坐談・宮本武蔵
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今度下々として及籠城候、若國家をも望ミ国主をも背申様ニ可被思召候歟、聊非其儀候。きりしたんの宗旨、從前々如御存知、別宗ニ罷成候事不成教ニ而御座候。雖然從天下様数ヶ度御法度被仰付、度々迷惑仕候。就中後生之大事難遁存ル者ハ、依不易宗旨色々御糺明稠敷、剰非人間之作法、或現恥辱或極害迫、終ニ爲後來對天帝被責殺候畢。其外志御座候ものも、惜色身恐呵責候故、乍押紅涙数度隨御意改宗門候。然處ニ今度御不思議之天慮難計、惣様如此燃立候。少として國家之望無之、私之欲儀無御座候。如前々罷居候ば、右之御法度ニ不相替、種々様々之御糺明難凌而モ、又迂弱之色身ニテ候へバ誤て背無量之天主、惜今生纔之露命、今度之大事空敷可罷處、悲嘆身ニ餘り候故如此之仕合候。聊以非邪路候。然ば海上ニ唐舩見來候。誠以小事之儀御座候處、漢土マデ相催候事、城中之下々故ニ日本之外聞不可然候。自國他國之取沙汰不及是非候。此等之趣御陣中可預披覧候。 (原城矢文)
05 NON PENIS A PENDENDO  (後篇)  Back   Next 
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原城址 長崎県南島原市南有馬町

 (承  前)
――では、午後の部として、島原の乱の続きということですが、上使が到着して、一揆勢の原城はあれよあれよという間に要塞として甦ってしまった、というあたりまで話が進みました。
C――原城の中に多数の者がたて籠ったのだが、かなり組織だった職制を布いていたようだな。長岡監物(米田是季)宛の熊谷忠右衛門書状に、城内の役付写しを記録している。
B――それをみると、本丸惣大将以下、それぞれの郭の大将、侍大将、鉄炮頭、普請奉行などという役付の者が居て、まったく武家の籠城と変わりがない本格的な軍事組織のようだ。
C――名前にしても武家浪人だね。その他に多数浪人がいた。中には松倉家臣もいた。老いた古武士もいた。そのような武士たちが「土民百姓」たちを軍事的に組織化して、原城をすばやく要塞化してしまったわけだ。
A――それで、上使以下諸大名の軍勢五万、十二月十日あたりから原城攻めをはじめる。ところが、落城させるどころか、なかなかうまくいかない(笑)。
B――鉄炮を撃ちまくってやれば、簡単に降参するだろうと勘違いしていたね。日向の有馬直純の家老、林田図書が板倉の返書を取りに原城の現場へやってきて、その十日に板倉重昌らに会って話をしている。それによれば、林田図書が城攻めの結果を見届けて日向へもどりたいというと、板倉は、突撃して白兵戦をやれば、すぐにでも埒があくが、鉄炮で攻撃して降参させる作戦だから、すこし時間がかかるという。
C――それは、志方半兵衛言上覚にもあるように、「攻撃する寄せ衆一人も損ぜざるように、手立をもって一揆を亡しなさい」との御下知なんだから(笑)、どこかのんびりした光景だね。
B――これは板倉個人の考えではなく、幕府の意向だ。しかし、そのように一兵たりとも死なせるな、というのは温情じゃないね
A――下々の土民百姓相手に、武士が死ぬようなことがあっては、軍事政権たる武家支配体制のカッコがつかない(笑)。
C――林田図書が見たのは、寄せ手は三、四町(300〜400m)も離れたところから、城へ鉄炮を散発的に撃っているだけ。石火矢、大砲という大型火砲ではなく、ふつうの鉄炮をだね。これでは、少しも役に立ち申さず候、と林田図書は言う(笑)。
B――まあ最初は準備も整わず、そんな「ぬるい」悠長なことだが、諸手が仕寄(陣地)を設けて、近くなったところで砲撃して、降参させるという作戦。林田図書も十五日、半月ほどで片づくだろうという見込みだな。
C――城方の切支丹衆は、鉄炮を撃ってこない。城の周りに一間ごとに一本、十字架の白い幟を立てめぐらして聖域の結界をして、見事に家作し、どんどん要塞化工事をしている。何万という一揆衆がいるのに、朝夕の炊事の煙が少しも立たない。どうしたわけだろうと、寄せ手の衆は不思議に思っている。
A――よほど物慣れた連中が指揮しているらしい。
B――寄せ手は寄合い所帯だから、陣中には疑心暗鬼の風評も出る。鍋島はどうもやる気がない。重臣に切支丹がおるからだとか、立花や久留米有馬は、上使に先手を願っても後陣に置かれ、板倉は鍋島勢ばかり戦功をかせがせようとする。それは鍋島にかせがせて、頃合を見計らって自分の息子を一番乗りさせるためだとか、そんな悪推量する奴がいる(笑)。
A――いつの世も組織社会には、そんなくだらない風評が流通している(笑)。
C――それで、まだ「ぬるい」日々が続いて、城方一揆衆も、包囲軍の寄せ衆も、それぞれ態勢を固める。十六日に板倉・石谷両上使が大坂城代・奉行衆に出した書状でも同じだな。こちらは特に変ったことがないので、昨日は報告の書状を出さなかったと。まあ、上使もそんな具合だな(笑)。
B――鍋嶋勢の仕寄の道具が思うように揃わないというので、急ぎ仕寄道具が調い次第、仕寄をしろと申し付けた。こちらで我々が城攻めを、ずるずる引き延ばしているようなことになって、困っている。思いのほか城の要害がよいので、下手に押しかけて攻撃すると人数を損ずると思う。それで、仕寄陣地の構築を進め、その上で攻撃の時期を見て命令しようと存じ候。まあ、鍋嶋らの仕寄がはかどらないので困っている、と愚痴をこぼしているわけだ(笑)。
A――この段階では、明らかに、「人数を損ずる」ことを避けて、城へ突撃することをせずに、包囲陣地の構築の方に力を注いでいる。ところが、どういうわけか、二十日に攻撃を試みた。
B――それはたぶん、江戸から松平信綱らが上使に追任されて江戸を発ったという報せが入ったのだろう。で、上使板倉重昌は、あまりグズグズしておれなくなった。自分の任務としては、一揆勢を掃討することだから、松平信綱らが九州へ到着する前にそれを片づけておく必要がある。――こういうのが通説解釈だが、それは慥なことではない。
C――仕寄の準備がまだ整っていないから、攻撃にかかる理由がない。人数を損ずるなという上意にも反する。だから、この二十日の城攻めは理由がまだよくわかっていない。それを解ったように述べる論説は間違いだよ。
B――まあ、追任上使の件とは無関係に、陣場の軍議で鍋島・有馬・立花といった大名勢から、「あまり大層に構えるのではなく、このあたりでちょっと仕懸けて様子を見ませんか」という程度のことだったかもしれんな。それで、とにかく二十日に上使以下諸大名の軍勢は攻撃をしかけた。ところが、この日の総攻撃は撃退されて、多数の死傷者が出るという、さんざんな結果(笑)。
A――志方半兵衛の言上覚書に、いくつかおもしろい話がありましたな。上使の作戦で、鍋島勢の一部が持ち口の浜手からかかり、「空逃げ」、逃げるふりをして、城内から一揆衆をおびき出し、残る鍋島勢が、追いかけて出てきた敵を割って出て挟み撃ちにする。そのときあげる鬨の声を合図に全軍一度に城へ攻め入ることになった。ところが、鍋島勢が「空逃げ」をすると、城内からものすごい数の軍勢が出てきて、「空逃げ」どころか本当の敗軍になってしまった(笑)。
B――それにはまだ続きがあって、挟み撃ちにするはずの軍勢も総崩れになって、喚声をあげて逃げる。それを合図の声だと思った立花・松倉勢が三ノ丸へ押寄せる。ところが城内から鉄炮攻撃、投石器の石、それに手で投げる無数の石に当って死傷者が続出して、城を占領するどころか退却せざるをえなかった。
C――そのあたりのことは、小倉小笠原家が潜入させた忍びの者の報告にもある。二十日寅の刻から、城内の一揆衆が切支丹宗門の唱言を合唱して、そうして鬨の声を挙げた。それを谷を隔てた立花勢が聞いて、味方が突撃を開始したと勘違いして攻撃にかかったが、城内から鉄炮で撃たれて多数死傷者が出て、退却したという話。
B――それは小笠原忠政から、上使松平信綱、戸田氏銕に出した書状だな。この後任上使は大坂から九州へ船で近づいているところだ。小倉の小笠原家も忍者を使って様子を探らせているのがおもしろい。この忍びの者は二十二日まで現地に居て、二十四日に小倉へ戻っている。
A――また別のおもしろい話が、志方半兵衛の覚書にありましたな。上使の命令で、城の側に寄らず、陣屋の小屋で喚声をあげて攻めるふりをさせた。ところがその声が揃わず、変な調子になってしまった。それを城の中で聞いて一揆衆が大笑いした(笑)。
B――あるいは、鍋島勢敗軍と同時に、鍋島陣の小屋に火事が発生。それを見て城内は手をたたいて笑ったとか。また、城の塀の上に上った一揆衆が、領主の松倉勢に向って大声で声をかける。「この間は、年貢を出せと水籠に入れてさまざま拷問なさったが、今もお攻め来なされ。少し目に物を見せましょう。だけど、お攻めにならない。それは卑怯ですぞ」と。さんざんにからかわれている(笑)。
C――大軍を催して土民百姓相手に敗軍。「江戸への聞こえ」、面目が立たない結果だ(笑)。城方は強いね。関ヶ原や大坂陣の慶長は遠くなりにけり(笑)、若い連中は実戦を知らぬというのは当らない。やはり城方は強かった。
B――この段階では、刀鎗の白兵戦ではない。城内からの鉄炮や投石で、攻撃側に死傷者が多数出るというところだな。
C――大砲、石火矢という火器は役に立っていないようだ。小笠原家の忍びの者の報告では、寄せ手から石火矢で攻撃しているが、土盛りして城の崖を高くしてあるので、石火矢は高く城を飛び越えて向うの海に落ちてしまう。城中に被害を与えることができないでいる。このままではまだ手間どりそうだと。
A――二十日の攻撃の不首尾で、城方が相当手強いのを思い知らされた。二十六日から数日間の板倉ら上使の報告をみると、やはり仕寄の構築を急がせている。
B――二十六日の注進状では、足場が悪くて仕寄が捗らず困っていると書いているが、二十七日付では、城より五十間(90m)ほどの距離に二ヶ所仕寄を設けた。今日一日かかって土盛りして高くした。明日から、石火矢・大筒で攻撃させる。仕寄は、全部付けるのはまだ捗らないが、五、六ヶ所できたら、様子を見て、攻撃をかけ城を落す予定だ。寄せ手の負傷者も、さしてあるまい。そういうわけだ。
C――二十八日の報告には、仕寄も城近く仕よせたので、昨日申入れたように、近日攻撃をして城を落す予定だ。城中の一揆衆も疲労している様子なので、こちらの負傷者などもあるまいと思う。というわけで、近日の城攻めを予告し、難なく攻め落せるだろうという楽観的な見通しを報告している。


*【原城城中役付】
 (長岡監物宛熊谷忠右衛門書状
         正月廿五日付)
 本丸惣大将 有江監物時次
       天草四郎時貞
 二丸大将  有馬掃部助重正
 三丸大将  道崎對島守次家
 出丸大将  有江監物
         本丸とかけ持
 侍大将   池田清左衛門光時
       口ノ津次兵衛家助
       蓑田六兵衛勝重
       ちわ佐左衛門正時
       有江市丞光家
       口ノ津次兵衛家助
 本丸鉄炮頭 上津浦大蔵公助
 二ノ丸   下津裏清左衛門時重
 三ノ丸   大矢野三左衛門清安
 出丸    本戸但馬守安正
 同     大浦四郎兵衛安光
 足かる大将 有馬亀丞時忠
       口津左兵衛正則
       上津浦三郎兵衛
 普請奉行  蓑田六郎左衛門
 同     浜田三吉正安
 出丸奉行  荷次小左衛門貞光




*【長岡内膳宛林田図書助書状】
《拙者儀今十日の朝高來郡有馬ニ致着舩、板倉内膳正様、石谷十蔵様、懸御目申候。折節長崎諸司代榊原飛騨守殿、馬場三郎左衛門殿も御一所ニて御座候間、御同前ニ懸御目申候。蔵人所への御報請取罷帰候。隨而貴理支丹共高來郡有馬の原の城と申古城を、俄ニ土べいなどぬり候て取籠居候。それへ十日の朝上使より被仰付、松倉長門殿先手、二番備立花左近殿、三番備鍋嶋殿衆被押寄、三町四丁程隔、右の衆ちいさき鉄炮をぼつ/\打申候得共役ニ立不申候。此様子見申候間、拙者切支丹御殺候迄罷在、見届申歸宅仕蔵人江可申聞と申候へ共、内膳様被仰候ハ、自然鑓など候ハヾ見届候て蔵人へ申候ても可然候得共、其筈ニ無之候。鉄炮ずくめニ被成悉クとらへ火あぶりやはた物に御かけ候筈ニ候間、不及見届申と被仰候間、御返事を取候て罷歸候。定て五三日の中に切支丹共ハ御殺可被成と存候。此段爲御存知如此御座候》(十二月十日付)

*【志方半兵衛言上覚】
《嶋原一揆籠居候原の城于今取巻居申候。板倉内膳正殿被仰付候ハ、寄せ衆一人もそんぜざる様ニ手立を以一揆を亡し候得との御下知にて御座候由申候。松倉長門殿、人数四萬余程にて三の丸土手際迄御詰寄、既ニ三ノ丸へ乘り可申と仕候得共、後陳續不申候。其上内膳殿より乗申間敷由被仰候ニ付、于今おいて土手きわに詰居申候由申候事》
《きりしたんは鉄炮打不申、城廻りニ白昇一間程ニ一本宛立てゝ内ニハ小路をなし見事に家作いたし居申候よし申候。朝夕のいけぶり少も立不申が何たる義にて御座候哉と、寄衆不審がり申由申候事》(十二月十八日分)

*【大坂城代奉行宛上使書状】
《爰元相替義無御座候間、昨日之注進不申入候。鍋嶋人数仕寄之道具不自由ニ候由申候間、いそぎ仕寄道具調次第仕寄仕候様ニと申付候。爰元我等共手延候様ニ罷成、致迷惑候。存之外城之要害能候間、押かけ打散候ハヾ人数も可損と存候間、仕寄爲仕、其上見合可申付と存候》(十二月十六日付)


*【志方半兵衛言上覚】
《上使の御衆の手だてニ、去十九日の夜鍋島勢の内一組持口の浜手よりかゝり候へ、空逃をいたし、城の内より追て出申所を殘る鍋嶋勢、城より追て出申てき間を入切開、鬨を上候へ、其時を相圖ニ一度ニ城へ入せ可申、と仰付られ候ニ付、鍋嶋勢一組かゝり申候處ニ城の内より稠敷おひ申候ニ付、誠のはいぐんニ罷成、入切申勢共ニ惣にげニ逃ざまに、ときを上申ニ付、立花殿先手、松倉殿先手、肥後様より上使の御衆へ御使被遣候衆、(中略)一度ニ城の屏きわ迄乘申候處ニ、城より鉄炮を打、角木にて石をはね、又人毎にかため石を打、稠敷働申、其上同勢つゞき不申候ニ付、乘きかせず引取申候。手負死人多御座候得共、何れも隠シ申ニ付何程とも知レ不申候。大形名みようじ知レ申分、書付指上申候。鍋嶋勢ハ三百程討たれ候よし申候へ共、深く隠し申候ニ付、知レ不申候。城の内の男々ハ鉄炮を打、石をなげ申候得バ、女は男の手前迄石をはこび申由申候事》(十二月二十九日分)

*【上使松平戸田宛小笠原忠政書状】
《私嶋原の城ニ付置候忍之者、去廿二日彼地を罷立、廿四日晩ニ罷歸様子承候》
《去廿日の朝、寄衆惣手一度ニ押寄可申様ニ御座候處、廿日寅刻より、城中一揆共貴利支丹宗門の唱を同音に仕、其後鯨波の聲を上申候。立花左近殿寄口、城之北方ニて谷を隔申候故、味方押懸と被相心得、取懸被申候へ共、向の方岸ニて寄塲悪候而、松倉よせ口の先を廻り取懸候處、城中より兼て堀切仕候間、竹橋をかけ乘候へバ、殊の外鉄炮を打申、人数多討死申候故、引取申由御座候事》
《寄衆より石火矢被打候へ共、城中岸高下御座候て海へ越し申候故、城中痛申躰ニハ見へ不申候由申候。只今の分ニテハ少手間取可申様ニ風聞申候由御座候。先承候通申上候。何様當地御着舩の砌可得御意候》(十二月二十四日付)



*【大坂番衆宛板倉石谷書状】
《此地別条無御座候。前々申入候通、仕寄之儀無油断申付候へ共、足場悪御座候てはか不參迷惑仕候》(十二月二十六日付)
《爰元仕寄の儀、城より五拾間程弐ヶ所仕寄付申候。築山ニ今日一日つき申候。從明日石火矢大筒爲懸打せ可申候。仕寄之儀、惣様付申候儀ハはか參間敷候間、五六ヶ所も出來申候はヾ見合ニて押かけ城を取可申候。手負もさのみ御座有間敷候》(十二月二十七日付)
《昨日如申入候仕寄も前々ニ城ちかく仕よせ候間、近日押掛城をとり可申候。城中草臥申かと見及申候間、手負なども御座有間敷と存候。尚重而爰元之様子可申入候》(十二月二十八日付)




