宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 豊 田 氏 先 祖 附     Back 



*【二天記序文】
《豐田氏三世能學其技而淑諸人。今子俊、校父祖所記、欲以示人。亦善繼志述事者也》



八代城址 熊本県八代市



熊本大学付属図書館蔵
御給人先祖附



*【豊田氏略系図】

○豊田次郎景俊―但馬守景次─┐
  ┌───────────┘
  └──(16代略)──┐
 ┌──────────┘
 └豊田甲斐正信─甚之允高久┐
 ┌────────────┘
 │岡田四郎次郎  橋津卜川
 ├専右衛門高達┬又四郎正剛─┐
 │      │      │
 └信房    └源右衛門正敬│
  頼藤浅右衛門       │
 ┌─────────────┘
 │ 橋津八水
 └彦兵衛正脩┬某
       │
       │復姓豊田
       ├専右衛門景英
       │
       └仙九郎
        高野平右衛門
 我々が「肥後系武蔵伝記」と呼ぶところの『武公伝』及びその後継伝記である『二天記』は、肥後八代の長岡家家臣・豊田氏による著作である。
 『二天記』巻頭の序には、安永丙申(1776年)仲冬との日付があり、そして「宇貞」と序文の筆者名を記す。すなわち、肥後八代の武士で、文学稽古所・伝習堂の教師であった宇野源右衛門惟貞によるものだが、それには、《豐田氏三世、能く其技を學して諸人を淑す。今、子俊(豊田景英)、父祖の所記を校し、以て人に示さむと欲す。亦た善く志を繼ぎ事を述る者也》(原文漢文)とある。「豊田氏三世」、つまり正剛・正脩・景英という祖父・父・子の三代にわたって、武蔵伝記作成に関わったことを記している。
 それゆえ、肥後系武蔵伝記『武公伝』『二天記』を語るとき、これを後世に残した、この「豊田氏三世」のことを述べないわけにはいかない。しかし、彼らがいかなる者たちであったか、『武公伝』『二天記』にそれを記しているわけではない。
 たとえば、筑前系伝記『丹治峯均筆記』には、本編の武蔵伝記の他に、二祖・三祖・四祖について記事があり、そして何より、著者・立花峯均が自身について書いている。だが、肥後系伝記の方には、そうした自己言及に相当する記録がない。では、肥後系伝記の著者について知る史料はあるのか。
 それには、幸いにも、松井家文書に「御給人先祖附」という十八世紀後期の史料があり、近年では八代市史刊行にあたって史料として収録されている(『八代市史 近世史料W』一九九六年)。「御給人先祖附」(以下、先祖附という)は、八代城を預かった長岡家の家臣団、計七十三家が、それぞれの先祖由来を記し、また、父祖以来いかに主家に奉公勤仕したかを記録し、提出した文書である。
 彼らの主家・長岡家は、熊本城主・細川家の主席家老で、知行三万石、ちょっとした大名並みの家禄である。先祖附は、その家臣団がどういう組織であったか、その仔細が知れる資料として興味深い。その提出時期は、明和七年(1770)である。それまでは、家臣団諸家のこうした来歴記録の集成はなかったものとみえる。長岡家はこのとき、家臣らにそれぞれの家譜の提出を求めたのである。
 豊田氏の先祖附について見るに、これを記述提出したのは豊田専右衛門、つまり『二天記』の作者・豊田景英のようである。したがって、我々はここに、『二天記』の作者によるいま一つの記述文書に相遇するというわけである。
 豊田氏先祖附の提出期日は明和七年(1770)二月。景英は豊田家当主で、三十一歳である。なお、それぞれの家がその後に補足文書提出もしたらしく、これはおおむね天明元年(1781)である。天明元年のものは、明和七年以後のことを記す内容の、いわば補足文書である。
 我々の関心事であるところの、武蔵伝記『武公伝』『二天記』二書が生まれた環境あるいはその背景を知るには、まさにこの先祖附以上の資料はないであろう。その意味で、これを精確に読解することは、武蔵伝記研究において不可欠の作業である。
 しかるに、従来、そうした研究は存在せず、八代豊田氏について、明治末の顕彰会本『宮本武蔵』の記事を転記しただけの、胡乱な言及に終始していたのが実状であった。それゆえ、我々の研究プロジェクトでは、前に本サイト[坐談武蔵]の「肥後系武蔵伝記のバックヤード」(二〇〇六年)において、それをテーマに共同討議がなされた。いわゆる「豊田氏三世」の研究は、その場の討議をもって嚆矢とすることは申すまでもない。
 そこでは広範な観点から分析がなされたが、ここでは、豊田氏先祖附そのものに絞ってそれを読解する作業を行う。「豊田氏三世」の経歴情報は、この先祖附に拠る以上のことはできない。豊田氏研究の第一級資料である。従来の武蔵研究では、豊田氏先祖附について言及したものはあったが、その内容について具体的に紹介したものがない。それゆえ、今後の研究進展に資するために、この基本史料の読解を提示しておくことにした。
 以下は、「御給人先祖附」から豊田氏関係の部分を抽出し、現代語訳に評註を加えて、『武公伝』『二天記』読解研究の附録資料とする。

 
  1 豊田家の先祖
    覚
              豊田専右衛門 (1)

一、私先祖、豊田次郎景俊は坂東の八平氏ニて、下総国豊田郡を領知仕、鎌倉将軍頼朝ニ仕、(2)
 其子豊田但馬守景次儀は、建久年中、大友左近将監能直、為鎮西の奉行九州ニ下向の節、属従仕、豊前国宇佐郡橋津を知行仕、代々大友家の旗下ニて御座候。(3)
 右豊田次郎景俊十九代・豊田甲斐正信二至、文禄二年大友家没落以後、領知橋津郷を退去仕候て、同国山鹿と申所ニ浪居仕候内、病死仕候。(4)
    覚
                    豊田専右衛門

一、私の先祖、豊田次郎景俊は坂東の八平氏で、下総国豊田郡を領知いたし、鎌倉将軍頼朝に仕えました。
 その子・豊田但馬守景次は、建久年中、大友左近将監能直が鎮西奉行として九州に下向の節、それに属従し、豊前国宇佐郡橋津を知行いたし、代々大友家の旗本でございました。
 その豊田次郎景俊から十九代目の豊田甲斐正信に至って、文禄二年(1593)大友家が没落して後、知行地の橋津郷を退去いたしまして、同国山鹿と申すところで浪居したしておりますうち、病死いたしました。

  【評 注】
 
 (1)豊田専右衛門
 豊田氏先祖附のタイトル部分である。「覚」とあるように、この文書は覚書・記録の体裁である。つまり、本来は「先祖附覚」、先祖についての覚書というべきであるが、肥後の慣例にしたがって、ここでは「先祖附」と呼んでおく。
 この文書の提出者の名は、豊田専右衛門である。この豊田専右衛門とは、すなわち、『二天記』の作者・豊田景英である。上記のように、我々はここで『二天記』作者のもうひとつの文書に接するわけである。それが、自家先祖に関する記録文書であるところが興味深い。
 景英は、先祖附の最後に、《右之通申伝候付、書付差上申候》と記している。つまり、豊田家ではこのように言い伝えがある、それを書いて提出するというのである。  Go Back
 
 (2)豊田次郎景俊
 先祖、というか、肥後八代豊田氏の元祖は、豊田次郎景俊であるという。この景俊は、坂東の八平氏で、下総国豊田郡を領知し、鎌倉将軍頼朝に仕えた、というのである。
 ここに記されている「八平氏」というのは、「八平」氏ではなく、坂東の八つの平氏枝族のことである。坂東八平氏は、三浦氏、千葉氏、秩父氏、鎌倉氏など、平安後期に関東で勢力のあった武士団である。そもそもは、9世紀後半の人、高望王を元祖とすることから、桓武平氏の末流である。
 坂東八平氏のひとつに鎌倉氏あり、その鎌倉党に大庭・長江・梶原・長尾・香川など諸氏があった。豊田次郎景俊は、このうち大庭氏から出た人である。
 源頼朝(1147〜99)は関東の武士団を組織して挙兵したが、源氏の頼朝に与した坂東平氏の武士団があった。頼朝挙兵のおり、大庭は平氏ゆえ当然頼朝に敵対する側にあった。しかし大庭勢は分裂し、大庭景宗の長男・大庭景義(景能 1128〜1210)と次弟・豊田景俊が頼朝に与した。三男の大庭景親と五男の景久は平家方にとどまり、石橋山合戦では頼朝勢と戦い敗走せしめた。のち富士川合戦で頼朝方が勝利して、平家を追い落とす契機を手中にした。このとき大庭景義は頼朝麾下、敗軍の弟・景親を片瀬川で斬首したという。
 豊田次郎景俊は、領地の地名により豊田を名のったが、その豊田の場所は相模国豊田庄(現・神奈川県平塚市)である。景俊の父・大庭景宗の墳墓跡という大庭塚が同地にある。とすれば、豊田姓の根拠地は相模の豊田、したがって豊田氏先祖附が記す下総国豊田郡(現・茨城県常総市)は誤伝とみなすべきであろう。
 なお、先祖附を書いた豊田専右衛門景英が、関東にあった豊田次郎景俊にまで、その元祖を遡行せしめるについては、後に述べるように、祖父と父が豊田から橋津という異姓に改姓したのを、景英の代に復姓したことと関連があろう。そのとき、名も、甚之允正通から専右衛門景英に変えて、元祖・景俊の「景」字を頂戴したし、また子俊とも号し、これまた景俊の「俊」字を継いでいる。豊田景英は、かようにも元祖・景俊への思い入れが深い。そのことに注意すべきである。  Go Back





大庭城址 平塚市大庭町


*【吾妻鏡】
《景能(景義)が父・景宗が墳墓、相模国豊田の庄にあり》



大庭塚 平塚市豊田本郷
 
 (3)豊田但馬守景次
 鎌倉幕府のもとで関東にあった豊田氏先祖が、なぜ九州へやってきたのか、その由来を語るところである。
 内容を見るに、豊田次郎景俊の子・但馬守景次は、建久年中、大友左近将監能直が鎮西奉行となって九州下向のさい、それに属従してやってきた。豊前に移住して宇佐郡橋津を知行し、代々大友家の旗下(旗本)であったとのことである。
 まず、景俊の子・但馬守景次のことは不詳である。ただ、ここに名を記されている大友左近将監能直(1172〜1223)は知られている人物なので、豊田氏が景次の代に九州へ移ってきた事情は、おおよそわかる。
 大友能直は、相模国愛甲郡古庄の近藤氏を出自とするようだが、頼朝の寵臣として出世した人物である。同じ頼朝幕臣でも、大庭や梶原など自前の武士団をもっていた連中とは異なっていた。大友能直の母・刀根局は頼朝の側室であり、能直には頼朝落胤説もあったが、それはともかくとして、母の姉婿が中原親能で、能直はその親能の養子になるなどして、鎌倉幕府草創期に出頭した人物である。大友という氏姓は、能直が、相模国足柄下郡大友庄(現・神奈川県小田原市)を領知したことによるらしい。
 豊田氏先祖附には、この大友能直が建久年中(一一九〇年代)に鎮西奉行となって九州へ下向したというが、じっさいには大友能直は、建永元年(1206)豊後国守護に任命されただけで、九州へは移っていない。能直は京都に住んでいたのである。大友氏が九州へ下向するのは、能直の孫・大友頼康(1222〜1300)の代である。時あたかも元寇のおり、頼康は鎮西東方の奉行に任命されて、九州へ下向したわけである。したがって、豊田氏が景俊の子・但馬守景次の代に九州へ移住したとすれば、それは大友能直の代官の一人としてであろう。
 大友氏は、元寇後の鎌倉幕府末期のドサクサのなか、結局、この頼康の系統が、関東を離れ豊後に土着することになった。その後は、南北朝期から戦国時代を通じて、独立勢力として九州北東部に勢力を伸張することになる。豊田氏先祖附によれば、豊田氏は代々この大友家の旗本だったというから、大友氏の勢力伸張に功績があったということであろう。
 ここで先祖附が記すのは、豊田氏が領知したという豊前国宇佐郡橋津なる地名である。それがわざわざ特記されているのには理由がある。すなわち後の末孫、豊田正剛・正脩が橋津姓を名のるようになるからである。豊田景英の祖父と父が橋津姓を名のったのは、この本貫の地(現・大分県宇佐市橋津)の名に由来するもののようである。  Go Back







大友左近将監能直

*【吾妻鏡】
《左近将監に任ぜらるる由、営中に参賀す。是れ無双の寵仁なり》(文治4年11月17日)
《左近将監能直は、常時殊なる近仕として、常に御座の右に候ず》(文治5年8月9日)



*【大友氏略系図】

○能直―親秀―頼康―親時―貞宗┐
┌──────────────┘
└氏泰―氏時―氏継―親著―親繁┐
┌──────────────┘
└親治―義長―義鑑―義鎮―義統
           宗麟
 
 (4)豊田甲斐正信
 豊田氏十九代目、豊田甲斐正信の代のことである。大友氏没落まで話が進むが、ここは、まず、当時の情勢を解説しておく必要がありそうである。
 戦国時代の北部九州は、少弐氏、大内氏、そして大友氏の三つ巴の抗争にはじまり、豊田家が属した大友氏は、大内氏の進出により一時衰微したが、やがて十六世紀中期、大友氏二十代・義鑑〔よしあき〕とその子・義鎮〔よししげ〕の代になって、中興の時期を迎える。豊後から豊前・筑前・筑後・肥後にまで勢力範囲を拡大したのである。
 豊田甲斐正信が仕えたと思われるのは、大友義鎮(号宗麟・1530〜87)である。しかしながら、義鎮の出発は、大友家内訌を乗り切ることではじまる。父・義鑑は、義鎮を廃嫡し、三男塩市丸を後嗣にしようとした。このため、大友氏家臣団は分裂し、内部抗争の様相を呈した。結局は、天文十九年(1550)、義鎮派の家臣たちが、義鑑及び塩市丸とその生母(義鑑側室)を襲撃して殺すという事件(二階崩れの変)により、このお家騒動は決着がついた。
 かくして、大友義鎮は、《patricide》(父殺し)を通じて、二十一歳で大友勢の頭領となった。義鎮は実父を殺させて、大友家の権力を掌握したのである。しかし、息子が父を排除して実権を掌握するという、こういうことは、戦国時代には珍しくない。近世以降の秩序社会における道徳イデオロギーとは異質な行動原理が、戦国武将にはあったようである。
 なお、義鎮を擁立した重臣の中に、戸次鑑連〔べつき・あきつら〕(1513〜85)がいる。これが、後の立花道雪、ようするに筑前立花氏の祖であり、したがって、『丹治峯均筆記』の立花峯均の遠祖である。そのことは、本サイト・武蔵伝記集の『丹治峯均筆記』読解のページに述べられている通りである。
 戦国末期の激動のなかで、大友義鎮のその後は、かなり派手な動きになる。まず、天文二十三年(1554)肥後の菊池氏を滅亡せしめる。菊池義武は、義鎮の叔父であり、父・大友義鑑の実弟であった。他方、大内氏内部には下克上があり、家臣・陶隆房(のち晴賢)が主人大内義隆を討って敗死せしめて排除した。陶隆房と組んだ大友義鎮は、異母弟の大内義長(晴英)に大内氏の家督を継がせるなど、介入を行っているが、大内氏は、結局は弘治三年(1557)義長が毛利元就に攻め滅ぼされ、中国・北九州におけるその長い支配の歴史を閉じたのである。
 すると、こんどは大友対毛利の対立構図となった。毛利元就は、大内氏旧領である北九州へ侵攻した。敵の敵は味方という抗争原理により、大友義鎮は出雲の尼子氏と同盟し、毛利勢の九州侵略を排除した。この過程で、筑前・筑後・豊前にも勢力範囲を拡大し、その結果、大友義鎮は永禄二年(1559)に九州探題に任命され、翌年には左衛門督。そうして、元亀年間(1570代)のころには、九州北半諸国を勢力下におく有力大名になったのである。
 さて、この大友義鎮は、切支丹大名として知られる人である。洗礼名は、ドン・フランシスコ。その名は、かのフラシスコ・ザビエル(1506〜52)にちなむという。義鎮自身、若き日の天文二十年(1551)に、ザビエルその人に会っているが、義鎮がザビエルに会って、洗礼を受けるまで、二十七年が経過している。しかしその間、ポルトガルと交易し、領内での布教活動を保護した。すでに天文二十三年(1554)府内(現・大分市)には教会が開かれ、のちにコレギオ(神学校)まで設置された。そして、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539〜1606)の建言に応じて、天正八年(1980)少年使節をローマ法王のもとへ派遣したのである。四人の少年のうち、伊東マンショは大友義鎮の名代である。義鎮と親しく接したフロイスの言によれば、義鎮は教義を理解した真正のキリスト教信者であるとのことである。
 大友義鎮は、四十七歳の天正四年(1576)、嫡男の義統〔よしむね〕(1558〜1605)に家督を譲り、丹生島城(現・大分県臼杵市)へ隠居し、宗麟と号す。しかし翌天正五年(1577)薩摩の島津氏が日向へ侵攻して、敗れた国主・三位入道伊東義祐が豊後の大友義鎮のもとへ頼ってきた。こんどは、大友対島津の対戦である。隠居の義鎮も日向へ出陣し、攻防の末、翌天正六年(1578)耳川の合戦で島津氏に大敗を喫した。この日向出兵は、伊東義祐の要請を受けたとはいえ、カブラル神父を同道させるなど、神の国建設という義鎮の夢を託した事業ともみられる。この合戦で多くの重臣を失った義鎮は、大友勢の中で威光を失い、敗戦は切支丹改宗への天罰だという声も挙がり、息子で当主の大友義統と確執を深めたらしい。
 大友対島津の対立は、豊臣秀吉が仲介して和睦させようとしたが、両者同意せず。むしろ、天正十四年(1586)義鎮は大坂へ上り秀吉に直訴して、支援派兵の約束を取りつけた。同年暮に島津勢が侵攻して、豊後は府内や臼杵まで蹂躙されたが、秀吉から派兵があり、翌天正十五年(1587)島津氏は降参し、九州一円は秀吉に帰服した。この戦勝によって、大友家は義統が豊後一国を安堵され、さらに秀吉は宗麟(義鎮)に日向国を与えるとしたが、辞退したという話がある。それはともかく、大友宗麟は熱病に罹り、この年の五月に死去してしまうのである。
 秀吉の九州制圧により、大友義統は豊後国を安堵された。義統が吉統と名のるのは秀吉から吉の字を与えられた偏諱である。しかるに、大友義統はせっかく確保できた豊後国を失領してまう。つまり、秀吉が朝鮮侵略をした文禄の役に義統は参戦したが、文禄二年(1593)戦地で小西行長の救援要請を蹴って城を放棄した。この過失と、天正十四年(1586)の豊前での敗走など過去の失態を列挙され、秀吉から勘当状をたたきつけられ、改易された。つまり、義統は秀吉から所領を剥奪され、身柄は毛利輝元に預りとなったのである。
 かくして、大友氏は先祖伝来の領国を失い、家臣は離散するに到った。ただ、その後、義統には再起再興の最後のチャンスはあった。慶長五年(1600)の関ヶ原役のときである。
 毛利勢の支援を受けて、義統は海路豊後へ侵攻した。大友勢はまずは、細川忠興に与えられていた杵築城を包囲攻撃した。留守居の家老・松井康之と有吉立行は、豊前中津の隠居黒田如水に援軍を要請した。如水は挙兵し、豊後へ侵攻してきた。結局、大友義統は石垣原の戦いにおいて敗北し、降伏して黒田勢の捕虜となった。
 黒田如水は大友宗麟と親しく、かつてこの義統に切支丹入信を勧めた人である。そのとき、義統は受洗し、洗礼名コンスタチノ。戦後、黒田如水は、中津で義統の身柄を預かったが、悪いようにはしない。義統は始終棄教していたが、ここに至ってついに回心があったようだ。如水は、義統の告解のために、神父を引き合わせてやったのである。
 その後、義統の身柄は近江に移され、さらに奥羽秋田氏のもとへ預けられ、そして常陸国宍戸へ流された。義統は慶長十年(1605)同地で死ぬが、その晩年は切支丹宗徒して信仰の日々であったという。
 大友義統の嫡男が義乗〔よしのり〕、秀吉により父義統が改易されたとき、義乗は加藤清正に身柄を預けられ、その後、徳川家康へ預けられ、江戸牛込に住んだ。関ヶ原のおり父大友義統が敵対し、九州豊後で一戦に及んだが、家康は義乗の家督を認め、その後子孫は、旗本として存続したという。
 さて、以上が大友氏の有為転変のプロセスである。豊田氏先祖附によれば、十九代目豊田甲斐正信は、文禄二年(1593)大友家が没落して後、知行地の橋津郷を退去し、同国山鹿という地に浪居しておるうち、病死した、という。それ以外のことは不詳だが、彼はどこまで大友氏の命運に付き隨ったかは、文禄二年(1593)大友家没落という時点、すなわち、大友義統が先祖累代の豊後国を失領したときまでだろう、ということになる。
 そうなると、大友義統の軍勢はそのとき朝鮮にあり、彼らは、いったん別の武将の指揮下に入ったが、のちに休戦となって帰国した。大友遺臣の多くは再仕の道を擇んだが、浪人したまま豊後周辺に居残った者もあった。
 豊田甲斐の没年は不明だが、もしかりに、大友没落以後雌伏していた豊田甲斐正信が、豊後奪還を企図した慶長五年の大友氏の戦いに参加していたとすれば、それなりに興味深いのである。だが、いづれにしても豊田家が細川忠興あるいは長岡興長に帰属するようになった爾後の経緯からすれば、細川氏の杵築城を攻めたなど、そんなことは書けなかっただろうし、それこそ、豊田家譜から抹消された過去であっただろう。
 ともあれ、豊田甲斐は、主家没落とともに浪人となったが、しかし大友遺臣として節を曲げずに死んだ、という話のほうが、物語られる歴史としては、ほどよく納まる順当なところなのである。
 なお、豊田甲斐正信は、大友家が没落して後、知行地の橋津郷を退去し、同国(豊前国)山鹿という地に浪居したという記事につき、この「同国山鹿」と記されている地名はどこを指すか不明である。あるいは、これが同音(やまが)の「山香」だとすれば、速見郡山香郷(現・大分県杵築市山香町)がそれにあたる。ただしこちらは豊後であって豊前ではない。豊後風土記逸文に記された古い地名である。この「同国山鹿」は、先祖附記者の誤記か否か。このあたりは地元研究者の探求を待ちたい。  Go Back









