宮本武蔵 サイト篇
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現地徹底ガイド 揖東郡宮本村  (兵庫県太子町宮本)  Back   Next 

 若干の前説

 武蔵の出身地について諸説はあるが、播磨の地元史料『播磨鑑』によれば、ここが宮本武蔵の「産地」である。ところが、この武蔵関係地ほど知られていない場所はない。それゆえに、案内を求める声がある。
 ほかの武蔵サイト、岡山県大原町のように「武蔵の里」をブチあげて派手にやっているところなどは、じゅうぶん情報が行きわたっている。ところが、この「揖東郡宮本村」の兵庫県太子町なんてどこにあるのかも知らない、詳しく教えてくれないか、というわけだ。
 しかしながら、我々はあまり教えたくない。それが本音である。
 武蔵ファンは多いし、もし情報が行きわたれば、「村」の平和と静穏は損なわれるだろう。だいいち、「村」という言葉がまだリアリティをもっている土地なのである。
 だから、教えない。行きたければ勝手に行けばよろしい。讃岐うどんの「秘境」とされる製麺所のごとく、マニアにとっての秘境たるべきである
 そういうわけで、教えないことにしていたら、そういうわけにはいかなくなった。それなら、教えてやるから、行けるものなら行ってみろ、メールでいちいちガイドをするのは面倒だ、というぐあいで、このサイト篇で案内をするハメになってしまったのである。

播磨武蔵関係地マップ
宮本村:揖保郡太子町宮本
米田村:高砂市米田町米田




唯一存在するモニュメントは





宮本武蔵生誕之地の碑
(平成4年建立)
石海神社門前の公園に建つ

 とはいえ、教える側に責任があると思うから、この「宮本村」に関して注意事項を示しておかねばなるまい。
 (1) 「何もない
 ほんとうに何もない。他の武蔵関連地のように、いろんな施設や旧蹟があると思って行くと、大間違い。武蔵の痕跡は一切ない。このことは第一に注意しておく。
 だから、行ってみて失望した、なんて言わないでほしい。そんな抗議は一切受け付けない。行くなら「自己責任」において行くべきだ。
 ふむふむ、だから、何だね?――ムサシマニアたるもの、そんな初歩的な忠告で、阻止できると思うな。だれも行かないマニアックな「秘境」だからこそ、行きたくなるのだ。かの岡山県大原町の通俗性をみよ。マニアたるもの、あのレベルで悦ぶと思うな、と――まあ、そんな意見も、当然わからないわけではないが。
 (2) 「静かにしろ
 言うまでもないが、いちばん困るのは、傍若無人の観光客だ。旅の恥はかき捨て、とはいえ、どうしてあれほどまで無恥になれるのか、理解に苦しむのである。
 大人しくしろ、静かにしろ――これが宮本村での注意事項だ。
 だいたいが、閑静な田園地帯である。それに、ほとんどの人が武蔵関連地であることを知らない。そんな土地へ行って、武蔵のご当地とばかり、誰彼となくつかまえて、武蔵のことを尋ねたりしてはならない。まったくの迷惑でしかない。
 もし聞くとすれば、「石海〔せっかい〕神社はどこですか」のみである。それ以上のことを聞いてはならない。その石海神社のある宮本地区には、さびしく武蔵生誕地の幟が立っている。それを見て村人たちは冷笑しているのである。
 おそるべき話を一つ紹介しよう。吉川英治が『宮本武蔵』を書くにあたり、取材のためこの地を三度訪れ、武蔵の産地はここに違いないと繰り返し云ったが、武蔵などに興味のない石海神社の氏子総代にその都度追い返されたという。
 だからこの宮本村は、あやういところで「作州宮本村」のポジションを奪うところだった。岡山県美作市(旧大原町)宮本になるところであった。この「難」を遁れて、当地の今日はあるのだが、訪問者はこの逸話を肝に命ずべきである。
 要するに、観光地ではないのだ。だから、行く者は「物好きな」と冷笑されることを覚悟で行くべきであろう。しずかに、ひそかに――これが秘境の作法と礼節である。
 (3) 「必ず迷子になる
 これは確実に言える。どうぞ、迷子になってください。
 駅から遠いし、幹線道路からも離れている。看板が立っていると思ったら、とんだ間違いだ。一度や 二度、道を尋ねても決して行き着けない。これは保証しておく。
 車で行く人は、カーナビがあっても、要注意。どうせ間抜けなコンピュータの教える道である。道が狭いから、田んぼに落ちるなんて無ザマをしないこと。それこそ迷惑の極みである。
 以上のことが十分頭に入ったら、もう行く気にならないはずだ。メリットが少なすぎるだけではなく、あまりにもデメリットが大きすぎる。そうではないかね?
 生半可な武蔵ファンでは、この空虚、この無には、およそ耐えられないだろう。ここは、マニアだけが行くべき武蔵サイトである。そういう意味で、言わば、きわめて exclusive で deep なスポットなのである。
 前説が長くなりすぎたが、なに、行ってみて後で抗議する粗忽者が必ずいるから、これくらい言っておいて、ちょうどいいくらいであろう。では、「宮本村」のガイドに入る。


石海神社門前

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 まず、兵庫県揖保〔いぼ〕郡太子町というのはどこにあるのか。
 右図のように、大阪から西へ約百キロ、姫路城のある姫路市の西隣の小さな町である。太子町というのは、戦後の諸村合併後の名前である。聖徳太子ゆかりの斑鳩寺という古刹がある。
 むかし、揖東〔いとう〕郡といっていたのは、揖保川〔いぼがわ〕という河川の東岸地域だからだ。幕藩期には姫路藩ではなく、龍野藩に属した。この龍野藩は、小笠原家の知行地だったことがある。それは、伊織の主・小笠原忠政が運動して、亡兄の遺児を大名にしたという縁による。
 さて、どうやって太子町へ行くか。電車か、車か。

 【電車利用のケース
 いちばん多いのが電車にのって行く人だろう。それには、まず、新幹線なら「姫路」駅まで行かなくてならない。そこで、在来線に乗り換えだ。
 姫路駅は、姫新〔きしん〕線とか、播但〔ばんたん〕線とか、支線の始発駅である。そっちに乗るととんでもないところへ連れて行かれるから、ここは本線(昔の山陽本線)で、岡山方面行きの各駅停車の電車に乗る。
 どこまで行くかというと、姫路駅からたった2つめの駅 「網干」〔あぼし〕である。1つめは「英賀保」〔あがほ〕、その次が網干。両方とも「難読」駅名の部類に属するが、なんとなく古代的な感じがして、よろしい。
 この網干には電車区があるから、ここまでは本数も比較的多い。姫路駅のホームでそう長く待たされることはないはずである。
 網干駅からは約4キロ。歩けば小一時間。(そのあとは後ほど説明する)
 お金のある人や脚の弱い人は、タクシーがいちばんだ。確実に連れて行ってくれる。小さな駅だが、常時タクシーの数台は客待ちしていると思う。

 【車で行く人の場合
 比較的近い神戸・大阪の人は別だが、西でも東でも遠方の人は、まず山陽自動車道。右上の交通マップを見てもらいたい。
 どこで下りるかというと、「龍野」ICである。「龍野西」というICもあるから間違えないように。
 さて、山陽道「龍野」ICで下りると、左折してすぐの交差点を右折して東へ行く。それから「宮脇」交差点で、国道179号に出る。そこを右折して、山陽道の高架をくぐり、そのまま南の方へ行く。
 道なりに行くと左カーブがあって、林田川を渡り、やがて高架があって、それが2号線の「福田」。それをくぐってそのまま道なりに進むと、やがて「」という1字名の交差点に出る。
 この鵤という字もたやすく読めそうにない漢字だが、「いかるが」とよむ。なあに、書誌学の大家・かの森銑三大先生だって、この字がわからなくて、変な文字を当てて恥をさらしているのだから、読めなくたってちっとも恥ずかしいことではない。この「鵤」交差点で、これをそのまま横断して、南へ向うことだ。
 (ここまで来て、腹が減ったり、お茶でも飲んで休憩したい、ということであれば、この交差点で、東へ曲がる。さきほどの179号線を北から来たのなら、左へ(東へ)曲がる。そうやって行けば、この沿線にはしばらく飲食店が並んでいる)

播州揖東郡宮本村:兵庫県太子町宮本



交通マップ



付近案内図 「立岡」がポイント
 【絶対確保地点
 さて、ここからが問題である。道に迷ってしまうのは、目印がないためである。それで、絶対確実な目印と道順を教える(実は、教えたくないけど)。
 それは、網干駅から歩く人でも、車の場合でも、目印は、右上の付近案内図の「立岡」〔たつおか〕という交差点だ。
 網干駅からは1キロ強、徒歩約20分。「鵤」交差点から約1キロ、新幹線の高架をくぐってまもなくである。
 このポイントさえ間違えなければ、確実に目的地まで行ける。まさしく「絶対確保地点」たるゆえんである。この交差点の角にはスーパーの店舗や飲食店などがある。
 この「立岡」交差点で西へ曲がる。すると一本道で約2.5キロ、かの「宮本」まで行けるのだ。途中、赤い消防車が並んでいる消防本部がある。これを過ぎると、やがてあたりは一面の田園。

 やがて、左手前方の集落の屋根越しに木立が見えてくる。それが目的地・宮本の「石海神社」の杜である。ただし、見えていてもストレートにアプローチできない。どうやって行くのか。




集落の向うに杜が

宮本集落と石海神社

宮本村現況
 宮本の集落に近づくと、それより手前に、宮本武蔵生誕地の案内表示が左にある。これを見のがさないようにしよう。その角(A地点)で左(南)へ折れて、数百mほど行くと、T字路がある(B地点)。そこにも「宮本武蔵生誕地」の案内表示がある。その角で右に折れて、直進。200mほど行くと、狭い四つ辻がある(C地点)。ここは左右に注意して渡る。すると、右手に公園があり、神社がみえる。この公園を迂回するようにして西の道を北上して、石海神社の門前に出る。やっと着いたというわけだ。
 車で来た人は、このあたりの道は幅が狭いので注意だ。そして、まちがっても、集落の中の道に乗り入れてはならない。上に記したルート以外は通ってはいけない。
 また、神社門前に駐車場は数台分ほどしかない。公園の南にも数台分あるが、駐められないときは、周辺で車を置けそうな場所を探すことだ。ただし通行の迷惑にならないように。
 周辺に休憩できるような喫茶店などの店舗はないが、トイレなら、粗末なものだが神社前の公園にあるから、心配はない(!)。

 かくして、神社に参詣し、門前の武蔵の生誕地碑を見る。ただし、冒頭に述べたように、たったそれだけである(苦笑)。他には何もない。鳴物入りの墓碑も大きな武蔵武道館もない。だから、物好きなマニア以外の誰にも奨めない。
 神社は大して特徴のない小さなもので、観光に値する特記事項はない。見どころとは言えないが、見落とせないのは、神社正面の屋根の装飾である。このバロック的センスに敬意を表したい。
もっとディープに! 石海神社算額:  Link 
 あとは、林田川の土手にあがって、周囲の風景をゆっくりと眺めることである。これが、武蔵の山河だったのだ…とか、感慨に耽りながら。そして、これが本来の「観光」なのである。


石海神社と武蔵生誕地碑




拝殿ファサード

石海神社脇

集落の旧家

林田川 武蔵の山河?
 ――とまで以前書いてはいたが、最近ここへ行ってみると、公園脇に、なんと「武蔵産湯の井戸」というものが出来ておった。
 こんな「遺蹟」は10年前にはなかったはずなのに、忽然として出現したのである。
 これは最近の武蔵ブームにあやかっての整備らしい。何も武蔵史蹟がないのを悔やんでのことと思われるが、武蔵マニアにとって少々気を挫かれる行いである。
 この井戸は昔からここにあった。しかし古老の言い伝えのなかった井戸である。これを武蔵産湯の井戸とするのは、あきらかに捏造である。
 はっきり言おう。これはよくない。
 播州宮本村は、作州宮本村と違って、武蔵遺蹟は何もないのがよかったのである。「何もない」ということが、逆に作州宮本村の明治以後の「遺蹟」生産の嘘を反照=反証するものであったからだ。
 播州宮本村は、作州宮本村の愚行に追随するようなことがあってはいけない。揖東郡宮本村には、『播磨鑑』の平野庸脩の時、すでに武蔵遺蹟は何もなかったのである。この事実を裏切るようなことはあってはなるまい。
武蔵産湯の井戸
武蔵産湯の井戸(新設)

太子町すこしだけ周辺案内


重文 斑鳩寺三重塔
永禄8年(1565)
赤松政秀等再建


 あんまり「何もない」というと地元に悪いし、だいいちこんなところまで出かけて、それだけではもったいないので周辺案内をしておこうか。
 この太子の町の謳い文句は「聖徳太子ゆかりの町」である。今日にいたるまで、まちがっても「宮本武蔵ゆかりの地」ではない。だから、そちらの方を見せていただくことにする。
 それは、「斑鳩寺」というお寺である。奈良明日香村の斑鳩と同様、通称「いかるがでら」であるが、正しい読みは音読み、「はんきゅうじ」だそうだ。
 これは上の道案内で触れたが、国道2号線の「鵤」交差点の近くにある。こちらの「鵤」というのは、なんと読む字か。そう、こちらも「いかるが」だった。
 クイズをやっている場合ではないので、先に進むが、この斑鳩寺、なかなかの古刹である。建物も仏像彫刻もかなりいい物である。国の重文指定も納得できる。とくに、聖徳太子勝鬘経講讃図や日光菩薩月光菩薩立像などは、拝観させてもらう値打ちはある。    Link 
 そちらの正統派の事物はけっこうなお宝だが、もうひとつ、見のがせないのは仁王像である。これが何とも味がある彫刻である。
 武蔵は容貌魁偉だとする伝説もある。映画やTVみたいなハンサム君ではなく、武蔵は、あんがいこんな顔だったのかもしれない。
 またこの斑鳩寺の近所に、太子町歴史資料館があるので、この地域がどんな歴史をもっているのか、知りたい方は、覗いてごらんになるとよろしい。   Link 


日光菩薩月光菩薩立像
重文 斑鳩寺蔵



仁王立像

もうひとつ、「印南郡米田村」へも
 播磨の武蔵産地説のもう一つは「印南郡米田村」である。「宮本村」から「米田村」までは、あんがい近い。つまり、この2地点は、姫路をはさんで西と東に位置し、太子町宮本から高砂市米田までは、近いのである。
 それを知って、この両方を一日で回りたいという人がある。そこで、この二つの地点を連絡する道順を教えよう。米田の方から宮本へ回る場合も、単純に逆を行けばいいから、参考にすればいい。
 なお、米田村および関連地の詳細については、当該ページでご覧いただける。
 【電車で行くケース
 電車にのって行く人は、やはり「網干」駅からJR線、「姫路」経由で東へ行くことである。
 そのばあい、各駅停車で、「姫路」駅から4つめの駅「宝殿」〔ほうでん〕まで行って下車。そこから米田まで歩いて行ける。
 うまくすれば、この「網干」駅が始発の電車に乗れることがある。そのまま座って行けるわけだ。ところが、注意が必要なのは、その網干始発の電車が姫路駅から「新快速」という快速電車に変身、途中止まらずに、「加古川」駅まで行ってしまうことだ。
 そのばあい、必ずしも失敗ではなく、その「加古川」駅で下りて、先に泊神社へ行くことにしてもよかろう。先に米田の方へ行きたい人は、各駅停車の電車で「宝殿」駅まで行くことである。
 というわけで、宮本村探訪が先の人は、姫路駅か網干駅で、あらかじめ時刻表を確かめておいた方がいいかもしれない。

