九州諸国図
*【有馬陣諸大名人数】
(忠利公御年譜有馬記)
◎原城寄手先備七備
筑前 52万石 人数 20,926人
黒田右衛門佐忠之
黒田甲斐守長興・黒田市正高政
肥前唐津 12万石 人数 4,900人
寺沢兵庫頭忠高
肥前佐賀 35万石 人数 14,300人
鍋島信濃守勝茂・嫡子紀伊守光茂
筑後久留米 21万石 人数 10,000人
有馬玄蕃頭豊氏・嫡子兵部大輔忠郷
肥前島原 4万3千石 人数 1,500人
松倉長門守勝家
筑後柳川 15万石 人数 4,860人
立花飛騨守宗茂・嫡子左近将監忠茂
肥後 54万石 人数 28,600人
細川越中守忠利・同肥後守光利
(先備七手合 85,086人)
◎後備五備
豊前小倉 15万石 人数 6,000人
小笠原右近将監忠真
豊前中津 8万石 人数 3,200人
小笠原信濃守長次
豊後竜王 3万7千石 人数 1,200人
松平丹後守重直
備後福山 10万石 人数 4,800人
水野日向守勝成
日向縣 5万3千石 人数 2,110人
有馬左衛門佐直純
(後備五手合 17,310人)
◎上使その他
武州忍 3万5千石 人数 1,500人
上使 松平伊豆守信綱
美濃大垣 10万石 人数 4,000人
上使 戸田左門氏銕
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寄手人数合 117,675人
方々使者上下 15,000人
都合 132,675人
原城攻囲陣営並城中図
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A――正月元旦の敗戦があって三日後の四日に、後任上使の松平信綱と戸田氏銕が着陣する。先任の板倉重昌は戦死、この世から居なくなっている(笑)。
C――松平信綱は、戦場に到着してこれまでの状況を聴取して、籠城する一揆衆を土民と侮って、失敗したと見た。容易に攻め潰せないと判断して、仕寄の包囲を固めて長期戦と方針を転換したと、それが通説解釈だが、それは嘘だろ(笑)。第一、板倉重昌だってその方針では一貫していたから、兵粮攻めにするのは方針転換ではない。重昌と信綱の間にありもしない相違対照の構図をつくる。これは松平信綱を持ち上げるためだ。
B――もう一人の戸田氏銕の方は、これに反対で、いま重ねて攻撃を仕かけて落城させようという異見だったという話もある。戸田氏銕は板倉の親類だから、板倉の弔い合戦をやるつもりだと。しかしこれも、松平信綱を引き立てるための説話だろ。
C――戸田氏銕は引き立て役で、損な役回りだね。最後の二月末の総攻撃では、逆に兵粮攻め続行という慎重論を主張したことになっておって、水野勝成にたしなめられる役だ(笑)。ようするにタメにする話が多いから、そのあたりは単純に鵜呑みにはできない。
B――松平信綱は、板倉の失敗を繰り返さないというか、自分はもう失敗できない、という方だね。慎重論で意見をまとめた。いま城攻めして陥落させることはできないこともないが、そのためには多数の戦死者が出る。兵を多く損じるなというのが上意だ。それだけではなく、ここまでの失敗に懲りて、しばらく様子を見ようという空気が諸大名にあったからだ。松平信綱は敏感にその空気を察知して、包囲を固めて兵糧攻めにするという方針に軍議をまとめた。
A――そこで、他の諸大名にも動員をかけて、十二月の五万という人数が、年が明けて二月には十三万余という数字に膨らむ。
B――これまで少人数しか出さず、補助的な役割でしかなかった筑前黒田家や肥後細川家といった大大名も、数万という人数を派兵して、本格的に参戦することになった。あるいは後陣には、豊前小笠原家や日向延岡有馬家、その他これは特別か、九州ではない備後福山の水野家にも動員がかかった。それがどんどん着陣してくる。
A――小笠原家は、小倉の小笠原忠政と中津の長次だけど、他に松平重直、これは忠真の実弟だから、小笠原関係で合計一万人以上出している。後備えの主力ですな。
B――その中に武蔵が居たというわけだ。中津の小笠原長次の旗本一番隊。武蔵は長次を子供の頃から知っている。
C――護衛役というわけだ。この都合十三万余という数字は軍役要員だね。これに輸送その他非戦闘要員に借り出された百姓や商人らを入れると、このあたり一帯に二十万人ほど集ったことになる。
B――長期戦の戦場のことだから、仮設の陣屋も建てる。厖大な数の小屋が、原城の近辺に出現しただろう。
A――城に対しては、右手の海から左手の海まで柵を設けて封鎖し、土地を造成して築山を築き井楼〔せいろう〕を建て、大砲を据える。
B――失敗に学んだ万全の包囲戦施設だが、残念なことに板倉重昌には、それを十分にする時間がなかった。松平信綱は板倉重昌の失敗に学んだ。こんどは時間はいくらでもある。落城を急いで失敗するよりは、失敗しない方法をとったわけだ。
C――松倉と寺沢、この当事者は別にして、諸大名にしても、この戦役にはメリットがない。それが実際のところだね。家臣を多く戦死させても、戦功恩賞を手当する獲得領地がない。それぞれの家にとって戦う意義のない戦さだ。
B――たんなる軍事演習なら別だが、こんなことで家臣を戦死させてよいのかという声は、当然起きる。籠城しているのが御法度の切支丹宗徒だからといって、無理やり攻撃して、家臣を死なせるわけにはいかない。兵糧攻めにして降参するのを待てばよい。いずれ勝つのは分かっているから、今あえて城攻めする必然も必要もないと。
C――そういう本来消極的で鈍重な(笑)諸大名のポジションに相応するのが、兵糧攻めの包囲戦だ。しかし同時に、これで、いかなる場合でも諸大名は勝手に兵を動かさず、幕府の命令を待つべしという、寛永十二年の改定武家諸法度は、その実を獲得した。上使のもとで外様諸大名が統率されるという構図だな。こうした演習じみた大動員を通じて、幕府権力は大名統制の実質を得た。
A――だから、こんなスケールアウトな大動員は、江戸幕府にとってメリットは大きい。
C――諸大名にとっては迷惑なだけで、何のメリットもないがね(笑)。何しろ、外様大名の従属儀礼のようなものだ。おれんちにはメリットはないと言って、断ることはできない。そんな「断れない」という消極的ポジションを通じて、一般に権力作用は具体化する。
B――むろん表向きは、積極参加だよ。消極的だと思われて睨まれるのは、御家のためにならない。他家に後れをとってはならない、出し抜かれてはいかん。そういう相互監視のなかで、あれこれ他家の悪口も出るな。
A――天草で一揆が拡大したのは、細川の出兵が遅れたためだとか、さっきの元旦の総攻撃のさい、有馬や立花は働かなかったとかね。どうも戦場には味方のアラ探しをする悪口が満ちている(笑)。
C――それも、他家に後れをとってはならない、出し抜かれてはならないという競合関係の副産物なんだよ。ある種のミメーシス空間は、敵との間にだけあるのではなく、味方同士の間にもある。
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