宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 武   公   伝   7  Back   Next 

 
  21 剣術五輪書
一 寛永二十年[癸未]十月十日、劔術五輪書、肥後巖門ニ於テ始テ編之。(1)
 序ハ龍田山泰勝寺春山和尚[泰勝寺第二世也]ニ雌黄ヲ乞フ。春山、コレニハ斧鑿ヲ加フル寸〔時〕ハ却テ其素意ヲ失ン事ヲ愁テ、更ニ文躰法度ニ不拘、唯文字ノ差誤セル所マデヲ改換、且ツ義理ノ近似ナル古語ヲ引用テ潤色之ト也。(2)

一 寛永二十年(1643)十月十日、剣術五輪書を、肥後巌門〔岩戸〕において始めて編述する。
 (五輪書の)序は、龍田山泰勝寺・春山和尚[泰勝寺第二世である]に雌黄(添削)を頼んだ。春山は、これに斧鑿を加えると、かえってその素意を失うことを心配して、文体法則には一切拘らず、ただ文字の間違っている所だけを改換し、そして意味の近似した古語を引用して、潤色したそうである。

  【評 注】
 
 (1)劔術五輪書、肥後巌門ニ於テ始テ編之
 武蔵が、今日「五輪書」と呼ばれる兵法教本を書きはじめた、その時期と場所に関する記事である。
 これは五輪書の記述に依拠したものらしい。寛永二十年(1643)十月十日、とあるのは、地之巻冒頭にあるところの、「兵法の道を二天一流と名づけて、長年修行してきたことを、初めて書物に記述しようと思った。時に寛永二十年(1643)十月上旬の頃、九州肥後の地にある岩戸山に登って、天を拜し、観音を礼拝し、仏前に向った」という一節と、それに、「我が流派の考えや真実の心を明らかにすること、天道と観世音を鏡として、今、十月十日の夜、寅の刻の一天に筆を執って書き始める」という文章によるもので、それ以外には根拠はなさそうである。
 なるほどたしかに、十月十日の夜、寅の刻の一天(十一日午前四時ころ)に書き始めたとあるし、九州肥後の地岩戸山〔いわとのやま〕の名もある。『武公伝』の「肥後巌門」という「巌門」は「いわと」であろう。岩戸山は、熊本城の西方約二里、有明海に近い山で、ここに岩戸観音と呼ばれる観音霊場がある(現・熊本市松尾町)。
 ところが、五輪書の文言をよく読めば明らかなように、武蔵は十月十日夜に執筆を開始したが、これを岩戸山で書いたとは記していない。岩戸山には、「十月上旬の頃」、武蔵が登山し、天を拝し、観音を礼拝し、仏前に向った、という場所である。岩戸山は、武蔵が執筆成就祈願のために登ったのであって、執筆を開始した場所ではない。
 五輪書を読むかぎりにおいて、武蔵は、「十月上旬の頃」岩戸山に登って、五輪書執筆成就を祈願した。そして山を下りて、熊本市中もしくはその近郊で、十月十日夜に執筆を開始したのである。
 このことは、我々の五輪書読解作業以前には、従来一般に看過されてきたポイントである。それまでは、武蔵は岩戸山で五輪書を執筆した、もっと絞って言えば、岩戸山の「霊巌洞」で五輪書を書いたという言説が支配的であった。
 こうした今日の通説は、もとは明治末の顕彰会本『宮本武蔵』から発するもので、これは肥後の伝説を取り込んだものである。顕彰会本が参照した『二天記』にはこれに該当する記事はないから、顕彰会本『宮本武蔵』の筆者は、当時の肥後の伝説口碑によったものらしい。いわばこれは、「霊巌洞伝説」というべきものである。
 この伝説の発生プロセス如何といえば、岩戸山→岩戸観音→霊巌洞という連想で、武蔵が岩戸山に登って五輪書を書いたとすれば、それは霊巌洞だろうという憶測による講釈である。
 このような伝説発生は、志方半兵衛の『兵法二天一流相伝記』にすでに確認しうる。すなわち、《其前六十歳の頃、兵法得道書を當國城西の霊岩洞にて書顕。五巻[序地水火風]、是則一流の傳書なり》と書いている。これを見るに、武蔵が五輪書を霊巌洞で書いたという伝説は、十八世紀中期には、すでに出来あがっていたのである。
 他方、『武公伝』の作者は、霊巌洞とまでは書かない。五輪書の記述に準じた巌門(いはと)=岩戸山であるようだが、それでも「巌門」と書いてしまう以上、これは霊巌洞を指しているはずである。言い換えれば、橋津正脩は同世代の志方半兵衛と伝説を共有しているのである。
 『武公伝』の作者に、慥かな情報があったか、というと、そうではない。上記の五輪書冒頭の文章を解釈して、「寛永二十年十月十日、剣術五輪書を、肥後巌門において始めて編述する」と書いたまでのことである。この解釈が五輪書の誤読から生じた誤認であることは言うまでもない。
 しかるに、筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』の記事にも同様の記事があって、そこには、「寛永二十年、武州六十歳、肥後国岩戸山に登り、観世音菩薩を礼拝し、仏前において、天道と観世音を鏡として、十月十日の寅の一天に筆を執って、兵書五巻を記された。地水火風空と号す」とある。これは五輪書の文言を要約したにすぎないが、省略が文脈を冒して意味を変形する事例である。
 ともあれ、五輪書冒頭の記事を見て、武蔵は岩戸山に登って五輪書を書いたというイメージが、肥後でも筑前でも、十八世紀前半には発生していたのである。五輪書の記事に発する誤解釈の産物である。




*【五輪書】
《兵法の道二天一流と號し、數年鍛練の事初めて書物に顯さんと思ふ。時寛永二十年十月上旬の頃、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拜し觀音を禮し佛前に向ふ》
《此一流の見たて、實の心を顯す事、天道と觀世音を鏡として、十月十日の夜寅の一天に筆をとつて書初るものなり》(地之巻)


天保国絵図
岩戸山と熊本市中




*【顕彰会本宮本武蔵】
《城西岩殿靈巖洞は、古より有名なる勝地なるが、武藏は時々こゝに籠りて、座禅修行せり。彼の兵法の秘書五輪書も、即ち此にて著はしゝなり》



岩戸観音 霊巌洞




*【丹治峯均筆記】
《寛永二十年、武州六十歳、肥ノ後州岩戸山ニ登リ、觀世音菩薩ヲ拜シ、佛前ニ於テ、天道ト觀世音ヲ鏡トシテ、十月十日ノ寅ノ一天ニ筆ヲ執テ、兵書五巻ヲ記サル。地水火風空ト号ス》
 ところで、これに関連してひとつ言及しておくべき資料がある。それが、なんと、兵法書を書くため岩戸山にやってきた武蔵が書いた、という設定の文書(島田美術館蔵)。
 その内容をみるに、――兵法書物の事を仰せ付けられたので、このたび岩戸山に参り、自分が生涯工夫鍛練してきたことなどを、おおかた書き表すためにやってきたので、武芸を嗜む方々、そのほか諸芸諸能の道理を心がける人々、または儒者・仏者に至るまで、この道に疑問のことなどがあれば、尋ねに来られるのは本望だからかまわないが、もし見舞い(面会)だけというのなら、(執筆の邪魔になるので)どうか勘弁していただきたい、以上――というわけである。
 これは「宮本武蔵覚書」と呼ばれているが、どういう覚書というのか、これでは不審である。この文書には宛先は何もないので、体裁からして書状ではない。たとえば岩戸山の登り口に、札でも掲げて、来客にこういう断わりの趣旨を告知したという格好である。したがって「宮本武蔵面会謝絶文」とでもした方がよさそうである。
 ところで、文中、兵法書物の事を仰せ付けられたとある。この「兵法書物」がいわゆる三十九ヶ条兵法書のことだとすれば、仰せ付けられたとあるのは、だれの仰せかといえば、このケースでは殿様の細川忠利以外にはない。日付は十月八日とあるので、これは武蔵が肥後へやってきた寛永十七年(1640)のことであろう。なぜなら、翌年の十月には忠利はすでにあの世の人だからである。
 あるいはまた、「兵法書物」というのが五輪書のことだとすれば、仰せ付けられたとあるのは、このケースでは殿様の細川光尚が命じたという以外にはない。日付は十月八日とあるので、これは武蔵が五輪書執筆に入った寛永二十年の十月ということになる。
 すると、この文書によるかぎりにおいて、五輪書は細川光尚の命によって書かれたということになる。そこで、五輪書は細川光尚の命によって書かれたとする説が今日一部で行われている。むろん、それは、この文書の作成者が、五輪書を権威づけるために設定したことであって、これを武蔵本人が書いたと見ないかぎり、そういうナイーヴな解釈にはならない。
 日付をみると、十月八日。これは五輪書の、十月十日に執筆開始という記事を知っている者の仕業である。ともあれ、これは霊巌洞伝説の物質化である。武蔵が五輪書を霊巌洞で書いたという伝説が、このように具体的な文書となって出現したのである。伝説は自然発生的だが、こういう伝説の物質的生産は、むろん作為によるものである。



島田美術館蔵

*【新免武蔵岩戸山文書】
兵法書物之事依被仰付、今度岩戸山ニ参、我等一代工夫鍛練仕儀共、大形為可書顕罷越候儀者、武藝御嗜之旁、其外諸藝諸能之道理、御心懸之人々、又ハ至儒者佛者、此道不審之事共於在之者、御尋可為本望候。若我等御見舞一遍之儀ニ候者、御用捨可被成候。以上
            新免武蔵
   十月八日      玄信[花押]》
 あるいはまた、興味深いことに、武蔵が霊巌洞で五輪書を書いたという記事は、『武公伝』後継の『二天記』にはない。そもそも五輪書に関する記事は『二天記』には一回しか出てこない。これは、五輪書に対する『武公伝』と『二天記』のスタンスの相違である。
 つまり、『二天記』作者の豊田景英は、五輪書の兵法伝書としての価値を認めるに抵抗があったのである。というのも、景英が村上八郎右衛門の弟子だとすれば、これは寺尾求馬助→新免弁助の伝系に属するものである。すると、寺尾求馬助が伝授された兵法書が本来の伝書で、寺尾孫之丞が授かったという「五輪の巻」は、求馬助が関与していない以上、正統な文献とは認めがたい。しかも、五輪書そのものが偽書かもしれないという党派的視座による疑義も、当時二天一流内部で生じていたのである。
 これに対し『武公伝』の橋津正脩は、寺尾孫之丞→堤次兵衛という孫之丞系統に属する。したがって、正脩にとっては五輪書は一流相伝の最も重要な伝書であって、むしろ寺尾求馬助が授かったという兵法書よりも価値が高い。あるいは、豊田正剛はどうかというに、正剛の世代ではそういう党派的なスタンスはみられない。むしろ豊田正剛は、武蔵流文献の研究者であったことにもよるが、武蔵流伝書に対しどれも尊重するというオープンなスタンスをとっている。したがって、五輪書に対する景英のスタンスは、十八世紀中後期の村上派の党派的偏向によるものだとみてよい。
 なお、『武公伝』に「剣術五輪書」とある。これは、「五輪書」という名の早期の出現である。このことを確認しておくべきであろう。つまり、もともと武蔵は兵書五巻を「五輪書」とは命名せずに残したが、「五輪書」というタイトルは後人による通称である。『武公伝』をみるかぎりにおいて、十八世紀中期にはこの名が生じていたと知れる。ただし、『二天記』では「五輪の巻」と呼んでいるから、「五輪書」というタイトルはまだ確定したものではなかったようである。
 他方、筑前ではこれを「五輪書」と呼ばなかった。上記のごとく『丹治峯均筆記』には、これを「兵書五巻」と記している。武蔵は五巻の兵書を書いて、それぞれの巻を「地水火風空」と呼んだという。つまり「地水火風空」は、地之巻、水の巻…という諸巻の名称である。したがって、筑前系の『丹治峯均筆記』によるかぎり、五巻全体を呼ぶ「五輪書」という名はまだ生じていない。
 筑前では武蔵流兵法を二天流と称するが、その道統では、この兵書五巻を伝授するのが、相伝の証しとなっていたようで、それだけに、肥後とちがって、兵書五巻の重要性は極めて高い。それゆえ、筑前では、五巻の兵書に「五輪書」という名がなかったことは、注意されてよい。また、筑前と肥後におけるこの相違にも注意しておく必要がある。
 肥後系伝記の『武公伝』には、これを「剣術五輪書」と記しており、「五輪書」の名は、肥後の武蔵流末内部から発生した通称である。しかし「剣術五輪書」というのも、いささか奇異な呼称である。武蔵の記述語彙からすれば、「剣術」五輪書ではなく、「兵法」五輪書とあるべきだろう。
 しかし、この「剣術」五輪書という呼称にも理由はありそうである。というのも、五輪書は剣術中心主義とは無縁ながら、それでも剣術を主題にした教本である。他方、武蔵流兵法は剣術以外の諸武芸を含む。橋津正脩が寺尾孫之丞の系統だとすれば、剣術以外の諸芸術を含む武蔵流兵法のイメージが強かったにちがいない。そこで、剣術を主として語る五輪書の内容から、それを「剣術」五輪書としたのであろう。
 では「五輪書」という名はどの段階で出てきたのか。橋津正脩とほぼ同じ世代の志方半兵衛は、これを「兵法得道書」と呼んでいる(兵法二天一流相伝記)。志方半兵衛は求馬助正系であり、熊本の武蔵流兵法主流である。二天一流の嫡流を主張するその志方半兵衛の周辺に「五輪書」の名はまだないということは、これは熊本ではなく、八代発生かもしれない。
 「五輪書」という名の初出は、資料不足のため確定はできないが、さしあたりは、野田派伝書にある豊田正剛関連の文書であろう。一つは「二天一流兵法書序鈔」(宝永四年・1707)にみえる「五輪書目」という語、あるいは「二天一流兵法書目註解」の奥書(享保六年・1721)である。そこには、兵法書三十九ヶ条を潤色し、分けて五巻とし、題して「五輪書」という、これを解釈して意味をとれば、「地水火風空」である云々の記述がある。正剛の認識と解釈は別にして、こうしてみると、宝永あるいは享保という時期、豊田正剛の世代で、「五輪書」という通称の存在が確認できるのである。
 志方半兵衛の『兵法二天一流相伝記』は寛保二年(1742)の著述であるから、この豊田正剛の文書よりも数十年後の記事である。これからすると、熊本では、それから何十年経っても「五輪書」という名はなかった。とすれば、これはどうやら、八代ローカルの名称発生ではないか、というところである。だが、この点に関し判断はいまだ早計であって、地元のさらなる資料発掘を待ちたい。  Go Back




