坐談・宮本武蔵
播磨武蔵研究会萬珍放談会

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態申遣候。天人天下り被成、ぜんちよの分ハ、でうす様よりひのぜいぢよ被成候間、何の者成共貴利支丹に成候ハヾ、爰元へ早々御越可有候。村々の庄屋をとなはや/\御越可有候。嶋中へ此状御廻可被成候。ぜんちよの坊主成共、貴利支丹ニ成申者御ゆるし可被成候。天草四郎と申ハ天人にて御座候。我等儀被召出候者にて候。きりしたんに成申さぬものハ、日本國中の者共、でうす様より左の御足にていんへるのへ御ふミこみ被成候間、其心得可有候。 (有馬廻状)
05 NON PENIS A PENDENDO  (前篇)  Back   Next 
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――ずいぶん暑くなりました。今年も折り返し点で、坐談武蔵の五回目になります。今回もしばらく間隔が空きましたが、なかなか予定の調整が難しくて、困りました。では、口切りに何かお願いしましょうか。
A――いやいや、申し訳ない。今回は私のせいですな。顔合わせが出来て、まずは、やれやれです。今回はどうしましょうか、やはり何回も話題にしているイラク戦争でしょうかな。我々は何も戦争が好きで話題にしているのではない(笑)。戦争が終結して一年以上、しかしこれがなかなか決着がつかない。
C――米軍の死者は戦勝後の方が何倍も出ている。戦争中よりも戦後の方が戦争だ。これは何とも奇妙な戦争じゃないか。占領軍が全土を制圧しても、決してレジスタンスは終熄しない。むしろ逆に占領という戦後状態が抵抗運動を激化させた。状況は戦争中よりも危険な状態で、「治安」が悪化している。
B――だから、米英軍は泥沼にハマった、罠にハマった、という。傀儡政権を作って主権を委譲した形式にして、次の段階へ移行しようとする。しかし米英支配という政治状況の本質は変らないから、ゲリラ戦は続くだろう。
A――厭戦気分が濃厚になっている。早くパペットを動かしたい。ところが、政権の正統性がない上に、まったく頼りになりそうにない。これでは、従来アメリカ政府が捏造してきた軍事独裁政権どころじゃない。よちよち歩きの赤ん坊どころか、自分で匍うこともできない。何から何まで、おんぶにだっこ。そういう意味では、今度の傀儡政権はかなりお粗末だな(笑)。
B――抵抗を抑圧する強力な弾圧ができなければ、権力の正統性なき政府は維持できない。我々がいま目撃しつつあるのは、正統性なき権力がいかにして政治権力に到達しうるか、という政治学的実験だね。これは、新兵器の実験をやるのと同じ発想だね、ゲームに似た、しかもかなりアカデミックな実験ではないか(笑)。
C――しかしだ、それもこれも、アメリカのやりたい放題だな。帝国主義の植民地支配とは、いかなるものか、それを我々は見せつけられている。そのシンボルが、あのアブグレイブ刑務所の一件だな。ここには、およそ植民地主義の本質というものが露呈している。近年ジョルジオ・アガンベンが《Homo Sacer》という概念を持ち出したが、しかしこの事態をそんな西洋的意味合いへ回収してはいけないな。
B――もちろんね。あの写真を出したワシントン・ポストでさえ、「これらの写真は、植民地主義の行動パターンを表現している」と書いた記事を載せた。「これは占領地の住民を貶しめ、地元の伝統を侮辱し、征服された民を凌辱するものだ。これは例外なのではない。場所を変えて、インドネシア人をオランダ兵が、アルジェリア人をフランス兵が、コンゴの人びとをベルギーの兵勢が惨殺しているというふうに、どの場面の写真であってもよかった」というがね、そんなふうに一般化・歴史化するにはまだ早い。このレアな事実を味わえと言うべきだ。
A――アメリカ本国では田舎町の平凡なウダツのあがらない若者でも、ありがたいことにブッシュ大統領のおかげで、ここまで「出世」して、非道なことができるのだね。デジタルカメラが撮った千枚以上の映像が、CDに収められて出回り、しかもインターネットで故郷の愛する人々へ送られる。「楽しんでいます。パパがここにいなくて残念」、すばらしいじゃないか。まるで観光気分で、モスクを背景に一枚、砂漠でラクダにのって一枚、そして軍服の若い女が裸のイラク人男性の首紐を引っ張って一枚…。この並置のおそるべき平凡さの異常性、これは一体なにか。








B――あの誇り高きムスリムの男たちを徹底的に侮辱するために、裸にして玩具にし、犬をけしかけて噛ませ、さらには男たちに互いにフェラチオさせて嘲笑するんだな。ようするに、「おまえら、これでも男かい? チンポ立たせてみろよ」と。立ったら立ったで、「おまえら、男のチンポを咥えて合って、そのざまはなんだ、おまえら女じゃないのか? コーランにそんなことをしていいと書いてあるのかよ」と愚弄するわけだ。
C――去勢の性的隠喩が字義通りになろう。ことに戦闘的イスラム原理主義者に対する徹底的な人格破壊だね。おまえら、もう戦えない男たち、(役に)立たないチンポ。ようするに、これをラテン語で韜晦すれば、《Non Penis a Pendendo》、立たぬチンポは無用という嘲笑なんだ。
A――やったのは、「異常者」ではなく、どれもこれも、平凡な市民の子弟子女。ママが言うには「あんなことをするのは、あの子の本性ではありません。あの子の性質には邪悪なものなんてこれっぽっちもないわ。狩りに行っても、獲物を殺せなかったほどなの」(笑)。しかし、たまらんのは、この若い女だなあ。
C――たしかにね。ロリ顔の可愛い子ちゃんが、まったく無邪気に遊んでいる。猫が鼠をいたぶって遊んでいるのと、まったく同じだね。しかし、この無邪気さこそ、植民地主義者の無邪気さだな。そして、それはね、使用人の東洋人給仕が部屋に入ってきても、それを無視してセックスをやっている白人男女、という例の植民地主義者の構図と同等なんだ。ようするに、東洋人は人間じゃないから、それができる。動物なんだよ、東洋人は。
B――だから、これは決して偶然ではない。今回の侵略戦争は、こうしたおぞましいレイシズムを眠りから呼び覚ました。リベラルなエリートではなくて、ごく平凡な市民こそ、レイシズムの温床なんだ
A――自衛勢は人道支援と言うがな、もし本当の人道支援だったら、このアブグレイブみたいな虐待現場を摘発すべきだろう。もちろん、そんなことは頭からないだろうが。そんなことをすれば、アメリカ軍と戦闘になる(笑)。
C――うむ、もしそれをやったら、自衛勢派遣の意義があるし、国民にも、世界中にも、大うけだろうが(笑)。しかし、そんな気骨、スピリットは、現在の日本政府にはないし、それゆえまた、この官僚化した軍勢組織にもない。
A――武士道は、江戸期のエトスというよりも、ある意味では日本近代の所産だったし、我々はさして評価しないのだが、そんな武士道のスピリットでさえ、現在の日本軍人の体たらくと比較すれば、まだマシと言える。
C――ただね、その武士道精神は、中国人「テロリスト」や白人捕虜を、日本刀で斬首する「勇気」でしかなかった。植民地主義的虐待は、東アジアを侵略した日本兵にしても同じだった。
A――それは、武士の情けなどない、情けない武士道ですな(笑)。
C――家郷へ帰ればよき父よき兄である者らが、まったく情けないことをしてくれた。中国各地の革命博物館や抗日烈士記念館に展示しているが、日本でも到る所の庶民の家に死蔵されているアルバムには、今でも虐待写真があるはずだ。実戦の経験の無い初年兵の士気を高めるために、とか言ってね、銃剣で刺す実験をさせる。捕まえた捕虜や市民を実験材料にした。この練習で肝が据わると言ってね。あるいは所持する日本刀の切れ味を試す。これは日本では昔からある験シモノだな。他にも、単にゲームとして斬首した。百人斬りとかね、自慢したものだ。
B――それは侵略者の野蛮だが、内容は暴力の悦楽なんだよ。前にも言ったと思うが、今回の侵略戦争には、石油より大きな利得がある。今回の戦争の最大の利得は、《ジュイサンス》(jouissance)だというべきだ。国際法を蹂躙し、同時に自ら遂行する戦争を軽蔑しつつ戦争に勝利し、異民族を支配する、この倒錯的悦楽こそがアメリカ社会にとっての最大の利得だった。
C――まさしくそれが、アブグレイブで実行された虐待行為の本質だね。今回のイラク占領戦争、実際にはこれは戦争反対諸国に見せつけるだけではなく、いかに米国が偉大か、国民が実感するための演習だ。だから、この虐待行為は、まさにアメリカ庶民の応答なんだ。しかも、それは決して偶発的で異常な例外ではなく、厳密な意味で、正確な応答だった。




*【Codex Goliardi Dextrissimi】
 Canis a non canendo,
   non penis a pendendo
   nec minime a poenando
   sed certe penetrando.









A――アブグレイブは氷山の一角、しかしそれだけではない。アメリカは、アフガン・イラク戦争を契機に、国外に「収容所」をもつようになっていますな。この刑罰システムの国外布置は、アメリカが、臭いものに蓋をするといよりも、国外なら非合法なことも好き勝手にやりたい放題できる、ということを実験している。
B――どうなんだろうね。それを世界は阻止できない。アメリカ政府は、非合法行為を好き勝手にやる、まさに無法者国家になった(笑)。しかし、笑い事ではなく、戦争捕虜を国際法などおかまいなしに、そのように国外の収容所に監禁できるなんてことは、これまでなかったことだ。アメリカはそのうち世界中に収容所をもつようになるぞ。ただし、本国以外の場所に。
C――世界中に自営の刑務所をもち、国家主権など認めず、グローバルな刑罰システムを構築する。世界の警察官というが、それどころか、もう世界のヘゲモニーを掌握して、三権を独占したつもりなんだ。これがアメリカの覇権主義でなくて何か。しかし近代政治システムでは、裁判官は警察から独立であらねばならないが、もうそんな時代ではない。アメリカが構築しようとする、このポストモダンな世界秩序において、明らかに前近代の政治システムが復活しようとしておる。
A――それは、日本でいえば幕藩期の行政システムに極めて類似してきた(笑)。
C――それが証拠に、二〇〇二年のハーグ国際司法裁判所(ICC)の一件だね。これは虐殺や反人道的犯罪、拷問、レイプ、また性的蛮行をも含めた人権侵害、戦争犯罪を取り扱う。国家元首から一介の市民まで、だれであれ訴追する。ところが、高邁な趣旨で創設されたこのICCに、民主国家アメリカは反対だ。もし自国の兵士や市民が拘束されたら、奪還のためにハーグへ軍勢を送る、という立法措置まで検討中とか。自国民はだれにも裁かせない、何と立派な国家だ(笑)。それが米帝のグローバリズムなんだ。
A――まあしかし、いまイラクへは、アメリカ本国で食いつめた連中が出稼ぎに行っていますな。本来占領軍当局がやる仕事を、多く民間営利会社に下請けさせている。おかげで警備会社は大儲け(笑)。これも戦争利権のひとつですな。
B――そんな大義もクソもない戦場へ、日本の若者たちを行かせるな、と言うんだ。
C――アメリカでは刑務所だって民営化している。こういう戦争業務の「民営化」は、アメリカ以外の国家主権は認めないという米帝世界支配の徴候だね。もう戦争は国家間戦争じゃなくなる。政府は汚い仕事をしたくないとすれば、そのうち侵略戦争だって民営化するかもしれん(笑)。
B――その場合、競争入札だ。こんどの戦争、我々が三百億ドルで請け負う、いや、うちは二百九十億ドルだとかね(笑)。すると、相手の国は別のアメリカの会社を下請けにして、応戦する。戦争が民営化するその究極のイメージは、そんなアメリカの警備会社間の戦争だ(笑)。
A――それが根拠なき絵空事ではないところが、こわい。(笑)



B――アメリカ支配の世界新秩序ね、それは、国内では政府がいかに民主的であろうと、国際的な次元ではまったく民主的でなくてよい、独裁制を布いてよいというルールを発見してしまった。だから、今回のイラク侵略戦争にしても、占領軍といいつつ国際法など無視した、実は軍事独裁システムの構築だった。
A――もはや傀儡政権など必要としない段階ですわな。イラクの傀儡政権に主権委譲というが、決して実質的主権は渡さないね、これは。とすれば、(一党独裁ではなく)一国独裁システム。一時、この米帝支配をローマ帝国に類比する論潮があったが、それは誤りです。ローマ帝国は、前近代的帝国主義に通有の、帝国内体制の多様性を認めていた。それに対し、このあらたな世界帝国主義はまさしく過去の帝国の寛容さはもたない。
C――しかもだ、形式的支配のみならず、実効的支配を追及する。この支配の欲望には際限がない。というのは、世界はそれぞれ自律的多様性をもった〈他者〉に満ちているからだ。しかし彼らは現代のイエズス会士だね。彼らは民主主義の宣教師のつもりなんだ(笑)。ブッシュはいつも繰り返し言ってきた、「民主主義は人類への〈神〉からの贈物だ」って。
B――その〈神〉は大文字の〈神〉。キリスト教徒の〈神〉でしかない。そんなものに世界を支配する普遍性があるわけがない。しかし、この〈神〉からの贈物という発想は、少なくとも16世紀の日本へやってきた宣教師のそれと変らない。
A――今回のイラク占領支配でも論理はこうだ。こんなよき知らせを、おまえたちは、なぜ受け取らないのか。それは、おまえたちが低能で貧しく汚いからだ(笑)。
B――だから、おれたちが文明開化してやろう。大きなお世話にみえるかもしれないが、それは今のうちだ。おまえたち異教徒のその野蛮な異文化を抛棄しさえすれば、よい。簡単なはなしだ。なぜ、それがわからないのか。なぜおれたちの宣教に抵抗するのか。こんなありがたい〈神〉の贈物を、なぜ拒絶するのか…。
A――それは、おまえたちが低能で野蛮だからだ(笑)。
C――そうやって宣教の論理は堂々巡りをする。しかも親米政権は、民主制国家でなくともよい。サウジアラビアやクウェートはどうなんだ。この王国の存在を、この宣教師はなぜ許可しているのか。ここにきて、その民主主義の宣教の論理の嘘が露呈する。そこには、「理」よりも「利」だというアメリカン・プラグマティズムがあるね。「利」のあるものが「理」なんだ。合理主義ではなく、功利主義というか「合利」主義なんだ(笑)。
B――しかし、その「合利」主義は、いつも欧米諸国家にとっての「合利」だった。去年戦争終結宣言を出したところで、独仏二国が和解を求めてすり寄って来たね。政治は政治、さあ戦争はすんだから、ビジネスの話をしよう、というわけだ。
C――分捕り品の分け前は、まだ残っているかい、とね。イラク人民にとっては、戦後顔を出したのはハイエナみたいなものだ(笑)。米英にしても独仏にしても、同じ種類の盗人に変りがない。米英は強盗だが、独仏は火事場のコソ泥でしかない。
B――独仏はEUでヘゲモニーを掌握した。EUはこの二国を中心にして動く。それはつまり、EUは独仏二国のために作られたようなものだ。米帝世界支配に対抗できるのは、EUを背景にした独仏二国だけだと。ところがそうではないね。
C――もはやヨーロッパとは、神話的な幻想の共同体でしかあるまい。その幻想の共同体に物質的な見かけを与えようとするのが、EUなんだ。世界の米帝一極化を阻止しうるには、その極を複数化しなければならないという当為がある。しかし、イラク戦争が実はアメリカ対ヨーロッパの戦争だなんてことを、ジジェクは言うがね、それはまたしても欧米中心主義的な論点じゃないか。
A――それはですな、世界は依然として欧米中心でしかないから。欧米人にとっては、大西洋を挟んだ両方にしか世界がないから。イラク・アフガンはまだ中近東だが、極東の日本など世界の政治システムの数には入っていない。世界の辺境で成金が一人いたなあ、という程度のことです(笑)。
B――それは、犬が一匹いたなあ、でもある(笑)。しかしどうなんだ、自民党の諸君は、日米同盟を堅持しなければ、国家としてやっていけないと、本気で思っているのかね。
C――そういうことじゃない。ようするに、日本経済は北米輸出に大きく依存しておる。アメリカと不和になれば、それこそ飯の食い上げだ。だから、日本商会の大事な顧客に背くわけにはいかない。それこそ、日本の実利主義だ。日米同盟には義も理もない、利だけの話だ。
A――お客様は神様。へいへいと、何でも言うことは聞かねばならない。それが商人道というもの(笑)。ところが、面従腹背でも、いつの間にか仮面が素顔になってしまった。
C――それが、アメリカの犬と呼ばれる日本外交の戦後過程だね。国際外交では自分の頭で考える必要がない。すべてアメリカの世界戦略の一環でよい。
B――楽なもんだ。外交官は海外赴任で一財産つくる。若いやつでも、1億2億はすぐに蓄財できるという。そういうのも、これまた別の意味の功利主義だ(笑)。
A――しかし仮面が素顔になってしまったのだが、だれにも信用されない。いつも気味の悪い愛想笑いを浮かべている顔なんだ(笑)。
C――それはそうだろう。日米同盟を廃棄すれば飯の食い上げだと思っているのが、そもそも妄想なんだ。日本製品がよくてアメリカの大衆は買っている。同盟国だから買っているのではない。日本政府の対米追随は理由なき追従なんだ、理由が分からないから薄気味悪い、世界中の謎だ。
A――何か深慮遠謀があるのか、と思うが、何も考えていない。空っぽなんだ。お客第一のふりをしている愛想笑いの笑顔しかない。
C――アメリカの新保守派の連中は、「資本主義革命」を言い出した。この革命によって、世界を解放するんだと。ホワイトハウスはコミンテルンの役割を再演するつもりかね。
B――日本的資本主義の株は、九〇年代にすっかり暴落した。いまやアメリカ的資本主義革命に対抗しうるのは、中国共産党の社会主義的資本主義革命(笑)しかないという話も出はじめた。たしかに、中国経済はすごい勢いだな。
A――日本経済もこの中国特需で少し好転した。いまの調子で行けば、中国市場に活路を見出すために、日米同盟廃棄・日中同盟締結、ということになるね。さきほどの日米同盟の話からすれば、「利」を行動原理とするこの商人国家のことだから、その可能性も大だ(笑)。
C――ただし、問題は、日本の下請けから出発して、すでに中国が相当のテクノロジー水準に達していることだ。技術格差は逆転するだろう。そうなると、中国に工業製品を輸出するどころか、輸入する側に回らなければならない。そういうこともありうるよ。現に多くの分野でそうなっている。早晩立場が逆転する。今あるストックがなくなったら、中国製品を買う金もなくなる。そうなったとき、むしろ日中同盟は不可避になる。
A――つまり、属国だ。朱印船を仕立てて、朝貢貿易で恵んでもらわなくてはならなくなる(笑)。
B――おそらく、いまが最後の、一番いい時なんだ。中国製品を「安い、安い」と言って買えるうちがね。しかし中国経済のアキレス腱は、実は高齢化なんだ。人口抑制のために極端な少子化政策をとった影響が、次第に出てくる。だから、中国政府も、「それ、今のうちだ」と、この資本主義化を性急に進めておる。日中同盟は、高齢社会同盟になりかねない(笑)。
C――だからだよ、世界新秩序と言って、アメリカに余裕があるのは。しかし、その高齢社会同盟もいいじゃないか。もう、無理をすることたあない、という生き方は、社会にとっても個人にとっても必要だ。
B――ただし、それができれば、の話だがね(笑)。




































