宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 丹 治 峯 均 筆 記  解 題      Next 

 江戸期の宮本武蔵伝記は幾つか現存しているが、一連の武蔵伝記群の中でも本書は最早期の武蔵伝記である。
 本書武蔵伝記末尾に、《兵法五代之門人、丹治峯均入道廓巌翁五十七歳、享保十二龍次丁未年夏五月十九日、於潜龍窟中執豪記之》とあるところから、これは武蔵流兵法第五代、廓巌翁丹治峯均〔たんぢ・ほうきん〕による享保十二年(1727)の述作ということになる。したがって、現在までのところ武蔵単独伝記としては最早期のものである。
 本書は筑前における二天流の伝書であるが、他に武蔵伝記として、肥後系の武蔵伝記がある。そのうち周知のものは『武公伝』と『二天記』である。『武公伝』は豊田正剛の草稿をもとに息子の正脩(橋津八水)が書いたもので、その成立を宝暦五年(1755)とするのが今日通例だが、実はそれには問題がある。他方、『二天記』は正脩の子・豊田景英による作であり、安永五年(1776)の序文をもつから、『丹治峯均筆記』よりも半世紀後の文書である。
 このように現在までのところ、江戸時代の武蔵伝記でまとまった形態のものは、本書『丹治峯均筆記』のような筑前系伝記と、『武公伝』『二天記』のような肥後系伝記がある。このうち『武公伝』の原型をなした聞書の記録者・豊田正剛(橋津卜川)は、正脩の父であり、本書の著者と同じ世代の人であり、そのことからして、伝説伝聞のポジションとしては同時期であると判断しうる。つまり武蔵が死んで八十年ほどたった同じ時期に、同じ九州の肥後と筑前で二つの伝記発生が存在したのである。
 さて、我々がいま読み解こうとするこの武蔵伝記文書を、「丹治峯均筆記」というタイトルで呼ぶのは、たんに、上記「廓巌翁丹治峯均」が筆記したものということで、通称に過ぎない。武蔵伝記冒頭タイトルに拠ってみれば、正しくは「兵法大祖武州玄信公傳來」という題名の文書である。それゆえ、この題名で呼ばれるべき文書なのである。
 しかしながら実は、本書は「追加」と「自記」という付録部分を含む。本書の著者によれば、この一冊(本書)は先師の来由(伝来)を記して、後年誤りなからしめんことを、二人の甥、立花勇勝と種章が求めたので、これを書いた。(本書の)追加に、寺尾・柴任・吉田、三師の経歴を書き、最後に自分の事を記す、ということなのである。
 つまり、著者の相伝弟子たる二人の甥の求めに応じて本書は書かれた、という本書の成立事情を述べるとともに、その附録文書として「追加」と「自記」も本書に書いたことを記している。
 ようするに、本書のテクスト内容は、以下の三部構成である。
     ・「兵法大祖武州玄信公伝来」 … 宮本武蔵の伝記
     ・「追加」 … 二天流二祖・三祖・四祖の列伝
     ・「自記」 … 同上第五代・著者立花峯均の自伝
 ゆえに、本書は武蔵伝記のみにあらず、という文書である。このうち、「追加」は、二祖・三祖・四祖の兵法系譜だから、「兵法大祖武州玄信公伝来追加」の略記とみなしうる。「自記」は、兵法当代である立花峯均の自身の記事であるから、追加の追加である。本篇たる武蔵伝記と執筆時期は同時ではなく、後年の増補だとしても、「追加」と「自記」を含めた全体が、「此一冊」なる文書なのである。
 そもそもタイトルにある「伝来」とは、相伝系譜のことである。しかるに、このケースでは、相伝された言い伝え、伝説のことである。「兵法大祖武州玄信公伝来」という表題は、当流元祖・武蔵に関する言い伝えの意味である。上述のごとく、武蔵伝記末尾に、《兵法五代之門人、丹治峯均入道廓巌翁五十七歳、享保十二龍次丁未年夏五月十九日、於潜龍窟中執豪記之》とあって、いったん文書としては完結している。したがって、「兵法大祖武州玄信公伝来」という表題をもつ文書の内容は、相伝系譜ではなく、武蔵の伝記のみである。これを本篇として、「追加」と「自記」の二文書が追補されているという体裁で、この追加文書を含めて相伝系譜の形式をなす。
 というわけで、武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」が、本書の本体をなして大半を占めるものの、二祖以下の相伝系譜を含む以上、本書を「兵法大祖武州玄信公伝来」と呼んでしまうのは――誤りとはしないが――正しいとは言えない。むしろ、この筑前における武蔵流兵法が、本書中で「二天流」と称されていることからして、これは「筑前二天流伝記集」とでも呼ぶべきものである。