永青文庫蔵
肥後系五輪書 細川家本












九州大学蔵
筑前系五輪書 吉田家本












*【兵法二天一流相伝記】
《六十歳の頃、兵法得道書を、当国城西の霊岩洞にて書顕。五巻[序地水火風]、是則一流の伝書なり》

*【二天一流兵法書序鈔】
《因テ其作為スル五輪書目ノ参学ニ於ケル所、又古人ノ詩句ノ此道ニ意味ヲ擬ス可キ所ヲ見ルニ、筆力精研文義惟肖》

*【二天一流兵法書目註解奥書】
《モト武翁著シテ云所ノ書ニシテ、一巻凡ソ三十有九件有リ。且之ヲ潤色シ頒テ五巻ト爲シ、目シテ五輪書ト云フ。是釋シテ義ヲ取、地水火風空》
 
 (2)序ハ春山和尚ニ雌黄ヲ乞フ
 五輪書の序文に関する記事である。しかも、れいの春山和尚がここでも登場し、武蔵の序文に添削を加えたという逸話を記す。文中「雌黄ヲ乞フ」とある「雌黄」〔しおう〕とは、添削訂正するの意である。
 雌黄とは、本来は硫化砒素を成分とする黄色塗料のことで、書字の誤りをこの雌黄で塗りつぶして訂正した。砒素を含むから雌黄には毒性もある。周知のごとく、『晋書』(王衍伝)に、《義理有所不安、随即改更、世号口中雌黄》とある。これは西晋の王衍が、意見をすぐ訂正するので、「口中雌黄」の異名をとったという逸話である。
 さて、『武公伝』の記事だが、現存五輪書写本には、ここにいう「序」に相当する文書はない。とすれば、これはどういうことであろうか。五輪書に序文などあったのか。これは従来の武蔵研究では未開拓の問題なので、以下、この点についてしばらく検討して、先鞭を付けてみよう。
 十八世紀中期の肥後では、五輪書に序文があるということになっていた。たとえば、志方半兵衛之経の『兵法二天一流相伝記』は寛保二年(1742)の日付があるから、『武公伝』よりは早いが、ほぼ同時代の著述である。それには、武蔵が「兵法得道書」を霊巌洞で書き著した、これが五巻で、「序地水火風」と割註し、是れ則ち一流の伝書なり、とある。要するに、志方半兵衛のいう「兵法得道書」の構成は、地水火風空の五巻ではなく、序と地水火風の五巻なのである。すなわち、空之巻を欠く構成であって、その代りに序があるというわけである。
 どうしてこういう事態になったのか。それは空之巻が幽霊文書になる理由があったからである。というのも、寺尾孫之丞が交付した相伝文書に、空之巻はその所存のほどを明らかにされなかったから、地水火風の四冊をしっかり学べば、という趣旨の文言があるからである。
 承応二年(1653)に寺尾孫之丞が柴任美矩にあたえた相伝文書は、肥後系ではなく筑前系の五輪書(吉田家本)付属文書だから、これがこの問題の客観的な史料となるが、それには、――空之巻は、玄信公(武蔵)が長期の病気であったため、その所存のほどを明らかにされなかった。しかるに、(地水火風の)の四冊の書の理をあきらかに得道して、(道理を得て)道理を離れることができたなら、おのづから空の道にかなう、とある。
 同様にして、肥後系五輪書の楠家本には、寛文八年(1668)に寺尾夢世(孫之丞)が槇嶋甚介へ与えた相伝証文があって、そこにもほぼ同様の内容が記されている。ただし、これは後人の手が入った気配のある文章であり、また奥書には妙なところに「新免武藏守玄信」の名が記してあって、まことに体裁の整わぬ楠家本であって、これは不審とせざるをえない。
 となると、他の類似伝書も合わせてみておく必要があろう。すなわち、一つは、野田派伝書(二天一流秘伝集)の添付文書、野田一渓は慶安四年十一月に寺尾孫之丞が浦上十兵衛に相伝したとする。もう一つは、前者と年月日が同じだが、寺尾求馬助が出したというかたちの相伝証文。














*【兵法二天一流相伝記】
《六十歳の頃、兵法得道書を、当国城西の霊岩洞にて書顕。五巻[序地水火風]、是則一流の伝書なり》






*【吉田家本五輪書相伝証文】
《令伝授地水火風空之五卷、~免玄信公予に相傳之所うつし進之候。就中空之卷ハ、玄信公永々の病気に付テ所存之程あらはされず候。然ども四冊之書の理あきらかに得道候て、道理をはなれ候へバ、おのづから空の道にかなひ候。我等数年工夫いたし候所も、道利を得ては道利をはなれ、我と無爲の所に到候。只兵法はおのづからの道にまかせ、しづか成所うごかざる所に自然とおこないなし、豁達して空也。実相圓満兵法逝去不絶、是は玄信公碑名にあらはしおかるゝもの也。能々兵の法を可有鍛錬也。以上
 承應二年十月二日 寺尾孫丞信正
                  在判 》
楠家本相伝証文 野田一渓伝書 稼堂文庫本相伝証文
右地水火風空乃五冊ハ、玄信公若年より兵法に心をよせ、数度のしあひに勝利を得、諸藝諸能のミちまで鍛錬し、六十有余にして此書を書し、未後に及、予にさづけらるゝ書籍也。然によつて、空の卷ハ所存のほどかきあらはされず。兵法乃道にいたつて、地水火風の四冊の卷を一字一字に執行し、道利を得てハ道利をはなれ、格を用ゐてハ格をはなれ、をのづから兵法をはなれ、有にあらず無にあらず、眞の道たるこそ、實相圓滿兵法逝去不絶、碑文の心に通ずべし。空といふにいたつてハ、豁達して空也。絶學無爲の所なるべし。右にあらはすごとく、末後に及て擇書たるによつて、天下に此書乃傳を得たる人なし。然に、貴殿依執心、今書写所令傳授也。弥朝鍛夕錬して兵法眞の道に達し、傳の道におゐてハ、極まつてきはまざるところをもちゐ、乃ぞミ乃やから於有之は、おのづからまことの道にいたるやうに可被相傳者也
             新免武藏守玄信

 寛文八年五月日 寺尾夢世[花押印]
      槇嶋甚介殿

右地水火風空之五冊は、玄信公若年より兵法に心をよせ、数度之しあひニ勝利を得、諸藝諸能之道鍛錬し、六十有余にして此書を書し、末後ニ及、予にさづけらるゝ書籍也。然によつて空之巻は所存之程書顕されず、兵法之道ニ至てハ地水火風之四冊の巻を一字一字執行し、道理を得てハ道理を離れ、格を用ゐてハ格を離れ、おのづから兵法をはなれ、有にあらず無にあらず、真の道たるこそ、実相圓満兵法逝去不絶碑文之心に達すべし。空をいふに至てハ豁達して空也。絶学無爲之所なるべし。右に顕す如く末後におよびて撰書たるニよつて、天下に此書を得たる人なし。然に貴殿依執心、今書写令所伝授也。弥朝鍛夕錬して兵法誠之道に達し、伝之道におゐてハ極まつて極まらざる所を用ひ、望のやから於有之ハ、おのづから真の道に至る様ニ可被相伝者也
  慶安四年十一月五日
         寺尾孫丞勝政[花押]

右地水火風空之五冊者、玄信若冠ヨリ兵法之道ニ心ヲ寄ラレ、数度ノ仕合ニ勝利ヲ得給ヒ、諸藝諸能ノ道マデ鍛錬シ、六十有余ニシテ此書ヲ書シ給ヒ、未期ニ及テ、予ニ授ケラレシ書籍也。然ルニ依テ、空ノ卷ハ粗書アラハサレズ。兵法ノ道ニ至テハ、地水火風ノ四冊ノ卷ヲ一字々ニ修行シ、道理ヲ得テハ道理ヲ離レ、格ヲ用ヒテハ格ヲ離レ、オノツカラ兵法ヲ離レ、有ニアラズ無ニアラズ、直ノ道タルコソ、實相圓滿ノ兵法、逝去不絶、碑文ノ心ニ通ズベシ。空ト云ニ至テハ、豁達シテ空也。絶学無為ノ所ナルベシ。右アラハスゴトク、末期ニ擇置レタルニ依テ、天下ニ此書傳ヲ得タル人ナシ。然ルニ、貴殿ノ依執心、書写シ所令傳授也。弥朝鍛夕錬シテ、兵法ノ誠ノ道ニ達シ、傳ヘノ道ニ於テハ、極テ極ラザル所ヲ思ヒ、望ノ族於有之者、自ラ直ノ道ニ至ル樣ニ可被相傳者也
  慶安四年十一月五日
            寺尾求馬助
              信行[花押]