*【大坂城代奉行宛石谷十蔵ら書状】
《鍋島信濃守、有馬玄蕃頭、立花飛騨守、并松倉長門守、右の者共江、城乘取可申候哉、弥仕寄責ニ可仕候哉と相尋申候處、乘取可申の由申候間、今朔日未明より詰させ申候事》(正月朔日付)

*【立花立斎言上覚】
《正月元日の合戦ニ我等者共手に相不申候事。極月廿九日に内々城乘可被成由談合にて、諸家の家老ども両使へ御よび候て、近々城乘を可被仰付と思召候。但何も家老ども存寄候通於有之ハ不殘心底申上候へ、仕寄もいまだ調不申と存候バ可被相延由被仰渡候。諸家の家老寄合致相談、両使へ參申候ハ、いかやうにも御上使様被仰渡に下々より申上旨御座有まじく候、併存寄候通不殘心底申上候様にと被仰出候間、乍推參申上候、諸家仕寄もいまだ存様に調不申候間、少御延被成、仕寄も心儘に仕候ての上にて城乘之儀も被仰付被下候様に、と申上候由に候。左様に候バ十日廿日延引の儀ハ不苦候間、緩々と仕寄等も仕候ヘの由被仰渡候。然所に極月晦日朝早く諸家の家老、内膳殿へ御よび候て、明朔日城乘可被仰付候、其分相心得候へと被仰候。下々兎角可申様無之、則朔日に相濟申候》(正月元日分)


*【志方半兵衛言上覚】
《板倉内膳殿御討死の儀ハ、戸田左門殿と御縁者の由ニて、左門殿ひいき分ニ大坂の川口より先へ状を御下しニて被仰候ハ、城をかまへ居申とても、百姓の儀ニ御座候、もミ立責候ハヾ將落可申儀を、ゆる/\と日を被送候儀油断の様ニ存候。伊豆殿我等下り候て落去仕候ハヾ、内膳殿手前如何ニ候間、もミ落し被申候得と、大晦日の朝其状着仕候ニ付、俄ニ思召、元日に御掛り候得共、乘りもきかせず御討死と申候。内膳殿討死の注進、筑後の榎津と申處ニて左門殿御聞候て、一日は御逗留候。船中道中にてハ原の城下へ直ニ御着の筈ニ候得共、城より五里脇へ舟を御着、様子を御聞合、原の城へ御出候て様子御覧にて、御きもつぶしの由申候事》
《大坂より左門殿状を御下シ候を、伊豆殿被仰候ハ、百姓と申候ても身を捨てたるものニテ、城をも拵居候を不見して、是よりの御指圖御無用ニ候、御着の上見及び御談合にて可然様ニ可被仰付と被仰候得共、左門殿状を御下候由申候事》(一月九日分)





*【寛永平塞録】
《内膳殿、十蔵殿ニ向て被申けるハ、今度拙者罷下候處、敵弥盛ニして、二十日の城責にも手負死人夥敷、前代未聞の敗北、江戸表に聞へ有、夫ニ付、重て伊豆、左門を被差下と聞へたり。此趣ハひとへに御名代の拙者恥ニして、明々後日ハ伊豆、左門此地へ至着の由、脇方より先知する者有、拙者おめ/\と陣場を右両人に引渡し、後陣に下り見物を任せまつるべきや。扨々口惜さ難申盡候》

*【クーケバッケル日記】
《今日有馬から次の報告が来た。今月十四日即ち日本の正月一日に、委員、閣老板倉内膳殿、石谷十蔵殿は、閣老伊豆殿や平戸侯の大叔父である左門殿が近い中に到着するのを知って、彼等が陣中に現れる前に、各所で、叛乱を起した農民を攻撃し、絶滅させることを決議した。しかし城内からの烈しい抵抗にあい、多数の人が死んだ。その中には閣老内膳殿もいた。また石谷十蔵殿も肩を撃たれて引返さねばならなかった》(『平戸オランダ商館の日記』永積洋子訳、二月十八日・和暦一月五日)



*【綿考輯録】
《寛永十五年戊寅正月元日、原城攻之事。未明より人数を出し、夜明て城を可乘取との相圖なりしに、先鋒有馬兵部大輔殿、人ニ先をせられまじと、いまだ夜ふかく人数を出し、追手三ノ丸の岸まで押よで鬨聲を發し攻かゝらる。あまり夜深く候間、味方の陳にハ、有馬家の抜掛とはおもひよらず、敵方の用心鬨かと心得、つゞく手もなかりしに、城内より近々と引受て、きびしく鉄炮を放し候間、手負死人夥敷して、せかたなく引返され士卒散々ニ打なさる》(巻四十三)
A――そのように、年の暮れには、仕寄が進んだので近日城攻め、というところまで達した。ところで、板倉は慎重に搆えようとしたが、急に心変りしたという話がある。それで、大晦日十二月三十日、翌日元旦の総攻撃決行と決まったと。これはどうかな。
B――しかし、その心変りという話がよくわからんのよ。後に石谷十蔵が書いた書状だと、鍋島、有馬、立花、それに松倉、この関係諸大名の「者ども」、つまり家老たちに、いま総攻撃して落城させるべきか、それとも包囲戦を続けるべきか、どっちにしようとたずねた。すると、即攻撃して落城させるべきだというので、元日未明から城際に詰めさせた。つまり、石谷十蔵によれば、この元日総攻撃は、板倉が突然言い出したことではなく、諸大名の意向だと、そういうことなんだ。
C――それまでの大坂番衆への報告をみると、仕寄もある程度できて、近日城攻めをするというわけだから、こっちの方が話は合う。ところが、立花家文書の覚書では、板倉、石谷両上使は、諸家の家老たちを呼んで、近々城乗りをしようと思うが、それぞれの考えを聞きたい。仕寄の準備ができていないので、城乗りを延期しようと思うという。そこで、諸家の家老たちは寄合をして協議して、上使に答えた。やはり諸家仕寄の準備ができていないので、その準備が十分にできた上で、城乗りしましょうと。上使も、十日や二十日の延期はかまわない、皆ゆるゆると準備しろと、方針が決まったのが二十九日。ところが晦日(三十日)早朝に、板倉が諸家の家老を呼んで、明日元旦に総攻撃だ、そう心得ろと言い渡した。
B――それに似た話は、すでに志方半兵衛覚書にもあるな。板倉重昌と戸田氏銕は縁戚関係、その戸田が、松平信綱とともに追任上使となって、西国へ下ったのだが、戸田が板倉の親戚なので、大坂の川口から先に手紙を書いて送った。そこに、城を搆えているとはいえ、百姓のことだ、もみ立て攻めれば城は落ちるはずだ。それを、ゆるゆると日を送っているのは、油断のように思う。伊豆殿とわしがそこへ下って城を落去させることになれば、貴公の面子も立つまい。すぐに攻撃にかかって城を落しなされと。その書状が大晦日の朝に板倉のところへ着いた。そこで板倉は、急に決心して、元日に攻撃にかかったとね。
A――元日の総攻撃は諸大名の意向で決まったという石谷十蔵の話と、話がだいぶ違う(笑)。これはどういうことだと。しかも、正月元旦とは無理な話ですな。
B――みんなが新年を祝う正月だ。ふつう軍議でも異論が出るだろう。正月元旦に合戦とは、そんなバカなというわけだ。どうしてそんな無理な作戦が決定されたのか。
C――その方針を出したのが、板倉なのか、諸大名なのか、それを含めてそのあたりはミステリーだな。俗書俗説だと、後任上使の松平信綱がもう九州へ来ている、板倉に残された日数はもうない。それで無理な作戦を決行したというわけだが、事はそんな簡単な話ではない
B――実際には、石谷十蔵が言うように、板倉が軍議に、城攻めか包囲戦続行かを諮った。諸大名からの意見は、すぐに総攻撃にかかろうということだろう。諸家寄合の軍議だから、卑怯な方針は出せない。こういう会議は往々にして過激な方針が支配的になる。板倉の決定は、諸大名の気持を汲んで、ということもあるな。
C――上意は兵を損じるなということだったが、二十日に多数死傷者を出してしまっている。それをカヴァーするには、ここで一気に落城させるしかない。軍議の場の空気はそういうことで、板倉は無下にそれを却下もできず、諸大名側の主張をのんだ。
A――だから、板倉が急に方針を変えたというのは、後の風説ですな。志方半兵衛覚書にあるのは、晦日になって板倉が心変りしたそのわけの説明だ。これは、立花家文書の話より、もう物語化が進んでいる。
C――板倉が戦死したというのが事実だが、そこから、板倉重昌を悲劇の主人公にするドライヴがすでに始動している。で、板倉を死なせたのは、準備も整わないのに急に総攻撃にとりかかった無理な作戦だが、そんな無理をさせたのはだれだ、という展開になる。
A――そこで悪役が必要なわけで、それが戸田氏銕(笑)。
B――現場の事情も知らずに、戸田氏銕は板倉にプレッシャーをかけた。戸田は現場にやってきて、はじめて原城を見て肝をつぶしたという話(笑)。
C――しかも、真の主人公、松平信綱がいる。戸田が大坂から板倉へ書状を出す時、それを聞いた信綱は、「百姓とはいえ、身命を捨てた者であって、どんな城を構えているのか、実際に見ないで、ここから指図するのはお止めなされ。現地に着いて城をよく見た上で、協議してしかるべく命令をなさるべきだ」と戸田氏銕に言ったが、戸田は書状を出してしまったと(笑)。
B――志方半兵衛の言上覚書はリアルタイムのものではなく、後で整理した文書だ。だから、こんな「逸話」も入れてしまう。
A――だいたい松平・戸田の両上使が大坂を発船したのは十九日だぜ。その前に出した手紙が、どうして三十日の朝に着くんだ(笑)。
C――日数がかかりすぎている。大坂からだと、遅くとも二十四日あたりには着いておるよ。とにかく、志方半兵衛の言上覚書は「候由、申候」という風評伝聞なんだから、それを真に受けてはいかんな。
B――『平塞録』などの後の文書では、そのあたりは説話物語になっておるが、それにしても、後任上使の到着以前に事を片付ける必要があって、急遽総攻撃を決定したという話は、早々に、風説として流れていたらしい。クーケバッケルの日記にも、そんな風説を書きとめている。
A――敗戦という結果が出た段階で、そんな風説が早々に生じたわけだ。
C――ようするに、後日の風評とはちがって、この元日総攻撃の方針は、板倉が主張したのではなく、鍋嶋、立花、有馬、松倉の諸家が互に見合って、その場の空気で強行することになった。むしろ板倉はそれを抑止できなかった。そんなところだろう。
B――で、当日の作戦は、これまで方々から攻撃を仕掛けて失敗したこともあって、こんどは、大手日野江口から一筋に突撃するということ。先手が久留米の有馬、二番手が松倉、三番が佐賀鍋島、四番が柳川立花。先陣が崩れたら後詰が前に出て、波状攻撃をかけるというわけだ。
A――ところが、攻撃開始は寅の刻という合意だったが、先陣の有馬勢が抜け駆けをしてしまった(笑)。
C――抜け駆けというが、戦場では、よくあることだ(笑)。最前線で双方やる気満々だと、対峙して一触即発。戦闘開始は不意のことだ。本陣の予定通りにはいかない。とにかく、有馬勢は城に攻めかかったが、竹束を楯に前進すれども、城方の鉄炮で散々に撃ち倒されて、総崩れになった。この時、千人以上の死傷者が出て、退却するほかなかった。
A――逃げる有馬勢を見て、城方の一揆勢は、悪口雑言、大笑した。
C――陽気な合戦なんだ。おい、おまえら、《non penis a pendendo》とかね(笑)。口合戦は大昔からの戦場の流儀だが、こういう陽気さはある意味で中世的だな。負傷者も死人も出る戦闘だが、戦場は陽気だ。それと同時に、征夷大将軍の軍勢を罵笑する陽気だということ。
B――敵味方になれば、礼儀は盡しても、身分の差異は消滅する。大名も百姓もない一切平等。それが戦場の作法だ。
A――有馬勢が敗退してしまって、上使板倉は前線へ出る。このあたり後年の物語では、見てきたような話になっていますな。
C――有馬勢の総崩れを見てか、他の諸大名の軍勢は突撃をためらっている。諸手が動かないのを見て、板倉は突撃開始の石火矢を打ちあげる。ところが諸大名の軍勢はどれも動かない。板倉は「ひきょう者らめ」と怒って、自分が先陣に出ると言い出した。それを石谷十蔵が止める。
A――先手の役は上使のすることではない、と(笑)。
B――将軍上使には諸国諸大名の使者が付く。これは上使と諸大名との連絡係なんだが、戦場へ出陣していない多くの大名からも使者が付けられている。「おれが自分で突っ込む」という板倉を石谷十蔵が止めたが、諸国諸大名の使者も止める。
C――これだと、板倉は悲劇の主人公だ(笑)。もはや聞く耳をもたない板倉は、馬から降りて前進しはじめる。これは放っておけぬと、石谷はじめ諸国諸大名の使者たちも続いた。このとき、鍋島と松倉の軍勢が攻撃を開始したと。
B――この戦いは、三ノ丸塀下まで寄っての突撃戦だから、鉄炮・弓矢・石弓の飛道具だけではなく、鎗・長刀を交える戦闘だな。接近戦になると、死傷者の数はいわば一桁あがって、数千人規模になる。
A――どんどん負傷者、死人が出る。その最前線に、寺尾孫之丞の父と兄が居ましたな。
B――寺尾孫之丞父の寺尾佐助と兄の寺尾喜内だな。この正月元旦の城攻めには、前に話が出た通り、細川家はまだ参戦していない。どうして戦闘の最前線に、細川家臣の寺尾佐助と喜内がいるんだというと。
C――細川勢は天草へ出兵したが、すでに一揆衆は有馬へ渡ってもぬけの殻、それで撤収することになったが、細川勢に付いていた牧野伝蔵・林丹波・松平甚三郎ら目付三人が、このあと十三日に、島原へ渡ることになった。そのとき目付衆に細川家臣が付けられた。また島原までの目付衆護衛に、出田宮内と寺尾佐助ら鉄炮頭に組下百挺を付けて派遣した。目付衆を島原まで送り届けて、護衛役の鉄砲勢は肥後へ戻った。それで役目はすんだはずだが、目付衆から、手勢が少ないのでと、加勢の者を求めてきた。勝手なものだ(笑)。
A――頼むなら、鉄砲隊が肥後へ還る前に言えよ(笑)。
B――それに、いくら頼んでも、細川家には島原参戦を認めないのに、自分たちの身が危いとなると、側に付く護衛の鉄砲勢がほしいという。これは、幕府役人たる目付衆への付人の範囲で、細川家への参戦要請ではない。
C――付人といっても、護衛役だ。いざとなると戦うことになる。それを見越して人数をよこせという。で、寺尾ら鉄炮頭は組下の鉄炮足軽を連れて、もう一度島原へ渡った。それが、正月元旦の城攻めには最前線にいた。さっきのように、上使であるにもかかわらず、板倉が業を煮やして、最前線へ突っ込んだから、目付衆もそれに続かざるをえなかったからね。
B――目付衆の護衛に付いた出田宮内と寺尾佐助ら細川家臣は、塀際まで寄って戦った。これはもう鉄炮を撃っている場合ではない。刀鎗の戦いだ。寺尾佐助は負傷する。息子喜内も鎗や指物を切折られながら奮戦した。このとき細川家の付け衆が数人戦死している。
A――上使の石谷十蔵も塀下まで達し、鎗で戦ったが、鎗を切り折られ鎗傷をうけ、投石と鉄炮で倒された。家来がその場から担ぎ出し、石谷は退いた。
C――石谷十蔵が退場したので、もはや総崩れしそうになった。かたや、上使板倉内膳は、家来とともに最前線の塀下で戦う。家来は鉄炮でばたばた倒されていく。と、そのとき、板倉は鉄炮で撃たれた。周りの家来たちは大いに慌て、板倉の屍体を竹束に乗せて運び出した。
A――城内の一揆勢、「やったぞ」「大将を討取ったぞ」と鬨の声があげる。
B――上使は総大将で、旗指物をあげて側まで来て戦った。だれを討取ったか明らかだった。家来たちが板倉の屍体を搬出したが、シンガリをつとめたのは、寺尾喜内たちだった。
C――出田宮内の息子・佐兵衛と、寺尾佐助の息子・喜内だな。親は二人とも負傷して戦線を離脱したが、この息子二人は鉄炮組を引連れ、上使板倉に付いて、最後まで踏み止まって戦った。
A――『渡辺幸庵対話』によれば、渡辺幸庵は、自分が上使板倉内膳の屍体を背負って逃げたと語る(笑)。
B――渡辺幸庵のは、はじめからホラ話なんだよ(笑)。まあ、とにかく、上使の戦死で、この攻防戦は幕を閉じる。攻撃側の死傷者四千人。まったく完璧な敗戦だ。総大将の上使板倉まで戦死してしまったから、幕府公儀の面目丸つぶれ(笑)。
C――この元旦の日付の、石谷十蔵と板倉主水(重昌嫡子重矩)連名の大坂番衆宛報告書がある。多数死傷者が出たが、諸大名が働かなかった。板倉が最前線で采配を振って呼んでも、有馬と松倉の軍勢は動かなかったと、くどくど弁明しておる。
B――有馬勢が先陣で、抜け駆けをして、未明に手ひどく撃退され、死傷者が多く出た。将兵の損傷が大きいので、石谷十蔵が采配を振って呼んでも動かないはずだ。松倉勢が動かなかったというが、実際は、松倉の家臣主力はこの戦いでほとんどやられてしまって、兵を指揮する者がいなかったからだ。いかに将軍上使が采配を振ろうと、兵は動けないわけだ。
A――将軍の威光は、遠すぎて、下々まで届かなかったか(笑)。
C――松倉の家臣主力が大半死傷したというのは、それほど、松倉勢は突撃して奮戦したということだが、城内には、松倉家臣の妻子が人質に取られていたからだという話もある。一揆勢が島原城下へ攻め込んだ時、逃げ遅れた妻子を攫って原城へ連れ込んでいた。
A――妻子奪回となると、必死なわけだ。
B――結局、敗戦直後当日の石谷十蔵の報告では、今回の敗因は諸大名の軍勢にある。上使板倉や石谷には責任がないと匂わせているな。
C――そもそも、軍議で、今回城を落とすのか、それとも仕寄の包囲戦を続けるか、そのどっちにするかと諸大名に諮ったところ、落城させて決着をつけようと皆が言うので、こういうことになったというわけだ。
A――話がだいぶちがう(笑)。
B――この日の結果報告は、十二日には江戸へもたらされたらしい。家光は早速、在府西国諸大名に帰国出陣を命じた。板倉の戦死については、上使だというのに、猪武者みたいに無分別に突撃するとは何事だ、と怒ったという。
C――その話は沢庵の細川忠利宛書状だな。まあ、もしそれなら、武家の棟梁・将軍家光は、武士の一分というものがわかっていない(笑)。ケチなものかもしれないが、五十一歳、いい歳をした板倉は、その一分のために死んだのだよ。ただし、その一分のために大分の犠牲者が出たのも、たしかだが(笑)。