 このように五代立花峯均までの伝記を含むということでは、もともとこの三文書を総称する題名はなかったのだが、筑前二天流では、これを総称して「二天流伝記」と呼ぶこともあった。
 たとえば筑前二天流でも早川系の大塚藤郷などは、この文書の弁疑において、「二天流伝記」という題名を記している(藤郷秘函 初稿安永七年)。つまり、立花巌翁(峯均)が「二天流伝記」という名の書物を書きあらわしたというわけである。これを見るに、十八世紀後期の筑前では「二天流伝記」という名で写本が流通していたことが知れる。
 しかるに、これは立花門下から流出した後に付いた名であり、もとより仮題通称と云うべきものである。ご当地の筑前福岡でさえ、定まった名称はなかったから、こういう題名が付くようになったのである。
 他方では、本体の武蔵伝記にしても、「兵法大祖武州玄信公伝来」の名が呼ぶのに長すぎて不便だったようで、たとえば、筑前では、二天流兵法七代の丹羽信英(本書の著者・立花峯均の孫弟子)などは『兵法先師伝記』(天明二年・1782)の奥書に、これを「兵法五代立花峯均著すところの先師傳記あり」(原文漢文)と記している。「兵法大祖武州玄信公伝来」ではなく「先師伝記」と略して呼ぶわけである。
 あるいは、後には「武州玄信伝来」という略称例もあり、また我々が参照した三宅長春軒本には、その表紙外題に「武州伝来記」とあり、また内題には「武州伝記」とある。
 この三宅長春軒本は、筑前二天流の事情に不案内な者が写したものらしく、その兵法語彙を誤記している。このように肝心の兵法語彙も知らぬようでは、書写者は門外漢だと判明するわけだが、そのような門外流出後の写本が、「武州伝来記」や「武州伝記」といった題名を任意に付しているのである。
 ようするに、後世の人間は「兵法大祖武州玄信公伝来」という題名が長すぎて不便を感じていたようで、あれこれ略称を記しているわけである。しかしながら、そもそも、著者立花峯均自身が付した題名ではない以上、「先師伝記」、「武州玄信伝来」「武州伝来記」「武州伝記」等々、後人が勝手に略記命名したタイトルを、採用するわけにはいかない。書名の略記は、どれも不適切かつ無用である。
 しかも、本体の武蔵伝記に加えて、五代立花峯均までの兵法列伝を含む文書だとすると、上述の筑前二天流内部の事例のように「二天流伝記」と呼ぶのが適切である。そこで、我々内部でも、この名を借ろうという案もないではなかったが、とはいえ、「二天流伝記」も当時の通称であって、しかも今日では周知のものとは云えぬ呼称である。筑前二天流で使用事例があるといって、今日になってそれを蘇生させるのも、ゴリ押しの観があって見苦しい。
 それゆえ、タイトルの示差的(differential)な社会的機能性を勘案して、単に混乱を防ぐためという理由だけで、我々は「丹治峯均筆記」という通称を今なお(不本意ながらも)延命させているというわけである。つまり、「丹治峯均が記した文書」という意味で、明治末以来たまたまこれを「丹治峯均筆記」という通称で呼ぶようになってしまっていて、それで、我々もそれに倣っているにすぎない。それ以外にとくに意味はない。
 だがこれも、武蔵が遺した五巻の兵書を、今日の我々が「五輪書」という通称で呼んでしまっているのと、同じ成り行きである。「五輪書」というのは武蔵が命名した書名ではない。しかしながら、こうした、後世いつのまにか出来てしまった通称によって呼ぶのも、ある意味で武蔵流なのである。
 江戸時代までは、この武蔵の五巻の兵法教本は、「五巻の書」「兵書五巻」とか、あるいは「地水火風空の五巻」「兵法得道書」とか、さまざまな名前で呼ばれていた。「五輪書」「五倫書」という名もあった。そうして、この武蔵の著作が「五輪書」と云って通用する一般的通称になったのは、明治以後である。
 立花峯均が書いた本書にしても、上記のように本来これと決まった題名はなかった。それを「丹治峯均筆記」と呼ぶようになったのは、明治末である。「五輪書」という通称が普通化するのと、時期は大差ない。したがって、今日、我々が、武蔵の五巻の兵法書に「五輪書」という通称を使うとすれば、立花峯均が記した本書もまた、「丹治峯均筆記」でも、まあよかろう。という具合で、ものは考えようである。
 というわけで、「丹治峯均筆記」という名を我々も継承するわけだが、この「丹治」が本書筆記者・立花峯均の本つ氏名〔うじな〕であるにしても、それもわざわざ書名に入れる必要もないとすれば、ここは、「峯均筆記」とでもこれを略して呼称の簡便を計りたいとは思うのである。それゆえ、一応我々の研究プロジェクトに限ってのことではあるが、本書を「峯均筆記」と略称しているというわけある。