 写本の表記のブレは別にすれば、不思議なことに、この三本の文章は同じである。寛文八年(1668)の楠家本の前に、慶安四年(1651)の二本があって、この十七年前のものも同じ内容である。それぞれオリジナルから写したものだとすれば、これはありえないことである。
 それゆえ、慶安四年十一月五日の日付をもつこの文書は、書写されて世間に流布していたものらしい。この文書が世間に流出して、稼堂文庫本のような求馬助発給という珍形態をとったり、あるいは楠家本の奥書に、日付はすり替えて納まってみたりしたのであろうと、一応は考えられる。
 つまり、慶安四年十一月五日付の五輪書発行は、浦上十兵衛へのものである。これは、――原本でなく写本で、しかも風之巻のみの欠本ながら――、寺尾家旧蔵本五輪書(現・島田美術館蔵)の奥書で確認しうる。しかるに、野田一渓がこれが浦上十兵衛宛のものだとして提示する相伝証文は、これも写しであり、しかも宛先をもたないので問題が残る。浦上十兵衛宛なら、ここにその名が明記してあったはずだからである。
 そうなると、これは浦上十兵衛宛だという伝承を野田一渓が信じたという以上のものではなく、はなはだあやしい文書である。これが稼堂文庫本のような形をとるまでになっていたことを思うと、世間に流通していた文書のようで、野田一渓は十八世紀中期のある段階でそれを入手したのである。
 となると、この系列の相伝証文の史料的価値は、吉田家本のそれに比して、かなり低いと評価せざるをえない。しかしながら、このヴァージョンにおいて、吉田家本とほぼ同趣の内容があることは確認されてよい。つまり、
 ――地水火風空の五冊は、玄信公(武蔵)が六十有余にしてこれを書し、末期に及んで孫之丞に授けた書籍である。末期に及んで授与されたので、空之巻は所存のほどを書きあらわされなかった。そこで、地水火風の四冊の書巻を一字一字執行(修行)し、道理を得ては道理を離れ、おのづから兵法を離れて(自由になり)、有にあらず無にあらず、まことの道たるこそ、實相圓滿兵法逝去不絶の碑文の心に通じる。空というに至っては、豁達して空也。絶学無爲の所なるべし、とある。
 このように、末期に及んで授与されたので、空之巻は所存のほどを書きあらわされなかった、そこで、地水火風の四冊の書巻を一字一字執行(修行)し、道理を得ては道理を離れ、というあたりは、吉田家本とほぼ同趣の内容である。
 空之巻は序文のみで本文を欠くのだから、ダイレクトなアプローチができない特殊な書巻である。言い換えれば、地水火風の四冊を厳密に学び、しかもその道理から自由になることを通じて、空の何たるかを得ることができる。孫之丞がこのようなことを書き記したので、肥後の武蔵流末孫は、現実にアプローチしうる地水火風の四冊をもって具体的な相伝書巻とするようになったものらしい。
 かくして、五輪書には「地水火風空」の五巻ではなく、志方半兵衛(兵法二天一流相伝記)が記したように「序地水火風」五巻というヴァージョンが肥後に存在したのである。これを筑前系二天流からみれば、形式の整わない伝系だということになる。というのも、筑前の二天流では、空之巻における武蔵の宿題、その「空」をいかに了解し去るか、その空意悟達が相伝のポイントなのである。そこからすれば、空之巻を欠如した兵書五巻では、とうてい「一流の伝書」とは云えないということになろう。
 しかるに、志方半兵衛は、寺尾求馬助の孫である。すなわち、求馬助の三男・藤次玄高の息子であり、嫡子ながら、志方家へ養子に入った人である。志方半兵衛は叔父の新免弁助信盛に学んだ。新免弁助は求馬助の五男で、武蔵の兵法者としてのフォーマルな氏姓、新免氏の名跡を継いだ。つまり武蔵二代目である。志方半兵衛はこの叔父に学んだが、元禄十四年(1701)弁助が死ぬと、実父藤次に再伝を受けた。それゆえ、志方半兵衛には、武蔵の二天流兵法に諸師数多あれど、自分こそは正系嫡流なり、という意識があった。その志方半兵衛にして、空之巻を欠如した兵書五巻をもって、「一流の伝書」としていたのである。
 おそらく、五輪書を握っていた寺尾孫之丞は、弟の求馬助に、地水火風の四巻は写させても、空之巻は写させなかったのである。そのために、求馬助系統は不完全な五輪書しか伝承できなかった。あるいはそのうち、求馬助系統では、五輪書に対するネガティヴな見方が生じた。それは五輪書はなくとも、我が方が正統だというために、寺尾求馬助が息子の弁助に武蔵の新免家を継がせるという、一種の政治的策動にまで及んだのである。
 これに対し『武公伝』の橋津正脩は、寺尾孫之丞→堤次兵衛の伝系である。したがって、五輪書が地水火風空の五巻だというわけである。また、それより前の世代である豊田正剛は、寺尾求馬助→道家平蔵→豊田正剛と下る求馬助系統だが、いわば傍系である。しかしながらその正剛も、五輪書を地水火風空の五巻だとする。
 すなわち、「二天一流兵法書目註解」には豊田正剛による奥書(享保六年・1721)があって、「地水火風空」の構成を示す。豊田正剛は、五輪書は、兵法書三十九箇条を潤色し頒って五巻としたものだ、と述べているが、それは求馬助系統で生じたタメにする伝説で、五輪書を貶めるためのプロパガンダであり、もとより根拠なき説だと言わねばならない。いうまでもなく、五輪書は、普遍的な教本として書かれたもので、流派内部の三十九ヶ条兵法書とは異なる系列の著述であるからだ。
 それはともかくとして、豊田正剛にとっては、五輪書は「地水火風空」五巻構成であることに注意したい。同じ求馬助系統でも、豊田正剛の理解は、志方半兵衛とは内容が違うのである。
 しかるに、『武公伝』の後出記事には、正保二年五月十二日、末期の武蔵が、五輪書を寺尾孫之丞に、三十九箇条兵法書を寺尾求馬助に相伝し、同日自誓の書を書いたという話を記して、この註記に、五輪書序、武公奥書、孫之丞ヘの相伝の書、自誓書が、いま豊田家に保存されているとある。
 これは「豊田家」にありと記すから、正脩ではなく、その子・豊田景英が書いた補註記事である。ここから、「五輪書序」とは、正剛や正脩ではなく、景英の段階で出現した名称ではないか、と見当がつくのである。
 とすれば、『武公伝』のこの部分、つまり《序ハ龍田山泰勝寺春山和尚[泰勝寺第二世也]ニ雌黄ヲ乞フ》以下の部分は、景英による増補記事である。




野田派伝書 二天一流秘伝集
寺尾孫丞勝政名相伝証書
慶安四年十一月五日付


























*【寺尾氏略系図】

○寺尾佐助 勝永 ─┐
 ┌───────┘
 ├九郎左衛門 勝正 喜内
 |
 ├孫之丞 信正 勝信 夢世
 |
 └求馬助 信行 後藤兵衛─┐
 ┌───────────┘
 ├佐助 信形
 |
 ├新助 信景
 |
 ├藤次 玄高 ―半兵衛 志方之経
 |
 ├弁助 信盛 後改新免
 |
 ├加賀助 勝明
 |
 └郷右衛門 勝行

*【兵法二天一流相伝記】
《二天流數多有之と雖、新免辨助、武藏二代、寺尾藤次流儀令相傳より外、以心傳心の相受の者無之、此兩人に限る。外を以て求る事なし。予實は寺尾藤次の嫡子、伯父辨助に、一流の相傳受、辨助病死以後、實父藤次に再傳を得、二天一流の奥儀、全雖令相傳、不敏にして其徳を不得。雖然、爲後來、其記を誌し、祖流の傳無誤、所任天照鑑者也》



*【二天一流兵法書目註解】
《此一書吾筑州公修ル処ノ劔術ノ真訳也。公壮年此術ヲ新免武蔵直弟寺尾夢世ニ伝フ。モト武翁著シテ云所ノ書ニシテ、一巻凡ソ三十有九件有リ。且之ヲ潤色シ頒テ五巻ト爲シ、目シテ五輪書ト云フ。是釋シテ義ヲ取テ地水火風空




*【武公伝】
《正保二年[乙酉]五月十二日、五輪書ヲ寺尾孫之亟勝信[後剃髪、夢世云]ニ相傳在。三十九ケ条ノ書ヲ寺尾求馬信行ニ相傳ナリ。同日ニ自誓ノ書ヲ筆ス。[五輪書序、武公奥書、孫之亟ヘ相傳書、自誓書、今豐田家ニ在リ]》
 ところで、豊田家にあるという「五輪書序」なる文書がいかなるものか。それは直接には確認できない。現存五輪書写本の主たるものいづれも序文をもたないからである。上述の、志方半兵衛のいう「序地水火風」五巻ヴァージョンの五輪書でも発見されたら、それが知れようが、現段階では、この「五輪書序」については、これ以上の穿鑿はできそうにない。
 しかるに、そこをあえて穿鑿してみれば、それは三十九ヶ条兵法書諸本にある漢文の序がそれではないかと、推測できないことはない。そうなると、これは、「二天一流兵法書序鈔」(宝永四年・1707)にみえる豊田正剛が註解を試みている文章と同じものである。豊田正剛は、これを「二天一流兵法書序」として、註解しているのである。
 他方、「五方之太刀道序」という文書がある(熊本県立美術館蔵)。これは豊田正剛が註解した文章とほぼ同じ内容である。違うのは、これには「五方之太刀道」という末尾題目のあることである。この文章をみるかぎり、これは序文であって、とすれば「五方之太刀道」という文書の本文がなければならないはずである。ところが、それは存在しない。しかも、豊田正剛が註解した二天一流兵法書序の方には、「五方之太刀道」という末尾題目はないし、また他の兵法書序文にもそれはない。

熊本県立美術館蔵
五方之太刀道序

 要するに、この文書にのみ記されている「五方之太刀道」という末尾題目の納まり具合が悪い。そこで、この文書は、書筆は古型を模しているが、その内容をみれば、この末尾題目は後世の蛇足ではないか、という可能性もある。となると、豊田正剛が註解した二天一流兵法書序以前にこの文書があったかとなると、それは恠しい。
 しかも、五方之太刀道序には、明らかに誤写と思われる箇処も、いくつか散見される。つまり、五方之太刀道序なる文書そのものが写本なのである。他の兵法書序文の方が正確な写本である。それゆえ、今日これを武蔵自筆とみなす者があるが、我々の所見ではその可能性はまずありえない。
 とすれば、五方之太刀道序を一次史料もしくは初期写本と扱うことはできない。むしろ他の三十九ヶ条兵法書序文に拠るべきである。そこで、序文の形式をもつこの文章そのものが、そもそも、どういう本文に対応するものだったのか、を問わねばならない。
 まず、この序文内容から本文内容を想定してみるに、それは、武士の道まで言及する五輪書のような兵法教本ではない。言い換えれば、五輪書よりももっと狭義の兵法書、剣術教本であっただろう、という見当がつく。そうしてみると、『武公伝』のいう「五輪書序」はこの文章ではなかろう。
 そこまでたどってくると、この文章は、五輪書ではなく、三十九ヶ条兵法書の序文であろう、ということになる。となると、『武公伝』のいう「五輪書序」は、これとは違う文章で、今日の我々にとって未知の資料ということになる。
 しかるに、豊田正剛の「二天一流兵法書序鈔」を見るに、これは五輪書の序文ではなく、「二天一流兵法書」、つまり三十九ヶ条兵法書の序文なのだが、そこに豊田正剛が書いているところでは、『武公伝』に書かれているところの、五輪書序にからむ春山和尚の逸話と同じ話が記されている。
 とすれば、孫の景英の段階で、この二天一流兵法書序の逸話を、「五輪書序」のそれと誤認して流用したのである。そうなると、話は却って簡単で、景英がこれを「五輪書序」と看做しただけで、とくに今日の我々にとって未知の資料というものは想定しなくてもよい、ということになる。
 一方、それでは、そもそも五輪書に序文があったか否か、という問題がある。たしかに、志方半兵衛によれば、五輪書に序文があるということである。景英が「五輪書序」があるというのは、求馬助系統の伝承に拠ったものであろう。
 しかし、それは、十八世紀半ばの肥後の人間の認識である。それより約一世紀遡った武蔵末期のとき、五輪書に序文があったという証拠はどこにもないのである。つまり、現存五輪書写本には、序文は付されていないのである。
 肥後ローカルの五輪書では、後世序文が散佚してしまった可能性があるとすれば、他地域の伝書を見ればよい。幸い、肥後ではなく、筑前に伝わった五輪書諸本がある。これを見れば、それは寺尾孫之丞から柴任美矩へ伝授したものなので、承応二年(1653)段階での五輪書の形態が知れる。では、それはいかなる形式であろうか。
 むろん筑前系の五輪書は、「地水火風空」の五巻構成であり、しかも序文は存在しないのである。これに納められている寺尾孫之丞相伝証文(右再掲)には、《令伝授地水火風空之五卷、~免玄信公予に相傳之所うつし進之候》とある。したがって、『武公伝』のいう「五輪書序」なる文書は、少なくともそれ以降のある時点で、肥後で沸いて出た後世の作成物、もっと特定すれば求馬助系統から発生した偽書であろう。