――では、もう少しイラク戦争の話を続けたいと思います。今年になって、イラクで日本人が何人か拘束され、解放されるという事件がありました。また、フリージャーナリストという肩書の、叔父甥関係にある二人の男性が射殺されました。この一連の事件について、いかがですか。
B――前者のケースは、いずれにしても在外日本人は、日本政府によって保護されるとは期待できない、日本政府は国際社会では決定的に無能だということだ。後者のケースは、戦場カメラマンとして職業的なリスクを承知で行った。そして、日本人だというので、殺された。明確に言えば、後者のケースは、報道(関係者)はどんな場合でも中立ではありえないということだ。一歩国外に出れば、主観的にはどんな思想をもっていようと、日本政府の外交政策に反対であろうと、日本人以外の何者でもない。そしてそれは「アメリカの同盟軍としてこの国に派兵してきた国」の人間だ。それ以外のいかなる存在規定もない。それを覚悟で行った。とすれば、日本人であることの不運というものを、はじめて見せてくれた事件だと言えるね。
A――国内におれば、日本人たることは何でもない。しかし国外に出れば、それが唯一の存在規定になる。後者のケースは、日本政府に殺されたということを言う者があるが、そうではないね。
C――それは短絡なんだよ。たしかに、日本政府が自衛勢を派兵しているから、それが殺害の理由になった。日本の外務省は、イラクが危険地帯だと警告してある、だから責任はないというがね、だれも官僚諸君の責任を問うておるのじゃない(笑)。彼ら二人は殺される覚悟で行ったはずだ。とすれば、二人の死は犬死かというとそうではない。先ほどあなたが言われたように、日本人であることの不運、だね。これを我々に見せしめた。これまで、だれが日本人であることの不運を演じたか。だけど、それでも付け加えなければならないことは、これがまったくイラク情勢において、無意味な死だったということだ。そのおよそ無意味な死に耐える意味づけは存在しない。それゆえに、この死は不運であり、深く倫理的な死だね。
B――むろん、報道関係というヤクザな商売だ、フリージャーナリストというその末端で仕事をしている人間だ。大手のメディアは安全な場所にいて、ジャーナリストはサラリーマン化して、気骨のあるやつは払底している。だからフリージャーナリストという商売が成り立つ。大手のメディアが、命知らずのフリージャーナリストからネタを買い付けて、東京で安穏に、のうのうとイラク情勢を報道している。この二人は日本政府のせいで殺されたというよりも、東京のメディアによって消費された、日々イラク情勢の報道を消費する大衆によって消費されたということだね。それが無意味な死ということだ。我々のだれもが、彼ら二人の死に無関係ではない。だれもが共犯なのだ。
A――そこで、立派だったのは、橋田信介氏の奥さんだね。全部わかっていて、しかもきちんと語れる女性だ。日本には、まだ、ああいう立派なご婦人がいたのか、と感じ入ったね。
C――こんなことを言うと、フェミニストから抗議を受けそうだが、あれは本物の「貞女の鑑」だね。彼女はこんなことを言って欲しくないと言うかもしれんが(笑)。旦那の倫理的な死を、泣きの涙で曇らせることはしなかった。世間の同情など関係ないわ、という顔で、堂々と記者会見に臨んでいた。
B――泣き言は言わなかったねえ。すごい女性じゃないか。それに比べると、人質になって解放された三人とその家族、これはやや醜態だったな。
A――彼らがイラクへ出かけたのは、善意の第三者なら大丈夫だろうということで、それが甘かった。日本人であることの不運に遭遇する覚悟を知らずに行った。
B――日本人はイラク人にとって善意の第三者ではない。殺されなかったのは、彼らの幸運だ。皮肉なことに、大甘の彼らは殺されずに助かった。覚悟して行った橋田は甥ととともに殺された。その幸運と不運の分れ目は、まったく偶然だ。
C――その偶然が、およそ無意味な死であることの内実だ。覚悟は必然を予期してのことだが、ムスリムの〈神〉はこういう悪戯をしたというわけだ。繰り返せば、我々のだれもが彼らの死に無関係ではない。
――再び、戦争と暴力の話になりますが、イラクでは人質にとった人間を斬首するという事件が連続して起きました。この斬首断頭という行為についてなのですが。
A――斬首が出てきたのは、アブグレイブ刑務所の虐待が表面化した後だね。目には目を、とばかりに斬首をはじめた。しかも、それをヴィデオに撮って送って公開せしめた。
B――その前は、大衆的リンチもあったね。燃えた車から遺体を取り出して、それを散々打ちのめし、さらには吊り下げて晒しもの、ハタモノにした。斬首といい、リンチといい、すべては占領支配に対するイラク人の憤激のしるしだな。あんなことは以前はなかった。残虐行為は忿怒の大きさに比例している。
A――マイケル・ムーアの反戦映画「華氏911」Fahrenheit 9/11は、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞して、米国でも大うけらしいね。ところで、ニコラス・バーグという斬首された米国人がいる。彼はこの映画のためのインタビューを撮られていた。むろん、以前のことだ。20分ほどあるというが、この映画には収録されていないという。
C――奇遇というしかないね。それから間をおかずに、金鮮一(キム・ソンイル)という韓国の民間人が斬首されたね。斬首されるのはアメリカ人だけじゃない。アジア人だって、事と次第によっては、例外じゃないぞ、ということだ。だから、誘拐されたり殺されたりした日本人たちは、よくまあ、斬首されなかったものだ。
B――金さんは殺される直前、死にたくないと泣き喚いていた。悲惨な死だねえ。金鮮一の母親は、韓国政府を怨み、怒りをぶつけている。しかし、コリアンは感情を表出できるからいいね。日本人社会で金鮮一の母親みたいなことを言ったりやったりしたら、それこそ非難ゴウゴウか。
A――何しろ海外で誘拐された同胞に旅費負担を迫るという政府だ、災難に遇った同胞をよってたかって袋叩きにする世論。私はそういう日本人が好きになれない(笑)。
C――外国人も驚く、あきれ果てた日本人の薄情さ(笑)。実は、日本人ほど身内に薄情な関係社会は、世界中にはないのだよ。
B――金鮮一斬首のケースは、韓国政府がイラク追加派兵の方針を撤回しない、それが斬首殺害の理由だった。あなた方の軍勢はイラク人のためにここへ来たのではなく、呪われるべき米国のためにきたのだ、という内容の声明が現場でなされた。
C――我々は斬首するが、これはあなた方の手によって遂行されたことになる、と。言ってくれるねえ(笑)。しかし、これは因果応報の東洋的ロジック、あるいはコーズ(Cause 原因=大義)という問題だな。
B――結局は、イラク人にとって不法な占領支配に対するリアクションということだね。しかも、アブグレイブ刑務所の虐待のような、彼らが最も大事にしている尊厳を踏みにじるようなことがあったから。こういう挑発行為には黙っておれない、やられたぞ、やりかえせ、ということではなく、あれはムスリムに対する根源的な犯罪に対する刑罰だな。
C――斬首断頭は、去勢というサイコアナリティックな連想があるから間違えやすいが、植民地主義者の虐待行為によるトラウマティックな去勢に対する物理的去勢での仕返し、というものではない。イラクの斬首は、知的分子が、オリエンタリズムを演じている。つまり、オリエンタルな野蛮、アジア的野蛮というものを上演している。野蛮なオリエンタリズムを演じているという点では、アルトー的というよりも、これはブレヒト劇ではないか(笑)。
B――まさにあれはオリエンタリズムの上演だな。おれたちはこれほど違うよ。だから、おれたちに構うな。さっさと出て行けとね。斬首は本来根源的な刑罰なんだよ。射殺はまだ略式な刑罰でしかない、ただ生命を奪うだけだからね。斬首は地獄に堕ちろという刑罰なんだ。しかも、そういう伝統的な刑罰思想にとどまらず、それを見せしめにするというのは、おれたちの憤激はこれほど大きい、さっさとこの国から出て行けというメッセージだった。
C――遺体リンチと斬首の両方のヴィデオを、いま改めて見たが、率直な印象として、残虐行為に戦慄するというよりも、こんなにまでしてイラク人が「出て行け」と言っておるのに、なんで出て行かないのだ、ということ。決して歓迎されていないのに、それがわからんのか、ということだなあ(笑)。
A――不当無法な占領支配に対する義の憤激がある。外国軍勢の占領支配が、こうした残虐な殺害を生産している。それが明らかなのに、軍勢を退かない。理不尽なのは侵略のみならず、こうして抵抗と暴力による住民の意思表示が明確になされているのに、それにもかかわらず、居座り続けるという無神経さですな。
C――その無神経さ、鈍感さは、倫理性の欠如ということだね。それはあのアブグレイブ刑務所のアビューザー(虐待者)たちの無邪気さと一連のものだね。自分たちの行為がいかに他者を傷つけているのか、そのことに対する感受性がまったく欠落している。そこで邪悪で無邪気なこの悦楽主体は(笑)、占領軍の匿しおおせない本性なんだな。そのとき、斬首断頭という残酷刑は、この途方もない悦楽行為に対する応報、「現報」なんだ。占領の怪物的な悦楽行為と均衡するのは、その主体を無頭のものにするという行為しかないということか。
B――無頭の怪物に本来の自身の姿を見せてやること、か。おそらく、ボディから切り離された頭部は自身の姿をはじめて見るにちがいない。またそのようにしてはじめて、自身の怪物性を認識できる。しかしそれは、まさに致命的な知だがね。
A――致命的な知によってのみ、自身の真実に到達する。しかしそれは遅すぎる(笑)。
C――しかしな、斬首はかつて主権者=植民地主義者がやった刑罰だとすれば、いまやこのインターネット上で公開される斬首刑は、おそらく世界中に対する見せしめなのだ。イラクを現在のような侵略・占領という主権なき状態へ追い込んだ、世界中に対する見せしめだ。それゆえ、我々は自身の真実へ到達するために、この斬首刑から眼を逸らしてはいけない。その残酷劇は、まさに我々日本人なるものが加担している残酷劇の、ちょうど正確な反転像なのだから。


Paul Johnson




Nicholas Berg




Kim Sun-il










Beheading Nicholas Berg Beheading Kim Sun-il
B――そうだな。しかも、この斬首刑を執行したのは、決してファナティックな狂人ではなく、西洋的視線に対し野蛮なオリエンタリズムを上演して見せる、そういうイスラム・ラディカルの知的な若者たちだということは知っておくべきだろう。
A――しかも彼らは、「汚い」サダム・フセインとは一線を画す、義人たち、預言者のエージェントたちだ。二〇〇二年、サダム・フセインの大統領選キャンペーンのテーマソングは、なんとホイットニー・ヒューストン"I Will Always Love You"だという話だが(笑)。
B――おそらくイスラム原理主義者からすれば、耐え難い堕落であったろう。イラン・イラク戦争があって、フセインとアメリカの蜜月はかなり長かった。アメリカはフセインを支援した。フセインが使用した毒ガスの材料は、アメリカの大手化学企業、ダウ・ケミカル社製だった。サダムは「アメリカの友人」だった。アメリカンポップスがキャンペーンソングになっても不思議はあるまい。
A――フセイン政権は、イスラム原理主義からすれば、堕落した世俗的政権だ。平気でアメリカと手を結んで、イラン革命政権を潰そうとするし、場合によればイスラエルとだって結託しかねない無原則な権力だった。
C――それを潰してくれたのが、アメリカ自身だった。このアイロニーは一言では要約できまい(笑)。
B――サダム・フセインの失敗は、WMD(大量破壊兵器)の査察を受け入れたことだろう。それで、WMDを保有していないことがバレてしまった。これでやっとブッシュ政権は、9.11以前から目論んでいたイラク政権転覆に踏み切れた。ところが、今になって知れたのは、この侵略戦争が、嘘で有権者を騙して実現したものだということだね。
C――しかしその嘘とは、WMDがあるという確証もないのに「WMDがある」と言った嘘ではない。明らかにその嘘とは、WMDがないのを確認した上で「WMDがある」と言ったことだね。
B――だけど、そのWMDはもともとアメリカが提供したものだ。だから、ないのはおかしい(笑)という。調べたら、なかった。それで、さあ危険なしに侵攻できるぞ、というわけだ。
A――ふつうは、WMDがないとわかれば、アメリカは攻めて来ないだろうと思う。侵攻の理由がないからだ。ところが、アメリカはWMDはないと知った上で、「ある、ある」と主張して侵攻してきた。だからサダム・フセインの失敗は、アメリカ政府がそんな理不尽な行動をとるとは予測できなかったことだ(笑)。
B――アメリカは、コミュニケーション不可能な他者だった。手段を選ばぬ無法者だった。それがフセインの見込み違いだった。しかるに、(ホイットニー・ヒューストンの)"I Will Always Love You"の歌詞には、《So goodbye, please don't cry../Cause we both know that/I'm not what you need...》(笑)とあるのは、何か予兆かな。
C――予兆というより、イスラムの〈神〉のプレゼンテーションだね(笑)。しかしな、イスラムの大義からほど遠い世俗的フセイン政権が潰れて、一番喜んだのは、イスラム過激派だろう。これでイラクを「イスラム化」できる環境ができたというわけだ。アメリカは自身が育て上げたフセイン政権を自身の手で葬り去った。そうしてアメリカは、ヘーゲル流に言えば、歴史の狡智によって、イラクのアメリカ化ではなく、イスラム化に寄与したことになろう(笑)。
A――フセインが封印していたパンドラの匣をアメリカは開けてしまった。いまやアメリカは、対テロ戦争を組織して、イスラム過激派を養成しているようなものだね。しかしこの構図は、自身の敵対行為が敵を生産するという悪循環だが。
B――そこで言えば、その悪循環こそが、またアメリカの世界戦略の眼目なのだ。さる高官は、対テロ戦争は百年は続くという。つまり、百年は続いてほしい(笑)。なぜなら、その長期にわたる戦争だけが、アメリカの完全な世界制覇を実現するからだ。
C――だから、こんどはこうも言える。つまり、イラク侵略など序の口だ、それは単なる口実でしかない。アメリカの世界戦略は、世界制覇にある。ヨーロッパは言うにおよばず、東アジアまでね、その支配を貫徹すること。だが、これは自身の課題を自己生産する政治過程の永久運動、オートマティズムではないか。だとすれば、世界新秩序と言いつつ、ブッシュ政権の究極の目的は本当は存在しない。あるとすれば、世界などどうだってかまわない、ドメスティックでもっとも矮小な動機、すなわち、次期大統領選に勝つこと(笑)。
B――問題はいつも、そこへ回帰してしまうね。ようするに、政治家にとって世界の運命より何より、重要課題は自分が落選しないことだ。これは、民主制政治システムなら、どこでもそういうことになる。だから、保守派に限らず、政治家の願望は、民主主義の制限なのだ。
A――民主主義は、形式化もしくは形骸化しているのではなく、政治家にとって脅威の種だと。現代の政治家とは、民主主義の立前の裏で、本音では民主主義を憎悪している者らのこと。
B――大統領制の下で議会制民主主義は座礁している。フセインの得票率は、なんと百%。これは選挙を無化しうる数字で、もはや民主制政治システムではない。いわゆる全体主義だ。しかしフセイン政権の基盤は、たしかにイラク大衆にあった。それは疑いを容れない。それはブッシュ政権でも同じだ。アフガン戦争もイラク戦争も、圧倒的な大衆的支持によって実現した。
C――だから、早速傀儡政権が開いた法廷な、ここでサダム・フセインが、予審ヒアリングの場に引き出されて、自分はイラク大統領である、おまえは何の権利があってそこにいるのだ、と裁判官を一喝したのは、極めてまっとうな発言行動だった。
B――しかも、これは茶番だ、(裁かれるべき)悪人はブッシュだよ、というシーンもあったが、CNNでは音声が消えていた。しかし、露骨な検閲だなあ。検閲しておるというのを露骨に見せつける検閲(笑)。
A――それで、この日本という国ですな。政策議論の場であったはずの議会は、民主主義の政治原理の下で、機能不全に陥っている。これは多数決が原則だからというわけではなく、本来的な反対派、野党が消滅したということだろう。
B――多くの国民は呆れて投票に行かない。だいたいだねえ、どこに投票すべき党派や候補者がいるのだ。こういう政治空洞化は、議会制民主主義の座礁の姿だ。しかし、それ自体は悪いことじゃない。行き着くところまで行けばよい。「滅ビハ明ルイ」(笑)。ただし、現代日本の政治状況の閉塞、袋小路を突破するには、議会制民主主義の外部を開くこと、つまり院外直接行動を復活せしめることしかあるまい。
A――それは、テロを含めて、ということ?
B――あっはは。それはどうかな。ノーコメント(笑)。
C――おいおい、ここで、あんまりヤバい話はするなよ(笑)。ただな、日本政府はイラク派兵という事実をのこすことで、石油利権のおこぼれをもらえると思っているが、外国では日本が派兵していることすら知られていない。オランダが派兵しもうすぐ撤兵することは知っているが、同じ町に日本人の軍勢が存在することは知らない。
B――そうなんだ。それで、日本の軍勢はその町で何をしているのか、と聞くので、水を供給しておる、と答えたら、彼らは大笑いだった(笑)。やはり日本人のすることは理解不可能だ、とね。
C――そりゃ、理解を絶することだろう。水を供給して、油を得ようとしている。その水は、原価計算をすれば、一リットル何万円もする水だ、史上最も高価な水を供給している。これはまさしく、語の正しい意味での、パラノイアックな行動だね(笑)。水を油に変成できるという魔法を信じているのか、ということな。
A――地水火風の四大、四元素には、油は入っていない。だからその魔法は邪法(笑)。
B――むろん、な。日本人のテクノロジーからすれば、水や風からエネルギーを得るのは容易だろうと連中はいう。技術屋じゃないからわからんが、本気でやればできるんじゃないかね。少なくとも、いつまでも石油に依存して米英に国民経済の首根っこを抑えられているような状態は、そろそろ切り上げることだな。それこそ「国益」に反する(笑)。
C――それに、人道復興支援とかいうのは口実で、そもそも真実ではない。自衛勢の若者たちに、こういう真実でない、政治的形式的身振りでしかない任務をやらせるなよ。どうも日本政府は、この百年、軍勢の使い方を知らないでやってきたようだ(笑)。