 【車で行くばあい
 車で行く人は、いずれにしても、まず2号線の「福田」ランプまで戻る。そこからどんどん東へ行く。姫路・神戸方面である。
 「福田」から行くこと約25キロ、「加古川西」ランプで下りる。そこから先は、次ページの案内をみればいい。
 このコースで行けば、渋滞でもないかぎり、宮本村から米田村まで、車で40分ほどだ。
 事故か何かで国道2号バイパスにのれないときは、上記の「」交差点から、国道179号を東へ行く。太子東あたりで旧国道2号に合流して、そのまま姫路の中心部を通り、まだまだ先へ行く。そうして、高砂市へ入り、宝殿駅前の少し先の、「平津」という陸橋下の交差点で右折だ。
 こちらは時間がかかるかもしれない。ただし、姫路城などを観てみたい人なら、バイパスにのるよりも、こちらの旧国道2号線のルートの方で行くことだ。
 なお、途中国道2号と接続しているポイントは、「太子東」ランプと「高砂北」ランプである。

 というわけで、急ぐ方は、ここからショートカットして、印南郡米田村へ行ける。 印南郡米田村へ→   Go 


JR鉄道マップ
網干-姫路-宝殿-加古川





道路マップ
太子-姫路-高砂-加古川

揖東郡宮本村という問題スポット



播磨郡地図








九州大学蔵
吉田家本五輪書地之巻冒頭



地志播磨鑑
平野庸脩自筆題箋

 さて、ここからは、一般的なガイドではなく、むしろマニアックな探訪である。それは歴史的通時的探訪ともなるだろう。
 最初から余談になるが、最前から現れている揖東郡の「揖東」、我々のサイトではこれを「いとう」と読むとしている。古代の揖保〔いぼ〕郡が東西に分割されて、揖東・揖西二郡になったのである。揖東は固有地名ではなく造語である。ただし口語ではこれを「いっとう」と読む。揖西は「いっさい」である。また揖東郡嘴崎は「はしさき」ではなく「はっさき」である。したがって古文書で「揖東郡」を「いつとう郡」と表記した例もある。しかしこれは口語表記なのである。
 揖東・揖西両郡の古名は「揖保郡」で、これは近代になって東西分割を廃止して復活された。この「揖保」は古くは「いひぼ」と読んだ。「飯粒」とも書いた。関西語圏はだいたい同じだが、胃は「い」であり、歯は「は」であるというように、母音が長くなる。したがって「揖東」は「いとう」なのだが、丁寧語でしょっちゅう「とってん、とってん」が出る播州弁では、こうしたものが容易に「いっとう」へ転訛するという次第である。
 しかしこれはローカルな方言表記であり、漢字の読みを表記するには「いとう」である。九州豊前にある京都郡の「京都」は「きょうと」ではなく「みやこ」だという弁別をするのと同じである。まさか「いひがし」と読む人はいないが、揖東が「ゆうとう」ではなく「いとう」だという種類の弁別をする表記である。
 そもそも「揖東」が造語である。揖保東郡の意である。造語に発音の正確を託するのは不要であり、我々はこの弁別表記を採用して、揖東郡を「いとう」と読みで表記している。
 余談はこれくらいにして、話は戻って、揖東郡宮本村である。この宮本村は、武蔵伝記中の問題スポット。武蔵産地を議論するとき避けて通れない場所である。しかし、そもそも、宮本武蔵の出生地については、諸説あって紛々、どの説も決定的な根拠をもたない――などと云うのは、およそ、勉強不足か無責任な言説である。
 少なくとも現在のような諸説並立状況が現れたのは、十九世紀以来のことであって、それ以前には武蔵は生国播磨とされていたのである。ところが、その播磨のなかでどこかとなると、少なくとも一次資料には記述がない。とくに遠い九州で書かれた記録では、生国播磨というだけで十分であって、具体的に播磨のどこかというような突っ込みがないのは当然である。
 そういうぐあいであるから、武蔵産地をつきとめるにつき、地元播磨において武蔵産地に関してどんな文献資料があるのか、それを洗いなおしてみる、という作業が必要なのである。
 かくして、地元播磨の武蔵記録を遡及してみるに、十八世紀半ばまでに書かれた『播磨鑑』という地誌歴史書に行き当たるのである。『播磨鑑』は平野庸脩が編述したもので、地元播磨の武蔵記事ということでは、これが最も古い。したがって「播磨の武蔵」に関して、これに依拠すべきである。これを閲覧すれば、少なくとも十八世紀半ば当時、播磨では武蔵産地について、どんな認識があったか、それが知れるわけである。『播磨鑑』の平野庸脩は、
《宮本武藏  揖東郡鵤ノ邊宮本村ノ産也》
と断言しているのであって、この一文の重要性は、本サイトの諸論文に杲らかである。詳細はそれらを参照されたい。
 少なくとも言えることは、十八世紀半ば当時、播磨では武蔵の出生地について、こんな認識があったというわけである。したがって武蔵産地に関しては、これ以前の地元史料が発見されないかぎり、当面は、揖東郡宮本村の産ということにしておかねばならない。
 言うまでもないことだが、近年勢力をもってきた印南郡米田村説は、あきらかに後世の誤伝である。武蔵が印南郡米田村産だなどという事は、米田村隣村の住人である平野庸脩が認識していない。この一点こそ印南郡米田村説を粉砕するものである。それゆえ、同説提唱者は『播磨鑑』の記述に関して頬かむりして無視を極めこんでいるというぐあいである。
 しかるに、この揖東郡宮本村には何の物証もない。この点を播州宮本村産地説の難点とする者があったが、それには根本的な錯誤がある。というのも、他の説にどんな確かな物証があるか、と言えば、そんなものは何一つないのである。それらが根拠とする伝書系図や墓碑など、後世の「作品」で、とても根拠資料となりえないものである。これについても、詳細は本サイトの諸論攷で述べられている。
 一方、この宮本村では、武蔵証拠の品々が宝暦の頃火災で焼け失せたとか、明治期に火事で消失したとか、そういう話も聞くが、そんなことは大したことではない。少なくとも『播磨鑑』の記述によれば、物証があるとは書かれていない。とすれば、『播磨鑑』の当時、すでに物証は存在しないのである。今になって物証がないというのは、もはや論外の説なのである。
 物証がないことが大したことではない、と云うと、誤解の叢雲が沸き立つようすなので、あらかじめ云っておけば、こういう話である。
 たとえば、次の龍野で紹介される藤原惺窩、この人が少年期龍野の景雲寺に居たという記録がある(惺窩先生行状)。しかし、現地には何の物証もない。では、何の物証もないからといって、藤原惺窩が龍野に居たのは恠しい、信憑性はない、という結論になるか。むろん、そういうことにはならない。
 惺窩先生ではちょっと話が遠いというのなら、黒田二十四騎を例にとってみればよい。この黒田家重臣らの集団はほとんど播州人で構成される。
 栗山四郎右衛門(1551〜1631)は一万五千石の重鎮、この人は飾東郡栗山村(現・姫路市手柄)の生まれだが、その遺跡が現地栗山にあるか。同じく黒田八虎の一で一万六千石の井上九郎右衛門(1554〜1634)飾東郡松原村(現・姫路市白浜町)の生まれだが、その物証が現地白浜にあるか。母里太兵衛(1556〜1615)は同じく黒田八虎の一で一万八千石、飾東郡妻鹿村(現・姫路市飾磨区妻鹿)の生まれだが、その物証が現地妻鹿にあるか。後藤又兵衛(1560?〜1615)も黒田八虎の一で一万六千石、播州では古い後藤氏の出で神東郡山田村(現・姫路市山田町)の生まれ。しかしその産地物証が現地山田にあるか。菅六之助(1567〜1625)は虎退治で有名で知行三千石、揖東郡越部村(現・たつの市新宮町)の生まれだが、その遺跡物証が現地越部にあるか?――これらはどのケースも答えは否である。
 これと同様のことはいくらもあって、文字記録の他に何の物証もないというのが、むしろ普通なのである。逆に、仰々しく物証はこれだ、というのに限って、後世の捏造物だったりする。
 何ごとであれ史料物証は、それがいつ作成されたか、オリジナルか複製か、をきちんと調べてから、物を言うべきである。そういう史料批判ぬきの論証など、あってしかるべきではない。ところが、武蔵研究に関するかぎり、従来そんな類の、基礎的手続きさえ知らぬ論が横行してきたのである。考証評伝というスタイルをとっていても、じつは「小説」でしかないというものしかなかった。そういう貧寒な光景を我々は見せつけられてきたのである。  



揖東郡宮本村現況








黒田二十四騎産地マップ


福岡市博物館蔵
黒田如水(1546〜1604)


*【筑前黒田系図】
○佐々木秀義―[四代]―黒田宗清┐
 ┌─────────────┘
 └高満―宗信―高教―高宗┐
 ┌───────────┘
 └高政重隆―職隆―孝高


*【播磨伝承の黒田家前史】
 
   多可郡黒田村住
 ○黒田下野守重隆―孝隆
           ↓猶子
  小寺美濃守職隆=官兵衛孝隆
    姫路城主

*【播磨黒田氏系図】
 
○赤松円光┬敦光→別所氏
     │
     └黒田重光―重勝┐
 ┌───────────┘
 └重康─光勝─重貞─重昭┐
 ┌───────────┘
 └重範─重隆┬治隆
       │
       └孝隆
         小寺職隆猶子

附録「黒田家前史小論」 →  Enter 
 そういうわけで我々は、宮本村に何の物証もないことを、むしろ当然とするのである。これを我々の開き直りと評する者らもあるが、そうではなく、安易に物証主義に走るのではなく、歴史研究において物証は稀だという事実をきちんと認識すべきなのである。
 そのうえで、武蔵の痕跡が希薄であるという事実は認めなければならない。この希薄さは、当時の人口流動がかなり激しいものであり、互いに生国を尋ねあうほど離郷したデラシネの群れが大量発生したという状況、そして最後は九州に歿した武蔵自身の人生を考えれば、理解しうることである。離郷者たちは故郷に記す痕跡が希薄である。
 武蔵もまた故郷を離れたデラシネの一人である。おそらく幼少期に九州へ行き、そこで育った。それを推測せしめるのは、黒田官兵衛の麾下、姫路を中心とした播州人の九州への大量移動である。
 ところで、黒田官兵衛は揖東郡に縁がある。これが武蔵伝記におけるポイントである。
 黒田官兵衛(如水)については、周知の人物であるから、とくに贅言を要しない。ただし、官兵衛以前の黒田家前史については、『黒田家譜』の系譜記事に大きな問題があるという事実は、案外知られていない。
 それというのも、『黒田家譜』には、官兵衛の曾祖父・黒田高政の代に、近江から備前へ流れ、また祖父・黒田重隆の代に、備前から播磨へ移ったとするのだが、それは『江源武鑑』というあやしげな文献に依拠して、貝原益軒がそう書き出したというだけで、何か根拠があるわけではない。
 播磨の旧記では、黒田家が備前から移ってきたという記録はなく、また黒田重隆は播州多可郡黒田村の人であり、しかも官兵衛の祖父ではなく、父である。官兵衛は黒田重隆の子だが、後に小寺職隆の「猶子」になって、小寺家を嗣いだ。――それが播州伝承の黒田家前史である。
 さらに言えば、播磨黒田氏本拠地の多可郡黒田村には、「黒田家略系図」(荘厳寺蔵)が伝わっており、それによれば、黒田氏元祖は、赤松円心弟・円光であり、その子重光の代から多可郡黒田城を居城として、以後、九代、二百年以上にわたり、黒田城主であった。八代重隆の子に孝隆あり、これが姫路城主・小寺美濃守職隆の猶子となって、「小寺」官兵衛。以上のごとく、播磨黒田氏の由来経歴は明らかである。黒田氏は、れっきとした赤松末葉であり、世に云う近江佐々木末流などではなかったのである。
 このあたりについては、本サイト[姫路城下 2]に記事があり、また附録「黒田家前史小論」に詳しいので、関心のある人、目からウロコを落としたい人は、それを参照されたい。
 さて、その黒田家は、のち九州豊前へ移り、関ヶ原戦後、筑前で五十余万石の大大名になるのだが、ここはまだ、播磨でようやく豊臣大名として出発した当初のことである。
 秀吉の播州攻略のさい、小寺官兵衛はその手先として動いた。官兵衛の所領は、天正八年(1580)播州制圧成った功により、秀吉から揖東郡に一万石を与えられたのが最初、ところがその一万石に実高不足があることが判明して、翌年付け直されて一万石。このうち、宮本村のある石見庄分としては二千九百十三石の計上がある。

天正八年知行宛行状 天正九年知行目録

揖東郡以福井庄内六千弐百石、岩見庄内弐千七百石、伊勢村上下千百石、都合壱万石、相副小帳進之置候条、無相違可有御知行候。御忠節次第弥可申談候。恐々謹言
  天正八          羽藤
   九月朔日         秀吉(花押)
    黒田官兵衛尉殿
    目 録         揖東郡
                   越部
 一 千弐百五拾四石八斗   上 庄
 一 九百弐拾石        伊勢上下
 一 弐千九百拾三石     岩見庄
 一 四千九百七石       福井庄内
     合壱万石
  天正九
   三月十八日        秀吉(花押)
    黒田官兵衛尉殿
(黒田家文書)




慶長播磨國繪圖 揖東郡部分
天理美術館蔵






九州豊前筑前と播磨







泊神社棟札
 天正八年と翌九年の内容を検分すれば明らかだが、この実高不足の調整は、越部上庄に新知を与えることによってカヴァーされている。越部というのは菅六之助の家があった土地である。
 揖東郡は当時二万石余であろうから、官兵衛はその約半分を得たというところである。他に揖東郡に領知を得た者に浅野長政がいて、これは五千石未満。その余は秀吉御料地であろう。
 かくして官兵衛が最初に万石知行を得たのは、この揖東郡なのである。従来注目されたことはないが、これが武蔵と黒田官兵衛との結節点であり、この点はもっと注意されるべきポイントである。
 それからのち官兵衛は加増され、天正十二年(1584)には宍粟郡を与えられ、都合四万石(三万石とも)。山崎に城を築いて新城主となったのである。(のちに家督を長政に譲って剃髪して如水と号したが、文禄四年(1595)在京湯沐料として、秀吉から揖東郡内に約二千石を与えられている。どこまでも揖東郡に縁があったわけである)。
 ちなみに、マニアックな話になるが、宮本村の石高は、いかほどか。官兵衛支配の天正期には二百二石五斗、これに対し文禄検地以後、二百八十九石二斗八升二合である。ずいぶん割り増しがあった。ところが、後に池田輝政時代の、いわゆる「二割打出し」の慶長検地では、三百五十石。天正期からすると、一・七倍、とんでもない数字になっている。