 興味深いことに、上記の「二天一流兵法書序鈔」を見るに、豊田正剛の当時、この序文が偽作だという言説が、すでに出ていたらしい。つまり、「五輪書序」と同一内容と思われる「二天一流兵法書序」に偽書説があったのである。おそらくこの序文の出現のいかがわしさは、世間のだれもが感じるところであったのであろう。
 豊田正剛はこの文書を弁護しているのだが、その論説は、この漢文の序は武蔵の述作ではなく、だれか学者の偽作だろう、という意見に対する抗弁のみで、文書発掘に関する書誌学的言及ではない。つまりは、豊田正剛には、この文書が出現した経緯についての情報はなかったようである。
 ようするに、偽作説というのは、この漢文の文章が、剣術修行に明け暮れていた武蔵の作文にしては文芸の教養がありすぎる、だれか学者の偽作だろう、ということらしい。ところが実際には、この序が多く参照しているのは『史記』等の故事である。それも当時世間周知の故事で、この程度なら、文芸の教養がありすぎる、というほどのものではない。当時一般の武士の教養水準と大差ないもので、ある意味では通俗的な知識のレベルである。
 豊田正剛の設問も抗弁も、そういうことからすれば本質的なものではない。ただし、注目すべき点がある。すなわち、豊田正剛が、これは武蔵が書いた文章だという反証として挙げるところに、自分は嘗てひそかに聞いたことがあるとして、『武公伝』のこの部分にあるのと同じ、春山和尚添削の逸話を記しているのである。
 つまり、文芸の教養がありすぎるから偽書だろうという説に対して、いやこれは春山和尚が添削したんだ、という抗弁である。それはたとえば、武蔵の画だというには上手すぎる、これは余人の作だろうというのに対し、いや武蔵は矢野三郎兵衛に画の指導を受けたんだ、と抗弁するに等しい。このかぎりにおいて、豊田正剛はくだらない議論に巻き込まれていたということになる。
 そうしてみると、『武公伝』のこの部分の春山和尚伝説は、この「二天一流兵法書序」偽書説への反論形成という背景があったということになる。つまり、これは豊田正剛の当時までに八代で形成された伝説である。それを景英は「五輪書序」の逸話として『武公伝』に収録した。ただし、偽書説への抗弁という局面は削除して。
 したがって、この「五輪書序」添削逸話に関するかぎり、泰勝寺二世の春山ではなく、開山の大淵和尚が正しいと、訂正してみても始まらない。それは、武蔵が「五輪書序」を書いたと想定し、また大淵であれ誰であれ、武蔵が推敲を依頼して文章を添削してもらった、という伝説を鵜呑みにするにすぎない。それでは、十八世紀の武蔵流末と同じ振舞いである。
 五輪書地之巻冒頭に、武蔵が記すところでは、《今此書を作ると云へ共、佛法儒道の古語をもからず、軍記軍法の古きことをも用ひず》とある。もともと武蔵には、『史記』の故事のような「軍記軍法の古きこと」など引用するつもりはないのである。したがって、「五輪書序」のような文章を、武蔵が五輪書序文として書くわけがない。――まさにそれが偽作説の本道であろう。
 根本的な要点は、武蔵が五輪書のためにこうした漢文「序」を書かなかった、という事実である。ならば、武蔵が書かなかった「五輪書序」を添削する者も、実際には存在しないのである。それが居るとすれば、春山和尚伝説のファンタジーの中にしか存在しないのである。
 注意すべきは、豊田景英が『二天記』では、『武公伝』のこの五輪書序添削逸話を継承せず除外していることである。『二天記』は『武公伝』の春山和尚伝説を継承して収録している。ところが、この五輪書序添削の話は削除しているのである。
 つまり、景英は『武公伝』に書き込んだ自説を、『二天記』では撤回した。これは、五輪書序添削逸話が、伝説として不発だったということである。ようするに、武蔵伝説は、まだこの段階では、かようにも流動的だったのである。  Go Back




野田派伝書
二天一流兵法書序鈔 奥書
宝永丁亥仲夏 豊田又四郎正剛



*【兵法書序文】
兵法之爲道、偶敵相撃利得于己、則三軍之場亦可移、何有町畦。而非面決戦、勝慮前定、有所待哉。其道可迪而不可離、其法可準而不可膠也。秘而不藏、辯而屡明、攻堅後節。洪鐘有撞、唯入堂奥而獲。本朝中古、渉藝唱此法者、有數十家。爲其道、恃強而擅疎暴、守柔而嗜細利、或偏于長、好于短也。構刀法託出數種、為表為裏。嗚呼、道無二致、何䝯謬哉。鬻邪貪名之儔、舞法衒術、眩矅世人。勝其狭少、則所謂有術勝無術、片善勝無善。足云道耶、無所一取。吾儕、潜精鋭思、陳于茲而初融會矣。夫武夫、行坐常佩二刀。願其用之便利。故道根二刀、二曜麗天、法樹五用、五緯拱極。所以斡轉乎、歳運衝拒乎、突起也。爲構、要有五法。時措有義、必非有操刀爲表奥。若夫一旦有故、則長短并挺。短非必長、則短而往敵。而短必亡、則徒手摶之。勝利無往不在吾也。至乃、尋不足而寸有餘。強可施而弱有設。皆欲不偏好、時執其中、而中者天下之正道也。我道斯規焉。或有間曰、㑪庸有知與否乎。趙括蹶秦、留侯佐漢。有智無智相較、則何有魚目之唐突隋珠。抑古将有曰、劔一人敵、而不學撃萬、又隘局也。達己目之、萬陣勝北、完城陥潰。顯然相形、猶示其掌。咨、疇其爲小、又大也。凡習者、諄々然誘、能有旁達。非易而誥。其求之、釋曲趨正、日鍛月煉、勵己積功、則~而符會。目撃可存。周旋刑道、服闇不愆。他期無有噬臍。而後能得。儻有手技卓絶、騁百巧之變者、其技惟谷。傳人則猶拾瀋也。独吾道、得心應手、而必有爲百世師。亞此之後有言道。必從吾道也。道同一軌、何多哉。縱夫厭舊吐新、舎夷路踰回徑也。天鑑非誇而大。此道可言如茲。唯有誠心与直通耳。因爲之序》
 (注意・unicode不表示文字あり)












*【寺尾孫之丞相伝証文】(再掲)
《令伝授地水火風空之五卷、~免玄信公予に相傳之所うつし進之候。就中空之卷ハ、玄信公永々の病気に付テ所存之程あらはされず候。然ども四冊之書の理あきらかに得道候て、道理をはなれ候へバ、おのづから空の道にかなひ候。我等数年工夫いたし候所も、道利を得ては道利をはなれ、我と無爲の所に到候。只兵法はおのづからの道にまかせ、しづか成所うごかざる所に自然とおこないなし、豁達して空也。
実相圓満兵法逝去不絶、是は玄信公碑名にあらはしおかるゝもの也。能々兵の法を可有鍛錬也。以上
  承應二年十月二日 寺尾孫丞信正
                    在判》




*【二天一流兵法書序鈔】
《此序玄信自ラ序スト有リ。或ハ疑フ、先生ハ播州ノ劔客新免無二ガ子ニシテ、ワカ丶リシヨリ兵術ヲ喜ミ、長ズルニ及テ、コノ道弥旺ニ修行シ、都鄙国々ヲ經回シ、是ヲ以テ生涯ノ業トセリ。然ニ此序多ク諸史ノ語ヲ引用シ、且文字略来歴有リ。知ラズ、何ノ暇有テカ、此文藝ヲ為シケン。蓋シ是他ノ学者ヲシテ偽作セシムル者ナラント。然トモ、余曾テ竊ニ之ヲ聞ケリ、先生肥陽ニ来テヨリ、泰勝寺ノ僧春山ニ参禅ス。而テ自ラ此序ヲ作テ郢斧ヲ乞フ。春山、コレニ斧鑿ヲ加フルトキハ、却テ其素意ヲ失ハン事ヲ憂テ、更ニ文躰法度ニ拘ラズ、唯文字ノ差誤セル所マデヲ改換ヘ、且其義理ノ近似ナル古語ヲ引用シテ之ヲ潤色スト。又先生ニ従テ方術ヲ習ヒシ者ノ言ヲ聞クニ、其ノ人トナリヤ、威儀重厚ニシテ、動作端正ナリ。毎ニ寂寞ノ中ニ處シ、書画或ハ連歌ヤウノ事ヲ弄シ、日ヲ過セシト也。因テ其作為スル五輪書目ノ参学ニ於ル所、又古人ノ詩句ノ此道ニ意味ヲ擬スベキ者アルヲ取テ書ル丶所ヲ見ルニ、筆力精研文義惟肖タリ。故ニ知リヌ、他手ヲ假ラズシテ、實ニ先生ノ沖襟ヨリ出シ事ヲ》

 
  22 武蔵発病
一 正保二年[乙酉]之春、武公病ナリ。府中ノ紛囂ヲ厭ヒ、岩戸ニ至リ、霊岩洞ノ裏ニ入リ、静ニ終命ノ期了セントス。(1)
 世上何カト奇怪ノ浮説アリ。寄之公、放鷹ニ詫〔託〕シテ岩戸ニ至リ、武公ヲ諌テ、再ビ千葉城ノ旧宅ニ歸ラシム。(2)
一 正保二年(1645)の春、武公は発病した。府中〔熊本市中〕の喧噪を厭い、岩戸に至り、霊巌洞の内に入り、静かに終命のときを迎えようとした。
 (武公が市中を去ったので)世上何かと奇怪の浮説があった。(長岡)寄之公は、放鷹にことよせて岩戸(山)へ行き、武公を諌めて、再び千葉城の旧宅に帰らせた。