福岡市総合図書館蔵
三宅長春軒本 冒頭
「兵法大祖武州玄信公傳來」題



*【丹治峯均筆記】自記
《此一冊、先師ノ來由ヲ記シテ、後年誤ナカラシメン事ヲ、両甥乞之。依之書之。追加ニ、寺尾、柴任、吉田三師ノ成立ヲ書シ、後〔シリヘ〕ニ自ラノ事ヲ書ス》









個人蔵
藤郷藤実 藤郷秘函巻之一
「二天流傳記」題


*【藤郷秘函】
《永其章子の問ひ來れるハ、(中略)めづらかなる書を懐にし來て、予に授けつるの志の厚を謝し開見つれバ、書顕するに、二天流傳記と名付からしぬ、立花巌翁氏の著述の書なり。即我家に傳えし二天流の始祖新免玄信の一世中の言行事迹よりして、吉田実連の事に及ぶまで、いとねもころにも細やかに連綿と書つらね置れしが、かしこくも又めでたけれ》(自序)


*【兵法先師伝記】
《兵法五代立花峯均所著有先師傳記。小子、出國日不携之。今也恨忘其事実焉。如此則日々可失其事跡矣。故記其一二事而、以便于後生而已也》



福岡市総合図書館蔵
三宅長春軒本表紙外題
「武州傳來記」



三宅長春軒本内扉題
「武州傳記」



春風館道場蔵
立花峯均所用五尺木刀銘
新免武蔵守玄信五代之弟子
立花四郎丹墀眞人峯均入道廓巖翁
 さて、この本書を書いた「兵法五代之門人」たる「丹治峯均入道廓巌翁」とは、いかなる人物なのか。これは本書末尾の「自記」という自己言及文書によって知れる。
 丹治峯均は、もと福岡黒田家家臣、立花専太夫峯均という武士で、筑前に伝播した武蔵流兵法・二天流を相伝した者である。
 本書には、「丹治峯均入道廓巖翁」と記名がある。また、そうした写本文献資料ではなく、峯均所用の五尺木刀(春風館道場蔵)に刻字された銘を見れば、そこには、「新免武蔵守玄信五代之弟子、立花四郎丹墀眞人峯均入道廓巖翁」とある。
 この「丹治」「丹墀」〔たんぢ〕は立花氏の本氏である。「丹治峯均」は入道号、「廓巖翁」は翁号、また「巖翁」ともいう。「峯均」という名について云えば、入道号「丹治峯均」では「ほうきん」と読むが、立花専太夫の名峯均は諱であり、これは「みねひら」と読み分けている。
 本書によれば、「五十七歳、享保十二龍次丁未年夏五月十九日…」の記事があるから、そこから逆算して生年は、寛文十一年(1671)ということになろう。峯均歿年は、史料によって宝暦元年と延享二年の六年の相違があるが、いまかりに後者を採れば、本書執筆後十八年余生したことになる。
 したがって、立花峯均は、武蔵が死んで二十六年経って生まれた者である。武蔵と直接会った人物ではなく、本書の武蔵物語は間接的伝聞であり、すでに伝説の域にある。つまり、「といへり」「とかや」という措辞のある物語なのである。著者自身も、如是我聞、おれはこのように聞いた、聞いて記憶していることを書く、ということなので、説話内容は事実かどうか、争うようなものではない。
 ところが世間にナイーヴな愚者の絶えることはなく、いまだに「丹治峯均筆記」を無批判に引用して、自身の武蔵像をデッチあげる評伝作家たちが後を絶たない。こうした所為は、史料批判どころではなく、たんなる武蔵物語の再生産であって、「小説」と本質的に差異はない。
 ただし、それにもかかわらず、本書の伝記資料としての意義は、その成立の早期たることからして、『二天記』その他の後発諸伝記類に勝るアドヴァンテージがあると言わねばならない。したがって、本書の取扱いはある意味では難しいのだが、それを承知で、テクストとの距離を自覚的にとって読む必要がある。