――ここで、少し整理させていただきますと、現在イラクで進行中の暴力的事態を、きちんと受け止めること、これが何よりの武蔵論ではないか。世の中には、凡庸な人生訓を武蔵の言説から抽出して武蔵論とする俗書が氾濫しています。これに対し、むしろあの斬首刑のように、イラクで進行している事態の暴力性を正視できること、それが武蔵的ポジションではないでしょうか。
C――我々はそのつもりだが。イラクを語ることは武蔵の暴力哲学を語ることだ。そういうふうに理解してもらえばよい。
B――そういうことだ。その一言につきるだろう。ベルグソン流に言えば、それがアクチュアルということ、アクチュアルな武蔵論でなければ。
――さて、坐談武蔵としては、日本の近世初期の話にしたいと思いますが(笑)、前々回のお話で、ヨーロッパ帝国主義との遭遇が十六世紀にあり、とくにキリスト教宣教師の問題がありました。西洋帝国主義とキリスト教の不可分な姿での出現と遭遇、それは宮本武蔵の晩年近く、天草島原の乱(1637〜8)まで続きますね。この大規模な切支丹一揆は、その後の日本の歴史を変えたという点では、武蔵の同時代を語るとき無視できない事件です。しかも武蔵は九州にいて、その最終局面、原城包囲戦に何らかの形で参戦したらしい、しかも、投石で負傷したらしい、ということでしたね。
A――それが書いてある史料は、原城本丸陥落直後と思われる、有馬直純宛武蔵書状で、有馬家にのこっていたものだね。それはいま吉川英治記念館が所蔵だが、吉川英治はこれが欲しくて、有馬家文書をごっそり丸ごと買い取った。まさに小説『宮本武蔵』のおかげですな(笑)。
B――これは単なる手紙ではなく、原城陥落時に城内現場にいた武蔵が証人の、有馬直純戦功の証書という類のものだね。有馬直純父子は、大将ながら本丸に先登したと。しかし、投石で負傷したというからには、武蔵はいい歳をして、戦闘の前線に出ておったらしい(笑)。
A――たとえば肥後細川家の『綿考輯録』(巻四十七)に、一揆勢が「大木・大石・ろう磨・鍋・釜、其他色々の物を落とし、煎砂・熱湯・糞土をかけ、篷の類に火をつけ投出し、それをのかれて塀越に働く面々ハ鑓・長刀にて突落し、必死に成て防候」とある。この「塀越に働く面々」はもちろん細川の手勢だけではない。石垣に取りついて攻め込もうする中に、武蔵はいたということですな。
C――たぶん、この書状にあるようにね。武蔵は小笠原長次の旗本にいたようだが、少なくとも投石が当たるほど前線に出ていたことは確かだな。
B――しかもだね、殿様は本陣にいて戦勝を待っていればよい、というのじゃない。そんなことでは戦功は何もない。原城制圧の前線に出て居らねば。まごまごしていて城乗り(制圧)に遅れてはならん。ということで、殿様旗本で護衛についていたとしても、これは前線なんだ。わざわざこの手紙に投石負傷のことを書いておるのは、長次かどうか知らんが、とにかく大将のために投石を身をもって防いだという解釈もありうる。
A――となると、石が武蔵に当たったのではなくて、武蔵が石に当たった(笑)。武蔵は島原役で何の戦功もないとかという話があるが、若い殿様の護衛じゃ足手まといがあって何もできなかろ(笑)。せいぜい投石を身をもって防ぐことだった。
C――だけど、この投石は、武器をもたない農民たち民衆の素朴にして絶望的な攻撃法だという、これまたロマンチックな解釈があるね(笑)。しかし、それは違うんだ。というのも、飛礫は中世の戦法だというが、武田信玄の軍に投石勢があったように、少なくとも戦国期まで投石は伝統的でしかも重要な攻撃法だ。それは負傷者の数をみればわかる。弓矢が多いが、投石による負傷も多い。それは刀傷の比ではない。
B――手で投げただけじゃなくて、一揆勢は投石器も使った。これは相当飛ぶしね、薬缶〔やかん〕ほどのかなり大きい石をブーンと飛ばすから殺傷力がある。だから、武蔵が投石で負傷をしたという話には、むしろリアリティがある。この原城攻めでも投石負傷者は多いな。武蔵だけじゃない。
A――原城籠城の一揆衆には女子供も多数いた。一家揃っての籠城だ。籠城せずに村に隠れていても、命は助からない。女子供も覚悟の籠城ですな。で、その女子供が石垣の上から石を投げる。
C――余談になるが、子どものころ、他校の連中と睨み合って、石合戦になったことがある(笑)。殴り合うよりもっと強烈な喧嘩だった覚えがあるな。本気でビュンビュン投げるんだ。
A――それはまた、まるで中世の子ですな(笑)。
B――そういえば、安田砦のときは、ずいぶん投げたろが(笑)。
C――投石は籠城戦の基本だな。最初は、男たちが投げ落とす石を運んでいるが、そのうち、女子供が石垣の上から石を投げる。目潰しに、灰や砂もかける。そうなると原始的な抵抗だが、しばらくはそれで防げた。
B――原城の石垣は、乱後破却されて、土塁の跡形しかないが、この籠城戦のときには、廃城とはいえ、まだ石垣が残っていたらしい。戦国の城だからダテじゃない。武蔵が投石で足に負傷したというのは、石垣に取り付いて登ろうとしたからだろうな。とにかく、小笠原長次の後見だったとすれば、この大将に本丸を踏ませてやらなければならない(笑)。
C――小笠原勢は忠政はじめ一門合計役一万人以上を繰り出した。備後の水野勢とともに後陣だったが、最後の総攻撃の時には、鍋島・久留米有馬・立花らと横並びで突撃する。大将自身が後れを取らじと先陣争いをする。有馬直純父子は、早々に城乗りをしたようだが、武蔵も小笠原長次を助けて石垣をはい登ったらしい。
B――小笠原勢では、長次の部隊が本丸一番乗りで、小笠原の幟を真先に押し立てた。とすれば、長次の旗本に付いた武蔵は十分成果をあげたわけだ。
A――その武蔵を負傷させた投石が、女子供が石垣の上から投げ落したものだった、とか(笑)。
B――大いにありうることだ。豪傑宮本武蔵を負傷させたのは、女子供だった、そういう場面の方が面白いがな(笑)。
C――武蔵のこの手紙は有馬直純からの書状への返事だが、直純は伊織のうわさを聞いたと書いてきた。「せがれ伊織」はこのとき、目立つ戦功をたてたようだね。
B――その「せがれ伊織」のことを言われて、何となく嬉しそうじゃないか。武蔵も人の親だね(笑)。

有馬直純宛武蔵書状 吉川英治記念館蔵
有馬直純宛宮本武蔵書状

(同上文面)
被思召付尊札忝次第ニ奉存候。随而せがれ伊織儀、御耳ニ立申通大慶ニ奉存候。拙者儀、老足可被成御推量候。貴公様御意之様、御家中衆へも手先ニ而申かわし候。殊御父子共本丸迄早々被成御座候通驚目申候。拙者も石ニあたりすねたちかね申故、御目見ニも祇候不仕候。猶重而可得尊意候。恐惶謹言
    即刻       玄信[花押]









原城址 長崎県南島原市南有馬町乙










原城本丸址



*【廻状】
《態申遣候。天人天下り被成、ぜんちよの分ハ、でうす様よりひのぜいぢよ被成候間、何の者成共貴利支丹に成候ハヾ、爰元へ早々御越可有候。村々の庄屋をとなはや/\御越可有候。嶋中へ此状御廻可被成候。ぜんちよの坊主成共、貴利支丹ニ成申者御ゆるし可被成候。天草四郎と申ハ天人にて御座候。我等儀被召出候者にて候。きりしたんに成申さぬものハ、日本國中の者共、でうす様より左の御足にていんへるのへ御ふミこみ被成候間、其心得可有候。
  十月十三日   かづさじゆわん
なを/\早々此方へ可被參候。爲其申入候。以上 》

*【廻状】
《急度申遣し候。當村の代官林兵左衛門、でうす様へ御敵對申候間、今日當所ニて打殺申候。兼々天人より御申候事も此大事ニて候。いづれもはや思召立候て、村々代官始ぜんちよ共一人不殘討取可被成候。日本國中のずいぞ此時ニ候。弥一宗金鉄の儀尤ニ存候。猶面談の節可申候。仍て村々迄回状此如ニ候。以上
  十月廿五日   佐志木作右衛門
            山 善左衛門
    村々庄屋衆中 》

*【細川家老中宛細川立允書状】
《すぢ村の百姓共五十人程くるすをさきニ立、銘々差物を指、道具を罷持出、鉄炮を指あて飛脚を押留申候。飛脚の内壱人すぢ村の者共前々より存タル者ニて候ニ付、三宅藤兵衛所へ八代より使ニ參候、通してくれ候様ニと達而申候へバ、藤兵衛と申ハ昔の事、今ハでいうすの御代にて候間、中々通申間敷候。其上嶋原の様子を不存候哉。爰を通候とも此次の村々を通申分ニて無之候。命を助帰候が仕合ニて候間、急戻候へ。舟ニ逗留候ハヾ方々より舟を出、討果し可申由申ニ付、飛脚先帰り申候。柳浦、大浦、小家迄も差物を指上居申候由、彼飛脚共申候》(十月三十日付)

*【道家七郎右衛門口上覚】
《一 四郎殿と申て十七八ノ人天より御ふり候が、此中切支丹のとぶらひヲ不仕候ニ付、死人共うかび不申候。てんぢくよりも殊外御げきりんニて候。やがて迎を被下候間悉存候へと、申ふれ申候。其内ニ海ニ火が見え候がくるす有之候ニ付、浦々のもの拜候由申候事。
一 此事去年よりの催の由申候。當年などハ麦をも作り不申、やがて死申候由申居候事。
一 城へかゝり候時、むしやうに死さへ仕候得バよく候と申てかゝり候由》(十月二十九日)

*【赤崎村庄屋森七右衛門書状】
《今度きりしたんひろめ申者の事。肥後の内うどのゑべと申所ニ、長崎より罷越候ろう人甚兵衛と申者の子、四郎と申もの、年十五ニ罷成候。此者有馬迄罷こし、大矢野、上津浦までひろめ申候事、其紛無御座候。爲念如是候。以上》(十月三十日)

*【宇土郡奉行小林十右衛門書状】
《江部村次兵衛わきニ居申候甚兵衛と申ものむすこ四郎と申もの、天草に居申候。此もの親子にて切支丹ひろめ申由申候間、江部村次兵衛親女房不殘御しめ可被成候。勿論甚兵衛妻子の儀ニ候間不及申上候》(十月晦日付 三淵内匠宛)

*【山田右衛門作口上覚書写】
《一 今度嶋原きりしたんおこり申候次第之儀ハ、瘁i松)右衛門、善左衛門、源右衛門、宗意、山善左衛門と申者、弐拾六年以前より天草の内大矢野千束嶋と申所ニ数年山居いたし罷有候所ニ、去年丑ノ六月中時分より彼五人之者共申廻候ハ、天草ノ内上津浦と申所ニ住所仕候伴天連、廿六年以前ニ公儀より御拂、異國へ被遣候刻、伴天連書物以申置候ハ、當年より弐拾六年目ニて當善人一人可出生。そのおさな子、不習諸學をきわめ、天ニしるしあらわるべし。木ニまんぢうなり、野山ニ白はたを立、諸人之頭ニくるすをたて、東西ニくものやくる事可有。野も山も草も木もやけ、[脱字]有間敷由、書置候由申候事。
一 天草ニ大矢野四郎と申者を、右之書物ニ引合かんがゑ候へば、彼書物ニ少もたがわず候間、扨ハ天使ニ而候ハん、少も疑なしと、諸人ニ右五人之者共申廻、たツとませ申候。四郎生年拾六歳ニ罷成候事。
一 きりしたんおこり申時分、丑十月十五日比、天地ノ動キ候程の不思議成事出來すべし、其時皆々驚申間敷由、五人之者共申聞候事》

*【別当杢左衛門覚書】
《其時分大矢野村に増田四郎と申者、年十六にて名誉を致し候由、近國風聞仕候。此四郎稽古なしに讀書を仕、諸經の講釈をいたし、軈て切支丹の世になり候よし申勧め、其證據を見せ可申とて、天より鳩を招寄、手の上ニて卵を生せ、夫を割て吉利支丹の經文を取出し見せ申候者、或は竹に雀のとまり居たるを枝折抔にいたし、萬不思議なる事のみ仕、天草と有馬との間に有之湯嶋と申嶋、海上を歩み渡り見せ申候よし。是を見及聞及、元来切支丹を心底に含申候者は彼湯嶋に出合、口々勧めを請申候由、其後此嶋を談合嶋と申候》(十月二十三日分)

