A――事件の原因は、領主の苛斂誅求にありという、そういう論法だと、松倉が領民に苛斂誅求をしなければ、今回の一揆は起きなかったというわけで、それは話がおかしい(笑)。
C――寺沢の天草領でも大規模な叛乱が起きたのだから、これも、寺沢の悪政が原因で一揆が起きたという話になる。しかし、天草領の総責任者である三宅藤兵衛が、そんな悪政をやったとは思えない(笑)。ようするに、一揆勃発の原因は領主の苛政にあり、とするのは責任追及のステロタイプな論法なんだよ。ただし、数年来の不作で、年貢未進があって、それをめぐって領主松倉の代官と村々の百姓の間でトラブルがあった。
B――鍋島の家老・多久安順の書状があるね。これは叛乱勃発後の早期の風説を記録したものだが、それによると、やはり噂では、年貢未進の催促が過酷で、生き延びられそうにないので、一揆を起したというようだ。ただし、それも、切支丹になったということなら、公儀から切支丹改めの検察官がやって来るだろうから、そのとき実情を訴えようということらしい、という噂だな。
C――それだと、切支丹になったのは、越訴のチャンスをつくる手段だというわけで、これは一種の解釈説話だな。それと、多久安順の書状にもう一つ雑説口として拾っているのは、天草四郎と思しき若党が一人やってきて奇妙の教説を説いて、皆が切支丹に進んで成った。それを役人が詮議しようとして、このような一揆が起ったという話。この後者の方が実態に近いが、貢納をめぐる悶着があったのは確かだろう。
B――具体的にいえば、数年前から天候不順で不作が続いたが、中間管理職たる代官たちは、職務に忠実で(笑)、年貢取立てをゆるめなかった。それで村方の庄屋連とトラブルが生じた。関係が険悪になると、代官連は戦国以来の作法で、人質を取って貢納を強制する。
C――それは、暴力団たる武家の強盗的本質だな(笑)。領主は仁政のつもりでも、現場の代官たちは、領民から十分な年貢を巻き上げないと職務怠慢になるので、苛斂誅求に邁進する。
A――しかし、それが村方の許容範囲を越えてしまうと、村々はやむをえず一揆で蜂起する。ところが実際は、島原、天草のすべての村々が一揆に参加したのではない。
B――松倉の領内で、村ごとに一揆に反対した人数のリストがある。「みかた」というのは、一揆に反対して鎮圧側に味方した連中だが、人口比では半分以下の四七%。半分以上は一揆衆だ。それをみると、一揆の組織率はかなり偏っている。
C――有馬、有家村を中心とする領内南部地域に偏っているな。もちろん全体としては、一揆に参加しなかった村々の方が多い。ということは、代官の苛斂誅求にもそれぞれ強弱があって、村によってはそれが許容範囲以内で、叛乱を起さなかったかというと、これもそうではあるまい。
B――それだと、代官の個人的性向、つまり悪代官のもとでは一揆が起きるという話になって、これも特定個人へ責任をかぶせるだけのことだ。領主大名だろうが、現場の小役人たる代官だろうが、こういう悪代官原因説は、世間を納得させるための嘘だな。
C――むろん世間も、こみ入った話より、そういうわかりやすい嘘を信じるのが常だ(笑)。
A――その悪代官原因説は、世間が「水戸黄門」になって悪人を排除するというわけだ。そうではなく、原因は個人という偶発的要因に還元できるのではなく、問題は武家支配社会というシステムにある、というのが、これまたかつての謬説。
B――天草島原一揆は、幕藩体制というシステムそのものへの異議申立てだったとかね(笑)。そんなふうに話を抽象化してしまってはいけない。
C――そこでは、この叛乱が切支丹一揆だったという肝腎のファクターが抜けている。どうして数万人もの人間が、女子供もふくめて皆殺しにされるまで、戦うことになったんだ、問題はそこだよ。
A――苛斂誅求が原因なら、当事者の悪代官を殺して、庄屋らが一揆の責任者は自分たちだと自首して、処刑される。それで一件落着。ところがこの一揆はそれどころではない。あちこちで合戦に及んで、抵抗をやめない。
B――ついには原城へ籠城して、結果は以上の通り。最後の審判の時が到来した、我々は切支丹に立ち返った。転んだ我々は起き上がったというわけだ。
C――かつて切支丹宗門が禁制になり、領民は転向を強制された。転向しない者は拷問され、サディスティックで入念な方法で殺された。偽装転向して生き残った者たちは、潜在的な隠れ切支丹となる。彼らは背教の負い目もあって、とりわけ羊のように従順な領民として生きてきた。しかし、もし代官が他の村々よりも、この地域の領民に苛斂誅求を布いたとすれば、それは、転向切支丹の村々に対する露骨な差別意識があったからだ。転向切支丹の村々の領民は、その差別を甘受して生きてきた。それが実際のところだろう。
A――被差別民としての転び切支丹。あいつらにはどんな酷いことをやってもいいんだ、という非人間的な弾圧があった。そして彼らが羊のように従順であればあるほど、酷い苛斂誅求をしかける。
B――しかし、切支丹の教えは忍従だとはいえ、当時の日本人は、まだ誇り高き人々だ。だから余計に苛酷な非人間的差別には堪忍ならなかっただろう。彼らの忍従という自己抑圧を解除したのは、天の使いとして登場した天草の四郎という存在だった。