【筑前二天流伝系】

大祖 新免武蔵守玄信

2祖 寺尾孫之丞信正

3祖 柴任三左衛門美矩

4祖 吉田太郎右衛門實連

5祖 立花專太夫峯均


個人蔵
筑前二天流伝系 石井家本水之巻



















福岡市総合図書館蔵
兵法大祖武州玄信公傳來
冒頭 三宅長春軒本
 改めて云えば、本書の構成は、武蔵物語を二十七段にわたって書いた本篇部分(兵法大祖武州玄信公伝来)と、この「大祖」に発した二祖以下四祖まで、三人の事跡を収録した「追加」と、またそれに続く当流第五代としての著者・立花峯均自身の略伝を書いた「自記」、以上三つの文書からなるものである。
 (なお、本書末尾に、小倉碑文〔新免武蔵玄信二天居士碑 豊前小倉赤坂手向山、宮本伊織建立〕の写しを収録しているが、収録文はかなり誤記のあるもので、おそらく後世写本の時期に添付されたものと思われる)
 本篇部分の武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」の末尾に、著者が柴任・吉田の両師から聞いた話だと記す。とくに柴任美矩は、若年の頃、肥後で武蔵を実見した世代で、肥後における武蔵説話を耳にした人である。だが、そう思って本書に期待すると、おそらく肩すかしを食らうであろう。たとえば、五輪書地之巻冒頭に、諸国を廻って六十回以上の勝負に一度も負けなかったとある試合の事蹟については、著者立花峯均自身が、口碑伝説がほとんど残っていない、と嘆いている始末である。
 おそらく実物の武蔵を見たか、あるいは入門したか、いづれにしても晩年肥後に居た武蔵を知るはずの柴任美矩にしても、ほとんど武蔵について知らないというのが、本書によって知れる実態である。武蔵は孤高狷介な人だったので、肥後では周辺にはそれを聞き出す空気もなかったようである。それで、小倉碑文の記事を超える内容は、本書にはさして見当たらない。
 そうすると、武蔵伝記として何があるかというと、たとえば、明らかに武蔵伝説の閾にあるもの、有馬喜兵衛との仕合や、巌流島での岩流(小次郎)との決闘がそれである。また、とくに筑前系の口碑伝説として、さまざま断片的な逸話が収集されているのみである。
 こうした構成からして、本篇武蔵伝記部分は伝説性・物語性が強いのに対し、「追加」の三祖四祖、および「自記」に関しては、立花峯均自身が直接接した人物もしくは自身のことであるゆえ、歴史資料として興味深いものがある。
 すなわち、ひとつには、筑前二天流伝系の実態を証言する貴重な史料であり、またとくに吉田家本五輪書空之巻付録の相伝証文と合わせ読むことで、五輪書伝承の経緯も知れるのであるから、そういう面では武蔵研究の重要史料である。
 さらにいまひとつは、峯均が本書を書いた当時の十八世紀初めの、武士の民俗やエトスと知る上で貴重な史料である点である。武蔵の世代と、この立花峯均の世代では、すでに武士の存在様式も、したがって倫理も思想も異なる。したがって本書の武蔵像には、こうした後世のポジションからの、語の正しい意味でのプロジェクション(projection)がある。それは、武蔵がいかに非凡な超絶的存在であったかを物語る、流派大祖へのオマージュというだけではない。
 こういう本書の本来的傾向を勘案して、本篇武蔵物語を読めば、著者の関心の所在が逆に反照されており、宝永七年(1710)の日付を有する山本常朝述・田代陣基書留の聞書『葉隠』が、隣の鍋島藩で現れたという事実と付き合せてみれば、おそらくは、武士の生き方、武士の存在理由に関する一種の反省期、ルネサンスとしての時期世代を想定しうるのである。