  【評 注】
 
 (1)正保二年[乙酉]之春、武公病ナリ
 武蔵が致命的な病に倒れたときのことである。『武公伝』によれば、武蔵の発病は、正保二年(1645)の春。武蔵が死ぬのが五月だから、死の数ヶ月前ということになる。発病した武蔵は、府中〔熊本市中〕の喧噪を厭い、岩戸山へ行って、霊巌洞の内に入って、静かに死を迎えようとした――というのが『武公伝』の話である。
 これは、もう一つの霊巌洞伝説である。すなわち『武公伝』は、武蔵は肥後巌門(霊巌洞)で五輪書を書いた、などと記しているが、さらにここでは、武蔵は死病に際し、霊巌洞で臨終のときを迎えようとした、という別の霊巌洞伝説を語るのである。
 では、この『武公伝』の記事はそのまま鵜呑みにしてよいものかどうか。まず、結論から先に言えば、この『武公伝』の記事は事実とは違う。というのも、武蔵の発病は、正保二年の春ではなく、その前年である。発病の場所も、熊本市中ではなく、熊本からほど近い近郊の村である。
 こうしたことがどうして判るかというと、武蔵養子の宮本伊織と、長岡寄之ら肥後側の人々との往復書簡が残っていて、その書状内容から、武蔵の死の前後のおおよその状況が知れるのである。
 そこで、このあたりの事実経過を追ってみよう。――宮本伊織は、父の武蔵が肥後へ行ってしまったので、そばにいない。肥後で発病したと報せをうけて気を揉むのだが、小笠原家の老職にあっては、おいそれと他国へ出向くわけにはいかない。それで、武蔵の治療看護にあたって面倒をみている長岡寄之に宛てて礼状を書き、どうかよろしくと頼む。それが、(寛永二十一年)十一月十五日付の長岡式部少輔(寄之)宛宮本伊織書状である。
 この一連の書状には、当時の例にもれず、年記載がないが、これを我々は、武蔵が死んだ正保二年の前年、寛永二十一年(十二月正保改元)とする。というのも、日付が「十一月」だからである。これが正保二年なら、武蔵は五月に死んだから、十一月にはもうこの世にいない。そこで、我々は、この「十一月」を、正保二年ではなく、前年の寛永二十一年(1644)十一月とみなす、というわけである。
 宮本伊織(1612〜78)については、本サイトの諸処で言及されているから周知の人物であろうが、相手はどういう人物なのか。改めていえば、この伊織書状の宛先は、「長岡式部少輔殿」とあるから、長岡寄之(1616〜66)である。寄之は実は細川三斎(忠興)の六男、元和七年(1621)六歳のとき、松井興長の養子になった。興長に嗣子がなかったためであるが、この縁組で主家細川家と松井家の紐帯となった。養父・松井興長は忠興の旧姓・長岡姓を賜り、以後長岡を名のるようになる。
 長岡興長は細川家筆頭老職であったが、養子・寄之も、寛永十一年(1634)十九歳のとき老職就任、同十七年(1640)二十五歳で内政担当の若年寄と、藩政中枢にあった。かたや宮本伊織も、周知のごとく豊前小倉の小笠原家の首席老職である。武蔵発病の年、寄之は二十九歳、伊織は三十三歳、年齢からすればまずほぼ同世代の両人である。
 この十一月十五日付の長岡寄之宛宮本伊織書状に対して、十一月十八日付の宮本伊織宛長岡寄之書状案がある。書状案というのは手紙の下書き原稿で、それが肥後側に残ったのである。武蔵養子の宮本伊織から、十一月十五日付で長岡寄之へ武蔵病気看護の礼状がきた。それに応えて、より詳しい病状報告をしたのが、この寄之書状である。行間文があってやや輻輳しているが、その文面からは大よそ以下のことが知れる。
 そのとき武蔵は、熊本市中を離れて熊本近郊の村に住んでいた。書状のいう《御同名武州、熊本より程近在郷へ御引込候而被居候》である。そこで武蔵は発病したので、医者を派遣し治療にあたらせていた。しかし在郷の村では治療も十分にできない。そこで、家老の長岡興長・寄之の父子が、熊本へ戻って療養するように説得した。「拙者」というのは寄之で、「佐渡(守)」とは父の長岡佐渡守興長である。二人が使者を遣わして、武蔵に熊本へ戻るように説得していたのである。
 こういうあたり、武蔵が肥後へ来て逗留するようになった当初から、長岡興長がいろいろ世話を焼いていたようだが、武蔵発病というこの肝腎な時にも、このように面倒をみている。武蔵の病気治療の世話もしているのである。
 書状の後の方に書いているように、寄之は、武蔵が熊本へ来た時以来、とくに心安く話したりしていたので、武蔵が病いに倒れたとあって、いっそう深く関わるようになった。寄之の養父・長岡興長(文中、佐渡)は、いうまでもなく武蔵とは前々から久しく付合いがあったので、武蔵の病気をひとしお特別なことと思い世話している、云々とある。そして、以前から武蔵と付合いのある父の興長はむろん、寄之も武蔵と親しい間柄のようで、武蔵の病気治療には大変な気の配りようである。
 ところが、長岡興長・寄之父子が武蔵に熊本へ帰るように説得したけれど、武蔵はおいそれとは同意しない。長岡父子と云えば、細川家中ではその要請に従わない者はいないはずである。治療のため熊本へ戻ってくれという彼らの要請にも、武蔵がウンと言わない、というこの関係をよく見ておくことだ。武蔵は彼らを手こずらせるのである。ということは、別の意味では、彼らはよほど親しかったということである。
 武蔵はなかなか熊本へ帰らない。ますます病状は悪化する。そこでまた、長岡父子は、「是非とも戻ってほしい。遠くては治療の相談もできない。ケア(肝煎)しようにも、これではどうしようもないではありませんか」といって、戻るように督促する。殿様の細川光尚(文中、肥後)も、武蔵の病状にことさら気をつかって、医者なども度々派遣し、いろいろ治療にあたらせた。が、やはり、郊外の村にいては療養の指図もできかねるので、細川光尚自身も、武蔵に、熊本へ戻るよう、何度も云って寄こした。家老の長岡父子ばかりか、殿様の細川光尚まで、熊本へ帰れと再三説得したのである。そんなふうに皆を手こずらせたあげく、ようやく、一昨日(とあるから、十一月十六日)武蔵は熊本へ戻ってきた…。
 それで、寄之は伊織にいう、「病気治療には、いよいよ気をつけて油断なく看護するように指図しましたし、細川光尚(肥後)もお気づかいあり、医者なども付け置くよう申されていますので、ご安心ください。今のところ病状も安定しています」、云々――これが長岡寄之書状の内容である。なかなか叮嚀な中にも人柄の感じられる文面である。
 武蔵発病の時期は明らかではないが、以上の経緯を見るに、武蔵の発病から熊本へ戻る十一月中旬までの間、医師が派遣されるなどしていたようだが、少なくとも数ヶ月、あるいは半年ほど経過していたのではないかと思われる。とすれば、武蔵の発病は、寛永二十一年(1644)の秋か夏あたりであろう。
 『武公伝』の伝説を、この書状と突き合わせてみると、事実と伝説との相違がわかる。武蔵の発病は、正保二年(1645)春のことではなく、前年の寛永二十一年(1944)の夏または秋である。そして武蔵が居たのは、岩戸山のような遠い所ではなく、《熊本より程近在郷》、つまり熊本から近い在郷の村に引っ込んでいた。また武蔵が熊本市中に連れ戻されたのも、正保二年のことではなく、前年の十一月のことである。
 周知のごとく、武蔵の五輪書起筆は、寛永二十年(1643)の十月である。
   寛永二十年(1643)十月十日 五輪書起筆
   寛永二十一年(1644)夏または秋 熊本近郊の村で発病、治療をうける
   寛永二十一年(1644)十一月十六日 熊本へ連れ戻される
ということは、五輪書執筆にあたって、どのみち発病以前は一年足らず、筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』に、武蔵は五輪書を草稿のまま遺したとある記事も、首肯できる状況である。
 あるいは、発病ということが、病気を匿せなくなった状態だとすれば、それ以前から武蔵の体調に異変が生じていたのかもしれない。そのあたりを推測すれば、死を予感したから、五輪書を書き始めたのだろうと言える。寛永二十年(1643)十月上旬に、武蔵が岩戸山へ登って祈願した背景には、そんな死の予感があったのであろう。五輪書が武蔵の絶筆というよりも、その地水火風空の五輪塔を模した構成からすれば、書物としての墓碑たるゆえんである。  Go Back





霊巌洞




松井文庫蔵
長岡寄之宛宮本伊織書状

*【長岡寄之宛宮本伊織書状】
《未辱尊意候へ共、一筆致啓上候。然者同名武蔵煩申付而、養生之様子色々被為入御情被下候由承、恭次第可申上様無御座候。私儀不日罷越御礼等も申上度存候処、無據仕合御座候付而、存儘不罷成、背本意辛存候。武蔵儀常々御懇志御座候由承及候間、弥養生之御指図乍慮外奉憑存候。猶重而可得貴意候。恐惶謹言
          宮本伊織[花押]
   十一月十五日
      長岡式部少輔殿
           貴報 》



松井文庫蔵
長岡寄之肖像



松井文庫蔵
宮本伊織宛長岡寄之書状案

*【宮本伊織宛長岡寄之書状案】
《御同名武州、熊本より程近在郷へ御引込候而被居候處ニ、被煩成に付而医者共申付、遣薬服用養生被仕候へ共、聢験氣も無之ニ付而、在郷ニ而ハ万事養生之儀も不自由ニ可在之候間、熊本被罷出[御出候て]養生可然之由、拙者佐渡守[佐渡拙者]両人かたより申遣候へ共、同心無之候間、是非共出候へ、程隔候てハ養生談合も不成、肝煎可申様も無之与申遣ニ付而[然共肥後も殊外懇ニ被申、医者なとも度々遣被申、色々養生候て、在郷二而てハ養生之儀差図難被致候間、度々被罷出候様ニと被申ニ付而]一昨日熊本へ被罷出候。此上二而養生之儀、猶以肝煎無油断様ニ差図等可仕候間、(肥後も懇ニ存候て、医者なとも付置被申候間)可御心易候。気色相替儀も無之、此中同篇ニて候。貴様之儀、御見廻有度候へとも、其許思召儘ニ不成、無其儀御尤も(存上)候。養生之儀、随分肝煎可申候間、御気遣有間敷候。拙者儀、武州爰元へ被参剋より、別而心安咄申二付、ケ様之砌者、弥不存疎略候。佐渡守儀者、不及申、前々より久申通ニ付、一入無余儀存、肝煎申躰ニ候。可御心易候。尚期後音之時候。恐惶謹言
          長岡式部少輔
   十一月十八日      寄之
      宮本伊織様
           御報 》
 
 (2)寄之公、放鷹ニ託シテ岩戸ニ至リ
 これはまた奇怪の伝説である。武蔵が岩戸山の霊巌洞を死に場所に決めて、熊本市中を去った。そこで、世上何かと奇怪の浮説があった、というのである。要するに、尋常な行動ではない、というところであろうが、伝説の潤色である。
 そこで、長岡寄之は(これはいかん、と思ったか)、放鷹にことよせて岩戸山へ行った。寄之は武蔵をつかまえて諌言し、再び千葉城の旧宅に帰らせた、というわけである。『武公伝』の霊巌洞伝説には、かように寄之も登場して、武蔵を連れ戻す役目を演じるのである。
 武蔵の発病とその後の経緯は、すでに上記のごとくであるから、この伝説はわかりやすい。すなわち、事実は、寄之は父興長ともども、病気治療のため武蔵を、岩戸山からではなく、熊本近郊の村から、連れ戻そうとした、ということである。もちろん、寄之が武蔵を説得しに行って連れ戻した、という事実はない。武蔵と親しい長岡父子ばかりか、殿様の細川光尚までが再三帰るように呼びかけるなどして、さんざん皆を心配させ手こずらせたあげく、ようやく武蔵は熊本へ戻ってきたのである。
 それが『武公伝』の伝説過程では、寄之が(放鷹にことよせて)武蔵のいる岩戸山へ行き、武蔵を説得して連れ戻した、という話になってしまったのである。
 この逸話は、『武公伝』の諸伝説の中でも、よくできた話である。武蔵が霊巌洞を死に場所に決めて、熊本市中を去ったとか、放鷹にことよせて寄之が連れ戻しに行ったとか、イメージ喚起力のある説話として熟成したものであり、ロマンティックな潤色効果もある。ここにある「放鷹にことよせて」の部分が説話上の具体化要素であり、その前の「世上何かと奇怪の浮説があった」というのが、全体の蝶番として機能している。
 そのように、小説の材料にはできる逸話だが、実際のところは、あまりロマンティックな話ではない。武蔵は、熊本市中を去って霊巌洞に籠って死を迎えようとしたしたのではなく、発病前から在郷の村に居て、そこで病床に臥すと、熊本から医者が派遣され治療を受けていたのである。
 そこで、すでに見た伊織宛長岡寄之書状のいう《熊本より程近在郷》、つまり熊本から近い在郷の村に引っ込んでいたので、「在郷では十分な治療ができない」という話、この状況の背景を想定してみるに、武蔵は熊本の屋敷とは別に、近郊の在郷に居宅をもっていたことになる。従来の武蔵研究では、そのことに注目した例はないし、その近郊在郷の村とはどこか、という設問を立てた者もいない。それゆえ、ここでこの必然の問題を探ってみる必要がある。
 伊織宛長岡寄之書状と類似の話は、筑前系の『丹治峯均筆記』にもあって、武蔵の命終の場所は、熊本の城下に近い村の由、たとえば、福岡城下春吉村のような所という、と記している。実際は、武蔵は熊本市中に連れ戻されて死んだのだから、この記事は事実に反するが、武蔵が発病して治療を受けていた在郷の村について流伝情報があったので、こうした話になったのであろう。
 『丹治峯均筆記』の著者・立花峯均は、播州明石で柴任美矩から教えを受けた。そのとき何かと話を聞いたと思われる。その柴任美矩は元細川家士であり、寺尾孫之丞から相伝を受けた者で、しかも生前の武蔵から直接教えを受けた可能性もある。そして柴任は後に、筑前黒田家にしばらく仕官したこともあり、福岡城下も知っている。そこで、福岡城下春吉村のような所という、やけに具体的な話は、その柴任から出た可能性がある。
 だとすれば、その「福岡城下春吉村のような所」という話は、そこで武蔵が死んだという立花峯均の誤伝は別にして、武蔵の居所を探る手がかりにならないでもない。この「春吉村」が、那珂郡春吉村だとすれば、福岡城から東方半里ほどの、那珂川沿岸の近郊の村である。それを熊本周辺の地理に当てはめてみれば、これは城下東方の白川沿岸の村ということになる。
 そこで、注目したいのが、『武公伝』が記している武蔵の葬地である。それは、「飽田郡小江村」と記されている。直ちにこれを同定する該当地名はないが、地名に関し『武公伝』はさして正確ではないので、これが音韻近似の「大江村」のことだとすれば、詫摩郡大江村がその該当地である。この件は、後に当該記事に関して再説するであろう。
 ようするに、この大江村なら、伊織宛長岡寄之書状のいう《熊本より程近在郷》、つまり熊本から近い在郷の村というのに適合しそうである。また、『丹治峯均筆記』が記録した(おそらく柴任美矩発の)話、つまり、「熊本の城下に近い村の由、たとえば、福岡城下春吉村のような所」という条件にも適う。したがって、今後新資料でも出れば話は別だが、当面我々は、武蔵が引っ込んでいた在郷の村を、詫摩郡大江村としておくのである。