大友宗麟(義鎮)





府内古図




京大図書館蔵
ヴァリニャーノと
天正遣欧少年使節の4少年
アウスブルグ 1586年






九州関係地図







石垣原古戦場址現況
如水本陣実相寺山を望む



石垣原古戦場址・大友義統本陣跡
大分県別府市石垣原





豊後豊前関係地図

 
  2 豊田甚之允高久
一、私高祖父豊田甚之允[高久]は、右豊田甲斐子ニて御座候。元和元年、従忠興公五人扶持拾五石被為拝領置候得共、其後御断申上浪居仕候処、寛永元年、従興長公御懇意を以被召抱、往々は御知行をも可被下旨ニて、五人扶持拾三石被為拝領、同九年十二月、肥後御入国の節御供仕、家内の者共は在所え残置、同十一年二月、当御国え妻子等引越申候。(1)
 同十三年、江戸幸橋・銭亀橋石垣御普請御手伝忠利公被為蒙仰、依之興長公江戸え御越被成候付、甚之允儀御供仕、御普請場夫仕役被仰付、出精相勤候付、為御褒美毛織の御羽織菖蒲革の御立付被為拝領候。同十七年、御用ニ付長崎え被差越、明暦元年十一月廿二日より、松江村・海士江村海辺新塘、都合千五百余間築の節、支配被仰付、同廿七日成就仕、同二年、古閑村新塘六百三十余間築の節も御用被仰付、同三年、江戸御城御普請の節、従興長公御役人被差出、甚之允儀も被差登、出精相勤申候。(2)
 直之公御代、歩御小姓組被召加、御台所奉行被仰付、其後及老極御役儀御断申上退休仕、延宝四年七月、病死仕候。(3)

一、私の高祖父、豊田甚之允[高久]は、豊田甲斐の子でございます。元和元年(1615)、(細川)忠興公より五人扶持十五石を拝領しておりましたが、その後、辞退申上げ、浪人しておりましたところ、寛永元年(1624)、(長岡)興長公よりご懇意をもって召抱えられ、ゆくゆくは知行も下されるとのことで、五人扶持十三石を拝領いたしました。同九年(1632)十二月、(細川家)肥後御入国の節、お供をしました。(そのとき)家内の者どもは在所へ残し置きましたが、同十一年(1634)二月、当国(肥後)へ妻子らを引越させました。
 同十三年(1636)、江戸の幸橋・銭亀橋の石垣工事のとき、その手伝を(細川)忠利公が命じられ、このため(長岡)興長公が江戸へ行かれるのに、甚之允はお供いたし、工事現場の夫仕役を仰せつかり、出精して勤めましたので、ご褒美として毛織の羽織・菖蒲革の立付を拝領いたしました。同十七年(1640)、役目で長崎へ派遣されました。明暦元年(1655)十一月二十二日より、松江村・海士江村の海辺の新堤防を、延長千五百間(約2.7km)にわたって建設するとき、工事監督を仰せ付けられ、同二十七日成就いたしました。同二年(1656)、古閑村の新堤防六百三十余間(約1.2km)を建設する節も、役目を仰せ付けられました。同三年(1657)、江戸城ご普請の節、興長公から役人を差出され、甚之允も(江戸へ)派遣され、出精して勤めました。
 (長岡)直之公の御代に、歩御小姓組に召し加えられ、御台所奉行を仰せ付けられました。その後、老い極まるに及んで、役儀を辞退申上げて引退し、延宝四年(1676)七月、病死いたしました。

  【評 注】
 
 (1)寛永元年、従興長公御懇意を以被召抱
 豊田甲斐は、大友家没落とともに浪人して、以後どこにも仕えず、死んだらしい。その後も、豊田家は長く浪人したままであったようだ。
 その子はどうかというに、豊田甚之允高久が、文禄二年(1593)から二十年以上もたった元和元年(1615)になって、細川忠興(1563〜1646)に仕えたらしい。それまで豊田高久がどこで何をしていたか不明である。また、どういう縁で細川家に召抱えられたか不明だが、豊田高久が豊前周辺にいたとすれば、関ヶ原戦後、豊前および豊後の一部、表高三十万石を与えられた細川家に仕えたというのも、ありうることである。
 細川家中時代の豊田甚之丞には、切米人数十五石五人という記録がある(於豊前小倉御侍帳)。先祖附も同じく、高久の給料は五人扶持十五石と記す。しかし微禄の軽輩である。細川家ではウダツがあがらぬとみたのか、その後、高久は致仕して浪人した。ところが、寛永元年(1624)、細川家家老の長岡興長(1582〜1661)に召抱えられ、五人扶持十三石を与えられた。ゆくゆくは知行地も与えようという話である。ようするに、使ってみて見どころがあれば取り立てよう、ということなのである。
 申すまでもないことだが、長岡興長は武蔵所縁の人物である。巌流島決闘のとき巌流小次郎との試合を仲介したという伝説は別にして、晩年武蔵が肥後へ滞在するにあたっての書状があり、また、細川家が武蔵を客分として滞在費を支給するについて取り持ちをし、武蔵が熊本で病死する前後も、あれこれ世話を焼いている。
 ところで、興長の長岡家はそもそも松井氏である。松井は在名で、山城国綴喜郡松井(現・京田辺市)が本地である。興長の父・松井康之(1550〜1612)は京都の人で、十三代将軍・足利義輝に仕えた。義輝が松永・三好勢に攻められ戦死すると、細川藤孝(1534〜1610)らと共に義昭を将軍に擁立し、織田信長の支援を得て、十五代将軍義昭を実現した。その後、義昭と信長が不和になると、細川藤孝と共に義昭を見限り、信長方についた。それゆえ、当初は細川藤孝と同輩であったが、年齢も藤孝よりかなり若かったので、秀吉時代には、丹後国を与えられた細川藤孝の属将として行動するようになり、のちに家督を嗣いだ細川忠興(1563〜1645)のためにも尽力した。細川藤孝は姪(自得院・1560〜1641)を松井康之の妻に与え、両家は姻戚関係を結んだ。
 松井康之の長男は興之、しかし彼が朝鮮役で戦死したため、二男・興長が嫡子となった。慶長三年(1598)、細川忠興は三女・古保(恵妙院・1585〜1658)を興長に与え、興長は細川忠興の女婿となった。慶長五年(1600)細川忠興は自身旧姓の長岡姓を興長に与えて、以後興長は長岡姓を名のる。同年の関ヶ原役のさいは、興長は父・康之とともに豊後にあって、木附城を大友勢の攻撃に耐えて死守した。戦後、細川家が豊前小倉へ移封され、康之がこの木附城を預けられたのである。
 慶長十六年(1611)父康之が隠居し、翌年死去。興長は家督を相続した。その後、興長は、忠興の六男・寄之(1616〜1666)を養子に迎え、嗣子とした。寄之の妻は、松井康之の孫娘・古宇(崇芳院・1624〜1711)で、その子が直之(1638〜1692)である。こうして長岡家は主家・細川氏と深い結びつきが形成されたのである。
 他方で当初は、興長の父・松井康之は、細川家中でもかなり独立性が高い武将であった。それは戦国時代の名残で、領知の面で確認しうる。関ヶ原戦後、康之は細川家家老とはいえ、速見郡内一万七千石(現・由布院他)を幕府から預けられた。家康は、松井康之の関ヶ原戦時の軍功を褒めて、この幕府領からの上納を免じた。のちに幕府蔵入地になっても、それは変らず、実質的に松井領であったということになる。慶長十七年、康之が死んで興長が跡目を継いで後、同所は細川家預かりに切り替えられたが、同じく興長に管理権があった。ただ、やはり幕府蔵入地なので、ようやく上納するようになった。その段階で、長岡家はようやく細川家属臣となったのである。
 すると、豊田甲斐の子・甚之允高久が、長岡興長に召抱えられる機縁には、豊後の地縁があったかもしれない。康之・興長の松井(長岡)家は、細川領の木附(杵築)城を預けられていた。ということからすると、じつは、豊田甲斐が「同国山鹿」に浪居、という先祖附の記事にある「山鹿」は、やはり豊後速見郡の山香ではあるまいか、とも思えるのである。この山香は木附(杵築)城に近い。それゆえ、豊田高久が後に長岡興長に召抱えられる機縁は、以前からあったとみるべきであろう。
 寛永元年(1624)に豊田甚之允は長岡興長に召抱えられた。これで、長岡家臣としての豊田家の基礎ができたのだが、主家は細川家老職だから、豊田家は細川家の家臣の家臣、いわゆる陪臣ということになる。
 寛永九年(1632)十二月、細川家が肥後へ転封となって、長岡興長も肥後へ移る。肥後入部にさいし、興長は家禄加増され、玉名・合志郡内に都合3万石。家臣の豊田高久も肥後へ移る。ただし、そのときは、家族は在所へ残して置いたという。この在所は、豊後速見郡の山香ではないか。落ち着いたら、肥後へ呼び寄せようということである。二年後の寛永十一年(1634)二月、肥後へ妻子らを引越させた。
 こうして、豊田家の肥後時代が始まるのである。  Go Back





豊前小倉城址




杵築城址 大分県杵築市杵築



松井文庫蔵
松井康之像



*【長岡(松井)家略系図】

○松井安弘―寛次―宗冨―長之┐
  ┌───────────┘
  └正之┬勝之
     │
     └康之┬興之
        │
        └興長=寄之
 
 (2)江戸御城御普請の節
 肥後へ移って以後の、豊田甚之允高久の勤仕記録である。内容をみるに、主として普請方で勤めたようである。
 まず最初に出てくるのは、寛永十三年(1636)十二月、江戸の建設工事に出向したことである。幕府は、諸大名に、江戸や大坂あるいは駿府・名古屋など諸城市の建設工事を担当させた。これを御手伝と称した。いわゆる天下普請である。戦時なら軍役であるが、平時なら土木建築工事が課役の内容である。慶長元和の頃とはちがって、寛永期になると、江戸もかなり様子が整ってきた。しかし、諸大名はなおも建設工事を課役されていたのである。
 この先祖附にある記事は、寛永十三年というから、肥後細川家が江戸の幸橋門の建設を担当したときのことであろう。細川忠利の命を受けて、長岡興長自身が江戸へ出張したらしい。興長が連れて行った家士の中に、豊田高久もいたのである。
 幸橋とあるこの橋は、現在の新橋駅(港区新橋1丁目)付近にあった。濠も幸橋も幸橋門も現存しないが、内幸町〔うちさいわいちょう〕というのは、幸橋門内の名が残ったものである。
 もう一つの銭亀橋というのは、銭瓶橋〔ぜにかめばし〕。道三堀に掛る橋であった。細川家江戸屋敷の近くに道三橋があるが、銭瓶橋はその一つ東の橋である。というか、外堀と交差する要所にあって、東の一石橋、南の呉服橋、北の常盤橋とともに、四つの橋が集中するクロスポイントである。一石橋に立つと、これらのほか、東の日本橋と江戸橋、銭瓶橋の西の道三橋、呉服橋の南の常盤橋まで見えたところから、一石橋の異名が八見橋。ようするに、一石橋の西向いの橋が銭亀橋なのである。銭亀橋も現存しないが、現在の千代田区大手町二丁目付近にあった。
 先祖附にあるのは、長岡家の担当は石垣工事であったようで、土木工事であるが、石垣は軍事技術の一端でなかなか特殊な技術を要するものである。興長は細川家の普請惣奉行、その功に感じた当時の将軍・徳川家光から陣羽織を賜った。これが、背中に葵の紋付きの陣羽織で、興長肖像画で着用しているものがそれらしい。
 そうすると、豊田高久はそういう記念すべき事業に参加したわけで、それがここに記されている。高久は工事の功績を認められて、記念の褒美に毛織の羽織・菖蒲革の立付〔たっつけ〕を頂戴したという。主人の興長は将軍から陣羽織を頂戴し、その興長が家臣に羽織と立付を褒美に与えたわけである。
 ここに毛織の羽織・菖蒲革の立付とあるのは、平時の衣装ではなく、軍装である。毛織の羽織というのは、おそらく羅紗の陣羽織のことであろう。羅紗は本来ポルトガル語(raxa)で、羊毛で織った布で、輸入品であった。皮の立付〔たっつけ〕はカルサン(軽衫)を指しているようである。
 菖蒲革は染革で、鹿革を藍地に菖蒲の花を染め抜いたもの。菖蒲が尚武〔しょうぶ〕に通じることから武具に用いられた。柔らかな皮製品で立付のような半袴に仕立てることもあったようである。ただ、後世になると、菖蒲革の立付は身分の低い足軽中間の衣装シンボルになってしまう。微禄の下士・豊田高久であるが、このときはまだ、そういう意味は発生していなかっただろう。
 寛永十七年(1640)、高久は役目で長崎へ派遣される。これは、細川家が長崎番をしていたからであろうか。細川家は長崎奉行代行をすることもあった。しかし、長崎は外国貿易の窓口なので、長岡興長が何か舶来の品を買い付けにやった一行に加わっただけかもしれない。ようするに、具体的なことは不明である。
 それよりも、注意したいのは、この数年前に九州であった大事件のことである。すなわち、天草島原の一揆のことだが、細川家はこれに数万の大軍を派兵した。したがって、長岡家臣なら出陣は当然あったはずだが、これに関する記事がない。目立った戦功がなくとも、出陣すればそれを記すはずなのに、記事がないところをみると、豊田高久は留守居に廻されたものか。これも不詳である点につき、注意を喚起しておきたい。
 なお、寛永八年(1631)正月申告の、興長に附属した五十三騎の武士のリストをみるに、豊田氏と関係のありそうな橋津姓の、橋津又兵衛(二百石)という名がある。この人物がどういう者か興味があるところだが、現在は不明である。地元研究者の研究を待ちたい。
 同じ寛永十七年(1641)年、宮本武蔵が肥後へやってきた。同年のものと思われる、七月十四日付の長岡佐渡守(興長)宛武蔵書状がある。
 内容は、有馬陳(島原の乱、原城攻め)の際には、興長から使者を送られ、ことに手紙まで頂戴し、過分の極みと存じている。私はその後、江戸や上方にいたが、今、当地(熊本)に来ている。それをあなたは不審に思われるだろう。私はいささか用事があって来ているのだが、しばらく逗留するつもりなので、そのうち挨拶に伺いたいと思っている。――武蔵が書いているのは、そんなことである。
 武蔵は旧知の興長にも前もって知らせず、ぶらりと肥後熊本へ現れたようすである。しかし、興長の取り持ちがあって、武蔵は細川家から滞在費を支給され、五年後に死ぬまで熊本に逗留することになるのである。
 武蔵が熊本へきた翌年の寛永十八年(1641)年、細川忠利が病死した。武蔵はその後も肥後に滞在したが、正保二年(1645年)五月、熊本で客死。ようするに、この豊田高久は、武蔵と同時代の人なのであり、主筋の興長や寄之と親しかった武蔵その人を見たことであろう。
 また同年十二月には、細川三斎(忠興)が死去。八代城を居城にしていた三斎が死に、城は無主となったが、翌正保三年(1646年)長岡興長がこの城を預かって守備することになった。興長の家臣団は八代へ移るから、このとき豊田高久も、八代へ移ったであろうと思われるが、先祖附にはとくに記事はない。
 その後、高久について先祖附に記録されているのは、やはり普請方、工事担当である。明暦元年(1655)には、松江村・海士江村の海辺の堤防新築工事、翌年は古閑村の堤防新築工事に関与したという。八代城は海辺の城で、その周辺の堤防整備ということらしい。
 この松江村・海士江村は現在も地名が残っている(現・熊本県八代市松江町、海士江町)。松江は八代城の東、海士江はそこから北東に数キロ離れたあたりである。現在地形は海岸線がかなり進出しているが、当時はこのあたりが海辺だったらしい。古閑村も現在地名が残っており、松江村・海士江村を結ぶ線の中ほどの村である。
 そして、明暦三年(1657)に豊田高久は、もう一度江戸へ出ることになった。すなわち、江戸城ご普請の節、とあるから、これは同年正月の大火(振袖火事)で江戸城が罹災したのに対する復旧工事であろう。ただし、このとき焼失した江戸城本丸の天守は、その後再建されることはなかった。天守を設ける動機がすでに失せていたからである。
 当時江戸の居住人口は約五十万、この明暦の大火では死者は五万とも十万ともいう。大災害である。全国の諸大名は、このときとばかりに見舞と手伝に参じたものである。諸大名は江戸に屋敷をもっていたし、細川家の江戸屋敷も罹災した。
 長岡興長は手伝の人数を派遣したらしく、豊田高久も、このとき江戸へ行って働いたということである。寛永九年(1632)暮に江戸へ随行し、幸橋門普請等に加えられた経験もある。その後も八代の堤防工事など普請方で勤務している。大火で罹災した江戸へ派遣されるには、適当な人材であったことだろう。
 なおこの間、次条、豊田高久の養子・高達の記事に出てくるが、高達が、慶安四年(1651)に長岡興長の指示で、尾池藤左衛門の依助流馬術の弟子になり、また、明暦年中に、切米八石二人扶持拝領、小姓組で御馬方に召出されている。  Go Back




東京都立中央図書館蔵
幸橋と銭瓶橋
武州豊嶋郡江戸庄圖 寛永9年



広重 名所江戸百景
八つ見のはし



松井文庫蔵
陣羽織姿の興長像



菖蒲革の意匠例



*【長岡興長宛武蔵書状】
《一筆申上候。有馬陳ニ而ハ預御使者、殊御音信被思召出処、過當至極奉存候。拙者事、其以後江戸・上方ニ罷在候が、今爰元へ参申儀、御不審申可被成候。少ハ用之儀候ヘバ、罷越候。逗留申候ハヾ、祗候仕可申上候。恐憧謹言
  七月十八日    玄信[花押]
     -------------------------
              宮本武蔵
                 二天
 長岡佐渡守様人々御中》




八代城復元図


国立公文書館蔵
海士江・古閑・松江の位置
肥後国絵図




 
 (3)直之公御代
 直之公御代とあって、長岡直之の代のことに飛ぶ。飛ぶというのは、順序として寄之の代のことが飛んでいるからである。つまり、松井康之(1550〜1612)を初代とすれば、二代目は興長(1582〜1661)、三代目が寄之(1616〜1666)である。寄之は、細川忠興の六男で、興長の養子に入った。その寄之が初代康之の孫娘・古宇(1624〜1711)を妻にして生した子が、直之(1638〜1692)である。
 寄之は寛永十一年(1634)以来、細川家老職、同十七年(1640)に若年寄、藩政中枢にあった。長岡式部とあるのが寄之である。武公伝本文にもみえるように、肥後に滞在していた武蔵との所縁通交もいろいろあったという伝説がある。寛文元年(1661)興長が死ぬと、長岡家の家督を相続し、八代城を預かった。しかし寄之は、五年後の寛文六年(1666)に五十一歳で死去、当主の期間は短かった。
 その跡を継いだのが、直之。元禄五年(1692)の死の時まで当主であった。豊田高久は、この直之の代に、歩御小姓組に召し加えられ、御台所奉行を仰せ付けられたという。この晩年、高久に加増があったとも記さないから、やはり、五人扶持十三石のままだったかもしれない。ただし、養子の高達が、明暦年間に、直之の代に、中小姓に召し直され、御馬方を勤め、その後納戸役、御勘定根取役歴任、とあるから、すでに豊田家は実質的には高達が主役だったのであろう。
 その後、高久は、老い極まるに及んで勤務を辞退、引退して、延宝四年(1676)七月病死とある。思えば、豊田家を、細川家ひいては長岡家へ結びつける機縁となったのが、この高久であり、言ってみれば、この豊田甚之允高久こそ、肥後八代豊田家の元祖なのである。  Go Back






*【長岡(松井)家略系図】

○康之┬興之
   │
   └興長=寄之┬直之
         │  │
         └正之│
 ┌──────────┘
 ├寿之┬豊之┬営之┬徴之→
 │  │  │  │
 └祐之├直峯└庸之└誠之
    │
    └弘之