 したがって、そんな時代性を考慮してみれば、立花峯均のこうした武蔵物語は出るべくして出たと云えるであろう。本書にみえるいくつかの逸話において、武蔵は圧倒的に強いし、信じられないほど強い。その神話的な強さは、歌舞伎浄瑠璃といった巷間の演劇的武蔵とは異なり、自身の存在理由が隘路にあった当時の武士たちを励ます機能をもったであろう。
 このことからすれば、武蔵伝記の機能は近代でも変らなかったとも言える。武蔵物語の語る、その圧倒的な強さは、人々を励まさなかったであろうか。現代人は、神話的世界を葬り去ったのではなく、むしろ以前にもまして英雄伝説を欲望する動物である。それが武蔵小説が今なお書かれ読まれている理由である。
 そういう現代にまで連続する機能を有する武蔵伝説の祖型は、まさに本書、『丹治峯均筆記』にあると申してよかろう。最強無敗の恐るべき人物としての武蔵が、本書の逸話断片の中で生きている。これは口碑伝説流通の過程を通過したイメージであり、ヒーローたる存在のある種の精髄を析出したものである。したがって、無慚なほど凡庸な近代の武蔵小説を読むよりは、はるかに刺激的であるとは言える。
 そして本書を読むには、ようするに、武蔵伝説を伝説として読むポジションを開発しなければならない。それが我々のここでの研究課題の一つである。
 ここで、著者立花峯均のことを若干追記しておきたい。峯均は、なかなか興味深い人物であるからだ。
 峯均の父は、立花平左衛門重種で、筑前福岡の黒田家家老である。ただし黒田家は大大名、家老とはいえ立花重種は知行一万石余で大名級である。重種の父の代までは、新参で、大した家格ではなかった。播磨時代以来の譜代名家が多い黒田家中で、この重種の代に、黒田忠之・光之のもとで急速に頭角を顕し出世したのである。
 言うならば、福岡黒田家の行政権力の中枢にあって、急に成り上がった重種を父として生まれたのであり、この父親の威勢をバックにできる、まことにお坊ちゃんだったのである。
 峯均は立花重種の四男として生まれ、本書自記によれば、十九歳のとき黒田綱政に仕え、以来君側で勤仕した。若い頃、黒田家中家督千石の花房助之進の婿養子に入ったが、故あって離縁して実家へ帰った。そのとき生した娘があり、養育して嫁に出したが初産で死亡した。ゆえに、峯均は生涯独身で妻帯しなかったという俗説があるが、それは誤りである。独身だったのは、一度妻帯して離別した後のことである。妻はなくとも妾をおいたか、あるいは当時のことゆえ、男色の人だったか、それは知れない。
 峯均二十一歳の春、吉田実連〔さねつら〕に入門した。吉田実連は、武蔵→寺尾孫之丞→柴任美矩と流れ来たった武蔵流兵法の、筑前における流派の四代相伝者である。峯均はその後十三年、勤仕のかたわら日夜寸暇を惜しん兵法修行に努め、ついに一流相伝があった。
 この一流相伝に関しては、峯均は吉田実連の流嗣としてだが、実は当流三祖・柴任美矩〔しばとう・よしのり〕が存命中であって、吉田実連が病いで稽古もままならぬ状態になったため、当時播州明石に居た柴任から峯均は相伝を受けている。したがって吉田実連からは実際は再伝である。そのように相伝はやや変則であるが、このあたり、峯均は柴任や吉田から特別な配慮を蒙って相伝を得た観がなきにしもあらずである。
 それというのも、父親の立花重種がなかなかの実力政治家で、柴任や吉田を後援した者であったから、その恩義を感じざるを得ない状況で、峯均は父親の力を大いに活用して、唯一の相伝者たる権利を得た、というあたりが実態のようだ。それは峯均自身が本書で書いているところである。