*【宇土町博労十兵衛同平作口上覺】
《右の村々きりしたんひろめ申候ものハ、小左衛門にて御座候。四郎をでいうすの再誕の様ニ申候も、小左衛門仕成様ニ取ざた仕候》(十一月六日)
――ところで、これは「切支丹の土民百姓」による一揆ということです。天草島原の乱と呼ばれるこの一揆について、今回は突っ込んでいただきましょう。
B――御法度は承知ながら、公然と「我々は切支丹に立ち返った」と宣言して、「切支丹信仰を容認せよ、信教の自由を認めよ」と要求する運動でもある。しかも、代官所を襲撃し、敵対する者の妻子まで殺し、寺社を焼打ちにする。
A――そうなると、これは暴動。諸共に死ぬのを覚悟した運動ですな。
C――たんなる暴動どころか、合戦の様相だ。しかも戦いの構図としては、国を乗っ取る闘争ではない。もっと壮大な終末論的構図があった。最後の審判は近いという。
B――有名な加津佐の「じゆわん」名の廻状(十月十三日付)があるな。――天人が天下りなされ、「ぜんちよ」(gentio 異教徒)の者は、でうす(Deus)様より「ひのぜいぢよ」がなされるので、いづれの者なりとも貴利支丹になった者は、ここへ早々お越しあるべし。村々の庄屋、乙名たち早々にお越しあるべし。嶋じゅうへこの状をお廻しなさるべし。「ぜんちよ」の坊主(仏僧)であっても貴利支丹になれば、おゆるしなさるであろう。天草四郎と申すは、天人にて御座候。我等は(四郎に)召出された者である。きりしたんにならぬものは、日本国中の者ども、でうす様より左の御足で踏まれ「いんへるの」(inferno 地獄)へ放り込まれるので、そう心得あるべし、と。
C――その「ひのぜいぢよ」は、火の《juizo》、最後の審判だね。火をもってこの世が焼き尽される。佐志木作右衛門・山善左衛門名の廻状(十月二十五日付)には、日本国中の「ずいぞ」此時に候、とある。いまや、日本国中、最後の審判の時に至ったと。
A――天草島原では、一揆前から口々に「今年はズイゾだ」と言い出していた。
B――「ズイゾ」「ゼイヂョ」というのは、ポルトガル語だな。イエズス会の教義の語彙がそのまま残っていた。
A――「今は、でいうすの世にて候」という有名な科白もありましたな。
C――八代城の細川立孝から、寺沢領の天草富岡城代家老の三宅藤兵衛へ飛脚を送った。その飛脚が須子〔すじ〕村で一揆勢につかまった。飛脚のうちの一人が、村の者の知り合いだったので、八代から富岡城の三宅藤兵衛のところに使いに行くので通してくれと言った。すると、「藤兵衛というのは昔の事。今はでいうすの世だ。あんたは島原の状況を知らないのか」というわけだ。そして、ここを通しても、次の村は通さないに決まっている。さっさと帰れというわけだ。
B――ようするに、寺沢家の城代家老・三宅藤兵衛が支配していたのは過去のことだ。今はもう、デウス(天主)の世だ。おれたちはデウスのみを支配者として仰いでいると。
A――これはもうはっきりしてますな(笑)。天下様(江戸将軍)であろうが領主大名だろうが、いかなる地上の権威・権力にも従属しないというのだから。
C――だから一揆衆の考えには一見反対の局面がある。おれたちは国を乗っ取るつもりはない、公儀に背くつもりはないと言いながら、他方では、今はもうデウスの世だ、今年はジュイゾ(最後の審判)だという。この両方は別に矛盾しているのではない。もう地上の権威・権力はどうでもよい存在だ。
A――道家七郎左衛門の報告に、棄教して切支丹の葬いをしなかったので、死人どもが浮かばれずにいるし、「てんぢくよりも殊の外御げきりんニて候」と言っているというのがある。
B――信教者の内面では、自分たちはこれまで間違ったことをしてきた。棄教したのは間違いだった。死人が浮かばれぬ亡者となり、神の逆鱗にふれて、この数年にわたる凶作や領主の苛斂誅求に遭遇する破目になった。もうこれからは切支丹の宗門に立ち返り、切支丹として生きる正道を歩もうと。
C――天草では、大矢野の百姓らが奉行石原太郎左衛門のところへ押しかけ、前に提出した棄教の誓詞を返してくれという。「日本国中残らず切支丹になるのだから、我々は元の宗門にもどる」というわけだ。
A――いまやデウスの世なんだ。最後の審判は近い。
C――天下った「天人」、天の使い、「天使」と目された天草四郎という少年がこの一揆の求心点だな。外的弾圧と内的抑圧によって潜伏した切支丹信仰が、この天使の到来によって復活した。生き返った。
B――予言があって、数十年待たれていた者が到来した。大矢野にいた小西浪人五人が、こう宣伝して歩いた。――上津浦の伴天連〔ばてれん〕が書き置いた予言の書があると。天草の上津浦の伴天連というのは、この上津浦は天草の切支丹信仰のセンターで、司祭が常駐していた。慶長十九年の伴天連追放令で、ここの司祭も国外へ追放された。
C――その上津浦の司祭が書き残して去った予言の書というのは、一種の「未来記」だな。二十六年(一書に二十五年)後に、出生する者がある。そのおさな子は、習わずして諸学をきわめ、天にしるしがあらわれるだろう。木には饅頭が成り、野山に白旗を立て、諸人の頭にくるす(十字架)をたて、東西に雲の焼ける事があるだろう。野も山も草も木も焼ける。この世の終末の図だな。
B――この書物に照らしてみると、大矢野の四郎という者が、それにぴったり符合する。さては「天使」であろう、少しも疑いなしと、そう言ってかの五人の小西浪人が諸人に説いて廻った。
A――その十六歳の少年四郎が、天の使い、神のエージェントとして、いろいろ奇蹟をおこして見せた。
C――この四郎は、先ほどの話の通り、習わずに書を読み、諸経典の講義をし、やがて切支丹の世になると教えた。その証拠を見せようといって、天より鳩を招き寄せ、手のひらの上で卵を生ませ、それを割って切支丹の經文を取出して見せた。あるいは竹に雀のとまっているのを、そのまま折取っても雀は逃げなかった等々、いろいろ不思議な事をやってみせた。これはマジック(奇術)の類いだな(笑)。
A――だけど、天草と有馬との間にある湯嶋という島まで、海上を歩いて渡ったというのは、イエス・キリストだね(笑)。
B――ここまで話がくると、現代のキリスト者も同じ。《Credis hoc?》、君はイエスの奇蹟を信じるか(笑)。奇蹟は信仰の真理なんだ。
C――四郎のこの奇蹟を見るにつけ聞くにつけ、元来切支丹信仰を心底に隠していた者らは、かの湯嶋に集って、四郎から直接教えをうけた。それが寛永十四年(1647)六月以後のこと。それまでは、住民は、転向を装った隠れキリシタンだったというよりも、もういったん改宗誓約を出して、ぜんちょ(異教徒)になってしまっていた。
A――天草四郎という異能の少年が出現したとき、弾圧によって解体された切支丹信仰が復活するモメントを得た。
C――この少年の出現がなければ、この切支丹一揆もおこらなかっただろう。有馬晴信や小西行長が領主だったころ、有馬と天草は切支丹信仰の解放区だった。その記憶はまだ人々の心から消えていない。天使の出現を機にそれまでの抑圧が弾けて、切支丹は一気に、立ち返り、立ち上がった。
A――しかし、これは百姓一揆で切支丹一揆じゃないという非切支丹一揆説が、昔も今もあるのはどういうわけ(笑)。
B――それは、ドアルテ・コレア(Duarte Correa)という、当時大村で投獄されていたポルトガル人の手記が残っていて、彼が、有馬の領主・松倉が、自分の悪政、苛斂誅求を隠蔽するために、これは切支丹の叛乱だといって、事実を糊塗しようとしたと書いたというわけだ。(ドアルテ・コレア島原一揆報告書、『長崎県史 史料編第三』)
A――それに、切支丹ならあんな暴動は起こさない、平和主義、非暴力だから、この一揆は切支丹の教えに背反する、という話もある。
C――たしかに、この一揆は、役人を殺し、民家に放火し、寺社を焼打ちにする暴動からはじまった。それまでの殉教者は、伴天連であれ、一般門徒であれ、無抵抗に殺された。それからすると、この一揆は武装して合戦までするから、まったく様相が異なっていた。
B――ただし、切支丹ではないはずの一揆衆が、御禁制の十字架を押し立てて合戦するかよ(笑)。
C――最後の審判は近い、今やデウスの御代だ、という「時」の認識ね。この終末論は明白にキリスト教的だ。その肝腎なところを見て見ぬふりをするから、これは切支丹一揆ではない、というアホな見解を公言する(笑)。
B――とくに、松倉や寺沢が、領民の暴動を引き起こすほどの悪政をやったのを隠蔽するために、これを切支丹の一揆として責任を逃れようとしたというのは、間抜けな愚見だ(笑)。
C――ドアルテ・コレアは、護教的立場から、あれは切支丹ではないと言ったんだよ。もちろん彼は捕囚で、実際に一揆衆の姿を見たことはない。
A――切支丹一揆じゃないというのなら、原城に立ち並んだ十字架の幟、あれは何だ。原城を発掘して出た多数の十字架やメダイ、あれは何だ。バカげた曲説もいい加減になさいと言うんだ(笑)。
南島原市教育委員会蔵
原城址出土十字架
南島原市教育委員会蔵
原城址出土メダイ
南島原市教育委員会蔵
同左 フランシスコ・ザビエル像

A――事件の原因は、領主の苛斂誅求にありという、そういう論法だと、松倉が領民に苛斂誅求をしなければ、今回の一揆は起きなかったというわけで、それは話がおかしい(笑)。
C――寺沢の天草領でも大規模な叛乱が起きたのだから、これも、寺沢の悪政が原因で一揆が起きたという話になる。しかし、天草領の総責任者である三宅藤兵衛が、そんな悪政をやったとは思えない(笑)。ようするに、一揆勃発の原因は領主の苛政にあり、とするのは責任追及のステロタイプな論法なんだよ。ただし、数年来の不作で、年貢未進があって、それをめぐって領主松倉の代官と村々の百姓の間でトラブルがあった。
B――鍋島の家老・多久安順の書状があるね。これは叛乱勃発後の早期の風説を記録したものだが、それによると、やはり噂では、年貢未進の催促が過酷で、生き延びられそうにないので、一揆を起したというようだ。ただし、それも、切支丹になったということなら、公儀から切支丹改めの検察官がやって来るだろうから、そのとき実情を訴えようということらしい、という噂だな。
C――それだと、切支丹になったのは、越訴のチャンスをつくる手段だというわけで、これは一種の解釈説話だな。それと、多久安順の書状にもう一つ雑説口として拾っているのは、天草四郎と思しき若党が一人やってきて奇妙の教説を説いて、皆が切支丹に進んで成った。それを役人が詮議しようとして、このような一揆が起ったという話。この後者の方が実態に近いが、貢納をめぐる悶着があったのは確かだろう。
B――具体的にいえば、数年前から天候不順で不作が続いたが、中間管理職たる代官たちは、職務に忠実で(笑)、年貢取立てをゆるめなかった。それで村方の庄屋連とトラブルが生じた。関係が険悪になると、代官連は戦国以来の作法で、人質を取って貢納を強制する。
C――それは、暴力団たる武家の強盗的本質だな(笑)。領主は仁政のつもりでも、現場の代官たちは、領民から十分な年貢を巻き上げないと職務怠慢になるので、苛斂誅求に邁進する。
A――しかし、それが村方の許容範囲を越えてしまうと、村々はやむをえず一揆で蜂起する。ところが実際は、島原、天草のすべての村々が一揆に参加したのではない。
B――松倉の領内で、村ごとに一揆に反対した人数のリストがある。「みかた」というのは、一揆に反対して鎮圧側に味方した連中だが、人口比では半分以下の四七%。半分以上は一揆衆だ。それをみると、一揆の組織率はかなり偏っている。
C――有馬、有家村を中心とする領内南部地域に偏っているな。もちろん全体としては、一揆に参加しなかった村々の方が多い。ということは、代官の苛斂誅求にもそれぞれ強弱があって、村によってはそれが許容範囲以内で、叛乱を起さなかったかというと、これもそうではあるまい。
B――それだと、代官の個人的性向、つまり悪代官のもとでは一揆が起きるという話になって、これも特定個人へ責任をかぶせるだけのことだ。領主大名だろうが、現場の小役人たる代官だろうが、こういう悪代官原因説は、世間を納得させるための嘘だな。
C――むろん世間も、こみ入った話より、そういうわかりやすい嘘を信じるのが常だ(笑)。
A――その悪代官原因説は、世間が「水戸黄門」になって悪人を排除するというわけだ。そうではなく、原因は個人という偶発的要因に還元できるのではなく、問題は武家支配社会というシステムにある、というのが、これまたかつての謬説。
B――天草島原一揆は、幕藩体制というシステムそのものへの異議申立てだったとかね(笑)。そんなふうに話を抽象化してしまってはいけない。
C――そこでは、この叛乱が切支丹一揆だったという肝腎のファクターが抜けている。どうして数万人もの人間が、女子供もふくめて皆殺しにされるまで、戦うことになったんだ、問題はそこだよ。
A――苛斂誅求が原因なら、当事者の悪代官を殺して、庄屋らが一揆の責任者は自分たちだと自首して、処刑される。それで一件落着。ところがこの一揆はそれどころではない。あちこちで合戦に及んで、抵抗をやめない。
B――ついには原城へ籠城して、結果は以上の通り。最後の審判の時が到来した、我々は切支丹に立ち返った。転んだ我々は起き上がったというわけだ。
C――かつて切支丹宗門が禁制になり、領民は転向を強制された。転向しない者は拷問され、サディスティックで入念な方法で殺された。偽装転向して生き残った者たちは、潜在的な隠れ切支丹となる。彼らは背教の負い目もあって、とりわけ羊のように従順な領民として生きてきた。しかし、もし代官が他の村々よりも、この地域の領民に苛斂誅求を布いたとすれば、それは、転向切支丹の村々に対する露骨な差別意識があったからだ。転向切支丹の村々の領民は、その差別を甘受して生きてきた。それが実際のところだろう。
A――被差別民としての転び切支丹。あいつらにはどんな酷いことをやってもいいんだ、という非人間的な弾圧があった。そして彼らが羊のように従順であればあるほど、酷い苛斂誅求をしかける。
B――しかし、切支丹の教えは忍従だとはいえ、当時の日本人は、まだ誇り高き人々だ。だから余計に苛酷な非人間的差別には堪忍ならなかっただろう。彼らの忍従という自己抑圧を解除したのは、天の使いとして登場した天草の四郎という存在だった。
C――発端を言えば、十月半ば、島原の転び切支丹が一斉に切支丹に立ち返った。十月といえば、収穫が済んで村々の祭りの頃だ。そのふだんの祭りとは違う祝祭的興奮が村々におこった。二十二日、有馬村で村民らが集会しているのを、代官らは制止したが、騒ぎが大きくなった。代官は島原城へ注進して、島原から人数が来て強制排除し、三吉と角内という頭目格を逮捕して、島原へ連行した。しかし騒ぎは収まらず、二十四日、また集会しているので、代官は行って打擲し絵像を破壊して解散させた。ところが、また寄合をしているというので、代官林兵左衛門が行って追い散らした。しかし、「会合の者、如何思ひけん」、追いかけて林兵左衛門を打殺した。これで、彼らはついに一線を越えて、後戻りできないところへ出てしまったわけだ。
B――それはまさに、未知の次元へ出てしまったんだ。有馬村の者は、周辺の郷村へ通知を出す。我々は代官を打殺した、かくなる上は、宗門は一揆一味して、村々の代官・寺社ともに打殺そうじゃないか、と。これによって、周辺一帯に一揆が勃発した。
A――整理すれば、ようするに、十月半ば、祝祭的興奮とともに島原の領民が切支丹に立ち返った。彼らが集会するのを代官が追い散らした。何度もそんなことがあって、切支丹の集会に乗込んで暴行させた代官林兵左衛門が打殺された。これがすべての発端。








*【鍋島家老多久安順書状】
《右の起りは、彼地二三年耕作損耗仕候故、未進など過分ニ御座候を催促稠敷御座候ニ付て、兎角繼命難成候間、一篇きりしたん宗ニ罷成、從公儀爲御改御検者衆も御座候得ば、其次而を以、御詫言可申上積ニて候とも申候。又雜説口ニ申候は、若黨の一人、無由緒罷越、奇妙の教を仕、何もきりしたん宗に進成候故、夫を相改被申に付て、如斯一揆相起り候共申候》(十月晦日)





*【松倉領内の非切支丹】
(「野村氏島原陣覚書」きりしたんに立向一揆起申村々人数)
      人口  みかた
 三會村  2,626  653
 嶋原村   823  203
 中みさ村  719  144
 深江村  1,824   0
 布津村  1,103   0
 堂崎村   626   0
 有家村  4,545   0
 有馬村  5,172   0
 かづさ村 3.949   0
 串山村  1,962   0
 小濱村  1,406  140
 千元村  2,001 1,000
  計   26,985 2,143
みかた仕候村々人数
 安徳村、東空閑村、大野村、湯江村、多比良村、ひぢくろ村、西郷村、伊古村、伊福村、三室村、守山村、山田村、野井村、あいづ村、西古賀村、日見村、も木村、かば嶋村  計 11,470
 島原町諸町 計 4,858
  ――――――――――――
(集計)人口 43,313人
  切支丹  24,842人(57.4%)
  非切支丹 18,471人(42.6%)


*【野村氏島原陣覚書】
《十四年丑ノ十月中旬ヨリ島原領分有馬村在々所々騒動之由故、留守居年寄ドモ指圖ニテ、桂杢之丞、桑野八兵衛見分ニ遣之、有馬村、有家村、口之津見分可申旨、サテ又年寄田中宗夫、岡本新兵衛、多賀主水申渡候ハ、有家村代官對島久太夫案内ニテ所々見分イタシ、口ノ津エ參り庄屋三平、右衛門作、其村頭立候モノドモヲ呼出シ、時分ガラ納所時分ニ、遊山ガマシク男女ヲビタヾシク往来仕候事、何事ト様子相尋候所ニ、三平、右衛門作、其村ノモノドモヽ申候ハ、此一両日タツトキ御神、天草ノ方ヨリ御越ノ由申触候。依之御座處ヲ尋申トテトナリ。郷ノモノハ此方エ參り、此所ノ女童子ハ他郷エ尋參り候。大形狐ナドノワザニテ可有御座ト存候。時分柄迷惑ニ存ジ、随分制道仕候ニ付テ、此邊ニ寄合モノ無之由、口ヲ揃申ニ付テ、弥制道可仕旨堅ク申付、有馬代官、有家代官、堂崎村、布津村代官ニ其旨ヲ申渡ス。村々躰、急ギ歸り注進可然、我々モ追付罷越可申旨、心得申可給由申候。廿三日ニ島原へ歸り、委細見届候通り申達候也。
同廿五日ニ發ル。
一 有馬村三吉、角内、寄合大勢、吉利支丹ノ法ヲスヽメ申ニ付、十月廿二日ニ、島原ヨリ松田兵右衛門、多羅尾杢左衛門、召取ニ參り、則戊ノ刻ニ両人共ニカラメ申、舟ニ取乗セ、右両人罷歸ル也。其跡ニテ寄合ヲクワダテ申由沙汰有之ニ付、庄屋肝煎ニ聞付次第注進イタシ可申旨申渡シ、其外目付ヲ遣シ、代官制道イタシ候所ニ、然共寄合申ニ付テ、會合ノ所エ代官行、打擲イタシ繪像ヲ破り、追チラシ候得共、亦寄合如此ト注進イタスニ依テ、林兵左衛門斗行、追散シ歸ル所ヲ、會合ノモノ如何思ヒケン、追カケ、兵左衛門ヲ打殺ト其儘、隣郷村、次ニ、北ハ口ノ津、賀津佐村、小濱村、串山村、千々岩村、南ハ有家村、堂崎村、布津村、深江村、木場村、安徳村、右ノ在々エ觸遣スハ、此方代官林兵左衛門、只今打殺候。此上ハ宗門一揆一味イタシ、村々ノ代官、寺社トモニ打殺ベキ由申遣ス。依之一味一同ミ發ル》

*【矢文】
《今度籠城仕候義、對天下様御恨可申上ニテモ無御座候ヘトモ、吉利支丹宗門堅ク御制禁之故、身躰之住スル所モ無御座候ニ付而如此御座候事》
《吉利支丹宗旨の作法ニ自害仕候事堅ク戒メ置申候儀ニテ候間、此方ヨリ仕掛申儀無御座候。其元ヨリ御仕掛候へバ身ノ火を拂申候ニて御座候間、御ハカライノ手ダテ相待申候》
《我等程之者共イツ迄御詰候哉。百姓連之者ニ上使迄被成下悉次第、冥加之至ニ奉存候。此上ハ如何様之御成敗ニ被仰付候共、尋常ニウケ可申候間、珍シキ新手ヲ以御責可被成候》


*【四郎法度書写】
《不及申候へ共、爲存知寄儀ニ候間、一ツ書を以申候。
一 今度此城内ニ御籠候各、誠此中如形罪果数をつくし、背奉り候事ニ候へバ、後生のたすかり不定の身ニ罷成候處ニ、各別之御慈悲を以此城内の御人数に被召抱候事、如何程の御恩と思食候哉。乍不及申、無油断心のおよび御奉公無申迄候事。
一 おらしよ、ぜじゆん、じしひりいな等の善行のミに限申間敷候。城内そこ/\の普請、扨又ゑれじよふせぐ手立、成程武具の嗜可被入御念事も、皆御奉公に可成事。
一 現世には一旦の事と申候中に、此城内之人数は弥みじかき様ニ存候間、昼夜おこたりなく前々よりの御後悔尤、日々の御礼、おらしよ等の御祈念専ニ可存候事。
一 各御存之前ニ候へ共、無計御恩蒙りかひをいたし、親類類人の異見を背き、萬事我まゝに有之衆も、自然ハ御座候ハんと存候。是を以かんにんへりくだりなき道よりおこり申儀候間、互に大切を以随分御異見を可被加候。此城内の衆は後世までの友達たるべく候間、指南次第ニ可仕候事。
一 不用油断の科ニも可罷成候間、大事之時分と言、殊今程くわれすまの内と申、我々の持口に聢相詰、夜白御奉公可被申候。人により小屋/\に引入、すこしのすきにくつろぎのみ見え申候。是無勿体儀ニ存候間、下々迄銘々に右の通可被仰聞候事。
一 合点不仕ものは天狗の法にまかせ、惜露命落可申と存候衆有之候。左様に無之様ニ、面々の持口随分可被入御念候事。
一 薪を取水を汲申とて、下々城外へ出申由候。堅法度可被申付候。但親分之人可爲吟味候。
一 右の条々一人/\ニ合点参候様ニ各手前より可被仰聞事尤ニ候。就夫堪忍いたしへりくだり、善をはげましでうすへ御祈念被成候ハヾ、御慈悲を蒙り可被奉事、御頼母敷可被思食候。已上
  二月朔日    益田四郎
             ふらんしすこ 》

