるが、豪氣無骨の人物、忠臣の心を詠じたるにハ、聊人の批判賞美をも顧ざる所、面白けれバ爰に記しぬ。
  死にともな、あら死にともな、死にともな
   御恩に成し君を思へば 》(巻之五)











本多家廟所 三木之助主従墓
左が宮田覚兵衛、右が三木之助

  本多要櫃記 本多家系 本多家覚書
伊原の名 伊原伊木左衛門 伊原伊木左衛門 伊原牛之助
宮本の名 宮本三木之助 宮本右兵衛 宮本三木之助
宮本家来の名 宮田覚兵衛 宮田角兵衛 宮田角兵衛
宮本の動向 ――― 有故離家、蟄居而隠處、聞
忠刻卒去之旨、立歸殉死
故有浪人、卒去聞、
立帰殉死
殉死の日 ――― 五月十三日 五月十三日
殉死者の行年 ――― (記載あり) (記載あり)
殉死者の法名 ――― ――― (記載あり)
伊原の辞世 ――― (記載あり) (記載あり)
宮本の辞世 ――― (記載あり) (記載あり)
宮田の辞世 ――― ――― (記載あり)
野史の取込度合
 以上のように、この三文書では情報量が異なる。これらは著述の時代はさして隔たりはないから、殉死事件に関する記録の三つの異なるヴァージョンと見てよい。「本多要櫃記」が古型を保つというのは一応言えることだが、それにしても、相違は時代差ではなく、見てのとおり、野史伝説の取り込みの度合が異なるのである。その度合も、「本多家系」より「覚書」の方が大きい。
 もとより、「本多家系」が三木之助を「右兵衛」とするところや、「覚書」が伊原伊木左衛門を「牛之助」とするところ、相違があるのだが、まだ伝説が固まっていない段階のものである。あるいはまた、三木之助(右兵衛)の殉死前の動向として、家を離れて蟄居していた(本多家系)とか、浪人していた(覚書)など、説話に一種のドラマ化が発生しつつあるのも確認できる。それも、両者にニュアンスの相違があり、まだ説話が固定していなかった段階を示している。
 他方、宮本三木之助(右兵衛)と伊原伊木左衛門(牛之助)、この両人の辞世をほぼ同文で収録していることなどからすると、この辞世に関しては、巷間伝説では大かた固まっていたもののようである。
 これに対し、宮田「角兵衛」の辞世は、もっとも野史の度合が高く、また時期としても後発的な記事である。「本多家系」にその収録がないのは、まだそれが発生していなかったからである。まず、伊原伊木左衛門と三木之助の辞世が発生し、ついで、宮田の辞世が生じたという順序である。それゆえ、この記事の有無によって、記録の先と後が知れる。
 しかし、それにしても、元禄後期という限られた期間における先後であろう。赤穂事件の浅野長矩の有名な辞世にしても、直後の記録の中で発生したものである。いわば、事件の当事者に辞世を要求する世間の需めがあった。野史の生産機能の一つは、その需要に応じることである。
 さて、本多家中の史料検討を終えるところで、注意を喚起しておくことがある。それは、三木之助とともに忠刻に殉じた者の名のことである。それはまず、本多家中では、「伊原伊木左衛門」であった。これが、野史では、「伊原牛之助」となっていたらしい。そこまでは、上記文書で知れる。
 しかし、その後、十八世紀中を経過するうちに、世間では、「伊原」が「岩原」に変じたようである。つまり、「いはら」が「いははら」に転訛して、「岩原」姓が出来たらしい。これは、後の伝説変異である。
 ところが今日、三木之助とともに殉死した者の名は「岩原牛之助」ということになっている。これは、上掲文書で確認しうるように、元禄期の姫路にはまだなかった名である。当時は、「伊原伊木左衛門」である。ただし、巷間、「伊原牛之助」という名が発生していた。しかし、変化もそこまでである。つまりは、「岩原牛之助」という名は、元禄の頃はまだ存在しなかったのである。
 ところで、武蔵が養子にした三木之助はどういう出自の者か。これについて、明らかにしておかねばならない。というのも、いまだに、三木之助は、西宮の馬子だったとか、美作の新免宗貫の孫だったとか、そんな後世発生した誤伝に依拠した説が、いまだに死滅していないからである。
 三木之助の出自に関しては、記録は本多家中にないから、親族の記録文書を見るのが第一である。実は、備前岡山に三木之助のことを書いた史料が存在する。なぜ姫路の隣の岡山か、というと、いささか因縁めいた話になるが、岡山池田家中に三木之助の甥がいたのである。
 すでに今は昔のことになるが、綿谷雪から教示されたのは、備前岡山には『吉備温故秘録』という一書があって(『吉備群書集成』所収)、そこに三木之助の甥が提出した由緒書が収録されているとのことであった。
 なるほどたしかに、『吉備温故秘録』にはその宮本家文書があった。数百人の藩士等関係者の出自経歴を順に並べて略記しているのだが、そのなかに「宮本先祖」として、上記中川志摩之助とその子息、嫡子中川刑部左衛門と二男中川主馬の事績を記し、嫡子病死して、二男が志摩之助の家督と名を嗣いだことを述べ、さらに三男として「宮本三木之助」、三木之助の弟「宮本九郎大夫」、そして九郎大夫の子「宮本小兵衛」の宮本家の三名を記している。
宮本小兵衛 [御膳奉行、六十二俵五人扶持、四十四歳。十五歳之時兄辨之助果申候。其節より南都に罷在候]
寛文二年十月十二日二十一歳之時、於江戸侍從様へ被召出、同十一月十日御禮申上、今俵六十二俵五人扶持被下候。天和三年、御膳奉行被仰付候》
とある、この宮本小兵衛が三木之助の系譜を備前岡山へもたらしたものらしい。池田家文庫藩政史料(岡山大学付属図書館蔵)中にある、元禄九年(1696)の宮本小兵衛書上文書は、『吉備温故秘録』とほぼ同じ内容である。『温故秘録』の記事は宮本小兵衛の四十四歳、御膳奉行までであるから貞享二年(1685)の記事、これに対し元禄書上の方は、それより十一年後の元禄九年(1696)五十五歳、奥方附足軽頭である。六十二俵五人扶持から知行高二百五十石へ俸禄も増加している。
 すなわち、このことからすれば、『吉備温故秘録』の記事の方が十一年早いが、この元禄書上で、宮本小兵衛は二十一歳から三十年以上も池田家家臣であったことが知れるわけだ。
 宮本小兵衛書上が元禄九年提出であるとすれば、当時岡山藩は、池田輝政の曾孫・綱政が城主であった代(1672〜1714)である。綱政は、本多忠刻と千姫の孫でもある。つまり、本多忠刻と千姫の娘・勝姫が池田光政(1609〜1682)の妻となり、その生んだ子が綱政であるからだ。
 しかも、池田綱政の娘が、姫路城主・本多忠国に嫁している。この頃、姫路本多家と岡山池田家とは姻戚関係にあった。既述のごとく、この本多忠国の代に、姫路で三木之助をめぐる伝説があれこれ出来ていたようだが、まさにその頃、三木之助の甥が、隣国備前岡山に居たのである。
 ところが、姫路の伝説に三木之助の甥が関与した気配はない。むしろ、彼とは没交渉に、あのような姫路での伝説生長があったのである。
 さて、この宮本小兵衛がもたらした記録により、三木之助の前後を洗ってみれば、以下のようなものである。
 先祖は伊勢国中川原城主(現・三重県四日市市)、小兵衛の祖父・中川志摩之助の代に、当時勘当されて浪々の身の水野勝成(1564〜1651)と讃岐で出会った縁で、彼に仕えて武者奉行六百石。中川志摩之助に長男刑部左衛門あり、しかし長男病死して二男主馬が跡を嗣ぎ、後に志摩之助を名のった。
 そして三男が三木之助で、宮本武蔵の養子になった。
 姫路で本多忠刻に殉死した宮本三木之助に弟があり、『吉備温故秘録』によれば、名は九郎大夫という。元禄書上はこれを「九郎太郎」とするが、いづれが正しいか、決しがたい。しかし名のありかたからすれば、「九郎太郎」では恠しい。『吉備温故秘録』の「九郎大夫」の方が形式的には尤もらしい。元禄書上そのものが写しであるから、誤写の可能性がある。
 ともあれ、ここまでの記録でいえば、武蔵が養子にした三木之助は、水野家家臣・中川志摩之助の三男だということである。まさに、甥の宮本小兵衛が、《宮本三木之助。中川志摩之助三男にて、私ため實は伯父にて御座候》と記しているのである。
 しかも、三木之助の知行七百石は、本多家中の記録と一致するし、忠刻が寛永三年五月七日に卒去したこと、同月十三日、二十三歳で御供(殉死)したことなど、これも本多家中の記録と細部まで一致する。また、宮本家の家紋が九曜巴紋で、それが本多家の替紋を頂戴したものだということ、これは他では得られない貴重な情報である。じっさい、後の伊織の宮本家も家紋は九曜巴紋なのである。
 しかし、三木之助伝説にあるような、忠刻が死去した時、三木之助が本多家を致仕して浪人していた、などという話は、宮本小兵衛の文書にはない。これによって判明するのは、三木之助浪人説は、後に巷間伝説が生産した説話であって、事実ではないことである。
 三木之助の出自に関して、甥の小兵衛の文書以上の史料はない。したがって、これを基準として、三木之助に関する後世の伝説も検分できるというわけである。