 父重種の家督を嗣いだ長兄重敬の万石余は言うまでもなく、次兄重根〔しげもと〕の三千石に比して、立花峯均は、五百石、あるいは四百石プラス蔵米百俵というレベルの知行取りであったから、それこそ気儘に人生を生きたのである。小身は大身より自由なのである。
 ところが、この峯均が三十八歳のとき、なんと遠島流刑に処せられたのである。それというのも、事情はこうだ。黒田光之が綱政に家督を譲って隠居したのが元禄元年、六十一歳のときである。ところがこのご隠居は八十歳で死去するまで、何かと藩政に口を出し、父子の不和対立を生んだらしい。まあこれは、肥後の細川三斎・忠利父子の間でもあったことで、戦国期以来大名家ではとくに珍しいことではない。親に孝とやらで絶対服従するなど、武士はしなかったものだ。
 それでお決まりの、隠居派と当主派の権力抗争もあって、隠居の光之が死んで、一周忌の法要が済むと、綱政は一気に隠居派を粛清するの挙に出た、というのが事の経緯である。とくに峯均次兄の重根は、隠居光之の側近中の側近であったから、峯均はこれに連座したのである。
 この立花重根(1655〜1708)は、重種二男で峯均の兄、幼少の頃から黒田光之に四十七年間仕えた側近であった。また黒田家中を代表する文化人で、『黒田家譜』『筑前国続風土記』の編纂事業の責任者の立場にあった知識人でもあった。
 しかしこの次兄、実は立花実山といった方が通りがよいかもしれない。多少とも茶に心得がある人なら、千利休の茶の湯を総合的・体系的にまとめた『南方録』(元禄三年・1690)という茶書を知っているだろうし、その編者として立花実山の名を記憶しているはずである。
 かくして、実山は茶人として当時傑出した存在で、南坊流の実質的な祖と目される者だが、宝永二年(1705)実山は弟峯均他三人に『南方録』の書写を許し、南坊流茶道を相伝した。峯均は、兄実山の薫陶を受けた茶人、という顔の方が知られている。峯均の茶人としての功績は、茶書『南方録』を増補して後世に伝えたことである。『南方録』には円覚寺本の他に、寧拙書写本(福岡市博物館蔵)と言われるものがあるが、この「寧拙」は立花峯均の号である。
 宝永五年(1708)、峯均は玄界灘の孤島に流刑。同年、兄の実山は幽閉中、主命を帯びた黒田家家臣に暗殺された、あるいは切腹を命じられたともいう。
 ここで明らかに筑前二天流は絶滅の危機にあった。峯均流刑後、時を措かず、師匠吉田実連は、甥の早川実寛に一流相伝して、筑前二天流の道統を保全したのである。他方、峯均は流刑の島にあり、このまま孤島に終るかと絶望もした。しかも綱政が死んでも、なお赦免されなかった。
 しかるに黒田継高の代になって、正徳五年(1715)、ようやく赦免され、島から帰還した。七年の流刑であった。
 その後は、三兄・小左衛門増武の所領である志摩郡青木村(現・福岡市西区)に小庵を結んで住んだ。住居は潜龍窟、自身は廓巌翁と称して、茶人として隠棲のかたちだが、それでもやはり福岡城下から通ってくる門弟があり、武蔵流兵法を教えていたらしい。
 享保七年(1722)、峯均は流系の嗣に、三人の門弟を選んだ。甥二人(峯均弟立花源右衛門重躬の子、長男・勇勝、二男・種章)と、もう一人は桐山作兵衛丹英である。
 では、武蔵門流諸派のなかで、この立花峯均の道統のポジションは、いかなるところにあるか。武蔵晩年肥後時代から発した諸流派の派生展開を略図で示せれば、以下のようなものとなる。