*【細川家老中宛井口少左衛門書状】
《五料村の百姓共ハ此中きりしたんニてハ無御座候ニ付て、一揆ども五料村を放火仕候故、五料村の百姓共ハ逃散り、舟ニ乘居申候處、一揆共申候は、きりしたんに成候ハヾ組ニ入可申候、無左候ハヾ討果し可申候と申ニ付て、無了簡昨日十六日ニ五料村の者共、きりしたんニ成申候由申候。家共ハ悉く燒拂申候ニ付て、五料の百姓共ハ舩ニ其儘居申候》( 十一月十七日付)
B――原城籠城戦のときの矢文があるね、あれには、今度籠城しているのは、何も「天下様」(江戸将軍)に恨みがあってのことではなく、切支丹宗門を厳しく御制禁のゆえ、身の置きどころがないので、このようなことになったと。我々は切支丹宗門に立ち返った、もうタダでは殺されませんぞ、という宣言だな。
C――で、切支丹宗旨の作法では、自害するのは厳禁だ。武家は何かというと自害するが、我々は決して自害しない。死ぬまで戦う。こちらから攻撃を仕掛けることはないが、そっちから攻撃なさるなら、身にふりかかる火の粉を払うのと同じで、防御撃退しますぞ。どんな攻撃をなさるか、お待ちしておりますと(笑)、堂々たるものだ。
B――あるいは、原城包囲軍を指揮する幕府上使には、百姓である我等ていどの者どもに、いつまで手間取って包囲しているんだ。我々百姓づれの者に、上使まで差し向けられるとは、かたじけない次第、冥加の至りと存じます(笑)。この上は、どんな御成敗を命じられようとも、尋常にお受けしますので、珍しい新手で我々をお攻めなされ(笑)。新しい戦術があれば見せてもらいたいと、このあたりは、支配被支配の身分上下関係を、慇懃無礼に愚弄している。
C――合戦の空間では、敵同士となると対等なんだ。籠城方の一揆衆にはユーモアがある。だから、もう一つ、この切支丹一揆をひたすら「悲劇」とみるのも、センチメンタルでいけない(笑)。
A――ほんとにね、一揆衆は実にタフに戦ったし、女子供も喜悦の色を浮かべて殺された。とすれば、「悲劇」という感傷的な表現は間尺に合わない。
C――信仰は世俗的な感傷では計れない。それをいえば、《Dixit ei Iesus: Ego sum resurrectio et vita: qui credit in me, etiam si mortuus fuerit, vivet: et ominis qui vivit et credit in me, non morietur in aeternum. Credis hoc?》(イエズスのたまうに、吾は復活なり、生命なり。吾を信ずる人は死すとも生くべし。また生きて吾を信ずる人は、すべて永遠に死することなし、汝これを信ずるか?:ヨハネ福音書 11)。
B――神を信じた信仰者の強みだろうな。死んでも死なない。ここで死ぬことによって永遠の生命を授かる。「復活」という教義を信じた者は強い。当時の日本人で、あれほど死ぬのを厭わなかった連中はおるまい。
A――この連中は武士のように自害などしない。死ぬまで戦う。
C――武士は「死ぬのは何でもない」といいながら、実はそれには勇気が要った。死の恐怖を克服する勇気だね。しかし、神を信じる切支丹は、そんな勇気さえ必要ではない。
A――だから、武士たちは、このとき、「最強の敵」と遭遇したわけですな(笑)。
C――言い換えれば、武士道は切支丹を殲滅してはじめて可能になったんだ(笑)。
B――何かというと「死ぬ、死ぬ」とのたまう倒錯的な武士どもが出てくる。それは、オマン○か(笑)。本当に死ぬのが何でもない連中が姿を消したから、そんなケチな虚勢が横行するようになった。
C――で、もう一つ。この切支丹一揆は一枚岩ではなかったと、ことさらに言う者が近年目立つな。
B――それは一揆が当然一枚岩だと錯覚しているから、そんなことを言い出す。むろん古来一揆は、自由参加ではない(笑)。一揆だと、通例、「参加しなければ殺すぞ」と脅して、敵方の民家を焼打ちにする。ところが、切支丹一揆だと、参加するというのは切支丹になることだ。
A――そこで、「切支丹にならなければ殺すぞ」という話になる。
C――天草から肥後の細川領へ逃亡してきた連中は、そういう証言をしている。一揆勢は「切支丹にならなければ殺すぞ」と脅して廻っている。それで我々は逃げて参りましたと。
B――近年、そういう一揆のネガティヴな面を強調する論が多くなったが、それは人民の一揆を無条件の善玉にした、かつての古典左翼的偏見の反動だぜ。
A――だいたい学界の見識というものは、右往左往するものです(笑)。
B――とにかく一揆には雑多な連中が集合している。いやいやながらの連中も含めた混成集団だ。しかし、天草島原の乱を見るに、そんな消極的な連中は少なかったというのが特徴だ。一味しない連中は、一家で山へ逃げ込んでいるか、舟で沖合いに出て、騒動が収まるのを待っている。
C――これは切支丹一揆だから、コンフラリア(Confraria de Misericordia)とかね、信者同胞組織の伝統的骨格があった。天草のケースでは、富岡城を攻めたてて撤退した一揆衆は、その後、舟で渡って対岸の有馬の原城に籠城する。家も土地も捨てての立退き、欠落ちだな。
B――それも、肥後の細川家が天草へ派兵してみると、地域の村々はもぬけの殻、だれもいない。せっかく大雨の中、苦労して大軍を派遣したのに、天草へ渡ってみると、相手はいない、もぬけの殻(笑)。これをみると、一揆としてはかなり一味組織性があったということだな。
C――個人ではなく、地域の全面的一味というのが一揆のかたちだからね。ただし、それも中心となった村々は全村挙げての一揆だが、それからはずれると一揆参加者が半分になり、十分の一になる。信仰というのは本来個人的なものだから、周縁の村々では個人的行動ということになる。
B――だから、コンフラリアを強調しすぎるのも、正しいとは言えない(笑)。
A――この切支丹一揆の主力は村々の「土民百姓」ら。ということは武装闘争の能力が、寛永年間までは在野に残存していたということかな。
B――天草島原一揆では、これは村々の烽起だけではなく、一揆勢は松倉領の島原城を攻めたし、寺沢領天草では富岡城を攻め立てた。一揆勢は最後に原城に籠城することになるが、それまでは、まず城にたて籠らざるをえなくなったのは、領主側の武士集団の方なんだ(笑)。
C――切支丹の百姓たちに攻められた島原城の家老たちは、すぐに救援の派兵要請を、豊後目付(府内御横目)はじめ近隣諸大名に出している。
B――当地の百姓どもが、切支丹の宗旨に立ちかえって、一揆して、村々を焼き払い、昨日は城下の町まで焼き払った。隣国のことですので、早く加勢支援を頼みますと。
A――下々の連中でありますが、およそ人数、五六千人だと。これは尋常の一揆ではないということですな。
C――兵農分離ということからすると、農が兵を軍事的に圧倒してしまった(笑)。あちこちで一揆勢は戦闘に勝った。領主側の武士がどんどん戦死してしまう。領主側の武士集団を城に追い込んで、そして、あわや、というところまで、一揆勢は城方を攻めたてた。それほど、軍事的に優勢だった。
B――領主側は、野戦で敗北して城に籠るわけだが、一揆を甘く見て油断したというのは、俗説だな。実際、戦闘になってみれば、相手がどれほどのものか、すぐにわかる。松倉家臣にしても、寺沢家臣にしても、それぞれの武士集団は少数でよく戦ったんだよ。
C――寺沢家は天草領に千五百の人数を繰り出したが、諸戦で敗北。富岡城を預かっていた家老三宅籐兵衛は、城外に出張って戦死してしまう。
A――その三宅藤兵衛というのは、一揆勢に獄門にかけられた大将、ということで有名だが(笑)、たしか明智光秀の孫でしたかな。
B――明智光秀の娘の子だから孫だ。細川忠利も、明智光秀の娘・ガラシャの子だから、従兄弟ということだな。細川忠興は明智と関係が深かったから、明智滅亡後、藤兵衛を細川家に召抱えた。ただし、藤兵衛はその後、細川家を離れ、寺沢家に仕えて、七千石の家老。その三宅藤兵衛が一揆鎮圧の責任者として天草にいたが、一揆勢の優勢にどうにもならず、戦死してしまう。
C――これはもう叛乱がかなり進んだ十一月中旬のことだが、一揆勢が天草上津浦に集結した。天草勢七八千、それに小船で渡海してきた有馬勢二三千、合計一万の勢力だ。かたや、寺沢家の領主側は、唐津からの加勢千五百を含めて、これに立向かう。一揆が百姓雜人ばらと思っているから、武芸の実習にちょうどよい、なぶり殺しにしてやろう、などという心持で(笑)、対戦してみると、相手はやたら強かった。
A――そのとき、面白い逸話がある。大鳥子に布陣する寺沢方から上津浦の一揆勢へ、「いつごろ合戦するつもりか」と問い合わせる。すると、「一両日すぎてから勝負つかまつりましょう」という返事(笑)。
B――それだけなら、悠長な古典的合戦の雰囲気だが、一揆勢は翌日不意に襲撃してきた。
A――もはや、中世の合戦ではないわけだ(笑)。
C――兵は詭計にあり、だ。一揆勢は大鳥子の寺沢勢を粉砕した。敗軍は富岡城へ退却する。本渡まで逃げてきて、山口川の土橋を渡ろうとすると、橋の半ばで立ち往生、鉄炮の標的になった。それは、一揆勢が忍びの者を使って、橋を一部切り落としていたからだね。鎗・鉄炮で武装していただけではなく、そのあたりの細工も綿密によくやっている。
B――城代家老・三宅藤兵衛は、劣勢を聞いて城から舟でやってきて、敗走してきた自軍と出合う。後には一揆勢が迫ってくる。これを見て三宅藤兵衛は、討死するしかないと覚悟を決めて、一戦に及ぶ。藤兵衛は鉄炮に撃たれて負傷、広瀬村まで遁れたが、そこで、深田に乗り入れてしまい、馬は馬は立ち往生。藤兵衛は一揆勢に取り囲まれて、馬上で自決。
A――ということは、ここに及んで、三宅藤兵衛は騎馬だった。
C――大将だからね(笑)。従者の小者は主人の首を敵に奪われまいと、主人の首を自らかき落とす。そうして首を持ち去ろうとしたが、これも一揆勢に鎗で斃されて戦死。一揆勢は、三宅藤兵衛の首を、ここで獄門にかけてさらした。大将首を取ったのは、藤兵衛の従者だが(笑)、このように大将首を獄門にさらすのは、戦勝のしるしだということ。
B――籠城の準備もない富岡城では、大将の戦死を知って、落城の用意をはじめる者が出る。とてもかなわない相手だ、ここはいったん城を逃れて、再起を期そうというわけだ。
C――敗軍の雪崩現象だな。しかし、三宅藤兵衛の息子二人が、父が雑人ばらに討たれて無念この上ない。我々はこの城を枕に討ち死にする。おのおの方は、心次第になされ、と言い出した。城方の衆は、あれこれ評議したが、結局、兄弟を見捨てて逃げるのは武士の本意にもとる。ここは踏み止まって、皆で防戦しようということになった。
A――それで、富岡城の籠城戦がはじまる。籠城したのは、僧侶や町人も含むが、武士は九十人ほど、戦闘要員は、二百人ほどですかな。
B――それから数日、落城寸前まで行きながら、よく反撃してもちこたえた。富岡城の攻略するのに手間がかかるとみた一揆勢は、あっさり退いてしまう。味方を多く戦死させるのは無益だというわけだ。

*【松倉家三家老書状】
《爰許百姓共きりしたん儀ニ立あがり、一揆の仕合ニて村々燒はらい、城下の町迄昨日燒申候。隣國の儀ニ御座候間、早速被成御加勢可被下候。奉頼存候。下々の儀ニ御座候得共、凡人数五六千程御座候》(細川家三家老宛 十月二十七日付)


島原城址 長崎県島原市城内1丁目



天草島原一揆関係地図



富岡城址 熊本県天草郡苓北町富岡

*【芦北郡奉行注進覚】
《互ニ鉄炮を打、にらミ合居申候所ニ、切支丹共人数をぞく/\とくり出し、唐津衆陳場の上ニ亀山松山と申候てちいさき山御座候。此山ニ差上り、時(鬨)を作りかけ見下、鉄炮を打かけ、陳所の後町山口江も火をかけ燒申候ニ付、唐津衆負軍被仕候由承候》
《一 本戸町山口のさかいニ小川御座候。この川の左右ハ一間程石がき其上十間斗橋御座候。内弐間程落申候を、諸勢常々存候得共、敵急ニ追かけ參ニ付、此橋に行つまり、馬飛せ被申候へども飛付不申、岸ニ歩立ニ成を見さげニて歴々数多打取申由申候》
《一 三宅藤兵衛殿も右の橋ニて御乘はなれ家来五六人付候て、本戸小松原の前の干がたを筋かへニ、茂木根と申在所ニ御退候處、一揆共前後より取包ミ主従共ニ不殘討取申候由御座候》
《一 きりしたん共討取くびを町山口の浜ニかけ、其夜車場を取、諏訪明神の庭ニ野陳を仕、翌日本戸を打立、五里御座候志岐の古城迄參、陳を取、翌日富岡城ニ取かけ申候得共、城中より稠敷ふせぎ申ニ付、二ノ丸迄乘取、暮ニ及志岐へ引退申候。又翌日冨岡へ取かけせめ候へども、是も三丸の御前屋敷迄破り、藤兵衛丸と申所ハ乘不申候。それより引取申候。其後ハ天草へ合戦ハ無御座候》(有馬記 十一月十五日)


*【別当杢左衛門覚書】
《深江村合戦を、布津、堂崎、有家此三ヶ村の者共承り蒐付候得共、もはや深江陣引取被申候に付、附入に島原の城へ押寄申候。安徳村の百姓ども牛馬に荷を附、子供等を懐抱。島原の城に逃參候。町中よりも不殘逃入申候。敵共早速江東寺、桜井寺に火を付申候由申候。別当杢左衛門所へ町奉行両人、町横目原兵右衛門と申人被居候。杢左衛門父子共桜井寺の手寄白地まで參候得共、敵多数にて御座候に付、引取申候。其内に城より新兵衛大将にて追手門勢屯へ押出被申候。若侍衆爰彼にて防可申由被申候へども、新兵衛被申候は、城中に火を付餘多入候様に存候、城中を致穿、鑿籠城の用意可然とて、押込被申候。早速追手門内にて火付共をとらへ切捨申所へ大勢憧と責寄、鑓長刀、斧桙などにて御門を打破り申候》(十月二十六日)

*【佐野弥七左衛門覚書】
《同日申の上刻増田四郎千五百余人を引率し大手筋へ寄來候。(中略)無程一揆共城下町中へ火を掛、凄敷燒立、天地も響く斗に両度時の聲をあげ、次第に大手の門へ寄來候。(中略)一揆ども真先へ旗三本押立來り、切支丹御制禁の高札を引落し蹈碎き、又時の聲をあげ、耶蘇の經をよみ、鉄炮打立、はや門際迄詰寄、喚叫て中々稠しく責懸申候》(十月二十六日)