*【石丸七兵衛書状】
《一 惣乘ニ可仕旨大晦日朝御奉行衆何も被仰渡、扨明日夜明の儀ニ御座候へ共、夜の八ツ時分より寄被申候衆も御座候、夜明寄被申候衆も御座候ニ付そろい不申。一手ニ懸り被申候へ共、追崩され/\申候。近々と寄申候ても鉄炮を打申候。へい近々と寄申時、石を打、すなをいり候て懸、灰をかけ、へいに手を掛申時、なた長刀と申す物ニて切、中々珍敷有様ニて候。今の分ニ候ハヾ、寄衆をば皆打殺可申と見へ申候。九州人数斗ニてハせめ申事成間敷と、何も申事候。
一 内膳殿、十蔵殿、惣下知を被成、城へ御懸り可有様子ニハ無之候つれども、右の衆中をくれを取、ひかへ被居候故、懸り候へとさいを御ふり候へ共、一切下知を聞不被申候を御覧候て、腹を御立御懸り候故、右の仕合ニ候。當座は御のき候て小屋へ御歸り、昼過ニ御果候。手御負候時分ハ朝の五ツ時分ニ候。十蔵殿も御一所ニ御掛り候事》(正月二日付)




正月元日三ノ丸攻防戦



*【寺尾佐助覚書】
《翌元日有馬之御人数責懸申候處ニ強防申ニ付、御引揚被成候。其跡ニ御目附衆被入替、塀近く六七間ニ詰寄打合申候。有馬様より御使番被遣、只今御人数御責懸被成候得共、打崩レ各小勢ニて打合、被申ハ、誰々手の衆ニて有之候や、一人も助りがたく可有之候、引取可然由被仰下候故、御返事ニ、是ニ居申候ハ細川越中守鉄炮頭、出田宮内、伊藤十丞、寺尾佐助、同喜内、四人の者、御目附様御供仕罷在候、只今引取候ニハ御人数同前に崩申候と、諸人の見及びニ相可申ニ付、討死仕候共引取申儀不罷成候由申達候。出田宮内手負申候。寺尾六之進、同喜内、伊藤十丞、塀に乘懸り申候處、十之丞者討死仕候。六之進、喜内塀ニ付働申候。両人共ニ鑓を切折、敵の鑓を奪取、せり合申候。喜内ハ指物も切折申候。石垣有之、強く防申候故、乘込申事難成引取申候。御目付衆被仰候ハ、只今の働見届候、討死不仕是迄引取候事、武運と思召候由被仰聞候。其節嘉悦平馬御側ニ居候て承候由。其後惣軍引取候。御目附衆様御人数の殿仕、引取申候》


*【大坂番衆宛石谷十蔵ら書状】
《一 鍋島先手の人数、塀きわへ近クせめよせ候得共、乘きらせ不申候。少々手負死人御座候事。
一 有馬玄蕃頭者共、未明ニ塀きわへよせ候へ共、つよく被打立くづれ申候。手負死人数多御座候事。
一 松倉長門守惣勢進ミかね申候。其内ぬけがけ仕者も御座候ニ付て、手負死人多御座候事。
一 右の仕合ニ付て、玄蕃、長門、両手の者共、弥すゝミ不申候間、内膳我等掛出、下知仕候得共、弥進ミ不申候間、内膳我等無是非仕合ニて塀際迄參、さいにてよび申候得共、一人も不參候。其間ニ塀ニ手をかけ、内膳討死仕候。我等も一所ニて御座候間、少手負申候。其上両人召仕候者共、不残手負討死仕候故、引取申候事。
一 立花飛騨守者、手負死人御座無候事。》(正月朔日付)




*【細川忠利宛沢庵宗彭書状】
《夜前二ノ丸にて御意にハ、爲御名代上使などに參候、内膳大将仕候て城ぜめなど仕候ニ、いのしゝむしやとやらんニ無方かゝりニかゝり候て被相果候事、沙汰之限とて御腹立之由、以傳被申候。誰之上にも御分別之爲ニ成事ニて候》(正月十五日付・綿考輯録巻四十四)


九州諸国図


*【有馬陣諸大名人数】
   (忠利公御年譜有馬記)
◎原城寄手先備七備
筑前 52万石 人数 20,926人
 黒田右衛門佐忠之
 黒田甲斐守長興・黒田市正高政
肥前唐津 12万石 人数 4,900人
 寺沢兵庫頭忠高
肥前佐賀 35万石 人数 14,300人
 鍋島信濃守勝茂・嫡子紀伊守光茂
筑後久留米 21万石 人数 10,000人
 有馬玄蕃頭豊氏・嫡子兵部大輔忠郷
肥前島原 4万3千石 人数 1,500人
 松倉長門守勝家
筑後柳川 15万石 人数 4,860人
 立花飛騨守宗茂・嫡子左近将監忠茂
肥後 54万石 人数 28,600人
 細川越中守忠利・同肥後守光利
 (先備七手合 85,086人)
◎後備五備
豊前小倉 15万石 人数 6,000人
 小笠原右近将監忠真
豊前中津 8万石 人数 3,200人
 小笠原信濃守長次
豊後竜王 3万7千石 人数 1,200人
 松平丹後守重直
備後福山 10万石 人数 4,800人
 水野日向守勝成
日向縣 5万3千石 人数 2,110人
 有馬左衛門佐直純
 (後備五手合 17,310人)
◎上使その他
武州忍 3万5千石 人数 1,500人
 上使 松平伊豆守信綱
美濃大垣 10万石 人数 4,000人
 上使 戸田左門氏銕
--------------------------
寄手人数合 117,675人
 方々使者上下 15,000人
都合 132,675人



松浦資料館蔵
原城攻囲陣営並城中図
A――正月元旦の敗戦があって三日後の四日に、後任上使の松平信綱と戸田氏銕が着陣する。先任の板倉重昌は戦死、この世から居なくなっている(笑)。
C――松平信綱は、戦場に到着してこれまでの状況を聴取して、籠城する一揆衆を土民と侮って、失敗したと見た。容易に攻め潰せないと判断して、仕寄の包囲を固めて長期戦と方針を転換したと、それが通説解釈だが、それは嘘だろ(笑)。第一、板倉重昌だってその方針では一貫していたから、兵粮攻めにするのは方針転換ではない。重昌と信綱の間にありもしない相違対照の構図をつくる。これは松平信綱を持ち上げるためだ。
B――もう一人の戸田氏銕の方は、これに反対で、いま重ねて攻撃を仕かけて落城させようという異見だったという話もある。戸田氏銕は板倉の親類だから、板倉の弔い合戦をやるつもりだと。しかしこれも、松平信綱を引き立てるための説話だろ。
C――戸田氏銕は引き立て役で、損な役回りだね。最後の二月末の総攻撃では、逆に兵粮攻め続行という慎重論を主張したことになっておって、水野勝成にたしなめられる役だ(笑)。ようするにタメにする話が多いから、そのあたりは単純に鵜呑みにはできない。
B――松平信綱は、板倉の失敗を繰り返さないというか、自分はもう失敗できない、という方だね。慎重論で意見をまとめた。いま城攻めして陥落させることはできないこともないが、そのためには多数の戦死者が出る。兵を多く損じるなというのが上意だ。それだけではなく、ここまでの失敗に懲りて、しばらく様子を見ようという空気が諸大名にあったからだ。松平信綱は敏感にその空気を察知して、包囲を固めて兵糧攻めにするという方針に軍議をまとめた。
A――そこで、他の諸大名にも動員をかけて、十二月の五万という人数が、年が明けて二月には十三万余という数字に膨らむ。
B――これまで少人数しか出さず、補助的な役割でしかなかった筑前黒田家や肥後細川家といった大大名も、数万という人数を派兵して、本格的に参戦することになった。あるいは後陣には、豊前小笠原家や日向延岡有馬家、その他これは特別か、九州ではない備後福山の水野家にも動員がかかった。それがどんどん着陣してくる。
A――小笠原家は、小倉の小笠原忠政と中津の長次だけど、他に松平重直、これは忠真の実弟だから、小笠原関係で合計一万人以上出している。後備えの主力ですな。
B――その中に武蔵が居たというわけだ。中津の小笠原長次の旗本一番隊。武蔵は長次を子供の頃から知っている。
C――護衛役というわけだ。この都合十三万余という数字は軍役要員だね。これに輸送その他非戦闘要員に借り出された百姓や商人らを入れると、このあたり一帯に二十万人ほど集ったことになる。
B――長期戦の戦場のことだから、仮設の陣屋も建てる。厖大な数の小屋が、原城の近辺に出現しただろう。
A――城に対しては、右手の海から左手の海まで柵を設けて封鎖し、土地を造成して築山を築き井楼〔せいろう〕を建て、大砲を据える。
B――失敗に学んだ万全の包囲戦施設だが、残念なことに板倉重昌には、それを十分にする時間がなかった。松平信綱は板倉重昌の失敗に学んだ。こんどは時間はいくらでもある。落城を急いで失敗するよりは、失敗しない方法をとったわけだ。
C――松倉と寺沢、この当事者は別にして、諸大名にしても、この戦役にはメリットがない。それが実際のところだね。家臣を多く戦死させても、戦功恩賞を手当する獲得領地がない。それぞれの家にとって戦う意義のない戦さだ。
B――たんなる軍事演習なら別だが、こんなことで家臣を戦死させてよいのかという声は、当然起きる。籠城しているのが御法度の切支丹宗徒だからといって、無理やり攻撃して、家臣を死なせるわけにはいかない。兵糧攻めにして降参するのを待てばよい。いずれ勝つのは分かっているから、今あえて城攻めする必然も必要もないと。
C――そういう本来消極的で鈍重な(笑)諸大名のポジションに相応するのが、兵糧攻めの包囲戦だ。しかし同時に、これで、いかなる場合でも諸大名は勝手に兵を動かさず、幕府の命令を待つべしという、寛永十二年の改定武家諸法度は、その実を獲得した。上使のもとで外様諸大名が統率されるという構図だな。こうした演習じみた大動員を通じて、幕府権力は大名統制の実質を得た。
A――だから、こんなスケールアウトな大動員は、江戸幕府にとってメリットは大きい。
C――諸大名にとっては迷惑なだけで、何のメリットもないがね(笑)。何しろ、外様大名の従属儀礼のようなものだ。おれんちにはメリットはないと言って、断ることはできない。そんな「断れない」という消極的ポジションを通じて、一般に権力作用は具体化する。
B――むろん表向きは、積極参加だよ。消極的だと思われて睨まれるのは、御家のためにならない。他家に後れをとってはならない、出し抜かれてはいかん。そういう相互監視のなかで、あれこれ他家の悪口も出るな。
A――天草で一揆が拡大したのは、細川の出兵が遅れたためだとか、さっきの元旦の総攻撃のさい、有馬や立花は働かなかったとかね。どうも戦場には味方のアラ探しをする悪口が満ちている(笑)。
C――それも、他家に後れをとってはならない、出し抜かれてはならないという競合関係の副産物なんだよ。ある種のミメーシス空間は、敵との間にだけあるのではなく、味方同士の間にもある。
A――正月に松平信綱が着陣して、原城包囲を固めて長期戦の態勢を構築したが、城方一揆衆と包囲方との間に、何の交信もなかったかというと、そうではない。
B――仕寄場(陣地)を城に徐々に近づけて行く。そこで、けっこう交信があったらしいな。交信手段は古来の作法で、矢文〔やぶみ〕だ。
C――昔から知られていたことだが、その内容には興味深いものがある。たとえば、何故こんな叛乱を起こしたのか、ということだが、国を乗っ取るつもりはない、ただ切支丹信仰を容認してくれたら文句はない、信教の自由がほしい、それだけだというわけ。
B――こんな合戦に仕儀に至ったのも、それはそちらが攻撃なさったから、こちらは撃退したまでだ。籠城しているのも、そちらが頻繁に攻撃なさるから、こういう事態になった。これは切支丹の作法に候。ご理解はなされないだろうが、この宗旨に敵対する輩は、身命を捨てて撃退しなければならない。とにかく、我々を踏み潰しなされ。そうすれば我々の信念も納得なさるでしょうと、堂々たる返事。
A――別の矢文にも、国を乗っ取るつもりはない、と述べているから、これは切支丹が国を乗っ取る陰謀を企てているという断罪があったようですな。
B――スペインやポルトガルの旧教国が、これまで何をやってきたか、それは明らかだろうと。アメリカやアフリカやアジアで世界を植民地化してきた。宣教師、バテレンはその植民地化の先兵なんだ。切支丹は外国の邪教に洗脳されて、日本を「南蛮化」しようとするつもりだと。
A――そのナンバンナイゼーション(nanbanization)は、二百数十年後に明治天皇制政府が主導して全国を南蛮化したわけだが、そうすると、邪宗門切支丹こそ先見の明があったということになりますな(笑)。
C――歴史は無節操な反転の連続だよ(笑)。しかし、この寛永期の切支丹宗徒は、信教の自由、それだけを要求している。切支丹は異教徒にはなれないからね、だから禁制をやぶる以外にはない。
A――切支丹をやめますか、それとも死にますか(笑)、という存在のフレーム。
C――切支丹に立ち返った以上、この世には身の置き所がない。法度厳しく、昔いったんは無量の天主に背いて誤って棄教したが、いまや不思議の天慮計りがたく、このように燃え立っている。これは、国家を乗っ取るつもりはなく私欲があるわけでもなく、けっして邪まな道ではない。我々は神の御恩に報いてこうしているのだと、決然たるところを示す。
B――それに、前に話が出たことだが、「唐船」のことはこの矢文にある。松平信綱はオランダ艦船を沖に出動させて、海から原城を砲撃させた。海上に唐船が来ているのが見えますなあ。まことにこんな小事なのに、外国に支援を求めるとは、何ということですか。籠城しているのは下々の我々なのに、こんな大げさなことをしては、日本の外聞が悪い。自国他国の取沙汰も是非に及ばず、恥かしくないのかと、これも上使松平信綱を嘲笑する。
C――切支丹を野放しにしておくと、神国日本は外国に乗っ取られる、という弾圧の論理を支えるナショナリズムを笑うわけだ。将軍上使はナショナリストのはずだろ、オランダに助けを求めて、それで恥かしくないのかよと。
B――矢文は「智恵伊豆」のセコい智恵を笑っているんだよ(笑)。で、この矢文を陣中の皆に披露してごらんなされという。「智恵伊豆」もカタなしというところだ。
A――このオランダ船の一件では、細川忠利が、オランダに助けをかりるなんて恥かしいではないかと、松平信綱に談判したとかいう話があるが。
B――『綿考輯録』によれば、それはこういう話なんだ。オランダ船が有馬に着いて、まず、城内の様子を窺うと。これはどういうことかというと、艦船のマストが高いから、それに登って城内を見ようというわけだ。すると、城内からの鉄炮で打落とされる(笑)。まあ、そんなことがあって、その夜、細川忠利は松平信綱に面会して、抗議するわけだ。
C――忠利はその日、原城の陣場へ到着したばかりだね。熊本へも寄らず、江戸から現場へ直行だった。
A――細川忠利が陣場へ着くと、オランダ船が来ていた。で、これは一体全体どういうわけなんだと。
B――忠利は上使松平信綱に抗議する。この城をすぐに攻め落せということなら、拙者の肥後勢だけでもやってみせる。手勢の三分の一を損耗するつもりならできないことはないとね。
A――三分の一人数を損ずるつもりならできないことはないとは、城方一揆衆は強敵だという認識がある。
C――だろうね。忠利はいう。自分たちはそのつもりだが、他家の衆も同じように思っている。しかしながら、下民の一揆のために多くの勇士を死傷させるのは、武道の本意にあらず(笑)。
A――この「武道」は、武の道ということ。武道の本意にあらずというのは、平たく言えば、ようするに、土民百姓相手に、武士が死んでは恰好がつかないということ(笑)。
B――土民百姓相手に、武士を死なせるわけにはいかん。上意の趣旨も同様だと。軍事政権の面子がかかっているんだよ(笑)。だけど、これまでの原城攻防戦で、もう十分、屈辱を味わっている。
C――だから、このオランダ船攻撃支援の一件で、その上さらに恥の上塗りをするつもりか、ということだ。
B――紅毛人に助けを求めて、やつらが帰って、日本でこんなことがあったよと噂すれば、それこそ日本の恥辱だ。すぐに船を帰しなされ、と細川忠利は松平信綱に言う。すると、信綱は、「もっともです」と忠利の異見を聞き入れたと(笑)。
A――細川の『綿考輯録』だから、そんな咄になってしまっているが、松平信綱ともあろう者が、かんたんに「はい、そうですね」と方針を撤回するわけがない。
B――だけど、『綿考輯録』はさらに「一書」を引用して、伝説増殖を示すね。こんどは松平信綱に反省までさせる(笑)。
C――その松平信綱の弁では、一揆衆はポルトガルの船が支援にやってくると信じている、だから同じ西洋人の船から砲撃させれば、連中も戦意阻喪してあきらめるはずだ、と考えてしただけのことで、日本の恥辱になるとまでは思わなかった。自分の考えが浅かった、すぐに異国船は返しましょうというわけだ(笑)。
B――それだと、ますます「智恵伊豆」の立場がない(笑)。『綿考輯録』の伝説だから、当家の細川忠利を持ち上げて、相手の松平信綱を貶めにかかる。企図は明確だぜ。
A――「智恵伊豆」の浅智恵ですな(笑)。しかし、よくまあこんな咄をでっち上げたものだな。
C――旧教国ポルトガルがオランダと戦争状態にあるのを、原城の切支丹一揆衆が知らないはずがない。その「知らないはずがない」ということを、この伝説の担い手は知らない(笑)。
A――実際、オランダ船が原城沖に着いたのは、一月十一日。そして、戦場を離れたのが二十八日。それまで連日のように砲撃して「貢献」している。『綿考輯録』が、「今日有馬に入津、明日石火矢放させられるべき」と書いて、その夜、忠利が談判して、オランダ船の砲撃を中止させたというのは、いかにも事実ではない。
B――まあ、細川忠利が松平信綱に、このオランダ船加勢はやめてくれと抗議したというのは、ありそうなことだが、そこから尾ひれがついてしまった。松平信綱がオランダ船を御役御免にしたのは、原城に寄手の仕寄陣地が接近して、砲弾が味方を殺傷する危険性が出てきたからで、それ以外の理由はない。
A――細川忠利が松平信綱に意見したのはありうるとしても、それで信綱がオランダ船を帰したということはありえない。
C――松平信綱がこの合戦にオランダ人を巻き込んだのは、一種の踏絵だな。おまえら、敵か味方か、はっきりしろよと。だけど、オランダ人は長崎奉行末次平蔵の助言を得て、智恵伊豆の参戦要請に応じたのだが、それはビジネスのために、会社の利益のために、という理由だよ。これも話がセコいのよ(笑)。
B――この初期キャピタリズムは、会社の繁栄を神に祈りながら、同じ神をいただく切支丹を殺す。ビジネスのためなら、善悪道徳を超越し、宗教イデオロギーを超越してしまう(笑)。