 
  3 豊田専右衛門高達
一、曾祖父豊田専右衛門[高達]は、福嶋家の浪人・岡田権左衛門正継末子ニて、初名岡田四郎次郎と申候。兄頼藤杢之助と一所ニ居申候を、豊田甚之允養子ニ仕、豊田専右衛門と改、其後甚之允実子出生仕候を、頼藤杢之助養子ニ遣、頼藤浅右衛門信房と申候。(1)
 専右衛門儀、慶安四年、興長公御意ニて、尾池藤左衛門殿、依助流馬乗形の弟子ニ被仰付、稽古仕候処、 明暦年中、御切米八石弐人扶持被為拝領、御小姓組ニて御馬方被召出、(2)
 直之公御代、御中小姓被召直、御馬方相勤居申候内、御納戸役被仰付、其後御勘定根取役被仰付、延宝七年、御奉行役・掘口庄右衛門と出入の儀有之、専右衛門は山本弥左衛門え御預被成、御詮議被仰付、事相済被成御免、御役儀如本被仰付、同年八月、御合力米弐拾石被為拝領、御馬乗組被召加、御台所頭被仰付、天和元年正月、直之公御参府の節、御供被仰付、同二年正月、御作事奉行被仰付、貞享三年九月、御知行百石被為拝領、熊本詰御奉行役・御長柄頭兼帯被仰付、同十一月熊本え引越申候。其後、直之公一日の御茶屋ニて、段々御懇の以御意、御自作の御花生被為拝領、今以所持仕候。(3)
 専右衛門儀、松村九大夫殿柘植流の鉄炮門弟ニて、一流相伝相済居申候ニ付、足軽を二手ニ分、一手は、凾山流猿渡助之允指南被仰付、一手は、専右衛門弟子ニて稽古為仕、其外御家中并御城付衆ニも専右衛門門弟多有之、熊本御屋敷足軽えも指南可仕旨被仰付、(4)
 元禄四年十二月、崇芳院様え御附被成候ニ付、八代え引越申候。同七年三月、病気ニて御役儀御断申上、隠居奉願候処、願の通被仰付、同八年三月、病死仕候。(5)

一、曾祖父豊田専右衛門[高達]は、福島家の浪人・岡田権左衛門正継の末子で、初名は岡田四郎次郎と申しました。兄・頼藤杢之助といっしょに暮らしておりましたのを、豊田甚之允が養子にしまして、豊田専右衛門と(名を)改めました。その後、甚之允に実子が出生しましたが、(その実子を)頼藤杢之助の養子にやり、(名を)頼藤浅右衛門信房と申しました。
 専右衛門は、慶安四年(1651)、(長岡)興長公のご指示で、尾池藤左衛門殿の依助流馬術の弟子を仰せ付けられ、稽古いたしておりましたところ、明暦年中(一六五〇年代半ば)、御切米八石二人扶持を拝領しまして、御小姓組で御馬方に召出されました。
 直之公の御代に、御中小姓に召し直され、御馬方を勤めておりましたが、御納戸役を仰せ付けられ、その後、御勘定根取役を仰せ付けられました。延宝七年(1679)、御奉行役・掘口庄右衛門と出入という事件があり、専右衛門は山本弥左衛門へお預けになり、ご詮議仰せ付けられ、事件が解決して赦免されました。役目も元通り仰せ付けられ、同年八月、御合力米二十石を拝領いたし、御馬乗組に配属され、御台所頭を仰せ付けられました。天和元年(1681)正月、(長岡)直之公が(江戸)ご参府の節、お供を仰せ付けられ、同二年(1682)正月、作事奉行を仰せ付けられました。貞享三年(1686)九月、知行百石を拝領いたし、熊本詰御奉行役・御長柄頭を兼帯するよう仰せ付けられ、同十一月、熊本へ引越いたしました。その後、直之公がある日の御茶屋にて、いろいろ懇ろなお言葉があり、(直之公)ご自作の花生けを拝領いたしまして、今もって所持しております。
 専右衛門は、松村九大夫殿の柘植流鉄砲の門弟で、一流相伝を得ておりましたので、(鉄砲)足軽を二手に分け、一手は、凾山流の猿渡助之允が指南を仰せ付けられ、一手は、専右衛門の弟子になって稽古いたし、そのほか御家中ならびに御城付衆にも専右衛門の門弟が多数あり、(長岡家の)熊本屋敷の足軽へも指南するよう仰せ付けられました。
 元禄四年(1691)十二月、崇芳院様(寄之室、直之母)お附きとなりまして、八代へ引越いたしました。同七年(1702)三月、病気で御役儀を辞退申上げ、隠居を願い出ましたところ、願いの通り仰せ付けられ、同八年(1703)三月、病死いたしました。

  【評 注】
 
 (1)豊田専右衛門
 豊田甚之允高久の嗣子は養子の専右衛門高達である。高達は、福島家の浪人・岡田権左衛門正継の末子で、初名は岡田四郎次郎。つまり、高達の実家は、福島正則に仕えた家だったらしい。
 周知のように、福島正則(1561〜1624)は秀吉麾下で出世した武将で、関ヶ原役のおりは家康に味方して、戦後、安芸と備後二国に約五十万石を領知する大大名となり、広島城を居城とした。しかし、大坂城の豊臣秀頼が滅んだ後の、新体制下の元和五年(1619)、福島正則は改易を余儀なくされる。
 この経緯は、ようするに、台風水害で被災した広島城を修築する願いを幕閣の年寄・本多正純を通じて願い出たのだが、明確な許認可を得ないうちに修理したことが、武家諸法度に抵触する無断修築だとされた。正則も非を認め、修築部分を破却する措置をとるということで、いったんは一件落着したかにみえたが、その後、破却の約束を実行していないことを理由に、所領五十万石を没収、かつての猛将・福島正則は、この除封措置を甘受し、信濃国川中島四万五千石に改易された。
 この幕府の強権発動が、諸大名への見せしめであったことは確かだが、一面では、関ヶ原で家康に恩を売ったその恩が、もうこの頃にはでには反故になる時代、また一面では、かの勇将・福島正則ですらこうなのだから、幕府に弓引く者はもはや存在しないことが実証されてしまったのである。肥後の加藤清正、筑前の黒田如水、紀州の浅野長政、播磨の池田輝政といった外様の雄たちは、すでにこの世にはなく、福島正則は長生きしすぎたのである。
 その後、福島家は事件の翌6年に嫡男・忠勝が早世し、正則は所領のうち二万五千石を幕府に返上し、寛永元年(1624)、信濃国川中島で死亡した。このとき、さらに追い討ちをかけるように、福島家は残った二万石も没収され、後嗣の福島正利は、かろうじて三千石の旗本として家名を存続するようになったのである。
 さて、豊田家に養子に入ったのは、福島家の浪人・岡田権左衛門正継の末子、四郎次郎。補足すれば、岡田家は本国は伊勢国で、岡田刑部大輔が織田信長に仕え伊勢船江城主、さらにその子・岡田助右衛門直教は尾張の星崎城(現・名古屋市南区本星崎町本城)の城主となった。その長子・長門守直孝が織田信雄に仕え二代目城主、しかし天正十二年(1584)、秀吉と家康の対決という状況下、家康方についた織田信雄は、秀吉に通じた疑惑で長門守直孝はじめ三家老を長島城におびき出し謀殺する。直孝の弟・岡田伊勢守善同は星崎城に籠城して徳川方と戦うが、降参して開城。(蛇足ながら、このとき星崎城を包囲し攻めたのが、三河刈谷城主の水野忠重、勝成父子である)
 岡田善同はのち、家康に仕えて、美濃国に領地五千石を与えられた。その子の豊前守善政は勘定奉行を勤めて知行七千石、その後も岡田家は五千石の旗本として存続した。
 ここで話をもどせば、星崎城が降ったとき、岡田長門守直孝の子・正継はまだ幼少であった。その後の経歴は不明だが、やがて星崎落城二十年後の慶長九年(1604)安芸の福島正則に仕えるようになった。しかし、上述のごとく、福島正則改易となって、家臣は離散、岡田権左衛門正継は、筑後の久留米城主・有馬豊氏(1569〜1642)に召抱えられた。
 この豊氏の有馬家は、武蔵と通交のあった有馬直純の有馬家とは違うので、混同なきように。豊氏の有馬家は播州に発する家系である。つまり赤松氏庶流で、有馬範頼のころから秀吉に仕え、秀吉の死後、範頼二男の豊氏は家康に加担し、関ヶ原役後は福知山六万石、大坂陣後は一躍、久留米二十万石の大名に栄進した。
 島原役のさい、有馬豊氏は老将ながら、九州の大名として島原役にも参戦した。この島原役の戦闘で、岡田権左衛門正継は戦死した。権左衛門の嫡男は岡田庄五郎で、老母と弟二人を連れて、筑後から肥後へやってきた。これが肥後の長岡興長に仕えるようになった。頼藤氏先祖附によれば、有馬家の家老渡瀬将監から松井三左衛門一秀方へ書通あって、三左衛門が取次をして、岡田庄五郎は、長岡興長の児小姓に召抱えられたという。それ以外の詳細は不明である。
 岡田庄五郎は岡田を頼藤と改氏し、頼藤杢之助具定。頼藤は母方の姓で、やはり福島家に仕えた頼藤杢兵衛定房の娘が、岡田庄五郎の母である。頼藤氏も元は播州赤松家に属した家である。
 頼藤杢之助次弟が岡田右衛門、末弟が岡田四郎次郎である。四郎次郎は豊田甚之允の養子になった。豊田氏先祖附によれば、養子先の豊田甚之允に実子が出生したが、その実子を頼藤杢之助の養子にやり、名を頼藤浅右衛門信房。養子にした以上は、実子ができても、養子を返したりしない。また、その実子を相手の家にやり、相手もまたその子を嗣子にする。武士の行動倫理は、こういうぐあいに義理の堅いものであった。
 なお、杢之助は、正保二年(1645)元服し、知行百五十石で御台所頭役。慶安三年(1650)加増五十石で都合二百石。興長の寵臣であったのであろう。
 寛文元年(1661)六月、長岡興長が死去したおり、杢之助は殉死した。このとき興長の死に殉死したのは九名。三万石の家禄とはいえ、大名ではなく家老である。そのことからすれば、多い殉死者である。殉死者も大名並みというところである。
 とくに頼藤杢之助は、島原役後の新参にもかかわらず、興長の児小姓に召抱えられての出世だから、愛顧一方ならぬものを感じての殉死であろう。この頼藤杢之助を実兄にもつ、豊田専右衛門高達というのが、ここでの豊田家当主である。  Go Back



梅洞山岩松院蔵
福島正則坐像

広島市立中央図書館蔵
広島城図



星崎城址



有馬豊氏像


*【頼藤氏先祖附】
《頼藤杢之助具定は、右権左衛門嫡子ニて、始岡田庄五郎と申候。寛永十四年、有馬陳の節、有馬中務太輔殿家老渡瀬将監より、松井三左衛門一秀方え書通仕、三左衛門取次を以、智海院様御児小姓被召抱、頼藤杢之助と改申候。頼藤と改候次第は、往昔応仁の比、佐藤豊後守宗房と申者、播州赤松家に属し、其子孫福島家に仕、頼藤杢兵衛定房と申候。其女は杢之助母ニて御座候故、氏を頼藤に相改申候。杢之助儀、御国え罷越候節、老母并弟二人召連参候。弟一人は岡田右衛門と申候。末弟岡田四郎次郎と申候は、豊田甚之允養子ニ遣、豊田伝右衛門と改申候。杢之助儀、正保二年執前髪候上、御知行百五十石被為拝領、御台所頭役被仰付、同四年三月、智海院様江戸御参府の節、御供相勤申候。慶安三年八月、智海院様杢之助宅え被為掛御腰候節、為御加増五十石被為拝領、右御知行両度の御書出頂戴仕候。寛文元年六月、智海院様被遊御逝去候節、杢之助儀、殉死仕候。其以降、御年忌の節毎ニ、杢之助子孫拝領物等被仰付候》
 
 (2)依助流馬乗形
 高達は、豊田高久の養子になったのだが、まず高達は豊田家の嗣子として、慶安四年(1651)、主人・長岡興長の指示で、馬術の稽古をするようになった。その後、年は明かではないが、明暦年中(一六五〇年代半ば)、切米八石二人扶持を与えられ、御小姓組で御馬方に召出されたという。
 養父の豊田高久はまだ壮年でむろん現役である。高達の切米八石二人扶持というのは、役料支給で、父の扶持とは別禄である。養父の豊田高久は普請方のようであるが、高達は小姓組というから興長直属で騎馬の世話係に配属されたのである。
 ここで、尾池藤左衛門の依助流馬乗形、とある。依助〔よりすけ〕流馬術は、原大内蔵政駿が元祖で、杵築藩に伝承されたらしい。豊後杵築藩で伝承されたというから、依助流は、あながち長岡家中とは無関係ではなさそうである。
 高達は、尾池藤左衛門の弟子になって、依助流馬術を学んだとあるが、この尾池藤左衛門は、足利道鑑(1564〜1642)の息子である。足利道鑑は、尾池玄蕃と名のっていた。息子に尾池伝左衛門(西山左京)と、その弟・尾池藤左衛門がいて、これはどちらも細川家で千石を食んだ。長岡監物宛足利道鑑書状(寛永十八年十二月二十一日)に、「せがれ藤左衛門」が知行を受けた礼が述べられているから、藤左衛門はこの頃細川家に召抱えられ、熊本へやってきたことになる。
 ここで、尾池玄蕃こと、足利道鑑のことをいえば、彼は十三代足利将軍義輝の子・足利義辰。出生と前半生は不明だが、彼は讃岐にいた。生駒氏のもとで千石を食んで、息子もいた。息子の尾池伝左衛門も、その弟・藤左衛門も生駒高俊に仕えていた。
 寛永十三年(1636)、当時すでに隠居していた尾池玄蕃=足利道鑑を、細川忠利が客分で肥後へ迎えた。ところが寛永十七年(1640)の生駒騒動で生駒高俊は改易、これで、足利道鑑の二人の息子も牢人したところを、細川忠利が召出した。父子ともに細川家の世話になるようになった。
 寛永十七年十月二十三日の奉書によれば、足利道鑑と宮本武蔵を山鹿へ招くことになったので、道中の人馬、味噌、塩、炭、薪にいたるまで念を入れて接待するようにと、忠利が指示したとある。山鹿というのは、今でも温泉地だが、そこに忠利が保養のために茶屋(別荘)を建てたのである。
 忠利は、この秋は久しぶりに体調がよかったが、やはり療養が必要だったらしい。山鹿に居たのである。つれづれの慰めに、客分の二人、足利道鑑と武蔵を山鹿へ呼んだ。
 綿考輯録(巻五十二)によれば、翌寛永十八年(1641)の正月には、足利道鑑はじめ息子の西山左京や孫たちとともに、武蔵も招かれ、忠利が奥書院で新年を祝っている。忠利はその後急に病が悪化して、同年三月には死去する。
 尾池藤左衛門が家族を連れて肥後へやってくるのは、その年の暮である。兄の伝左衛門(西山左京)と長男の勘十郎は、肥後を立ち退いて京へもどったが、伝左衛門二男の八郎兵衛の系統子孫は、その後肥後で存続した。他方、尾池藤左衛門は二十年ほど細川家に属したようだが、寛文元年(1661)八月に御暇、という。
 この年の六月に長岡興長が死んでいるから、藤左衛門のこの致仕が、それと何か関係があるのかもしれない。ともあれ、長岡興長が生きている間は、尾池藤左衛門は熊本にいて細川家に仕えていた。長岡興長の指示で、豊田高達が尾池藤左衛門に依助流馬術を学んだというのは、豊田家の口碑だろうが、これは尾池藤左衛門と長岡興長の関係をうかがわせるものだろう。以上のように、豊田高達に関連して、足利道鑑の息子・尾池藤左衛門と依助流馬術という興味深い結びつきがここに見出される。
 さて、養父の高久は延宝四年(1676)に死んだ。時期は不明だが、それ以前に隠居していたかもしれない。高達がいつ家督相続したか、先祖附に記事がないので、これも不明だが、直之(1638〜1692)の代に、高達は中小姓に召し直されて御馬方を勤める。興長に言われて馬術稽古に励んでいたようだから、この時期も騎馬隊に配属ということらしい。  Go Back















*【長岡監物宛足利道鑑書状】
せがれ藤左衛門身上之儀、今度於伏見従太守様別而被加御懇、其上御知行并当物成残所無御座様ニ被仰出候処、弥貴殿様御取成故外聞実儀忝次第御礼難申尽存候。就夫女子共召連今日十七日ニ致熊本着仕候、宿之儀奉行衆并備前守殿御相談ニ而刑部殿御屋敷長屋を御借候而かしニ付而手前より作事仕有付候、御心安可被思召候、愚老忝様子書中ニ不述申候、御次而も御座候ハゝ可然様ニ御取成万々奉頼存候》(寛永18年12月21日付)


*【奉書】 寛永十七年十月二十三日
《一 道鑑様、宮本武蔵、山鹿へ可被召寄候。然者人馬・味噌・塩・すミ・薪ニ至まで、念を入御賄可被申付之旨御意ニ候。以上
  十月廿三日   朝山斎助在判
    御奉行所 》

*【綿考輯録】 寛永十七年正月
《一 二日、御礼帳の通り次第々々並居御通被下候事、元日御鉄炮頭のごとく也。道鑑老[公方義輝公御落胤之由]、西山左京[道鑑子]、同勘十郎[左京子]、同山三郎[勘十郎弟、後八郎兵衛と云、今の西山先祖なり。左京勘十郎ハ御家を御断申、京に被相越候由]、神免武蔵[剣術者也]、源次郎[不詳、追而可考]、春田又左衛門[具足之下地師、子孫今に御知行被下、奈良に居申候]などハ、奥書院ニて御祝被成候》(巻五十二)
 
 (3)御奉行役掘口庄右衛門と出入の儀有之
 高達は興長に召し出されたが、その生涯の勤務は主として直之の代(1666〜1692)である。養父・高久は、直之の代までも勤務しており、歩御小姓組(徒小姓組)に召し加えられ、御台所奉行になったという。高達も、直之の代に、御中小姓に召し直され、御馬方を勤めたとある。中小姓は近習であり、高達は直之の代にもまず、馬方を勤めたようである。
 延宝四年(1676)、高久が死去するが、それ以前に高久は老いて引退しているから、そのころ家督相続があったものであろう。そうして高達は、御納戸役、御勘定根取役など、財務部門に配属されたようである。根取役というのは、耕作地の等級を査定して年貢を決める仕事である。
 ところが、延宝七年(1679)事件がおきた。委細不明だが、高達は奉行役・掘口庄右衛門という者と出入、つまり堀口と喧嘩となったという。
 相手の堀口庄右衛門というのは、堀口氏先祖附によれば、丹後久美浜で松井康之に仕えて以来の古い譜代で、父の堀口少(庄)右衛門恒広は二百石、島原一揆の原城では、笠印が同じだったので松井外記元勝とひと悶着あったが、折れた彼と同心し共に死のうと契り、実際に二人共に戦死した。十五歳の息子の三太郎も、病を押して参戦し、負傷した。戦役後、父の家督二百石を継いで、堀口庄右衛門勝広。
 この堀口庄右衛門は、当時、知行奉行と御奉行兼役。田地の開発や灌漑治水工事にあたり、検地や年貢には農民の味方をしたりと、父親に似てなかなか筋を通す人物であったようである。これが、なぜ御勘定頭・豊田専右衛門高達と出入、公事となったかというと、おそらく、年貢のことで、堀口庄右衛門は農民側に味方して、財務担当の豊田専右衛門と対立し、口論出入に及んだものであろう。
 家中で喧嘩となると、かなりきびしい状況におかれる。たいてい両成敗で切腹か、あるいは召放ちである。六年前の延宝元年(1673)の北関の決闘は、そもそも前川勘右衛門と藤田助之進が喧嘩して、双方とも召放ち処分となった後、武士の意地で双方が、国境の外で家人を含めて集団的決闘に及んだものである。当時の武士はまだ、そういう武闘的存在である。
 堀口庄右衛門との出入があって、豊田高達は山本弥左衛門へ身柄を預けられ、詮議を受けることになった。
 この山本弥左衛門というのは、山本源五左衛門勝安(土水)の弟である。勝安が隠居して家督七百石を嫡子勝秀が相続したが、その後勝秀が病死したため、山本土水の弟・弥左衛門が、父の本知五百石を与えられるというかたちで、山本家を嗣いだ。しかし、この豊田専右衛門出入の事件のときは、相続以前のことで、おそらく弥左衛門が中小姓頭をしていたおりのことであろう。中小姓組の高達が出入事件を起したので、身柄を拘束し詮議したものと思われる。
 高達は詮議を受けたが、彼に理があったのか、事件は解決し赦免された。役目も元通りに回復されたのである。しかも、同年八月、合力米二十石を拝領、御馬乗組に召し加えられ、御台所頭を命じられたというから、これは加増も昇進もあったということである。
 他方、堀口庄右衛門は、吟味を受けて落度ありとされ、延宝七年(1679)十一月、直之の勘気を蒙り御暇、つまり家禄を召上げられて、浪人の身となった。息子の堀口左次兵衛が、以前から召し出されていて、合力米三十石、御小姓頭。こちらはそのまま構いなしで、奉公をゆるされた。庄右衛門は屋敷を立退き、息子と一所に暮らすようになった。しかし、その後、左次兵衛も辞表を出して致仕、浪人となって宇土郡佐野村へ引越した。父親の庄右衛門も同行し、同地で歿。親子共に筋を通して、浪人となったのである。
 堀口家の帰参が叶うのは、堀口庄右衛門の孫の兆九郎の代である。兆九郎は出家して筑後三池の普光寺で天台僧になっていた。その後、元禄二年(1689)、直之は山名十左衛門と相談して、普光寺へ迎えに遣り、呼び戻して還俗させた。兆九郎はこのとき、十七歳である。部屋住の寿之の御中小姓を命じられた。その後、しだいに昇進して、作事奉行になり、新知百石を与えられ、のち鉄砲組頭などを勤めた。父の左次兵衛も八代へ戻り、兆九郎と暮らし、薙髪して号不干。宝永五年(1708)十月、病死した。
 堀口家の帰参が実現しなければ、豊田専右衛門高達の方も寝覚めが悪かったに違いないが、ともあれ、堀口家は八代へ復帰できたのである。
 堀口庄右衛門との出入の一件のその後は、高達はさらに順調に出世した。つまり、天和元年(1681)正月、長岡直之公が江戸参府の節、お供を命じられ、翌年二年(1682)、御作事奉行。貞享三年(1686)九月、知行百石を与えられ、熊本詰御奉行役・御長柄頭を兼帯、同年十一月、熊本へ引越すという栄進ぶりである。
 先代の高久が五人扶持十三石という無足の給料取りであったのに対し、このとき豊田家はようやく領地のある身分になり、しかも百石の知行取りになったのである。
 そして、高達は肥後の本府である熊本へ引っ越す。八代城主・長岡家の熊本屋敷詰め奉行役になったのである。日常の業務はそれであろうが、知行百石の武士であるから、それに相応した長柄頭を兼帯する。つまり鎗組の隊長である。
 同じ貞享三年五月、豊田高達の子・又四郎正剛(初名杢平)十五歳が、直之のお側に召出され、同年十一月、つまり、一家が熊本へ引っ越したとき、勤め方が御意に叶うとのことで、小袖を拝領。翌年には、直之嫡子の寿之の御部屋附きとなる。
 その後ある日、主人の直之から自作の花生けを拝領した。花生けというのは、茶室のそれであるから、武士の嗜みとしてという以上に、直之は茶の道に凝っていたらしい。主人からの拝領物は家宝として代々持ち伝えたもので、今もって所持しているとあるから、この先祖附を記した子孫の豊田景英までそれが相伝されていた、ということであろう。  Go Back