 ところで『武公伝』のこの記事は『二天記』ではどう扱っているか。それをみるに、まことに『二天記』作者の独創性が発揮されていると云うべしである。というのも、実は、『二天記』ではこの記事の中に、武蔵が三人の家老衆へ宛てた書状が掲載されているのである。
 『二天記』によれば、正保二年の春、武蔵は発病した。これは『武公伝』に同じ。ところが四月になって、書状を家老衆に送ったという。そしてその書状が、例によって「引用」されているのである。
 その書状の趣旨は、ようするに、自分は死期を迎えたので山中に蟄居したい、そこで、家老衆に前もって断っておく、また、山中蟄居の許しが出るように取り成してもらいたい、ということである。だれの許しかというと、もちろん殿様の光尚の許しである。
 しかしそれに関連して、この場合の趣旨にあまり合わぬが、ありそうな言が書かれている。つまり、――とくに皆様方に文書でお断り申上げておく。自分はかねてより病者だったが、ことにこの春、患って以来、とくに手足が立たなくなった。この前は、拙者は長年病気で、知行の望みなどせずにいた。先代の越中様(細川忠利)が兵法好きになってくださったので、我が流儀の見立て(考え)を解説したいと思い、兵道の手筋をほぼご合点(了解)なさったときは、まったく幸せで、本意を失うばかりだった。兵法の利(理)なども文書を書いて提出するようにとの御意があったが、書き上げるまでに、ご合点はどうかと思い、下書きだけを用意して差上げた。兵道の新たな見立てについては、儒者仏者の古語、軍法の故事などを用いず、ただ我が流儀を心得、利方の思いをもって諸芸諸能の道とも存じ、おおかたその分野の理を明らかに得道したが、世に合わなかったのを無念に思う。今まで世間を兵法で世渡りしてきたように思っているが、こうしたことは、真の兵法の病になることだ。今申すところ、末々の世に、拙者一人は古今の名人であるから、奥意をお伝え申すべきところ、身体が少しもいうことをきかない。今年中でさえ命があるかどうかわからないので、一日なりとも山居して、死期の体を世間から蟄居させることを、お許しいただけるように、お取りなし願いたい、云々。
 こうしてみると、いささか胡乱な話の内容で、その分析は『二天記』読解に譲るが、ようするにこの書状では、死期に臨んで武蔵に遁世を希望させているのである。そうすると、『武公伝』の、府中〔熊本市中〕の喧噪を厭って、という話とは少し違っている。
 これはおそらく、千葉城の屋敷があるのに、別の場所に引きこもるのは、穏やかではないという解釈があって、武蔵はこういう書状を以って事前に家老衆へ断りを入れていた、ということにしたのである。つまり、引きこもりは、昔も今も不穏な事態なのである。『武公伝』では、そのため奇怪の浮説が生じたとするが、『二天記』はそれを事前に家老衆に断わっていたことにして、説話上の手当てをしようとしているのである。
 この書状の日付は、四月十三日である。これは死のひと月ほど前ということになる。この期に及んで、武蔵は霊巌洞に引きこもろうとしているという設定である。これが事実とは合わないことは、すでに述べた通りである。
 書状の宛先は、「式部殿、監物殿、宇右衛門殿」の三人である。この「式部殿」というのは、長岡式部、つまりお馴染みの寄之である。「監物殿」とあるのは、長岡(米田)監物、「宇右衛門殿」とあるのは、沢村宇右衛門友好である。
 このうち長岡監物は、この当時なら是季(1586〜1658)であり、武蔵と同世代の人である。すると、長岡式部寄之や沢村宇右衛門友好と名が並んでいる記されているのは、明らかに変である。というのも、寄之や沢村宇右衛門の二人は若年寄であって、大年寄の長岡監物是季がここに名を並べるはずがない。当時の家老衆のメンバーをみれば、
   (大年寄) 長岡佐渡興長、有吉頼母英貴、長岡監物是季
   (若年寄) 長岡式部寄之、米田与七郎是長、沢村宇右衛門友好
 したがって、書状の宛先はこの三人の若年寄である。宛先にある「監物殿」は、是季の息子の米田是長(1618〜80)のことだとしたいようだが、もちろん是長が「監物」を襲名するのは、これより十数年後の父是季の死後のことである。ようするに、これは偽書の馬脚が露われたというところである。
 前に出た『二天記』の類例では、巌流島決闘の前日、武蔵が長岡興長に出したという書状がそれである。つまり、興長は慶長十七年にはまだ「式部少輔」であって、「佐渡守」ではないのに、そこには「佐渡守様」と宛名しているのである。
 この書状もそれと同類の捏造物である。『武公伝』の記事にはない書状を、『二天記』がここに「引用」しているわけだが、この改訂増補は前例と同じ豊田景英による作為である。
 これはたぶん、景英が村上八郎右衛門あたりから仕入れたものである。それというのも、幕末の荻角兵衛昌国(1813〜62)の『新免武蔵論』(嘉永四年・1851)には、最近村上某の家でその所蔵の「武蔵が晩年三老臣に贈りし自筆の書翰」を見たとある。これは、『二天記』に引用した書状に対応するものと思われるが、それが幕末まで村上家に伝来されていたのである。しかし武蔵が三老臣に出したはずの武蔵自筆の書状――つまり書状原本が、なぜ村上家になどあったりするのか、そういう根本的な盲点に、荻昌国は気づいていないのである。
 この書状引用に続いて、『二天記』は、――その後、武蔵はひそかに霊巌洞へ行き、静かに終命の期を迎えようとしたが、しかるに早くも、世上になにかと奇怪の浮説あり。それを寄之が聞いて、放鷹にことよせて岩戸山に行き、武蔵を説得して、千葉城の屋敷に帰らせた、と記す。
 これは『武公伝』の記事そのままである。したがって、正保二年の春、武蔵が発病したという最初の一文と、この後段記事の間に、すっぽりこの書状を挿入したのである。これも、『二天記』だけを見ていては、その作為を知ることはできない、という事例である。
 なお、『二天記』は、武蔵の介抱のために、寄之の家士・中西孫之丞を病床に付き添わせたという記事を書き加えているが、これは、後にみるように、『武公伝』の他の部分を記事をここへ引き込んだだけである。したがって、これは『二天記』の新情報ではない。  Go Back




*【宮本伊織宛長岡寄之書状案】(再掲)
《御同名武州、熊本より程近在郷へ御引込候而被居候處ニ、被煩成に付而医者共申付、遣薬服用養生被仕候へ共、聢験氣も無之ニ付而、在郷ニ而ハ万事養生之儀も不自由ニ可在之候間、熊本被罷出[御出候て]養生可然之由、拙者佐渡守[佐渡拙者]両人かたより申遣候へ共、同心無之候間…》


*【丹治峯均筆記】
《命終ノ所、熊本ノ城下近邑ノ由、假令バ福城春吉邑ノ如シト云リ。正保二年乙酉五月十九日、平日ノ如ク正念ニシテ命終ラル。行年六十二歳也》

*【武公伝】
《卒去ノ時遺言之通、甲冑ヲ帯シ六具ヲシメテ入棺也。飽田郡小江村地ニ葬ス。兼テノ約束ニテ、泰勝寺ノ前杉馬場ノ内ニ棺ヲ舁居〔据〕ヘ、春山和尚出迎テ引導也。皆是遺言ニ因テ也。其后、寄之公鷹狩ニ御出、小江村ノ墓ニ展セラレ、其庄屋ヲ召出サレ、墓ノ掃除無懈怠仕候樣ニト被仰附》










三奈木黒田家文書 九大蔵
福城春吉村


永青文庫
武蔵関係地図 正保国絵図












*【二天記】
正保二年ノ春、武藏疾病也。同四月、書ヲ家老衆ニ與フ。其文、
態と各樣迄、以書附御理申候。兼て病者ニ御座候處、殊に當春煩申候而以來、別而手足難立相罷候。此前拙者年久敷病気故、御知行之望杯不仕罷在候。先越中樣御兵法御數寄被成下候故、一流之見立申分度存、粗兵道之手筋被成御合點候時分、無是非仕合せ、失本意候。兵法之利とも書附可上申旨御意候へども、書附迄ニ御合點如何敷存、下書斗調へ差上、兵道新敷見立候事、儒者佛者之古語、軍法之古沙汰とも不用、只一流を心得利方之思を以て諸藝諸能の道ニも存、大形於世界之理明らかに得道候へども、世ニ逢不申躰、無念ニ存候、今迄世間兵法ニて身過候樣存候。右樣之事は、眞之兵法之病ニ成申候事に御座候。今申処、末々之世に、拙者一人之儀ハ古今之名人ニ候へば、奥意御傳へ可申候処、手足少も叶不申候。當年斗之命も難計候へ者、一日成とも山居仕、死期之躰、世上へ對し蟄居候事、被仰付候樣に御取成可被下候。已上。
 四月十三日      宮本武藏
                 玄信判
  式 部 殿
  監 物 殿
  宇右衛門殿
參其ノ後潜ニ靈岩洞ニ至リ、静カニ終命ノ期ヲ了セントス。然ルニ早ヤ、世上ニ何角奇怪ノ浮説アリト、寄之主聞召シ、放鷹ニ托シテ岩戸ニ到リ、武藏ヲ諌メテ誘ヒ、千葉城ノ宅ニ歸リヌ。爲介抱寄之主ノ家士中西孫之丞ヲ差添置也》











霊巌洞




*【新免武蔵論】
《近日村上某が家にて其所蔵の、武蔵が晩年三老臣に贈りし自筆の書翰を一見致候に、其意即ち知己の君上も無御座、一閑人にて身を終り候儀を、慨嘆致候趣にて、余が平日所見の者と、符合致し候也》

 
  23 五輪書等の相伝
一 正保二年[乙酉]五月十二日、五輪書ヲ寺尾孫之亟勝信[後剃髪、夢世云]ニ相傳在。三十九ヶ條ノ書ヲ寺尾求馬信行ニ相傳ナリ。(1) 同日ニ自誓ノ書ヲ筆ス。(2) [五輪書序、武公奥書、孫之亟ヘ相傳書、自誓書、今豊田家ニ在リ](3) 一 正保二年(1645)五月十二日、五輪書を寺尾孫之丞勝信[後に剃髪して、夢世という]に相伝あり。三十九ヶ条の書を寺尾求馬信行に相伝した。同じ日に、自誓の書を筆記した。[五輪書序、武公奥書、孫之丞へ相伝の書、自誓書、これらは今、豊田家にある]