*【矢文】
《城中より申上度儀於有之、可被聞召之由候間重て申上候。誠ニ今度下々として島原天草両所之儀、御取懸候ニ付、ふせぎ申たる分ニ候。國郡など望申儀少も無御座候。宗門に御かまい無御座候へバ存分無之候。籠城之儀もしきりに被成御取懸候付、如此御座候。右之仕合きりしたんのさほうニ候。御不審可被思召候得共、此宗旨に敵をなす輩ハ身命を捨ふせぎ候ハで不叶、あらた成證據度々御座候付、如此候。か様の企、凡夫として罷成事ニ候哉。兎角我々御ふミつぶし候て後御合点可被成候哉。
          城中より
   御陣中 》

*【矢文】
《今度下々として及籠城候、若國家をも望ミ国主をも背申様ニ可被思召候歟、聊非其儀候。きりしたんの宗旨、從前々如御存知、別宗ニ罷成候事不成教ニ而御座候。雖然從天下様数ヶ度御法度被仰付、度々迷惑仕候。就中後生之大事難遁存ル者ハ、依不易宗旨色々御糺明稠敷、剰非人間之作法、或現恥辱或極害迫、終ニ爲後來對天帝被責殺候畢。其外志御座候ものも、惜色身恐呵責候故、乍押紅涙数度隨御意改宗門候。然處ニ今度御不思議之天慮難計、惣様如此燃立候。少として國家之望無之、私之欲儀無御座候。如前々罷居候ば、右之御法度ニ不相替、種々様々之御糺明難凌而モ、又迂弱之色身ニテ候へバ誤て背無量之天主、惜今生纔之露命、今度之大事空敷可罷處、悲嘆身ニ餘り候故如此之仕合候。聊以非邪路候。然ば海上ニ唐舩見來候。誠以小事之儀御座候處、漢土マデ相催候事、城中之下々故ニ日本之外聞不可然候。自國他國之取沙汰不及是非候。此等之趣御陣中可預披覧候。誠恐誠謹言
 寛永十五年
   正月十三日       城内
  御上使衆御中
   ハ御陣中御申上 》

*【矢文】
《從天下様百姓程之者御成敗被成候トテ、兵粮詰ニ被仰付候事、御比興ニ奉存事》
《百姓ヅレ御成敗被成候トテ、異國ノ舩迄打ヨセ石火矢御ウタセ被成候事、日本ノ外聞不可然儀ニ御座候事》


伝習館高校同窓会蔵
嶋原御陣図 原城の阿蘭陀舩



*【綿考輯録】
《一 先達而伊豆守殿より被仰遣候唐舩紅毛舩、今日有馬に入津、明日石火矢放させられるべきとの事ニ而、おらんだ舩城中を窺ふ時、内より鉄炮ニ而打落し候。其夜忠利君密に上使ニ被對、此城一たんに攻取んとならバ、たとひ拙者一手ニ被仰付候とも人数三分一損ぜば乘取ずと云事有べからず候。况や此猛勢忽攻取べき事案の内ニ候。然ども下民の一揆ニ多くの勇士を討せん事、武道の本意ニあらず。上意之趣も如此也。殊ニ異國舩被用候事、歸帆之上批判に及候ハヾ、日本の恥辱也。速に被差返可然候ハんかと被仰候間、伊豆守殿尤也とて其旨ニ被任候》
《一書、伊豆守殿被仰候ハ、拙者異國舩を呼寄候ハ、一揆共南蛮國と申合せ追付南蛮より加勢指越候など百姓共を欺申由なれバ、異國人に申付鉄炮打せ候ハヾ、南蛮國さへあのごときとて、城内の百姓ども宗旨の虚言を合点可仕かと存付ばかりにて、日本の恥に成候との儀は料簡無之行當り申候。速ニ異國人返し可申候。俄攻の儀ハ、甚以公義思召ニ違ひ候。拙者着陳之節も早速諸大名江申渡候。右躰の儀、陳中風聞候而ハ拙者迷惑仕候。其元より諸大名中ニハ右之了簡ばかりと申儀ハより/\御申通頼入候。必々俄攻の了簡ハ無之候と被仰、翌日異國舩ハ長崎ニ被返候と云々》(巻四十四)




Die Logie op FIRANDO
平戸オランダ商館
Arnoldus Montanus, Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy in't Vereenigde Nederland, aen de Kaisaren van Japan , 1669
(モンタヌス『東インド会社日本遣使録』)



*【長岡監物宛阮西堂書状】
《一 廿一日之夜丑刻ニ、黒田殿へ、二手ニ分五六百人、さく竹たばをひきくずし申候。取合一戦、先手ニ小河縫之助、郡少大夫被居追込候へバ、又もりかへし候所へ、黒田監物親子三人參相、監物二番手ノ子佐衛門討死仕候。右両手よりきれ、黒田甲斐殿、市正殿竹たばを破り、内より寺沢殿へ參申候。黒田殿手となべ嶋手へ出申候。なべ嶋殿大勢樓一ツ、小や百間余燒申候。一揆ノ首二百九十三、生取七人御座候。三ノ丸へも弐千五百にて同前出候筈にて候が、何たる仕合にて候か、不出事、御番きびしく被仰付候ゆへ御手柄と申候。
一 立花殿へも火付十四五人參、さく竹たば少ひきくずし、三人討とり申候。ミかたニ手負一人も無之候。有玄殿、長門殿ニハ何事もなく候。
一 ミかたノ死人手負四百人も有之由申候。黒田殿、市正殿家老吉田壱岐半死半生、明石権丞打死仕候。其内物がしら十人、馬廻ち廿人も死申候。手負数多御座候。歴々ハかくれなく候。下々ノ死人ハかくし申候。》(二月廿四日付 綿考輯録・巻四十六)


*【宗休様御出語】
《(水野の)陣中殊之外騒々しく聞へければ、前備の小笠原家にて是を聞き、凡そ着陣には法あり。さしもの日向殿当時の良将とぞ聞こへし、あの着陣の騒敷はいかにぞや。今にも夜討など有らば、あの人数は物の用には立つべからず、と口々に云ければ、宮本武蔵といふ者是を聞き、我先年日向守殿家にあり。彼軍立よく知れり。凡庸の及ばざる大将なり。各評判の及ぶ處にあらず》



原城諸大名布陣図



水野勝成銅像 福山城二の丸


*【綿考輯録】
《一 廿四日伊豆殿御小屋ニ而御評議有。水野日向守殿ハ有功の老將ゆへ上意以備後福山より折角被指下、伊豆殿も是を待付て軍議可有とて今迄ハひたすら城攻を被見合置、異見を被乞候處、當城攻の利害得失等委ク被仰演、扨今ニ至候而ハ無味に攻殺し、はやく埒明可然の旨被仰候。忠利君、此比数日之晴天にて物皆よく乾燥候故、火攻を用、敵を燒出し討取べきかと被仰候。諸將御同心ニ而明後廿六日早天ニ火矢を射させらるべしとて、敵出たる時の合言葉相験をも上使定示され候》(巻四十六)
A――さて、二月になると、さすがに城内の弾薬も食糧もなくなりますな。そろそろ決戦の時期ということになる。
C――籠城する城方一揆衆にとっても、そして城を包囲する側にとってもね。城方は、二月二十一日に夜襲をかけた。城内から数千人が討って出て、黒田、寺沢、鍋島の陣地を襲撃した。
B――この襲撃で、柵を破壊し陣地に放火し、井楼を焼打ちにし弾薬物資を奪取したりもして、三百人弱ほどの戦死体を残して城内にもどった。黒田家中では、万石家老の黒田(岡田)監物父子が戦死するなど被害が大きかった。
A――武蔵関係では、このときの夜襲で、後の筑前二天流四代・吉田実連の父、吉田太郎右衛門利貞が戦死している。
C――利貞は鉄炮に撃たれて翌日死亡だが、この父の戦死のとき、吉田実連は生れたばかりの赤ん坊。よくぞ種を撒いておいてくれた、というところだ(笑)。
B――この夜襲は、籠城を持続するために、弾薬物資を奪いに出てきたが、あまり成果はなくて失敗したというがね、それはちがうだろう。
C――結局、この夜襲は挑発だろうな。そろそろ決戦しようじゃないか。我々はすでに死ぬ覚悟ができている。我々が戦えるうちに、早く総攻撃を仕かけろよと。
B――捕虜になった七人がいるが、この者らを殺して腹を裂いてみると、胃の中には米はなかった。小豆・大豆・麦・胡麻というものが出てきた。それで、戦闘要員でさえ、米は切れて雑穀も少ないとみえた。
A――城内は飢餓状態。落人がかなり多数出はじめる。
C――そろそろ決戦が近い。死にたくない者は城外へ出ろ、ということだな。
B――二十三日に、備後福山の水野勢が着陣。水野家当主は七十五歳の水野勝成、なんとまだ隠居もせずに戦場へやって来た(笑)。
A――武蔵にとって、大坂陣のおりのこともあって、水野勝成・勝俊父子とは因縁浅からぬ関係がある。
B――水野勝成の晩年の談話を記録したという「宗休様御出語」なる文書があるね(結城水野家文書)。そのなかに武蔵の逸話があって、武蔵伝記研究ではしばしば引用されることもある。つまり、――水野勢が着陣したとき、あまり騒々しい様子なので、前備の小笠原家中で、「現代の良将と評判が高い水野日向守だが、あの騒がしさは何だ。いま夜討などあれば、あんな人数(軍勢)では役に立つまい」と口々に言っていたが、そのとき宮本武蔵という者が、これを聞いて、「おれは以前日向守殿家中にいたことがあって、水野の軍立はよく知っている。日向守は、凡庸な者のまったく思いもよらない大将だ。おのおの方の批判の及ぶところではない」と、たしなめたという話。
C――これは水野家中のタメにする自賛伝説で、武蔵が実際にこんなことを言ったかどうか不明だが、水野勝成と宮本武蔵の親縁を強調する物語ではあるね。
B――中国諸家は長門の毛利や安芸の浅野でさえ参戦できなかったのに、遠い備後の水野が参陣をゆるされたのは、老将水野勝成を物師に、というわけだったろう。
C――翌日早速、水野勝成を加えて軍議に及ぶ。水野勝成はあれこれ利害得失を演説して、今はもう一途に攻め殺し、決着をつけるべきだと言った。
A――志方半兵衛言上の孫引きだが、『綿考輯録』の引用によれば、上使の戸田氏銕などは、兵糧詰めにして兵の損耗させないのが台命だからと言って、まだ総攻撃はしない方がよいという考えだ。しかし水野勝成は、城攻めは今がその時期だと主張する。
C――ここでも、戸田氏銕は損な役回りだ。その点、志方半兵衛の話は一貫している(笑)。
B――もし、水野勝成が、もう兵粮詰めはやめて、総攻撃しようと主張したとすれば、この爺さんは、城方の一揆衆が今決着をつけたがっているのを知っていて、決戦にもちこんでやろうとしているな。
C――武士の情けだ(笑)。兵糧攻めにして、あと一ヶ月待てば楽に城を落せるが、そうしようは言わない。相手が戦えなくなる前に勝負をつけてやろうという配慮だね。
B――すると、まだ抵抗が大きいはずだ。二十一日の夜襲でもわかる通り、寄せ手の被害も甚大だろう。そこで、肥後の細川忠利は、火矢で火攻めを提案する。まず城内を焼き払って、それから突入すると。
C――で、細川と鍋島が、先に三ノ丸・二ノ丸へ突撃すると言って、松平信綱ら上使衆がこれを認めた。すると他の諸大名は、納得がいかんというね。「諸手共に同時に攻撃開始」と軍令を決めたのに、どうして総攻撃に、細川と鍋島だけが先手なんだというわけだ。
A――どうして細川と鍋島が先手なんだと。七十歳の老将・立花宗茂なんぞは、怒って席を立ってしまう(笑)。
C――そこで水野の爺サマが、「それぞれが勝手なことを言っておっては、人数を損ずるだけで城攻めはできない。ここは諸君、皆が上使の方針に従うべきだ」と言い置いて、息子の勝俊を軍議の場に残して、自身は「年寄りだから」と言って出て行った(笑)。
A――この水野の爺サマはかなり存在感があるね。台命を掲げた上使戸田氏銕の主張は蹴るし、近日攻撃開始の方針へリードした上で、「みんな上使の方針に従え」とのたまう(笑)。
B――水野勝成あたりからみれば、上使だろうが大大名だろうが、みんなガキなんだよ(笑)。ただし、この場面は志方半兵衛覚書の話だから、あまり信憑性がない。
C――『綿考輯録』の本文の方には、戸田の話も立花の話もない。水野が「今に至っては、無味に攻め殺し、はやく埒を明けた方がよい」と言って、細川忠利が火攻めを提案して、皆が賛同したという話だけだ。
A――で、この日から数日雨がひどくて火攻め攻撃ができないので、二十六日に決めた攻撃は延期。そこで、晴雨にかかわらず二十八日に攻撃決行となったのだが。
C――こんどは鍋島勢が抜け駆けをした(笑)。総大将上使衆の大名統制はうまくいかない。
B――鍋島からは、前日、攻撃準備のために二ノ丸出丸の端に竹束を取り付けて、突入の足がかりにしたいと、申し入れた。上使松平信綱はこれを許可した。しかし、信綱はこの鍋島の動きに異変を察知しなかったようだ。
A――鍋島勢が足がかりを設置して、城内の様子を窺うと、少しも騒ぐ様子がない。
B――それはそうだろう。城方は攻撃のあるのを知っていて、この日、出丸から兵を引いてみせて、なりをひそめて鍋島の仕業をうかがっていたんだ。
C――それを、持ち口が手薄だ、今がチャンスだと錯覚して、突入したやつがいる。それで、不意に戦闘開始だ。しかし、このあたりは微妙だな。
A――抜け駆けというのはいつもそうだ。このケースでも、相手が攻撃してきたから、こっちは応戦しただけだというわけだ。
B――鍋島勢が鉄炮を撃ちまくる。だが真っ先に突入したのは、厳密に言えば、鍋島の者ではない。鍋島勢に付けられた目付は、長崎奉行の榊原飛騨守職直だが、その息子、十八歳の職信が突入した。鍋島勢を監視する目付の息子なのに、抜け駆けの軍令違反だ(笑)。
C――親父も続いて突入して、鍋島勢に「来い」とサイ(采配)を振る。榊原父子は、最初は一番乗りということで、皆から賞賛されるが、後で閉門処分をくらうね。このとき、目付榊原に、細川家から付けられた芦村十郎左衛門が側にいて、榊原職信の手を取って引き上げた。浪人成田十左衛門が尻を押した。
A――出丸一番乗りのこの抜け駆けの手助けをした細川家臣・芦村は、戦後褒章で、五百石に五百石加増されて都合千石。浪人成田十左衛門は細川家に召抱えられて、足軽頭三百石。軍令違反も何のその(笑)。
B――とにかく、この日の総攻撃は、抜け駆けをした鍋島勢の不意の攻撃からはじまった。おかげで諸大名の軍勢は大混乱、後れをとるまじと、我先に城攻めをはじめる。
A――総大将の上使松平信綱が采配を振って戦闘開始、ではなかった(笑)。もうこうなると、収拾がつかない。先手・後詰の区別も解消だ。全軍一斉に攻めろというしかない。
C――というわけで、二十八日の攻撃開始の軍法だったが、鍋島勢の抜け駆けで前日の二十七日午後に戦いがはじまった。後に鍋島勝茂は、軍令違反を問われて閉門謹慎処分を受ける。
B――幕府としては、外様鍋島家を、改易とまでは行かなくても、減封転封にしたいところだろうが、死傷者多数の大きな犠牲を払った鍋島を、そこまで追い込めなかったね。
A――鍋島勝茂なら、一戦して城を枕に討死しかねないか。ただし、勝茂に「兵法家伝書」を授けた柳生宗矩がいる。彼がそうはさせないだろう(笑)。