天草島原一揆関係地図




*【志方半兵衛言上覚】
《有吉頼母佐、伯耆其外同勢いづれも去八日ニ大矢野へ打渡り、きりしたん落申在所を燒、同十日ニくすぼと申浦へ打渡り、昨日十一日ニ上津浦へ押陳を取申候。大矢野へ渡り明家野山を燒、日を暮申ニ付、かうづうらのきりしたんも取にがし候と、皆々つぶやき申候事》(諏訪猪兵衛宛 十二月十二日付)
C――そのように一揆勢は優勢だった。ただ、一揆側が圧倒的な多数だったというほかに、たしかに戦闘能力があった。
B――その点では、初発から後世の百姓一揆とは違っていた。後の百姓一揆は、領主側の部隊が出てくると、急速に崩れをなして鎮圧される。非戦闘集団だから。それに対し、天草島原一揆では、明らかに合戦の様相だな。
C――反乱の一揆側が城攻めまでしたのだからな。下々の百姓どもというが、一揆勢には武士も相当数いた。後の城乗りのときに判明するが、多くのケースで相手は鎗・長刀で勝負してきた。
B――それは武家浪人たちだな。天草島原の乱では、有馬浪人、小西浪人の切支丹宗徒、つまり、有馬晴信・直純の元家臣や、小西行長旧臣がかなり居た。帰農した武家も含めて、武士たちが相当数おったようだ。むろん、小西行長旧臣となると、それは三、四十年前のことだから、もう爺さまだろうがな(笑)。
C――島原城を孤立させた時でも、一揆勢は数手に分かれて布陣して、城内から容易に討って出ることはできないようにしていた。
B――討って出ると、背後から挟み撃ちにするという様子だから、島原城の連中も城に籠るほかない。ということは、いちおう合戦の経験があり、あるいは合戦の訓練を受けた連中もいたということだ。
A――しかし、大半はいわゆる百姓土民で、武士のような合戦の心得もない烏合の衆のはずだが。
C――問題はそこだな。寛永のころまでは、百姓といっても、十八世紀以後の百姓一揆のような烏合の衆ではない。戦闘能力も組織性もあったということだ。兵農分離はまだまだ完成していない
B――関ヶ原合戦から四十年足らず、大坂陣から二十余年という時点だな。慶長のころの合戦の記憶も新しく、実戦経験のある年寄もまだ多く生き残っていた。それは武士でも百姓でも変わりがない。
A――戦国武士の生き残りだけではなく、「戦国百姓」の生き残りもいた(笑)。武士と百姓の身分区分は、こと戦闘能力に関して、まだ明確ではないと。
B――関ヶ原戦後、あるいは大坂陣の後、帰農して百姓身分になった武士も多かった。名主・庄屋クラスの農民にはその例が多い。
C――それに、百姓とはいえ、完全に武装解除されたわけではないし、彼らが武器を放棄したわけではない。村々には武器の備蓄もあった。
A――京大坂や江戸では天下泰平を謳歌しているが、田舎ではまだ戦国の遺制があって、太平の世というわけではない。
C――もちろん天草島原の乱で、一揆側に十分な武器があったわけではないが、鉄炮は村々に多数あったようだし、代官所を襲撃して武器を調達できた。それより何より、武器だけあっても、それが使えなくては話にならん。天草島原一揆の当時、鉄炮打の技術が村方にあったということだな。
B――有馬鍛治の伝統があって鉄炮製作の技術があった。鉄炮打ということでは、これは本来は鳥獣狩りの道具と技術。太刀や鎗はなくとも、鉄炮はあったし、百姓は日常的に鉄炮を扱い慣れていた。
C――その当時、太刀や鎗が武家のシンボルというか、一種のフェティッシュになった。ところが、鉄炮は文字通り「野放し」で(笑)、人民武装の道具になった。
A――その物神化が人民武装の道具を見逃した(笑)。しかし、あそこまで優勢だった一揆勢が、どうして城を攻め落とさなかったのか。
C――もちろん城方の抵抗が大きかったこともあるが、城を落とすことには、それほど意味がない。ただし、細川家が天草へ大軍を派兵したのだが、一揆の村々の百姓が一斉に立退いたのを知らずに派兵している。
A――この戦闘の過程で、細川家をはじめ諸大名では忍びの者が多く運用されているが、一揆側にも忍びの者がいて情報収集にあたっていた。
B――細川家が大軍を派兵してくるのを事前に察知して、天草の村々では防ぎようがないと判断して、対岸の原城に籠城するのに加わった。負けるのはわかっているが、決戦はあっちでやろうと。
C――もちろん、一揆衆は細川家が大軍を派兵してくるのを事前に知っていたから、有馬へ集結したんだ。それを知らなかったのだから、この点では、細川家の情報能力は、一揆側より劣っていたことになる。
B――天草に渡った細川勢は、からっぽになった村々の家を焼き、野山を焼いて、日を暮らすしかなかった。「上津浦のきりしたんも取り逃がし候と、皆々つぶやき申し候」。このあたり、ほとんどブラックユーモアだな(笑)。
A――ところで、寛永十四年(1637)の十月から一揆が発生するのだが、最後には十数万の軍勢を動員して一揆を攻めつぶすような大ごとになってしまった。早期に対応しておれば、あれだけ大事にならずに済んだのではないか、という話もあるけれど。
B――島原の松倉家は四万石の小大名だし、十二万石の寺沢家も、天草領は飛び地で、現地には大して人員を配置していない。あれだけの規模の人民烽起だと、島原城や富岡城に籠城するのが精一杯だっただろう。早期対応というのは、近隣諸大名の加勢出兵だろうがな。
A――近隣諸大名というのは、肥前佐賀の鍋島、筑後柳川の立花、久留米の有馬、肥後熊本の細川といった面々。
B――それに加えて、筑前の黒田家や、薩摩の島津家も。島原城が一揆勢に攻め立てられた十月、松倉の家老連はいち早く、江戸へ事件勃発の報せを送っているし、同時に近隣諸大名へ救援要請を出している。もちろん豊後目付へもな。しかし、これは急場のことで、豊後目付の許可を取って、近隣諸大名へ救援要請を出したわけではない。
A――すると、勝手に近隣諸大名へ救援要請を出したということになる。だけど、困ったのは、要請をうけた近隣諸大名。
B――だいいち、武家諸法度の寛永改定条項があって、諸大名が勝手に兵を動かして、他国へ入れる事はまかりならんというのだから(笑)。それに、西国大名は江戸出府の年回りで、どこも城主がいない。主人不在だから、留守居の家老連は勝手に兵を動かすわけにはいかない。
C――近隣諸大名当主は江戸に居た。当時の通信事情だと、江戸との往還に一月ちかくかかる。これでは臨機応変の対応はできない。そこで、諸大名の家老連は、出陣の用意をして、島原城からの救援要請の書状を添えて、加勢に出兵してよいかと、豊後目付の指示を仰ぐ。
B――細川家などは、早々に、志水伯耆に四千人付けて河尻まで出す。いつでも渡海派兵するためだ。豊後目付への書状にあるように、これは通常の一揆ではない、切支丹宗門の一揆だ、だから格別の儀だ、特別の非常事態だというわけだ。
C――で、諸大名の家老連は、島原城へ使者を立て、豊後目付の指示があり次第、加勢の派兵をするよと返事をする。そして使者は島原城に残留して、状況を刻々本国へ書状で報告する。肥後の細川家のケースでは、島原城に残留したのは道家七郎右衛門だな。
A――道家〔どうけ〕七郎右衛門というと、後に武蔵の弟子になった道家角左衛門の親父ですかな。
B――道家角左衛門の子が、道家平蔵。『武公伝』の原型を書いた豊田正剛は、道家平蔵の弟子で、平蔵父の角左衛門から武蔵の話を聞いたというわけだ。
C――ともかく、道家平蔵の祖父、道家七郎右衛門は、細川家からの連絡役として島原城籠城組と一緒に城内に居た。そこから報告を次々に発している。忍びの者、甲田新兵衛も使ってな。
A――ということは、島原城は籠城していたが、他国の使いの者は無事行き来できたということ。
C――城下を焼いた一揆勢の本勢は、そのとき有馬村方面に撤退していて、ときおり、城の周りで小競合いをする程度だった。諸大名は島原城へ使者を立てるとともに、諸大名間で書状のやりとりをしている。おたくはこの件をどうする方針なのか、という聞き合せだな。
B――お互いに様子を覗い合っている(笑)。それは一つには、自家だけが浮いてはいけない、軽率に動いてはいけない、他家はどうするつもりか、というところ。もう一つは、逆に自家だけが遅れてはいけない、躊躇したと思われてはならない、他家はどうするつもりか。自分だけが突出してはならないし、自分だけが遅れてはならない。まあ、横並びで、左右の出方を互に窺うというところだな(笑)。
A――そこで、豊後目付の返事はどうかというと、
B――加勢の件は指図次第ということだが、これは尤なことだと思う。とにかく江戸より命令があるだろうし、そのうちに、かの一揆の者どものが、何卒静まるような手立てがないか。申すまでもないが、そのことについては、皆さんの相談が肝要だと存ずる。しきりにご配慮の通り尤ではあるが、かようの件は家老の皆さんの内お一人お出であって、ご相談すべきことだと存じますと。――要するに、江戸からの指示がないと動けない。とりあえず、家老の内だれか来てくれ、相談しよう、というわけだ(笑)。
C――書状だけよこして、なんだ。こんな重大事だから、家老の一人くらい豊後へ派遣して、直接相談すべきだろう、とも言っている。まあ、どういうわけか、豊後目付は腹を立てているわけだ(笑)。
B――かといって、豊後目付は、諸大名の家老に参集号令をかけたわけではない。ただ、江戸からの指令を待って、一揆の様子を見ようという、日和見なんだ。
A――だけど、豊後目付というのは、元和年間秀忠によって豊後に流されて以来、当地におった松平忠直(秀忠の兄)の監視が役目で、幕府を代表してどうこうする立場にはなかったのではないか。ところが、もともと役目でない者らが役目を担う破目になってしまった(笑)。
C――他にいなかったからだ。豊後目付はむろん江戸へ指示をあおぐ。しかし往復一月の時間がかかる。江戸の指示を待って、派兵決定を避けて遅延しているが、近隣大名に加勢派兵させるという前例がないから、自分では判断できない。
A――前例がないから、自分では判断できないというのは、官僚的ですな。下手に動いて、失敗するのをおそれる。それに、江戸の指示がなければ動かないというのは、それは現代日本のどこかの企業戦士みたいですな(笑)。東京の本社の指示がなければ動かない、動けない。
C――役人であれ、企業戦士であれ、そういう消極的な行動パターンは、昔も今もあまり変っていない。だから林丹波・牧野伝蔵のことを、あまり悪く言えまい(笑)。来月には役目交替で新任目付が来ることになっているし、問題を先送りにするかっこうだが、どうも、近隣諸大名を動員して大ごとにするのを避けておる気配がある。
B――太平静謐の世の役人としては、「おれが、おれが」と前に出て目立つことはしたくないのよ(笑)。
A――ところが近隣大名諸家は早々に出兵準備をして、「おれが、おれが」と前に出て働こうとする。姿勢がまるで逆だが、それは「他家に後れをとらない」というわけですな。豊後目付は諸大名の出陣を待てと抑制する。


*【鍋島家老中書状】
《松倉長門殿領分ニ不慮の仕合出來ニ付而、彼地家老より此方我々共江書状相越候条、写爲御披見相添致進上候。公儀御法度のきりしたん宗と申、逆意の一揆共ニ御座候条、隣端と申、早速加勢をも可仕候得共、隣端隣國出入有之の刻、無御下知不罷出様ニと、從公儀の任仰付、御尋申上儀ニ御座候。於此上者御校量の程貴報ニ可被仰聞候》(豊後目付宛 十月二十八日付)

*【細川家老中書状】
《島原の様子今朝御注進申上候以後ニ、松倉長門殿老中より如此の書状參候。然者公儀御法度書ニ、隣國ニ何扁の事出來仕候共、御下知を相待可申の旨被仰出ニ付而、各様御指圖次第、加勢可遣と奉存得御意候。此御返事ニ可被仰下候。今朝私共書中ニ申上候ハ、依様子爰元よりも鉄炮など少々遣可申と奉存候通申上候バ、切支丹の儀ハ各別ニて可有御座哉と奉存、隨様子可申と申上候へ共、自然公儀被仰出ニ相違仕候へバ如何ニ御座候故、如此申上候》(豊後目付宛 十月二十八日付)

*【細川家老中書状】
《追而致言上候。如右申上候處ニ島原の老中より如此申來候間、則御加勢の御人数差出可申儀ニ御座候へ共、本書如申上通、御下知無御座候ニ御人数遣申儀、如何可有御座と奉存、其旨ニ覺悟仕罷在候。并貴理志端の儀ハ各別ニても可有御座哉と奉存ニ付て、府内御横目衆へ右の段申入、御下知次第可仕と申進上申候間、御横目衆より被仰下次第ニ御人数差出可申と奉存候。猶追而言上可仕候。此等の趣宜預御披露候》(江戸坂崎内膳宛 十月二十八日付)

*【道家七郎左衛門書状】
《御加勢被下候ハヾ一刻も急可被下候。其子細ハ城内小勢ニ候間、二ノ丸迄持候事成間敷候。南方三ヶ二程てきにて御座候。北方共ニてきに成候へバ、弥本丸計を持申にて可有御座候》(細川家老中宛 十月二十九日付)

*【鍋島家老中書状】
《松倉長門殿領分島原江気違者御座候て、少々被致成敗候得共、相殘悪黨共多在之由候。定而此段可有御聞と致存候。自然彼地下人何も申合、猶々も狼藉仕分ニ候ハヾ。從御手前ハ如何可被成候哉。御同前ニ可申付候》
《尚々如御存公儀の御法度ニも、縱隣端ニ出入御座候とも、無御下知前少も搆申間敷由ニ候条、存其旨罷在儀ニ候。萬一及大破候時の被仰付様、兼而の儀候条、御同前ニ爲可仕、如此候》(長岡佐渡守宛 十月二十七日付)

*【細川家老中書状】
《松倉長門殿御領分於島原きりしたん出入ニ付、無心元様ニ風聞御座候。其許如何御沙汰候哉、承度存候。爰元より自然人数など少々遣申儀候ハヾ、府内御座候御横目衆へ得御意、隨其旨可申上存事ニ候。猶追々可得御意候》(鍋島家老中宛 十月二十八日付)

*【立花家老中書状】
《松倉長門殿御領分島原ニてきりしたん、企徒党町迄燒拂申候由、風聞仕候。御近邊の儀ニ御座候間、正實の儀被及聞召候者被仰知度、於事實者御加勢ニ人数など彼地へ可被指越候哉。委細御報ニ被仰越候ハヾ悉可奉存候》(鍋島家老中宛 十月二十八日付)

*【細川家老中宛豊後目付書状】
《度々島原の様躰被仰越候通、一々得其意存候。然者島原城内ニ召使候下々、島原領分の者共故与仕欠落申候由、其上宗門の者共城責仕候ハヾ、城中人少ニて候故危被存候間、先鉄炮少々城内ニ入置、加勢の儀ハ差圖次第と承候。是ハ尤ニ存候。兎角從江戸御下知可有御座候間、其内彼もの共何とぞ静、被申様の手立有間敷候哉。申迄も無之候へども、其段ハ各相談肝要ニ存候。節々入御念候通尤ニ候へ共、ケ様の儀ハ各の内御壱人御出候て御相談可有之儀と存候。無左候者藤兵衛被參候ハヾ口上ニも可承候所、無心元存候。猶替子細候者、追々可被仰聞候》(十月三十日付)





*【鍋島家老中宛鍋島信濃守書状】
《急度申遣候。有馬表きりしたん宗数多相集立籠候通、豊後御目付衆より御注進ニ付而、御成敗の爲、御上使板倉内膳正殿、石谷十蔵殿、明十日早天此御地御立ニ候。然者右きりしたん御政道ニ付て自然人数入儀も候ハヾ、手寄の儀ニ候条可差出の旨上意候段、只今土井大炊頭殿へ被召寄、酒井讃岐守殿、阿部豊後守殿御同前ニ、寺沢兵庫頭、我等両人へ被仰渡候。其付て御年寄中被仰聞候者、萬事内膳殿十蔵殿御指圖次第ニ可仕候由、被仰聞候条、何様ニも彼可任御下知儀、不可有緩候。猶追々可申遣候》(十一月九日付)