  【評 注】
 
 (1)正保二年[乙酉]五月十二日
 正保二年(1645)五月十二日というと、武蔵の死の七日前である。この日のことである。武蔵は五輪書を寺尾孫之丞に相伝し、三十九ケ条の書を寺尾求馬助に相伝したという。
 ここでも『武公伝』が「五輪書」という名を記していることに注意したい。これは当時としては例外的なケースであったことにも、注意を喚起しておく
 筑前系二天流は、五輪書とは呼ばない。『丹治峯均筆記』には、「五巻ノ書」とあるし、後世のものでは、吉田家本空之巻に付録された相伝証文集の、立花増昆の跋文(寛政四年冬)には、五輪書本文と同じく、「二天流の兵書・地水火風空五巻」とある。これに対し、肥後では、このように『武公伝』の時代までに、「五輪書」という名はできていたようである。ただし、後継『二天記』では「五輪の巻」とあって、いまだ、必ずしも確定した通称でもなかったようである。同じ肥後でも、熊本では、志方半兵衛のようにこれを「兵法得道書」と呼んでいる。
 この「正保二年五月十二日」は、どの写本にも記載している日付である。『武公伝』の作者がここで、この日に寺尾孫之丞に対し五輪書相伝があった、というのは、そういう口碑伝説が別にあったというわけではなく、自身所持の五輪書の奥書を見て、そのように書いたのである。その点では、今日の我々と立場は変らない。言い換えれば、この件に関して『武公伝』の記事は、事蹟典拠とはなしえないのである。
 既述のように、武蔵から五輪書を託されたのは、寺尾孫之丞一人である。これは五輪書が原本一部のみであったから、というよりも、そもそも五輪書はこの期に及んでも未完成の草稿であり、その草稿一式が孫之丞に託されたからである。
 しかしながら、注意すべきは、この五輪書草稿は武蔵遺品として授与された、ということである。言い換えれば、決して一流相伝の証しとして伝授されたのではなかった。一流相伝の証しである文書ならば、五輪書は少なくとも完成稿でなければならず、草稿ではありえない。逆に五輪書が草稿であったという事実は、これが太刀のような遺品と同じ意味のものであったとみなければならない。
 それを、一流相伝の証拠とするようになったのは、孫之丞が自分の門弟らにこれを書写して授与しはじめた段階である。このように、五輪書は本来は武蔵の遺品に過ぎず、一流相伝の証しではなかったこと、これが注意を喚起しておくべきポイントである。
 五輪書相伝者だという寺尾孫之丞は、『武公伝』では「勝信」という諱である。また「夢世」という号も記録されている。筑前系五輪書の方は、孫之丞「信正」とあり、諱の相違がある。ただし、これはどちらが正しいか、という問題ではない。諱には変遷もあるからである。
 寺尾孫之丞が、柴任三左衛門にこれを再伝したとき(承応二年十月二日)の署名が寺尾孫之丞「信正」であり、したがって、筑前系二天流では、孫之丞は「信正」なのである。これに対し、「勝信」は孫之丞晩年の名であろう。たとえば、細川家本の山本源介宛署名(寛文七年)は、「寺尾夢世勝延」である。「夢世」〔むせい〕は孫之丞の隠居後の号である。楠家本の槇嶋甚介宛署名(寛文八年)は「寺尾夢世」とあって、道号「夢世」のみで諱を記さない。
 寺尾家系図はどうかというに、求馬助の諱「信行」は記録しているが、孫之丞には「某」と記して諱を記さない。家系図製作段階で、孫之丞の諱を知る者がなかったらしい。長兄の九郎左衛門にしても然りで、この寺尾本家である勝正でさえ諱記載がなく「某」とする。家系図は後世になると、自分の系統以外の者は、おおむねそうなってしまうものである。
 かくして、『武公伝』の孫之丞「勝信」という記事は、五輪書奥書によったもので、あるいは墓碑(現・熊本県宇土市松山町)の記事「寺尾氏源勝信六十歳薨」を知っていた可能性もあろう。これに対し、筑前系伝記『丹治峯均筆記』は、「信正」とする。これは筑前系五輪書及び付属文書(吉田家本)の署名によったのである。
 したがって、五輪書写本発給の年を勘案すれば、寺尾孫之丞を「信正」とする筑前系の方が早期の名を伝えており、これを「勝信」または「夢世」とする肥後の伝承は晩年の名を伝えている、ということになる。つまり、
      信正 → 勝信 → 夢世
 そうしてみると、いささか奇妙なのは、細川家本五輪書の「夢世勝延」という記名である。この「勝延」は「勝信」のことであろうが、なぜ「延」字がここに用いられているか、疑問の残るところである。これは武蔵の「玄信」を「玄延」と書くようなものであって、通常はありえない所為である。細川家本そのものは、山本源助宛五輪書の後世写本だから、伝写過程でこう変化したのであろうが、不審の残るところである。
 それともう一つは、慶安四年十一月五日付の浦上十兵衛宛五輪書風之巻(寺尾家旧蔵本、現・島田美術館蔵)の記名である。これは寺尾孫之丞「勝政」となっている。これはいかがであろうか。この時期のものは他には、柴任三左衛門系統の五輪書(吉田家本)がある。
     慶安四年(1651) 寺尾孫之丞「勝政」 寺尾家本
     承応二年(1653) 寺尾孫之丞「信正」 吉田家本
 慶安四年は孫之丞三十九歳、承応二年は四十一歳である。これはわずか二年の短期間の内に変ったということになるが、実はそれが問題なのではなく、この「勝政」という諱それ自体が問題である。
 というのも、これは寺尾家の用例からして、本来は「勝正」であろうと思われる。そうすると、当時の「勝正」はというと、孫之丞の兄で嫡男の喜内(のち九郎左衛門)の諱なのである。兄が「勝正」である以上、弟の孫之丞がそれに類似の「勝政」名をもつことはありえない。
     長男・喜内 「勝正」
     二男・孫之丞 「信正」→「勝信」
     三男・求馬助 「信行」
こうして並べてみれば、二男孫之丞が「信正」で、三男求馬助が「信行」というのは、命名傾向からして妥当であるが、もし孫之丞が「勝政」だとなると、これは置き場のないことになる。したがって、慶安四年十一月五日付の浦上十兵衛宛五輪書風之巻の奥書記名、すなわち寺尾孫之丞「勝政」には疑義がある。この点は、検討資料が不足しているので、当面これを指摘しておくに留める。



*【五輪書】
《一 此兵法の書五卷に仕立つる事 五つの道をわかち、一卷々々にして、その利を知らしめんがために、地水火風空の五卷として書顯すなり》(地之卷)


*【丹治峯均筆記】
五巻ノ書、草案ノマヽニテ信正ニ授ケラレシ故、軸表紙ナシ。依之、後年相傳ノ書、其遺風ヲ以軸表紙ヲツケズ》

*【立花増昆跋文】
《二天流の兵書・地水火風空五巻ハ、新免玄信居士により寺尾孫之丞信正、柴任美矩に傳り、美矩より吉田太郎右衛門實連に与へし書五巻》

*【丹治峯均筆記】
《武州門人数百人ノ内、肥後之住人、寺尾孫之丞信正一人、多年ノ功ヲ積テ當流相傳セリ》




九州大学蔵
吉田家本 五輪書








九州大学蔵
新免武蔵守玄信→寺尾孫之丞信正
→柴任三左衛門尉美矩
→吉田忠左衛門
吉田家本五輪書奥書









*【寺尾氏略系図】

○寺尾孫四郎義重…孫四郎 越前 ┐
 ┌─────────────┘
 ├孫四郎─────────┐
 |            |
 ├甚之允 加藤清正仕    │
 |            |
 ├孫左衛門勝重 生国肥後  │
 |            |
 ├玄利勝正        │
 |            |
 └与三左衛門勝尚 生国備後
 ┌────────────┘
 ├作左衛門 本多忠政仕
 |
 ├佐助 勝永 ───────┐
 │ 慶長7年細川忠利仕   │
 |            |
 ├七兵衛         │
 |            |
 └市郎左衛門       │
 ┌────────────┘
 ├喜内勝正 後九郎左衛門
 |
 ├孫之丞信正 勝信 夢世
 |
 └求馬助信行 後藤兵衛

 『武公伝』は、五輪書は寺尾孫之丞に伝授され、求馬助には三十九ヶ条の書が相伝されたという。云うところの「三十九ヶ条ノ書」は、すでに見たように、寛永十八年(1641)二月に細川忠利の命を受けて、武蔵がはじめて撰録し、これを忠利に献上したという伝説に出てきた兵書である。「三十九ヶ条」とある以上、それと同種の兵書が求馬助に授与された、ということになる。
 そして既述のように、『二天記』の方は、この求馬助相伝の兵書を「三十五ヶ条」の書とする。細川忠利に武蔵に献上したという逸話でも、「兵法の書、三十五ヶ条の覚書」とする。したがって、『武公伝』の段階と『二天記』の段階では、この兵法書の名称と構成の相違とが変化があったということである。このあたりのことは前にすでに述べられているから、ここでは繰り返さない。
 しかるに問題は、この三十九ヶ条兵法書についていえば、武蔵から寺尾求馬助に宛てた形式の原本も写本もないことである。五輪書なら、曲りなりにも、諸写本に共通して寺尾孫之丞の名を宛先に記している。しかし、三十九ヶ条兵法書には(そして三十五ヶ条兵法書にも)、寺尾求馬助を宛先とする体裁の伝書がないのである。
 もとより原本は現存しないが、現存写本をみるに、日付は寛永十八年(1641)二月朔日(または吉日)となっており、とすれば、細川忠利に献上したという伝説の日付であり、『武公伝』のいう正保二年(1645)五月十二日という日付のものではない。
 しかも、寺尾求馬助の奥書のある三十九ヶ条兵法書でさえ、寺尾求馬助宛のものではなく、そして日付は、やはり寛永十八年二月なのである。寺尾求馬助の奥書というのは、寛文六年丙午歳(1666)中秋中旬之日の日付をもつもので、長男・信形に一流相伝した折のもので、相伝証文の体裁をもつ。それでさえ、兵法書は寛永十八年二月の日付で、寺尾求馬助という宛先をもたないのである。
 ちなみに云えば、かろうじて求馬助奥書にそれらしきことを記載する一写本がある。すなわち、牧堂文庫本の三十九ヶ条兵法書の求馬助奥書冒頭には、
 《右一書、初應羽林忠利公之命録献之一書、寺尾求馬助信行相傳》
とあって、この書が細川忠利の命に応じて撰録され、献呈されたこと、そして寺尾求馬助に相伝されたことを記す。ところが、この牧堂文庫本を除いて、求馬助奥書の他のヴァージョンにはこの一文がない。
 とすれば、この一文は後人による挿入であると断定しうる。寺尾求馬助がこの書を相伝したという文書がどこにもないため、体裁を整える必要があって、これを挿入した者があったのである。これは『武公伝』『二天記』よりも後世の者の仕業であろう。
 話をもどせば、『武公伝』が記すところの、求馬助には「三十九ケ条の書」を相伝された、という記事は、どこにも実体的証拠がない。
 これに対し五輪書の方は、たとえば、孫之丞→柴任美矩から発する筑前二天流史料(吉田家本)の寺尾孫之丞相伝証文には、《~免玄信公、予に相傳之所》とあって、孫之丞は五輪書が武蔵から自分へ相伝されたことを明記している。しかるに、――後世の加筆とみえる一例を除いて――上記求馬助奥書本文には、「三十九ケ条の書」を相伝されたとは記していないのである。
 『武公伝』と同時代資料では、求馬助系統の正系を主張する志方半兵衛の『兵法二天一流相伝記』には、武蔵自身が、「求馬助に一流の奥儀を残らず伝授した。門弟多き中にこの道を伝えるのは、信行一人に限る」と語ったという話を伝える。しかしながら、これも武蔵流末の後世文書であって、説話化の進行した段階の話であり、それを事実とする根拠があるとは思えない。
 求馬助が武蔵から一流相伝を受けたことを示す証書は存在しない。もとより、五輪書を伝授されたという寺尾孫之丞にしても、武蔵から、何か具体的な印可証書を授与されたという事実はない。まして、「三十九ヶ条の書」を相伝された証拠のない求馬助には、一流相伝を受けたという嗣書も物証もない。
 したがって、そもそも孫之丞と求馬助の寺尾兄弟は武蔵から兵法相伝を受けたのか、ということろまで問題は波及する。他流のように、武蔵がそういう印可免許の証書を発行した、という形跡はない。そのかぎりにおいて、孫之丞であれ、求馬助であれ、実際には一流相伝者であったという証拠はないのである。
 かくして、これは従来の理解を超えた話になってしまう。入門誓詞も取らないという武蔵は、世間一般の諸流派からみれば、きわめて異例異数の指南者である。おそらくそれは、変則的な相伝形態をとったということではなく、むしろ他流諸派の相伝形態を否定していたのである。
 元和以後、播磨でも豊前でも多くの門弟を教えたはずだが、その地域でさえ、今まで武蔵の相伝証書は――偽書でさえ――出現していない。ということは、武蔵はだれにも相伝証書を発行しなかったとみるべきであろう。したがって、肥後へ来て、その在来のスタイルを変更したとは考えられぬ。寺尾孫之丞以下は、五輪書写本を物証としてそれに相伝証文を添付して、世間通例のやり方に近いところにもどるのだが、武蔵自身は肥後でも印可免許の相伝証書を発行していない。それが本来の武蔵流である。