*【堀口氏先祖附】
《曾祖父・堀口庄右衛門勝広儀、初名三太郎と申候。右少右衛門恒広子ニて御座候。(中略)其後、御知行奉行数年被仰付、又御奉行兼役相勤居、杉水村庄屋、野開を掠メ申候付、獄者被仰付候一巻ニ付、本地・野開共ニ検地可被仰付旨、御奉行所より御達御座候処、庄右衛門儀、御奉行所え罷出、段々様子申上、検地被仰付候儀被差止候。玉名郡御知行中、所々日損田御座候付、堤を十ケ所申付、日損無之様取計、松求麻村百姓困窮仕候付、一両年の中勝手能成候様取計申候。且又高子原御開大成御物入ニて、四五年ぶり出来仕候処、大風ニて塘切、御開再興不容易儀ニ付、従太守様御物入ニて、新塘出来候筈ニ御座候処、百姓中ニ寄築の仕法被仰付候様取計、御開出来仕候付、御物入少ク御座候由。其後、御勘定頭・豊田専右衛門と及公事申候儀御座候付、段々御吟味被仰付候処、庄右衛門越度罷成、延宝七年十一月、蒙御勘気御暇被下候。倅・堀口左次兵衛儀は、以前より被召出相勤居申候得共、無御構被召置候付、庄右衛門儀も左次兵衛一所ニ罷居申候》

*【山本氏先祖附】
《曾祖父・山本源太左衛門金重儀、初名は弥左衛門と申候。源左衛門五男ニて、覚雲院様御側被召仕、新知百五拾石被為拝領、御鉄炮頭被仰付、追々御加増被下三百石ニ相成、御側御中小姓頭・御奉行兼役被仰付候処、親源左衛門本知五百石被為拝領、御番頭被仰付候。此節源太左衛門と改申候。元禄二年十二月病死仕候》

*【堀口氏先祖附】
《父・堀口兆九郎兆貞儀は、右の左次兵衛嫡子ニて御座候。左次兵衛浪人仕候付、筑後三池の普光寺弟子ニ相成、天台僧ニて御座候処、覚雲院様、山名十左衛門様と被仰談、普光寺え被及御取遣、元禄二年、御呼返被成、還俗被仰付、堀口庄七と御付被成候。此時十七歳ニ罷成申候。邀月院様御部屋住の御中小姓ニ被仰付候。此時、兆九郎と改申候。同六年、御家督御継目の御参府御供被仰付、此節は歩御小姓ニて、於江戸は御側の勤、御使者等相勤申候。宝永五年二月、裏松弁様御代替為御歓御使者上京被仰付、其後、御側御武具方被仰付、正徳四年二月、凌雲院様御代、御合力米二拾石被為拝領、御台所頭被仰付候。然処、病身ニ付御断申上候処、御役被成御免、御式台御番被仰付、其後、御作事奉行被仰付、御役料五石被為拝領、相勤居申候内、新地百石被為拝領、元文元年八月、御鉄炮頭被仰付、高五拾石御役料被下、組御預被成候。親左次兵衛儀、八代え罷越、兆九郎一所ニ居申候て、薙髪仕、不干と改、宝永五年十月、病死仕候。兆九郎儀は、元文四年十二月、病死仕候》




熊本城
 
 (4)柘植流の鉄炮門弟
 この豊田高達の項で特記されているのは、彼の鉄砲術である。松村九太夫は不詳だが、柘植流鉄砲というのは、伊賀の柘植三之丞に発するもののようで、尾張では威風流として伝承された。確かなことは不明だが、柘植流鉄砲術は慶安の頃の柘植宗勝が祖で、信濃松代で伝わり、肥後では森甚之進が師範という(武芸流派大事典)が、肥後には、砲術は種子島流をはじめ、三破神伝流・稲富流・太田流・渡辺流等々あって、柘植流というものを聞かない。それゆえ、信州上田と肥後八代にその余流の記録があることは興味深い。
 これに関連して言えば、『武公伝』に、寺尾孫之丞(夢世)の弟子を列挙するなかに、堤次兵衛永衛の名があり、堤氏先祖附によれば、これは、堤又左衛門永衛(1641〜1731)という、九十一歳まで生きた長命の人で、元禄十四年(1701)隠居して一睡と号した。豊田高達の孫にあたる橋津正脩は、『武公伝』をまとめた人物だが、この堤次兵衛永衛から、武蔵流の五法を相伝されたものらしい。
 堤氏先祖附によれば、堤次兵衛は、若年の頃、興長に召し出されたが、一度召し放され浪人したことがある。そのとき、豊後で、柘植流・妙玉流両流の鉄炮相伝をうけたという。妙玉流は不詳だが、ともあれ、武蔵の孫弟子に、柘植流鉄砲の相伝者があったのである。堤次兵衛は、寛文十年(1670)に直之から呼び戻され帰参が叶うのだが、堤次兵衛と豊田高達との関係は不明である。
 豊田専右衛門高達はこの柘植流鉄砲術の師範でもあったらしく、鉄砲足軽を二手に分け、一手を高達が指導したようである。もう一手の方は、凾山流の猿渡助之允が指南というが、この凾山流は隆安(高安)凾三流のことである。毛利輝元に仕えた中村若狭守隆康が、種子島でポルトガル人・ベイトルウイスに学んだ。この砲術は大砲も含むらしい。隆康から市郎右衛門へと相伝して、三代目の中村助之進が細川忠利に仕え、以後、肥後で中村家によって伝承されたらしい(武芸流派大事典)。この中村助之進は、元禄御侍帳に、御詰衆四番・小坂半之丞組、御音信奉行、二百五十石などの記事がある中村助之進喜入のことであろう。助之進の養嗣子が、中村角大夫で、彼は細川家江戸屋敷で赤穂浪士の赤垣源蔵を介錯した人である。
 とすれば、猿渡助之允は中村助之進から凾三流を学んだものらしい。猿渡助之允元正は八代の家士で、先祖附が残っているが、それをみると、中村助之進鉄炮の門弟とあるし、凾三流炮術に精を出すよう仰せつかったとある。また、鉄炮の者を二手に分け、一手は豊田専右衛門門弟で柘植流の鉄炮を稽古させ、一手は助之允の弟子で指南させたと、豊田氏先祖附と符合する記事がみえる。
 なお、猿渡助之允は貞享元年(1684)家督百石を相続、馬廻組に配属され、知行奉行役を勤めていたが、元禄元年(1688)病死した。したがって、鉄炮隊を二手に分けて、一手は凾三流の猿渡助之允が、一手は柘植流の豊田専右衛門が指南したというのは、少なくとも元禄元年(1688)以前のことである。豊田高達が熊本へ移るのが貞享三年(1686)だから、これは主として八代時代のことだろう。
 というわけで、豊田高達は、鉄砲師範である。御家中(長岡家臣)ならびに御城付衆(八代城守備に配属された細川家士)に門弟が多数あり、長岡家の熊本屋敷の足軽にも指南したらしい。  Go Back








*【堤氏先祖附】
《曾祖父堤又左衛門永衛儀は右九郎右衛門永正嫡子ニて御座候。初名作平、次兵衛、次平、八郎右衛門、甚右衛門と申候。明暦元[乙未]年、十五歳ニて興長公御代被召出、同年十二月、直之公被為執御前髪、御新宅ニ御移被遊候節、御附御児小姓被仰付、其後御中小姓被召置相勤居申候処、熊本ニて出火の節御供の間ニ合不申、御給扶持被召放、阿蘇え浪居仕、同氏方え暫罷在、其以後、豊後ニ罷越居申候内、柘植流・妙玉流両流の鉄炮相伝仕、右の書伝来仕候。寛文十[庚戌]年、帰郷仕候様ニ被仰付、八代え罷帰申候処、直之公御代、寿之公御部屋附御中小姓ニ被仰付□□□、直之公御側ニ被召置》



*【猿渡氏先祖附】
《曾祖父・猿渡助之允元正儀は、右五郎左衛門子ニて御座候。直之公御代、御中小姓組被召出、並の御給扶持被為□□、御作事所御目付役被仰付、相勤□□□、中村助之進鉄炮の門弟□□。延宝五年於高島、助之進一同ニ大筒六百目丁打被仰付、相済候節、於御城、助之允儀、兼て函三流炮術出精仕候旨被仰渡、西垣長兵衛を以、羅沙の御陣羽織被為拝領候。其後御鉄炮の者を二□□□□豊田専右衛門門弟ニて、植柘流の鉄炮稽古仕せ、一手は助之允弟子ニて、指南仕候様被仰付候。貞享元年三月、父五郎左衛門、願の通隠居被仰付、家督無相違被為拝領、御馬廻組被召加、御知行奉行役被仰付、相勤居申候処ニ、元禄元年七月、病死仕候》
 
 (5)崇芳院様え御附被成
 豊田高達は当時、八代ではなく熊本にいる。元禄元年(1688)、嫡男の正剛十七歳が元服して、御中小姓に召し加えられる。翌年、閨正月、正剛が直之の側に召し返され、また元禄三年(1690)には、正剛が御納戸方・御書方御書物支配・御取次役、御側御番等を勤めることになった。
 そして、元禄四年(1691)十二月、高達は、崇芳院(寄之室、直之母)お附きとなり、八代へ戻ってくる。貞享三年(1686)に熊本へ引越したのだから、五年ほど熊本勤務だったことになる。
 翌五年(1692)三月、正剛が直之の参府の供で江戸へ行く。こういう江戸参府があるのは、長岡家が細川家老でありながら、大名格の扱いを受けていたからである。しかるに、同年暮の十二月、直之が江戸で死亡して、正剛が直之の遺骸とともに帰ってくる。主家は代替りして、直之の嫡男・寿之(1668〜1745)の代になった。
 そうして元禄七年(1694)三月、高達は病気で隠居して、二十三歳の正剛が家督知行百石を相続した。正剛は、御馬乗組に配属された。翌八年(1695)三月、高達は病死した。
 以上を通覧してみるに、豊田専右衛門高達は、岡田家(頼藤家というべきか)から豊田家に養子に入った人で、興長・寄之・直之・寿之と、四代にわたって仕えたことになる。しかも、家督については、それまで切米支給の下士であったのを、百石の知行取りにしたのである。豊田家にとって、この高達の功績は大、と謂うべきであろう。  Go Back






松井文庫蔵
長岡直之像

 
  4 豊田又四郎正剛
一、祖父豊田又四郎正剛は、右豊田専右衛門嫡子ニて、初名杢平と申候。(1)
 貞享三年五月、直之公御側被召出、同年十一月、勤方被為叶御意候旨ニて、御小袖被為拝領、同四年七月、寿之公御部屋え被成御附、元禄元年三月、額を直候節、寿之公御前え被召出、御小柚被為拝領、同年十二月、執前髪候様被仰付、寿之公於御前長御上下被為拝領、御中小姓被召加、同二年閨正月、直之公御側被召返、同三年七月、御納戸方・御書方御書物支配・御取次役、御側御番等も被仰付、 同五年三月、直之公御参府の節、御供被仰付、同六月、於江戸御帷子被為拝領候。然処同十月上旬より、直之公御大病ニ付、御遺書御調被遊候得共、御直被遊候所御座候ニ付、執筆被仰付、同十二月、御遺骸の御供仕罷下申候。(2)
 同七年三月、家督無相違被為拝領、御馬乗組被召加、同九年七月、御目付役被仰付、同十年六月、騎馬早打ニて宇土え被差越、御用相勤申候。同十二年六月、名を又四郎と改候様ニ被仰付、同十三年十二月、寿之公熊本御出府御留守中、桂光院様御部屋出火ニ付、騎馬早打ニて熊本え罷出言上仕候。同十五年十二月、御目付役被指除、式台御番被仰付、同十六年正月、騎馬早打ニて宇土え御使者被仰付、宝永二年六月、御作事奉行被仰付、正徳元年十二月、御役料現米七石被為拝領、其比壱人役ニて相勤申候。(3)
 同四年二月、御奉行役被仰付、同五年十月、宣紀公御光駕の節、御目見被仰付、白銀弐枚被為拝領候。享保十一年六月、為御加増五拾石被為拝領、同十二年閏正月、御用人被仰付、同十三年十月、豊之公武蔵流兵法御稽古被遊候付御指南申上候様被仰付、九曜御紋付御上下被為拝領候。(4)
 同十七年十月癰腫相煩候節、鶴田桑庵・野田玄悦両人を熊本より被召寄、後藤宇大夫をも被差添、人参等被為拝領、段々御懇ニ被仰付候処、同十二月、御役儀被差除、隠居被仰付候。其後名を橋津卜川と改申候。延享二年二月、寿之公御卒去被遊候節、為御遺物御硯の台被為拝領、今以所持仕候。寛延二年八月病死仕候。(5)
但、橋津源右衛門[正敬]は、右豊田又四郎弟ニて、初豊田彦右衛門と申候。元禄十四年十月、歩行御小姓組ニて、御右筆被召出、其後、御中小姓被召直、相勤居申候内、正徳三年五月、御給扶持被召上、浪人仕、享保元年十一月、帰参被仰付、御役儀如本被仰付候。同十二年八月、御合力米弐拾石・御役料五石被為拝領、御右筆頭被仰付、元文二年二月、橋津源右衛門と改、同年閏十一月、病死仕候。独身ニて御座候故、跡式無御座候。(6)

一、祖父、豊田又四郎正剛は、右の豊田専右衛門嫡子で、初名を杢平と申しました。
 貞享三年(1686)五月、直之公のお側に召し出され、同年十一月、勤め方が御意に叶うとのことで、小袖を拝領いたしました。同四年(1687)七月、寿之公の御部屋へお附けなされ、元禄元年(1688)三月、額を直しました節、寿之公の御前へ召出され、小柚を拝領いたしました。同年十二月、前髪をとるよう仰せ付けられ、寿之公の御前において長御上下を拝領し、御中小姓に召し加えられました。同二年(1689)閨正月、直之公のお側に召し返され、同三年(1690)七月、御納戸方・御書方御書物支配・御取次役、御側御番等も仰せ付られました。同五年(1692)三月、直之公が(江戸)御参府の節、お供を仰せ付けられ、同六月、江戸で帷子を拝領いたしました。しかるところ、同十月上旬より、直之公ご大病につき、御遺書を調えなされましたが、お側におられましたので、(杢平が)執筆を仰せ付けられました。同十二月、(直之公の)御遺骸のお供をして下国いたしました。
 同七年(1694)三月、家督(百石)を相違無く拝領し、御馬乗組に召し加えられました。同九年(1696)七月、御目付役を仰せ付けられ、同十年(1697)六月、騎馬急使で宇土へ派遣され、御用を勤めました。同十二年(1699)六月、名を又四郎と改めるよう仰せ付けられました。同十三年(1700)十二月、寿之公が熊本へ御出府のお留守中、桂光院様の御部屋出火につき、騎馬急使で熊本へ走り報告いたしました。同十五年(1702)十二月、御目付役を免除され式台御番を仰せ付けられました。同十六年(1703)正月、騎馬急使で宇土へ使者を仰せ付けられました。宝永二年(1705)六月、作事奉行を仰せ付けられました。正徳元年(1711)十二月、御役料現米七石を拝領いたし、そのころは一人役で勤務いたしました。
 同(正徳)四年(1714)二月、御奉行役を仰せ付けられ、同五年(1715)十月、(細川)宣紀公が(八代へ)来駕の節、御目見を仰せ付られ、白銀二枚を拝領いたしました。享保十一年(1726)六月、五十石加増され拝領しました。同十二年(1727)閏正月、御用人を仰せ付けられ、同十三年(1728)十月、(長岡)豊之公が武蔵流兵法をお稽古になるのでご指南申上げるよう仰せ付けられ、(そのさい)九曜御紋付御上下を拝領いたしました。
 同十七年(1732)十月、腫れ物を患いましたとき、鶴田桑庵・野田玄悦(医師)両人を熊本より召し寄せられ、後藤宇大夫をも差添えられ、人参等を拝領し、いろいろ懇ろに仰付けがありましたところ、同十二月、役儀を免除され、隠居を仰せ付けられました。その後、名を橋津卜川と改めました。延享二年(1745)二月、(長岡)寿之公が亡くなられたとき、御遺物として硯台を拝領いたし、今もって所持しております。(正剛は)寛延二年(1749)八月、病死いたしました。
ただし、橋津源右衛門[正敬]は、右の豊田又四郎の弟で、初め豊田彦右衛門と申しました。元禄十四年(1701)十月、歩行御小姓組で、右筆に召し出されました。その後、御中小姓に召し直され、勤務しておりましたところ、正徳三年(1713)五月、御給の扶持を召し上られ、浪人いたしました。享保元年(1716)十一月、帰参を仰せ付けられ、御役儀を元通り仰せ付けられました。同十二年(1727)八月、御合力米二十石・御役料五石を拝領し、右筆頭を仰せ付けられました。元文二年(1737)二月、橋津源右衛門と(名を)改め、同年閏十一月、病死いたしました。(源右衛門は)独身でしたので、跡目はございません。

  【評 注】
 
 (1)祖父豊田又四郎正剛
 さて、ここから、『二天記』序のいう「豊田氏三世」の代になる。まず最初は、祖父の豊田正剛〔まさたけ〕である。正剛は豊田専右衛門高達の嫡男で、寛文十二年(1672)に生まれた。当時、祖父の甚之允高久は存命中であるが、四年後に歿。
 正剛が子どもの頃の延宝七年(1679)、父の高達が、御奉行役・掘口庄右衛門と出入事件を起し、山本弥左衛門へお預けになり、詮議を受けたが、赦免されるということがあったというのは既述の通り。父の高達は役目も元通り回復し、同年八月、合力米二十石拝領、御馬乗組に召し加えられ、御台所頭。
 豊田正剛の初名は、杢平。これは母方の祖父の頼藤杢兵衛定房の「杢兵衛」を継名したのだろう。父・高達の実兄、頼藤杢之助具定の名の「杢」字もある。既述のように、寛文元年(1661)六月、長岡興長が死去したおり、頼藤杢之助は殉死した。それゆえ、それ以降、興長の年忌の節ごとに、杢之助子孫に拝領物等があったという。  Go Back



 
 (2)直之公御側被召出
 正剛が直之に召し出されたのは、貞享三年(1686)五月、正剛は十五歳である。この年の九月、父・高達は知行百石を拝領、熊本詰奉行役・長柄頭を兼任。同十一月、熊本へ一家は引越である。同月、正剛の勤め方が御意に叶うとのことで、小袖を拝領した。
 翌貞享四年(1687)、正剛は、直之嫡子・寿之の御部屋附きとなる。寿之(1668〜1745)は正剛より四歳年上だから、このとき寿之は二十歳である。
 元禄元年(1688)、正剛十七歳のとき、額を直した、前髪をとった、というから、この年が正剛の元服である。それまでは児小姓の姿で、前髪もあったということである。上下(裃)の時服も頂戴し、中小姓組に配属された。
 また翌元禄二年(1689)閨正月、直之の側に召返されたというから、中小姓組から直之の近習になったということであろう。翌年には、御納戸方・御書方御書物支配・御取次役、御側御番等、具体的な役儀に勤務している。御書方御書物支配というのは公文書の管理人である。
 このころ、父の高達は熊本屋敷詰めである。高達は、柘植流鉄砲師範として、長岡家中の士や八代城番衆などに教えていた。おそらく熊本と八代の間を往還していたのであろう。息子の正剛は、父と熊本に居ただろうが、召し出されて直之や寿之の側に勤務するようになり、これも主人に付いて熊本と八代を往復していたであろう。
 高達が八代へ戻るのは、元禄四年(1691)十二月、崇芳院(寄之室、直之母)御附きとなり、八代へ転勤となったときである。それより前、元禄元年(1688)、直之が母崇芳院のために茶屋・松浜軒(浜の茶屋)を建てている。崇芳院は長岡(三淵)右馬助重政の女・古宇、母は松井康之の女・たけである。崇芳院は康之の孫にあたるというわけである。崇芳院は長命で、正徳元年(1711)歿だから、正剛が四十歳のころまで生きていた。直之が建てた松浜軒は今も現存している(現・熊本県八代市北の丸町)。当時はこのあたりが浜辺であったようだ。
 元禄五年(1692)三月、二十一歳の正剛は、直之の参府の供をして江戸へ行く。正剛にとってはじめての江戸は、刺激的な元禄の江戸である。ところが、同十月上旬から直之が大病、このため遺書を用意することになり、近習の正剛が執筆を仰せつかったという。直之の遺書執筆は右筆の仕事だが、正剛は、国では御書方御書物支配などを勤めていたから、おそらく、文才があったのだろう。
 病に倒れた主人・直之は、同年暮の十二月、江戸で死亡、享年五十五歳であった。正剛は、直之の遺骸の供をして帰国した。  Go Back