狩野文庫蔵
二ノ丸出丸仕寄図


*【綿考輯録】
《同日(廿七日)鍋嶋殿仕寄前の出丸明退候との儀故、上使衆も見計ひの爲御出候ニ、いかにも大略明退たる様子なり。いづれに明日ハいよ/\惣攻との決定にて、尚其御談合として忠利君、伊豆殿、左門殿御同道にて立花飛騨守殿小屋に御立寄、御軍議有て御歸被成候。扨鍋嶋殿訴訟に、二丸出丸のはしに竹把を付置、乘口の足かゝりに仕度と有。伊豆守殿御許容故、同日之午の刻比より楯竹把等之用意にて八ツ前比にハ思ひのまゝに仕寄を附候ニ、城中よりさゝゆる者もなく、先手の武者各乘込んとしける間、徒党共俄に見付、防候を、鍋嶋家より鉄炮はげしく打かけ、彼手の御目付榊原飛騨守殿の子息左衛門佐殿手より射ける矢先にしらミて色めきける故、御當家より被付置たる芦村十郎左衛門家勝に向ひ、唯今よき乘しほにてはなきかと、左衛門佐殿小声に御申候へバ、芦村やがて犬走に着て、左衛門左殿の手を引、浪人成田十左衛門[一ニ濱田新蔵]は腰を押て、相共に出丸升形の隅より屏の上にあがり、一番乗と名のられ候》(巻四十六)
C――こうして、二月二十七日の総攻撃がはじまった。このあたり記録史料が多すぎて、収拾がつかないが(笑)、とにかく城方の猛烈な抵抗にあって刀鎗の白兵戦、多数の死傷者を出しながら、寄せ手は日暮までに本丸まで進撃した。
A――この日の内には落城しなかった。日も暮れたので、上使は全軍に攻撃停止の指令を出した。後は明日にしようというわけですな。
B――この日の戦闘で、城方一揆衆はほとんど壊滅して、残りは本丸へ籠った。しかし攻撃停止命令が出ても、最前線はどうにも止まらない(笑)。細川勢のケースだと、三ノ丸から攻め入って、さらに二ノ丸を攻め通して、浜手から本丸へ突撃したが、長岡興長・寄之父子は、日が暮れたから戻れという細川本陣からの再三の指令に従わず、本丸を前にして攻撃をやめない。
A――とかく戦場の最前線は、言うことをきかぬものです(笑)。
C――沢村宇右衛門や津川(四郎右衛門)が使者になって、停止しろとの細川忠利の命を伝えに来るが、その使者まで本丸に乗り込みそうになる(笑)。二ノ丸に出張っていた細川忠利は、「先手の連中が言うことをきかん、何とかしてくれと」横目(目付)の馬場に頼む。馬場が出て長岡興長に掛け合い、ようやく攻撃停止。ほんとにそんなことがあったかどうか、知らんがね(笑)
B――とにかく戦線は人数があふれかえっている。退けというが、後の勢が引かないと、こっちは退けないと、まだそんなことを言っておる。
C――で、皆が退きかけたが、寄之が急に、「攻撃にかかれ」と太鼓を打たせて部隊に命令した。それで、退きかけた連中は本丸に突撃する。激しい戦闘があって建物が放火され炎上する。
A――明らかに軍令違反だが、こうなっては、攻撃停止命令もうやむやで(笑)、いま本丸に突入しているのは細川勢だと報せをうけた上使も、「手柄じゃ」と誉めるしかない。
B――本丸東部分を占領した細川勢は、そこに柵を設けて残る区画を封鎖した。夜が明けて、攻撃が再開された。このあたりで、『綿考輯録』に寺尾孫之丞の名が出ておるな。
A――本丸で敵と鎗を合わせて戦ったということですな。
C――前日、細川勢は、本丸の東部分を占領して、柵をふって残る区画を封鎖した。このとき細川の幟を押立てたが、幟はいったん引っ込めた。夜は見えないからね。それで明け方、その幟をまた出して柵の前に立てた。寺尾佐助とその子喜内は鉄炮頭、鉄砲勢を率いてその幟の側に付いたらしい。
A――(寺尾)佐助、喜内、孫之丞と、寺尾家の者の名があるけれど、ここには求馬助の名がないようだが。
B――寺尾求馬助は十八歳。前日、本丸石垣の犬走りまで上って、敵と鎗を合わせて奮戦したが、投石に当って負傷したと『綿考輯録』にある。あるいは鉄炮を打ちかけられたが外れてともいう(巻四十七)。しかし別の記事には、寺尾求馬信行について「本丸鉄手」とある(巻四十八)。つまり、本丸で鉄炮に撃たれて負傷したと。まあ、何れにしても求馬助は前日に手負い。この日は戦場へ出なかったのかもしれんな。
C――寺尾佐助は、喜内や孫之丞とともに、旗本にいた。突撃開始となって、まず、兄の喜内が幟を柵の外、敵の前に出した。組の鉄炮足軽に下知して、鉄炮を撃たせながら、鉄炮頭は、鎗をもって敵と戦う。二男の孫之丞も同じ場所にいて、鎗をもって敵と戦ったわけだ。
A――親の佐助や兄の喜内は細川の家臣だが、孫之丞は家臣ではなく、仕官していない浪人。それがどうして、この細川勢の中にいるのか、という疑問も以前からあるようだが。
B――『綿考輯録』は後の作文だから、怪しい記事も多々あるが、この場に寺尾孫之丞がいたという記事は、まあ事実とみてよかろう。というのも、べつに家臣ではなくとも、戦闘には浪人たちが多数参戦している。
C――たとえば、細川に付いた幕府目付の馬場でさえ、その脇には浪人たちが固めている。いたるところに、主持ちでない浪人がいて、それぞれ戦っておる。だから、浪人である寺尾孫之丞が、自分の父や兄の傍に付いたとしても、何の不思議もない。
B――もしだ、孫之丞を出さなかったら、二十六歳の壮健な二男がいるのに、寺尾家は、なぜそれを出さないのだ、と世間が黙っておらんだろう(笑)。それはともかく、寺尾家は知行千石余だから、軍役は四十人以上だ。二男孫之丞が参戦しないという法はない。むしろ当然だよ。
A――かの一生不仕で有名な浪人・宮本武蔵だって、小笠原勢で働いておる(笑)。
C――寺尾家の者で、もう一人あげると、寺尾市郎左衛門だね。孫之丞父の寺尾佐助は、役後戦功褒賞に「黄金三枚、御袷単物帷子」をもらっているが、加増はなかった。ただし、佐助の弟、つまり孫之丞の叔父にあたる市郎左衛門が召抱えられた。市郎左衛門は家臣ではなく浪人で参戦した。正月元日にも二月二十七日本丸攻略にも働きがあったのに、浪人の働きということで無視された。それを佐助が、長岡佐渡へ注文を付けた。その結果、市郎左衛門は、十人扶持で中小姓に召出された。これは後に先祖附を見て『綿考輯録』が書いた記事だろうが、寺尾家では孫之丞の叔父も、浪人ながら参戦していたということ。
B――だから、寺尾孫之丞は細川家臣ではないのに、ここに参戦しているのはなぜか、というのは、問題の立て方が間違っている。孫之丞の場合、細川家の家臣か否かではなく、寺尾家の二男ということが、ここでのポイント。この一大事に、親の手助けをしない息子はいない。寺尾孫之丞がここにいるのは、むしろ当然だよと。
C――話が寺尾孫之丞の参戦問題になってしまったが(笑)、ここで話をもどせば、最後に残った区画に突入した細川勢が、生き残りを殺し首をとった。後にわかったことだが、その中に一揆衆の盟主・天草四郎の首があった。
A――『綿考輯録』によれば、その首を天草四郎のじゃないかと見抜いたのは、殿様の細川忠利だということになっている。で、その首をよく洗っておけと。
C――このあたりの話は眉唾だろう。本丸の特別な建物で首を取ったとすれば、天草四郎の首だろうと誰しも思うはずだ。
B――実は、天草四郎の首はたくさんあった(笑)。諸大名から「これが天草四郎の首だ」という首がいくつも出されて、さてどれが四郎の首なんだと。
A――宇土町に近い江部村に潜伏していた天草四郎の母親たちを、細川家が前に逮捕して、その身柄を押さえていた。それを島原へ連れてきて、首を母親に見せて四郎の首実検。彼女が見て泣きくずれた首が、天草四郎だということで、細川勢の陣佐左衛門がその高名をとった。
C――真実の高名は、意図せずに転がり込む。陣佐左衛門はこの隨一の功績で新知千石。しかし、天草四郎の母親たちを宇土町の近所の村で逮捕して、その身柄を押さえていたのは細川家だから、これが天草四郎の首だというのも、実はたしかではない。
A――首を見て泣き崩れた天草四郎の母親の、その前の台詞は、我が子ながら四郎は天使、今ごろは原城を脱出して南蛮ルソンへ向っているだろう。
B――物語としてはそういう順序だが、これを逆の操作にしてみれば、母親は、四郎の首だと思わせるために、そこで泣き崩れてみせた(笑)。
A――それですべては丸くおさまった。上使は天草四郎の首を得て、天使・天草四郎は昇天したのではなく、逃走して行方をくらました。義経伝説と同じく、天草四郎も生き延びてしまった(笑)。
C――天草四郎は今も人々の心に行きつづけていて、観光地のあちこちで銅像になって立っている。それが歴史の事実だね。
B――ともあれ(笑)、天草四郎の首が取られたころ、本丸では生き残った無抵抗な者を、諸大名の軍勢が大量に殺しつづけていた。
C――皆殺しの方針だからね、女子供も殺しつくす。鎗で突き刀で切る。進んで自分から殺される者もあれば、焼けた建物の燠の中へ飛びこむものもある。阿鼻叫喚の地獄絵図だな。
B――それだけではなく、近年の発掘調査でわかったことだが、骨は五体バラバラで、遺体が何人分なのかさえ、すぐにはわからない有様。首を取っただけではなく、文字通り遺体を八つ裂きにしたのじゃないか。
A――その殺しの過剰さは、喜んで死ぬ連中を不気味に思ったということもあるでしょう。
C――切支丹は復活を信じている。死んでも生き返ると。遺体を損壊して八つ裂きにしたのは、切支丹の復活を、文字通り阻止するためだったのか(笑)。ともかく過剰で入念な殺し方で、手間のかかる作業だ。


原城址出土人骨


永青文庫蔵
有馬城攻図 本丸







*【綿考輯録】
《夜中柵際に詰たる御鉄炮頭、或は両旗本を守護し、或は柵外に出て御鉄炮うたせ候中ニ就て、寺尾喜内はやく御昇を柵の前に出し、佐助と共ニ下知いたし候に、敵大勢ひかへたるにかゝり、鑓を合、同所にて寺尾孫之丞も鎗を合候》(二月廿八日 巻四十七)

《藪熊之允、寺尾求馬も犬走に着、屏を隔、鑓を合けるに、藪ハ両手に鑓創を被り、寺尾ハ石にうたれ疵を得る。[一説、求馬石垣に乘上りけれバ賊徒六人居て鉄炮を打掛る。いづれもはづれ候間、直に鑓付る。此様子、忠利君御覧被成、御歸陳の上新知被爲拜領候と云々]》(二月廿七日 巻四十七)



細川勢本丸攻口





*【綿考輯録】
《寺尾市郎左衛門
正月元日働有、二月廿七日本丸にて働有之。浪人之働ハ御搆無御座由、兄佐助方より佐渡方江申候へバ、十人扶持被下御中小姓被召出。綱利君御代寛文六年ニ至、有馬之働に依而弐百石被下候》(巻五十)


天草切支丹館蔵
細川忠利書状 自筆本丸絵図


*【綿考輯録】
《陣佐左衛門走廻り首二ツ討取候が、四郎が居宅の焼落る比、煙下をくゞり其屋の内にかけ入る。佐渡が輕率三宅半右衛門もつゞいて入に、創を被たる者かと見へ絹引かづき臥居ける。側ニ女壱人付添泣居たり。佐左衛門つと入足音ニ驚き、かづきたる絹を押除る所を、すかさず一刀に斬て、首提げ走出る。女驚き引留んとするを、三宅是を切捨にして走出ると、忽棟を燒落し候》
《今日討取所の首は勿論、二の丸本丸の間にて打捨の首をも拾せ、本陣前の掘に集候に、夥しく有之候。佐左衛門も其所に至るべきと思ひ、右の首を提、忠利君の御目通り近くを急ぎ行を、屹と御覧被成、其首見所有、大将四郎なるべし、念を入候へ、扨々冥加の者哉と御意候が、果して四郎首也。御近習の輩驚き奉感候》
《四郎が母姉等、先ニ熊本ニ被返置候を、廿九日に有馬に呼寄、諸手より出たる四郎が首といふを、上使衆より御見せ候に、老母少も臆せず、四郎殿は我子ながらも実の天使ニ而候へバ、思ひもよらず容をかくし南蛮呂宋にも至らるべしと、彼是を見て驚く色もなかりしに、佐左衛門が取たる首のやせたるをミて色を變じ、辛苦せし事を察しぬと云て、喚び落涙し、越方の事を悔ミて啼悲、打臥て起も得ざりしかば、強而御尋に不及、御軍功他に勝れたるを御感詞有、江戸江も言上有之となり》(二月廿八日 巻四十七)

*【上使戸田左門・松平伊豆守書状】
《一筆申入候。然者一昨日昨日うちもらされ申候もの共、方々石のかげあなの中居申候を尋出し、今七つ過まで不殘うちころし申候。
一 城中にてうちころし申候もの共やけ申候故、水をかけさせ候へバ、きへかね候て人数知れ不申候。
一 諸手之手負死人之書立もいまだ調不申候。(後略)》
 (大坂城代・諸奉行宛 二月廿九日付)

*【細川忠利書状】
《本丸ニてきりしたん自害之躰、此方の者多勢見申候。小袖を手にかけやけ申候。おきを上へおし上げ内へはいり候者多御座候。又子共已下を中へおし込、上へあがり死候者も多く見へ申候。中々きどく成下々の死、絶言語申候事》
《本丸の下ニ小丸御座候。是ニあつまり申候きりしたんハ、廿八日夜明候而より諸手の入相ニてせめ申候。是へハ我等人数不參候。きわニて見物仕候。昼中ニ見苦事亦手柄成躰、能々見物仕候。京の者共も見物仕候ツル》(一楽(細川三斎)宛 三月一日付)



原城諸手攻口図

*【小笠原忠政書状】
《一筆令啓上候。昨廿七日之八ツ時分、鍋島仕寄出丸より二ノ丸へ火矢をいかけ、二ノ丸三ノ丸焼立、本丸へ乘取、吉利支丹連うちころし申候。我等信濃備ハ、高キ岸ニて候へ共、本丸へ直ニ乘入、のぼり五本信濃者先かけ、首数も多仕候間、可御心安候。両人共一段と無事ニ罷在候間、御氣遣被成間敷候。以來人々可申ためと存知、横目馬場三郎左、榊原飛騨ニ、我等先手之言葉を合申候。両人之可被存候間、其元ニて取沙汰のため申入候。恐惶謹言》(堀市正宛 二月廿八日付)

*【細川忠利書状】
《黒田殿の議、か様ニ一度可取とハ不被存候哉、主ジ請取の出丸、廿七日の日暮漸々被取、諸手を見合被申内ニ、跡備の水野日向殿、小笠原右近殿、右衛門佐殿と本丸の間ニ乗込、やき立られ候故、もはや主手前より内へはいられ候事不成、やけしづまり本丸際へよられ候由、小遠殿只今物語承候》(一楽(細川三斎)宛 三月一日付)



*【有馬直純宛宮本武蔵書状】
《被思召付尊札忝次第ニ奉存候。随而せがれ伊織儀、御耳ニ立申通大慶ニ奉存候。拙者儀、老足可被成御推量候。貴公様御意之様、御家中衆へも手先ニ而申かわし候。殊御父子共本丸迄早々被成御座候通驚目申候。拙者も石ニあたりすねたちかね申故、御目見ニも祇候不仕候。猶重而可得尊意候。恐惶謹言
    即刻       玄信[花押] 》