 さて黒田勢は九州へ行く。天正十四年(1586)には、官兵衛は秀吉の九州攻めの軍監として、彼地へ下り以後各地を転戦した。翌天正十五年(1587)の行賞で、豊前に六郡十五万石(十二万石ともいう)を得た。このわずか六〜七年の間で、黒田家は大膨張したのである。播州戦での味方はいうに及ばず、敵方だった連中も、多く黒田勢に組織され与力となって、九州へ下った。黒田二十四騎の例で知れるように、黒田家の家臣団は当初、この播磨人らで占められていたのである。
 ともあれ、小寺(黒田)官兵衛が秀吉から最初与えられた領地が揖東郡であったことは、再度諸氏の注意を喚起しておいてよいことであろう。言い換えれば、武蔵が揖東郡宮本村生まれだとすれば、その誕生当時、この周辺の領主は官兵衛だった、という環境にあった。
 こういう状況は、幼い武蔵が九州へ流れる可能性の条件である。まず豊前中津あたりがその居所であろう。とすれば、そこが武蔵の育った土地である。しかし、『五輪書』に記す十三歳の初決闘、新当流有馬喜兵衛との対戦が、「小倉碑文」にあるごとく播州でのことであるとすれば、その慶長元年(1596)には武蔵は播州へ舞い戻っていたのである。
 ここで注意すべきは、播州加古川の泊神社棟札に、次のように記されていることである。
《作州の顕氏に神免なる者有り、天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承くるを、武藏掾玄信と曰す》(原文漢文)
 言うまでもないことだが、この神免なる者が新免無二であり、その死後武蔵が無嗣にして絶えたその家を嗣いだのである。新免無二を慶長年間まで生かしている黒田家分限帳に拠らず、この泊神社棟札の記事を尊重するとすれば、無二は天正年間に筑前秋月城で死亡しているのである。武蔵がその家を嗣ぐのは成人していなければならないから、十六歳前後のことである。言うまでもないが、幼児では家業を嗣ぐ資質の見極めはつかないから、武家は幼児を養子とはしない。
 この新免無二については、後世に出来た作州の伝説に拠らないとすれば、むしろ無二は最初播磨にいて、黒田勢の与党となって働いていた、しかもそれが、官兵衛の所領が揖東郡だとすれば、そこで菅六之助や武蔵の親族と何らかの縁が生まれたものらしいと想定されるのである。
 この前提では、無二は作州の顕氏新免の名を負う者だが、新免伊賀守宗貫の実家である宇野氏の佐用郡、さらに揖保川流域下流のこのあたりまで流れて来ていたものらしい。新免だからといって作州住人とは限らないのである。とくに当時の西播は激戦のあった所で、かなりひどい状況にあった。秀吉制圧後の播磨は新たな兵站地として賑わっていた。そこへ流入する武士たちも多かったのである。
 さてここで話は、対有馬喜兵衛戦である。『五輪書』地之巻冒頭には、有名な記述があって、それは、
《生國播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、年つもりて六十。われ若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして初めて勝負をす。其あひて新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝》
 有馬喜兵衛という決闘相手の名は、次の但馬国秋山という名ともに、『五輪書』ではめずらしく名を残している。どちらも具体的なことは何もわからない。あるいは、もし武蔵と決闘して殺されなかったら、たとえば夢想権之助ように一派を創始し剣客として名を残したかもしれない。
 しかし、『五輪書』では有馬喜兵衛の話は、これだけなのである。どこでどうした、という話ではない。これに対して、小倉碑文の方はもう少し具体的で、
《方に年十三にして始めて、播юV當流有馬喜兵衛なる者と進みて雌雄を決するに到り、忽ち勝利を得たり》(原文漢文)
という話なのであるが、これにしても対戦相手が播州新当流の有馬喜兵衛だというが、決闘場所が播州のどこだという話はない。ところが、これについて詳細に物語る文書がある。
 それが通称『丹治峯均筆記』所収の武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公傳來」である。本書は最早期の武蔵伝記で、二天一流第五代・立花峯均による享保十二年(1727)の述作である。『本朝武藝小傳』などの剣道史文書を除けば、現在までのところ武蔵単独伝記としては最古のものである。しかし、九州ローカルの伝説である点、播磨の実態とはズレを生じる面があり、また、すでに武蔵死後七十年以上、武蔵伝説の説話化がはじまっている。
 この『丹治峯均筆記』によれば、武蔵の童名は辨之助。父の「宮本無二」に疎まれて、九歳のとき家を追い出され、播州へ行って母方の叔父の元へ身を寄せた。彼は出家で小菴に安らかに暮らしていた。武蔵はこの叔父のもとで成長したという。
 武蔵九歳なら、文禄元年(1582)、文禄の役で九州は大騒ぎの頃である。それよりも、泊神社棟札のいう、天正年間に筑前秋月城で死んだ無二がまだ生きていて、少年武蔵を家から追い出したわけである。『丹治峯均筆記』は新免無二を「宮本無二」とするほか、この無二が武蔵の実父であるかのような扱いである。伝説にいろいろ間違いがあるわけである。
 さて、家を追い出された武蔵は、播州へ行ったという話だが、これは、武蔵が幼くして故郷を去り九州で育ったという我々の仮定と一致するところである。それで、『丹治峯均筆記』によれば、武蔵が播磨に舞い戻ったのは、九歳のときだということになる。しかし、これには、さして根拠があるわけではない。有馬喜兵衛との対戦の話も異様に詳しく、台詞も入って講談調であるが、武蔵伝説の一つとしてみれば興味深いものがあるので、以下、話の内容を聴いてみよう。

 ――弁之助(武蔵)が十三歳の時、新当流の兵法者で有馬喜兵衛という者が、播州にやって来た。浜辺に矢来を結び、金磨きの高札を立てて、試合を望み次第いたす旨、それに書き記した。弁之助は、同輩の児童と手習に行った帰りがけにその高札を見て、手習筆で高札に墨を塗り、何町何方に居り申す宮本弁之助である、明日試合しようとの旨を記し、叔父の庵へ帰った。
 晩になって、喜兵衛から使者を寄こして、お望の如く、いよいよ明日試合しようとの旨を言ってきた。叔父の出家はこれを聞いて大いに驚怖して、この使者に向って、
 「幼い子が悪戯にしたことですので、ぜひとも許してもらいたい」
と断りを申した。使者はこれを聞いて、
 「自分にそう言われても、とにかく返答はできない。喜兵衛に御面談の上、試合の断りを申されるのがよいでしょう」
と申すので、叔父はこの使いと一緒に喜兵衛の旅宿へ行き、右の旨趣を申し述べ、ひたすら断りを申した。喜兵衛はこれを聞届け、
 「幼い子の悪戯でしたら、強いて申すべきこともない。けれども、私のように、兵法修行のため日本を廻っている者が、播州で高札に墨塗りに逢ったと噂されては、幼い子の悪戯だったと言っても、世間の人々には何の弁明にもならない。明日、矢来場へその子を御同道ください。拙者も支度して試合場所ヘ出向きますから。そこで、断りを言明なされば、諸人の目前ですから、あなたの断りも立ち、噂にしても、幼い子の仕業たることが顕らかになるでしょう。明日その子を御同道ください」
と言って帰したのである。
 翌日になって、矢来場は貴賎群をなす状態である。喜兵衛は試合用に装束等を着替え、カルサン(軽衫)を穿いて、牀几に腰を掛けて待った。叔父の僧は弁之助に、
 「お前のせいで、わけの分からぬ事に苦労させられる。わしの後からついて来い」
と云って、先へ行く。弁之助は、短い脇差しかなかったので、縁の下を覗いて見て、薪のなかから六七尺〔約二m前後〕ある手ごろの棒を一本取出し、それを杖について、叔父の後を見え隠れに歩いて行く。
 試合場所にやって来て、叔父の僧は、矢来竹に手をかけて、
 「喜兵衛殿、昨晩も申したように、あそこへ参るような若輩者でして、試合のことは、とにかく御赦免下さい」
と断りを申していると、弁之助が来て、矢来の戸を押し開き、
 「喜兵衛とはお前か、さあ、試合しよう」
と声をかけ、走り寄って杖で喜兵衛に打ちかかった。これに喜兵衛も立上って、抜き打ちに切りつけた。けれども弁之助が走りかかり、喜兵衛は牀几を立上って切りつけたので、近すぎて双方疵つかず、腕と腕が肩に乗った状態になった。
 弁之助は杖を捨て、かいくぐったその瞬間、相手を肩にかつぎ上げて、まっ逆さまに投げ落し、杖を取って続けさまに十四五回殴りつけ、即時に打ち殺した。諸人の感嘆は、しばらく止まなかった。
 それから弁之助は考えた、「我が命を捨て、踏み込んで打ちつけさえすれば、敵に打ち勝つことは何の手間もいらない」と心得て、叔父のもとを去って、十三歳から二十八九歳までの間、日本国中を廻ったが、六十人以上の相手、だれ一人として武州に打ち勝った者はなかった。これは『五輪書』地之巻に記されているところである、云々。



有馬喜兵衛 武稽百人一首




*【丹治峯均筆記】
《十三歳ノ時、新當流ノ兵法者有馬喜兵衛ト云者、播州ニ来リ、濱辺ニヤラヒヲユヒ、金ミガキノ高札ヲ立テ、試闘望次第可致旨書記ス。辨之助同輩ノ童ト手習ニ行キ、帰リガケニ其高札ヲ見、手習筆ヲ以テ高札ニ墨ヲヌリ、何町何方ニ居リ申ス宮本辨之助、明日試闘可致旨記之、菴ヘカヘル。
 及晩、喜兵衛ヨリ使者ヲ差越、弥御望之如ク明日試闘可仕旨申越ス。叔父ノ出家聞之甚驚怖シテ、右ノ使者ニ出合、「幼年ノワルサニ致シタル事ニ候間、是非々々免ジクレ候ヱ」ト申ス。使者是ヲ聞テ、「自分ニ承候迄ニテハ兎角ノ返答申ガタシ。喜兵衛ニ御面談ノ上断被仰達可然」由申ニ付キ、叔父右ノ使トウチ連、喜兵衛ノ旅宿ニ至リ、右ノ旨趣ヲ申述、ヒタスラ断ヲ申ス。喜兵衛聞届、「幼年ノ手ワザニ候ヘバ、シ井テ可申様モナシ。然ドモ、我等兵法修行之タメ日本ヲ廻ルニ、播州ニテ高札ヲ墨ヌリニ逢タリト唱ヱアツテハ、幼年ノシワザタル事、人々申ワケモ成ガタシ。明日ヤラヒ場ヱ御同道候ヘ。拙者モ支度シテ場所ヘ出游申スベシ。彼所ニ於断ヲ被仰候ヘバ、諸人ノ目前ユヱ断モ相立チ、唱モ幼年ノ仕業タル事顕然タリ。明日御同道候ヘ」トテ差シ戻ス。
 翌日ニ至リ、ヤラヒ場貴賎群ヲナス。喜兵衛装束等相改メ、カルサンヲ著シ、牀几ニ腰ヲカケ相待ツ。叔父ノ僧辨之助ニ云ク、「己ユヱ、ヨシナキ事ニ骨ヲ折ル。跡ヨリ可来」ト云テ、サキヘ行。辨之助ハ短キ脇差バカリニテ、縁ノ下ヲノゾキ見テ薪ノ内ヨリ六七尺アル手ゴロノ棒一本取出シ、杖ニツキ見ヘカクレニ歩ミ行カル。
 場所ニ至リ叔父ノ僧ヤライ竹ニ手ヲカケ、「喜兵衛殿、昨晩モ申ス様ニ、アレヘ参ル若輩者ニテ候。試闘ノ儀ハ兎角御赦免被下候ヘ」ト申内ニ、辨之助来タリ、ヤラヒノ戸ヲ押開キ、「喜兵衛トハ其方カ、サア、試闘マイラン」ト声ヲカケ、走リカヽリテ杖ヲ以テ打ツクル。喜兵衛モ立揚リ、ヌキウチニ切ツクル。然ドモ弁之助ハ走リカヽリ、喜兵衛ハ牀几ヲ立アガリ切リツケシユヘ身近ク、双方疵ツカズシテ、腕ト腕ガ肩ニトヾマル。弁之助杖ヲステ、カヒクヾリザマ、カタニアゲテ、マツサカサマニ落シ、杖ヲトツテツヾケ打ニ十四五打、即時ニ打チ殺ス。諸人感嘆シバラクヤマズ。
 夫ヨリヲモヘラク、ワガ命ヲ捨テ、蹈込テサヘ打ツクレバ、敵ニ打勝事、何ノ手間モ不入ト心得テ、叔父ガ手前ヲ去リ、十三歳ヨリ二十八九歳マデノ間、日本國中ヲ廻リ、六十餘人ノ相手一人トシテ武州ニ打勝タル者ナシ。コレ地ノ巻ニ記サルヽ所也》



武蔵初決闘地碑
兵庫県佐用町平福


*【佐用郡誌】 平福村の松原
《平福村平福南端の川原、土地は宗行に屬す。田住村田住助兵衛政久は田住太郎左衛門定道の養子(實父は揖東郡神中城主大國半左衛門正俊)にして妻は定道の女なりしが、二男を殘して死す。その後別所左衛門林治(定道の弟)の女美作國宮本村平田無(又は武)二に嫁し一男を挙げし後ち無二死没せしを以て生家別所家に歸りて政久の後室となりしが、平田家に産みし一子幼名七之助または友次郎また傳 (後に武藏)實母を追慕し來りて別所家に食客す。其時平福町に博徒を以て暴行至らざるなき有馬喜兵衛なるものあり。新當流の達人といへども村内の平和を破り一般より蛇蝎の如く忌み嫌はれしかば、平田傳幼にして之を憎み、或時之れと口論し此松原に於て立會ひ、彼れ喜兵衛を一刀のもとに伐り伏せ其身は處定めず行衛を晦ましたり。此時傳齢十三歳なりと云ふ。(田住氏所有の書にあり)即ち平田傳は宮本武藏の幼名なり。或本に喜兵衛を劒客の如く記しあれども左にあらず浪人體のものなりしならん》






武蔵初決闘場所比定地:沖浜村
姫路市網干区興浜

 こうしてみれば、この一段の説話は、極めてオーソドックスな、神話的物語構造を有するものである。ここまで完備された物語構造をもつ以上、これは伝説として自然発生的に形成された説話であると判断しうる。言い換えれば、単体として存在した武蔵伝説を、立花峯均はここへ挿入したものでろう。『丹治峯均筆記』については、いづれ本サイトにその読解が登場するので、そこでの考察にゆずる。
 これは『丹治峯均筆記』の創作から発した伝説ではなく、逆に、筑前で巷間存在してした伝説を『丹治峯均筆記』が取り込んだということは理解しておく必要がある。
 以上の決闘譚についておもしろいことに、今日これを、播州は佐用郡平福村(現・兵庫県佐用町平福)での事蹟とする見解が広く流布している。とくに近年では、「母方の叔父」についても、田住家文書などを傍証に特定しようとし、その叔父が住み弁之助が身を寄せた庵にしても、同地東方庵村の正蓮庵という具体的な場所をそれとしている。しかし、これには首をひねらざるをえない。
 しかし、本サイト所収諸論文が示すように、これらの史実上の対象特定には何の根拠もないのである。この播美国境を跨いだエリアにおける武蔵伝説の発生は、そう古いことではない。少なくとも十九世紀に入って定着した伝説である。しかもこの説の根拠資料は、実は近代に入ってのもので、ごく新しい。大正十五年(1926)『佐用郡誌』(兵庫県佐用郡発行)がそれで、そこには、新しいヴァージョンの同類決闘伝説が収録されている。
 『佐用郡誌』が採録した当地の有馬喜兵衛決闘伝説は、おそらく九州で発生した伝説の流伝であろう。この佐用郡の伝説では、有馬喜兵衛は播州にやって来た廻国兵法者ではなく、たんに村の鼻つまみ者の博徒であり、少年武蔵はこの悪漢を退治する、別のパターンの英雄なのである。
 またこの伝説では、とくに武蔵幼名を「傳」〔でん〕とするが、これは「辨之助」の「辨」〔べん〕の方言転訛である。武蔵→弁慶→弁之助→弁→伝という移項の末端にこの武蔵幼名「伝」という話が発生したのである。
 要するに、『丹治峯均筆記』が取り込んだ有馬喜兵衛との決闘伝説は、一方で九州から播州まで伝播したのである。こういう伝説の伝播現象には興味深いものがあるが、これにより、「宮本武蔵初決闘の地」と記念するモニュメントが、『佐用郡誌』云うところの同地平福村の松原に建立されたのである。かくして、我々のいわゆる伝説の物質化が実現してしまったわけである。
 それゆえ、『丹治峯均筆記』のいう「新当流の兵法者、有馬喜兵衛という者が、播州にやって来て、浜辺に矢来を結び、金磨きの高札を立てて、試合を望み次第いたす旨、それに書き記した」というその「浜辺」とはどこなのか、という問いもナンセンスなものになろう。
 しかるに、武蔵は故郷播州へいったん帰ってきて、十三歳で最初の決闘をした。ここで武蔵マニア諸君は、それならナンセンスなゲームとして、その決闘場所をヴァーチャルに設定するとどうなるか、という問いを発するのである。これに生真面目に答えてしまうとすれば、この浜辺が武蔵の故郷揖東郡の海浜のことだとすれば、さしづめ、それは網干の沖浜村(現・姫路市網干区興浜)あたりであろうか、とするのである。