江戸は遠いが
C――しかし、現場の九州から第一報が江戸へ届くのは、十一月八日前後だな。半月近くかかっている。その代わり、届き始めると、洪水のように報告が殺到する。それも色々な関連資料も添付してな。
A――諸大名は国元からからの報告を、老中あるいは将軍家光に逐一見せる。それで半月前の状況は把握できるが、いかにも遅い。
B――ただ、第一報が江戸へ届いたのが、十一月八日前後だとすれば、幕府の対応は早かったといえる。というのも、討伐上使の決定とその出発は迅速だったからな。
A――情報は遅いが、行動は早い。情報は早いが、行動は遅いという、今日の日本政府とは逆ですな(笑)。
C――島原城の松倉家老からの第一報が来た八日に、早速老中合議した。土井利勝や酒井讃岐守忠勝が、一揆は大したことはあるまいが、公儀の禁制にもかかわらず邪宗を企て徒党をなしたことは捨てておけない。近隣諸大名を以て誅伐すべしと発言して、皆が同意した。
B――このかぎりでは、切支丹宗門一揆だから、他の一揆とはちがう、特別な事態だという認識だな。公儀禁制に真向から対立する不逞の輩だ、殲滅して将軍の威光を天下に示せと。
A――なにしろ、「征夷」大将軍だから(笑)。異国の邪宗門徒は退治しなければならない。
C――ところが切支丹宗徒は、ハナから将軍に対立するつもりはない。そんなケチな存在ではなく、もっと偉大な天主だけが主だ。将軍なんてどうでもよい。だから、将軍支配に対立する切支丹というイデオロギー対立の構図をひいたのは、幕府の方だ。これを放置すると、将軍天下の威光に影が指す。これは幕府の面子の問題だという認識だな。
A――で、討伐の上使を派遣することに決定。叛乱鎮圧を西国の諸大名に勝手にやらせるのではなく、将軍御名代の上使を派遣するというのは、この討伐は幕府が諸大名を指揮するかたちをとるということですな。
C――領国内のことではなく、諸大名が他国へ出陣するという異例のことだから。これは家光代になって新しく設けた寛永武家諸法度の例の条項の実効性にかかわる。
A――江戸ならびに何国において、たとえどんな事が起きようとも、在国の輩はその場を守って、幕府の下知を待つべき事。つまり幕府の命令が出る前に、他国へ出兵してはならんと。
B――西国諸大名は、この条項に随って、豊後目付に指示を仰いだが、豊後目付は自分では決断せず、江戸に指示を仰いだ。だから、結局この八日と九日の段階でようやく対処判断がついた。
C――暴動発生の最初の情報しかない段階だったが、幕府の対処は早かった。そうして、九日には討伐上使を、周知のごとく、板倉内膳正重昌と石谷十蔵貞清と決めて、翌十日早天に出発させた。
A――石谷十蔵は板倉内膳の養女の聟でしたな。しかし、任命の翌朝発向とは、忙しい事です(笑)。
B――九日に上使を拝命して、その夜中過ぎ、丑の刻には出発だ。準備もあらばこそ、武士は常に用意が肝腎というところだな。板倉の嫡子主水(重矩)も同道を認められ、家来も取りあえず間に合う者だけ連れて出発、残りの者は上方で追い付け、ということだ。
C――この初動の早さは、今日の日本国政府では、及びもつかん(笑)。
A――なるほど阪神大震災などの時の対応を見ると、危機管理といいながら、今日の中央政府は無能をさらすばかりでしたな。
A――そこで、板倉内膳出発の時、柳生宗矩が云々という話がありましたな。
B――それは例の『藩翰譜』のヨタ話だろが(笑)。
C――とにかく、一応それを見ておけば、十一月十日、久留米城主・有馬豊氏の江戸屋敷で散楽の催しがあり、柳生宗矩も行って酒宴の席に居たが、柳生宗矩の郎党が来て、「まだご存知ありませぬか。九州肥前国高来郡の土民百姓ら悉く切支丹になり、領主松倉殿に背いて有馬の古城にたて籠っているとの報せがあり、板倉内膳殿が追討使に任ぜられ、すでに発向されました」といった(笑)。
A――有馬の古城に一揆衆がたて籠るのは十二月はじめ、それがどうして、十月下旬発信の現地報告にあるんだ(笑)。
C――話の出だしから、もうヨタ話なんだよ。しかも、有馬豊氏は筑後久留米城主、この事件の近隣大名だぜ。少なくとも前日には国元からの報告が届いていたはずだ。当然、有馬家江戸屋敷は大騒ぎで、のうのうと散楽や酒宴などやっているはずがない(笑)。
B――将軍家光以下老中連が緊急対応に追われておる最中だ。そんな非常時に宴会などやっていると、お前アホかと一発除封だぜ(笑)。
A――それに第一、情報通の柳生宗矩が、事件を知らないはずがない。十一月十日の夕刻に、郎党から知らされるまで、島原の乱の一件を知らなかった、板倉内膳の上使派遣も知らなかったなんて、ありうるはずがない。これは後世脚色の柳生伝説ですな。
C――まあそんなところだ。それでも以下話を読めば(笑)、――郎党の報告を聞いた柳生宗矩は、さあらぬ躰で席にもどり(笑)、有馬豊氏から馬を借受け、品川宿まで疾駆する。板倉は通ったかと聞くと、もうずいぶん先に行っているだろうとのことで、さらに川崎まで馬を走らせて聞くと、もう二三里先を行っているだろうという。
B――そこで、どういうわけか、宗矩は追跡をあきらめる(笑)。日も暮れ方なので、詮方なし、というわけだ。
A――それこそ、挙動不審ですな(笑)。街道大道の二三里先なら、馬で走れば三十分とかかるまいに。
B――まして、丑の刻に出発した板倉一行が、夕方にまだ品川や川崎でウロウロしているはずがない(笑)。もともと柳生宗矩が板倉一行を追いかけるなんてことをするわけがないから、柳生宗矩が追いつかないのは当然だが(笑)。
C――とにかく、追跡をあきらめた宗矩は、江戸に引き返して登城する。そうして家光に面会して言うね。「今日さる人のところで酒盛りをしておりましたところ、板倉内膳が追討の御使を承って、発向したと聞きましたので、将軍の命令だと称して止めようと思い、馬で追いかけましたが、追いつくことができませんでした。このことを申上げようと存じ参上しました」と。
A――すると、家光が、「どういうわけで重昌(板倉内膳)を止めようとしたのか」。宗矩曰く、「たんなる土民百姓らが叛逆したと思われたからこそ、追討の御使を、かように軽くなさったのでありましょう。が、すべて宗門にかかわる戦さは大事のものであります。このままでは重昌は必ず討死にするでしょう。重昌をだましてでも、何とか止めたいと思ったのです」と。家光は、これを聞くと、甚だ機嫌を悪くして席を立った。
C――このあたりで、板倉重昌戦死という結果を知っている後世の伝説の馬脚が顕れておる。板倉が大名とはいえ軽輩(三河深溝城主、一万五千石)なので、西国の諸大名は言うことを聞かず、ために板倉は戦死しなければならなかった、という後世の伝説が、この物語に反映している。
A――家光が立腹して席を立ったが、柳生宗矩は次の間で夜が更けても退出しない。これを聞いた家光が出てきて、宗矩を召して問う、「重昌が死ぬだろうとは、なにゆえそう申すのか」。
B――そこで、この説話の主人公・柳生宗矩の長口舌がはじまるのだが、それは省略するとして(笑)、ようするに、一向一揆の例のように宗門がらみの一揆は大ごとだ、軽く見てはいけない。しかるに今度の上使人選は、切支丹一揆を甘く見てのことではないか。板倉重昌が、もう少し身分が高く禄も厚く、また年来重職に就いて、諸大名に恐れ敬まれている人物なら、まことによい人選だと思うが、そうではない。今の重昌のポジションでは西国の諸大名を統制できないだろう。そうなれば、徳川御一門かあるいは老中のだれかを選んで、重ねて上使を派遣するほかない。「そのようになったら、重昌とて何の面目あって、生きて帰れましょう。惜しい御家人を失う事は、永く天下の御恥辱だと存じます。お願いです、この宗矩にお許しを下されば、板倉に追いつき、うまくなだめすかして連れ戻して参りましょう」と。この宗矩の忌憚のない言葉に、家光は後悔の色をみせたけれども、一度下した命令をもはや撤回できないのであろう、「夜もたいそう更けた。帰って休め」というだけだったと。
B――この物語の括りは、後に思い合わせてみると、宗矩の申したところ、掌を指すよりも明らかだった。つまり、この切支丹一揆との戦いは実際大ごとになってしまった、柳生宗矩の予見にまちがいなかった、というわけで、ステロタイプな予見予言譚だな。
C――ようするに、これは柳生宗矩には先見の明があった、予知能力があったというのがテーマの説話だから、どのあたりからこの話が生れたか、ほぼ知れるだろう。
A――この文には、柳生宗矩がひそかに我が師に語って悔やんだ、それをまた我が師がそれがしにひそかに語ったとある。
C――そこで、これを新井白石の師匠・木下順庵(1621〜99)が、柳生宗矩からひそかに聞いた咄だという憶説も生じた。柳生宗矩死去の年、木下順庵はまだ二十代、なんで柳生宗矩が、こんな秘密を若輩者に打ち明けて、告悔しようか(笑)。
B――それに、木下順庵は上方の人で、彼が幕府の儒官となるのは、天和二年(1682)あたり、柳生宗矩は何十年も前に死んでおる(笑)。柳生宗矩と木下順庵の相遇はありえない。
C――これはたぶん、江戸柳生流周辺で生じた物語だろう。話のコアは、一向一揆のように宗門に関わる戦さは大ごとだ。何しろ連中は必死で戦い悦んで死ぬからね、というわけで、柳生宗矩だけがその大事なることを知っていたという賞賛の文脈だね。
A――これは本文ではなく、補注記事でしたな。しかし、新井白石もこんなヨタ話を、よくまあ収録したものだな(笑)。
C――昔、教科書に、何とこの話が載ったこともある(笑)。おかげで有名な逸話になった。ところが、いまだにこの説話を鵜呑みにして書いている連中が迹を絶たない。
B――だから、諸君啓蒙のために申せば(笑)、有馬豊氏の屋敷での宴会あたりから、品川・川崎まで馬で追いかけるというのは、説話のドラマティックな仕立てだ。前にも言ったように、十日の夕方まで柳生宗矩が島原の乱を知らないわけがないし、また板倉上使の決定を知らぬわけもない。また久留米城主・有馬豊氏が、何も知らずにバカみたいに、十日に宴会をやっているはずがない。だから、はじめからフィクションの馬脚が露呈しておる(笑)。
C――それは別にしても、柳生宗矩がこの一件で、宗門一揆は軽くみてはいけないと言上したということだが、細川忠利が京都に居た父の三斎(忠興)に出した書状には、上様(家光)が、昔の一向一揆のようなものなら、長崎はじめ九州はどうなるか分からんので、大軍が必要かもしれないと心配されている。しかし、だいたい切支丹だけが固まって団結しているわけでもありますまい。おそらく早々に事は片づくでしょう、云々と書いている。これが十日付けの書状。
A――その書状だと、将軍は、大ごとになるかもしれんと、すでに心配している。十日深夜に柳生宗矩に諫言されなくても(笑)。
C――細川忠利は、国許の家老連からどんどんやってくる報告書を、そのまま家光に見せている。そこで、国許へ「上様にも見せるのだから、あまり合戦、合戦と大げさに書くな」と注意させている(笑)。
A――実際に一揆衆との戦闘は合戦だったが、「あまり合戦、合戦と大げさに書くな」というのは、これは大ごとだと、将軍が気を揉んで心配するからということだろう。
B――ただ、細川忠利の観測は甘かったかというと、そうでもない。一揆を蹴散らしても、ゲリラ戦になって長期化するかもしれんと、想定している。だから、「あまり合戦、合戦と書くな」と言いながら、国許からの深刻な報告をみて、実際にはかなりの事態まで想定している。
C――だから、江戸では将軍以下老中・諸大名は楽観的に考えていて、事態を甘く見ていた、とかいうのは必ずしも事実ではない。もちろん、柳生宗矩だけが事態の真の深刻さを認識していた、なんてことは、もっと事実ではない(笑)。
A――事態を甘く見て、上使に板倉重昌という軽い者を派遣した、というのも事実ではない(笑)。その『藩翰録』の説話に話を戻すと、これは柳生宗矩が家光に反対諫言したという場面がメインですな。
C――柳生宗矩は天草島原の乱に出番がなかったから、流末がこんな話を作ってみたのだろうがね。ただこれは、『寛永平塞録』にある説話、松平信綱が、板倉上使に反対で、家光にそれを言上したという話とも関連するね。
B――本来は、この話は、そっくりそのまま松平信綱に関係づけられた話だったかもしれん。それを柳生宗矩へ我田引水した、《宗門ニ附て起る軍ハ大事なり》というヴァージョンが発生したということだろう。
A――松平信綱に帰属する説話は、けっこうパクられている。松平信綱が慶安事件の丸橋忠也を見咎める話は、なんと豊前小倉では、宮本伊織が由井正雪を見咎める話に変成している(笑)。
C――智恵伊豆伝説は、あちこちで応用されている(笑)。だがなあ、板倉重昌が発向した後で、柳生宗矩が家光を誡めるなんてのは、所詮無理な話で、説話としても出来が悪いな。
B――だから、この逸話を鵜呑みにして引用再生産するのは、もうやめな、もういい加減にしろ、というんだ(笑)。
C――『藩翰録』の記事を引用した『徳川実記』を見て、孫引きだと知らずに引用するのも、やめなと(笑)。



*【藩翰譜】
《宗矩が卒せし後も事ニつれてハ、宗矩生て世に在らバ、此事を尋問べき者をなど、深く慕ひ被仰下しハ、日比如何成事をや被尋給ひ、亦答へ奉たりけむ、誰かは又知べき、其ハ人の知れる事無し。たゞ寛永十四年筑紫ニて逆徒起りし時、宗矩かねて申せし旨に事違はざりし事而已ぞ聞ハ伝る。 此年十一月十日、有馬玄蕃頭豊氏の家ニ散楽有て、人々多く集見る。宗矩も爰ニ行き、饗て酒宴半成ニ、日既ニ末の終斗ニ成て、宗矩が郎黨來り、主を呼出して、「君ハいまだ知しめされずや。肥前國高来ノ郡の土民百姓等、悉ニ耶蘇の門徒ニて、守護松倉殿ニ叛き有馬の古城ニ立籠る由、筑紫より早馬來て告申すニ依て、板倉内膳正殿追討之使を蒙玉ひ、はや御発向候ひぬ」と申す。 宗矩聞て、さらぬ躰ニて座ニ歸て、亭主豊氏に向、「急て宿所ニ帰るべき事出來候。足はやき馬借給へ」といへバ、鞍置て引立つ。急ぎ打乘て西を指て馳行、品川ニ至て、「板倉ハ過しや」と問ふ。「今ハ遥ニ延させ玉ふらん」と答ふ。鞍鐙を合せて馳行、川崎に至て亦問へバ、「板倉殿今ハ二三里も隔させ玉ふべし」と答ふ。 日は既に暮なんとす。せん方なくて引返し、城ニ登る。日ハとくと暮てけり。近く侍ふ人を以て、「宗矩申べき事有て伺候しぬ」と申けれバ、頓て御前ニ被召て、「何事ニや參りし」と被尋玉ふ。宗矩畏て、「今日さる人の許ニ酒もりし候ニ、筑紫ニて逆徒起り、内膳正追討之御使を承り、馳向ふと承りし程ニ、仰せの旨と稱し、止めばやと存じ、馬を走せて追かくれど、追付かず。日暮候故ニ、此由を申さんとて參りて候」と申す。 「何ニ因てか重昌を止んと致しけるぞ」と被仰下しかバ、「君ハ只管の土民百姓等叛逆せしと被思召バこそ、追討之御使かく輕く候ひつれ。惣て宗門ニ附て起る軍ハ大事の者ニ候。此定ニ而ハ重昌必討死仕るべし。如何ニも謀て止めばやと存候し」と申す。以ての外ニ御気色損じ、御座を被立給ふ。 宗矩次之間に伺公して、夜更れども不罷出。此由を聞召て、重而御座ニ被出玉ひ、宗矩を召ス。「重昌死すべきとハ、何故かくハ申ぞ」と有し時、宗矩、「さん候。夫兵之道ハ、勇を以て旨と仕る。勇士ハ必死を懼れず。三軍の士をして盡ニ死を懼れざらしめん事ハ、古の能兵を用る者も難及と承りぬ。凡、下愚の人、法を深く信じ候者ハ、我法を固く守て死するを以て身の悦びとす。是、百千の衆悉く期せずして必死の勇士と變ずる術ニて候。遠くためしを引までも候ハず。織田殿兵威を以て伊勢の長島を攻て、多くの大将を討せ諸卒を失ひ、年を重てやう/\に城を落さる。摂津國大坂の城をば終ニ落し得ず、天子の勅命をかりて中直りして軍ハ終て候。三河國の一揆ハ近く御家の事に候。去し大坂の軍ニ、重昌いまだ年若く候時だにも、数十萬騎の中ニ只一人撰ミ出されて、大事の使承たる者なれバ、是等の兇徒を亡さんニ、何事かあるべき。且ハ當時御使承る上ハ、誰か其下知に背べきなど、被思召バ、事の違ひ候ハんか。重昌今少し位も高く禄も厚く、亦年比重き職をも司て、常ニ世ニも人ニも恐敬ハれて候ハんニハ、誠ニ能御使ニこそ候べけれ。今の重昌の身ニて西国の大名等の軍勢を催して城を攻んニ、一度ハ御使を承たるニ恐れて其下知ニ隨ハんか、思ニも似ず攻あぐミて候ハんニハ、重昌如何ニ思共、心ニ任すべからず。其時ニ至りなバ、御一門の人々か、さらずバ宿老の中を擇ミて、重て御使ニ遣ハさるゝよりの外有べからず。さるニ因てハ、重昌何の面目有てか、生て再び關東に還て見參ニハ入候べき。あつたらしき御家人を失ひ候ハん事、永き天下之御恥辱ニこそ存ずれ。あはれ宗矩御許を蒙らバ、追付きて、能こしらへて召具して參候べし」と憚所無く申けれバ、御後悔の色見させ玉ひしか共、更ニ夫も難叶や被思召けん、「夜いたく更たり。罷帰て休ミ候へ」と、御暇給て御前を退出す。 後ニ思合ハするに、宗矩が申せし所、掌を指すよりも明かニぞ候ける。此事宗矩密に我師ニて候者ニ語て悔みしと、我師亦密に某に語て、今思ニ、宗門ニ附て起る軍ハ大事なりといひしハ、人の心附無事なりけりと感じ候ひき》



新井白石(1657〜1725)





*【細川三斎宛細川忠利書状】
《上様思召候ハ、昔の一向宗のごとく候ハヾ長崎をはじめ知不申と思召候故、人数も入可申かと思召候由ニ候。大かた切支丹斗かたまり申にてハ有御座まじく候。定てはや事濟可申候。此等の趣宜可有披露候》(十一月十日)


*【細川家老中宛江戸側近書状】
《嶋原天草の儀ニ付て被仰出候事別紙ニ申入候。今度ハ薩摩などの人数と立合の儀ニ御座候間、少々人ハそこね候ても不苦候間、一せひ御出し可被成候よし御意候間、其御心得可被成候。事外其元の首尾いかゞと無御心元思召候間、段々たへざる様ニ御注進可被成候。又其元よりの注進状ハ何も上様御目ニかゝり申候条、一揆づれの事を合戦などゝ事々敷様ニハ御書被成事ハ御無用ニ御座候。萬事/\此度の事ニ御座候間、油断被成間敷候》(十一月二十一日付)

*【細川忠利宛酒井忠勝書状】
《去九日ニ板倉内膳、石谷十蔵ニ被仰付候ハ、嶋原一揆の儀、領分ニて候間松倉長門守を可申付候。自然右壱人の手ニ餘候ハヾ、同國ニ候間なべ嶋信濃守、寺沢兵庫ハ加勢可仕由、被仰付候。若両人の手餘候ハヾ、程近候間越中守被申付候様ニと被仰出候。其以後ハ何方のたれニとも不被仰付候。あま草ハ寺沢領分ニ候間、定て不被仰付候共兵庫仕置可被仕事ニ候。若兵庫手ニ餘候ハヾ、近邊貴殿より外ハ無御座候。定て上使の面々差圖被申候共、又豊後御横目衆指圖被申とも、別ニ替儀これ有間敷候。上様よりあま草の儀よ人ニ被仰付候事ハ不承候間、御気遣被成間敷候。其上貴殿御留守居衆より外ニ御左右申來候ハ無御座候。可御心安候》(十一月十四日付)


九州諸国図

*【伊達宗忠宛細川忠利書状】
《我等國へ加勢を乞申候。然共彼御法度故上意無而不罷成候故、豊後の横目衆へ尋候へバ、江戸へ得御意ニ遣候間、御諚次第相待候へと御申付候故、明日城おち候共、無御下知以前ハ見物ニて御座候》(十一月十二日付)

*【菅沼定芳宛細川忠利書状】
《如御申加勢も不成申候。目前城落可申時ハ苦々敷候事共と腹立申事思召外ニ候》(十一月十三日付)