原城本丸攻口図
A――では、前々から宿題としてあった、武蔵はどのあたりで石に打たれたのか、という話。まずは、武蔵がいた小笠原勢はどこから攻め上ったのか。
C――小笠原勢は本来は後陣の配置だったが、総攻撃前の攻め口布陣をみると、諸手の中ほど、鍋島の右手にいるね。その隣が日向有馬(直純)勢だ。
B――鍋島勢が二十七日に抜け駆けをして二ノ丸へ乗り込んだから、その近所にいた小笠原勢は、その初動も早かっただろう。
C――二月二十八日に小笠原忠政が、堀市正(利重)宛に出した書状がある。それによれば、小笠原忠政と長次の軍勢は、本丸へ直接乗り入った。高い岸(崖)だったが、とあるのを見ると、石垣を登ったらしい。
B――鍋島勢らが侵入した二ノ丸経由ではなく、まっすぐ本丸を目指したということだな。で、長次(信濃)の部隊が先駆けして幟五本を立てたという。これの証人が、横目(目付)の馬場三郎左衛門と榊原飛騨守。両人には小笠原勢先手の言葉を交わして、後の証拠にしたと。
C――馬場は細川勢に付いた目付で、榊原は鍋島勢に付いた目付だ。細川勢は二ノ丸経由で東側から、鍋島は前に出た通り、榊原をはじめ抜け駆けで二ノ丸出丸に一番に入り、激戦してそこから本丸へ向った。とにかく、本丸に乗り込んで、小笠原長次の部隊は幟を立てた。それで近くにいた馬場と榊原に使いを立て、あの通り幟を立てた、本丸に小笠原勢が入ったのを見たかと、確認した。
B――この忠政の書状では、長次(信濃)のことをとくに強調しているな。長次の戦功を前面に出している。これを見ると、小笠原忠政は長次のことを気にかけている。
C――だから、武蔵を旗本一番隊に付けたのだろう(笑)。小笠原勢の中でも一番に本丸へ上ったのは長次の部隊。ということは、その旗本にいた武蔵は、激戦の最中、少なくとも本丸石垣の下まで来ていた。
B――東方面からの本丸一番乗りは細川勢だが、北側からの先手は日向有馬と水野、南側からは黒田勢と寺沢だな。小笠原勢は、有馬勢と水野勢と同じく北側から本丸松丸へ攻め登ったようだ。
A――幟を立てたということは、このとき長次も本丸に乗り込んだということかな。
B――そうではなくて、長次の部隊が本丸に乗入ったということ。大将は石垣の下だ。大将で早々に本丸へ乗り込んだのは、有馬直純父子だな。指物で、これは遠くからでも皆によく見えたらしい。おお、有馬直純父子が本丸にあがったな、と。
C――ただし、前に出た有馬直純宛武蔵書状では、武蔵が、「手先にて」つまり最前線で、直純の家来衆と言い交わしているようだから、その後で武蔵は、配下の兵とともに本丸に上っていた
B――長次旗本一番隊の武蔵の兵は十九人。だから、小笠原勢で本丸に一番乗りをして幟を立てたのは、武蔵配下の兵だった可能性があるな。
A――で、小笠原勢の侍大将だった「せがれ伊織」は、そのときどうしていたか。これは資料がないからわからない。小倉宮本家系譜も具体的なことは書いていない。
C――だから、結果から推測するほかないけれど、戦後勲賞で、伊織は大幅な加増をうける。二千五百石だったのを、千五百石加増されて四千石になる。ということは相当の軍功があったという事実の反映だな。
B――侍大将だからといって、殿様小笠原忠政の側にいたわけではあるまい。細川勢だと、長岡興長あたり爺サマでも最前線へ出て指揮しておる。伊織も最前線へ出て、軍勢を率いて采配を振ったということだろう。
C――有馬直純宛武蔵書状をみると、有馬直純は、伊織の戦功を賞賛する書状を武蔵によこしたようだな。お互いに武功をあげることができて、よかったですな、と慶び合っている恰好だ。
A――小倉宮本家系図には、伊織の働きについて、黒田忠之から褒詞をうけ指料の刀をもらったという記事がある。
B――もしそれが事実なら、黒田忠之が他家の家臣をタダで褒賞するわけがない(笑)。たぶん、黒田勢本丸先登の一件に関して、伊織の手勢が証人にでもなったのだろう。
A――黒田家のために貢献してくれたと(笑)。そこで、もう一つ、山田右衛門作を捕まえたのは、小笠原勢でしたな。
B――山田右衛門作というのは、前に話が出たように有馬直純旧臣で、矢文をやりとりするうち、城内の交渉役として出てきた者だな。内通がバレて殺されそうになったが、二十七日の総攻撃のとき、ドサクサにまぎれて助かった。銃弾を受けて負傷したが、有馬直純からの矢文を懐にしていたので、それが弾を防いで助かったところを、自ら名乗って生け捕りにされたというわけだ。
C――山田右衛門作は、城内の様子次第を語りうる生き証人。その身柄を小笠原勢が押さえたというのは、大きな功績だろう。たぶん、そのことも、有馬直純と武蔵の書状のやりとりの背景にあるだろうな。
B――まあ、この切支丹一揆のことについては、有馬直純と武蔵、話がいっぱいあっただろうよ。有馬直純が「会いたいね」と武蔵に言ってきたのだろう。ここでは、武蔵はすでに本丸から降りて近所にいるが、脚に負傷して動けない、だから、今は会いに行けないけれど、改めて面会に行くつもりだと武蔵は断っているわけだ。
C――じっさいは、小笠原長次の旗本だから、その場を離れることはできない。そういう状況だろう。
A――ところで、この書状で出てくる有馬父子は、直純とその嫡子康純ですな。父の直純は武蔵より二歳年下で、息子の康純は当時二十六歳、武蔵養子の伊織とほぼ同年齢。つまり、武蔵父子は有馬父子と似たような世代の組み合わせだ。
C――彼らが旧知のこともあって、こうして親密な書信を交わしているのだが、むろんこの戦場の原城は有馬家の旧居城とあって、戦場は有馬家には因縁の土地だ。無理にでもここで戦功を挙げなければならなかったというのは、そこだね。
B――水野美作守と有馬の嫡子が本丸の先登をめぐって争論したという。『綿考輯録』によれば、水野と有馬の息子たちは、本丸北の松丸へ乗り込んだらしい。
C――そこで、想起されるのは例の『常山紀談』の記事だな。『常山紀談』は有馬父子を、康純と永純としておるから、これは話が一世代ズレている(笑)。直純の孫である永純(1644〜1703)はまだ生まれていないから、水野美作守と先登争論した有馬の嫡子は、康純だ。訂正の上読まねばならない箇処だよ。
B――ここでの話は、水野家は祖父から孫まで三代の、日向守勝成・美作守勝重(勝俊)・伊織(勝貞)が参戦、勝成の孫勝貞は当時十四歳、初陣だな。水野勢は真っ先に本丸に乗り、纏奉行・旗奉行がそれぞれ印を立てた。水野勝成はこれを見て、《われ今生の思ひ出なり。美作は大坂にて武功あり。伊織は今日を始めの軍なるに、本丸を攻取りし事、家の面目なり》と悦んだ。
A――かたや、有馬の部隊は寺沢勢の後陣だったが、嫡子康純が、従者一人だけで鎗を持たせ、寺沢の先陣をかけぬけて、天草丸の方へはせ入ったと。
C――それは話が変だよ。有馬が寺沢の後陣だというのは、以前の待機状態の話で、総攻撃直前には、寺沢と並んで攻め口にいる。それに、天草丸というのは南のウィングで、黒田家の攻め口だ。有馬勢が天草丸に行くはずがない。これは大江丸のことだろう。
A――で、本丸に進んで五間ほどの石垣を登り、「今日、本丸の一番乗りはこの有馬康純だ、心ある士はよく見候え」と叫んだ。
B――黙っていないのは水野側で(笑)、勝重の士鈴木半之丞が、「たった今来て、何が一番だ。本丸は水野美作守が攻め入り、旗・馬印を入れて置いた。二番とならば、よろしい。ここへお上がりなされ」という。康純は水野の旗が本丸に立っているのを見て、自分が二番手なのをいったん納得した。その時鈴木は、「水野美作守父子のほか、大将たちはだれもいまだ本丸には現れない。あなたがまぎれなき二番です」といって、手を取って石垣の上に引き上げた。
C――そこで、有馬康純は「美作守はどこか」と尋ねる。水野勢の旗奉行の神谷が、「美作守は腰廓(二の丸と本丸の間)の上に居て、本丸に旗を入れました」と答えた。すると、康純は、「なんだ、そんなことか。それなら、美作守はおれより後じゃないか」という。要するに、水野勢の旗は本丸に入ったが、肝心の大将はまだ下に居る。それじゃあ、おれが一番だ、というわけだ。それで、康純は翌日までその場を動かなかった。
B――落城翌日の三月一日、有馬康純は水野美作守勝重の陣所に行って、本丸の一番は自分だと主張した。現場で話をした鈴木半之丞も出て来て、双方押し問答になって、勝重も譲らない。「たとえ我々父子が陣所に在ったとしても、旗を一番に入れたのは、軍の法において一、二を論ずべき余地はない。我々水野家の兵どもが身を棄てて力攻めに乗取った本丸だ。他のものを一番にしようなどとは思いも寄らない。よくお考えなされ」と答える。有馬康純は、「旗の前後を言うのではありません。将たる者の一番乗りは、私の外に誰がいますか」、自分が一番だ、と怒って主張する。
A――なかなか険悪な空気になった。
B――そこで水野勝重が、「ここでの争いは無益の事だ。軍に慣れた物師に問うて、誰が一番かお決めなされ」と言ったので、有馬康純もうちとけた様子になって、茶を飲んだりして退出したが、鈴木に向っても、いかにもなごやかに言葉をかけて帰ったので、水野の方も「康純も並々ならぬ人だ」と誉め合った。――『常山紀談』はこういう話だな。
C――『常山紀談』は明和年間成立という後世の伝説集だから、ことの真偽は不明だが、原城本丸一番乗りをめぐって、こんな場面があったらしいとすれば、武蔵の有馬直純宛書状には、実はややこしい背景があったことになるね。
B――有馬直純と同様、水野勝成・勝俊父子とは、大坂陣のおりのこともあって、因縁浅からぬ関係がある。もし、水野と有馬との間で、さっきのような先登争論があったとすれば、武蔵も困っただろう(笑)。
A――どっちも昔からの知り合いだから。
C――そうすると、書状に《拙者も石ニあたりすねたちかね申故、御目見得ニも祇候不仕候》というのは、どちらにも与しない中立に都合のよい口実になるわけで、「脚を怪我して、私は見舞い(挨拶)には行けないが、とにかく、おめでとう」(笑)といったふうな文言なんだな。
A――なるほど、武蔵は負傷を口実にしたかもしれない(笑)。
B――ともあれ、投石に当たって負傷したというのだから、武蔵は最前線に居たことになる。武蔵自身が小笠原長次の後見をつとめたとすれば、明石時代の子供の頃から知っている長次に戦功を立てさせる役目があって、長次を連れて修羅場に突入したわけだ。
C――そして本丸にあがると、旗本の手勢に小笠原家の幟を立てさせる。「赤地に白き三階菱紋」の幡だな。有馬の家来に出会って、相手に「先登めでたし」とか賞詞を述べる。やがて諸手殺到して本丸は足の蹈み場もない混雑となる。武蔵は本丸を下りてしまう。すると有馬直純から書状がくる。返事を書いて、使いの者に手渡す。その手紙が残り残って今に伝わった。――とまあ、そんなわけだね(笑)。
B――『丹治峯均筆記』には、投石に当たって負傷したという話はない。逆に、五尺杖で投石を突き返した、という話なんだ(笑)。
A――石に当って怪我をしたというのに、投石を突き返した、とは話が逆ですな。
C――その『峯均筆記』の記事は伝説変異のケースだね。武蔵の五尺杖と長刀にまつわる伝説になっている。それはともあれ、原城陥落のとき、武蔵が城乗りをして城内にいたとすれば、それこそ、制圧後、女子供数千人を殺した大虐殺の現場にいたということなのだぜ。この有馬直純宛書状には、噎せ返るような血の臭いがする。そのことは知っておくべきだね。
A――そういう肝腎なことが武蔵論では語られなかった。それが問題ですな。武蔵周辺の暴力的状況を見て見ないふりをして、非歴史的で非現実的な話をしてきたのが、従来の剣術者武蔵論。
B――その通りだな。具体的な歴史状況の中に武蔵を置き直して語るべきだ、というのが我々の一貫した主張なのである(笑)。

*【綿考輯録】
《水野日向守殿の嫡子美作守殿父子、有馬左衛門佐殿の嫡子蔵人殿ハ、松丸ニ一番に乘入、前後を論じて被陳候得共、台使より度々の命によりて後にハ先手鍋嶋殿手へ場所をわたし、無是非後陳ニ被引取。其外諸手共に本丸に入事不叶、各二の郭に屯せられ候》(巻四十七)

*【常山紀談】
《有馬左衛門佐康純の嫡子蔵人永純は、寺沢忠高の後陣なりしが、唯一人従者に鎗を持たせ寺沢の先陣をかけぬけて、天草丸の方へはせ入り、本丸に進んで五間ばかりの石壁を登り、「今日本丸の一番乗有馬蔵人なり。心ある士はよく見候へ」と呼ばはる処に、勝重の士鈴木半之丞、取つたる首を石壁の上に置きて息をつぎゐけるが、此の声を聞きて鎗を横たへ蔵人に向ひ、「只今こゝに来り一番とは何事ぞや。本丸は水野美作守攻入り、旗・馬印入れ置きぬ。二番とならばこれへ上らせ侯へ」といふ。蔵人、聞入れられずば唯一鎗にと思へるけしきなる上に、水野の旗本丸にたてしを見て、「さらば美作守につゞきては蔵人なり」と言はれしかば、其の時鈴木半之丞、「美作守父子の外大将達はいまだ本丸には見えず。まぎれ無き二番にて候」とて手を取つて石壁に引き上ぐるに、永純つめの丸喰違の処に進み行き、「美作守は何処にや」と問ふ。神谷、「美作守は腰廓の上に居て、こゝに旗を入れ候」と答ふ。永純聞きて、「さては美作守は我より後にてこそあれ」といはれたり。永純本丸に押入りたりと勝重聞きて、使を立て、「只今攻入られしよしくるわある所にあり。もし夜に入りて一揆討つて出づる事もあるべし。爰に一所にありて下知せられ候へ」となり。蔵人聞きもあへず、「作州は我より後に攻め入られしよ。蔵人は一寸も敵近き所を好み候ほどに、後へは引き候はじ。一揆打つて出づるとも、蔵人こゝにあらば危ふき事候はず」と答へられけり。勝重、「よしよし、詰の丸より切つて出でば敗北すべし」とて、士三十人ばかり鎗を横たへ鉄炮を前に並べたり。蔵人は鉄の楯を取寄せ、前に押立てゝ夜の明くるまで待ちかけられしかども、一揆討つて出でず。信綱下知して勝重も鍋島の陣に入りかはられしかども、永純は退かず。使度々に及びて引返されけり。落城の後三月朔日、永純、勝重の陣所に行き、「本丸の一番は蔵人にて候」といふ。勝重、「年若くてさ宣ふ。本丸の奴ばら命を限りに防ぎ候ひしを、美作守父子押寄せ討破りて、旗を一番に入れし事誰か争ひ申すべき」と答ふ。鈴木も進み出でたれば、永純また、「鈴木が申せし言もいかで忘れ候べき。作州父子は一番と思ひて、蔵人二番と申せしも分明たり。されども旗入れ置かれし所に行きて見しに、それよりはるかの後にひかへてこそおはしたれ。鈴木も旗を証にして利口を申したれ。とかくに一番は蔵人に候」といはれければ、勝重、「たとへ陣所に在りたればとて旗を一番に入れしは、これ軍の法に於いて誰かは一二を論ずべき。父子が兵ども身を棄てゝ力攻に乗取りし本丸を、他の一番に定めん事思ひも寄り候はず。よく思慮し給へ」と答へられしに、永純、「旗の前後は論ぜず候。将たる者の先駈は蔵人が外誰か候。作州は後より使を給はり候へば、一番は蔵人なり」と怒られしかば、勝重、「只今の争無益の事に候。軍に慣れたる物師に問ひて一二を定められ侯へ」といはれしかば、永純うちとけて小姓を呼び、茶を飲みて出でられしが、鈴木に向ひ、いかにも詞和に云ひて帰られしかば、「蔵人も並々ならぬ人なり」と誉め合へり》