*【二天記】
《玄信公、播州赤松ノ家族也。赤松ハ貴族ナル故ニ常ニハ謙退シテ宮本ト云フ。蓋シ兵書等ニハ不避之》



松井文庫蔵
長岡直之像




松浜軒
 
 (3)騎馬早打ニて
 豊田正剛の経歴の主要部分である。
 まず、元禄七年(1694)三月、父の高達が病気で役儀を辞退、隠居した。これにともない、二十三歳の嫡子正剛が知行100石の家督を相続、御馬乗組に召加えられる。騎馬隊である。翌八年(1695)三月、父の高達が病死した。
 正剛は、元禄九年(1696)七月、二十五歳のとき御目付役。また、騎馬早打、つまり騎馬での急使の役を勤めている。同十年(1697)六月、同十三年(1700)十二月、同十六年(1703)正月、という三回が記録されている。馬術の腕前の披露ということであろうか。
 元禄十年の騎馬早打は、宇土への急使であるという。
 ここで、この「宇土」についていえば、熊本と八代の中間にあって、八代から北へ四里ばかり、熊本から南へ三里ほどのところにある。宇土領三万石は、正保三年(1646)細川光尚の代に、熊本の本家から分知して設けられた、いわゆる支藩である。同じ三万石であったが家老の長岡(松井)家が城を預かっていた八代とは異なる。宇土は、独立した大名領の扱いである。
 このころの宇土細川家の当主は、二代目の有孝(1676〜1733)であろう。細川三斎からすると、四男の立孝(1615〜45)の系統で、孫が行孝(1637〜90)で、これが宇土藩初代、そして二代目が行孝の子の有孝、三斎の曾孫ということになる。豊田正剛は元禄十年と十六年の2回、宇土への急使をつとめた。
 もう一つの急使は、元禄十三年(1700)十二月、熊本への急使である。寿之が熊本へ出府して留守中、桂光院の御部屋から出火、この事件を寿之へ報告するためらしい。この桂光院とは、寄之女の滝(たま、1644〜1723)のことであろう。刑部家の細川将監興之に嫁したが、夫が若くして死んで、その弟・興知が跡を継いだので、八代へ出戻ったらしい。彼女は当時五十七歳、当主・寿之にとっては叔母(父直之の妹)にあたる。
 中川氏先祖附によれば、このとき、寿之は早馬で熊本から駆けつけたようすで、中川権太夫は寿之に従って熊本から来て、お供が達者だったということで、褒美に御紋付小袖を頂戴したとある。火事を報じた豊田正剛に、褒美があったという記事はない。
 このころのことをいえば、元禄十年(1697)、新免弁助門弟であった村上平内正雄が、禄を召上げられ浪人の身となり、合志郡妻越村に立ち退いた。新免弁助は、元禄十四年(1701)に三十六歳で歿した。
 この間、正剛は、二十八歳の元禄十二年(1699)六月、名を又四郎と改めた。つまりそれまで初名の杢平であったのか、父の専右衛門名を継いでいたのか、不明だが、ここで、又四郎という通り名を名のるようになったのである。むろん、改名は主人の許しを得てする。
 また元禄十四年(1701)十月、正剛の弟・橋津源右衛門正敬が、歩小姓組で、右筆に召出される。その後、中小姓に召し直され、勤仕するようになった。正剛の方は、三十一歳の元禄十五年(1702)十二月、それまで勤めた目付役を免除され、式台御番になる。式台御番は玄関番だが、すでに形式的な役目である。暇になったかと思うと、正剛三十四歳の宝永二年(1705)六月、作事奉行を命じられる。営繕課長というところである。翌三年(1706)、嫡男・正脩が生まれた。申すまでもなく、これは後に武蔵伝記『武公伝』を書く人物である。
 宝永四年(1707)正剛三十六歳のとき書いた兵法書注釈がある(二天一流兵法書序鈔)。正剛で興味深いのは、武蔵流兵法伝書の研究者であったことだ。あるいは、正剛に収集熱があり、『武公伝』によれば、豊田家に、五輪書序、武公奥書、寺尾孫之允ヘの相伝書、自誓書、あるいは武蔵の書画作品などがあるという。これらは、正剛の蒐集によるものであろう。
 40歳の正徳元年(1711)十二月、役料現米七石を支給され、そのころは一人役で勤務した。役料というのは役職手当である。正剛四十三歳の同四年(1714)二月、御奉行役になる。この奉行役は何の奉行役か不明だが、いわば部長級。順当な昇進である。
 しかるに、正徳三年(1713)、弟の正敬が扶持を召上られたのである。何か不始末があったのだろう。召放ちで浪人の身となった正敬が、帰参を許されるのは、三年後の享保元年(1716)のことである。
 ところで、このころのことだが、正徳二年(1712)春、正剛四十一歳の豊田正剛は、豊前小倉の商人・村屋勘八郎という者から巌流島決闘の話を聞いたらしい。『武公伝』によれば、武蔵が巌流島へ舟で渡った時、梢人〔船頭〕はこの勘八郎で、老いて後、勝負の次第をことごとく委しく語ったという。
 しかし、『武公伝』では巌流島決闘は慶長十七年(1612)、百年前のことである。武蔵を巌流島へ送った舟人が、百年後まで生きていて、しかも小倉の商人・村屋勘八郎として八代へ来て話をするというのは、まずありえないことである。
 これに対し、『二天記』「凡例」は、この件を、村屋勘八郎が、下関の親戚・小林太郎左衛門の家にいた老人から聞いた話だとする。ただし、この訂正はいちおう正脩によるものとみなしうるが、別に解析されているように、それも問題が残るところである。
 今日の巌流島決闘伝説は、肥後系武蔵伝記『二天記』に依拠したものである。しかし、『二天記』の種本は『武公伝』である。小倉の商人・村屋勘八郎の名は、『武公伝』で出てくる。肥後の巌流島決闘伝説のうち、豊田正剛が村屋勘八郎から仕入れた話はどの部分か。これについては、『武公伝』読解研究において示されるであろう。  Go Back







宇土城址


*【細川家略系図】

○藤孝┬忠興┬忠隆 内膳
   │  │
   └興元├興秋
      │
      ├忠利─光尚─綱利→
      │
      │   宇土
      ├立孝─行孝─有孝→
      │
      │刑部
      ├興孝┬興之
      │  │
      │  └興知→
      │
      └寄之 長岡興長養子


*【中川氏先祖附】
《父中川五右衛門有友儀、右久左衛門嫡子ニて御座候、幼年の名は伝五郎と申候、元禄四年直之公御目見被仰付名を権太夫と改申候、父在勤の中寿之公御次えも折々罷出、熊本御供ニも御雇ニて度々罷出申候、同十三年十二月桂光院様御部屋出火ニ付、寿之公従熊本御早馬ニて被成御帰候節、御供達者仕候付て為御褒美御紋付御小袖壱ツ被為拝領候》





野田派伝書
二天一流兵法書序鈔 奥書
宝永丁亥仲夏 豊田又四郎正剛



*【武公伝】
《正徳二年春、小倉商人村屋勘八郎ト云者語也。武公航セシ時、梢人ハ勘八郎ニテ、老ニシテ勝負次第咸ク委語之》

*【二天記凡例】
《岩流勝負ノコトハ、長岡興長主其事ヲ取リ計ヒ在リシ故、于今精シク聞傳ル處ナリ。又正徳二年春、豐州小倉ノ商人村屋勘八郎ト云者、八代ニ來ル。正剛遇之、岩流島ノコトヲ問フ。勘八委シク其事ヲ語ル。勘八親族ニ、小林太郎左衛門ト云フモノ、長州下ノ關ノ問屋ナリ。則先師其宿セシ所ナリ。彼ノ家ニ老人アリ、其者先師舟渡リノ時ノ梢人也。勘八度々出會シ其噺ヲ聞ニ、毎囘一言モ不違ト。故ニ此度委シク知レリト語ル》
 
 (4)豊之公武蔵流兵法御稽古
 正徳四年(1714)、四十七歳の寿之が病気を理由に隠居、嫡子・豊之(1704〜71)が十一歳で家督相続。ここで正剛の主家も代替りである。寿之は延享二年(1745)歿だから、その後三十年以上も在世。寿之はすでに二十三年も当主のポストにあったから、四十七歳で隠居というのは早いとはいえない。寿之は茶や歌の道に深く参入した文化人だったので、隠居料千石を受けて、悠々自適の老後生活を選んだというべきであろう。隠居後、号眺山、のち冬山と号した。
 翌正徳五年(1715)十月、肥後本府熊本城主の細川宣紀(1676〜1732)が八代へ来駕。宣紀は、細川忠利の曾孫にあたる。本家の熊本細川家は、忠利、光尚、綱利と順次するが、綱利に男子がなかったため、綱利の甥(弟・利重の二男)を養嗣子にしたのである。
 綱利の弟・利重は、綱利から寛文六年(1666)三万五千石を分与され新田藩を立てた。宇土藩のことは既述の通りだが、しかし、新田細川家は蔵米の三万五千石で、領地をもたぬいわば形だけの支藩である。江戸定府で、つまり江戸に行きっぱなしの、いわば丸ごとの人質である。こういう大名もあった。利重の嫡男・利昌が二代目となったが、弟の宣紀が細川綱利養子となって、熊本の本家を嗣いだのである。
 正徳二年(1712)綱利が死んで、宣紀が家督相続。熊本の細川家当主が、領地の八代へ来るというのも多くはなかったようで、この先祖附にそれを特記している。正徳五年に宣紀が来たとき、長岡家の家臣も御目見する。熊本城主細川家からすれば、八代の武士たちは家老の家臣だから陪臣であるが、彼らにすれば、主人の主人への御目見は重要な儀式だったようである。
 正徳五年の細川宣紀八代来駕のおり、豊田正剛は四十四歳、百石の知行取りで奉行役である。御目見の対象となる。このとき、白銀二枚を拝領した。御目見となると、記念に何かを与えるのである。
 熊本城主が宣紀に代替わりして、寺尾求馬助三男・寺尾藤次玄高(1650〜1731)が召出された。それまで、綱利の代の約二十年ほど、武蔵流は公的な師役を与えられなかった。寺尾藤次が召出されたとき、すでに六十歳を越えた老人であった。老年ながら兵法師範となった。役料は五人扶持十五石である。晩年、儒者・水足屏山(1671〜1732)とも親交があったらしい。長命で八十二歳まで生きて、享保十六年卒。藤次の嫡子が志方家へ養子に出て、志方半兵衛之経。のちに寺尾派の中心を担うことになる。
 享保六年(1721)、豊田正剛五十歳のときの、兵法研究書「二天一流兵法書目註解」がある。これは長岡直之の著述で、それを正剛が写して伝えたものである。
 享保八年(1723)、正剛の嫡子・正脩十八歳が、御中小姓に召し出され、切米八石三人扶持。これは、父の家禄とは別の役料である。正剛はすでに五十二歳である。息子の正脩も出仕するようになったのである。
 享保十一年(1726)正剛は五十五歳、六月、五十石を加増され、都合百五十石に。翌十二年(1727)閏正月、御用人となる。いわば、家中の中枢にある役である。ちなみに、同年、弟の正敬が合力米二十石・役料五石で、右筆頭になっている。
 ここで興味深い記事がある。すなわち、享保十三年(1728)十月、主人の豊之が武蔵流兵法を稽古するというので、指南するよう命じられ、そのさい九曜御紋付御上下を拝領、とある。
 このとき正剛は五十六歳、豊之は二十六歳である。正剛は道家平蔵の門弟であった。先祖附によれば、道家平蔵は、元禄四年(1691)に家督相続、以後小姓組、御側弓頭など寿之の側勤めが多かったようだ。そして正徳二年(1712)歿である。道家平蔵は寺尾求馬助の弟子である。したがって、正剛は武蔵の孫弟子の、そのまた弟子、ということになる。
 ここでは、「武蔵流兵法」とあるのが注目である。ただし、豊田正剛が豊之の師範役になったとは記していない。正剛は、長岡豊之に指南するよう命じられ、九曜御紋付御上下を拝領、とあるのみで、師役の役料などの記載はないので、これは臨時の稽古であろう。したがって、豊田正剛が師範役に就任したというのは、粗忽な僻説である。
 このときの賜物は、九曜御紋付の上下である。つまり、九曜紋は細川家の家紋で、長岡家の紋は竹輪に九枚笹、三ツ笹紋である。  Go Back



*【長岡(松井)家略系図】

○康之┬興之
   │
   └興長=寄之┬直之┐
         │  │
         └正之│
 ┌──────────┘
 ├寿之┬豊之┬営之┬徴之→
 │  │  │  │
 └祐之├直峯└庸之└誠之
    │
    └弘之



*【細川家略系図】

○藤孝┬忠興┬忠隆
   │  │
   └興元├興秋
      │
      ├忠利┬光尚┐
      │  │  │
      ├立孝├宗玄│
      │  │  │
      ├興孝├尚房│
      │  │  │
      └寄之└元知│
 ┌──────────┘
 ├綱利┬吉利
 │  │
 │  └宣紀┬宗孝
 │     │
 │     └重賢─治年→
 │
 └利重┬利昌─利恭→
    │
    └宣紀




















*【豊田正剛兵法系統図】

○新免武蔵守玄信┐
┌───────┘
寺尾求馬助―道家平蔵―豊田正剛

道家角右衛門
 
 (5)名を橋津卜川と改申候
 豊田正剛の晩年のことである。享保十五年(1730)八月、息子の正脩は二十五歳、父とは別禄で二十石・役料現米五石を受け、御小姓頭役になっていた。同十七年(1732)、豊田正剛は引退し、隠居する。
 正剛は六十一歳、この年、腫れ物を患うようになった。具体的なことは不明だが、癰腫〔ようしゅ〕は腫瘍で、このことで、主家では、熊本から医師を呼び寄せ、正剛の治療に当らせるほか、後藤宇太夫を介添えにつけ、また治療薬に人参等も与えるという親切な世話をしたらしい。
 このうち、鶴田桑庵・野田玄悦という人物は不詳だが、熊本の医師らしい。他方、正剛の介添えに付けおかれた後藤宇太夫の方は、特定できそうである。
 後藤氏先祖附をみるに、「後藤宇太夫」は何代にもわたって襲名されている。この享保十七年(1732)当時、後藤宇太夫といえば、後藤三右衛門正良の子・正房であろう。正良も初名は宇太夫であるが、正徳五年(1715)に宇太夫から三右衛門に改名している。息子の正房は、享保十三年(1728)に豊之御側中小姓に召し出されている。正剛発病の当時、中小姓組だから、豊之から正剛の病床に派遣されたものらしい。
 かように手厚い処遇を受けたが、しかし正剛は、この年十二月、病気を機に役儀を辞退し、隠居したのである。息子の正脩は二十七歳、父・正剛が隠居して、家督知行百五十石を相続、御者頭列で式台御番になった。つまり物頭格である。
 ここで注目されるのは、隠居した正剛が、その後「橋津卜川」と名のったという記事である。「卜川」は号だから隠居後の名だから問題はないとしても、ここで豊田を「橋津」に改姓しているのである。
 この「橋津」は、既述のように、豊田家先祖・豊田但馬守景次が大友能直に隨仕して九州へ下り、豊前で領知したという土地の名である。この豊前国宇佐郡橋津は、現在は大分県宇佐市の橋津にその名をとどめている。したがって、正剛は先祖の故地に由来する橋津姓に改姓したようである。
 この橋津姓を名のった者に、寛永七年(1630)当時の長岡興長直属の五十三騎の中に、二百石の橋津又兵衛の名が見える(長岡佐渡守興長馬乗書付)。また、山本氏先祖附によれば、寛永十五年(1638)の島原一揆鎮圧当時、山本源五左衛門勝安(土水)が橋津又兵衛に付いて参戦し、橋津又兵衛と尾崎伊右衛門の二人の組頭が負傷したので、代りにその二組を指揮したとある。
 この橋津又兵衛なる人物が、当時豊田家の甚之允高久とどういう関係にあったか、興味深いところである。正剛(卜川)が、先祖の故地にちなんで改姓しただけではなく、この橋津又兵衛の名跡を継いだとも考えられる。それは、正剛の代に知行百五十石になり、
 ――家格からして、豊田では具合わるかろう、橋津の名跡を継いだらどうか。
ということだったかもしれない。だが、そのあたりの事情は委細不明、今後の解明を待ちたい。
 もうひとつは、正剛がいつ、橋津へ改姓したか、という問題である。それは、隠居して、その後、とのみあって不明である。しかしながら、この先祖附の他の箇処に、正剛の弟・正敬が、元文二年(1737)二月、橋津源右衛門と名を改め、また同年同月、正剛の息子で当主の正脩が苗字を橋津と改めたとあるから、この改姓の時期は、おそらくこの元文二年二月であろう。正剛は六十六歳である。
 また、正脩や正敬まで改姓しているから、これは隠居の正剛一個のことではなく、豊田一族はまるごと橋津姓に改めたもののようである。この年、当主の正脩は、隠居の寿之の御部屋小姓頭になり、弟の正敬は閏十一月に病死した。
 延享二年(1745)二月、長く隠居していた寿之が亡くなり、正剛(卜川)は遺物として硯台を拝領した。今もって所持しているという。その「今」は、孫の景英の代である。
 正剛(卜川)が隠居して、その後の橋津家(旧豊田家)はいかに、といえば、当主の正脩は、元文三年(1738)十一月、細川宗孝が八代へ来駕の節、御目見。宗孝来駕に、浜御茶屋御腰懸を作る工事の監督、数日出精して勤めたとのことで、当主の豊之から褒美として金子百疋、隠居の寿之から御前において小袖を拝領。同年十一月、座配持懸で作事奉行になる。
 同五年(1740)、正脩三十五歳の二月、またまた隠居の寿之の御附きになり、同年七月、作事奉行に帰役するなどしている。この年、正脩に嫡男・景英が生まれる。正剛の孫である。この先祖附を書いて提出した人物、そして申すまでもなく、後に『二天記』を著す豊田景英である。
 このころのことだが、寛保二年(1742)、志方半兵衛は、『兵法二天一流相伝記』を書いている。志方半兵衛は、寺尾藤次の息子で、寺尾求馬助の孫であるが、志方家へ養子に出た人である。新免弁助に学び、父藤次から再伝をうけて、いわば武蔵流嫡流のポジションにあった。
 さて、寛延元年(1748)、正脩四十三歳の正月、奉公人支配に任命される。橋津卜川(豊田正剛)は、寛延二年(1749)八月、病死。享年七十八歳。享保十七年(1732)、六十一歳で隠居したから、十七年の隠居生活である。この間、卜川老人は、『武公伝』の素材となる聞書原稿を作成していたのである。























*【豊田氏先祖附】
《其子豊田但馬守景次儀は、建久年中、大友左近将監能直、為鎮西の奉行九州ニ下向の節、属従仕、豊前国宇佐郡橋津を知行仕、代々大友家の旗下ニて御座候》

*【山本氏先祖附】
《高祖父・山本源五左衛門勝安儀は、右の源左衛門二男ニて、生地甚左衛門養子ニ相成百五拾石家督仕、生地武右衛門と申候。有馬御陣の節、橋津又兵衛添頭ニて、城乗の節二の丸ニて鑓を合敵一人突留、蓮池の上ニて又一人討取、橋津又兵衛・尾崎伊右衛門両人共手負候故、二組の足軽武右衛門下知仕鉄炮能打せ候旨ニて、御帰陣の上ニて為御褒美御知行百石御加増被下》