 ともあれ、当時の離郷者の多くと同様に、武蔵もまた故郷への痕跡を残していない。それゆえ、上述のように、むしろ物証がないのが当然である。それは播州出自の黒田二十四騎中の人物について語ったとおりである。
 しかし、この[サイト篇]の龍野城下あるいは姫路城下のページで紹介する通り、武蔵は姫路を中心として、龍野や明石に足跡を記している。それらは、どれも物証という点ではまったく難があるものだが、当時の人間としてはこれが最大限の痕跡であろう。それらも併せて、播磨の武蔵という我々の問題構成は、ここまでは分かっているという境界標線を設定しておくのである。

聖徳太子と宮本武蔵
 他述のように「揖東郡宮本村」は現在の行政区域では、兵庫県揖保郡太子町である。全国に太子町という自治体は数多い。それほど、中世活発であった神話的太子信仰は今なお痕跡をとどめているわけである。
 この揖保郡太子町には、その名もズバリ斑鳩寺〔はんきゅうじ・いかるがでら〕という名の古刹もあって、戦後の諸村合併して新しい自治体を設けるにさいし、聖徳太子ゆかりの土地として町の名をかように決める由縁となった。
 『播磨鑑』に、宮本武蔵を「揖東郡鵤ノ邊〔庄〕宮本村」の産とすることは、本サイト諸処で示されているが、この「鵤」〔いかるが〕という地名は、大和の法隆寺に関係することで、実は古代からのものである。
 有名なところでは『日本書紀』推古天皇の十四年(606)、秋七月、天皇が皇太子(聖徳太子)に要請して勝髪経の講義をさせた。三日がかりの講義である。この年また皇太子が岡本宮で法華経の講義をした。――そういう事蹟は日本仏教史では周知のことだが、これに天皇は大いに喜んで、「播磨国水田百町」を皇太子に布施した。これにより当地は法隆寺領となるのだが、ここにある「播磨国水田百町施于皇太子」をもって鵤庄の起源とする。
 あるいは、「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」(天平十九年・747)に、この布施の年をそれより前の戊午年(推古天皇六年・598)としており、施地は播磨国佐西地五十万代(千町)で、《伊河留我本寺、中宮尼寺、片岡僧寺、此三寺分為而入賜岐、伊河留我寺地[乎渡]、功徳分食分衣分寺主分四分為而》とする。これに対し現地資料では、「播磨国鵤庄絵図」(嘉暦四年・1329)に片岡庄・寺主分の文字があり、また現在でも鵤庄相当地に片岡・中宮寺の地名が残っているのである。
 当地の斑鳩寺の創建を記す文書記録は残っていないが、出土瓦その他資料から、平安末期の11世紀後半には存在したものと推定される。鵤圧が中世荘園として立券されるようになって、当地に法隆寺の別院として建立したものであろう。
 このように古代遺制が当地に残ったについては、二つの点が考えられる。一つは、鵤庄はその名の通り中世荘園の残存を示すのであるが、それだけではなく、当地が一円進止不輸不入の特権的な領分だったことである。すなわち、たとえば『吾妻鏡』によれば、当地に対する地頭の押領を排除する記録*がある。鵤庄を聖徳太子ゆかりの地として不可侵とすべき扱いである。
 しかしもう一つは、中世において一貫して全国に太子信仰が存在したという点である。これなくして寺領の特権はありえない。聖徳太子を観音菩薩の化身とするのをはじめ、太子信仰には諸相あって、その多様性を要約してしまうことはできないが、武家との関連ではやはり、一種の武神としての聖徳太子という側面に注意されよう。
 日本仏教の確立者であると同時に、その十七条憲法第一条の「以和為貴」(和をもって貴しとなす)の一般のイメージからすれば、意外な側面であろうが、中世を通じて、武神として太子を信仰するシーンがあったのである。
 つまり蘇我氏と物部氏の対立から物部氏が征討された事件は、後世、仏敵・物部守屋を征討する聖徳太子という伝説を生み、ここに武神・太子像が成立する。中世に流行した太子伝記・注釈書には、太子七歳、百済の博士学架(学呵)から、張良一巻の秘書の伝授をうけたとする伝説が流布した。





斑鳩寺 揖保郡太子町鵤


重文 斑鳩寺蔵
聖徳太子勝鬘経講讃図

*【日本書紀】
《秋七月、天皇請皇太子、令講勝髪経。三日説竟之。是歳、皇太子亦講法華経於岡本宮。天皇大喜之、播磨国水田百町施于皇太子。因以納于斑鳩寺》(推古天皇14年(606)条)


*【吾妻鏡】
地頭金子十郎家忠の押領停止を記す文治三年(1187)三月十九日条には、頼朝が《依被重上宮太子聖跡》、《太子殊依執思食有被載趣、二品専所聞食驚也》とし、また地頭青木兵衛五郎重元の排除を記す安貞元年(1227)六月二十二日条には《太子御起請異他之地、右大将軍御時、有御帰依而専興隆云云》とある。

国宝 東京国立博物館蔵
聖徳太子絵伝 部分
守屋を討つ場面


張良一巻書
 張良は漢の高祖・劉邦に仕えた伝説的軍師である。『和漢朗詠集』に《漢高三尺の剣、坐ながら諸侯を制す。張良一巻の書、たちどころに師傳に登る》(巻下・帝王)とあり、日本人に有名な人物である。所載の太子はその張良一巻書をもって、仏敵守屋を滅ぼしたというわけで、ここに聖徳太子と兵法とのリンクが生じる。
 この張良一巻書に関しては、『太子伝』(叡山文庫蔵)などは、この秘書の術を得た太子が、物部守屋との合戦のとき、兵法陰形の印を結んで榎木の空洞に隠れ難を避けたという、これまた忍術まがいの場面もある。この場面はよほどポピュラーな人気を博したか、あちこちで模倣反復され、源頼朝が石橋山合戦のさい伏木隠れをした(源平盛衰記・巻21)という説話は、聖徳太子という参照元さえ明示している。とくに張良一巻書の一件からすれば、まさしく聖徳太子は兵法元祖の一人なのである。
 たとえば『義経記』に、《異朝には、太公望是を読みて、八尺の壁に上り、天に上る徳を得たり。張良は一巻の書と名付け、是を読みて、三尺の竹に乗りて虚空を翔る》とあるのをはじめ、本朝では、平将門を例にあげ、そしてそれがしばらく絶えたあと、鬼一法眼秘蔵とする。
 張良一巻書は、もともと大陸にはないもので『和漢朗詠集』から生じた伝説なのだが、これが鎌倉期には「輸入」されるようになった。九条兼実はその日記『玉葉』によれば、張良一巻書を入手して、いささか興奮している(治承五年(1181)二月二十二日条)。いわばフィクションが現物を生む例である。しかし、この書の人気は、鎌倉末期には「国産」の張良一巻書が生産されるようになるという結果を生むのである。
 では、次のような『太平記』の記事はどうか。
《抑元亨以後、主愁臣辱られて、天下更安時なし。折節こそ多かるに、今南都北嶺の行幸、叡願何事やらんと尋れば、近年相摸入道振舞、日来の不儀に超過せり。蛮夷の輩は、武命に順ふ者なれば、召とも勅に応ずべからず。只山門南都の大衆を語て、東夷を征罰せられん為の御謀叛とぞ聞へし。依之大塔の二品親王は、時の貫主にて御坐せしか共、今は行学共に捨はてさせ給て、朝暮只武勇の御嗜の外は他事なし。御好有故にや依けん、早業は江都が軽捷にも超たれば、七尺の屏風未必しも高しともせず。打物は子房が兵法を得玉へば、一巻の秘書尽されずと云事なし。天台座主始て、義真和尚より以来一百余代、未懸る不思議の門主は御坐さず。後に思合するにこそ、東夷征罰の為に、御身を習されける武芸の道とは知られたれ》(巻二 南都北嶺行幸事)
 大塔宮護良親王は『太平記』で活躍する人物だが、そこに《打物は子房が兵法を得玉へば、一巻の秘書尽されずと云事なし》とある。「打物」というのは武器の総称で、ここでは武術の意味である。「子房」は張良の字で、ここでも張良一巻書が登場するのである。大塔宮は、武術に長けていた。張良の兵法、その一巻書の術をことごとくマスターしていたというのである。
 張良は謡曲「張良」や舞曲「張良」にもなって、極めて有名な、兵法家の代名詞なのだが、この張良が太子伝説の中でかの張良一巻書を通じて、聖徳太子とリンクするところがおもしろい。聖徳太子は、この秘書とともに、武神と化すのである。太子にあやかって戦勝祈願するという場面が多々ある。
 『太平記』の最も重要な場面の一つは、天王寺での戦勝祈願と聖徳太子の『未来記』をもって楠正成とリンクさせている。『未来記』は親鸞の六角堂参籠と夢見にも現れているが、楠正成の場合は太子信仰の中でも軍神としての太子という側面にかかわる。
 こうした宗教と軍事が結合された伝承を生むには、その担い手があったはずである。今日中世史学でいうのは、たとえば、山伏や陰陽師など下級の宗教家や芸能の民の間の兵法伝承であろうという説である。正成をめぐる物語伝承の背後に広範な太子信仰の担い手の存在がある。楠正成の地元南河内には太子信仰の拠点、磯長〔しなが〕の太子廟(叡福寺)がある。あるいは信貴山の毘沙門天にしても、正成はその申し子で、ゆえに多聞兵衛と称したというし、楠正成伝説は太子信仰との密接な関連があるようである。

*【源平盛衰記】
《昔聖徳太子の仏法を興さんとて、守屋と合戦し給しに、逆軍は大勢也、太子は無勢也ければ、いかにも難叶、大返と云所にて、只一人引へ給けるに、守屋の臣と勝溝連と行会て難遁御座けるに、道に大なる椋木あり、二つにわれて太子と馬とを木の空に隠し奉り、其木すなはち愈合ひて太子を助け奉、終に守屋を亡して仏法を興し給ひけり》(巻二十一 聖徳太子椋木附天武天皇榎木事)

*【義経記】
《爰に代々の御門の御賓、天下に秘蔵せられたる十六巻の書あり。異朝にも我が朝にも伝へし人、一人として疎なる事なし。異朝には、太公望是を読みて、八尺の壁に上り、天に上る徳を得たり。張良は一巻の書と名付け、是を読みて、三尺の竹に乗りて虚空を翔る。(中略)本朝の武士には、坂上田村丸是を読み傅へて、あくじ(悪事)の高丸を取り、藤原利仁是を読みて赤頭の四郎将軍を取る。それより後は絶えて久しかりけるを、下野國の住人、相馬小次郎将門是を読み傅へて、我が身のせいたんむしやなるによつて朝敵となる。されども天命を背く者の、ややもすれば世を保つ者少なし。当國の住人、俵藤太秀郷は、勅宣を先として、将門を追討の為に東國に下る。相馬小次郎防ぎ戦ふといへども、四年に味方滅びにけり。最期の時威力を修してこそ、一張の弓に八の矢を矧げて、一度に是を放つに、八人の敵をば射たりけれ。それより後は、又絶えて久しく読む人もなし。只徒らに代々の御門の〔御〕賓蔵に籠め置かれたりけるを、其頃一條堀河に隠陽師法師に鬼一法眼とて文武二道の達者あり。天下の御祈祷師で有りけるが、是を賜はりて秘蔵してぞ持ちたりける》(巻二 義経鬼一法眼が所へ御出の事)


*【太平記】
《元弘二年八月三日、楠兵衛正成住吉に参詣し、神馬三疋献之。翌日天王寺に詣て白鞍置たる馬、白輻輪の太刀、鎧一両副て引進す。是は大般若経転読の御布施なり。啓白事終て、宿老の寺僧巻数を捧て来れり。楠則対面して申けるは、「正成、不肖の身として、此一大事を思立て候事、涯分を不計に似たりといへ共、勅命の不軽礼儀を存ずるに依て、身命の危きを忘たり。然に両度の合戦聊勝に乗て、諸国の兵不招馳加れり。是天の時を与へ、仏神擁護の眸を被回歟と覚候。誠やらん伝承れば、上宮太子の当初、百王治天の安危を勘て、日本一州の未来記を書置せ給て候なる。拝見若不苦候はゞ、今の時に当り候はん巻許、一見仕候ばや」と云ければ、宿老の寺僧答て云、「太子守屋の逆臣を討て、始て此寺を建て、仏法を被弘候し後、神代より始て、持統天皇の御宇に至までを被記たる書三十巻をば、前代旧事本記とて、卜部の宿祢是を相伝して有職の家を立候。其外に又一巻の秘書を被留て候。是は持統天皇以来末世代々の王業、天下の治乱を被記て候。是をば輒く人の披見する事は候はね共、以別儀密に見参に入候べし」とて、即秘府の銀鑰を開て、金軸の書一巻を取出せり。正成悦て則是を披覧するに、不思議の記文一段あり》(巻六 正成天王寺未来記披見事)



*【新田義貞書状写】
於播磨国鵤庄、数日取陣之間、寺僧勝軍会令執行、神妙至候、恩賞事、任道理宣可有御沙汰候、恐懼謹言
           左 中 将
  五月八日       義貞(花押)
 進上 四条中納言殿