*【吉備温故秘録】
宮本三木之助 [中川志摩之助三男にて、私ため實は伯父にて御座候] 宮本武藏と申者養子に仕、児小姓之時分、本多中務様へ罷出、七百石被下、御近習に被召出候。九曜巴紋被付候へと御意にて、付來候、御替御紋と承候。圓泰院様〔忠刻〕寛永三年五月七日御卒去之刻、同十三日、二十三歳にて御供仕候》
宮本九郎大夫 [三木之助弟にて御座候] 是も圓泰院様児小姓に被召仕候。兄三木之助殉死仕、實子無御座候に付、九郎大夫に跡式無相違、美作守様被仰付、名も三木之助に罷成候。天樹院様〔千姫〕播州より江戸へ御下向被成候刻、美濃守様御供被成候時、三木之助も美濃守御供仕候。天樹院様美濃守様へ御意にて、道中御旅館にて御目見被仰付候。甲斐守様〔政朝〕御代、番頭に被仰付候。内記様〔政勝〕御代、寛永十九年九月病死。私兄宮本辨之助と申、跡式被下、内記様に罷在候へ共、若き時病死仕候》


池田家文庫藩政史料 岡山大学図書館蔵
宮本小兵衛奉公書
池田家文庫藩政史料




*【三木之助系譜】 (吉備温故秘録による)
 
○中川志摩之助┐
 ┌─────┘ 水野日向守家中
 ├刑部左衛門
 |
 ├主馬 後改志摩之助
 |
 ├宮本三木之助 武蔵養子 殉死
 |
 │兄跡目宮本
 └九郎大夫┬弁之助 大和郡山
      |
      └小兵衛 岡山池田家中

*【三喜之助系譜】(東作誌による)
 
○新免伊賀守宗貫┐
 ┌──────┘
 ├宇右衛門尉─┬三喜之助貞為
 |      |
 ├半左衛門尉 └市郎右衛門
 |
 ├弥大夫  
 |
 └庄兵衛


*【東作誌】
《當世の美少年なり。宮本武藏政名の外孫たるを以て、二刀の劍術をよくす。故を以て播州姫路城主本多美濃守侯の嫡・中務大輔忠刻に仕へ、児小姓より登庸せられて小姓頭となる。禄七百石。改姓して宮本三喜之助貞爲と号す。寛永三年丙寅五月七日、忠刻三十一歳にして卒す。貞爲寵遇の厚きに感じて即日殉死す。年二十三歳。辭世の歌
  龍田山みねの嵐にさそはれて
    谷の紅葉も今ぞ散けり
其臣宮田覺兵衛、主人三喜之助を介錯して其まゝ殉死す。年三十三歳。辭世の歌
  死にとむなあら死にとむな 去とては
    思へば深き君のおなさけ
墓は播州書寫山忠刻公霊屋中にあり。武藏流の劍術、貞爲より石川左京豐清へ傳へ、夫より傳來すること宮本村平尾家の條に委し》(吉野郡大野保川上村条)



岡山県立図書館蔵
東作誌




*【筑前新免氏系図】
 
○宇野下野守則高──┐
 ┌────────┘
 ├山崎茂右衛門
 │
 ├新免弾正左衛門則種─┐
 │     (宗貫) │
 │          │
 ├常屋五郎左衛門   │
 │          │
 └某 熊見      │
 ┌──────────┘
 ├宇兵衛 東蓮寺、後致仕 肥後へ
 │
 └七兵衛種信┬弾之丞貫清
       │
       └市郎右衛門貫種→





筑前新免家累代塔
清岩寺 福岡県朝倉市三奈木

 とすれば、ここまできて、美作の伝説に論及しないわけにはいくまい。すなわち、例の『東作誌』(吉野郡大野保川上村条)が記載する荒唐無稽な記事のことである。
 それが示す新免家系譜によれば、新免宗貫の子に新免宇右衛門尉あり、またその子(つまり宗貫の孫)に三喜之助貞為があり、これが本多忠刻に殉死したという人物だとするのである。
 記事内容はこうだ。――三喜之助貞為は当世の美少年で、「宮本武蔵政名」の外孫であったので、二刀の剣術にすぐれていた。このため播州姫路城主・本多美濃守(忠政)の嫡子・中務大輔忠刻に仕え、児小姓から登用されて小姓頭となり、禄七百石。改姓して、宮本三喜之助貞為と号す。寛永三年五月七日、忠刻は三十一歳にして亡くなった。貞為は忠刻の寵遇の厚きに感じて、即日殉死した。享年二十三歳。
 ごらんのように、随所に誤りがあるが、それは『東作誌』が十九世紀の著作であるからだ、すでに、殉死事件から百八十年である。本書がいったん仕上がったのは文化十二年(1815)、上述の本多家中の諸文書より一世紀以上も後の作物である。この伝説の成立した条件と環境を考える必要がある。
 これが十分口碑伝説の多層を潜ってきたことは、「当世の美少年で、宮本武蔵政名の外孫」というあたりに明らかである。著者の正木兵馬は、寛政年間、津山松平家に仕官するまで、諸国を歩いた軍学者である。兵書も、『武芸小伝』も見ている。そのうえ、おそらく姫路にも逗留して、宮田覚兵衛の辞世を含む伝説を聞いたものと思われる。したがって、三木之助の役を担うこの新免三喜之助貞為なる人物の仮構以外は、正木兵馬の聞いた話であり、また想像もある。
 『東作誌』が拾ったこの三喜之助伝説は、宮本武蔵は作州宮本村生まれだという、美作以外にないローカルな伝説の副産物である。武蔵を美作へ我田引水したついでに、三木之助も新免氏にしてしまったのである。しかも、それが口碑伝説ではなく、それを新免系図の内に場所を与えてしまうところが、これまた念のいった仕業である。
 もっとも、同系図中、この三喜之助部分だけ異例に長く、にぎやかで規格外れの様相である。『東作誌』の原本は現存しない。幕末から明治にかけて編者の加筆もかなりある。したがって正木が採取した新免系図に当初からあったかどうか、この体裁ではそれも疑わしい。
 美作側の新免氏系図が知らないのは、新免宗貫が九州へ去った後の動向である。とくに宗貫の長男・宇兵衛を宇右衛門尉という名にしてしまい、知行三千石とは恐れ入った伝説である。筑前新免氏系譜は、作州時代の新免家については、播州宍粟郡の宇野氏と見境いがなく、ほとんど誤伝だらけの唖然とするような内容だが、筑前移住以後の動向については、さすがに、美作側史料の知らないことを記録している。
 則種(宗貫)の長子・宇兵衛は、慶長五年に父とともに筑前へ来て、黒田長政に仕えて、采禄三百石。父歿後は、遺領二千石のうち三百石を分与され、本知三百石と合わせて、都合六百石である。
 その後、宇兵衛は福岡から鞍手郡東蓮寺へ移った。つまり、黒田長政の遺命により、後嗣忠之は二人の弟、長興に五万石(秋月)、高政に四万石余(東蓮寺)を分知して、二つの分家を設立したのが元和九年(1623)。このとき、宇兵衛は高政に附属されて、東蓮寺へ移ったらしい。しかし宇兵衛は、後年、故あって黒田家を致仕して、肥後へ行き、細川越中守の家臣となった、この子孫は今も肥後にあり、というから、宇兵衛の系統の新免氏は肥後にあったらしいのである。ただし、このあたりは肥後側の裏付けをとっていないので、確かではない。
 筑前新免氏は、弟の七兵衛種信の系統である。兄の宇兵衛は諱さえも知れない。筑前新免氏末孫には、歿年歿地を含めて以後の宇兵衛事蹟は不明であるし、宇兵衛の子となると一層不明である。ただし、だからといって、宇兵衛の子が武蔵の養子・三木之助になるわけがない。
 武蔵の養子になった「みき」之助なら、水野勝成家臣・中川志摩之助の息子、三木之助のことである。すでに見たように、これは三木之助の甥・宮本小兵衛がきちんと記録を残している。三木之助は、美作の新免氏とは何の関係もない人物である。じっさい、まさにその三木之助の甥が、隣国の備前岡山の池田家中にいたとは、美作ではまったく知らなかったらしい。
 上掲『吉備温故秘録』が、三木之助の甥による貞享二年(1685)の記事、したがってそれより百三十年後のこの『東作誌』の記事が、それと信憑性を争うわけにはいかない。作州産のこの三喜之助伝説は、一般に『東作誌』の武蔵関連記事がどれほどの変形を蒙った虚説であるか、その一端を示すその例証でもある。言い換えれば、三木之助を我田引水したと同じように、武蔵を我田引水したのが、美作の伝説なのである。
 繰り返せば、美作の史料は、九州へ去った宗貫の息子のことになると、ほとんど何も知らない。その孫になると、話はまったくの空想である。筑前の新免氏を知らないから荒唐無稽な妄説が暴走して歯止めがきかないありまさである。ようするに、新免三喜之助為貞なる人物は実在しなかった。新免宗貫の孫は武蔵の養子にならなかった。それが事実である。
 とはいえ、いまだに『東作誌』の記事に依拠して、三喜之助伝説を反唱している説の何と多いことか。『吉備温故秘録』という昔から知られていた文献さえ知らない、というのがそれらの武蔵本著者なのである。怠惰というほかあるまい。
 もうひとつ、三木之助伝説を挙げれば、筑前の『丹治峯均筆記』所収の武蔵伝記が記す説話がそれであろう。この書は享保年間の著作で、むろん『東作誌』より九十年ほど前のものである。著者の立花峯均は、筑前福岡の黒田家臣で、筑前二天流の一流相伝を得た人である。また元禄十四年と十六年には播州明石で柴任美矩から兵法の大事を学んだ者である。したがって、本書の伝説は、上掲の本多家中の諸文書と、ほぼ同時代の伝説である。
 本書は、三木之助について、冒頭、《造酒之助ハ西ノ宮ノ馬追ナリ》とする。三木之助が馬追、馬子だったというのだから、これは話が最初からとんでもないことになっているのである。
 ともあれ、以下その記事を見てみよう。――武蔵が、ある時、尼崎街道を乗掛馬で通った。尼崎街道は、中国街道が尼崎で分かれ、そこから大坂へ行く海沿いの街道である。尼崎からは伝法村、川口湊を通り、大坂の中心・高麗橋に至る要路である。ここの話では、武蔵が、大坂川口あたりで乗掛馬をやとい、尼崎街道経由で西宮方面へ向かったという設定らしい。
 そうして西宮の驛(うまや)から、十四、五歳の少年が武蔵が乗る馬の口取りをした。武蔵は馬上からじっくりと少年の面魂を見て云う、「おい、おまえ。おれが養子にして、どこかよい主人へ出仕させてやろう。養子になれよ」。少年は馬子だが、武蔵はその子の器量を見抜いて、養子にして仕官させてやろう、武士にしてやろう、というわけだ。
 武蔵がそう云うと、しかし少年は、「仰せはありがたいことですが、老いた親があり、このように馬子をして親を養っています。あなたの養子になってしまうと、両親が生活に困ってしまいましょう。その話は御免ください」と断わる。親孝行な少年なのである。武蔵はこれを聞いて云う、「とにかく、まずは、おまえの家に連れて行け」と。
 西宮の少年の家に行くと、武蔵は両親に養子の話を言い聞かせ、当分生活に困らないように、親に金を与え、近所の者にも老親のことを懇ろに頼んでおいた。武蔵はそのようにして親元から造酒之助を貰いうけ、養子にしてしばらく教育した。それから、播州姫路の城主「本多中務太輔忠刻卿」へ出仕させた。造酒之助は中書殿〔中務大輔、本多忠刻〕の心に叶い、次第に立身出世したという。
 むろん、『峯均筆記』に「播州姫路の城主本多忠刻」とあるのは誤りである。姫路城主は父親の本多忠政(1575〜1631)である。忠刻(1696〜26)は忠政の嫡子であったが、本多忠刻の在世中、家督相続はなく、「姫路城主」になったことはない。このあたりも口碑伝説の訛伝である。
 ところが次に、『峯均筆記』は、造酒之助は事情があって暇を申し請け、つまり、本多家を致仕して、姫路を去り江戸へ下った、という。と、そのうち、本多忠刻が病死する。武蔵はそのころ大坂に居て、忠刻の死を聞くと、「近日中に造酒之助が、(江戸から)ここへ来るだろう。生涯の別れになろう。今生の別れに饗応してやろう」と。かくして、武蔵の予言通り、しばらくして造酒之助がやって来た。武蔵は悦びに堪えず盛大に饗応した。造酒之助は武蔵の盃を所望して頂戴し、「これからすぐに姫路へ行くつもりです」と武蔵に告げた。「もっともの覚悟である」と武蔵の挨拶〔応答〕があった。造酒之助はそれから姫路へ行って追腹〔殉死〕したという。
 『峯均筆記』の記事は以上であり、これを鵜呑みにした武蔵評伝が多いが、ことの真相を云えば、第一に、造酒之助ならぬ三木之助の方は、本多家を致仕したことはない。三木之助死後は、弟の九郎大夫が家督相続し、三木之助を襲名している。九郎大夫はその後本多家転封とともに大和郡山へ移住している。宮本家はそのように本多家家臣として存続しているから、《子細アツテ暇申請》ということはありえないのである。
 すでに見たように、元禄期にすでに、播州姫路では、三木之助について同種の伝説が発生していたことが確認できる。『峯均筆記』はその伝説を取り込んだのである。本書は筑前の文書だから、こうして見ると、享保年間までに、この伝説はかなり流布していたのである。
 第二に、造酒之助が(江戸から?)姫路へ駆けつけるという話。じっさいは、主人忠刻死するや、三木之助はその初七日に殉死した。甥の宮本小兵衛によれば、《圓泰院様〔忠刻〕寛永三年五月七日御卒去之刻、同十三日、二十三歳にて御供仕候》(吉備温故秘録)ということである。
 当時の通信交通事情を考えれば、忠刻の訃報が姫路から江戸まで達するのに何日かかるか。三木之助が初七日に殉死したとすれば、彼が訃報を聞いて江戸から大坂、そして姫路に舞い戻る暇などありえない。したがってまた、武蔵がもし姫路に居なければ、武蔵は三木之助の殉死を事後的に知るほかなく、武蔵も今生の別れに饗応するなどありえないのである。
 ようするに、もともと事実は、本多忠刻の家臣・宮本三木之助が、忠刻死後、その初七日に姫路で殉死した、ということのみである。伝説はドラマティックな仕立てを好む。この殉死事件は巷間有名であったらしく、そのように世間で伝説が流伝するうちに、三木之助は本多家を致仕し姫路を去ったが、忠刻の死を聞いて急遽姫路へ駆けつけ、殉死したという逸話が発生したのである。しかも、上述のごとく、野史には三木之助や伊原の辞世まで記載し、さらには宮田の辞世まで載せるようになったのである。
 元禄後期までに、そんなぐあいの三木之助伝説が、播州姫路では発生していた。『丹治峯均筆記』の著者・立花峯均はそれを聞いていたであろう。だが、当時武蔵が大坂にいて…云々の話は、それに尾ひれがついたかっこうである。こちらは、筑前ローカルな伝説の発展形である。