小笠原家幟
赤地白キ三階菱紋



*【丹治峯均筆記】
《寛永十四年ヨリ翌十五年ニ至テ、肥州原ノ城ニ賊徒楯篭リ、西國ノ諸將、人数ヲ引テ嶌原ニ至、原之城ヲ責ラル。武州、其時ハ小笠原右近将監殿御頼ニテ、御同姓信濃守殿、御若輩ユヘ、後見トシテ出陣セラル。初終、鎧ハ著玉ハズ、純子ノ廣袖ノ胴著ヲ著シ、脇指ヲ二腰サシ、五尺杖ヲツキ、信州ノ馬ノ側ラニ居ラル。城乘ノ時、賊徒石ヲ抛ツ。馬前ニ来ル石ヲ、「石ガマイル」ト言葉ヲカケ、五尺杖ニテツキ戻シ、落城ニ及ンデハ、例ノ薙刀ニテ數人薙伏セラレシト也》
――さて、そろそろ時間も迫ってきたようですので、最後に一つ。二月末に原城は落城して、城方一揆衆は全滅、生き残った女子供も皆殺しです。それに対し、「人数を損ずるな」という上意にもかかわらず、一揆を制圧した側の死傷者はかなり多かった。では実際、攻めた諸大名側の死傷者はどれくらい出たのか。以下の表にまとめた数字は、その一例で、原城攻防戦に限ったものです。当事者領主の松倉や寺沢は、原城以前に多数の死傷者を出していますが、それはここには算入されておりません。
A――二月末の最後の総攻撃の前に、二十一日の夜襲の被害もあるね。
B――完敗した正月元日の総攻撃もあるし、前月年末の二十日の敗軍もある。それが一律に反映されているわけではない。
――諸家の死傷者の数字には、正月元日や年末の二十日の戦闘は一部しか反映されていませんね。また死人手負の合計だけあって、その内訳があきらかではないケースもあります。そのように数字にバラつきがあって、何ともいえないものですが、当座の目安として、ここに出しておきます。
大 名 城地 石高 戦死 負傷 死傷計 戦死/万石 死傷/万石
 松倉長門守勝家  肥前島原 4.3万石 131 266 397 30.5 92.3
 寺沢兵庫頭堅高  肥前唐津 12万石 28 324 352 2.3 29.3
 鍋島信濃守勝茂  肥前佐賀 35万石 520 784 1304
(1,504)
14.9 37.3
(43.0)
 有馬玄蕃頭豊氏  筑後久留米 21万石 190 1,055 1,245 9.0 59.7
 立花飛騨守宗茂  筑後柳川 15万石 149 465 614
(994)
9.9 40.9
(66.2)
 黒田右衛門佐忠之  筑前福岡 52万石 296 2,321 2,617 5.7 50.3
 細川越中守忠利  肥後熊本 54万石 285
(318)
1,826
(2,000)
2,111
(2,318)
5.3
(5.9)
39.1
(42.9)
 有馬左衛門佐直純  日向縣 5.3万石 39 308 347 7.4 65.4
 小笠原右近大夫忠政  豊前小倉 15万石 25 203 228 1.7 15.2
 小笠原信濃守長次  豊前中津 8万石 19 148 167 2.4 20.9
 松平丹後守重直  豊後竜王 3.7万石 31 127 158 8.4 42.7
 水野日向守勝成  備後福山 10万石 106 374 480 10.6 48.0
 松平伊豆守信綱  武蔵忍 3.5万石 6 103 109 1.7 31.1
 戸田左門氏銕  美濃大垣 10万石 4 34 38 0.4 3.8
(合 計)
 他大名派遣者含む
    1,895 10,285 12,175
(12,759)
   






松倉

寺沢


鍋島


久留米有馬


立花


黒田


細川


日向有馬


小笠原


水野



原城本丸攻口図
A――「戦死/万石」というのは、戦死率のことかな。それだと軍役何人という数字が分母になった方がよいのでは。
――軍役の人数は史料によってマチマチです。確かな数字は確定できません。そこで、軍役はほぼ石高を基準としていますので、万石あたりの戦死者、死傷者を出して、各大名において「人数を損ずる」ことになった度合を示しておきます。
A――「人数を損ずるな」というのが上意の旨だったが、こうして死傷者の数字をみると、上意は貫徹されなかったようだ(笑)。
C――松倉は、当事者だから、死傷率が高いのは当然だが、これは原城関係だけだね。それ以前にかなり死傷しているし、正月元日の百人以上死んでいるから、二月末の最終総攻撃にはもうあまり残っていなかった。松倉の家臣団はこれでほぼ壊滅だな。
B――寺沢も当事者だが、正月元日の総攻撃やそれ以前の戦闘の数字は入っていないので、見かけの数字は少ない。もちろん原城以前、天草で家臣がかなり死傷している。実際は、死人数百、手負千余人というところだろう。
A――次の、鍋島、久留米有馬、立花の諸家は、十二月から板倉重昌の指揮下に入って原城攻めに参戦した組ですな。
C――鍋島勢は元日の戦闘で三百八十人ほど戦死者を出しているが、当日の手負の数はここには入っていない。十二月の戦闘でも二百人以上の死傷者を出しておるが、その戦死者の数はここには反映されていない。
A――すると鍋島の戦死者は五百五十人以上、負傷者は二千人以上という見当ですな。
C――久留米有馬勢も、正月元日の方が死傷者が多かった。抜け駆けをして撃退されて散々な目にあったわけだ(笑)。立花は、十二月二十日の戦闘で死傷者をかなり出したから、元日の戦闘では最後尾についただけで戦闘にほとんど参加していない。死傷者はなかった。
B――十二月二十日の立花の戦死者はここには一部しか入っていない。それを入れると、たぶん討死二百という数字になるだろう。鍋島、久留米有馬、立花の諸家は先着組だが、次の黒田と細川は一月以後だな。黒田は、福岡本家の忠之の他に秋月と東蓮寺のも合わせた数字。この数字には、二月二十一日の夜襲の死傷者も入っているな。
――細川の数字は、本隊が到来する以前に、目付衆の付人や海上封鎖の番船で参戦して、元日やその他の戦闘で死傷した者を含めた数字を( )内に入れておきました。
A――細川の本隊参戦以前に、三十人以上も戦死している。黒田はじめ他家は同じように、事前に死傷者を出していたはずだが、それは勘定に入っていない。それにしても、黒田、細川両家は二万人以上の軍役だったが、けっこう死傷者率も高い。
B――後発にしては、「人数を損ずる」度合いが高いのだね。本丸乗込みでは、細川と黒田が東西で先登争いをしている。黒田側が「おれたちが一番だ」というと、細川が「そんなわけがない、おれたちが本丸に上ったとき、まだだれも来てはいない」などと反論する。
A――細川忠利の書状では、そのあたりのことをかなり怒っている(笑)。
C――相変わらず、この両家は仲が悪いのよ(笑)。諸大名布陣では、北と南の両端に分離したが、案の定、本丸で問題が出た(笑)。その次の日向有馬勢は後陣というわけで、本来、積極的に戦闘に参加するはずのない部隊だったが、有馬はかなり死傷率が高い。
B――二月末のファイナル・イヴェントだけの数字だから、これはかなり無理をさせた結果だよ。有馬直純にとっては、この有馬は旧領地だからな、これは無理してもがんばらねば、というところだな。
A――しかし、意外なのは、水野勢ですな。二月末のファイナル・イヴェント一回で、かなり高率の死傷者を出している。
B――水野家は、中国路からの例外的な参戦だ。これも、物師・軍師として水野勝成が出陣要請されたという特別なポジションだから、がんばらざるをえない。目に物見せてくれん、というわけだ(笑)。
C――だけど、それは、一揆勢というより、味方の諸大名に対してだよ(笑)。まあ、水野と有馬は、それぞれ理由は違っても、どちらも勇猛戦功を顕示する必要があった。それが本丸一番乗りで、両者の息子が争ったわけだ。
A――小笠原一門は合計一万人以上の軍役で、後発組としては最大の動員だったが、これはほどほどの働きということでしょうかな。
B――有馬や水野みたいに、無理をしてもがんばらねばならないというポジションにはない。西国九州に割り込んで外様諸大名の喉元を押さえる徳川与党としては、むしろ節度が必要なんだ(笑)。
C――それでも、有馬と水野の後塵を拝したとはいえ、小笠原長次の部隊が真先に本丸へ乗込んで幟を押し立てた。武蔵はそのあたりで働いていた。しかも先登争いをした有馬と水野は、両方とも武蔵には旧縁がある家、というわけだ。
A――原城の決戦で切支丹一揆を皆殺しにしたのだが、制圧した側にも死傷者は多かった。で、この事件の後始末なのですが、叛乱が発生した当事者領主である松倉勝家と寺沢堅高は処罰される。
B――原城陥落後、一月半ほどして下った裁定は、島原城主松倉勝家は美作津山城主森内記に御預け、その弟たち、右近と三弥も、それぞれ生駒高俊と毛利秀就に御預け。そして江戸屋敷を闕所にするという処分。
A――これは、まず松倉家所領没収ですな。翌日には、遠州浜松の高力摂津守忠房に、肥前島原への所替が命じられている。
C――そして三ヶ月後の七月、松倉勝家は死罪を命じられる。その弟たち、右近と三弥も、それぞれ会津の保科正之と陸奥常磐平の内藤忠興に御預けとなって、流罪のかたち。
A――しかし、寺沢堅高の方は、処罰は天草領四万石没収のみ。天草領は備中成羽の山崎家治が所替え。寺沢堅高は、死罪どころか、改易にもなっていない。松倉勝家に死罪というのは、どうですか。これは厳罰ですな。
B――最初は、所領没収で流罪という処分だけだったかもしれん。それが三ヶ月後に死罪になったのは、その間の「世論」の変化があったということだ。榊原職直や鍋島勝茂にしても、はじめ、二ノ丸出丸一番乗りを称賛されていたが、「あれは抜け駆けだった」という世論の糾弾があって、不本意にも老中から鍋島と榊原は弁明を求められて、結局、鍋島は出仕停止、榊原父子は追籠、つまり閉門蟄居という処分を受けた。
A――豊後目付の林勝正と牧野成純にしても、初期対応の遅滞をもたらしたというのが、諸大名の世論ですな。それで両人は閉門処分。
B――豊後目付の林と牧野にしても、あるいは鍋島勝茂や榊原職直父子にしても、数ヶ月の処分で、形だけのことだが、公儀としては、いちおうそういう世間を納得させる処分はしなければならない。しかし、松倉勝家については、改易だけでは納まらず、世論の問責の勢いが亢進したようだ。
C――その松倉については、去年より九州嶋原で徒党蜂起せしめ、あまつさえ常々無作法も数多有るにより、御穿鑿の上、死罪仰せ付られ候。つまり、死罪の理由として、島原で一揆が蜂起した事件の責任は松倉にある、しかも「無作法」も多くあった、というわけだ。
B――この「無作法」というのは、むろん所作礼儀のことじゃない(笑)。領主、統治者として、あるまじきこと、という意味だ。
C――統治能力がないというだけではなく、領主としてけしからんことを数々して、そのため一揆を蜂起させたというわけだ。これは、いわゆる苛斂誅求のことをいうだけではなく、人民に対しサディスティックな迫害をやったということだろう。
B――松倉は非常識な酷いことをやっていたという噂があった。そのあたり、松倉の家臣で岡田佐左衛門という者が、すべてを知っているはずと、拷問したが何も弁明はしなかった。其元の屋敷の作法、沙汰の限りなる儀どもにて御座候由。その屋敷の土蔵には、死人を酒に漬けていた。アルコール標本みたいだが、蝮酒のように「人間酒」を作っていたのか(笑)。これは切支丹の屍体ではないか、というわけだ。
A――『徳川実記』(大猷院殿実記)に、世に伝えるところでは、長門守勝家、常に岡田作右衛門、大町権之助という侫臣を信用し、国政みだりがわしく、民を苦しめた、その結果、今度の一乱を引起した。それで罪を蒙った、とある。その岡田佐左衛門はこの岡田作右衛門かな。
C――『徳川実記』は時代が新しいから後世の文献も引用している。その記事は「肥前島原記」という一書を引いて書いたものだろ。岡田佐左衛門か、岡田作右衛門か、そんなことは今となってはわからん。
B――例の山田「右衛門作」も「右衛門佐」ともあるからな、「作」字と「佐」字は写本の際の誤写だろう。だけど、後世の『徳川実記』は別にして、松倉勝家が侫臣を側において国政をあやまったから一揆が起こった、原因は松倉の悪政にある、という話は早々に出ていたようだ。
A――松倉については、非人道的ないろんな拷問の話が伝わっていますな。そういうスキャンダラスなことは人の口に立ちやすいのだが、公儀としてもそんな噂を無視できない。で、松倉を穿鑿して罪科が確定したと。
C――けれど、公儀にとって松倉の最大の罪は、諸大名の人数に一万人以上の死傷者を出すに至ったその原因をつくったということだろう。その責任は松倉に取らせる必要がある。
A――それは改易どころではなく、死罪に相当すると。しかし、それは結果責任ですな(笑)。
B――「人数を損じた」ということなら、上使の板倉重昌だけではなく、ファイナル・イヴェントを指揮した後任上使の松平信綱にも責任がある(笑)。だけど、すべての責任を松倉勝家にかぶせて、一種のスケープゴートにして血祭りにあげた。
C――この鎮圧大騒動は、武家支配社会を興行する一種の祭儀だった。その仕上げが松倉の死罪だった。犠牲者を多数出した諸大名もこれで納得する。というか、松倉を処刑しなければ、諸大名は納得しなかっただろう。
B――で、松倉のスキャンダラスな「無作法」を槍玉にあげる。松倉の悪政ゆえに、今回の叛乱が生じたと。だけど、それは叛乱鎮圧の後の事後的合理化だろうな。
A――松倉は、叛乱鎮圧のために帰国を命じられたのだから、少なくともその段階では罪人ではなかった(笑)。
C――松倉勝家が罪人だという認識が公儀にあれば、わざわざ叛乱鎮圧のために帰国させることはありえない。もちろん、松倉はわずか三十人ばかりのお供で帰国する。その様子があまりにも気の毒なので、加勢を付けようかという者が出るほどだった。
B――結局、松倉の家臣は主だった連中をはじめ多数が戦死して、家臣団は壊滅してしまった。しかるに、大将の松倉勝家は戦死せず、生き延びた。これも咎められるべき「無作法」の一つだったろう(笑)。
C――上使の板倉重昌でさえ戦死した。なのに、松倉は生き延びた。この構図も、松倉を生かしておかない動きを誘発する。「松倉を死罪に」というのは、事件後生じた世論だろうし、七月に松倉が死罪になっても、大名社会では当然という空気だった。
A――肥前唐津城主の寺沢堅高は、天草領没収だけ。松倉は死罪なのに、寺沢は改易もされず。だけど、これは不公平だという異見はなかった。
C――原理的にいえば、スケープゴートは一人でよい(笑)。それが複数なら、むしろ供犠の効果が減殺される。
B――だから、寺沢は助かった(笑)。しかし、それから九年ほどして、堅高は江戸で自殺した。天草領没収を不本意として自殺したというが、それはどうかな。九年も不本意を温めて自殺するかい(笑)。
C――『徳川実記』(大猷院殿実記)に「肥前島原記」という例の書を引用して、天草領を削られたのを口惜しき事に思い、自害したとあるが、それは後世の解釈説話だろ。
B――だいたい、寺沢が自害したのが「浅草」海禅寺というのも、妙な話だ。海禅寺は明暦の大火で浅草に移ったが、それ以前は妻恋(現・文京区湯島)にあった。後智恵の馬脚だね。
C――ともあれ、自殺した寺沢堅高には嗣子がなかったから、唐津寺沢家は断絶。結局は、松倉と同じ結末。かくして前後辻褄が合った(笑)。
A――公平に平均する。それが歴史というものの不可思議なところ(笑)。





*【幕府日記抄】
《(寛永十五年四月)十二日
一 松倉長門守、森内記江、同右近、生駒壱岐守江、同三弥、松平長門守へ御預ケ。
一 長門守江、上屋敷下屋敷闕所被仰付。検使、阿部四郎五郎、能勢次左衛門。
一 寺澤兵庫頭領内天草被召上之》
《(寛永十五年七月)十九日
一 松倉長門義、自去年九州嶋原徒黨令蜂起、剰常々無作法も数多依有之、御穿鑿の上、死罪被仰付候。
一 松倉長門弟右近ハ保科肥後守ニ御預、同三弥ハ内藤帯刀ニ御預也》


*【綿考輯録】
《江府にてハ、松倉長門守殿を森内記殿へ被預置、段々御僉議の上七月十九日切腹被仰付。松平甚三郎殿改易被仰付。鍋嶋殿ハ出仕を被止、榊原殿〔飛騨守殿は長崎に被居候を六月江戸ニ被召候由〕は父子被追籠置候。林丹波守殿、牧野傳藏殿閉門被仰付候得共、右四人ハ追々御免被成候由》(巻五十)








*【綿考輯録】
《松倉長門事、未落着被仰出無御座由。長門召仕候岡田佐左衛門と申もの萬事を可存とて、拷問候へども別に申分も無之由。其元之屋敷之作法、沙汰之限成儀共ニて御座候由。其上土蔵ニ死人酒に漬置候儀、きりしたんニても御座候哉との儀、御尤成御不審と存候事》(巻五十)

*【大猷院殿実記】
《世に傳ふる所は、長門守勝家、常に岡田作右衛門、大町権之助といふ侫臣を信用し、國政みだりがはしく民を苦しめけるより、こたびの一亂を引起しけるをもて罪蒙しなり》(四月十二日)






島原城 長崎県島原市城内
















唐津城 長崎県唐津市東城内


*【大猷院殿実記】
《兵庫頭堅高、国政よろしからず衆人そむきたるゆへといへども、唐津城より天草は程へだゝりたる所ゆへ、命令のとゞかざる、ゆへなしといふべからず。また城攻のときも家人等よくはたらきたり。さはいへど兇徒の張本人天草四郎は堅高が領地の民たれば、其罪蒙りて天草の地を削られしなり。しかるを堅高口惜き事に思ひ、後に浅草海禅寺に入て自害しければ、家斷たり》(四月十二日)