*【太平記】
《去程に、左中将義貞の病気能成てければ、五万余騎の勢を率して、西国へ下り給ふ。後陣の勢を待調へん為に、播磨国賀古河に四五日逗留有ける程に、宇都宮治部大輔公綱・紀伊常陸守・菊池次郎武季三千余騎にて下著す。其外摂津国・播磨・丹波・丹後の勢共、思々に馳参じける間、無程六万余騎に成にけり。「さらば軈て赤松が城へ寄て可責」とて、斑鳩の宿迄打寄せ給たりける時、赤松入道円心、小寺藤兵衛尉を以て、新田殿へ被申けるは、「円心不肖の身を以て元弘の初大敵に当り逆徒を責却候し事、恐は第一の忠節とこそ存候しに、恩賞の地降参不儀の者よりも猶賎く候し間、一旦の恨に依て多日の大功を捨候き。乍去兵部卿親王の御恩生々世々難忘存候へば、全く御敵に属し候事本意とは不存候。所詮当国の守護職をだに綸旨に御辞状を副て下し給り候はゞ、如元御方に参て忠節を可致にて候」と申たりければ、義貞是を聞給て、「此事ならば子細あらじ」と被仰て、頓て京都へ飛脚を立、守護職補任の綸旨をぞ申成れける。其使節往反の間已に十余日を過ける間に、円心城を拵すまして、「当国の守護・国司をば将軍より給て候間、手の裏を返す様なる綸旨をば何かは仕候べき」と、嘲哢してこそ返されけれ。新田左中将是を聞給て、「王事毋脆事、縦恨を以て朝敵の身になる共、戴天欺天命哉。其儀ならば爰にて数月を送る共、彼が城を責落さでは通るまじ」とて、六万余騎の勢を以て、白旗の城を百重千重に取囲て、夜昼五十余日、息をも不継責たりける》(巻第十六 新田左中将被責赤松事)
 聖徳太子と軍事とのリンク、これは、播磨の斑鳩寺でもことは同様であっただろう。たとえば、この寺でしばしば行なわれた「勝軍会」のことがある。
 この勝軍会は、戦勝祈願祭とでも言うべきものであるが、斑鳩寺文書に「新田義貞書状写」があり、新田義貞が当寺で勝軍会を行なったと知れる。延元元年(1336)のこの当時、足利尊氏が赤松円心の助けをかりて九州へ落ちのび、尊氏を追討する官軍の総大将新田義貞は、このとき弘山庄に布陣して赤松円心と対峙していたらしい。新田義貞書状の内容は、斑鳩寺の僧らが我が方のために勝軍会を執行してくれたので、恩賞の沙汰をしてもらいたいということである。
 勝軍会の由来は、物部守屋討伐のとき聖徳太子が信貴山の毘沙門天に戦勝を祈願したという伝説によるものであり、太子戦勝の故事にあやからんとして毘沙門天に戦勝祈願するのである。斑鳩寺にも毘沙門天像があり、それが太子信仰の中で相当有名であったらしく、新田義貞は太子戦勝の故事にならって勝軍会を執行したのであろう。
 このあたりは『太平記』の記事では「巻第十六 新田左中将被責赤松事」にあって、赤松円心が、「斑鳩の宿」まで進駐してきた新田義貞を欺いて、時間をかせぐという場面である。
 円心が小寺藤兵衛尉を媒介にして、義貞にいうのは――、元弘の蜂起にあたって後醍醐天皇側について忠節を尽くし働いたが、恩賞は降参不儀の者よりも少なかった。これを恨んでそれまでの功業も捨てた。(実際、円心は後醍醐天皇から疎まれ、播磨守護職どころか作用庄地頭職を与えられたにすぎず、建武新政権では冷や飯を食わされたのである)。それでも、大塔宮兵部卿親王の恩が忘れがたい。いまは足利尊氏に与して敵対しているのだが、それは本意ではない。(円心所縁の大塔宮は建武新政の後醍醐天皇から疎まれ、鎌倉へ送られ足利直義に殺された)。もし当国播磨の守護職を与えられるよう取り計らってくれたら、そちらの味方につこう、――というわけで、新田義貞はこの守護職補任の綸旨を京都へ申請した。
 ところが、この赤松円心の言は虚言で、使者が京都との往還する間に、城の拵えをして戦闘準備をしたのである。それで守護職補任の綸旨が到着すると、「当国の守護国司の職はすでに足利将軍からもらっている。手の裏を返すような綸旨がどうして受け取れようか」と嘲哢して追い返した。つまり赤松円心は、足利尊氏を裏切るとみせて、敵方を欺いたのである。敵味方が反転する裏切りは当然『太平記』の常態であり、こういう敵を欺瞞するのは兵法の一部である。
 新田義貞は文中の白旗城攻めにかかるが、円心の抵抗が強く、そこに釘付けになっている間に、足利尊氏が九州から盛り返してくるというのがその後の展開である。というわけで、斑鳩寺の勝軍会、義貞にとっては利益なしであったかもしれない。
 もう一つ事例をあげれば、時代は下るが、豊臣秀吉がこの斑鳩寺で勝軍会を執行させたことである。斑鳩寺文書にそれを記す秀吉朱印状がのこる。
 これによれば、秀吉が家康と対戦した小牧長久手の戦いのときのもので、天正十二年(1584)――まさに武蔵が生まれた年――であり、当時秀吉は尾張に在陣していた。それを、遠く播磨の斑鳩寺に勝軍会執行を依頼したのである。文中「片桐加兵衛」とは、片桐且元弟の貞隆(1560〜1627)のことである。
 秀吉の播磨制圧事業は天正五年(1577)以来のことで、天正八年(1580)には三木城や英賀城を落として決着をみるのである。信長から播磨但馬は切り取り自由との条件で侵攻を下知された秀吉は、近江長浜城主で十数万石の大名にすぎなかったのだが、この播磨制圧によって八十万石規模の領知を得る。秀吉にとって播磨は自身の拠点の一つで、親族の木下家定らを播磨諸郡の領主にしていた。
 秀吉は、天正8年に、斑鳩寺に対して鵤〔いかるが〕庄内の三百石を寄進した(天正八年九月一日 羽柴秀吉寄進状)。当時のこの周辺揖東郡ほぼ半分の領主は、既述の如く播磨制圧に最も功のあった小寺(黒田)官兵衛である。揖東郡には他に秀吉の御料地があり、鵤庄はそれに含まれていた。その中から斑鳩寺に寄進したということである。
 この寄進は信仰心の顕れとみえるが、しかしながら中世荘園史の観点からすれば、まさにその中世的な領有形態の終焉を意味する。かつての法隆寺領鵤庄は秀吉によって廃絶され、この「寄進」により改めてその一部を支給されたということである。さらに文禄の検地の結果でも、斑鳩寺に庄内百五十四石三斗分の支給を重ねて承認しているのである。
 それはともかくとして、秀吉はその権力確立にあたって播磨に所縁あり、それにより斑鳩寺に対して在陣中の尾張から勝軍会執行を依頼したということである。記録にはないが、秀吉は播磨制圧戦の数年、この斑鳩寺で何回も勝軍会を執行せしめたという可能性はある。
 さて、太子信仰は全国に分布し太子堂は随所にあり、太子講が今でも行なわれている地方もある。斑鳩寺は東播磨の鶴林寺とともに中世以来播磨における太子信仰の拠点であった。当寺の伝統行事に、二月の春会式(二十二〜三日)がある。これは同月二十二日が聖徳太子の忌日ということで太子の縁日法要。その前に行なわれる鵤庄の祭があって(十六〜十八日)、これが「御頭会」〔おとうえ〕と呼ばれるもので、児童を頭人に立てる子どもの祭になっているのだが、実はこれは「勝軍会」ともいうらしいのである。
 御頭会は、前年に頭人の子を決め、その家に牛王さんを移し、それから一年間その牛王さんを祀り、ようやく御頭会となる。これは聖徳太子と庄内児童との親子関係の取り結びという解釈になっているようだが、さまざまな口碑が混合しているものと思われる。いづれにしてもおそらくこれは、法隆寺=斑鳩寺と寺領民との服属契約儀礼なのであろう。であれば、御頭会は中世の荘園生活の痕跡なのである。
 御頭会で小児を祭祀の主役にするのは、古い祭儀形態であり、そういう古層の民俗と太子信仰が習合してできたもののようである。頭人の小児が童形の髪鬘をかぶっているのは、植髪〔うえがみ〕太子像に倣うものである。太子が像を自作し、自身の髪を截ってそれに植えたという故事がある。どこでもこの植髪太子像は秘仏なのだが、この斑鳩寺でも太子堂たる聖徳殿の本尊である。聖徳太子ほど童形像が多い信仰対象はない。とすれば斑鳩寺の「御頭会」の頭人は、尸童・憑坐〔よりまし〕としての児童というより、小童神の現前なのである。
 かくして武神軍神たる聖徳太子にまつわる勝軍会が、かような変形を受けながらも民俗行事として持続されていることは、貴重なことである。それだけに中世太子信仰の根はまだ生きているのである。


*【秀吉朱印状】
爲在陣祈祷、勝軍会執行、可抽懇祈事、猶片桐加兵衛可申候也
  卯月十九日      秀吉(朱印)
   鵤 寺 中


*【秀吉寄進状】
以當庄内三百石付置之候。被得其意、爲惣山全可有寺納者也。仍如件
 天正八       羽柴籐吉郎
  九月朔日       秀吉(花押)
   鵤 寺

*【秀吉朱印状】
播磨國揖東郡いかるかの庄内百五拾四石三斗事、以検地之上宛行事、全可寺納者也
 文禄四
  八月廿一日      秀吉(朱印)
   鵤
    太子寺僧中





斑鳩寺 聖徳殿




御頭会 右が頭人の小童
鎌倉時代
南無仏太子像
奈良 法隆寺

平安時代 治暦5年(1069)円快作
聖徳太子童形坐像
奈良 法隆寺蔵

鎌倉時代 元応2年(1319)湛幸作
聖徳太子孝養立像
京都 佛光寺蔵



檀特山 山頂 馬蹄石


鵤荘御ぼう示石 太子町矢田部



太子投石伝説関係地図



阿宗神社 龍野市誉田町広山


*【聖徳太子伝暦】
《推古天皇六年[廿七頭朱]夏四月、太子命左右曰、求善馬。并府諸国令貢。甲斐国貢一烏駒四脚白者。数百疋中、太子指此馬曰、是神馬也。余皆被還。命舎人調使麻呂、加之飼養。秋九月、試馭此馬、浮雲東去。侍従仰観、麻呂独在御馬之右、直入雲中。衆人相驚。三日之後、廻轡帰来、語左右曰、吾騎此馬、躡雲凌霧、直至附神岳之上、転至信濃。飛如雷震、経三越竟。今得帰来。麻呂汝、忘疲随吾。寔忠士也。麻呂啓曰、意不履空、両脚猶歩、如踏陸地。唯看諸山、在脚之下》

富山県井波町
聖徳太子絵伝 瑞泉寺蔵

*【大日本国粟散教主聖徳太子奉讃】
《甲斐の国よりたてまつる/あしよつしろき黒駒に/駕してくもにぞいりたまふ/東のかたへぞいましける
 調子麻呂ばかりこそ/御馬の右にはそへりしか/人々あふぎそらをみる/信濃の国にいたります
 みこしの坂をめぐりてぞ/三日ありてかへります/日本国のありさまを/さわることなくみそなわす》(54〜56)
 聖徳太子ゆかりの地としてこの周辺にのこる民間伝承に、「太子のはじき石」という神話的な太子投石譚がある。それによれば、話はほぼ以下のようなものである。
《むかし、聖徳太子が帝から領地をもらって当地へやって来た。ところが、その土地は広山の神様の土地だった。太子が「ここは私の土地だから、明け渡せ」といったけれど、広山の神様は承知しない。なおも太子が強く要求すると、広山の神様は「それなら、石を投げてみよ。その落ちたところを境にして、土地を分けてやろう」と答えた。そこで太子は、檀特山に登ってその頂上に立ち、大きな石をエイヤーと投げた。石はブーンと大きなうなり音をたてて、南の方の海まで飛んでいった。これを見た広山の神様はびっくり仰天、これでは土地を全部取られてしまうと思い、「どうか、指先ではじいて下さい」と太子にお願いした。太子は、そこで今度は小さい石を袂に拾い集め、一つずつ手の平にのせて、ピョイピョイと指先で弾いた。これを「太子のはじき石」という。また、海へ飛んでいった石は、いま新舞子の沖にある「投石」である》
 この話は、鵤庄の境界石(傍示石・「傍」は借字、「片+旁」)の由来譚である。「播磨国鵤庄絵図」(嘉暦四年)には十二の標点が打ってあるが、それに対応するものであろう。
 檀特山というのは、斑鳩寺からみて東南の方角にある標高百六十五mの小山で、山頂からは周辺地域や播磨灘を一望できる。いまは新幹線のトンネルが貫通している。山頂に巨石あり、播磨風土記ではこれを播磨に縁が深い品太(応神)天皇国見の大見山とし、岩の窪みは応神天皇の御沓あるいは御杖の跡という。ならば、これを馬蹄石ともいい、聖徳太子の馬の蹄の跡ともいう伝説は、応神天皇伝説の反復である。
 むろん檀特山の名は、釈尊・悉達太子が宮中を出て檀特山に赴くという仏教伝説による。とすれば、ここにもう一人の「太子」が関係するわけである。いうならば、聖徳太子伝説は釈尊伝記の反復模倣としてあって、悉達太子にあるものは聖徳太子にもあるというわけである。
 この檀特山をめぐっては合戦の記録があり、応仁元年(1467)の山名勢と赤松勢の戦闘や、天文元年(1532)には斑鳩寺と朝日山大日寺の領地争いの戦があったとする。軍事的な要所だった。また、太子が海まで投げたという「投石」は、いま新舞子海水浴場(御津町黒崎)の沖(というか成山新田刈屋の側)にある岩礁のことである。檀特山からは2里ほどありそうである。
 「広山の神様」というのは阿宗(阿曽)神社(現・龍野市誉田町広山)のことらしい。本来の祭神は阿宗神(息長日子王・息長帯比売の弟)、針間阿宗君の祖である。しかし実際の境界石は中世に設置したものだから、太子の所業とは別ものだが、とにかく、太子が地主神「広山の神様」から土地を奪うというところで、民話特有の構成を示している。さらに太子の超人的な威力に対し地主神が降参するというあたりは、日本神話の国譲りの場面と基本的に同じ構造である。ただし民話はこうして中央支配に対する抵抗の痕跡を残すのである。
 上記の太子投石民話にはネタがあって、有名な播磨中世文書『峯相記』には、推古天皇のときのこととして、
《上宮太子勝万経ヲ講シ給ヘル御布施ニ当国ニ水田三百六十一町施与ス、鵤庄是也。太子御下リ有テ四方ノ堺ニ傍示ノ石ヲ埋ミ給、又寺ヲ造、斑鳩寺ト名ク。川ヲハ冨雄川ト云、山ヲハ片岡ト名ク。孝恩寺ヲハ発心力谷、檀徳力峯ト云、行道ノ峯ニ御馬ヲツナカル。其松近マテ有ケリ。又大石ヲ破テ夷賊ニ見セテ、三輪川ヨリイコマ山ヲナケコシテ播磨国ユスルノ山ニ留ト彼伝ニ見へタル、則大市ノ破巌明神是也》
とあって、太子投石伝説は太子諸伝にすでにあったようである。ここでは、大きな岩を敵に破壊して見せ、しかもそれを大和の三輪から生駒山を投げ越して、播磨の「ゆするの山」まで投げたというのである。もっと話が神話的で、その猛烈ぶりは徹底している。この投石の着地場所が『峯相記』によれば太市の破磐神社らしい。太市は古い市場で峯相山から見える下の谷にある。
 しかし、どうして太子はわざわざ山頂に馬ををつないだのか。それは「播磨国鵤庄絵図」に馬蹄石の岩あたりに「黒小馬岡」という文字があるところをみると、これは太子伝の黒駒伝説と符号するものらしい。
《推古天皇六年[廿七頭朱]夏四月、太子左右に命じて良き馬を求む。并びに諸国に府て貢しむ。甲斐国、一の烏駒の四脚の白き者を貢る。数百疋の中、太子此の馬を指して曰く、「是れ神馬也」。余をば皆還されぬ。舎人調使麻呂をして之に飼養を加へしむ。秋九月、試に此馬を馭して、雲に浮て東に去る。侍従仰ぎ観るに、麻呂独り御馬の右に在り。直に雲中に入る。衆人相驚く。三日の後、轡を廻して帰り来たり、左右に謂て曰く、「吾此馬に騎り、雲を躡み霧を凌で、直に附神岳(富士岳)の上に到り、転じて信濃に到る。飛ぶこと雷震の如し。三越を経竟んぬ。今帰来ることを得たり。麻呂汝、疲るを忘れ吾に随へり。寔に忠士也」。麻呂啓曰す、「意は空を履まずして、両脚猶ほ歩むこと、陸地を踏むが如し。唯だ諸山を看るに、脚の下に在り」》(伝暦)
 これによれば、太子は甲斐国から黒駒を得て、その天翔る神馬に乗って全国を三日で巡回したのだが、なんと富士山(附神岳)頂上まで登っているのである。『聖徳太子伝暦』は平安中期だから、そのころまでには空を天馬で駆け回る太子という黒駒伝説は生じていたらしい。
 周知の通り、親鸞の和讃「大日本国粟散教主聖徳太子奉讃」にも、この黒駒伝説がそっくりそのまま出てくるが、むろん初期真宗が太子信仰と縁が深いからである。親鸞の弟子の道場では阿弥陀仏どころか聖徳太子の像を中央に据えて拜んでいる、と他派から非難されるほどだったが、いづれにしてもそれも民衆的俗習たる広範な太子信仰を背景にしてのことである。
 かくして『峯相記』に記す檀得山の山頂に太子が馬をつないだ松があったという記事は、もとは播磨風土記の応神天皇伝説だが、平安期に至って生まれた、神馬に乗って天翔る太子という黒駒伝説によって変形されたものであろう。そこで、上述の如く「播磨国鵤庄絵図」に黒小馬(黒駒)とあるわけである。
 太子信仰の中には、太子講があって、これはとくに大工や鍛冶屋や鋳物師など職能民に縁が深い。聖徳太子は職人と固有の関係を取り結んでいる。また、聖徳太子は現代のように愛と平和のシンボルであるどころか、中世の太子信仰では、いかにも武神・軍神の性格が強かった。それは上記の通りであるが、ここに近世に入っても、張良一巻書の伝説とからんで、その名も「太子流」という兵法流派があったことに注意したい。
 太子流は望月相模守定朝を祖とする流派である。聖徳太子の軍学の奥義を悟って一流を創始したという。定朝は甲州武田氏に仕え、天正三年(1575)の長篠の戦で戦死した。伝系は、望月相模守定朝→望月三清入道安光→望月新兵衛安勝と次第し、この間、安光が会津の保科家に仕官してこれが会津へ伝わり、新兵衛の弟子の中林三左衛門尚堅以下によって会津藩では幕末までさかんであったらしい。
 望月新兵衛は貞享三年(1686)に七十六歳で歿、そこから生年は慶長十六年(1611)である。武蔵関係でいえば、宮本伊織と同じ世代である。ところが、注目すべきことは、望月新兵衛に学んだ者に山崎闇斎の名の見えることである。「太子流神軍神秘巻」(島田家本)の奥書に、こうある。
《右太子流の軍要は、明貫と云人伝来して、鬼一に伝ふ。鬼一義経に伝ふ。其後甲斐の坊、正成に伝へたり。伝ふる人は南面し、受る人は北面して聴く。昔は此の軍法を聴く者は、百日精進して授かりしが、中比より一子相伝なり。堅く秘して他に伝ふることあるべからず。是れ皆向上極意を書留る者なり。一子たりといへども、軍学成就の後に非ざれば、此の書を拝見せしむることなかれ。必々秘しても秘すべきなりと云々。
  慶安二年月日
             於会津城下写之 望月新兵衛
別に添状貴家伝来聖徳太子流之軍書都合四十九巻、就中二相大悟一巻、和漢之軍書粗歴覧之内如斯申置候儀、未嘗見及申候。右之通悉皆御相伝殊に許状印可迄被下、本望之至恭存候。恐惶謹言
             山崎嘉右衛門 敬義(判)
  重陽日  望月新兵衛様 》
 かくして、鬼一法眼から義経へという伝説的ルートを経由するものの、太子流は、「甲斐坊」下山田入道が楠正成に《太子の御軍法》を伝授したというのが一つのポイントである。楠正成は有馬温泉で療治しているとき、下山田入道と出会い、《太子の御軍法》を伝えられ、太子を尊崇するようになった。前記『太平記』にある天王寺での未来記のことは、その後のこととするのである。
 また、これによってみれば、望月新兵衛が父・安光の所持した太子流神軍秘密巻を、慶安二年(1649)に会津城下で写した。それを、山崎嘉右衛門敬義、つまり山崎闇斎に伝えたのである。とすれば、会津あるいは闇斎という繋がりを確認しておかねばならない。
 山崎闇斎(1618〜1682)のことは周知の通りである。この人もはじめ仏僧になり、その後土佐で野中兼山らと出会い、還俗して朱子学者になったと思うと、いわゆる「垂加神道」を創始するようになったのである。闇斎の崎門派は多くの俊才を出した。闇斎と会津との縁は、闇斎と保科正之の関係による。
 ちなみに、闇斎は京都生まれである。しかし闇斎の山崎姓は、木下家定に仕えていた祖父浄泉が播州山崎村(宍粟郡山崎町)の生まれであることから、二十九歳のとき父のすすめで山崎姓を名のるようになったとのことである。かような次第で、山崎には、昭和15年創建の山崎闇斎神社(山崎町鹿沢)がある。闇斎も播州所縁の人なのである。
 山崎闇斎は近世神道思想の大きな道標である。闇斎の垂加神道を経由して、太子流がどのように変形したか、それは不明であるが、玉木正英をその出口とみれば、その橘家神軍伝と対照するとき、ブラックボックスの中身はある程度までわかるだろう。少なくとも望月新兵衛の太子流神軍秘密巻は、仏教的でとくに浄土教の色彩が濃厚だが、まだ神道的語彙は稀である。それに対し橘家神軍伝の方は神道への傾斜が顕著である。いづれにしても、神道と兵法の結合は近世的な様相である。