尼崎街道


*【丹治峯均筆記】
造酒之助ハ西ノ宮ノ馬追ナリ。武州、或時、尼ヶ崎街道ヲ乘掛馬ニテ被通。西ノ宮ノ驛ニテ、十四五ノ童、馬ノ口取、進ミ行。武州馬上ヨリ、ツク/\ト彼童ガツラ魂ヲ見テ、「其方、我養テ子ニシテ、能主ヱ可出。養ハレヨ」ト有ケレバ、彼童申様、「仰ハ忝ク候ヘ共、老ノ親ヲモテリ。某如此馬子ヲシテ養ヘリ。御身ノ養子ニ成テハ、兩親難儀ニ及ブベシ。御免アレ」ト申ス。武州聞玉ヒ、「先其方ガ家ニ連行ケ」トテ、彼家ニ至リ、兩親ヱ右ノ旨趣ヲ申聞ケ、當分難儀無之様ニ金子ヲアタヱ、所ノ者ニモ懇ニ頼置、彼童ヲ伴ヒ、暫ク養置テ、播州姫路ノ城主、本多中務太輔忠刻卿ヘ差出サル。中書殿、御心ニ叶ヒ、段々立身セリ。然レ共、子細アツテ暇申請、江戸ヘ下ル。中書殿、不幸ニシテ早世シ玉フ。武州ハ其比大坂ニ居テ、此事ヲ聞、「近日造酒之助來ルベシ。生涯ノ別、可爲馳走」ト也。カクテ暫クアリテ造酒之助入來ス。武州、悦ニ不堪、甚饗シ玉フ。造酒之助、盃ヲ所望シテ戴キ、コレヨリ直ニ姫路ヱ相越候通申達ス。武州、尤ノ覚悟之由、挨拶アリ。造酒之助、姫路ニ至リ、追腹セシトイヘリ。可惜々々》



三木之助及び子孫関係地




大和郡山城 大手向櫓
奈良県大和郡山市





    豊臣秀吉―秀頼
          │
 徳川家康―秀忠―千姫
          ├―勝姫
 本多忠勝―忠政―忠刻 │
            ├―綱政
    池田輝政─利隆─光政



岡山城と後楽園 岡山市



池田光政像 林原美術館蔵


*【宮本小兵衛書上】
《一、私、生國大和国郡山ニ而御座候。十五之年、兄弁之助果申候。其節より南都〔に〕罷有候。寛文二年寅十月十二日、於江府、弐十一歳之時、當殿様〔光政〕江被召出、同十一月十日、御礼申上候。今、俵六拾弐俵五人扶持被下、御式臺ニ相詰、御供御使者を相勤候》(池田家文庫)




池田光政日記


【姫路宮本家】
元和7年(1621)?〜寛永16年(1639)
宮本三木之助(1606〜1626)
宮本九郎大夫(?〜1642)

【明石宮本家】
寛永4年(1627)〜寛永9年(1632)
宮本伊織(1612〜1678)

 ところで、その後、姫路の宮本家はどうなったか、という話である。
 小兵衛の父九郎大夫も本多忠刻の児小姓に出仕していたが、兄三木之助の殉死にあたり、その家督を嗣がせられ、名も三木之助を襲い、忠刻父の本多忠政に仕え、かくして姫路の宮本三木之助家は存続したのである。
 千姫が姫路から江戸へ帰るさい、本多忠政は彼女を送りとどけたのだが、兄の宮本家を嗣いだ九郎大夫は、この一行に供奉し、道中の旅館で千姫お目見えがあったと記す。
 その後、忠政死し、龍野藩初代藩主であった二男政朝が姫路城主となる。九郎大夫は、政朝の代には番頭〔ばんがしら〕を勤めたという。その後、政朝も七年の城主で、寛永十五年(1638)に死んだ。殉死は生前誓約のあった大谷三兵衛。大屋小隼人介錯して政朝の墓の側に葬る。
 しかし、政朝の男子いづれも幼少ゆえ、政朝の従弟・政勝を急遽城主に据えた。翌寛永十六年(1639)本多家は大和郡山へ転封となる。そのさい、九郎大夫も、大和郡山へ移るのである。そうして寛永十九年(1642)同地で病死。
 宮本小兵衛は、九郎大夫の二男としてその大和郡山で生まれた。
   《私、生国大和国郡山にて御座候》
 この大和郡山生まれの宮本小兵衛が、いかにして備前池田家家臣になったか。まず、父九郎大夫の死後、嫡男弁之助が家督を嗣いだ。ここにまた「宮本弁之助」が登場する。「宮本弁之助」は武蔵の幼名ではなく、養子・三木之助の甥の名である。
 しかしこの嫡男・弁之助が病死したため、この宮本三木之助家は本多家を「浪人」、つまり本多家から暇を出された。これは小兵衛が十五歳の少年で、おそらく後見なきゆえのことであろう。武士は簡単に失業したものである。
 少年にして浪人の身の小兵衛は、南都奈良に住み、その後、江戸へ出たらしく、寛文二年(1662)二十一歳のとき、江戸で備前岡山藩主・池田光政に召し出され、家臣となるのである。