*【細川家老中宛忠利書状】
《肥後者御暇被遣、俄ニ上ル事ニ候ゆえ側ニ人なく候。豊後道無心許候間、歩の小姓四五十、乗馬二三十、鉄炮四五十丁迎ニ可遣候。惣侍共惣様方々番ニ出候ハヾ熊本ニも留守を殘、迎に出様能様ニ可仕候。肥後居申所ハ、本丸ハ地震あぶなく候間、いやにて候。花畑ニ置、正月の礼ハ可爲本丸候。肥後熊本へ居候上ハ跡の仕置肝要ニ候間、留守居ハ不及申、佐渡も國ニ居可申候。人数他國へ出候とも國の一揆押へ候分別肝要ニ候。たとい他國へ人数參候とも肥後參候事ハ不成候。上使御差圖ニ候へバ肥後も參候。肥後參候時ハ大學ハ添候て可遣候。萬事侍の礼彼是可然様相談可申候。急ヶ敷候故不具候。其外ハ肥後ニ尋可申候》(十一月十五日付)
A――話を本道にもどせば、この件で、家光というか幕閣が実際に指示したのは、どういう内容だったのか。
C――上使板倉が出発した後、さらに天草の一揆情報が入った段階で、老中酒井忠勝から細川忠利へ出した書状がある。それによれば、島原一揆のことは松倉領内の事件なので、松倉が討伐するように申付けられたが、もし松倉だけでは手に余るようなら、同じ肥前の鍋島・寺沢に加勢を命じられた。さらに、もしこの両人の手に余るようなら近くの細川に加勢を命じるようにしろということだった。しかしそれ以上の事態になったら加勢をどうするか、その指示はなかったというだね。
B――天草については、まだ指示がないが、寺沢の領分なので寺沢が鎮圧するだろう。もし寺沢の手に余るようなら、近辺は細川以外に加勢すべき者はない。上使あるいは豊後目付から指示があるとしても、このことには変りはない。天草については、上様から余人に加勢を命じらたとは聞いていないし、肥後留守居の家老衆からの報告ほど委しいものは他にない。だから、安心して出兵の準備をなさるがよい、というわけだ。
A――そうしてみると、当初は、松倉の加勢は、同じ肥前の佐賀城主鍋島勝茂と唐津城主寺沢堅高、寺沢領天草の加勢は、肥後熊本城主の細川忠利、その程度の想定だったということですな。
B――松倉の加勢には、後詰に細川を考えているから二段搆えだがな。それでも、とにかく前例のない大ごとだが、そのあたりで鎮圧できるだろうという見込みだ。それが甘かったとは、必ずしも云えない。それで十分なはずだった。後に十数万の大軍を催したのは、過剰な動員としかいいようがない(笑)。
C――肥後細川家にとっては目と鼻の先で叛乱がおきた。細川忠利は病気療養中だったが、もちろんそんなことは言っておれない。この時点で出兵命令が出なかった細川忠利は、大いに不満だったようだ。国許の家老連からは、島原城や天草富岡城からの救援要請がしきりにある、そんな危機的な状況なのに豊後目付は出兵を許さない、という報告がどんどん来ておる。
B――細川忠利は、肥後へ加勢を頼んできているけれど、かの御法度ゆえ、上意が無くては出兵できない。「明日、城が落ちても、出兵命令がないかぎり、こちらは見物ですな」と皮肉をいう(笑)。
C――あるいは別の書状では、「おっしゃる通り、加勢もできない状態です。目の前で城が落ちるようなことになれば、苦々しいことだと腹が立つこと、ご想像以上です」ともいう。彼もだいぶ苛立っているようだな(笑)。
A――松倉領島原は対岸で、肥後から騒動の火の手があがっているのが、文字通りよく見えるわけだ。肥後細川領は、三角半島から寺沢領天草諸島へ連続する位置にあるし、やきもきするのは当然だ。
C――細川忠利は国許からの第一報が着くと、即日、翌日にすぐに陣立や武器の細かい指令を出している。いつでも出陣できるように、領内で兵を動かすのは当然だが、三家老、つまり長岡佐渡・有吉頼母・米田監物の三人の役割も指示している。
B――江戸の忠利からの指令が肥後に届くのは、十一月下旬だが、それは、長岡佐渡・有吉頼母は軍勢を組織すること、米田は当番だから留守居で城を防備すること、それから沼田勘解由も出陣せずに、熊本城を防衛しろという指示だ。
C――肥後だって隠れ切支丹がいる。もし島原や天草へ出兵となっても、空っぽになった細川領で、天草島原に呼応した一揆が発生しないとも限らない。その用心のために熊本城の防衛体制を固めろということだった。
A――しかし、息子の光利(肥後守、光尚)が帰国を命じられて、十一月十五日に出発したので、忠利は三家老へ重ねて細かい指示を出しているが、そのなかで、光利が出陣となったら沢村大学を付けろというのは、上使に対し恥かしくない侍の作法をさせるために、この名物老将を介添役にするというわけで、それはよいとしても、熊本城は地震があぶないので、「いやにて候」(笑)、光利は御花畑に置けと指示している。
B――光利の豊後道が心配だといって、護衛の人数まで細かい指示を出す人だ。国内で一揆が起きる心配だけではなく、地震が起きたらとまで心配する。忠利の性格がよく出ている。
C――親父とちがって細心注意の人、心配性なんだ(笑)。だけど、天地がひっくり返るこの一大事、熊本城が崩壊するような大地震が起きても不思議はない。そういう不安が世の中にあったということだ。
B――人心が動揺すれば、大地も動揺する(笑)。
A――さて、上使の板倉重昌一行は江戸を出発して、十六日には伏見へ到着。そこで、兄貴の板倉重宗と会います。この兄貴は京都所司代。
C――上使とは言っても、板倉重昌は小身大名、兄貴は見かねて自分の家来を加勢に付けて、部隊を増強してやる。翌日朝には大坂へ着いて、大坂城代の阿部備中守正次や町奉行の曽我又左衛門と会って協議する。大坂城代は西国の司令部だが、江戸では知れない最新情報もあっただろうし、あるいは資金や加勢の提供もここで受けた。
B――そうして天候が悪くて出発は数日遅れたが、大坂川口から船で上使一行は九州へ向う。豊前小倉に着いたのは二十六日だな。
A――小倉は九州諸国の玄関口で、しかも小笠原家の領地だから。小笠原忠政はまだ江戸から戻っていないので、留守居の家老宮本伊織が、この上使の到来にはあれこれ世話をやく。
B――そこで、上使板倉・石谷は、最新情報を聞いて、ようするに豊後目付が躊躇している間に大ごとになってしまったと知る。そこで、有馬へは自分たちが出るから、天草は細川家へ派兵を指示して、小倉を出発する。
C――上使から、道案内に細川家の物頭を出迎えによこせ、というので、志水伯耆、尾藤金右衛門が迎えに出て、筑前の山家宿で落ち合う。家老の長岡佐渡も山家へ来て、上使と会う。そこで直接天草への出兵の指示を受けた。しかし、天草を鎮圧しても、有馬への派兵は無用、ということだった。
A――けれども、細川家が一万六千の大軍を催して天草に侵攻したら、すでに一揆勢の姿はなかった。一揆衆は対岸の有馬へ渡ってしまっていた。
C――ちょうどその頃だな、松平信綱と戸田氏銕が上使を命じられるのは。この追任上使派遣は、史料によって理由がことなるが、一つには、板倉を上使で派遣したから、早々に一揆は鎮圧できるだろう、その事後処理のために派遣するという趣旨だった。
A――先発上使の板倉は、まだ一戦もしていない。だから、板倉重昌が原城攻略に手を焼いているから、新たに松平信綱と戸田氏銕の二人を上使として派遣した、というのは後世の俗説(笑)。
B――もちろん、それも一揆勢が原城へたて籠る以前だ(笑)。このように結果も確認しないで、事後処理役の上使を派遣してしまうのは、できるだけ素早く戦後処理に当らせるためだ。何しろ西国外様大名たちが相手だから。
C――諸大名動員と鎮圧までが板倉重昌、諸大名を撤兵させるのが松平信綱、それに戦功評価があるからね。その処置までは板倉は聞いて出ていない。
B――しかし、松平信綱と戸田氏銕を追任上使として派遣するについては、もう一つわけがあった。十一月十四日の天草での戦いで、富岡城の家老三宅藤兵衛が戦死したという報告は、このあたりで江戸に届いたはずだからな。『大猷院殿実記』では、二十六日に天草の事変の報があり、二十七日に松平信綱と戸田氏銕を、天草の逆徒征伐上使に命じたとある。これは天草の事態も容易ならぬと、松平信綱らを天草鎮圧に差し向けたというわけだ。
A――有馬の原城ではなく、天草の戦線ですな。戦場が二つ別々なら、上使も二組必要だと。
C――だから、戦後処理と天草一揆鎮圧と、そのどっちが上使追任の本当のわけだったか、という問題の立て方は間違っているわけさ。現地に到着するまでに日数がかかるし、事態は流動的だから、道々情報を得ながら上使の任務も変えていかねばならない。ようするに、改めて注意しておけば、松平信綱ら追任上使が江戸を出発したとき、まだ原城攻防戦ははじまっていない。

*【豊後目付宛上使板倉石谷書状】
《今廿六日ニ小倉まで參着申候。然者天草中貴理志端ニ立歸、一揆を起、寺沢兵庫頭ものト致合戦、兵庫もの数多討死仕候。殘候者同所冨岡之城ニ取籠候由申來候。兵庫もの不人ニ在之由候間、細川越中守人数を被相連、早々天草へ押渡、天草のきりしたん御討せ可有候。萬事両人之指圖を請被申様ニと越中家老中へ申遣候。萬事越中者共と相談尤存候。我等ハ嶋原へ諫早口より參候。其元之様子彼地へ細々可被仰越候。其元きりしたんの一揆共静候共、此方一左右無之内ニ嶋原へ取かけ候儀ハ御無用ニ候。重而一左右申までハ彼地ニ御待可被成候》
《尚以不及申候へ共、越中人数損候ハぬ様ニ萬事可被仰付候》(十一月二十七日付)

*【細川家老中宛上使書状】
《近所の儀ニ候条、越中守殿人数早速天草へ押渡り、切支丹の一揆共、被相沈候。其元高瀬へ被渡候牧野傳蔵、林丹波守両人一同ニ被參、萬事指圖被仕候様ニと遣候間、其意を可被得候》(十一月二十六日付)



*【細川三斎宛細川忠利書状】
《島原天草の儀、はや可相濟候間、松平伊豆殿・戸田左門殿、跡の御仕置の為、可被遣旨、被仰出候》(十一月二十八日付)



*【大猷院殿實記】
《○廿六日。黄昏京阪及豊後より急脚もて天草の事注進す(日記)
○廿七日。天草の逆徒征伐の御使を松平伊豆守信綱、戸田左門氏銕に命ぜらる(日記)》
《◎この月十日より日輝赤き事常にこえたり(大内日記)》






原城郭配置図



海辺の要害



原城周辺現況



城地比較図




*【大坂番衆宛鈴木重成書状】
《一 一揆共取籠居申候古城、惣廻り之塀并内之躰、いかにも丈夫ニ普請仕居申躰ニ見へ申事。
一 塀之かけ様、高サ九尺あまり、内ニハ竹をあて其次ニ土俵ニ而五尺斗つきたて、はしりあがり様ニ土手のごとくニ仕、武者はしりをいたし、いかにもあつく仕、塀之覆ハ無御座候由申候。甲賀忍之者塀際まで夜忍ニ參、矢ざまなどさぐり見申候。いかにも丈夫成躰ニ申候事。
一 城中本丸ニは古キ石垣其儘ニ而御座候。其内ニ寺をつくり參下向仕由ニて、むね高き家弐つ見へ申候。其外ハ小屋がけと見へ申候。何もぬり屋之由申候事。
一 二三之丸の内小屋がけあきまなく見へ申候。過半ぬり屋之由申候。二之丸ニも小屋がけ二之丸半分程家数見へ申候。城より未申之方之曲輪をば天草より參候者ども持申候由、是ハ二之丸三之丸之外ニ而御座候。其外取出共御座候。持口/\だん/\に塀共見へ申候事。
一 惣めぐり塀之内壱間あまりのけて、そこひろニふかさ七八尺ニ堀、其内ニ居申候由、小屋之内ニもあなをほり居申候由、堀之内ニも竹たばニてしきり仕、鉄炮之用心致候由申候。左様ニ御座候哉、よわり申躰見へ不申候事。》
《一 城中口々之外ニ塀之下ニ穴を堀申候。忍ニ而も出可申ためかと申事ニ御座候》(正月七日付)
A――で、その頃、板倉・石谷の両上使は十二月一日に肥後の高瀬へ着いて、対岸の島原を窺うのだが、一揆勢は有馬にあった廃城の原城〔はるのじょう〕を修築して、あれよあれよという間に籠城防砦工事を完成してしまった。
B――将軍上使の目の前でな(笑)。籠城して防戦するための要塞化工事だが、これは迅速だったらしい。
C――原城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸の配置がリニアなプラン、海辺の要害という設営で、陸側は崖で遮断しているし、とくに南の大江口あたりの陸側は湿地帯、塩浜で足場が悪い。北の三の丸の浜手、日野江口が大手。陸のアクセスは北に絞ったプランだな。それと、海側は絶壁だが、田尻口と池尻口というアクセスがある。これは海からのアプローチで、船で着くようにしてある。
B――その大きな城地の要害に籠城したのだが、これは急遽思いついて始めたのではなくて、以前からその計画だったと思うな。それにしてもせいぜい十一月になってから、この一ヶ月の間だな。松倉家臣が籠っている島原城を攻め取って、それを籠城戦の舞台にするという案もあろうが、島原城を攻め落とすだけの時間がない。
C――だから、これは臨機応変だった。籠城するにしても、一揆の指導者たちは、最初どれほどの人数が籠城するか、わかっていたわけではなかろう。
A――その数は、今でもよくわかっていない(笑)。
B――この事件の記録史料は、膨大な量が残っているが、籠城した人数については、かなり幅があって慥なことはだれも言えないな。五万だ、三万七、八千だという資料もあれば、二万四、五千ほどだという記録もある。原城制圧後、屍体も含めて首を取って獄門にした数は二万。火災で焼けたのは骨になっているから首にできない。他に女子供を皆殺しにしたが、それがどれだけ居たか数は知れない。
A――原城で取った首だけでは数が足りないので、籠城せずに山へ隠れていた切支丹を探し出して、切って首をとって、数合せをしたという話もありましたな(笑)。
B――はじめ籠城したのは三万七、八千で、殺したのが二万数千。差引き一万何千は、途中で逃亡したという妄説もあった。もちろん一万何千人も逃げたという記録はないし、それを捕らえたという話もどこにもない。
C――まあ、ようするに、籠城人数は記録ごとに違いがあって絞り込めないが、曖昧だけど、原城に籠城したのは数万ということにしておけば、それでもこれは大きな数だ。
A――そこで、一揆衆はなぜ原城を選んだのか、という理由ですな。有馬氏旧城は日野江城だが、これは城地が狭い。籠城するのに原城址を選んだのは、ここが城地が日野江城の何倍もあって広かったから。
B――有馬氏時代、本城は日野江城で山城、原城は海岸に新造した支城。その支城の方が広かった。しかし籠城地候補は、日野江城ではなく、島原城だろう。だが、島原城は松倉家臣が籠城している。攻め落すには手間がかかる。だから廃城の原城に籠城したというのが通説だけど、それは必ずしも正しくない。
C――島原城に籠城したかったが、それができなかったとか、そんな消極的な理由で原城を選んだのではないな(笑)。むしろ、数万という籠城者を収容できるかとなると、島原城では城地が小さすぎた。とくに島原城のばあい、籠城するには、三ノ丸は捨てて、本丸と二ノ丸だけになる。
B――島原城は、松倉氏が人民に課役して分不相応な壮大な城を建設した、それも一揆の原因だと通説ではいうがね、実際は原城に比べるとさして大きな城ではない。とくに島原城は元和以降の新城、もし本当にそんな分不相応な大きな城だとなると、幕府が掣肘しただろう。
C――だから、島原城が本当に分不相応な大きな城かどうか、それは一揆衆が島原城に籠城しなかったことでわかる(笑)。数千という人数なら島原城もありうるが、数万となると、この地域には原城址以外にはない。それだけの人数が籠城できる城は他にない。ようするに、原城へ籠城することに決めたのは、収容人数の問題
A――天草島原一揆研究は汗牛充棟のありさまだが、不思議なことに、それを明確に言えた研究者がこれまでいなかった(笑)。
B――原城は廃城だな。松倉氏が二十年前に新領主として入封、北の島原城を建造した。そのとき原城を壊してその石垣や建築資材を持ち去ったはずだが、まだかなり城砦としての施設は残っていただろう。
C――絵図を見ると、本丸あたりはかなり石垣が残っていたようだね。一揆衆は持久戦を覚悟して、兵糧も村々から米一万石、雑穀五千石、加えて役所から奪った蔵米五千石など、大量に運び込んでいたのだが、それだけではなく、一揆衆は、出丸を築くし、城の周囲に土塀を建てめぐらせて、内側に銃弾よけの塹壕も新しく掘って、城砦としての施設を設備している。籠城戦の心得がある連中がいたということだ。
B――しかも、不十分な資材しかなくても最善の防御手段を見出している。よほどの手だれだ。塹壕といえば、近年の発掘調査でわかったことだが、城内には整然と区画された竪穴住居群があったらしいな。この竪穴式住居群は、寒気よけ、弾よけの工夫だが、女子供老人など非戦闘要員も多数居たから、にわか作りの都市が出現したわけだ。
C――大大名家の福岡、熊本、鹿児島などは当時としては大都市だが、籠城者が全体で数万人だとすると、三ヶ月で消滅したこの「一瞬の城市」は、当時の九州では大都市人口だろうな。
A――それはかなり、浪漫主義的な物言いですな(笑)。しかし、後に包囲軍は十三万余の大軍になり、その他に、臨時雇用の人足、武器や食糧などの物売り商人、あるいは京大坂からさえやって来た多数の見物の衆(笑)、これらまで含めると、この「一瞬の城市」は、内外含めて二十万人ほどになりそうですな。
C――仮屋、キャンプだが、三都(京、大坂、江戸)に次ぐ第四都だな(笑)。で、板倉ら上使は五日に島原へ渡る。かねて出兵指令を出していた、肥前佐賀の鍋島、唐津の寺沢、筑後久留米の有馬、柳川の立花が、兵を着陣させる。その頃にはもう原城の改修工事は済んで要塞化。食糧、武器弾薬も運び込んで、何万という一揆衆が城に籠ってしまっていた。
B――それは上使諸大名の対応が遅れたというのではなく、上使が到着して諸大名連合軍が結集するのを知って、一揆勢が迅速に対応したということだな。
――さて原城籠城まできて、お話は佳境に入っていますが、午前の部は以上にして、昼食休憩をはさんで、続きは午後に再開したいと思います。 (後篇へつづく)


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