*【太子流系譜】
 
○望月相模守定朝─┐
┌────────┘
└望月三清入道安光─望月新兵衛安勝┐
┌────────────────┘
├望月安春─長坂光珍┬中沢信有
│         ├笹原忠一
├津田助五郎朝常  └笹原忠光→

├長野業孝─長野業嘉─安藤三太夫

├中林三左衛門尚堅─浦野直勝

├広田勝美─遠山直俊─遠山直好→

└山崎闇斎─清水小兵衛─岡田又左衛門┐
 ┌────────────────┘
 └玉木正英(橘家神軍伝)


*【太子流神軍神秘巻】
《 三、彼立の彼立 厭離穢土、欣求浄土
此厭離穣土・欣求浄土と云二句を以て、日本に仏法は軍法の父母とす。故に太子伝に武士は軍門の出立に、東に向て二句を口ずさみ、元日節日に心これを口づさむ。これを武道の父母に一礼すと云。扨達て大師本朝に来臨ありて、大和国片岡山にいねますを知らず。然るに太子是を知り玉に、御歌に
  しなてるや片岡山の飯に飢て
     ふせる旅人あはれおやなし
と有しとき、化人の御返歌に
  いかるがやとみの小川の総ばこに
     我大君のみなはわすれめ
とあり。其後大師登天し玉ふ。御歌の心深しと云も、有り難き歌とも云べき。口なしとて楠は門出に此歌を吟じて、軍神に礼拝有しとぞ。心あらんこと誠に疑なし。前にも云ふ彼立足に非れば、勝の体なし。然るに彼立の彼立とは有難き教なり。たとへば勝負は敵味方ともに勝色・負色一息の内に替る者なり。無二無三に敵に掛り切立勝たるとき、必ず気たるむ者なり。爰を討たるれば、味方乱足と成て負る者なり。是を以て彼立の上又彼立なれば全き勝となる。兵法軍法に残りを討と有るは、少しのたるみのある処を云。故に世々の名将此心を得玉ふは、全き勝を得、此心なきは勝負半なり。太子の軍は実に爰に決定す。欣求浄土と云にて其透〔すき〕少しもなきことを知れ。軍は其相大なれば容易に知がたし。只常平生のことを以てしれ。たとへば何事にても、仕始める時の心は強くても、少し仕馴てくると心にゆるみが出るものたり。爰にてよくよく勘得せよ。一事を以てもよくしれ。軍は常住なりと太子の堅く定め玉ふ。平生に替ることあらず。只常を以て知ること肝要なり、況んや軍は生死の境、人の好む所に非ず。一軍の諸勢くたびれ気つきたるとき、大将此心なくして少しの穢あれば、大だるみとなるなり。勝ても甲の緒をしめよと云も、此意を伝へたることなり。此時下の痛を少しもかばうことなかれ。勝負のことは千々万々多しといへども、つまりつまりては是が大極上なり。此外に何事か有んや。爰にて軍のそこをぬくなり。深く脾の臓に納めて、日夜の事によそへて感得せば、其心を得る人あらんか。我心よりして是を得ざれば、我物とならざるたり。唯々感得にしくはなし》

飛鳥時代・7世紀
国宝 七星剣 伝聖徳太子所佩
大阪 四天王寺蔵


 さて、太子流軍法まで話は行ってしまったのだが、ここで一応確認しておきたいのは、聖徳太子は、物部守屋征討の事蹟により、中世、武神軍神として武家の伝説的モデルとなっていたこと、戦勝祈願の勝軍会が斑鳩寺で行なわれたように、太子は軍事と縁が深いこと、楠正成伝説に代表されるごとく、太子信仰は武士発生と関連があること、そして太子流にみる如く「太子の軍法」という兵法伝承まであった、ということである。
 こうした軍神としての聖徳太子、という局面において、「聖徳太子と宮本武蔵」という一見かけ離れた二人の人物には結節点がある、ということになる。天正十二年、豊臣秀吉が斑鳩寺で勝軍会を執行させた年、宮本武蔵がその近所に生まれたとすれば、これもまた、何かの縁なのである。
 そして、聖徳太子と宮本武蔵は無関係ではなかったのである。つまり、宮本武蔵という存在が出現する地域的歴史的環境条件のひとつが、太子信仰にあるということである。

悪党――中世戦国武士の発生
 武蔵は『五輪書』に「生国播磨の武士」と記している。この播磨の武士という字句に拘ってみれば、中世戦国武士発生の歴史というきわめて興味深い地点に行き着くのである。
 しかも、宮本村が属する同じ揖東郡内に、我々の企図する中世武士起源論の現場が存在した。以下は、これもおよそディープな探訪となるので、とくに御用とお急ぎでない方向けの話である。

 ところで、ここで話題にするのは、上記の斑鳩寺に伝わったある文書のことである。つまり、中世史家が一時期こぞって取り上げて語った「悪党」の時代、その悪党の記事を有する文献である。
 ここまで云えば、お気づきの人があろうが、かの『峯相記』〔みねあいき〕のことである。その最古の写本が、ここ斑鳩寺から出たのである。
 本書『峯相記』については、『続群書類従』(釋家部)、『続史籍集覧』(第一冊)、『大日本佛教全書』(寺誌叢書第一)に収録されていて、すでに学界で早くから注目されてはいたが、もともとは元禄期の劔持見立の峯相記註釋本(微考)がその発火点である。『播磨鑑』の平野庸脩も、この劔持の著書を見ている。
 しかるに、斑鳩寺本はこれより杳かに遡る永正八年(1511)の写本で、現存写本としては最古のものである。これによって、続群書類従本など異本に脱漏あることが知られる。したがって斑鳩寺本は『峯相記』におけるもっとも重要なテクストなのである。
 この斑鳩寺本の影写版は、すでに戦前、魚住惣五郎『斑鳩寺と峰相記』(昭和十八年・全国書房)に収録刊行されている。しかるに、脱漏ある続群書類従本に拠った論文が今なお生産されるについては、注意を喚起すべきであろう。
 斑鳩寺本奥書によれば、比丘慶紹という人が、書写山別院定願寺で、岡元坊本を写したと記している。この慶紹なる人物は、まったく不詳である。
 ところで『峯相記』は、冒頭に《貞和四年十月十八日播州峯相山鶏足寺ニ参詣ス》とあるごとく、貞和四年(1348)に著者が播州峯相山鶏足寺に参詣した折のこと、旧知の老僧とそこで遭遇し、物語問答するという体裁である。著者名は不明であるが、本文から、浄土宗の僧で文学的素養ある者と知れる。
 さて、この峯相山が本書『峯相記』の名の由来となるが、多数の伽藍僧坊を有したという鶏足寺は、廃寺となって現在は峯相山上に若干の遺構を残すのみである。
 『播磨鑑』は峯相山鶏足寺を、揖東郡の寺院筆頭に記述し『峯相記』を引用している。峯相山は、太子町の斑鳩寺からすると、北方約五kmにある山である。現在地名では、姫路市石倉の背後の山がそれである。







峯相記 冒頭



峯相記 末尾
永正8年(1511)比丘慶紹写本


*【峰相記奥書】
《永正八天辛未二月七日於書寫山別院定願寺以岡元坊本如形寫之畢文字不審多之本ノマヽ書寫者也。
  南無阿弥陀仏々々々   比丘慶紹》



*【峰相記】
《又天徳年中揖保郡ニ勇健ノ武士一人侍リキ。弓箭ヲ先トシ、土龍ニ乗テ強力熾盛ニシテ、甲冑ヲ帯シ大洪水ニモ揖保川ヲ馳セ渡リ、東西ノ山頂ヨリ須臾ニ往来ス。多ク勇士ヲ相ヒ語ヒ、賊徒ヲ召従テ、郡内國中、彼ノ威ニ憚テ恐レ随ハサル輩ナシ。剰へ西國運上ノ年貢、上載、官物ヲ押止ス。旅人モ通セス、商賈モ道絶ヌ。西ノ上、嶮難ノ峯ニ城ヲ構へ、隠謀ノ企テ聞ユル間、内山大夫、栗栖武者所、大市大領太夫、白國武者所、矢田部石見郡司等ヲ國ノ案内者ニテ、藤将軍文修ヲ差下テ、終ニ誅罰畢。其ヨリ彼山ヲ城山〔きのやま〕ト名ク。仍〔て〕文修将軍當國ノ押領使ヲ給、云々》