九州関係地図




 『二天記』冒頭に「凡例」があり、これが宝暦五年(1755)二月の日付と、「橋八水正脩」(橋津八水)の記名がある覚書なのだが、そこには、以下のことが記されている――。
 この書(『武公伝』)は、前々から、先師(宮本武蔵)一生の事を記録したものである。つまり武蔵の伝記である。家父・卜川正剛、とあるのは、正脩の父、橋津卜川(豊田正剛)のことである。この正剛が、若年の頃、まだ生きていた武蔵の直弟子の人々の物語を聞いた。武蔵がつれづれの談話で語った話である。また正剛は、武蔵自筆の文書等も見て抄出したりして、原稿を書いていた。
 先師(武蔵)の勝負、つまり試合のことは、数十度のことなので、世説にいうところがいろいろ食い違っている。試合の相手が違っているかと思うと、別人の勝負だったりする。あるいは、試合におけるその手技の違いもある。ようするに伝説に諸説あって、まちまちなのである。しかも、六十余回という武蔵の勝負について、伝わっていないことが、最も多いという。ようするに、肥後は武蔵伝説が活発に成長した土地柄である。肥後で形成された伝説が多い。正剛・正脩の時代にはすでにそういう状況だったのである。
 正剛は寛文十二年(1672)に生まれた。それに対し、武蔵が死んだのは、正保二年(1645)だから、二十七年後ということになる。したがって、正剛が若年というと元禄の頃であり、武蔵の死後半世紀、武蔵に直接接した老人たちがまだ生きていた、ということは十分ありうる。
 武蔵の直弟子のうち、存命で、正剛に物語をした人々は、熊本の細川家臣・道家角左衛門(後に号徹水)、この人は、正剛の剣術の師である道家平蔵の父である。あるいは、八代の長岡家の家士、山本源五左衛門(後に号土水)、中西孫之允、田中左太夫などの話したことである。彼らは、武蔵に従って学び、それぞれ大方は相伝もあった門弟である。ことに中西孫之允は、武蔵の病中に、松井寄之から看病のため配置された人であるという。
 これは、正脩が父の草稿を見て書いたのである。道家角左衛門、山本源五左衛門(後に号土水)、中西孫之允、田中左太夫は、それぞれ『武公伝』に名をとどめている。
 このうち、道家角左衛門は、『武公伝』には、道家平蔵宗成の父として紹介している。道家平蔵は寺尾求馬助の弟子ともある。道家平蔵の父・角左衛門は寺尾求馬助と同じく武蔵門弟だったということになる。先祖附によれば、角左衛門は元禄四年(1691)隠居。この年、正剛は二十歳である。
 八代の山本源五左衛門(土水)も『武公伝』にしばしば登場する名である。これは山本源五左衛門勝安。山本源助(源左衛門勝秀)の父である。この山本源助は、細川家本五輪書の宛名「山本源介殿」その人である。山本氏先祖附によれば、源左衛門勝秀は家督相続後、病気のため京都で死亡した。父の山本源五左衛門は隠居後号土水、元禄六年(1693)十月病死、これは豊田正剛が二十二歳のときだから、正剛が山本源五左衛門から話を聞くことは十分ありうる。
 中西孫之允については、中西氏先祖附に《元禄十三年十二月九十七歳ニて病死》とあるから、中西孫之允は慶長九年(1604)生れ、超高齢で元禄十三年(1700)まで生きていたらしい。没年は正剛二十九歳のときだから、これも正剛が接しうる機会があったと思われる。
 もう一人の田中左太夫は、列記されている人々の中で最も若い世代である。田中氏先祖附に《宝永二年五月廿日病死》とあるから、宝永二年(1705)まで生きており、没年は正剛三十四歳のときだから、もちろん、正剛が話を聞く機会があったであろう。
 以上を整理すれば、正脩が、父が話を聴いたという武蔵直弟子の人々は、先祖附から裏がとれる。正剛が若年の、元禄のころには、彼らはまだ生存中である。
 この武蔵直弟子という人々については、別のところで改めて述べるとして、ここは、正剛が話を聞いたという、熊本の道家角左衛門、八代の山本源五左衛門・中西孫之允・田中左太夫などの名を記憶するにとどめる。
 巌流島決闘の伝説については、本サイトにすでに別の論がいくつかあるから省くとして、ここで「凡例」が記していることに注意したい。
 すなわち、この書『武公伝』の文体は、人々の噺をそのまま書留めた覚書のままであり、文言を改めず書いておく。つまり、聞書だということである。これを断わっておいて、正脩は、五輪書等の中から少々書き加えたという。正脩が父正剛の文書に補足したのは、その程度だということである。とすれば、寛延二年(1749)に死んだ正剛は、武蔵伝記の内容をほぼ仕上げていたのである。
 ただし、「凡例」の日付・宝暦五年(1755)二月より以後、橋津正脩は武蔵伝記を書き継いでいた。景英の『二天記』奥書によれば、正脩はこれを完成させずに死んだ。『武公伝』は、未完成原稿である。したがって、宝暦五年段階の武蔵伝記と、正脩が景英に遺した『武公伝』原稿は、かなり内容が異なるであろう。
 ともあれ、橋津卜川(正剛)による武蔵伝記の試み、これは、肥後におけるほとんど最初の武蔵伝記である。ほとんど最初、というのは、寺尾求馬助の孫にあたる志方半兵衛之経による、寛保二年(1742)の『兵法二天一流相伝記』があるからである。当時、肥後では武蔵伝記の気運があったのであろう。
 しかし、志方半兵衛の相伝記は、武蔵伝記部分は短文であり、橋津正脩が遺した『武公伝』原稿のような、伝説を取り込んだ長編ではない。これに比肩しうるのは、筑前の立花峯均が著した『丹治峯均筆記』であろう。こちらは享保十二年(1727)の述作で、『武公伝』よりはかない早期の著作である。それゆえ『武公伝』は筑前の『丹治峯均筆記』よりかなり遅れるが、それでも、肥後におけるまとまった武蔵伝記としては、最初のものである。のちに孫の景英が、『武公伝』の改訂を捨てて、『二天記』という新たな別の伝記を書き下ろすことになるが、そもそもは、橋津卜川(正剛)の遺稿が、肥後系武蔵伝記の種を播いたのである。  Go Back








*【二天記凡例】
《一 此書ハ、豫メ、先師一生ノ事ヲ録ス。家父・卜川正剛、若年ノ頃、老健成リシ直弟ノ人々ノ物語ニ、先師徒然ノ折節、自然打話シ有シ事ナリ。或ハ先師自筆ノ文書等抄出スル也。
一 先師勝負ノコトハ、数十度ノコトナレバ、世説ニ謂フ所、或ハ相手ノ違ヒ、或ハ別人ノ勝負、或ハ其手技ノ違ヒ、區説多シ。最モ洩タルコト多シ。
一 先師直弟老健ニテ、正剛ニ對シ物語有シ人々ハ、熊府ノ士道家角左衛門[後ニ徹水ト號ス]、正剛剣術ノ師・平藏ノ父ナリ。或ハ代城ノ士山本源五左衛門[後ニ土水ト號ス]、中西孫之允、田中左太夫等ノ噺ナリ。是等ハ先師ニ從ヒテ、各大形相傳モ有シ門弟ナリ。殊ニ中西ハ、先師病中ニ松井寄之主ヨリ附ケ置カレシ人ナリ。
一 岩流勝負ノコトハ、長岡興長主其事ヲ取リ計ヒ在リシ故、于今精シク聞傳ル處ナリ。又正徳二年春、豐州小倉ノ商人村屋勘八郎ト云者、八代ニ來ル。正剛遇之、岩流島ノコトヲ問フ。勘八委シク其事ヲ語ル。勘八親族ニ、小林太郎左衛門ト云フモノ、長州下ノ關ノ問屋ナリ。則先師其宿セシ所ナリ。彼ノ家ニ老人アリ、其者先師舟渡リノ時ノ梢人也。勘八度々出會シ其噺ヲ聞ニ、毎囘一言モ不違ト。故ニ此度委シク知レリト語ル。
一 此ノ書ノ文體ハ、其人々ノ噺ヲ直ニ書留置シ覺書ノ儘ニテ、文言ヲ不改書スルナリ。猶五輪ノ書等ノ中ヨリ少々書キ加へ、一書トスルモノ也。
 寶暦五乙亥年二月 橋八水正脩著》
 
 (6)橋津源右衛門正敬
 これは、豊田正剛の弟・正敬に関する記事で、正剛の記事に附属するかたちで、但し書きとして記されている。既述と重複するところがあるが、いちおう一通り読んでおきたい。
 橋津源右衛門[正敬]は、とあるが、この橋津源右衛門は元文二年(1737)二月の改姓による名である。正敬は初め豊田彦右衛門。元禄十四年(1701)十月、歩行小姓組で、右筆(書記)に召出された。彼の年齢は不詳だが、兄の正剛は三十歳である。右筆とあるからには能書家で、兄正剛と同様、文才もあったのであろう。
 その後、正敬は中小姓に召直され、勤仕していたが、正徳三年(1713)五月、扶持を召上られ、浪人の身となった。何か不祥事があったのであろうが、それはここでは不明である。
 兄の正剛は、このころ作事奉行を勤めていた。また、正剛が、小倉の商人・村屋勘八郎から巌流島決闘の話を聞いたというのが正徳二年だから、その翌年である。
 浪人していた正敬の帰参が叶うのは、寿之が隠居して、嫡子・豊之に代替わりした後である。すなわち、享保元年(1716)十一月のことで、帰参をゆるされ、役儀は元通り回復した。この役儀は、文中とくに断わりのないことからすれば、中小姓であろう。
 享保十二年(1717)、兄正剛は五十六歳、閏正月、御用人に任命される。主人側近の一人になって、家中の中枢を占めるようになったのである。同年八月、弟の正敬は合力米二十石・役料五石を拝領し、右筆頭になる。文書課長というところであろう。
 享保十七年(1732)、兄正剛が病気で引退、家督を嫡子・正脩に譲って隠居に入った。豊田家が橋津姓に改姓するのは、元文二年(1737)二月、このとき正敬も、橋津源右衛門と名を改めた。
 この改姓の年の閏十一月、正敬は病死してしまう。いわく、「独身ニて御座候故、跡式無御座候」。正敬は独身だったので、跡目がなく、橋津源右衛門の家は一代で断絶である。
 嫡子ではない弟のケースには、養子口でもないかぎり、独身で妻帯しない場合が稀ではなかった。記者・豊田景英の生まれる前のことだが、先祖附には、こういう存在のことも忘れず書きとめられているのである。  Go Back




 
  5 橋津彦兵衛正脩
一、亡父・橋津彦兵衛[正脩]は、豊田又四郎子ニて、初名豊田助三郎と申候。(1)
 豊之公御代、享保八年十一月、御中小姓被召出、御切米八石三人扶持被為拝領、同十五年八月、別禄弐拾石・御役料現米五石被為拝領、御小姓頭役被仰付、同十七年十二月、父又四郎隠居被仰付、家督無相違御知行百五拾石被為拝領、御者頭列ニて御式台御番被仰付、元文二年二月、名字橋津と改申候。 同十月、寿之公御部屋御小姓頭被仰付、同三年十一月、宗孝公御光駕の節、御目見被仰付候。右御光駕の以前、浜御茶屋御腰懸出来ニ付、支配被仰付、数日出精相勤候由ニて、従豊之公為御褒美金子百疋被為拝領、従寿之公於御前御小袖被為拝領候。同年十一月、座配持懸ニて、御作事奉行被仰付、同五年二月、又々寿之公御附被仰付、同七月、御作事奉行帰役被仰付、寛保二年四月、御役儀被差除、御馬乗組被召加、同年七月、上原儀兵衛組足軽・松田弥太助殺害ニ付、御穿鑿奉行被仰付、右儀兵衛同役ニて、数日相勤申候。寛延元年正月、奉公人支配被仰付、宝暦元年三月、御町奉行役被仰付、名を平左衛門、後彦兵衛と改申候。(2)
 同四年十一月、当太守様御光駕の節、御目見被仰付、同九年六月、御役儀御断申上候処、願の通被仰付、御者頭列ニて、御式台御番被仰付、同年十一月、御家譜調方被仰付、同十一年八月、御家譜方退役被仰付、明和元年五月、隠居奉願候処、願の通被仰付、此間御役儀品々被仰付候処、出精相勤被遊御満足候旨ニて、御紋付御帷子被為拝領、老病保養仕、折々教衛場武蔵流兵法稽古見締ニ罷出候様被仰渡、名を八水と改、同年十月、病死仕候。(3)

一、亡父・橋津彦兵衛[正脩]は、豊田又四郎の子で、初名を豊田助三郎と申しました。
 (長岡)豊之公の御代、享保八年(1723)十一月、御中小姓に召出され、切米八石三人扶持を拝領しました。同十五年(1730)八月、別禄二十石、役料現米五石を拝領し、御小姓頭役を仰せ付けられ、同十七年(1732)十二月、父・又四郎に隠居を仰せ付けられ、家督相違なく知行百五十石を拝領いたし、御者頭列で式台御番を仰せ付けられ、元文二年(1737)二月、苗字を橋津と改めました。同十月、寿之公の御部屋小姓頭を仰せ付けられ、同三年(1738)十一月、(細川)宗孝公が(八代へ)御光駕の節、御目見を仰せ付けられました。右の御光駕の前に、浜御茶屋御腰懸を作るについて監督を仰せ付けられ、数日出精して勤めたとのことで、豊之公よりご褒美として金子百疋を拝領いたし、寿之公より御前において小袖を拝領いたしました。同年十一月、座配持懸で、作事奉行を仰せ付けられました。同五年(1740)二月、またまた寿之公のお附きを仰せ付けられ、同七月、作事奉行に帰役を仰せ付けられました。寛保二年(1742)四月、役儀を免除され、御馬乗組に召加えられました。同年七月、上原儀兵衛組の足軽・松田弥太助殺害事件につき、穿鑿奉行を仰せ付けられ、右の(上原)儀兵衛と同役で、数日(役目を)勤めました。寛延元年(1748)正月、奉公人支配を仰せ付けられました。宝暦元年(1751)三月、町奉行役を仰せ付けられ、名を平左衛門、のち、彦兵衛と改めました。
 同四年(1754)十一月、当太守様(細川重賢)御光駕の節、御目見を仰せ付けられました。同九年(1759)六月、役儀を辞退申上げましたところ、願いの通り仰せ付けられ、物頭格で、式台御番を仰せ付けられ、同年十一月、御家譜調方を仰せ付けられました。同十一年(1761)八月、御家譜方退役を仰せ付けられました。明和元年(1764)五月、隠居を願い出ましたところ、願いの通り(隠居を)仰せ付けられ、在勤中は役儀をいろいろ仰せ付けられて、出精して勤務したのをご満足なさったとのことで、御紋付帷子を拝領いたしました。老病を保養し、折々は、教衛場で武蔵流兵法の稽古の監督に出るよう、仰せ渡されました。名を八水と改めました。同年十月、病死いたしました。

  【評 注】
 
 (1)亡父・橋津彦兵衛正脩
 豊田氏先祖附であるのに、「橋津彦兵衛正脩」とあって、「橋津」姓であるのは、上述の通り、元文二年(1737)二月、一族で改姓したためである。正脩は、橋津卜川(豊田正剛)の嫡男であり、豊田景英の父である。そしてむろん、父・正剛の聞書記録を編集し追加加筆して、『武公伝』を書いていた人物である。
 宝永三年(1706)、正剛三十四歳のとき、正脩は生まれた。そのころ、父正剛は作事奉行を勤めていた。正脩の初名は豊田助三郎。後にみるように、元文二年に苗字を橋津と改めたとある。  Go Back



 
 (2)名字橋津と改申候
 正脩の出仕は、長岡豊之の代、享保八年(1723)十一月、十八歳のときである。主人豊之(1704〜71)は、正徳四年(1714)、父の寿之が隠居、十一歳で家督相続して当主になった。豊田正脩が出仕したとき豊之は二十歳である。
 正脩は、中小姓に召出され、給料は切米八石三人扶持。これは父の知行百石とは別禄である。父・正剛は、三年後の享保十一年(1726)六月、五十石加増されて都合百五十石の家禄になった。さらにまた、正脩は、享保十五年(1730)八月、別禄二十石・役料現米五石を与えられ、小姓頭役と順調な出世である。
 父の正剛の方は、享保十二年(1727)閏正月、五十六歳で御用人に任命されている。また、翌十三年(1728)十月、主人豊之の武蔵流兵法稽古を指南、九曜御紋付上下を拝領するなどしている。
 そして、正脩二十七歳の享保十七年(1732)十二月、父・又四郎正剛が患って引退、隠居したので、正脩は知行百五十石の家督を相続した。役儀は物頭格(御者頭列)で式台御番という。
 元文二年(1737)二月、苗字を橋津と改めた。正脩の初名は豊田助三郎。ここで、橋津姓を名のるようになったらしい。というのも、父正剛は隠居して、号卜川。が、このとき改姓して、橋津卜川となのるようになった。また、正脩の叔父・正敬(父正剛の弟)もこのとき改姓しているが、同年死亡した。独身で子がなかったので、その跡目は途絶した。
 この年十月、隠居の寿之(1668〜1745)の御部屋小姓頭に任命。寿之はもう七十歳である。正脩は老公・寿之のお気に入りだったかもしれない。
 正脩三十三歳の翌三年(1738)十一月、熊本城主・細川宗孝(1716〜1747)が八代へ来駕、正脩は御目見。宗孝は享保十七年(1732)に細川家当主になった。この二十三歳の若い主君を迎えるにあたり、八代では浜御茶屋に腰懸を作った。この浜御茶屋というのは、上述の松浜軒のことであろう。元禄元年(1688)、直之が母崇芳院のために茶屋である。正脩はその腰掛の工事監督を命じられ、出精して勤めたとのことで、豊之から褒美として金子百疋(一貫文)を拝領、隠居の寿之から御前において小袖を拝領した。
 なお、細川宗孝は、七年後の延享四年(1747)八月十六日、江戸城内で旗本・板倉修理勝該に殺害される。板倉修理は本家の板倉佐渡守勝清と間違えて襲撃したのであった。というのも、板倉家の紋は九曜巴紋、これが細川家の九曜星紋と似ていることから、間違って殺された、という俗説がある。それはともかくとして、人違いで主君を殺された細川家には災難であった
 同年十一月、接待役の座配持懸で、役儀は作事奉行を命じられた。元文五年(1740)二月、再び隠居の寿之の御附に戻ったが、同年七月、作事奉行に帰役。この作事奉行は父正剛も務めたことのある役である。
 そして正脩三十五歳のこの年、正脩に次男が生まれた。のちの嗣子・景英である。正脩は宝永三年(1706)生まれで、父・正剛が三十四歳のときの子である。正剛も正脩も、どちらも嗣子を得るのは三十代半ばと、当時としてはかなり遅かったといえる。
 正脩三十七歳の寛保二年(1742)四月、役儀(作事奉行)を免除され、御馬乗組に配属された。騎馬隊である。同年七月、上原儀兵衛組の足軽・松田弥太助が殺害された事件につき、穿鑿奉行を命じられ、上原儀兵衛と同役で、役目を勤めた。事件があると、こういうかたちで臨時の調査官が任命されるのである。自分組の足軽・松田弥太助が殺害されたとなると、上原儀兵衛自身が穿鑿奉行となる。自分の事件だからである。この事件については、上原氏先祖附でも委細不明である。
 この上原は、儀兵衛貞刻、初名多九郎。上原一族の分家筋だが、家禄百五十石である。儀兵衛は鉄砲組頭や普請奉行を勤める一方で、鑓と剣術の師範をつとめた。剣術は寺見〔じけん〕流、薩摩の寺見寺の僧・甲野善衆を元祖とするが、実は示現流の分派らしい。肥後で伝承された流派である。
 当時、上原儀兵衛は鑓と剣術の師範をつとめていた。武芸師範の上原儀兵衛の相役ができるということで、正脩が穿鑿方を命じられたものらしい。
 蛇足ながら、この上原儀兵衛の後妻に連れ子があった。その男子はのち増田惣兵衛定元の養子になった。この惣兵衛は、武蔵の弟子だった増田惣兵衛の孫である。武蔵が末期の床で、長岡寄之に彼の召し抱えを依頼し、そうして武蔵病死後、早速長岡家に召し出された、という例の人物。彼の孫の惣兵衛の養子になったのが、上原儀兵衛の後妻の連れ子で、これが増田市之丞、増田氏先祖附を書いた人物である。流儀は異なるが、上原儀兵衛はまんざら武蔵とは無縁ではない、ということになる。
 延享二年(1745)二月、正脩が御付きを勤めたことのある隠居の寿之が死去、享年七十八歳であった。七十四歳の父卜川(正剛)は、遺物として硯台を拝領。寛延元年(1748)正月、正脩四十三歳、奉公人支配に任命。人事部長というところである。
 翌寛延二年(1749)八月、父の正剛が病死した。享年七十八歳であった。この父は、武蔵の直弟子からの聞書記録を遺した。正脩は、それを古書の箱から発掘し、肥後におけるほぼ最初の武蔵伝記である『武公伝』を書くようになるわけである。
 そして正脩四十六歳の宝暦元年(1751)三月、町奉行役に任命。父の正剛とほぼ同じコースをたどったわけで、これが正脩の昇進の上がりというところであろうか。
 このとき、名を平左衛門と改めた。橋津平左衛門である。また、ここに、のちに彦兵衛と改めたとあるが、その時期は不明である。  Go Back



松井文庫蔵
長岡豊之像



*【細川家略系図】

○藤孝─忠興─忠利─光尚┐
 ┌──────────┘
 ├綱利┬吉利
 │  │
 │  └宣紀┬宗孝
 │     │
 │     └重賢─治年→
 │
 └利重┬利昌─利恭→
    │
    └宣紀




*【上原氏先祖附】
《養父・上原儀兵衛[貞刻」儀は、上原市助嫡子ニて御座候。初名多九郎と申候。享保四年八月、門司源兵衛殿門弟ニ被仰付置、鑓稽古仕、熊本えも毎度罷出候付、三人扶持被為拝領、熊本え罷出稽古仕候内、寺見流剣術をも稽古仕候。享保十五年六月、御側御中小姓被召出、御切米被為拝領、同十六年八月、御合力米弐拾石、御役料五石被為拝領、御小姓頭役被仰付、同十七年十一月、市助儀隠居被仰付、家督百五拾石無相違被為拝領、直ニ右御役儀相勤居申候。同十九年十月、外様御鉄炮頭役被仰付、元文□年八月、御普請奉行兼帯被仰付、同二年八月、鑓剣術師範被仰付置候付、只今迄□加役被成御免旨被仰出、同三年□□、儀兵衛と相改、同五年四月、御普請奉行帰役被仰付、同六年二月、加役被成御免、座配唯今迄の通ニて、鑓剣術師範被仰付、寛保二年七月、自分組足軽の内、松田弥太助殺害ニ逢候節、御穿鑿方をも被仰付相勤申候。延享五年六月、病死仕候》

*【増田氏先祖附】
《私曾祖父・増田惣兵衛儀、初の名は市之丞と申候。後ニ惣兵衛と改申候。先代牢人の由申伝候。寛永十五年有馬御陣の節、十六歳ニて其場えも罷出申候由ニ御座候。尤何某手ニ付申候哉、其儀は相知不申候。新免武蔵弟子ニて御座候。正保二年五月、於熊本武蔵病死の節、病中ニ要津院様〔寄之〕被成御見舞、何そ申置被候儀は無之哉御尋ニ付、武蔵申上候は、私弟子の内、増田市之允儀、先祖は訳有之者ニて御用ニも立可申候間、相応ニ被召仕被下候様、御頼被申上候由ニ付、武蔵病死後、早速御家ニ被召出候》
《私(増田市之丞)儀、実は有馬喜左衛門一子ニて御座候。私幼少の節、喜左衛門相果、其後母、上原儀兵衛後妻相成、儀兵衛方え一所ニ居申候内、元文五年閨七月、十三歳ニて邀月院様〔寿之〕御部屋え被召出、(中略)従邀月院様上原儀兵衛子分ニ被仰付、上原五郎太夫弟分ニて居申候処、増田惣兵衛定元奉願養子ニ仕候》
 