 かくして、本多忠刻・宮本三木之助の因縁は、ここに現成するのである。つまり、池田光政の妻・勝姫は本多忠刻と千姫の間の娘であり、播州姫路で生まれた人である。母千姫とともに江戸に去ったが、勝姫はすでに元和九年(1623)六歳にして、秀忠の養女となって池田光政と婚約、寛永五年(1628)、十一歳の勝姫は二十歳の鳥取藩主池田光政へ嫁したのである。
 池田光政(1609〜1682)は池田利隆の嫡男として岡山城に生まれたが、短期間だが姫路城主であったことがある。すなわち、元和二年(1616)、姫路藩主・池田利隆の死に伴い、いったんその遺領四十二万石を継ぐが、幼少を理由として、翌年因幡伯耆二国三十二万石の鳥取城主に転封となる。その後姫路に入部したのが、本多忠政であったことは申すまでもない。
 池田光政はその後、寛永九年(1632)に、従弟・池田光仲との国替えで岡山へ復帰、三十一万石を領知する。二十四歳のときである。以後寛文十二年(1672)に家督を綱政に譲るまで四十年間、岡山城主であった。『甲子夜話』(巻一)「新太郎どの、旅行に十三経を持せらるゝ事」の「新太郎」とは池田光政のことで、旅行にも儒教の聖典を持って行ったほど学問好きというエピソードである。藩校閑谷〔しずたに〕学校に熊沢蕃山を招聘したことは周知の通りである。
 余談になるが『古老茶話』に、池田新太郎光政、あるとき将軍に、我家は父祖代々「武蔵守」であるから、どうか私にだけは武蔵守の称号を許していただきたいと願いを入れたが、どうしても許可されなかったとある。この話の実は別にしても、これは公的存在としての大名職名のケースであって、「新免武蔵守玄信」のように私称として武蔵守の職名を用いた例は決して少なくなかった。だから武蔵自身が「武蔵守」を名のるはずがない、それは弟子末孫が大祖と尊んで呼んだ尊称だとするのは、見当違いもはなはだしいことである。
 ともあれ、池田光政が宮本小兵衛を江戸で発見したのは寛文二年(1662)、光政五十四歳、勝姫四十三歳の年である。宮本小兵衛は、勝姫の父・本多忠刻に殉死した宮本三木之助の弟の二男、実の甥であった。三木之助の殉死は寛永三年(1626)のことだから、実に三十六年ぶりの因縁現成である。光政は宮本小兵衛を岡山へ連れ帰った。播州姫路発生の宮本家は、めぐり巡って隣国備前岡山で再興されたのである。
 かくして、宮本姓を名のる以上、この宮本小兵衛が武蔵の養子・三木之助の家の継承者である。小兵衛は三木之助の甥だが、父が兄三木之助の家督を嗣ぎ、名も三木之助を襲名して、武蔵の養子・三木之助の家を継承したからである。
 つまり、宮本武蔵→三木之助→九郎大夫→弁之助→小兵衛という因縁の系譜が、姫路・大和郡山、そして岡山にと、場所を替えつつ存続したのである。したがって、宮本武蔵の宮本家は、九州小倉の宮本伊織家と、池田光政によって発掘されたこの三木之助系統の岡山宮本小兵衛家の二つが残ったとすべきである。
 なお、細かいことを言えば、宮本小兵衛が江戸で池田光政に遇ったのは、「寛文二年十月十二日二十一歳之時」というが、それには疑問がある。
 『池田光政日記』によれば、寛文元年八月二十六日、光政は江戸へ到着。その日、「晩ニ東之丸へ参」とある。この「東之丸」は天樹院・千姫のことである。光政は江戸へ着いた早々姑の千姫に会いに行っているのである。千姫は寛文六年卒、行年七十である。このときは千姫も相当バアさんである。
 話を戻せば、翌寛文二年、たしかに光政は江戸にいたが、しかしこの年は岡山へ帰る年で、七月三日に江戸を出発、同月十八日には岡山へ帰着している。したがって光政は、十月に江戸にはいないわけであり、この十月という日付には疑義がある。
 それはともあれ、宮本三木之助殉死に際し、当主本多忠政は三木之助の家督七百石と名を、弟九郎大夫に嗣がしめた、という記事を信ずれば、少なくとも「宮本家」は、まず姫路に発生したのである。これが明石の宮本伊織の「宮本家」に先立つものであることは言うまでもない。
 そうしてみると、寛永時代の一時期、播州には姫路と明石、二つの宮本家が同時並立したことになる。このことは、従来強調されなかったことである。
 むしろ逆に、三木之助が死んで、武蔵は姫路の本多家に養子を仕官させる方策に失敗したので、明石で伊織を仕官させたという、まことしやかな憶説が流布している。しかし、小笠原家転封とともに武蔵が九州へ去っても、姫路の宮本家は存続していたのである。また、武蔵が伊織を小笠原家へ仕官させたのではなく、順序は逆で、小笠原家家臣の伊織を養子にしたのである。いづれにしても、作州の三喜之助伝説も含めて、武蔵の養子については、謬説が未だ支配的である。

もっとディープに… 塩田松斎
 武蔵マニア諸君の要望(欲望)は、言わずと知れたこと、「もっとディープに」である。それに応えるこの[サイト篇]であるから、ご希望通りもっとディープな武蔵関連スポットにご案内しよう。
 それは、塩田松斎(浜之助清勝)のことである。武蔵マニア諸君なら説明を要するまいが、『武公伝』や『二天記』といった肥後系伝記に「塩田浜之助」という名で出てくるこの人物のことを、少し探索してみたい。武蔵マニアでさえ、塩田浜之助が播州姫路あたりと何の関係があるのか、と首を傾げるであろうからだ。
 『武公伝』によれば、塩田浜之助は細川三斎(忠興)から五人扶持に十五石を賜り、捕手の師範であった。細川三斎は幽斎の息子で、茶人としても知られる。三斎の息子・忠利のとき、武蔵は晩年肥後熊本に客分として滞在し、同地で客死したことは知られている。
 浜之助の捕手の師範というのは、捕獲術を細川家士に教えていたということで、捕手は棒術、あるいは新免無二の十手術とも関係する術である。五人扶持十五石という給料からすると、小身の士である。師範といっても「芸者」なので、行政官僚ではないから、こんな軽い身分なのである。
 この塩田が、武蔵(武公)を一打ち撃ってみたくなって、願いを出した。武蔵は相手になろうと、受けて立ち、さて仕合となったが、浜之助は一向に木刀を打ち出すことができなかった。そこで得意の捕手術でも試合った。武蔵は捕まるどころか、「私が座っている場所の、一間(六尺)以内に足を踏み入れたら、私の負けにしよう」なんて、ナメたことを言う。逃げて捕手をかわすどころか、座っている自分を捕まえてみろ、それだけではなく、1間以内に近づけたら塩田の勝ちにしてやるというのだから、捕手術の名人・塩田浜之助は大いに怒って、さてしかし、どうしても、1間以内に入ることができない。それで、浜之助、はなはだ感称して、武蔵の門弟となった、という次第。
 塩田浜之助は捕手の上手だったので、武蔵は弟子にもそれを習わせたという。寺尾求馬助は孫之丞の弟で、後世、肥後武蔵流の祖とされるようになったが、求馬助は息子の合太兵衛にこの捕手術を教えた。そのため、二刀流とばかり思われがちな武蔵流にも、捕手棒術があった。これは塩田浜之助の余流だ――というのが『武公伝』の話である。『武公伝』を種本とする『二天記』にも、脚色はされているが、同じ記事がある。いずれにしても、武蔵流の棒術というものがあって、それは塩田流のことだというわけだ。