福岡城下模型 しんわ本社




福岡県立図書館蔵
福岡御城内図















円覚寺本 南方録

*【南方録】巻八(秘伝九ケ条)
《九箇条の秘書すでに草稿なりて清書なき内に、〔実山は〕不幸にして世を辞し玉ふ。悲嘆限りなし。老師の志をつぎ、草案を筐底より探り得て清書に及ぶ。世我をすて我も世をすてて、此の山庵に安居し、寂々茅盧の内に独見の珍とす。其の機の第一人あらずして浪〔みだ〕りに書写すること其の罪軽からず。日々老師の牌前の誦経回向にも書写の大罪を許し玉へと仰ぎ願ふ。更に嘗て他見の為にあらず。可秘々々。
 正徳五年龍次乙未朧月
  実山老師肉弟 無華斎巌翁拝書》

新免武蔵守玄信 ―┐
 ┌――――――――┘
 ├寺尾孫之丞信正┬浦上十兵衛   ┌多田源左衛門祐久―→多田円明流
 │       │        │
 │       ├柴任三左衛門美矩┴吉田太郎右衛門実連┐筑前二天流
 │       │         ┌――――――――┘
 │       │         │立花系
 │       ├山本源左衛門勝秀 ├立花専太夫峯均┬立花権右衛門勇勝       ┌立花平左衛門増昆
 │       │         │       │               │
 │       ├井上角兵衛正紹  │       ├立花弥兵衛増寿┬立花弥兵衛種貫┴立花弥兵衛種純→立花派
 │       │         │       │       │
 │       ├中山平右衛門正勝 │       └桐山作兵衛丹英└丹羽五兵衛信英―→越後二天流
 │       │         │早川系                        渡部六右衛門信行
 │       ├槇嶋甚介     └早川瀬兵衛実寛―月成八郎左衛門実久┬月成彦之進実誠  赤見俊平有久他
 │       │                           │
 │       └提次兵衛永衛―橋津彦兵衛正脩             └大塚作太夫重寧―大塚初平藤郷→大塚派
 │
 └寺尾求馬助信行┬寺尾藤次玄高志方半兵衛之経―志方半七之郷―新免弁之助玄直―志方弥左衛門之唯→寺尾派・山尾派
         │      │
         ├新免弁助信盛┼村上平内正雄┬村上平内正勝┬村上平内正則→村上派正勝系
         │      │      │      │
         │      │      │      └長尾権五郎徒山―高田十兵衛→長尾派
         │      │      │
         ├寺尾加賀助 │      └村上八郎右衛門正之┬村上大右衛門正保―村上貞助→村上派正之系
         │      │                U
         │      └寺尾助左衛門――太田左平次泉露―野田一渓種信―野田三郎兵衛種勝→野田派
         │
         ├寺尾郷右衛門勝行―吉田如雪正弘―山東彦左衛門清秀―山東半兵衛清明―山東新十郎清武→山東派
         │
         └道家平蔵宗成―豊田又四郎正剛
 筑前二天流は、寺尾孫之丞信正の系統であり、三祖柴任美矩が筑前黒田家に仕官したおりを契機にして発生したのだが、この流派は、のちに肥後で派生展開した寺尾求馬助系統とは別の、初期の分岐である。しかも、現存五輪書諸写本に記載されている唯一の名、すなわち寺尾孫之丞の道統を伝承保全したという点で、まことに因縁めいた話になる。
 『丹治峯均筆記』しか知らねば分からぬことだが、その後立花峯均は、もう一人、中山伊右衛門という者に前三者同様に一流相伝した。峯均の相伝弟子はこの四人である。それぞれに、五巻の書(五輪書)を交付し一流伝授、自分一人のみが相伝したという武蔵流兵法を、後世に伝えたのである。
 むろん、これには、吉田実連の甥・早川実寛の流れを汲む早川系の者らから異議申立てがあろう。上掲系統図に示すごとく、吉田実連の相伝者は、立花峯均だけではない。それをあえて、立花峯均は唯一相伝者を主張したのである。
 筑前二天流は、立花系・早川系ともに、連綿として明治まで道統が存続した。しかも、興味深いことには、十八世紀後期、峯均の孫弟子・丹羽五兵衛信英が、故あって黒田家を出奔して浪人、のちに越後に住んで、この兵法流儀をその地に伝えた。これにより、九州とは遠い越後で二天流兵法が興起して、その道統が明治にまで及ぶのである。
 おそらく、本書に述べられているように、立花峯均の情熱と奔走がなければ、寺尾孫之丞を経由するこの筑前の嗣系一半は残らなかったであろう。たしかに、この流派道統は立花峯均という存在を重要な結節点としている。
 そして立花峯均という人は、茶書(寧拙本南方録)と、本書(丹治峯均筆記)を後世に残した。それだけでも、日本文化史におけるかなりユニークな存在ではあるまいかと思うのである。