 (3)教衛場武蔵流兵法稽古見締
 ここは正脩晩年の記事である。
 まず、正脩四十九歳の宝暦四年(1754)十一月、熊本城主の細川重賢(1720〜1785)が八代に来駕、正脩は御目見である。当太守様とあるのは、記者の豊田景英が先祖附を書いた明和七年(1770)の当時、重賢はまだ現役の当主であったからだ。重賢は、細川宣紀の子だが側室岩瀬氏の胎で、先代の宗孝とは四歳違いの異母弟である。宗孝には子がなく、延享四年(1747)三十二歳で横死した。つまり上述のごとく、江戸城内で旗本板倉修理に誤って殺害されたのである。この不測の事態に、重賢は兄の養嗣子となるかたちで、細川家の家督を相続したのである。
 先祖附によるかぎり、熊本城主の御目見は正脩にとって二度目である。最初は、元文三年(1738)、正脩三十三歳のとき、先代の細川宗孝が八代へ来駕したときである。
 『二天記』冒頭所収の「凡例」に、宝暦五年(1755)二月、署名は「橋八水」とあり、これが橋津八水であることは申すまでもないが、これが正脩五十歳のこの宝暦五年であるとすれば、この八水号の時期については、下記にあるごとく問題がある。
 宝暦九年(1759)六月、正脩五十四歳、役儀(町奉行役)を辞退、物頭格で、式台御番。閑職に就いたと思うと、同年十一月、御家譜調方になる。御家譜というのは主家長岡(松井)家の家譜であり、主家の歴史の調査研究が仕事である。仕事が済んだのか、二年後の宝暦十一年(1761)八月、御家譜方退役。
 宝暦十三年(1763)八月、正脩三男の橋津千九郎が、中小姓に召出される。そして翌年、正脩五十九歳の明和元年(1764)五月、隠居。在勤中さまざまな役儀を出精して勤務したのを褒賞され御紋付帷子を拝領した。御紋付というのは、主家の家紋がついたものだが、隠居者に帷子を与えるという習俗も興味深い。
 正脩が隠居して、家督を継いだのは二男の景英である。長男が病身だったので、二男を嫡子として家督相続することを願い出ていたのである。橋津家の家督百五十石を継いだ景英は、御馬廻組に配属され、役目は式台御番。
 嫡子・景英への相続が済んで、隠居の正脩は、老病を保養し、それでも折々は、教衛場での武蔵流兵法稽古の見締、つまり監督に出るようにと言い渡されたという。隠居の正脩に、老いぼれても、若い連中の兵法稽古の監督でもやってくれよ、という話なのである。
 「教衛場」というのは、宝暦七年(1757)八代城二ノ丸に設置された兵法稽古所である。同年、文学稽古所が開設され、こちらは「伝習堂」という。文武両道それぞれの学校である。これは、熊本城主の細川重賢が実施した、いわゆる宝暦の改革の一環であり、八代城を預かる豊之が、これをうけて、文学稽古所の「伝習堂」と兵法稽古所の「教衛場」を設置したのである。
 ここで、先祖附はここで突然、「武蔵流兵法」の名を出すわけだが、それまでに関連する記事はない。正脩はだれに武蔵流兵法を学んだのか、先祖附では不明である。
 豊田氏先祖附にはそのあたりの話はないが、『武公伝』に、ひとつ情報がある。『武公伝』写本によれば、《此五法、提又兵衛ヨリ予相傳ス。八水ト云》とあって、この提「又兵衛」は堤又左衛門の誤記で、又左衛門とは堤次兵衛永衛のことであるから、正脩は堤次兵衛から武蔵流の五法を相伝されたものらしい。
 堤氏先祖附によれば、これは、九十一歳まで生きた堤又左衛門永衛(1641〜1731)という長命の人で、元禄十四年(1701)隠居して一睡と号した。『武公伝』にみえる一水であろう。正脩は八水を号したが、これは堤次兵衛の一水号に関係するもののようである。
 そうすると、正脩は、寺尾孫之允の孫弟子という筋目である。父の正剛が、寺尾求馬助の弟子・道家平蔵に学んだのとは異なる門弟筋である。ともあれ、提次兵衛は超高齢の九十一歳まで生きた。死去したのは、正脩が二十六歳の享保十六年(1731)である。若き正脩が、この老人から相伝を受ける機会はあったのである。

 問題は、隠居後、橋津八水(正脩)がすぐに死亡してしまったことである。正脩の隠居が明和元年(1764)五月、死去が同年十月である。享年七十八歳。
 先祖附によれば、正脩は隠居して名を八水と改めた。八水は号である。父正剛が橋津卜川と名のったように、正脩は橋津八水と名のるようになった。
 ところが、隠居して半年もたたぬ間に、この橋津八水が死んでしまう。とすれば、橋津八水という名は、明和元年(1764)五月から十月までのごく限られた期間の名のりであったことになる。
 すると、問題なのは、例の『二天記』冒頭に「凡例」として記載されている文書の期日である。この文書の期日は、宝暦五年(1755)二月で、署名は、「橋八水正脩著」とある。「橋八水」とは橋津八水のことであり、当時よくある慣習で、漢流に姓を一文字に書くのである。
 したがって、『二天記』が冒頭に据えたこの文書を信憑するかぎりにおいて、宝暦五年二月という時点において、正脩はすでに「八水」を名のっていたことになる。しかるに、先祖附では、その文脈をみるかぎりにおいて、この八水号は他の人々と同様に隠居後のことである。つまり、それは明和元年(1764)のことで、しかも五月から十月までのごく限られた期間である。
 こういう一見瑣末なことは、従来だれも指摘した研究者はなかった。しかし、ここから立ち上がる問題は、宝暦五年という時期と八水号との根本的な両立不可能性であり、『二天記』が冒頭に据えた「橋八水正脩著」という記載には、疑いが生じるのである。
 ともあれ、この問題は他の論及の場所に譲るとして、ここでは、問題を提起する箇処は、まさにここだ、という点を指摘しておきたい。  Go Back




*【細川家略系図】

○藤孝─忠興─忠利─光尚┐
 ┌──────────┘
 ├綱利┬吉利
 │  │
 │  └宣紀┬宗孝
 │     │
 │     └重賢─治年→
 │
 └利重┬利昌─利恭→
    │
    └宣紀





八代城址



二ノ丸の教衛場と伝習堂
八代城城郭模型




*【武公伝】
《夢世ノ弟子、山本源介勝守[土水男。後ニ源左衛門ト云]、井上角兵衛正紹[一流傳授相済、寛文七天八月五輪書相傳後、素軒ト云]、中山平右衛門正勝[後ニ箕軒ト云]、堤次兵衛永衛[後ニ又左衛門ト云、改一水ト云]、此外餘多有レドモ此等ハ大抵傳授モアリシ由、初ヨリ二刀ヲ以テ教ルナリ[此五法、提又左衛門ヨリ、予相傳ス。八水ト云]》

*【堤氏先祖附】
《曾祖父・堤又左衛門永衛儀は、右九郎右衛門永正嫡子ニて御座候。初名作平、次兵衛、次平、八郎右衛門、甚右衛門と申候。明暦元[乙未]年十五歳ニて、興長公御代、被召出、(中略)同(元禄)十四[辛巳]年、病身ニ付如願隠居被仰付、一睡と名を改申候。享保十五庚戌年正月、九十歳ニ相成申候付、従寿之公長寿被遊御祝、綿入御羽織被為拝領候。同十六[辛亥]年十月、病死仕候》




稼堂文庫本
二天記 凡例

 
  6 豊田専右衛門
一、私儀、橋津彦兵衛二男ニて御座候。兄病身御座候付、先年私を彦兵衛家督奉願候。弟橋津千九郎儀は、宝暦十三年八月、豊之公御側御中小姓被召出、明和元年八月、高野源之進末期養子ニ仕候。(1)
 私儀、同年五月、父彦兵衛家督無相違被為拝領、御馬廻組被召加、御式台御番被仰付、其後、武蔵流兵法稽古見締をも被仰付、其比は橋津甚之允と申候処、同三年十二月、奉願豊田専右衛門と改申候。同四年四月、御近習被仰付、同年八月、永御蔵御目付被仰付、同六年十二月、御式台御番被仰付、武蔵流兵法出精仕候様被仰渡候。(2)

右之通申伝候付、書付差上申候。高祖父・豊田甚之允儀、於豊前被召出、当時私迄、五代百四十七年、御家被召仕候。以上
  明和七年二月     豊田専右衛門
   御家司宛 (3)

一、私(豊田専右衛門)は、橋津彦兵衛二男でございます。兄が病身でございましたので、先年私を、彦兵衛の家督を相続させたいと願い出ました。弟の橋津千九郎は、宝暦十三年(1763)八月、豊之公お側の中小姓に召出され、明和元年(1764)八月、高野源之進が末期養子にいたしました。
 私は、同年五月、父・彦兵衛の家督を相違なく拝領いたし、御馬廻組に召加えられ、式台御番を仰せ付けられました。その後、武蔵流兵法稽古見締をも仰せ付けられ、そのころは、橋津甚之允と申しておりましたが、同三年(1766)十二月、願い出て(氏名を)豊田専右衛門と改めました。同四年(1767)四月、御近習を仰せ付けられ、同年八月、永御蔵御目付を仰せ付けられました。同六年(1769)十二月、式台御番を仰せ付けられ、武蔵流兵法に出精するよう仰せ渡されました。

右の通り(当家では)申し伝えておりますので、文書を提出いたします。高祖父・豊田甚之允が、豊前において召出され、現在の私まで、五代、百四十七年、御家に召仕えております。以上
   明和七年(1770)二月     豊田専右衛門
     御家司宛

  【評 注】
 
 (1)豊田専右衛門
 ここは、先祖附提出者である豊田専右衛門自身の記録である。すなわち、『二天記』の著者として周知の豊田景英が、自身について述べた記事である。
 景英の生れは、元文五年(1740)である。橋津彦兵衛正脩の二男として生まれた。姓が豊田ではなく、橋津だという事情は既述の通りである。
 景英が生まれたとき、祖父の正剛は隠居して存命で、六十九歳。父の正脩は三十五歳である。この年二月、正脩は、隠居の寿之の御附を再び命じられ、作事奉行から役換えになるが、七月になると、また作事奉行に帰役している。
 寛延二年(1749)、祖父の正剛が七十八歳で他界した。そのとき、父の正脩は四十四歳である。景英は十歳である。景英が祖父から直接話を聞く機会はあっただろうが、まだ児童だから、さして記憶にはあるまい。したがって、正剛から景英へという直接伝承はなかったと見てよい。
 景英が十二歳の宝暦元年(1751)三月、父正脩は町奉行役になり、順調な昇進コースを歩んでいる。また、宝暦五年(1755)は、景英は十六歳、『二天記』冒頭所収「凡例」の期日である。
 景英は二男で、兄がいたが、この兄は病身とかいう理由で、二男の景英を跡取り息子にするということに決められていた。この長男のことは委細不明である。
 また、千九郎という三男がいて、これは景英の弟である。千九郎は宝暦十三年(1763)八月、豊之公お側の中小姓に召出された。兄の景英はまだ部屋住みだが、弟の千九郎の方が先に出仕した恰好である。翌年の明和元年(1764)八月、千九郎は高野家の養子になる。高野源之進の末期養子とあるが、この末期養子というのは、当主が後嗣なく急に死にかけたとき、家の廃絶を避けるために、急遽養嗣子を仕立て上げ、それで家督の承認を得るのである。
 千九郎は高野家の養子に入って、高野平右衛門。高野家の先祖附を書くという廻り合わせになった。そこで、高野平右衛門が提出した先祖附の方が詳しいので、それによって、若干補正してみよう。
 景英の豊田氏先祖附では、千九郎とあるが、彼自身の文書では名は仙九郎である。また、豊田氏先祖附では、宝暦十三年(1763)八月、豊之御側の中小姓に召し出されたとあるが、実は仙九郎はそれより以前の、宝暦九年(1759)十二歳で、豊之御側に召し出された。児小姓をつとめたということだろう。これで、仙九郎が景英より八歳年下だと知れる。
 その後数年、仙九郎は主人豊之の熊本出府のお供をたびたびするなどして、宝暦十三年(1763)に元服して、豊之御側の中小姓になり、切米八石三人扶持を与えられた。これは父の家禄とは別禄である。
 他方、仙九郎が養子に入った高野家は如何というに、これは知行百五十石の家であり、豊田家も百五十石だから同格である。当主の高野源之進常尹は、宝暦十年(1760)に藤木家から養子に入って、高野家の家督を相続した人である。ところが、この高野源之進が、養子に入ってわずか四年後の、明和元年(1764)に死んでしまうのである。
 この明和元年(1764)五月、仙九郎らの父・正脩が隠居。八月晦日、高野源之進が病死。同日、仙九郎は、高野源之進の末期依願養子に仰付られる。このあたりはドサクサで、ある意味では乱暴な話であるが、高野家を断絶させないという主家の配慮でもある。
 するとこんどは、実父の正脩が十月十四日に病死である。仙九郎は、義父も実父も相次いで死亡した恰好なので、双方の服忌のため、高野家の家督相続は遅延し、十二月七日になった。仙九郎は十七歳、家督は百五十石で、御側御馬乗組に配属された。側近の騎馬隊である。
 仙九郎十九歳の明和三年(1766)、七月に豊之が隠居して、豊之の御部屋附になり、十月二十八日、御部屋小姓頭に昇進した。また、十二月二十八日、剣術に出精しているというので、褒詞を頂戴した。橋津八水(正脩)の息子として、仙九郎も兄景英同様、剣術修行に励んでいたということである。
 明和四年(1767)、仙九郎二十歳、正月十五日、名を平右衛門と改める。この年、兄の景英は、四月、御近習になり、また八月、永御蔵御目付を仰せつかる。
 このころ、高野平右衛門(仙九郎)は、隠居の豊之御附の御小姓頭役を勤めている。明和六年(1769)、平右衛門は、春光寺に安置する松井康之肖像を制作する事業で奔走している。他方、兄の景英は、この年十二月、式台御番で、武蔵流兵法に出精するよう指示された。つまり、兄は武蔵流兵法に出精で、弟は主家元祖の松井康之肖像の制作事業に奔走、という具合である。
 翌明和七年(1770)は先祖附を提出した年で、景英は二月に、平右衛門は三月に、それぞれの家の先祖附を作成提出した。双方の先祖附をみると、どうやら、弟の高野平右衛門の方が文章は達者である。  Go Back










*【高野氏先祖附】
《父・高野源之進常尹、初名大作と申候。実は藤木八右衛門資長二男ニて御座候。宝暦十年二月十七日、高野善右衛門依願養子ニ被仰付、同年六月四日、善右衛門遺跡無相違百五拾石被為拝領、御馬乗組ニ被召加、明和元年八月晦日、病死仕候》
《私儀、実は橋津彦兵衛正脩末子ニて、初名甲助、仙九郎と申候。宝暦九年、拾二歳ニて豊之公御側ニ被召出、同十年正月、熊本御出府御供被仰付、銀三両被為拝領、同年九月、御出府の節御供被仰付、白銀壱枚被為拝領、同十一月、御出府の節も御供被仰付、白銀壱枚被為拝領、同十二月、此間御小坊主共庖瘡相煩候節、御雇ニ被召仕、出精相勤候由ニて、金子百疋被為拝領、同十一年二月、御出府の節御供被仰付、白銀壱枚被為拝領、同年六月、昼夜出精相勤候由ニて、白銀三枚被為拝領、同十一月、為衣類代白銀五枚毎歳被為拝領之旨被仰渡、同十二年十一月、額を直候様ニと被仰付、御上張被為拝領、同十三年七月、執前髪候様ニと被仰付、御上下被為拝領、同年八月九日、御側御中小姓ニ被仰付、御切米八石三人扶持被為拝領、明和元年八月晦日、高野源之進末期依願養子ニ被仰付、同十月十四日、実父橋津八水[初彦兵衛と申候]病死仕、養実双方の服忌を受候ニ付て、同年十二月七日、源之進跡式無相違百五拾石被為拝領、御側御馬乗組ニ被召加、同三年七月、豊之公御隠居御願被為済候節、直ニ御部屋附被仰付、同四日、御移徙の上、御附中拝領物被仰付候節、御手自長御上下被為拝領、同年十月廿八日、御部屋御小姓頭被仰付、同十二月廿八日、剣術出精仕候段被聞召上候由、御褒詞被仰渡、同四年正月十五日、名を平右衛門と改候様ニと被仰付候。右の外、御時服等品々被為拝領候儀も御座候得共省略仕候》《明和六年[己丑]豊之公思召の旨被成御座、春光寺え康之公御肖像被成御安置、御石碑被成御建候筈ニ付、御伝記調方松井清三え被仰付、梶原平八并私儀差加り、執筆等仕候様被仰付、御肖像出来之儀は、小川町ニ居申候仏工佐兵衛と申者え被仰付候ニ付、同年六月、私儀小川え罷越、佐兵衛え申談、其後、佐兵衛伜才次郎儀、松井清三宅え罷越候上猶又委細申談、同九月廿八日、御肖像出来、同十一月廿三日、春光寺え被成御安置、御碑文は薮茂次郎殿え被成御頼、右御用筋出精相勤申候由ニて、同七年三月十一日、御羽織被為拝領、同八年二月、右御用の儀ニ付、熊本え被差越、茂次郎殿え委細申談、罷帰申候。同年三月廿九日、豊之公被遊御逝去、為御遺物御袷被為拝領》
 
 (2)武蔵流兵法稽古見締
 ここから景英の履歴記事である。ただし、家督相続してから先祖附提出まで六年ほどしかないから、記事の量はさして多くない。
 まず、明和元年(1764)五月、父の正脩が五十九歳で隠居、二十五歳の景英が家督を相続した。隠居した父の正脩は名を八水と改め、また、老病を保養し、折々は、教衛場で武蔵流兵法の稽古の監督に出るよう言われていた。ところが、同年十月、病死した。隠居して間もない死であった。
 百五十石の家督を相続した景英は、御馬廻組に配属され、式台御番をつとめた。式台御番はどちらかというと閑職で、その後、景英は、武蔵流兵法稽古見締、つまり家士たちが教衛場で武蔵流兵法の稽古をする監督も命じられた。つまり、兵法の腕を買われたのであろうが、むろん父・正脩が隠居しても稽古見締を要請されていたから、その連続であろう。
 明和三年(1766)、主家では長岡豊之(六十三歳)が隠居して、三十歳の営之〔ためゆき〕が家督相続して、代替わりである。高野家へ養子に入った弟の仙九郎が、隠居の豊之に従い、御部屋御付となり、御部屋小姓頭になったのは上述の通りである。
 景英は、このころまでは、橋津甚之允といっていたが、この年、明和三年(1766)十二月、願い出て氏名を豊田専右衛門と改めた。
 甚之允は、四代前の豊田甚之允高久、つまり豊田家が長岡興長に仕える端緒となった人物の名を襲ったものであろうが、これを専右衛門に替えるというのは、曾祖父・豊田専右衛門高達の名を継いだものである。したがって、これには問題はない。
 しかし、姓を「橋津」から「豊田」に替えるというのは、これは復姓・復氏である。もともと豊田であったのを、それに復帰したということである。
 豊田から橋津に改姓したのは、父・正脩の代である。すなわち、景英が生れる前の、元文二年(1737)二月のことだが、このとき正脩の叔父(正剛の弟)・正敬も橋津源右衛門と名を改めている。しかも景英の祖父・正剛は、隠居して卜川を号していたが、これも橋津卜川と改めている。このように、祖父・大叔父・父とすべて、豊田から橋津に改姓しているのである。
 橋津は、先祖本貫の地である「豊前国宇佐郡橋津」の名であり、この改姓は、祖父・卜川(正剛)の意向によるものであろう。隠居していた卜川が、何かの理由で橋津姓に改めることを思いついて、豊田家を橋津に改姓したものらしい。既述のように、橋津は豊田家の豊前における故地によるものだが、他方、橋津又兵衛という例も以前にあるから、この人物にちなんだ改姓と思われる。
 しかし、祖父も大叔父もすでになく、そして父・正脩も死んで、景英は豊前の橋津にちなむ姓よりは、むしろ、遠祖東国以来の豊田氏に遡行して、この豊田姓をいわば再評価したのであろう。願い出て、豊田へ復氏したのである。それまでは、橋津甚之允正通と名のったのだが、景英という改名もこのあたりであろう。つまり、ルーツを遡って、豊田氏元祖の豊田次郎景俊や但馬守景次の「景」字を頂戴したということである。
 このあたりは、祖父や父に対する景英のスタンスが窺われて、興味深い。というのも、父の残した武蔵伝記『武公伝』に対して、それを承継するのではなく、むしろそれを棚上げにして、『二天記』という独自な武蔵伝記を書いてしまうからだ。『武公伝』に対する『二天記』のある種の距離は、橋津という姓に対する豊田姓のありかたとパラレルである。
 豊田専右衛門と名を改めた景英は、二十八歳の翌明和四年(1767)四月、営之の近習になり、同年八月、永御蔵御目付役に就いた。永御蔵というのは八代城三ノ丸にあった米蔵で、永御蔵御目付役は主家の蔵米の管理人だから要職である。営之は前年家督相続したばかり、景英が側近になったのも、世代替りの新体制ということであろうか。
 そして二年後の明和六年(1769)十二月、三十歳の景英は式台御番になり、武蔵流兵法に出精するよう仰せ渡された。これは、明和元年(1764)家督を相続した景英が、式台御番をつとめ、その後、武蔵流兵法稽古見締を命じられたのに対応する。つまり、景英の武蔵流兵法の修行は公認されていたということであるが、これはむろん、「教衛場」という兵法稽古所の存在と関わることである。  Go Back




