C――発端を言えば、十月半ば、島原の転び切支丹が一斉に切支丹に立ち返った。十月といえば、収穫が済んで村々の祭りの頃だ。そのふだんの祭りとは違う祝祭的興奮が村々におこった。二十二日、有馬村で村民らが集会しているのを、代官らは制止したが、騒ぎが大きくなった。代官は島原城へ注進して、島原から人数が来て強制排除し、三吉と角内という頭目格を逮捕して、島原へ連行した。しかし騒ぎは収まらず、二十四日、また集会しているので、代官は行って打擲し絵像を破壊して解散させた。ところが、また寄合をしているというので、代官林兵左衛門が行って追い散らした。しかし、「会合の者、如何思ひけん」、追いかけて林兵左衛門を打殺した。これで、彼らはついに一線を越えて、後戻りできないところへ出てしまったわけだ。
B――それはまさに、未知の次元へ出てしまったんだ。有馬村の者は、周辺の郷村へ通知を出す。我々は代官を打殺した、かくなる上は、宗門は一揆一味して、村々の代官・寺社ともに打殺そうじゃないか、と。これによって、周辺一帯に一揆が勃発した。
A――整理すれば、ようするに、十月半ば、祝祭的興奮とともに島原の領民が切支丹に立ち返った。彼らが集会するのを代官が追い散らした。何度もそんなことがあって、切支丹の集会に乗込んで暴行させた代官林兵左衛門が打殺された。これがすべての発端。
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*【鍋島家老多久安順書状】
《右の起りは、彼地二三年耕作損耗仕候故、未進など過分ニ御座候を催促稠敷御座候ニ付て、兎角繼命難成候間、一篇きりしたん宗ニ罷成、從公儀爲御改御検者衆も御座候得ば、其次而を以、御詫言可申上積ニて候とも申候。又雜説口ニ申候は、若黨の一人、無由緒罷越、奇妙の教を仕、何もきりしたん宗に進成候故、夫を相改被申に付て、如斯一揆相起り候共申候》(十月晦日)
*【松倉領内の非切支丹】 (「野村氏島原陣覚書」きりしたんに立向一揆起申村々人数)
人口 みかた
三會村 2,626 653
嶋原村 823 203
中みさ村 719 144
深江村 1,824 0
布津村 1,103 0
堂崎村 626 0
有家村 4,545 0
有馬村 5,172 0
かづさ村 3.949 0
串山村 1,962 0
小濱村 1,406 140
千元村 2,001 1,000
計 26,985 2,143
みかた仕候村々人数
安徳村、東空閑村、大野村、湯江村、多比良村、ひぢくろ村、西郷村、伊古村、伊福村、三室村、守山村、山田村、野井村、あいづ村、西古賀村、日見村、も木村、かば嶋村 計 11,470
島原町諸町 計 4,858
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(集計)人口 43,313人
切支丹 24,842人(57.4%)
非切支丹 18,471人(42.6%)
*【野村氏島原陣覚書】
《十四年丑ノ十月中旬ヨリ島原領分有馬村在々所々騒動之由故、留守居年寄ドモ指圖ニテ、桂杢之丞、桑野八兵衛見分ニ遣之、有馬村、有家村、口之津見分可申旨、サテ又年寄田中宗夫、岡本新兵衛、多賀主水申渡候ハ、有家村代官對島久太夫案内ニテ所々見分イタシ、口ノ津エ參り庄屋三平、右衛門作、其村頭立候モノドモヲ呼出シ、時分ガラ納所時分ニ、遊山ガマシク男女ヲビタヾシク往来仕候事、何事ト様子相尋候所ニ、三平、右衛門作、其村ノモノドモヽ申候ハ、此一両日タツトキ御神、天草ノ方ヨリ御越ノ由申触候。依之御座處ヲ尋申トテトナリ。郷ノモノハ此方エ參り、此所ノ女童子ハ他郷エ尋參り候。大形狐ナドノワザニテ可有御座ト存候。時分柄迷惑ニ存ジ、随分制道仕候ニ付テ、此邊ニ寄合モノ無之由、口ヲ揃申ニ付テ、弥制道可仕旨堅ク申付、有馬代官、有家代官、堂崎村、布津村代官ニ其旨ヲ申渡ス。村々躰、急ギ歸り注進可然、我々モ追付罷越可申旨、心得申可給由申候。廿三日ニ島原へ歸り、委細見届候通り申達候也。
同廿五日ニ發ル。
一 有馬村三吉、角内、寄合大勢、吉利支丹ノ法ヲスヽメ申ニ付、十月廿二日ニ、島原ヨリ松田兵右衛門、多羅尾杢左衛門、召取ニ參り、則戊ノ刻ニ両人共ニカラメ申、舟ニ取乗セ、右両人罷歸ル也。其跡ニテ寄合ヲクワダテ申由沙汰有之ニ付、庄屋肝煎ニ聞付次第注進イタシ可申旨申渡シ、其外目付ヲ遣シ、代官制道イタシ候所ニ、然共寄合申ニ付テ、會合ノ所エ代官行、打擲イタシ繪像ヲ破り、追チラシ候得共、亦寄合如此ト注進イタスニ依テ、林兵左衛門斗行、追散シ歸ル所ヲ、會合ノモノ如何思ヒケン、追カケ、兵左衛門ヲ打殺ト其儘、隣郷村、次ニ、北ハ口ノ津、賀津佐村、小濱村、串山村、千々岩村、南ハ有家村、堂崎村、布津村、深江村、木場村、安徳村、右ノ在々エ觸遣スハ、此方代官林兵左衛門、只今打殺候。此上ハ宗門一揆一味イタシ、村々ノ代官、寺社トモニ打殺ベキ由申遣ス。依之一味一同ミ發ル》
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