 この話は、肥後系伝記のことだから、武蔵晩年の肥後時代のこととするのが一般の説だが、それは少し考えが足りない。塩田松斎は、慶安元年(1648)に七十余歳で歿というから、武蔵よりも七〜八歳は年長。とすると、これはまさに高齢者同士の老人対戦。武蔵晩年の肥後時代、このとき塩田が武蔵の弟子になったとするのは、ちょっと話に無理があるよ、というところである。むしろ細川三斎に仕えたとある点に留意すれば、これは豊前小倉以前の話になる。三斎が隠居して家督を忠利に譲るのは元和五年(1619)で、当時は細川氏はまだ豊前小倉にいた。
 他方、筑前系の『丹治峯均筆記』は武蔵とその弟子・塩田「浜之丞」の逸話をいくつか記している。そのうち、肥後系伝記にやや近いのが、捕手術の手錠の話である。
 肥後でのこと、塩田浜之丞の所で、武蔵が塩田の手錠を見て、「これでは男の手には対応できない。京女みたいな優しい手にしか対応できない器具だ」という。つまり、こんなチャチな手錠では役には立たないと言うのである。捕手術の名人・塩田は、その言に腹を立て、「今まで数十人の手にこの手錠をかけたことがあるが、少しも危惧はなかった」と答える。武蔵、「されば、おれの手に手錠をかけてみろ」と言う。塩田は、すぐに武蔵の腕に手錠をはめて錠をおろす。するとその時、武蔵は左右の手に力を入れ、「えい」といって同時に捻じると、手錠は開いて、鉄棒が折れてしまった。武蔵は何と手錠を捻じ切ってしまったのである。大力は勿論のこと、兵法達人ゆえ、かようの事も自由にできた。――というのがこの逸話である。
 これも肥後熊本での話だが、塩田が試合に負けたという話ではない。『丹治峯均筆記』には別の逸話もあり、しかも塩田は、武蔵が肥後へ移住する以前からの弟子のようなのだ。




*【武公伝】
鹽田濱之助ハ三斎公ヨリ五人扶持ニ十五石賜リ、捕手ノ師ナリ。武〔公〕ヲ一打撃テ見度願ニ附ナル程、相手ニナルベシトテ立合ケレドモ、濱之助一向木刀打出事カナワズ。捕手モ、武公座シタモウ一間ヨリ内ニ、足ヲ踏入タラバ武公ノ負タルベシトアリケレバ、濱之助大ニ怒テ業ヲナセドモ、一間ヨリ内ニ一寸モ入事ナラズ。濱之助、太甚感称シテ、武公ノ門弟トナレリ。捕手モ上手ナリシ故ニ、武公ノ弟子ニモ慣〔習〕ハセラレシト也。寺尾求馬ノ男合太兵衛[初、縫殿助、後、合太兵衛]健ナル故、求馬ヨリ教ヱラレシト也。二天一流ニ捕手棒ナド在ト云ハ、鹽田濱之助ガ餘流ナリ》

*【二天記】
鹽田濱之助ト云者、棒捕手ノ上手也。忠興公ヨリ五人扶持十五石賜リ、諸士ニ指南ス。或ル時、武藏ヲ相手ニ爲シ度由ヲ請フ。武藏直チニ短刀テ以テ對ス。濱之助ハ六尺八寸ノ棒ヲ持チテ立向フ。武藏、濱之助ガ棒ヲ振出サントスル頭ヲ抑ヘテ働カセズ、又振出ス後ヲ打ツ。武藏云、吾無手ニテ居ベシ。吾間ノ内ニ足踏ミ入レバ、濱之助可爲勝ト。濱之助太ダ怒テ、棒ヲ捨テテ捕ニカヽル。武藏間ノ外ヨリ、是ヲツキタホス。依テ間ノ内ニ寄附事不能。依之濱之助拜伏シテ、流ヲ改メ、門弟ト成ンコトヲ願フ。武藏則門弟トナス。濱之助棒捕手ノ上手ナルヲ以テ、門弟中ニ是ヲ習ハシム。世ニ武藏流ノ棒ト云ハ鹽田流ノ事也》





熊本城


*【丹治峯均筆記】
《武州、於肥後、塩田濱之丞所ニテ、手錠ヲ見玉ヒ、コレニテハ男子ノ手ニハ不相應ナリ。京女ナドノヤサシキ手ニハ相應ノ器トノ玉フ。塩田、腹ヲ立、唯今迄数十人ノ手ニヲロシ候ヘ共、少モ危キ事ナシト答。武州、サアラバ、予ガ手ニヲロシ見ヨトノ玉フ。濱之丞、即時ニ武州之腕ニハメ、錠ヲヽロス。其時、武州、左右ノ手ニ力ヲ入、曳〔エイ〕トイヽテ一同ニ子ジ玉ヘバ、手錠開キ、カ子ヲレタリ。大力ハ勿論、兵法達人ユヘ、ケ様ノ事モ自由ナリ》