*【豊田氏先祖附】
○正剛 《同十二月、御役儀被差除、隠居被仰付候。其後名を橋津卜川と改申候。延享二年二月、寿之公御卒去被遊候節、為御遺物御硯の台被為拝領、今以所持仕候。寛延二年八月病死仕候》
○正敬 《元文二年二月、橋津源右衛門と改、同年閏十一月、病死仕候。独身ニて御座候故、跡式無御座候》
○正脩 《同十七年十二月、父又四郎隠居被仰付、家督無相違御知行百五拾石被為拝領、御者頭列ニて御式台御番被仰付、元文二年二月、名字橋津と改申候》





教衛場と永御蔵 八代城模型
八代市立博物館




永御蔵門移築遺構 春光寺
 
 (3)右之通申伝候付、書付差上申候
 この先祖附の提出者としての文章である。頼朝に仕えたという先祖の豊田次郎景俊にはじまり、景英自身に至るまで、家譜を記してきたが、以上の通り、当家では申し伝えていると、ここで全体の後記として述べている。
 高祖父・豊田甚之允が、豊前において召出され、現在の私まで、五代・百四十七年、御家に仕えたとある。つまり、寛永元年(1624)、豊田甚之允高久が長岡興長に仕えるようになって以来、豊田家はこの五代・百四十七年にわたって、長岡家に仕えてきたというわけである。
 もちろん、興長の父・松井康之の代以来の古い譜代の家も少なくない。それゆえ、寛永元年以来となると、さして旧くはないし、他家のように華々しい功績があるわけでもないが、それでもここまで百五十年近く仕えてきた。それを述べているのである。
 この文書の提出期日は、明和七年(1770)二月である。景英は三十一歳、六年前に家督を相続したばかりである。御馬廻組で、式台御番を勤める家士である。
 提出先は「御家司宛」としている。他家の先祖附では、この家司の名を三名ほど列記した例が多いが、この景英の先祖附では「御家司宛」である。家司というのは、大名家なら家老職に相当する者たちのことで、しかし主人は、熊本細川家の家老なので、ここで家司と記すのである。
 かくして、景英は明和七年(1770)二月、先祖附を提出したが、のちに天明元年(1781)閏五月、つまり十一年後に、追加文書を提出している。それが以下の文書である。  Go Back




*【豊田氏略系図】

○豊田次郎景俊―但馬守景次─┐
 ┌────────────┘
 └───(16代略)────┐
 ┌────────────┘
 └豊田甲斐正信─甚之允高久┐
 ┌────────────┘
 │岡田四郎次郎  橋津卜川
 ├専右衛門高達┬又四郎正剛─┐
 │      │      │
 └信房    └源右衛門正敬│
  頼藤浅右衛門       │
 ┌─────────────┘
 │ 橋津八水
 └彦兵衛正脩┬某
       │
       │復姓豊田
       ├専右衛門景英
       │
       └仙九郎
        高野平右衛門

 
  7 豊田守衛
   覚

一、先祖以来の儀は、明和七年二月御達申上候通ニ御座候。(1)
一、私儀、御馬廻組ニて、御式台御番相勤居申候処、安永元年正月、御台所頭被仰付候。同二年九月、御台所頭御断奉願候処、被差免、御式台御番被仰候。同三年四月、二天一流の師範・村上八郎右衛門代見ニ被仰付、同年十二月、為稽古料毎歳金子百疋被為拝領候。同四年九月、奉願名を守衛と改申候。同九年五月、二天一流の師役被仰付、御式台御番相勤居申候。以上 (2)
   天明元年閏五月     豊田守衛
     御家司宛 (3)
   覚

一、先祖以来のことは、明和七年(1770)二月に申し上げました通りでございます。
一、私は、御馬廻組で、式台御番を勤めておりましたところ、安永元年(1772)正月、御台所頭を仰せ付けられました。同二年(1773)九月、御台所頭を辞退申上げましたところ、役を免除され、式台御番を仰せ付けられました。同三年(1774)四月、二天一流の師範・村上八郎右衛門の代見を仰せ付けられ、同年十二月、稽古料として毎年金子百疋を拝領することになりました。同四年(1775)九月、願い出て名を守衛と改めました。同九年(1780)五月、二天一流の師範役を仰せ付けられ、式台御番を勤めております。以上
    天明元年(1781)閏五月       豊田守衛
      御家司宛

  【評 注】
 
 (1)明和七年二月御達申上候通
 先祖以来のことは、明和七年(1770)二月に申告した通り、とあるのは、上に見た通りの豊田氏先祖附のことである。
 関東で頼朝に仕えた豊田次郎景俊以来、その子・豊田但馬守景次が、大友左近将監能直に従って、九州へ下って、豊前国宇佐郡橋津を知行し、代々大友家の旗下にあった。その後、豊田甲斐正信の代に主家・大友氏が滅んで、豊田甲斐は浪人の身となり、死んだが、その子・豊田甚之允高久の代に、長岡興長に仕えるようになった。以来、曽祖父の専右衛門高達、祖父の又四郎正剛、父の源右衛門正敬、そして景英自身と、五代にわたって仕えてきたのである。その経歴を、明和七年(1770)二月に申告していたのである。
 そうして、以下は、それ後のことを記す。  Go Back


 
 (2)二天一流の師役
 明和七年(1770)の後はいかに、というと、明和八年(1771)、隠居の豊之が歿、享年六十八歳であった。景英三十三歳の安永元年(1772)正月、御台所頭になったとある。主家奥向きの、主人の家庭と親しく接する勤めである。景英二十八〜九歳のころ、近習から、永御蔵御目付になって、その後式台御番になっているが、今回も同じく、翌安永二年(1773)九月、御台所頭の役儀を免除され、式台御番になっている。つまり、御役御免で、教衛場での稽古指導に専念しろということである。
 そうして、翌年の安永三年(1774)四月、二天一流の師範・村上八郎右衛門の代見を命じられ、同年十二月、稽古料として、毎年金子百疋を支給されるようになった。この金子百疋(一貫文)は、師範代としての役料であるが、これを見るに、教衛場設置とともに学校指導が制度化され、役料も付くようになっていたのである。
 さて、この二天一流の師範・村上八郎右衛門という人は、肥後細川家の家臣・村上平内正雄の次男である。村上平内正雄は父祖の代からの二百石の禄を食んでいたが、元禄十年(1697)粗暴のことがあり、召し放ちとなって、合志郡妻越村に立ち退いて牢人。長男が平内正勝、二男が八郎右衛門正之(正行)である。
 そもそも、この平内正雄にはいろいろ粗暴の逸話がある。天保十五甲辰歳(1844)孟冬の日付のある友成正信の『二天記』後記によれば、村上平内正雄は新免弁助に学んでいたが、師匠の弁助の不意を襲って木刀を徒手で奪われて破門された。その後、人に教えていたが、志方半兵衛之経らがそれにクレームをつけた。平内正雄は、おれが人に教えているのは生活のためで、しかも師匠の新免弁助から学んだところを教えているのではない、と答えた。志方之経は、武蔵流ではないなら文句はないと恕した。村上平内正雄は村上流を立てた、云々とある。ようするに、武蔵流兵法に諸派が並立する時代になったのであり、それぞれ自派の正統性を主張するあまり、他派を異端とする伝説が形成されたのである。
 しかし、村上平内正雄が二百石の家禄を召上げられ浪人したのは事実のようで、その後は合志郡妻越村に住んで人に兵法を教えていたらしい。平内正雄は元文四年(1739)歿である。平内正雄の筋目が召し返されるのは、天保年間の子孫・孫四郎の代である。ただし五人扶持である。
 平内正雄に次弟があり、吉之允正房という。兄が召放ちにあったが、吉之允正房は別禄で七人扶持を与えられ、その後は出世して家禄を五百石にして寛保二年病死。跡目を嗣いだ息子の吉之允は御小姓に出仕していたが、「不所存の儀」あり死刑に処せられた。というわけで、弟の吉之允の系統も断絶した。
 しかし、村上氏先祖附によれば、平内正雄の長男・平内正勝は、剣術指南をして、兵法の家・村上家を維持していたらしい。父の正雄は、新免弁助門弟で、武蔵流兵法三代目である。正勝は四代目になり、延享元年(1744)武芸上覧のさい、門弟を引き連れて出て、褒美に金子二百疋。宝暦五年(1755)二月、熊本の学校・時習館の剣術師範役を命じられ、役料に五人扶持を与えられた。その後、同六年に二十俵加増、同同八年十俵加増。父祖までの二百石知行に比すれば、微々たる俸給であるが、兵法の家として村上家を公認された功は大きい。平内正勝は、安永二年(1773)九月病死。跡目は息子の平内正則が、安永三年(1774)、五人扶持で師範役を継承した。
 さて、村上八右衛門は、平内正雄の二男で、平内正勝の弟・正之である。熊本の時習館で、兄の平内正雄の相役を勤めた。また、八代の教衛場でも武蔵流師役を勤めたようである。
 この八右衛門正之の系統から、村上大右衛門正保の系統と、野田一渓種信の系統が派生する。村上大右衛門の系統は、剣術師役で二十石五人扶持を受けた。ただし、現在では有名なのは野田一渓の方であろう。
 野田一渓の先祖・野田美濃は、天草氏に仕え家老だったが、その子・野田喜兵衛重綱は、天草本渡城主天草伊豆守種綱三男・喜膳で、養子である。しかし、天草家没落で浪人、喜兵衛はのち豊前で細川忠利に召し出され、五人扶持十五石。のち、細川家転封に従い、肥後に来たって、二百五十石。天草は切支丹信仰の土地柄で、喜兵衛もその一人だった。寛永十三年(1636)、切支丹を転び浄土宗門徒に転向。翌年、天草島原で切支丹宗徒一揆。そして喜兵衛は、寛永十八年(1641)細川忠利が死亡したとき、殉死。
 その後、養子の三郎兵衛種正が百五十石(寛文御侍帳)、三代喜兵衛種長も養子で、二百五十石(元禄御侍帳)。四代三郎兵衛種久も養子で、二百五十石。しかし、種久は享保九年(1724)致仕して浪人。その後、これまた養子の五代喜兵衛種弘のときに、延享三年(1746)先知二百五十石を回復した。
 野田一渓はこの喜兵衛種弘の子で、名は三郎兵衛種信である。宝暦十年(1760)十二月、家督二百石を相続。御番方。四十一歳の安永三年(1774)五月、隠居して、号一渓。剣術・居合・小具足を指南した。つまり、武蔵流・伯耆流・塩田流三つの流儀を教えた。野田一渓は享和二年(1802)正月歿、墓誌によれば、享年六十九歳である。すると、享保十九年(1734)生まれであるから、豊田景英より六歳上ということになる。
 話を戻せば、豊田家先祖附の記事によれば、村上八右衛門正之は、八代の教衛場で兵法師範をしていたらしい。というのも、豊田景英が、安永三年(1774)四月、二天一流の師範・村上八郎右衛門の代見を命じられた、とあるからである。そうして景英は師範代になって、毎年役料を受けるようになった。
 ここで、「二天一流の師範・村上八郎右衛門」とある、その二天一流とは、この記述に関するかぎり、村上派を指す。そして、村上八郎右衛門の代見をつとめたとある以上、豊田景英はこの村上八郎右衛門に学んだようである。そうなると、野田一渓らと相弟子になるわけである。
 村上八右衛門は、安永五年(1776)七月に死亡した。『武公伝』に、村上八右衛門の法名と命日が記載されているが、それはむろん景英が書いたものである。
 景英はそれまで改訂増補の手を入れていた『武公伝』を放棄し、この安永五年(1776)の秋から冬にかけて、新たに一書を書き下ろした。それが『二天記』である。
 ところで、村上八郎右衛門が死んだ時、景英にはまだ一流相伝はなかった。景英が相伝を得る前に、師匠村上八郎右衛門は死んでしまった。そこで、師匠の死の年、その墓前で、村上八郎右衛門の息子で相伝者の村上大右衛門正保から、相伝を受けたのである。
 それから四年後の安永九年(1780)五月、四十一歳の豊田景英は二天一流の師範役を命じられた。後任としては空白があるが、その間、師範代という役どころだったのであろう。安永九年は、師範代から師範への昇格である。公務は、相変わらず、式台御番。閑職優遇で、教衛場で兵法師範に努めよということらしい。
 そういうわけで、景英は大した役儀公務には就いていない。これを実弟で高野家へ養子に入った弟の仙九郎(高野平右衛門)のその後と照合すると、興味深い差異がある。
 明和八年(1771)三月二十九日、隠居の豊之が逝去。享年六十八歳。豊之の御付であった高野平右衛門は、遺物として袷拝領。五月二十一日、岡部嘉太夫の後任で庸之(豊之三男・1747〜73)御附となる。座席はこれまで通り、御物頭列、とあるから、平右衛門は物頭格なのであった。
 そして興味深いのは、この年十二月十五日、平右衛門は、二天一流兵法稽古に心懸厚く出精したとのことで、褒詞をいただいたとあることである。平右衛門は、庸之御附で物頭格だが、二天一流兵法の稽古に怠りなかったということである。
 安永二年(1773)六月十四日、平右衛門が付いていた庸之が逝去。遺物として時服羽織拝領。8月9日、芳賀宇左衛門の後任で慎之(営之嫡男・のち徴之〔あきゆき〕、1766〜1826)御附に。座配これまでの通りとあるから、物頭列である。
 翌安永三年(1774)四月、景英は、二天一流の師範・村上八郎右衛門の代見を仰せつかる。九月、熊本城主・細川重賢(1721〜85)が八代来駕の節、平右衛門は大書院で御物頭同列、一同御目見。しかし、実兄・景英には、この御目見の記事はない。このときは物頭以上が御目見で、景英は細川重賢の御目見にはあずからなかったということかもしれぬ。
 平右衛門はその後、安永八年(1779)正月二十八日、慎之(徴之)御附御小姓頭になっている。世子若君の側近を勤め、勤料・小使給のほか、たびたび褒賞をうけている。実弟の平右衛門がこういう役儀を勤めているのに対し、兄の景英の方は、相変わらず、式台御番で、安永九年に、二天一流の師範代から師範へ昇格したことが、ようやくにして記されるのみである。  Go Back










*【村上家略系図】

○村上吉之允正重―吉之允正之┐
┌─────────────┘
├平内正雄─┬平内正勝―平内正則
│     │
└吉之允正房└八郎右衛門正之
  ┌───────────┘
  └大右衛門─貞助



*【二天記後記】
《或曰、村上平内正雄者、學兵法於新免辨助之門。其派存于今者二家。子今作武藏流傳統系圖。而外之者何耶。曰、余甞聞正雄學兵法於辨助師之門久矣。藝既成。以爲天下唯師勝已也。心竊害之、乃携四尺餘木刀、撃其不意。師徒手奪其刀、叱而逐其門。後數年、正雄授劍法於人、師之姪志方之經聞之、以書責其僭。正雄答謝曰、浪士無由糊口、用所自給耳。然所授于人非所受師也。之經恕不問。是以遂興一家。名曰村上流。其謝書存于志方氏。木刀存于寺尾氏。皆歴々于今。然而世人以村上大塚二家出于正雄者、混志方山東二家出于武藏守者、而共稱武藏流。余恐眞僞之辨久而u癈也。故作武藏流系圖、別附以村上流、掲之於二天記之末。以示後人矣。
  天保十五甲辰歳孟冬
              友成正信識 》



村上家墓所 熊本県菊池市旭志
左から正雄・正勝・正之





*【村上派系統図】

○新免武蔵守玄信―寺尾求馬助信行┐
┌───────────────┘
└新免弁助信盛―村上平内正雄┐
┌─────────────┘
├村上平内正勝―村上平内正則

八郎右衛門正之┬村上大右衛門
        │
        └野田一渓種信



*【野田家略系図】

○野田美濃―喜兵衛重綱┐
┌──────────┘
└三郎兵衛種正─喜兵衛種長┐
┌────────────┘
└三郎兵衛種久―喜兵衛種弘┐
┌────────────┘
三郎兵衛種信┬喜兵衛種行
       │
       └三郎兵衛種勝→













*【高野氏先祖附】
《同年(明和八年)三月廿九日、豊之公被遊御逝去、為御遺物御袷被為拝領、同五月廿一日、岡部嘉太夫跡庸之公御附被仰付、座席是迄の通、御物頭列ニ被差置旨被仰渡、同年十二月十五日、二天一流兵法稽古心懸厚出精仕候由、御褒詞被仰渡、安永元年六月、庸之公御大病の節、昼夜相詰、同八月ニ至り御快然、其後、痛所御座候ニ付、御役御断申上候処、同九月十五日、留役被仰付、且又、先般庸之公御病気の節、御介抱昼夜出精仕、惣躰御無人ニも有之候処、諸事心を用相勤被遊御満悦候由ニて、金子百疋被為拝領旨、於御城被仰渡、同二年六月十四日、庸之公御逝去被成、為御遺物御時服御羽織被為拝領、同八月九日、芳賀宇左衛門跡慎之公御附ニ被仰付、座配是迄の通被差置旨被仰渡、同三年九月、重賢公御光駕の節、於大書院御物頭同列一同御目見被仰付、同十二月廿五日、勤方出精仕候由被仰渡、毎歳小使給被為拝領旨被仰渡、同五年正月十一日、慎之公御鎧御召初の節、御用受込被仰付、松井清三・頼藤浅右衛門・上原右角并私儀、御左右ニ罷在、御手伝相勤、粟坂忠太夫御鎧奉為召、松井嘉次馬御高紐奉結、御規式相済、御尉斗被下之、鶴の御吸物・御祝の御酒・夕御料理被為頂戴、金子百疋被為拝領、同年十二月廿八日、勤方出精仕候由被賞、金子百疋被為拝領、同八年正月廿八日、慎之公御附御小姓頭被仰付、勤料銀弐枚被為拝領、是迄被下置候小使給は上り候由被仰渡、同二月三日、慎之公初て御出府の節、御供被仰付、同八月八日、兼々出精相勤候由被賞、御紋付御帷子被為拝領旨、於御城被仰渡、天明元年二月、慎之公熊本え被成御出、重賢公え御目見被仰上候節、御供被仰付、同三月廿一日、於八代御元服被遊、右両条御用受込被仰付置、御首尾好被為済被遊御満悦候由ニて、同四月十日、御紋付御上下被為拝領旨、於御城被仰渡候》
 
 (3)豊田守衛
 この追加補足文書、先祖附追記の日付、署名である。
 天明元年(1781)閏五月というのは、景英が四十二歳の年である。五年前に『二天記』を書き上げ、また前年五月、二天一流の師範代から師範になったばかりである。
 署名は、前回の「豊田専右衛門」ではなく、「豊田守衛」と記名している。これは、七年前の安永四年(1775)九月、願い出て名を「守衛」と改めたことによる。豊田守衛景英である。兵法師範らしい名に改めたということであろうか。
 ちなみに、景英の名はさまざまである。初め橋津五郎、それから甚之允正通、左近右衛門である。子俊という号もある。他方、豊田家系図には景甫とある。この景甫を通例「かげよし」と読んでいるようだが、「甫」字は男性美称だから、景甫は号の可能性がある。たとえば、孔子は、氏は孔、諱は丘、字は仲尼、号は尼甫。それゆえ豊田景英のばあいでは、字が景英で、号は景甫(けいほ)となる。こういう漢流呼称は、少し学のある人士の間で流行していたのである。
 ただし我々は、『二天記』の冒頭に記された「凡例」に添え書きされた、《豊田景英》という署名にしたがって、この豊田専右衛門、もしくは豊田守衛を、その字で景英と呼ぶわけである。『二天記』の著者として、現代にその名を残したこの人物は、寛政十一年(1799)没、享年六十歳であった。



東京国立博物館蔵
二天記

新免武蔵之塚(左)と小袖塚 八代市妙見町

新免武蔵之塚
 なお、以上に付記していえば、肥後八代には、「新免武蔵之塚」と刻字した石塔が現存する(八代市妙見町)。どういうわけか、懐良親王建立の両親の墓という「小袖塚」の左脇にあり、正面もそちらに向けて立つ。
 この武蔵塚石碑に「寛政九年冬 村上氏門弟中」とあるところからすると、これは八代の村上派門弟が建てたものである。その寛政九年(1797)という時点をみれば、これはおそらく、晩年の豊田景英が関与した事業であろう。
 というのも、豊田景英は、二天一流(村上派)の師範をつとめたのだから、八代における村上派の代表者の一人であろうと思われるからだ。景英は、この年五十八歳。そしてその二年後に死去。それゆえ、この石碑は、八代村上派の存在を示す遺構であるとともに、武蔵伝記『武公伝』『二天記』を書いた人物の遺跡でもある。
 これには「新免武蔵之塚」とあって、名は「塚」である。熊本の東に「武蔵塚」という立派な施設がある(熊本市龍田弓削)が、この八代の遺跡も、もう一つの武蔵塚である。塚だとなると、武蔵の墳墓ということになる。そうなら、掘れば遺骨でも出そうなものである。
 ただし、誤解なきように云っておけば、熊本の武蔵塚も、武蔵の墓というより武蔵記念碑である。そして、八代の「新免武蔵之塚」は武蔵死後百五十年以上経過した段階での武蔵記念碑であって、厳密な意味では武蔵の墓だとは言えない。ただ、八代の村上派門弟らが、先師を偲ぶために設置したモニュメントである。五月十九日の武蔵命日には、ここで法要をしたものであろう。



寛政九年(1797)冬 村上氏門弟中



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