*【長谷川源右衛門留書】
《一 廿二日之日付、小笠原右近大夫殿御家中へ、從京都中能人へ參申候よし。状之趣、
一筆令啓達候。其元御苦労愚察申候。(中略)抑島原の様子、いまだ不落居風聞候。ね覚之おもはくにハ如此候。諸軍をひ/\さしこされ候事、無故候。今より成ともこと/\く人数相引取、西國大名弐三人に打まかせおかれ候はゞ、自然に相濟可申候。(中略)何之分別もちいさく候て無由候。此度互に武勇之あらそい無專事候。かやうの太平之時節、武を用べき事、何事候哉。本元にくらきゆへに候。たとへいか様之せつしよにてもあれ、拾丁四方と天下之勢にくらぶべく候哉。天下のいきおいをわきになし同前に角べき事、無專候。就又此事ゆへ天下之者さはがしく候とつげなく候。天下之力に而はつぶて壱つづゝ打ても、壱つかみづゝ土をなげて埋ころすとも安事に候。併諸人の心各なるゆへ、事ゆかず候。惣の手柄にしたき儀に候。なまじいに武勇侍の道、形斗のこり、人々所存有と見へて、初心のたとはゞ十指を一つ之用にたつる様に候。それにては物を握る事成間敷候。一度につかふ時、物を握候。今程は人の忠節を不存人は壱人として無之様に候へども、惣の力ひとつに成事難成見及候。それにては大功難立候。剛飯餅になるも、惣を壱つにつきあはせねば不成候哉。其もちのつきて稀に見へ候。笑止なる事候。諸軍勢をよせられ今更ひかれ候事も、外聞わるきとの事に候哉。それは物のもとにかへるみちを不知ゆへなるべし。いつからもよきもとへかへりたる善道候。又世上の外聞は、誰をあいてにしての外聞に候哉。あしき道を以諸人数多損候はゞ何より又はろき聞候。日本國は御一家なれば、如何様にも筋有様能事に候。外聞だては無実之事に候。只天下之諸大名、一分之ほまれをわすれ君に忠を尽さば、一揆はせめずともしかり、便せまりたる少き心より笑は出来候。
一 又二重ばかり堀をほり柵をふり、拾丁斗の日本之地を捨置とも、無害事に候。あらいの今ぎれは一里程地が海になり候。それにても無別儀候。鎮西府はいにしへも立おかれたる事候間、其通にて千年おかれても、日本國のわずらいにはならず候。いまほどは此事天下のさはがしき事になり候。なに事ぞや。異國への聞へも、是程の事に日本國中のさはぐも不可然候条、ことに長袖之御はからい、御くちのうそのたぐいなるべし。早々、かしく
  二月廿二日      烏 大
     徳能老 様 床下 》




狩野文庫蔵
嶋原合戦図





原城諸大名布陣図









法雲院蔵
烏丸光広像



岡山県立美術館蔵
游鴨図 武蔵筆・烏丸光広賛
A――この事件は、幕府が諸大名の大軍を催して、原城を攻めつぶしたわけだが、これについて、長谷川源右衛門留書(大河内家文書)に、おもしろい内容の書状が収録されておりましたな。
C――長谷川源右衛門は、松平信綱の家臣らしいね。そこに、今回の幕府の対応を批判した書状を収録しているのも珍しいことだ。
B――それは、長谷川源右衛門という人のセンスだな。この長谷川源右衛門という人はよく知らんが、他にもおもしろい情報を採録している。従来、天草島原一揆論は人気もあってかなり多いが、この書状に注目した例はほとんどない。そういう経緯もあるから、ここで読んでおこうか。
C――この書状は、二月二十二日だから、水野以外の諸大名がだいたい出揃った頃だな。筆者は自分の見解はこうだと、書いている。――つまり、諸大名の軍勢を次々に参戦させているが、それは故なき事だ。今からでも遅くはない、全軍を撤収させて、あとは西国九州の大名二三人に任せておけば、自然に事は収まるはずだというわけだ。
A――ようするに、十数万も大軍を催して、何をやっているのか、即時撤収しろという根本的批判ですな。
B――どうしてそんなことを言えるかというと、書いた本人が、武家ではなく、後水尾天皇側近にいるお公家だから(笑)。とにかく、土民百姓の一揆相手に、どうして大軍を動員して合戦などするんだ、ということな。九州の大名二三人、たとえば、鍋島、有馬、立花というあたりだろうが、彼らに包囲させて兵粮攻めにしておけば、放っておいても城方は自滅する。何を大げさなことをしているんだと。
C――これはもちろん、正月元日に上使板倉重昌が戦死したことも揶揄している。どいつもケツの穴が小さい。武勇の競い合いなど無駄なことだ。この太平の時節に、軍事動員するとは何事なんだ。「武」の根本がわかっていないからだと。
A――お公家にそんな説教をされては、武家もたまりませんなあ(笑)。
C――ところが、これがけっこう正論なんだ。たとえ、どれほどの切所、要害であろうと、たかが十丁四方の城だ、天下(武家政権)の勢力とは比較にならない。その天下の勢力を忘れて、相手を互角にして攻めようとする、馬鹿げたことだ。おかげで日本中大騒ぎだよと。
B――ようするに、天下の力を以てしては、飛礫一つずつ投げても、土を一つかみずつ投げて埋め殺すにしても容易な事だ。しかし、諸大名の心が各自バラバラなので、それができない。
C――大名全員の手柄になるようにしたいものだが、それができない。なまじに武勇、侍の道が形ばかりのこっているのが、始末が悪い。各人が思い思いに動く。たとえば十本の指が勝手に動いては物は握れないのと同じ。今は、人の忠節を知らぬ人は一人も無いようだが、実際は、全員の力が一つになることは難しいようにみえる。それでは、大きな功業は実現できない。こわ飯が餅になるのも、すべてを一つに搗きあわせなければできない。その餅の搗き手が今は稀になってしまったようだ。笑止なことであると。
A――これは、将軍の上使には統帥力がないという批判ですな。諸大名の大軍を動員しても、それぞれ武勇の道を競ってバラバラに動く。何の統一性もない。また、全軍を一つに統率できる者もいない。だったら、大軍を動員する意味も理由もない。そういう辛口の批判ですな(笑)。
B――大軍を動員する意味も理由もない。とすれば、全軍を撤収させるべきだろうと。だけど、すでに大軍を参戦させている、今さら撤収などできない。外聞がわるいという面子がある。しかし、それは物事のもとへかえる道を知らないからだ。もはや元へもどせないということはない。いつからだって元のよい状態へもどせる、それがよき道だと。
C――だいたい、外聞というが、それは誰を相手にしての外聞なのかと(笑)。要するに、自分の面子にこだわっているだけだろ。間違ったやりかたで、人数を多数損ずるとすれば、それこそ何より外聞が悪いはずだ。日本国は御一家、徳川の統一政権だ。とすれば、どんなぐあいでも筋があることがよいことだろ。諸大名それぞれの外聞立て、面子を立てるなど、実のないことで、どうでもよいことだ。ただ、天下の諸大名が、自己一分の名誉欲をわすれ、君(将軍)に忠を尽せば、一揆衆を攻めずともよいと。
A――君(将軍)に忠を尽せば、一揆衆を攻めずともよいとは、たいへんな逆説ですな(笑)。
B――ようするにだ、この書状は、諸大名に軍勢を撤収しろと言っている。筆者は、諸大名の功名心、我が身の一分を優先させるのを批判しているように見せて、実は諸大名に動員をかけた幕府を批判している。この筆者のレトリックは、武家政権が軍勢を大量動員したのを批判している。実にもって廻った言い方でな(笑)。
C――だから、筆者は、この大量動員が、幕府が仕かけた新しい大名統制だと見ぬいている。これは、幕府がはじめて諸大名を動員して実行した軍事演習だ。しかも、寛永新修の武家諸法度を実効化するための演習だ。筆者が、諸大名は軍勢を撤収しろと言っているとすれば、つまりは、幕府の命令に従うなということだ(笑)。
A――それを言うために、天下の諸大名が、自己一分の名誉欲をわすれ、君(将軍)に忠を尽せば、一揆衆を攻めずともよい、という逆説的なレトリックを繰り出している。
B――筆者は、原城を攻めるのはやめろ、そのまま放置しろというわけだ。原城は海辺の城砦だが、それに対し、二重ばかり堀を掘り、柵を設置して封鎖、ロックアウトすればよい。十丁ばかりの日本の土地を捨てたからといって、害があるわけではないという。
A――そのあたりは、すごい論法ですなあ(笑)。
C――そこがこの書状の出色たるところだ。新居の今切れ、これは遠州浜名湖の湖口だね、ここは明応の大地震と津波で陸地が水没した所だが、筆者曰く、ここは一里ほど陸地が海になったが、それでもどういうことはない。一揆衆が籠城する原城も、そのまま千年放置しても、日本国のわずらいにはならない。ノープロブレムだと(笑)。
A――日本中が大騒ぎしているのに、この筆者は、これは何事だ、何を大騒ぎしているんだという。
B――こんなことで、日本国中が大騒ぎしているのは、異国への聞こえもよろしくない。恥ずかしいことだと。そうして言うね、《ことに長袖の御はからい、御口のうそのたぐいなるべし》(笑)。
C――長袖、つまり仏僧あるいは学者たちが心配だと言っているのは、口舌の嘘の類いだということね。これは、切支丹の陰謀は国を乗っ取ることにある、だから切支丹は根絶すべしという論説のことだろう。それはイデオロギーの虚偽なんだと。
B――この結句まで読んでわかることだが、筆者の意見は、切支丹を殺すな、そのまま放置しろということなんだ。それは何も、切支丹シンパだからそう言うのではなくて、切支丹殲滅に日本国中が大騒ぎしている、そんな社会の狂気だね、それを掣肘しているわけだ。
A――そういう冷静な透徹した知性が、この時代に存在したということですな。
C――さてそこで、この筆者はだれなんだと。この書状は、京都の公家が小笠原家中の友人へ出した書状だが、「烏大」とあるところをみると、烏丸大納言、つまり烏丸光広(1579〜1638)が書いた書状だろう。
B――烏丸光広は、当時第一級の知識人で、言いたいことが言えた珍しい人。彼ならば、さもありなんという内容だろ。しかし、こんなものがよく入手できたものだな(笑)。
C――宛名の「徳能老」という人は、まだ特定できていないが、「中能人」とあるから烏丸光広と親交のあった人物らしい。小笠原家中で、これをおもしろいと思って写した者がいたんだね。その写しが長谷川源右衛門の手に入った。
A――で、小笠原家中、そして烏丸大納言光広というファクターがあるとなると、これは小倉宮本家のご隠居、宮本武蔵先生のご登場をねがわなくては(笑)。
B――烏丸光広は武蔵より五歳ばかり年上だね。ほぼ同じ世代だ。武蔵と烏丸光広の交渉がどんなものか、それを具体的に書いた史料はないが、武蔵の画「游鴨図」(岡山県立美術館蔵)に、烏丸光広が賛を寄せている。武蔵は若い頃から京都の文化人と交友関係があったが、その一人だろう。
C――というわけで、武蔵の友人には、こんな異見を呈する人物が居た。もちろん、武蔵は小笠原忠政に頼まれて有馬陣に参戦したのだから、別の考えがあったろうが、武蔵の思想的なバックグラウンドね、その一端にはこうした少数異見も垣間見えるということだ。
A――武蔵も、大軍を催して原城の切支丹を攻め潰す愚行には辟易、というところもあったでしょうな。この事件に武蔵が何を考えていたか、それは単純な割り切りはできませんな。
B――そのあたりは、かなり複雑なんだ。それをもっと言えば、世代的には有馬直純らと共有する切支丹信仰という幼少時の思想的環境もある。だから、「島原の乱と宮本武蔵」というテーマには、汲めどもつきせぬ興味深いところがある。
C――まあ、今や世の中に白痴的な武蔵論ばかり多い中で(笑)、そのあたりが明確になっただけでも、今回の成果があったというものだ。
――興味深いお話が続いて、なおまだ尽きないようですが、時間が参りました。この原城の有馬陣参戦のことは、それが切支丹一揆ということもあって、おそらく武蔵自身にとっても重大な事件でした。今回のお話で、武蔵と島原の乱について、従来知られていなかった事柄がかなり明確になりました。最後にもう一つ、この武蔵サイトの研究動向についておうかがいしたいのですが、今年春からこの武蔵サイトでは、[宮本武蔵・美術篇]がスタートしております。先ほど烏丸光広の話もでましたが、現在「武蔵美術論」が進行中です。今後このパートはどうなりましょうか。
B――「武蔵美術論」は、まだしばらく続く。どこまで分析を進めるか、最終的には決めていない。けれど、アーティスト武蔵という側面については、かなり面白い結果が出そうだ。
A――そのばあい、武蔵作品の真贋まで話は行くのかな。
B――そう。ただし、これまでとはかなり座標が変るだろう。たとえば、落款・印章から基準作を決めて、などというやり方はしない。絵画作品そのものを見て行く中で、絞って行くというやりかただね。
C――まあ、落款・印章から基準作を決めるなんてのは、骨董屋のすることだな。そんなことを美術史家はしてはいかん。というのも、落款・印章なんて、いくらでも精巧な模造ができるからだ。もともと花押だって、まず型枠を押印して、それから墨で塗りつぶすから、だれも同じ花押が描ける。ようするに、作品そのものを見る眼がなければ、落款・印章や紙質といった二義的外面的要素をどれだけ厳密に定義しても、それは無意味なことだ。
B――長谷川等伯の「松林図」がいい例だね。あれなど、押印は明治期かもしれんというやつだ。それでも、等伯の真物作品とみなされているし、しかも国宝なんだ(笑)。
C――もしあれが等伯作品ではないとしても、作品それじたいの価値は変らないだろう。しかし、それよりもだね、あれは、真物/偽印という厄介なケースだね。
B――真物/偽印というケースは、従来は多くが贋物とみなされて、ハネられておった。逆に、贋物/真印はこれを真物とみて、基準作にしてしまう。それは、作品そのものを鑑識できないから、そういうことになる。
C――田能村竹田『山中人饒舌』に武蔵の記事があるね。そこで竹田は武蔵に関連して、赤穂事件の大石良雄の画を評価している。興味深いではないか。そこで、この間、播州赤穂で、大石の画として伝わるものを見て歩いた。
B――大石の号は、たしか「可笑」、笑うべし、だ。なかなか粋人なんだ、大石良雄は。
A――大石の書なら見ているが、画は知らない。見たところ、大石の絵というのはどう?
C――浅野家菩提寺の曹洞宗の寺(花岳寺)にあるのは、墨画の達磨図をはじめ、どれも大したことはない(笑)。田能村竹田の評価ぶりを念頭において、これを見れば凡庸なんだ。竹田の見た大石作品は、たぶんこんなレヴェルのものじゃないだろう。これに対し、大石神社に、これは、というのがあった。
B――それはそれは、興味深いねえ。で、それは、どんな画なのかな。
C――それは彩色の花鳥図だね。六曲一双、計十二面の屏風画だった。各面に「可笑」朱印がある。もともと高野山に伝わったものらしいが、昭和三十三年に、この赤穂の大石神社の手に渡ったという話だ。屏風じたいはかなり痛んでいるが、絵の色はまだ褪せていない。この画がかなりいい。もしこれが、大石の画だったとすれば、田能村竹田の評価ぶりと符合するだろう、というほどのものだ。
A――それは公開展示しているのですかな。
C――いいや。特別に収蔵庫から出して、見せていただいた。十二面の花鳥図、勝手に命名するなら「紙本彩色花鳥図屏風」、これが、狩野派というよりも、むしろ元禄以降という新しいセンスの絵画だ。後印の可能性もあるが、田能村竹田の評価に見合う水準のものといえば、やはりこのあたりじゃないのか、と思わせるね。ただし、私はまだ他の伝大石作品を見尽くしてはいないから、これを大石作品とする材料をもたないが。
A――大石絵画論は、まだ何も出てはおらんでしょう。武蔵どころじゃない。皆無と言ってよい。その彩色花鳥図屏風の話は初耳ですね。
B――おそらく大石良雄絵画論はこれからだろう。その大石神社の彩色花鳥画屏風が出たとしても、まだ位置づけどころではない。それ以前の段階。大石の「可笑」印も、書画から一通り集めて分類する必要がある、そういう段階だろう。
C――それに比べれば、武蔵の絵画研究はまだ進んでいる方だな。一通り作品群が整理されて、個別作品の位置づけもできる。落款印章も分類整理できる。そこまで来ているから、こんどは作品そのものを改めて見る、評価するという段階だろうね。
A――そうですな。しかし一方で、作品そのものを見るという条件の、補助的手段として、考古学者のように科学的に、という話もあるけれど、究極的な科学的真贋鑑定法はあるのかな。
B――それはまだ実用化されてはいないが、もちろん、絵画材料の年代測定法だね。紙質の年代分析は、古紙で騙せるから大して重要ではないが、墨の年代分析、これの科学的測定法が出てくることだね。それから、もう一つは、さしあたりは、DNA鑑定だね。
C――画面に付着した武蔵のDNAを採取するのかね。それは面白いな。それができれば、かなり厳密な真贋判定ができるなあ。ごく微量の資料からDNAが採取できるからな。
――DNA、ということは、武蔵のクローンだってできるということですか。
C――バカ言っちゃいけない(笑)。それはまだSFだろうが。とにかく、そういう物理化学的な補助鑑定が、今後の研究展開の可能性を開くが、しかしまずは、絵画作品そのものの鑑識ができていなければならない。それが武蔵作品については、まだ出来ていないというわけだね。
B――それをとりあえずは、じっくり時間をかけて、ということだね。慎重に、ということじゃなくて、きちんとした方法論をもって厳密に、ということだ。その点、従来の武蔵美術論は、骨董屋か素人談義に終始しているから、話にならない。
A――それでは、じっくり時間をかけてやっていただきましょう(笑)。
――では、今回はこれでお開きにさせていただきます。お暑い中、ありがとうございました。お気をつけてお帰りください。
A――はいはい。もう、年寄りだし(笑)。
(2004年7月吉日)

New Series:
 宮本武蔵・美術篇 


松林図部分 国立東京博物館蔵
等伯「松林図」印章




花岳寺 兵庫県赤穂市加里屋


大石神社 兵庫県赤穂市上仮屋

彩色花鳥図屏風 大石神社蔵
大石良雄「可笑」印
彩色花鳥図屏風






高輝度光科学研究センター(JASRI)
大型放射光施設 SPring-8
兵庫県佐用郡三日月町光都


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