二天一流野田派系図
「無念無想流小具足
 元祖塩田濱之助清勝」
名を武蔵に並べて記す



*【丹治峯均筆記】
《武門弟ニ塩田濱之丞ト云者アリ。仕物、取篭者ナド、節々イタシタル者也。細川越中守殿ニ有附、肥後ニ住居ス。武州、或時、肥後ヱ下向、濱之丞ガ宅ヘ旅宿セラル。其頃ノ諺ニ、公方様カ、柳生殿カ、越中殿カト申程ノ兵法者也。近仕ノ士ニ、打太刀ノ者三人有シトカヤ。越中守殿、三人ノ輩ニ、兵法天下無双、新免武蔵守ト云者、塩田濱之丞ガ家ニ旅宿ストイヘリ。其方共ハ存タリヤト被尋。三人言葉ヲ揃ヱ、御機嫌ヲ見合、是ヨリ可申上ト存候折柄、御尋被成。御意ノ如ク、濱之丞ガ宅エ罷有ヨシニ候。相越、兵法所望仕度旨、申上ル。越中殿被聞召、一段、尤ノ事也。早々相越、兵法ヲモ試候ヘト也。三人悦ビテ塩田ガ宅ニ至リ、案内ヲ報ズ。(中略)武州、二足三足シサラルヽ所ヲ、甚之丞フツト起アガリ、直ニ打込ム。武州、入込テ、身ノ當リニテアタラルニ、三間ハケノキテ、ノツケニ倒レ、息絶タリ。漸ニシテ蘇ル。残ル両人申様、「甚之丞ハ高弟ニテ巧者タリ。中々両人ナドガ立合申可様モナシ」トテ辞退ス。武州、被申ハ、「誰人ニテモ打合テ試ラレ候ヘ。少モ不及遠慮」ト有ケレ共、堅ク断ヲ申テ、三人一同ニ退出ス。直ニ登城シテ、右之趣、演説ス。越中殿、被聞召、「左程ニハ無之モノカ。不審ナリ。兎角、自身試ミズシテハ知レ難シ」ト被仰。コレハ、武州老年肥後ヱ被下シ時ヨリ前ノ事ト云ヘリ》
 この話はこうだ。――武蔵(武州)の門弟に塩田浜之丞という者あり。仕物・取篭者(逮捕・籠城者排除)などを時々やってのけた者である。細川越中守(忠利)に召抱えられ、肥後に住居していた。武蔵があるとき肥後へ下向し、浜之丞宅ヘ宿泊した。
 細川越中守は、その頃の諺言に、「公方様か、柳生殿か、越中殿か」といわれるほどの兵法者だった。近仕の侍に、打太刀の者が三人あったとかで、越中守がその三人に、「兵法天下無双、新免武蔵守という者が、塩田浜之丞の家に泊まっているという。その方どもは、知っておるか」と尋ねた。三人は言葉を揃え、「〔越中守の〕御機嫌を伺って、これから申上げようと思っておりましたところ、お尋ねになりました。御意の如く、武蔵は塩田の家に居るそうです。我々が行って、兵法を所望したいのですが」と申上げる。越中守はこれを聞いて、「それは結構なことだ。早々に行って兵法を試しなさい」。
 三人は悦んで塩田宅まで行き、案内を報じた。浜之丞は軽輩の家臣、三人は出世頭の顕臣ゆえ、塩田は甚だ驚いて、「どんなことがあって、お越しになったのでございますか」と尋ねる。「武州が貴殿宅ヘ宿泊されておると聞いて、お近付きになりたくて参った」と答えた。塩田は早々に武蔵へその旨を知らせる。座敷へ三人を通し、ほどなく武蔵が現れて対面した。武蔵が三人に云うには、「私にお逢いになりたいとあれば、別の御用ではありますまい。我が兵法をご覧になられたいとのことでしょう。お望み通りにしましょう」。ところが、三人はかしこまって「その通りです」とばかり答えて、その外に何か返答するでもなし、そのうち暇乞して塩田の家を退出した。
 塩田の家の門前で、三人は目と目を見合わせ、「やれやれ、ビビってしまったなあ。名人に威圧されて、兵法所望だと言い出せなかった。しかたのないことだが、帰って主君へ報告することもできない。どうしようか」と云う。一人が云う、「あれこれ問答してもしようがない。戻って兵法所望だと言おう」。三人は門前から戻って、また塩田を呼出し、「さっきは初めて武州に御目にかかったので、兵法御所望ことをを申出せなかったが、お相手になりたいとの旨、申し伝えてもらいたい」。塩田はその旨趣を武蔵に伝えた。
 武蔵は早速出てきて、「ご遠慮には及ばないので、早々にお立合いなさい」と云って、いつもの木刀二刀を用意してきて、板縁の割れた所に大太刀の先を差入れ、ひらひらと太刀を左右に押し撓めたりして待っている。
 まず、三人のうちで一番巧者の甚之丞という者が、庭へ降り立つ。武蔵も庭へ降り立ち、太刀を上段に構え、静かな位で懸かる。甚之丞も木刀を前に構え、懸かって来る。武蔵は上段からまっ直ぐに頭に打込む。頭に当たったかと見えたが、月代の間際で打ち留めた。甚之丞は打ち据えられ尻もちをつく。二度目には、武蔵は上段を広く大きく構え、「流水の打」で横から足を払うように打つ。甚之丞の体が木刀の上を越して、宙に返る。すると、武州は二足三足後退した。そこで、甚之丞がふっと起上がり、まっ直ぐに打込む。武蔵は入り身をして体当りする。甚之丞は三間(五・五m)はぶっ飛んで、仰向けに倒れ、気絶したが、ようやくにして蘇る。
 残る二人が申すには、「甚之丞は高弟で巧者です。我々両人などが、なまじ立合うべき必要もありません」と辞退。武蔵が云うには、「どなたでも打合ってお試しなさい。少しも遠慮に及びません」とのことだが、堅く断りを申して、三人一同に塩田の家を退出した。
 すぐに登城して、以上あったことを説明した。越中守はこれを聞いて、「そんなはずはないだろう。不審である。ともかく、自分で試してみないので、わからんな」との仰せである。これは、武蔵が老年に肥後へ下った時より前のことだという。――説話としては締まらないはなしだが、これが『丹治峯均筆記』の記事。
 これで見ると、武蔵肥後時代より前に、塩田は武蔵の門弟になっており、武蔵は肥後へ行くと塩田の家に泊まった。細川忠利は、武蔵を客分として迎える前に、側近の者三名を、塩田の家へ行かせて、腕試しをさせたことがある――というわけである。しかし何ぶんにも、伝説のことだから、これも肥後系伝記の話と同じく、はっきりしたことは言えない。
 とにかく、塩田浜之助は武蔵評伝に必ず登場する――負けて、武蔵の門弟になったか、どうかは知らぬが――有名人なのである。肥後の細川家中の士に、武芸師範をしていた塩田浜之助、松斎を号した者があり、彼は武蔵の門弟で、棒術の名人だったらしい。では、この塩田松斎は何者か。
 しかし、塩田松斎、浜之助清勝は何者かとなると、はなはだあやしい。筑前系の『丹治峯均筆記』がいう塩田浜之丞がこの浜之助なら、彼は細川家に忠利の代にありついた者である。しかし肥後系伝記2書の間では記述内容がかなり違うが、細川三斎忠興のとき召抱えられたとする点では一致している。ここではそれ以上の情報はない。
 しかし一方で、十八世紀半ばに塩田流小具足を再興した野田一渓種信の段階で整理された以上の情報があるわけではない。塩田松斎は、武蔵の門弟となり、一度破門されたが、独悟自得することろがあり、武蔵から「手縛一流祖師」の称号を与えられ、当理流の祖、塩田流の祖となったとある。当理流の流祖とは、「宮本無二斎」ではなく塩田松斎なのである。
 それで、ここでの本題に入るが、この塩田松斎、浜之助清勝が、播州の産だという話がある。『續肥後先哲偉蹟 巻一』に、《鹽田松齋 名は清勝、濱之助と稱し、松齋と號す。新免武藏の門に入り、武術を善くす。慶安元年六月二日没す。享年七十餘。飽託郡池田村虆林〔ツヾラ〕に葬る》とあり、続いて野田某による墓誌「塩田清勝先生石塔銘」(天明二年建碑)を記載している。その記事によれば、塩田が播州の産で、細川三斎に丹後で仕え、その後豊前へ、肥後へと転封に従い、忠利・光尚まで三代にわたって細川家に仕えたという。
 この記事によれば、慶安元年(1648)に70余歳で歿というから、生れは天正五年(1577)あたりである。年齢からすれば、丹後時代から、つまり関ヶ原役以前から仕えていたという話にも、いちおう妥当性はある。次の問題は、塩田が播州産であるという点である。
 塩田が播州之産とあるところから、綿谷雪は『武芸流派大事典』で、播州塩田村の人としているが、塩田姓から塩田村を探すという方法は悪くないとしても、どういうわけかその塩田村を「佐用郡本位田字塩田」としている(『考証武芸者列伝』も同様)。これには根拠はない。しかも間違っている。当地は佐用郡本位田村であり、塩田村とは言わない。とすれば、この塩田村はどこなのか。
 播州で塩田という地名はいろいろあるが、たとえば、宍粟郡塩田村である。ここには、塩田構居があり、小寺藤兵衛政職が、天文年間(一五四〇年代)に二年ほど居たことがある、という記事が『播磨鑑』にある。この宍粟郡塩田村が塩田氏の出処でありうる可能性はあるが、塩田松斎の産地とするには弱い。しかるに他を当たれば、なるほど播州で塩田村といえば、『播磨鑑』にも記す飾西郡古知之荘の塩田村以外に有力な候補はない。飾西は「しきさい」と読み、飾磨郡を東西に分割したその西部のことである。
 本サイトでおなじみの『播磨鑑』だが、その記述によれば、この塩田村は、潮のさす田地が一区画あり、よって塩田と云う、とある。これが地名由来であるが、もとより古い地名である。さらに『播磨鑑』によれば、ここに江戸中期の元文のころ(1736〜1741年)――というから平野庸脩の時代――温泉が湧き出して、宿屋を構え、諸方より入湯の人々が夥しかった。かの潮を(冷泉なので)湯に沸かしたという。なるほど、諸病治せずということなし。温泉の効能があって人気殺到してしたらしい。その後、沙汰なし。惜しい哉、と平野庸脩は記す。
 たしかに塩田の霊泉湧出は古来あったが、この元文以前にも中絶することがあったらしい。喬木堂・天川友親の『播ъテ事集』に、「古有而中絶。今興兮已全」とある。とすれば、元文年間はその復興期だったようだ。天川友親は自身が元文元年(1736)に塩田の温泉に浴し、その治療効験を得て、他の人々の治験例を同書に収録している。それをみると、東は京都から西は山陰山陽、四国九州にわたり、宿も十軒あって大いに賑わったらしい。
 しかるに、平野庸脩に「惜しい哉」と言わしめた、そのような中絶がまもなくあったようである。その理由は明らかではないが、この塩田村の温泉は、明治初期に、飾西郡長だった人の肝いりで再興されて、「塩田温泉」として現在に至っている。塩田の集落を山側に入った閑静な谷あいに、湯元の鄙びた温泉宿が一軒あり、上山旅館という屋号で営業している。播州姫路くんだりまで来て、駅前のホテルなんかに泊まりたくないという人には、恰好の宿である。
 塩田という地名由来になった「潮のさす」ということだが、明らかに温泉湧出と関わる話で、田に冷泉が湧き出すということである。したがってこの「潮」の実体は、その冷泉であり、湯元の上山旅館内で実際に湧き出している泉質は、含二酸化炭素・ナトリウム塩化物・炭酸水素塩泉だということである。塩田だからといって、塩水が湧き出しているわけではない。
 さて、塩田松斎、浜之助清勝の出身地と比定しうるこの塩田村は、先述の宮本三木之助の墓がある書写山から、夢前川沿いの県道を八kmばかり奥へ入ったところにある。かつての塩田村の範囲は広い。どこといって特定はできない。しかし、現在の塩田という集落あたりを、とりあえず塩田松斎出身地の目安としておく。現在は姫路市夢前町塩田である。

塩田松斎関係地図


*【塩田清勝先生石塔銘】
《鹽田清勝先生石塔銘  野 田 某
鹽田濱助、藤原清勝先生、號松齋、播州之産也。爲人果毅雄俊、廉潔正直也。游新免武藏玄信二天一流道樂先生神祇之門、而學其父日下無双兵術者宮本無二齋信綱君捕縛之道、鍛之錬之、未至精妙焉。(中略)武藏~祇謂清勝先生曰、我闢二天一流之兵法、爲本朝二刀兵法之權輿、抑手縛於我道雖旁技、驀面向劔刄上者、生死存亡之所係、世以爲難、此道亦不可虧也。以茲付囑爾手縛一流祖師之稱祖耳。自是而後、爲天下無双當理流手縛之祖、又爲鹽田流祖也。清勝先生、仕三齋公於丹後國、賜食禄、賞賜備前道永刀。常辱懇情、移豐前、移肥後、仕忠利公、仕光尚公。於是、此道偃然行于國、赫然鳴于世矣。以慶安元戊子夏六月初二日、卒于岩楯之荘。享年七十餘。(後略)》(『續肥後先哲偉蹟 巻一』所収)



*【武芸流派大事典】
《塩田流(棒、小具足)
祖は播州塩田村(げんざい兵庫県佐用郡本位田字塩田)の人、塩田松斎清勝。通称は浜之助、また浜助ともあり》
*【考証武芸者列伝】
《浜之助は播州佐用郡塩田村(げんざい佐用郡佐用町本位田字塩田)の出身で、目と鼻の先が岡山県境である》



*【播磨鑑】
鹽田構居[鹽田村] 領主ハ小寺藤兵衛政職。天文十二年移于此所、同十四年又移于御着城》(宍粟郡)
鹽田村[鹿谷ノ郷小鹽近邊] 此村に潮のさす田地一ト區〔まち〕有、仍而鹽田と云。此所に元文比温泉わき出、宿屋を構へ、諸方より入湯の人々夥し。右の潮を湯にわかしけると云。尤諸病治せずと云事なし。其後沙汰なし。惜哉》(飾西郡)

*【播ъテ事集】
《元文丙辰元年秋八月、聞我州古知之荘塩田有藥泉、遂往款留三五日、澡浴二十余行而、周身之微痒・右手之小痛、頓已而如失。既已自試、且聞他人治験、則此泉之治病而有効也、誠不誣也。然元不温泉、郷人燔焼執熱也。於是稱湯本者十家》
《置塩古塁邊。藥水満塩田。古有而中絶。今興兮已全。除痒且退痛。起癈復伸攣。卜得古林夢。成功應世傳。古知山谷有塩田。神水混々、惟藥泉。温故知新、灌浴者、悉除病患樂延年》