 さて『峯相記』を閲てみると、有名な「賀古の明信」の事蹟を記した後に、続いて興味深い伝説記事がある。
 天徳年中というから、村上天皇の代、10世紀半ばのことである。平将門や藤原純友の反乱があったのが、承平天慶年間とすれば、それより20年ほど後のことである。
 揖保郡に勇健の武士が一人あって、《土龍ニ乗テ強力熾盛ニシテ甲冑ヲ帯シ、大洪水ニモ揖保川ヲ馳セ渡リ、東西ノ山頂ヨリ須臾ニ往来ス》とある。土龍というのは、龍を土で象って雨乞儀礼で使ったものとされるが、ここでは自らをあたかも龍に乗ったごとく演出したものか。いづれにしても水神神話と関係がありそうである。
 そういう土俗宗教的カリスマなのだろうが、《多ク勇士ヲ相ヒ語ヒ、賊徒ヲ召従テ、郡内國中、彼ノ威ニ憚テ恐レ随ハサル輩ナシ》とあるところから、彼はかなり大勢の武士を組織し、この地方を支配したもののようである。
 しかも、中央へ輸送する年貢や官物を差し押さえて奪い、《旅人モ通セス、商賈モ道絶ヌ》とあるのは、おそらく関所を設けて交通を支配したのであろう。この付近は西国街道の要所である。
 かくして《西ノ上、嶮難ノ峯ニ城ヲ構へ、隠謀ノ企テ聞ユル》とあるのは、山城を築いてそれを根拠地とし、中央政府に対し事を構える気配となったということである。
 要するに、中世戦国の世では普通になった地方自治事業が、当時中央政府への反乱とされたというにすぎないが、ここで看過すべからざることは、この天徳年中の揖保郡に発生した「勇健ノ武士」こそ、後の「悪党」の起源であったことである。
 ところで、播磨の悪党横行の有名な記事は、『峯相記』の終りの方に出てくる。
 すでに述べたように本書は、筆者の問いに老僧が答えるという体裁であるが、ここではまず筆者が問う、「諸国どこも同じ事とはいえ、当国播磨はとくに悪党蜂起で有名です。これは、いつのころから流行するようになったのですか」。これに答えて、老僧は次のように語るのである。
 ――その昔、上岡(神岡)荘・高家荘などの荘園で利権をめぐる抗争(所務相論)があったが、それでも、これほどムチャなことは起きなかった。ところが、十四世紀初めの正安・乾元のころ(1299〜1303)から、目に余り聞くにたえない事件が起きるようになった。荘園各所での乱暴狼藉、浦々の港での海賊、寄取(掠奪)・強盗・山賊・追落(占領強奪)などが、絶え間なく起きるようになった。
 かくして、ここからが有名な部分だが――連中は、《異類異形ナルアリサマ、人倫ニ異ナリ》という風躰である。今でいえば、あっと驚くようなパンク・ファッションなのである。
 現代のパンク・ファッションが派手だが粗末なものであるように、具体的には、柿染めの赤い帷(柿帷)に六方笠、烏帽子袴を着用するという具合である。そうして、人と顔を合わさないように人目を忍ぶ様子で、さまざま不揃いな竹製の矢籠(高シコ)を背負い、太刀は柄も鞘も色のはげた代物で、手には竹の長柄や撮棒・杖(もしくは才宝杖)しかもたず、鎧や胴着(腹巻)を着用するほどの軍装などまったくない。――要するに、悪党たちは最初、異類異形のこのような粗末な身なり装備で登場したのである。
 こういう連中が十人二十人と集団を組んで、城にたて籠ったり、あるいは反対に寄手に加わったりするが、敵方の引入れや裏切り(返り忠)を旨としていて、約束など一向に気にしない。賭博(博打博奕・ばくちばくえき)を好んで、コソ泥(忍び小盗)を仕事にしている。幕府の命令、守護の取締りにもかかわらず、日を追ってこんな連中がどんどん増えてきた。
 そこで元応元年(1319)春、幕府は山陽道・南海道のうち十二ヶ国に鎮圧のための使者を派遺して悪党の撲滅を図る。こういうことは、当時は京都に設置された出先機関が行なう。朝廷公家の監視や西国の政務を管掌したいわゆる六波羅(探題)なのだが、これに五条を境に北方・南方あり、北条一門から派遣された。元応元年のころは、北方は北条時敦、南方は北条維貞である。
 『峯相記』によれば、治安対策の使者として播磨に派遣されて来たのは、飯尾兵衛太夫為頼・渋谷三郎左衛門尉・糟屋次郎左衛門尉・守護代周東入道という名の関東の御家人らである。ここまで書いた史料は他にみない。またこういう名を記すところをみると、『峯相記』はかなり行政に詳しい者が書いたとみえる。
 使節の彼らは、播磨の地頭・御家人から起請文を出させて今回の鎮圧に協力させた。鎮圧軍は、各地の城郭や悪党の在所など、20数所を焼払い、その場にいた犯人は誅殺したが、始末できなかった悪党はまだ五十一人も残ったので、その名を注進し播磨を離れ上洛した。
 しかし、こんなことでは問題は片づかなかった。《國中地頭御家人等ニ仰テ厳密ニ可召捕由、御教書ヲ成サレシカトモ、其實ハ無シ》。悪党を召捕えるようにと、播磨国中の地頭・御家人らに厳しく六波羅から命令書(御教書)が出されたが、実際には効果はなかった。これは播磨の地頭・御家人らのサボタージュに遇ったということである。
 そういうわけなので、また、名ある武将を使者として派遣し、地元の地頭・御家人を治安部隊に編成して、明石と投石〔なげいし〕の両所を警固したので、数年間は平穏になった。……しかし、このあたりはこれまで中世史家らはあまり注意していないが、実は読むに難所なのである。明石・投石の二箇所を警固するとはどういう意味なのか。
 結論からいうと、この警固は陸ではなく海のことではないか。この「明石」は明石郡の明石浦あたり、要するに明石海峡である。もう一つの「投石」は、上述の太子伝説にあった揖保郡の投石(現・御津町黒崎)で、これは家島群島との間の瀬戸内海路に関わるポイントである。投石が岸に近い岩礁であったように、明石も赤石という岩礁の名に由来する。
 そうしてみると、これは海事関係、つまりは海上警固の話なのである。『峯相記』というと、陸の悪党ばかりが語られてきたのだが、このように海賊のことも言及されていることにもっと注意される必要があろう。こと瀬戸内に関しては、陸の悪党と海の海賊との結合があり、両者の広域ネットワークが存在したのである。
 ともあれ、その後の文脈からすれば、これは六波羅南方の北条維貞(1285〜1327)が推進した対策であったようだ。維貞の父は、執権・北条宗宣、維貞の六波羅在任期間は、正和四年(1315)から正中元年(1324)で、鎌倉へ歸ってのち維貞は、評定衆、連署を歴任する。『峯相記』に「奥州維貞」とあるのは、維貞に陸奥五郎の通称があったからである。
 かくして、この北条維貞が鎌倉に帰ったあたり、正中元年(1324)から悪党がさかんに蜂起するようになり、《正仲、嘉暦ノ比ハ、其振舞先年ニ超過シテ、天下ノ耳目ヲ驚ス》という事態になったのである。


峯相記 悪党記事部分

*【峰相記】
《問云ク、諸國同事ト申ナカラ、當國ハ殊ニ悪黨蜂起ノ聞へ候、何ノ比ヨリ張行候ケルヤラム。
答云、其故上岡高家等ニ所務相論ノ事共候ケレトモ、サノミ無理ナル事ハ候サリケルヤラム。正安乾元ノ比ヨリ、目ニ餘リ耳ニ満テ聞へ候シ所々ノ乱妨、浦々ノ海賊、寄取、強盗、山賊、追落シヒマ無ク、異類異形ナルアリサマ、人倫ニ異ナリ、柿帷ニ六方笠ヲ着テ、鳥帽子袴ヲ着ス。人ニ面ヲ合セス忍タル躰ニテ、數々不具ナル高シコヲ負ヒ、ツカ、サヤ、ハゲタル大刀ヲハキ、竹ナカエ、サイハウ杖ハカリニテ、鎧腹巻等ヲ着マテノ兵具更ニ無シ。カヽル類十人二十人、或ハ城ニ籠リ寄手ニ加ハリ、或ハ引入返リ忠ヲ旨トシテ、更ニ約諾ヲ本トセス。博打、博エキヲ好テ、忍ヒ小盗ヲ業〔ワザ〕トス。武方ノ沙汰、守護ノ制ニモカヽハラス、日ヲ逐テ倍増ス》


京都 清涼寺蔵
これが異形異類?
融通念仏縁起絵巻 部分



*【峰相記】
《然間元應元年ノ春ノ比、山陽南海ノ内十二ケ國へ使者ヲ遣シ、當國分ニハ飯尾ノ兵衛大夫爲頼、澁谷三郎左衛門尉、糟屋次郎左衛門尉、守護代周東入道、相共ニ地頭御家人ノ起請ヲ以テ沙汰有ル間、所々ノ城廓、悪黨ノ在所二十餘ケ所焼拂、現在セル犯人誅セラレ、悪黨五十一人注進シテ上洛、國中地頭御家人等ニ仰テ厳密ニ可召捕由、御教書ヲ成サレシカトモ、其實ハ無シ。亦有名ノ仁ヲ兩使ニ定メ、地頭御家人ヲ結番シテ、明石投石〔ナゲイシ〕兩所ヲ警固セラルヽ間、兩三年ハ静謐ノ由ニテ有シカトモ、奥州惟貞下向ノ後、弥蜂起シ、正仲、嘉暦ノ比ハ、其振舞先年ニ超過シテ、天下ノ耳目ヲ驚ス》



播磨郡地図

*【峰相記】
《吉キ馬ニ乗リ列レリ、五十騎百騎打ツヽキ、引馬、唐櫃、弓箭、兵具ノ類ヒ、金銀ヲチリハメ、鎧腹巻テリカヽヤク計也。論所ニ非サレトモ、本人ノ方人〔カタフト〕ト稱シテ、所々ヲ押領シ、黨結ヒ契約ヲ成シ、与力契号ノ類等、城ヲ落シ城ヲ構フル。故實屏ヲ塗リ出シ矢倉ヲカキ、ハシリヲツカヒ、飛礫ヲナケ、勢樓モタテ、屏風楯箱楯、竹ヲヒシキ、皮ヲノヘ、種々ノ支度ヲ廻シ、無盡ノ方便ヲ構へ、如此ノ輩、多ハ但馬、丹波、因幡、伯耆ヨリ出来ノ間、兼日ノ賄賂〔マイナイ〕ヲハ山コシト稱シ、後日ノ属託〔ソクタク〕ヲハ契約ト号ス。人目ヲ憚リ恥恐ルヽ気色更ニ無シ。武士ヲハ腹切カ黨、縦ヒオノツカラ恥ヲハ知レトモ、軍陣ニオヒテハ沙汰ノ外ト稱誉スル間、警固ノ守護モ彼ノ権威ニ恐レ、追罸ノ武士、還テ憚ヲ成ス。仍、追捕、狼籍、苅田、苅畠、打入、奪取リ、結句ハ残ル庄薗アルヘシトモ見ヘス。偏ニ虎狼ニ肩ヲ並へ、龍蛇ニ座ヲ交ヘタルカ如シ。上載ハサマテ濁ラシ。ナレトモ、或ハ賄賂ニ滞リ、或ハ勇威ニ憚ルカノ間、御下知成敗用サルニ科ナシ。御教書催役イタツラニ魚網ヲ尽ス。國中ノ上下過半、彼等ニ同意スル間、廉直ノ才士、神妙ノヤカラ、耳ヲ押へ目ヲ塞テ旬ヲ亘ル處ニ、ハタシテ元弘ノ重事出来ル。併此輩カ所行、武家政道ノ過失也》




播磨周辺諸国地図



峰相山上の鶏足寺跡
 状況は、五〜六年のうちに急激に変化したらしい。それまでは異形異類の風体で、粗末な武装しかなく、人目を忍んで窃盗などしていた悪党たちは、今や立派な馬に乗って五十騎百騎と連ねるようになり、その道具兵具は金銀を散りばめ、甲冑は照り輝くほどである。こういう、これ見よがしの派手さは、これ以後の武士の行動様式となる。
 しかし、ここで注意すべきは、こういうリッチで派手なファッションは、さきの「異形異類」のそれとはまったく違っていること、それを『峰相記』が強調していることである。ところが、近年の杜撰な読みによれば、「異形異類」という言葉のインパクトに目が眩んで、すでにリッチで派手な扮装に変化したのに、悪党のファッション=異形異類と勘違いしているものがある。中世史研究者に散見される間違いだが、ここで注意を喚起しておく。
 ところで、悪党がどうしてこんなにリッチになったかというと、合法的手段というよりも、暴力的に簒奪する非合法なもの、たとえば、係争中の土地(論所)でもないのに、所有者の味方・代理人(方人 かたうど)だと称して、武力で各地の土地を押領するというやり口である。
 彼らは党を結成して契約を結び、同盟関係にある武装集団で城を攻め落としたり、城を築いている。その城たるや、古実に則って塗り塀に櫓をかく(舁く・のせる)、そして《ハシリヲツカヒ、飛礫ヲナケ》、つまり城砦から走り木を落としたり飛礫を投げる中世的戦法である。物見のための井楼(勢樓)を建て、屏風楯・箱楯など竹や皮で作り、あらゆる防御手段を備えたものである。
 このような連中は、多くは但馬・丹波・因幡・伯耆から来ている。つまり、悪党の構成員はかなり広範囲から集まっており、彼らの高い地域流動性を証言している。彼らは賄賂を「山コシ」、後日の嘱託を「契約」をいうとか、独特なスラングを使っていたらしい。
 彼らの行動様式は、《人目ヲ憚リ恥恐ルヽ気色更ニ無シ》である。武士は体面名誉のために腹を切る集団であるが、たとえ恥だと知っていても、そこはそれ、軍陣にあっては例外だと、むしろ稱誉するというぐあいである。
 そういう武士の道徳規範など無視する連中なので、治安に当たる守護も、彼らの威勢に恐れをなし、追討の武士は彼らと戦おうとはしない。そのため彼らは、誘拐(追捕)、暴行(狼籍)、田畠の作物を勝手に刈取り(苅田・苅畠)、襲撃(打入)、掠奪(奪取リ)を繰り返し、被害を受けない荘園はあるともみえない。これでは、虎や狼といった猛獣のそばにいるようなもの、毒蛇(竜蛇・コブラ)といっしょにいるようなものである。
 昔はこれほどまではひどくはなかった。ところが、今や、治安にあたるべき武士たちは、連中から賄賂を受けたり、彼らの勇威に恐れをなしているのだが、《御下知成敗用サルニ科ナシ》、つまり、命令通り処罰しなくても罪になることはない。守護御家人たちは本気で取締らない。悪党退治の効果があがらないので、幕府から催促の命令書(御教書)が次々に出て、魚をとる網ですくえるほどである。
 播磨の国中の上も下も過半が悪党の味方についてしまったので、まじめな人々や素直な者たちは、耳をふさいで何も聞かないようにし、目をつむって何も見ないようにして、日々を送っているうちに、元弘の重大事(1331年の後醍醐天皇による倒幕計画失敗)が起こったのである。
 しかし、《此輩カ所行、武家政道ノ過失也》、悪党どもの所行の原因は武家政道の過失にあるというのが『峰相記』(の老僧)の論評である。『峰相記』のポジションは、むろん荘園に依拠する旧勢力たる寺僧であり、一貫して保守的な視点から悪党の発生を、批判的にというより、否定的に語っているのだが、それだけに話が具体的でおもしろい。この悪党の記述内容に関する限り、『峰相記』を踰える中世史料は存在しないと言ってよいだろう。
 ――ということで、いったん話は仕舞いかけたのだが、かの有名な悪党を語る対話の舞台、峯相山を案内せよという、これまたマニアックな要請があって、[サイト篇]としては案内せざるを得ないという仕儀なのである。
 そもそも、鶏足寺というのは、釈迦弟子の迦葉入滅の地、インド伽耶城の鶏足山に似ているところから、その名があるということで、『峯相記』によれば、神功皇后が三韓派兵のおり、新羅の王子を伴って帰朝し、帰途、王子をここに留め、北の山に草庵を結んで十一面観音を設けたのが起源という。古い話である。
 しかし、すでに述べたように、峯相山鶏足寺はすでに廃寺となって久しい。それゆえ、行っても何もないはずである。しかし興味深いのは、その廃寺の事情である。
 これについて『播磨鑑』を参照するに、天正年中に六七坊がなお残っていたが、ゆえあって地元大市の郷民が一党して、堂社佛閣をことごとく焼打ちにして破却したということのようである。
 これは看過できない由々しき話で、なぜそうしたのかというと、『播磨鑑』は次に「劔持翁聞書」という書を引用して、峯相山鶏足寺は秀吉に叛逆したので、大市の郷民へ小寺氏から命令して、天正六年八月十日、寺を破却させた。傘に火をかけて坊舎を焼く、という記事を収録している。
 天正六年八月というと、秀吉の播磨制圧の最中である。三木城の別所長治を中心に反織田方の抵抗勢力は残っていた。そういう状況で、この峯相山鶏足寺も抵抗勢力の一つであり、それゆえ焼打ちにあったものらしい。
 しかし、それも、秀吉の手先をつとめる小寺(黒田)官兵衛が、山麓の太市の郷民に命令して焼打ちさせたという話である。とすれば、太市の郷民は本来領主たる鶏足寺を自身の手で破却させられたというわけで、これは屈服の証を求められ、やむなく郷民はそうしたということのようである。
 前述の太市の破磐神社には「奉点灯祭」という祭が八月十五日にあって、これは大松明を床にたたきつけ合うもので、秀吉に逆らって焼討ちで殺された峯相山鶏足寺の僧らを供養するために始まったというから、本来はいわば贖罪の祭りである。
 かくして、長い伝統をもった峯相山鶏足寺は、破壊され廃寺となった。そういう事情であるから、廃寺となって四百年、峯相山には若干の遺構を除いて何かあるわけではない。
 峯相山は山岳仏教の根拠地であったが、仏教以前、もともとは古代の霊地であったようで、特異な三角形状の西の峰を風早嶺と称し、亀岩・神岩・大黒岩と呼ばれる奇岩が山上にある。これらを磐倉とする太古の山岳信仰があったものと思われる。現在は登山道も整備され、地元のハイカーなら周知の山である。