*【筑前二天流立花派伝系図】

○新免武蔵守玄信―寺尾孫之丞信正┐
 ┌――――――――――――――┘
 └柴任美矩―吉田実連―立花峯均
 ┌――――――――――――――┘
 ├立花勇勝 増時 流水
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 ├立花種章 増寿 ┬立花種貫――┐
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 ├桐山作兵衛丹英├丹羽信英  |
 |       |      |
 └中山伊右衛門 └林七郎右衛門|
 ┌――――――――――――――┘
 ├立花種純―立花種名……→種美
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 └立花増昆―吉田経年 吉田家本

 さて、我々のここでの峯均筆記読解では、『丹治峯均筆記』の全体、すなわち「兵法大祖武州玄信公伝来」及び「追加」「自記」全文の現代語訳と、それに読解を助けるために評註を付す。本書全文の現代語訳は従来存在せず、我々のここでの試みをもって最初とする。名のみ知られて、諸書に断片しか引用されていない本書に関し、現代語訳で全文を読みたいとの希望が多くあり、それに応じたのである。
 また評註については、本サイト諸論の例に漏れず、長大なものとなるであろう。というのも、本書『峯均筆記』のみならず、肥後系伝記二書、つまり『武公伝』『二天記』を参照しつつ、筑前系伝記と肥後系伝記を横断して、いわば間テクスト的(inter-textual)な読解を実行するがためである。そのようにして我々は、武蔵伝説の発生現場を押さえることができるであろう。
 また本書には、当流二祖寺尾孫之丞以下、立花峯均までの略伝を記している。これについても、とくに三祖柴任美矩や四祖吉田実連など、従来言及されることのなかった人物について研究を進め、この方面のポスト武蔵研究の領野を開拓した。後学のさらなる探求を期待するところである。
 さらに、立花峯均以後、この流派がどのような命運をたどったか、それをテーマにした論文一本を「峯均以後」と題して付加し、これも後学のための里程標とすべく用意したので参照されたい。
 なお、本書『峯均筆記』の写本には異なるヴァージョンがあって、底本として全面的に依拠しうる特定の写本は存在しない。比較的内容がよいのは三宅長春軒本(福岡市総合図書館蔵)であろうが、ただし、これにも誤記が尠なくない。それゆえ諸写本の異本間の相違を照合して、脱字誤字等の補正をした。したがって以下に提示するのは、我々の校合を経たテクストである。
 また、読者の便宜をはかるため、我々の提示テクストでは、原文にはない改行や濁点を加えていること、あるいは敬尊記述法で、原文では名を改行頭出していたり闕字する部分を、我々のテクストでは無視していること等々、これらも念のため附記しておく。


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