塩田温泉 湯元上山旅館
→  Link 

置塩城址案内MAP



置塩山(城山) 姫路市夢前町宮置から



置塩城址碑と登山口



置塩城跡案内図 設置旧夢前町



置塩山上からの眺め



赤松氏領域 播磨・備前・美作


赤松則村─則祐─義則─義雅─時勝┐
 ┌―――――――――――――――┘
 │置塩城
 └政則┬義村┬晴政─義祐─則房
    |  |       |
    │  │上月城    └則英 
    ├真龍└政元─政範
    |
    │龍野城
    └村秀―政秀┬広貞
          |
          └広秀



則房時代の播磨諸城図
 ここまで来ると、もう絶対に外せないスポットが一つある。それは、言わずと知れた、戦国時代赤松氏宗家の居城、置塩城址である。
 置塩は現在では「おきしお」と呼んでいるが、以前は小塩とも記す「おじお」、したがって置塩城は「おじおじょう」と呼ぶべきだが、現在地名呼称にしたがい「おきしお」でもよかろう。なお、「おじお」は「おしお」、これは前述の塩田の地名由来に出てくる潮(うしお)と関連があると思われる地名である。
 置塩城址の場所は、書写山と塩田の中間あたり、宮置という集落から東に折れて県道80号線に入り、田んぼの中の道を五百mほど進むと、夢前川に架かる橋があり、それを越えてすぐに左折して、川沿いの道を進む。やがて公園があり、登山口のところに「置塩城跡」の碑が建っている。通称は城山、置塩城のあった山上まで小一時間である。時間のある人はどうぞ。置塩城は東西五二五m・南北約三七〇m、山城としてはかなり大規模である。しかるに播備作三国守護職の大大名の本拠とはいえ、近世の城下町と比べれば、ずいぶん小規模な盆地である。中世戦国大名の城と町の立地を実感しうるであろう。山上からは書写山を右手に、播磨灘を遠望できる。
 宮本武蔵は、九州の伝説では「赤松末葉」「赤松末流」とされていて、武蔵評伝に赤松氏への言及が多いので、赤松氏のことを知りたいという皆さんの要望もあって、この[サイト篇]では、随所で赤松氏のスポットを案内しているのだが、赤松村のページで探訪した地域は、赤松円心をはじめ赤松氏初期由縁の地。対するに、こちらの置塩城は赤松氏後期・末期の舞台である。
 さて、いわゆる嘉吉の乱(1441年)、将軍足利義教と確執あり赤松満祐が義教を殺したこの事件で、満祐らは戦死して赤松嫡流は没落した。その後、南朝残党に奪われた神璽を赤松氏遺臣が奪還した功により、赤松政則(1455〜96)の代に復権したことは、既述の通りである。長禄2年(1458)のこの中興以来、赤松氏は勢力を回復し、播磨に進出していた但馬の山名氏としばしば合戦に及んだ。赤松政則は応仁元年(1467)山名氏を駆逐して姫路城を改修し、さらに文明元年(1469)この置塩城を新たに築城し、以後この置塩城を本拠とした。
 政則の代は播磨・美作・備前の3国守護職を回復した時代である。応仁の乱では細川勝元に与し、侍所所司に任ぜられ幕府の要職についた。とはいうものの戦国である。とりわけ播磨の対立抗争の構図は、赤松対山名であった。文明五年(1473)山名宗全と細川勝元が歿して後も、山名氏との攻防は続き、備前では松田氏が山名に与して背き、また赤松勢が但馬へ攻め入って山名の軍に敗北したりと、赤松政則のイニシアティヴに翳りが生じ、文明十五年(1483)、浦上則宗ら家老によって追放された。しかるに浦上・小寺らによる宿老体制下においても、赤松衆は山名氏との戦いに劣勢に立つありさま、一方、政則は京都から攻め下り、文明末から長享(一四八〇年代後期)のころ播磨各地で山名軍と戦い、ついには播磨におけるその本拠・坂本城(書写山南方)から但馬へ撤退せしめた。これにより、赤松氏は失地と権力を再び回復した。
 政則には子がなかった。赤松傍系七条流の赤松政資の男子を婿養子に入れ、赤松宗家を嗣がしめた。これが赤松義村(1470〜1521)、二代目置塩城主である。もっとも赤松家当主は、幕府要職にあり在京することが多かった。第十二代将軍足利義晴(1511〜1550)が亀王丸と呼ばれた幼少のおり、彼の養い親になったのは義村である。現在から見れば、山間の小盆地にすぎないが、この土地が京の足利幕府、中央政府と直結していたのである。歴史は現状からはイメージできないのである。
 一方、義村の代には、備前の浦上則宗や三木の別所則治など、家老らの勢力が増大し、赤松家の権力は形骸化し後退していく時代である。ことに備前の守護代・浦上氏の勢力が増大して、いわゆる下克上の様相を呈する。家臣が実権を掌握し、主君と対立するという状況で、浦上村宗(則宗息男)は義村と対立し、永正十五年(1518)村宗が置塩城下を立退くと、翌年義村は浦上一族の浦上村国を出陣させて、三石城に浦上村宗を攻め、また東作の浦上勢を掃討すべく小寺則職を出兵させた。しかし各地で赤松方は敗北し、結局、義村は隠居出家を余儀なくされた。家督は、浦上村国・小寺則職が擁立した八歳の息子・政村(晴政)に譲られたが、義村は浦上村宗側に捕えられて播磨の室津城に幽閉され、大永元年(1521)暗殺された。
 三代目置塩城主は赤松晴政(1513〜65)、義村の息子である。はじめ政村、晴政に改名したのは、後に将軍義晴の偏諱を受けてのことである。永正十七年(1520)八歳で家督相続、翌年父義村が浦上村宗に暗殺された。父を殺された政村は、浦上村国に擁護されて淡路へ逃れた。翌大永二年(1522)年、但馬の山名氏が、赤松家内訌に乗じて播磨に侵攻すると、村宗と和解してこれを迎え撃ち、翌年には山名軍を但馬へ撤退させた。政村は播磨へ戻ったが実権を握った浦上氏の傀儡であった。浦上村宗没後は、その嗣子・宗景が政村と対立し、また出雲の尼子晴久が播磨へ侵攻してくるという状況で、事態は紛糾を極めた。
 政村が晴政に改名した後、天文七年(1538)家臣の小寺・明石両氏が、優勢な尼子方に与して反逆の烽火をあげた。晴政は置塩城を退転して、細川氏を頼って淡路へ逃れた。置塩城主はたびたび城から逃亡せざるをえないのであった。その後紆余曲折あったが、天文九年(1540)小寺政職と和睦して置塩城に帰還したが、東播の別所氏や明石氏はすでに討伐できない独立勢力であった。天文十二年(1543)備前へ出兵して浦上氏と戦うが、これも撤退を余儀なくされる。赤松宗家の実効支配はますます後退していく。
 赤松晴政は永禄元年(1558)赤松政秀を頼って龍野城へ遁れるが、それより以前に隠居出家しており、これは嗣子・義祐と不和、追放されて龍野へ逃げたのである。戦国の世では、武田信玄が父親を追放したように、下克上は父子の間でも生じたのである。晴政は結局、置塩へ帰ることなく、龍野で没した。
 四代目置塩城主は赤松義祐(1537〜1596)。赤松晴政の息子である。父晴政と確執あり、父親を追放した。晴政を受け入れた龍野城の赤松政秀と敵対していたが、父晴政が死ぬと政秀と和睦した。後年には息子の則房と対立し、別所安治を頼って一時三木城に避難したが、ほどなく和解して置塩城に復帰したという。義祐は父親とも息子とも不和、しかしこれはドメスティックな個人的事情ではなく、政治的派閥抗争なのである。
 やがて、東から織田信長が抬頭してくると、さらに状況は変った。龍野城の赤松政秀や三木城の別所安治は、足利義昭・織田信長に与した。赤松義祐は、小寺政職・浦上宗景の味方を得て、龍野の赤松氏や三木の別所氏と合戦に及んだ。龍野の赤松政秀は毛利に与し、浦上氏は毛利氏と対立して挟撃されるかたちであった。元亀元年(1570)浦上宗景が赤松政秀を殺すと、赤松義祐は、こんどは浦上氏と連合して小寺氏と対立する、という状況展開となった。
 赤松則房(1559〜98?)は義祐の息子であり、五代目置塩城主である。則房が家督を相続した後、天正元年(1573)織田信長は、浦上宗景に播備作三国守護職の朱印状を与えた。このとき赤松氏は、累代の領域を名目上においても失ったのである。情勢を読んだ則房は、天正四年(1576)浦上宗景・小寺政職らとともに上洛して織田信長に会い、翌年信長の代官として羽柴秀吉が播磨に侵攻するや、則房は置塩城を開城し、以来秀吉軍と行動を共にした。
 かくして当時播磨の状況は、赤松則房をはじめ、三木城の別所長治・御着城の小寺政職らは織田方、かたや、上月城の赤松政範・龍野城の赤松広秀・長水山城の宇野政頼・英賀城の三木通秋らは毛利氏に与し、信長に服属するのを拒んだ。さらには別所長治や小寺政職が信長に背いて毛利方に与し、播州戦線は渾沌としてきたが、赤松則房は、龍野の赤松広秀とともに織田方についた。三木城の別所長治は、赤松則房を通じて和睦を請うたが、信長はついに許さなかった。天正八年(1580)三木城攻めが終ると、則房は以前から対立していた宇野政頼の長水山城を攻めた。この秀吉の播磨掃討の過程で、浦上・宇野・別所・小寺というかつて赤松家を支えた宿老一族はすべて滅んだ。これに対し主家の則房は、織田方の播磨制圧に与して、赤松家を温存する途を求めた。
 すでに天正五年(1577)赤松則房が開城して秀吉に従軍したので、置塩城はしばらくそのままであったようだが、天正九年(1581)の秀吉・姫路城築城の時、置塩城は他の城と共に破却され、姫路城の建築資材の一部となった。したがって、置塩城の終焉は天正九年である。築城から百年余の命であった。
 しかし、赤松嫡流の則房はまだ生き延びていた。天正八年の長水山城落城のさいの則房感状と秀吉書状(安積文書)をみると、則房は秀吉を「筑州」と呼び、秀吉は則房を「赤松殿」「置塩殿」と呼んで別格扱いをしていた気配があるが、事実上則房は信長=秀吉に服属したのである。天正十一年(1583)には置塩に領地を安堵されたという話もあるが、それにしてもわずか一万石の知行である。播備作三国を領した往昔は百二十万石相当、まさに天地は逆転したのであった。
 その後、天正十年京都本能寺に信長が死んで、秀吉が天下を窺うおり、則房は秀吉麾下にあり、賤ヶ岳・小牧長久手、さらには四国征討に参戦、天正十三年(1585)阿波板野郡に二十三ヶ村、計一万石余を与えられ、播磨から移った。蜂須賀至鎮の被官扱いであったらしいともいうが、むしろ赤松則房を蜂須賀の監視下におくというかたちである。名族に一万石程度を与えて、いわば歴史的記念物として保存するのは、最後の室町将軍・足利義昭に対し、天正十六年(1588)秀吉が赦免して帰京させ、山城国槙島に一万石を与えたのと同様である。
 しかし、阿波における赤松則房の事蹟は、伝説しかなく不確かであり、居城も住吉城だ加島城だと異説あり、また慶長三年(1598)没という説があるが、死亡の年月さえ確かではない。墓所は徳島県板野郡藍住町の福成寺にあるという。
 さて、置塩城に約百年余存続した赤松嫡流は、ここで阿波へ去ったのである。したがって、この赤松則房が最後の置塩城主であった。則房に息子赤松則英があり、父則房が歿すると家督を相続、阿波の所領を嗣いだというが、実際は不明である。また則英は関ヶ原役(1600)で西軍で参戦、石田三成の居城・佐和山に籠城したが、落城前に脱出、福島正則を通じて赦免を請うたが許されず、戒光寺(京都市東山区泉涌寺山内町)で切腹したという。これもまた伝説の域を出ない。則英は生年すらわからないし、その実在を疑問視されている人物である。置塩城の赤松家嫡流は、滅亡の経緯すら明確ではなく、この実在不確実な人物とともにフェイドアウトしてしまう。
 この[サイト篇]龍野城下のページにもあるように、龍野城の赤松広秀は、但馬竹田城を得て大名に復帰したが、これも関ヶ原役の後、家康の命で鳥取で切腹した。置塩の赤松家嫡流に対し、こちらの終幕は明らかである。かくして、かろうじて余命を保った最後の赤松氏は、いずれもこのころ滅亡したのである。
 置塩城址への登り口の北に櫃蔵神社がある。櫃蔵は「ひつくら」と読む。祭神は豊受姫命他で創建は暦応三年(1340)であるが、赤松氏に関連して、最後の置塩城主・赤松則房が阿波国へ退転して廃城となったおり、置塩城守護神の三柱のうち一柱を移し櫃蔵神社としたという話がある。今は集落の氏神で小さな神社であるが、高さ三十mの大銀杏をはじめ、鬱蒼とした老樹に囲まれて、あたかも置塩山を神体とするかのような姿である。
 なお、置塩赤松氏の菩提寺は松安寺、現在は廃寺となっているが、墓が残っている。城山(置塩山)からすると、夢前川を挟んで西の対岸の山腹にある(姫路市夢前町庄上)。松安寺境内には地蔵菩薩像を中にして、晴政(置塩城主三代)や義祐(同四代)の五輪塔がある。ただし、他の城主の墓はなさそうである。