*【播磨鑑】
《揖東郡大市郷峰相山鶏足寺者、及天正年中、六七坊猶残。有故、大市郷民一黨而、堂社佛閣悉焼失。或記評曰、今考之山上狭而、諸堂伽藍如此可作無地、縦令近村造営共、三百餘坊不可及、誇説也》

*【播磨鑑】
《一 峰相山焼失之事。[劔持翁聞書曰]羽柴家ニ叛キ、、大市郷民ニ仰セ、小寺氏ノ下知トシテ破却ス。傘ニ火ヲカケ、坊舎ヲ燒ク。[松林坊覺榮、東覺坊隆永、曼陀羅坊覺惠、大日坊海誓、普門坊道仙、多門坊榮照、万松坊某]》



奉点灯祭 破磐神社



風早嶺(とんがり山)


峰相山案内図

峰相山近隣図

風早嶺の神岩
 峯相山へ行くには、白鳥台という住宅地が目印である。ここまで姫路駅からバスがあるので、それを利用するといい。白鳥台から峯相山に登る自然遊歩道があって、風早嶺(通称とんがり山)まで含めて、1時間ほどで回れる。
 車で行く人は、山陽自動車道の姫路西ICで下り、そのまま国道29号との交差点まで出て、白鳥台を通り、打越まで行く。あるいは、姫路市内からだと、山陽自動車道下の六角という交差点まで行って、打越へ入る。そのあたりに「太陽公園」という案内看板があるから、それを頼りに行けば駐車場があるから、そこに車をおかせてもらう。そして白鳥台から山へ登る。
 しかし、この峯相山へ来たついでに、その近所で、もっとディープなスポットを求める人には、知る人ぞ知る説明不可能な奇怪な場所がある。それが、峯相山の東麓にある太陽公園(姫路市打越)なるスポットである。車で行ってここに駐車させてもらった人は、義理もあるから入場されることをすすめる。
 これは私設の公園で、オフィシャルな観光案内には紹介されていないし、たぶん地元播磨の人々もほとんど知らない場所である。ここに何があるか、それは見てのお楽しみであるが、パリの凱旋門に始まり、ニューヨークの自由の女神、エジプトのピラミッド、北京の天安門、万里の長城(現在2kmまで完成)と、世界の名所は何でもござれ、とくに圧巻は始皇帝墳墓の兵馬俑千体の居並ぶところである。
 そしてここには「鶏足寺」なる建物まで造ってしまっているが、もちろん、本来の峯相山鶏足寺とは無関係である。それよりも、肝心の歴史的文化財たる峯相山に、メキシコのなんとか遺跡を模造建設したり、万里の長城をはせ登らせる勢いをみれば、顰蹙する市民がいて、これまたむべなるかな、である。
 しかし、ここがディープなスポットたるゆえんは、これがある個人のマニアックな趣味の産物というだけではなく、まさに各種社会福祉施設とセットになっているということの奇怪さであり、また社会福祉事業がなぜこうしたマニアックな建造物の建設資金を生み出すのか、そして監督官庁にこれを看過せしめているのもミステリーと言わざるをえないからである。
 それゆえ、この太陽公園の常既を逸したセンスには、どことなく悪党的な風味があり、ディープなスポットを求める武蔵マニアには、凱旋門手前の、福祉施設入所者が門番をしている入口で払う入場料五百円は安いものであろうと思うのであるが、いかがか。

峯相山石倉登山口













 以上のように、中世史悪党論で有名な『峯相記』の峯相山を訪ねたのだが、では、そもそも「悪党」とは何か、どういう存在なのか。これは次のような多様な様相をもつと解される。
  (1) 山賊・海賊・強盗・掠奪者などの犯罪集団
  (2) あぶれ者・浮浪者など非定住の集団
  (3) 社寺に関係する職人芸能集団、あるいは非人集団
  (4) 足軽・野伏など合戦のさいに雇われる職業的戦闘集団
  (5) 領主・地頭による既成支配秩序を撹乱する在地武装勢力
  (6) 国郡の範囲を越えて組織された大きな武装勢力同盟
 ただし、悪党について語られるこうした存在規定が、時代の前後、組織規模の大小の差異があろうし、またこれらが境界の明らかな分類ではなく、むしろ複数の混合した様相をもっていることに注意したい。
 第一に、おおむね現代社会でも同じことだが、法支配の秩序を撹乱する集団が悪党なのである。ところが、もしその「悪」が宗教道徳上のカテゴリーであるなら、それは殺生を生業とした人々のことである。山野河海の狩漁民がそれである。「悪」とは、殺生の罪をものともせぬその猛々しく荒々しい側面を指している。武士の起源を狩猟民とする説は昔からあるが、そもそも武士は歴史的に絶えず「発生」してきたわけで、殺生を生業とする集団は武士の不断の発生源である。
 また『太平記』にはしばしば「溢者」と呼ばれる者が登場する。あぶれ者である。これが非定住民で、たとえば『平家物語』に《いふかひなき辻冠者原、乞食法師》という集団である。これが一種の宗教賎民で、有名社寺に隷従するとともに諸国を渡り歩く集団である。これについては、折口信夫*にユニークな所説があり、山ぶし・野ぶしという言葉が「武士」の語源だという。
《此山ぶし・野ぶしと言ふ、平安中期から見える語には、後世の武士の語原が窺はれるのである。「武士」は実は宛て字で、山・野と云ふ修飾語を省いた迄である》(国文学の発生 第四稿)
 この説のおもしろいところは、山ぶし・野ぶしという言葉が引き算ができる語であるというだけではなく、「ぶし」は最初は「武士」ではなく、非定住の宗教者集団を意味する語であって、通例「武士」という文字を書くのは当て字であることを示唆する点である。この語源論から存在の発生が導かれ、山伏・野伏といわれる存在から武士が発生したというわけである。とすれば、あぶれ者、非定住民の集団から武士は出てくるのである。
 折口信夫は山伏・野伏について、《結局は大抵、社寺の奴隷団体を基礎としたものであつた》という。そうした諸国を遍歴する芸能職人集団はまた武装集団でもあったというのが中世的光景である。のちに武芸者が何十人という弟子を連れて廻国遍歴するという場面は、彼らがそうした中世的な浮浪集団の習俗を維持していたということであろう。
 ただし、折口信夫説の「ぶし」に一元的に還元出来ない様相もある。上記の『峯相記』の記事から程近いころ、周知の通り、『太平記』の山崎合戦の記事に、赤松円心が三千余騎を三手に分つという有名なくだりがあり、そこに「足軽」「野伏」「混する打物の衆」という名の武装集団が出てくる。
 足軽というのは、近世の意味ではなく、ここでは臨時の傭兵のことである。足軽の射手というのがよく出てくるところをみれば、これは弓を得意とする職人集団であろう。ただしこれは臨時に雇われるので、主従関係の外にある集団である。また、「混(ひたたく)する打物の衆」というのは、思い思いに多様雑多な武器を手にした連中、という意味である。あるいはごった煮の混成部隊とでもいうか。
 それと、もう一つは「野伏」である。これも「野武士」と解するのは誤りで、折口信夫のいう「山ぶし・野ぶし」の類である。つまり社寺等の宗教施設を背景にした武装集団である。これは《はかばかしからぬ野伏共に目を懸て、骨を折ては何かせん》とあるように、「はかばかしくない」、つまり本格的な正規軍ではない武装集団である。
 ようするに赤松円心が組織した軍勢は、幕府の六波羅勢のような正規軍とはまったく正反対の、寄せ集めの雑多なゲリラ的武装集団なのである。「足軽」「野伏」「混する打物の衆」という分類はゲリラ的分類である。あるいはレヴィ=ストロース風に云えば、野生の、ブリコラージュ的戦闘集団である。赤松円心が組織したこうした集団は、いわゆる悪党の内実を示すものである。
 こうしたゲリラ的戦闘集団に、六波羅の正規軍が敗北する。かつての東国武士も地に堕ちたもので、いまや西から蜂起してきた赤松の非正規軍に敵し得ないのである。こういう新興武装勢力の代表は、むろん楠正成であり、こちらは河内から出た武装集団である。彼らが組織した戦闘集団の中身をみればわかるが、楠も赤松も悪党の頭目として出現したのである。
 もちろん宗教施設・権門社寺は領主であり、しかも武装集団をかかえていた。また諸国地方に散在するそれぞれの荘園には代官をおき、彼らが荘園経営の実務をを執行するだけではなく、また武装して荘園を防衛する集団を組織した。荘園経営を専門に請け負う者があったのである。彼らは各地にチェーンを展開した。
 それに限らず、一般に荘園経営をめぐっては、地方に武装集団が無数に簇出する状況であった。それらが力をつけ自治領域を確立するに従い「悪党」と呼ばれるようになる。そういう意味では、反秩序的存在としての悪党は、幕府や荘園領主に抵抗し、あるいは敵対する集団である。しかしさらに、それらが掃討しうる勢力でなくなったとき、彼らに地方支配を委任するという形態が生まれ、いわば悪党は悪党でなくなるというわけである。








*【折口信夫】
《今一つ声聞身出自の一流派に属する団体がある。其は修験者とも、山伏し・野伏しとも言うた人々である。(中略)鎌倉時代になると、寺の声聞身等が、優婆塞姿であり、旧来の行者同様、修験者の配下について、此方面に入る者も出来た事は考へられる。山伏しになつた中には、陰陽師と修験者とを兼ねた、ことほぎ・禊ぎ・厄よけ・呪詛などを行ふ唱門師もあつた事は疑ひない。此方面に進んだものは、最、自由にふるまうた。
 此山ぶし・野ぶしと言ふ、平安中期から見える語には、後世の武士の語原が窺はれるのである。「武士」は実は宛て字で、山・野と云ふ修飾語を省いた迄である。此者共の仲間には、本領を失うたり、郷家をあぶれ出たりした人々も交つて来た。党を組んで、戦国の諸豪族を訪れ、行法と武力とを以て、傭兵となり、或は臣下となつて住み込む事もあつた。そして、山伏しの行力自負の濫行が、江戸の治世になつても続いた。諸侯の領内の治外法権地に拠り、百姓・町人を怯かすぱかりか、領主の命をも聴かなかつた。其為、山伏し殺戮がしばしば行なはれてゐる》
《すつば、又、らつぱといひ、すりと言ふのも、皆かうした浮浪団体又は、特に其一人をさすのであつた。新左衛門のそろりなども、此類だと言ふ説がある。口前うまく行人をだます者、旅行器に特徴のあつたあぶれもの、或は文学・艶道の顧問と言つた形で名家に出入りする者、或はおしこみ専門の流民団など、色々ある様でも、結局は大抵、社寺の奴隷団体を基礎としたものであつた》(国文学の発生 第四稿)

*【太平記】
《両六波羅聞之、「赤松一人に洛中を被悩て、今士卒を苦る事こそ安からね。去十二日の合戦の体を見るに、敵さまで大勢にても無りける物を、無云甲斐聞懼して敵を辺境の間に閣こそ、武家後代の恥辱なれ、所詮於今度は官軍遮て敵陣に押寄、八幡・山崎の両陣を責落し、賊徒を河に追はめ、其首を取て六条河原に可曝」と被下知ければ、四十八箇所の篝、並在京人、其勢五千余騎、五条河原に勢揃して、三月十五日の卯刻に、山崎へとぞ向ひける。此勢始は二手に分けたりけるを、久我縄手は、路細く深田なれば馬の懸引も自在なるまじとて、八条より一手に成、桂河を渡り、河嶋の南を経て、物集女・大原野の前よりぞ寄たりける。赤松是を聞て三千余騎を三手に分つ。一手には足軽の射手を勝〔すぐり〕て五百余人小塩山へ廻す。一手をば野伏に騎馬の兵を少々交て千余人、狐河の辺に引〔ひか〕へさす。一手をば混する打物の衆八百余騎を汰〔そろへ〕て、向日明神の後なる松原の陰に隠置く。六波羅勢、敵此まで可出合とは不思寄、そゞろに深入して、寺戸の在家に火を懸て、先懸既に向日明神の前を打過ける処に、善峯・岩蔵の上より、足軽の射手一枚楯手々に提て麓にをり下て散々に射る。寄手の兵共是を見て、馬の鼻を双て懸散さんとすれば、山嶮して不上得、広みに帯き出して打んとすれば、敵是を心得て不懸。「よしや人々、はかゞかしからぬ野伏共に目を懸て、骨を折ては何かせん。此をば打捨て山崎へ打通れ」と議して、西岡を南へ打過る処に、坊城左衛門五十余騎にて、思もよらぬ向日明神の小松原より懸出て、大勢の中へ切て入。敵を小勢と侮て、真中に取篭て、余さじと戦ふ処に、田中・小寺・八木・神沢此彼より百騎二百騎、思々に懸出て、魚鱗に進み鶴翼に囲んとす。是を見て狐河に引へたる勢五百余騎、六波羅勢の跡を切らんと、縄手を伝ひ道を要て打廻るを見て、京勢叶はじとや思けん、捨鞭を打て引返す》(巻第八 禁裡仙洞御修法事付山崎合戦事)


後醍醐天皇像 清浄光寺蔵
独鈷をもつ珍しい天皇像

 さて、『峰相記』の悪党記事が重要なのは、悪党発生のプロセスを目撃した者の証言であることによる。言い換えれば、中世を通じて諸国に発生する戦国武士の起源がここにある。
 あるいは、「生国播磨の武士」と『五輪書』にあるが、この『峯相記』に語られた悪党を忘れては、その「武士」という語句の歴史的本質を逸することになろう。
 この一連の過程で、注目されるのは、後醍醐天皇(1288〜1339)がすでに正中年間に倒幕計画に失敗し、また元弘の乱で再び倒幕計画失敗、翌年天皇は隠岐へ流されるという時期であることである。
 『峯相記』が、《國中ノ上下過半、彼等ニ同意スル間、廉直ノ才士、神妙ノヤカラ、耳ヲ押へ目ヲ塞テ旬ヲ亘ル處ニ、ハタシテ元弘ノ重事出来ル》と語るところ、これはすなわち、播磨が悪党支配の国になってしまったというだけではない。申すまでもなく、この過程で表舞台に登場するのが、赤松則村(円心)である。播磨の国中の上下過半が同意したという悪党、これは具体的にだれかと言えば、この赤松円心である。この人物は、いわば播磨における悪党の代表格なのである。
 そして云うならば、宮本武蔵の伝記が記す「赤松末流」という語は、まさしくこうした悪党という武士の発生過程に照らして、正しくは、武蔵は遠く悪党に由来する武士の末裔だということである。
 赤松則村とその一統に関しては、[サイト篇]別ページに探訪されるであろう。


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