羽柴秀吉播磨国中城割リ覚
(天正9年)卯月26日 秀吉
播磨の城郭破却指令書
第一番に「置塩之御城之事」とある



*【赤松秘史録】
《則房即刻馳馬通於三ケ國之一族幕下、悉會集議軍談、屡有評不決一二。此時則房定心而時速出城退於阿州。故皆茫然失四方、終悉離散。依之殿中甚動也。(中略)既主家失籍邑、各以生無益、以死無益、今將絶弓矢不能如何、明城而離散。故以地名爲氏、母方以姓者不少








住吉城址現況
徳島県板野郡藍住町住吉




櫃蔵神社 姫路市夢前町町村


松安寺廃寺の墓所 姫路市夢前町庄上
左:晴政 右:義祐



*【播磨鑑】
《按、赤松播磨守則村圓心入道ヨリ上総介則房マデ十世、當國ヲ領す。天正年中ニ至テ斷絶ス。一族幕下郎等モ民間ニ下リ、百姓町人ト成る。盛衰コソ哀レナレ。サシモ中國ニ名ヲ顯ハセシ赤松ノ城跡モ、今ハ霧ノミ深フシテ、不斷ノ香ヲ燒カト怪マル。登城出仕ノ人モナク、松吹風ノ音ナラテ問人モナキ分野〔アリサマ〕、天正八年ニ置鹽退転ス。享保二年ノ頃マテ百四十八年ニ成ル。元弘二年赤松圓心蜂起ヨリ天正八年マテ、二百四十七年ニ及ヒ、此間赤松當國ノ太守タリ》(飾西郡)



田辺城址 京都府舞鶴市南田辺



*【丹治峯均筆記】
《其後、肥後ニ至ル。越中守殿、甚〔だ〕悦喜ニテ、「何分ニモ望ニ任セラルベキ」ト也。武州、御答ニ「曽而仕官ノ望ナキ段ハ、異ナル貌ニテモ御察可被成。肥後ニテ命ヲ終ルベシト存罷下レリ。何方ヘモ参ルマジ。御知行ハモトヨリノ事、御米ニテモ極リテ被下不及。兵法ニ直段〔値段〕ツキテ悪シ。鷹ヲツカイ候様ニ被仰付候ヘ」ト也。越中殿、御許容アリテ、臺所辺ノ入用ハ、塩田濱之丞取マカナヒ、其身ハ曽而不存。鷹ヲテニシテ折々野ヱ被出、雨天ニテモシカジカ尻モカヽゲズ、衣服之ヌルヽヲモ無厭徘徊セラレシト也》
 さて、以上赤松氏に話題は移ったが、ここで話を戻せば、肥後にその名を残した塩田浜之助清勝が、なぜ「松斎」を号したかは、以上の話の筋道からすれば、すでに自明であろう。松斎の「松」とは赤松氏に因んだものである。しかも出身地の塩田を姓としたとすれば、この播州塩田村は、赤松氏本拠の置塩城の近辺でなければならない。かくして、飾西郡塩田村を塩田松斎の出身地とする我々の仮説と、「松斎」という号が交差するのである。
 しかしながら、塩田松斎の経歴はほとんど不明である。彼が播州の産で、それも飾西郡塩田村の生れだと特定して、塩田松斎が次に登場するのは、肥後の伝説の、細川氏丹後時代に三斎忠興に仕えた、とする記事である。では、いつ塩田松斎は塩田村を出たのか。
 これについて播磨の状況を勘案すれば、置塩城の破却は天正九年(1581)であるから、塩田松斎の父親が置塩城の家士だったとすれば、このころまでに赤松家臣団はいったん解散したはずで、播州を立退いたのは、『播磨鑑』のいう「置塩退転」の天正八年あたりかもしれない。塩田松斎が生まれたのは天正五年あたりになる勘定だから、塩田村を出たのはそれ以後、つまりこのケースでは、塩田松斎はまだ幼児であった、ということになろう。この時期、赤松則房は各地に転戦しているから、塩田松斎の親も播磨を出て他国で参戦していたのかもしれない。長じて塩田松斎が細川忠興に仕えるようになったのは、塩田松斎の年齢からして天正末(一五九〇年代半ば)より後、しかも細川氏の丹後時代からだとすれば、慶長五年(1600)以前である。
 したがって、言うまでもないことだが、塩田松斎が新免無二から教えを受けたとするには難がある。塩田松斎は天正五年あたりの生れで、天正後期には丹後へ行っており、他方、新免無二は、泊神社棟札(宮本伊織表白文)によれば、天正年中に九州で歿しているからである。肥後の伝説のごとく、塩田松斎が「宮本」無二齋に教えを受けたというのなら、この伝説自体が誤りであるか、あるいはその「宮本」無二齋は「新免」無二とは別人とならざるをえないだろう。
 また上記のような経緯だとすれば、武蔵が揖東郡宮本村に生まれた頃、塩田松斎はすでに播磨を出ていたことになる。揖東郡と飾西郡は隣接する地域、このように近くで生まれた両人が後に遭遇して、師弟となるのは、同郷とはいえ、やはり奇縁と謂うべきであろう。
 のちに肥後熊本でこの老いた者同士が一緒になった。『丹治峯均筆記』には、肥後へやって来た武蔵の「台所辺の入用」、つまり日常家計の費用は、塩田松斎が賄い、武蔵はまったく関知しなかった、とある。武蔵は客分で、細川家から「合力米」、すなわち滞在費のような名目で、三百石を支給されていた。武蔵の日常生活の家計を差配したのは、塩田松斎だったということらしい。とすれば塩田は、最晩年の熊本時代、武蔵の最も身近にいた人物の一人であった。

★姫路城下の話はまだ終らない。つづきがある。下の[Next]をクリック!★



 PageTop   サイト篇目次   Back   Next