*【武公伝】
《寛永十八年[辛巳]二月忠利公ノ命ニ依テ、始テ兵法ノ書三十九箇条ヲ録シテ献之》

*【二天記】
《同五月十二日、寄之主・友好主へ、爲遺物〔遺物として〕、腰ノ物并鞍ヲ譲リアリ。寺尾勝信ニ五輪ノ卷、同信行ニ三十五ケ條ノ書ヲ相傳也。其外夫々ノ遺物アリ》
《寛永十八年ニ命有テ、初メテ兵法ノ書三十五ケ條ノ覺書ヲ録シテ差上ラル。于時三月十七日、忠利公御逝去ナリ。御歳五十四。御法號妙解院殿臺雲宗伍大居士》




*【寺尾求馬助奥書】
《然ニ吾信行、如何ナル宿縁ニテカ、先生ノ志シ他ニ異ニシテ、因縁深カリケレバ、此道ヲ稽古シ、先生ノ心源ヲ移シ得テ、道ヲ得タリ。先生ノ曰、「吾一朝ニシテ千君万卒ニ此道ヲ指南スト云共、一人モ眞道移ラズ。眞道得ザレバ、誠ノ傳受顕ス事ナシ。信行兵法ノ智賢ク、一ヲ以テ十ヲサトル。其器万人ニ超タルガ故ニ、兵法ノ道利自在ヲ得事、珎ナル哉、妙ナル哉」ト、感ゼシメ玉フ》




*【寺尾孫之丞相伝証文】
《令傳受地水火風空之五卷、~免玄信公、予に相傳之所、うつし進之候。就中、空之卷ハ、玄信公永々の病氣に付テ、所存之程あらはされず候。然ども、四冊之書の理、あきらかに得道候て、道理をはなれ候へバ、おのづから空の道にかなひ候。我等数年工夫いたし候所も、道利を得ては道利をはなれ、我と無爲の所に至候。只兵法は、おのづからの道にまかせ、しづか成所、うごかざる所に、自然とおこないなし、豁達して空也。
実相圓満兵法逝去不絶。是は、玄信公碑名にあらはしおかるゝもの也。能々兵の法を、可有鍛錬也。以上
  承応二年十月二日 寺尾孫丞信正
                    在判 》




*【兵法二天一流相伝記】
《武蔵平日語て曰、「我六十余州廻国して望の者に伝ふと雖も、未信行の様なる弟子を得ず。空しく我道を失し事歎き思ふ所に、幸達人を得る事、是我道の天理に叶ふ故と悦び、一流の奥儀少も不残伝授し畢。門弟多き中に此道を伝ふる事、信行一人に限る」。太守光尚公へ、武蔵其旨を申上、則召出され、於御前兵法御覧遊され、其後御大切の御稽古にも度々御打太刀相勤、武蔵同前御前に相詰、御稽古の御相手に相成、数年相勤。然ども様子有て押立弟子を取、指南不致》
 そうして、それが『武公伝』のこの記事を読むにあたっての背景と状況である。すなわち、武蔵はだれにも相伝証書を発行しなかったが、五輪書草稿を寺尾孫之丞に託した。ただし、五輪書草稿は遺品の贈与であって、それが一流相伝のしるしだというのではなかった。しかるに、孫之丞は五輪書授与をもって一流相伝の物証とするようになった。
 これに対し、求馬助系統は、五輪書のような具体的な相伝文書をもたなかった。しかし、むしろそれが武蔵流本来の流儀であろう。しかるに、孫之丞系統が五輪書をもって相伝の物証とするようになったので、求馬助系統の方は三十九ヶ条兵法書をもって、相伝文書とするようになったのであろう。
 ただし、むろんこの兵法書は求馬助に与えられたものではなかった。武蔵が寛永十八年二月に細川忠利に献上したといういわくつきの文書として、武蔵死後数十年たって、肥後ではその文書が作成されたのである。五輪書が武士の道まで説く普遍的な入門書であるとすれば、それに対し、三十九ヶ条兵法書はその内容からして専門書の類いである。求馬助自身はそのつもりではなくとも、その門流系統はこれを我流文書とするようになった。そうして発生したのが、武蔵がこの「三十九ヶ条の書」を求馬助に授与したという伝説である。
 そこで興味深いのは、求馬助奥書にある記述である。すなわち、――この奥書を読むかぎりにおいて、武蔵死後、求馬助は、スク人稀ニシテ、尋ル者無シ、という状態で、その間、相伝すべき門弟に遭遇せず、闇々として知らざるがごとく光陰を送ってきた。この兵法書三十九ヶ条も秘蔵して、だれにも伝授しなかった。
 しかし、この師伝の書は、ようやくはじめて相伝の相手に遭遇した。それがこの伝書の記日、寛文六丙午歳、寛文六年(1666)のことである。求馬助はこの年、四十六歳。武蔵と死に別れたのが、二十五歳のとき。それから二十年以上経っている。
 ようするに、この求馬助奥書の述べるところでは、求馬助が武蔵から伝授されて、二十年以上も秘蔵されて世に出なかった師伝の書、三十九ヶ条兵法書が、寛文六年になって、突如として世に出現したというかたちである。つまり、この求馬助の師伝の書は、かようにも来歴が恠しいのである。
 こうしたことが生じたのは、武蔵には門弟が多くいたが、だれにも相伝証書の類いを発行せず、五輪書を残しただけだったからだ。もし武蔵が寺尾孫之丞に一流相伝の嗣書を与えておれば、孫之丞が嫡流となったはずで、求馬助も孫之丞から相伝を受けるという形態をとっただろう。ところがそうではなかったために、いわば武蔵門弟ならだれでも、武蔵流を嗣いだと主張できる状況にあったのである。孫之丞が他に対し分があったのは、武蔵遺稿の五輪書を託されたという点であった。しかしそれとても、武蔵嫡流を排他的に主張できるものではなかった。そこで、求馬助の系統が発生する余地があったのである。
 筑前系の『丹治峯均筆記』には、求馬助の名は一切出てこない。著者・立花峯均は、孫之丞のみが武蔵の唯一相伝者だと、排他的に主張している。これに対し、求馬助系統の伝書では、上記の志方半兵衛の『兵法二天一流相伝記』のように、孫之丞のことはまったく無視したかたちで、求馬助を唯一相伝者だとする。
 そうしてみれば、『武公伝』の記事は、孫之丞には「五輪書」を、求馬助には「三十九ヶ条の書」を、それぞれ相伝したとするもので、いわば両方の均衡をとったものである。むろん、それは求馬助系統の伝説を導入した後世文書だからである。
 豊田正剛の段階には、すでに、求馬助には三十九ヶ条兵法書、という伝説ができあがっていたのであろう。正剛の師匠は、求馬助の門弟・道家平蔵である。道家平蔵→豊田正剛の段階でそのような話になっていたものと思われる。しかるに、上述のごとく、求馬助奥書には、武蔵から兵法書を授与されたという記事がない。したがって、五月十二日に求馬助が「三十九ヶ条の書」を相伝されたという『武公伝』の記事は、とくにこれを事実とするにはあたらない。
 求馬助が、主命で武蔵の臨死病床に付けられたことは、伊織書状に記されていることから知れる。その場にはむろん孫之丞もいたであろう。孫之丞は浪人であり、主持ちではないから自由な身である。武蔵の側にはじめから付いていたであろう。それに対し、求馬助は細川家に仕える身だから、勝手に武蔵の病床に付くわけにいかない。それで主命による許可指示をうけて武蔵の病床に付いたのである。しかし、そのことは、求馬助にこの日兵法書が授与されたという伝説とは別の話である。
 『武公伝』には、五輪書の孫之丞への伝授の日付(五月十二日)とまさに「同日」に、求馬助には「三十九ケ条の書」を相伝されたとある。五輪書の日付が五月十二日であることは、当時周知のことであっただろうが、求馬助への兵法書の授与日まで、公平にそれと同じ日にしてしまったのである。
 しかし、上述のように、正保二年五月十二日の日付をもつ三十九ヶ条兵法書は存在しない。存在するのは、武蔵が細川忠利に献上したという寛永十八年二月という日付のみである。それゆえ、孫之丞には五輪書を、求馬助には三十九ヶ条の書を、という公平な分配図式そのものが、この場面の虚構たることを示している。
 上記のごとく、求馬助奥書によれば、武蔵から授与されたという師伝の書は、二十年以上も秘匿されていたというのである。この秘匿されたという期間に、伝説形成があった。ただし話は逆で、伝説がそうした秘匿二十年という空白期間の説話を生成したともいえる。
 さらに云えば、五輪書の正保二年五月十二日という日付のことである。この日、武蔵が寺尾孫之丞に五輪書草稿を遺品として贈与したのは、おそらく周知のことであった。この日、武蔵が寺尾孫之丞に五輪書草稿を託したということが事実であっても、その五輪書原本は、寺尾孫之丞が門弟に書写して授与した五輪書とは形式が異なるであろう。現存写本を見るかぎりにおいて、五巻各巻にそれぞれ、五月十二日の日付・武蔵署名・寺尾孫之丞宛名の三点セットを記したものなのだが、それが武蔵遺品としての五輪書草稿の体裁であったとは考えられない。
 これらの日付や署名宛名は、写本段階で発生した記載であって、原本にはなかったものと考えうる。もし日付と署名宛名があったとすれば、それは、おそらく空之巻の巻末のみにあったはずである。
 寺尾孫之丞は門弟に五輪書を授与するにあたって、必ずしも一括ではなく、進境のレベルに応じて各巻を分割授与する方式をとるようになった。そうすると、五輪書全てを伝授されるまでには、相当長期の修行時間と諸階梯を蹈まねばならなくなった。しかし、それが武蔵の流儀か、となると、答えはおのづから否定的にならざるをえないのである。  Go Back




個人蔵
兵法書求馬助奥書

*【兵法書求馬助奥書】
《然ニ吾信行、如何ナル宿縁ニテカ、先生ノ志シ他ニ異ニシテ、因深カリケレバ、此道ヲ稽古シ、先生ノ心源ヲ移シ得道ヲ得タリ。先生ノ曰、吾一朝ニシテ千君万卒ニ此道ヲ指南スト云共、一人モ眞道移ラズ。眞道移ザレバ、誠ノ傳受顕ス事ナシ。信行兵法ノ智賢ク、一ヲ以テ十ヲサトル。其器万人ニ超タルガ故ニ、兵法ノ通利自在ヲ得事、珎ナル哉、妙ナル哉ト、感ゼシメ玉フ。サレ共此道タル事、劔術ノ法ニ違ヒテ、スク人稀ニシテ、尋ル者無シ。尋ヌレ共眞實ノ志シヲ以テセズ。心ヲ心トスルノ道ナレバ、不隨人之心、言フベカラズ。鼻ヲ以テ口トスルニ不如ト、深ク秘シテ数歳ヲ經、闇々トシテ不知ガゴトク光陰ヲ送ル》
 
 (2)同日ニ自誓ノ書ヲ筆ス
 「自誓の書」とあるのは、今日「独行道」という名で知られている文書である。『武公伝』では「自誓の書」「自誓書」とあって、その内容を記していないから、それがどのような文書であったか、『武公伝』だけではわからないし、「独行道」というタイトルも記されていない。これに対し、『二天記』には、《物事カタツケ極メラレテ、自誓ノ心ニテ書セラル》とあって、「独行道」というタイトルが付せられた19か条の文書が引用されている。
 とあれば、『武公伝』には「自誓書」とあったのが、『二天記』では、「独行道」というタイトルが生じたために、「自誓ノ心」にて書いた、という方向へ変異したのである。
 そうしてみると、『武公伝』の段階では、この「独行道」というタイトルはまだ存在していなかったとみるべきであろう。もし、『二天記』引用文のごとく明確に「独行道」と題名があったのなら、『武公伝』も「自誓書」などという記載はしなかったであろう。これが『武公伝』のこの記事における一つのポイントである。
 また後出記事にあるように、この自誓書が豊田家にあるとすれば、おそらくそれは豊田正剛が入手したものであろう。すると豊田家伝来の代物だから、『二天記』の景英の引用記事は、それを写したものと思って当然なのだが、豊田家伝来の自誓書にはなかったはずの「独行道」というタイトルがある。これは景英が入れたとみなしうる。景英の世代には、この自誓書が一般には「独行道」として知られていたので、これを書き加えたということかもしれない。
 すると、『武公伝』の自誓書は、『二天記』が引用する十九ヶ条の文書であったことになる。この系統と思われる写本があって、同じ条々の十九ヶ条である(島田美術館蔵)。
 しかし他方、現在一般に知られているのは、『二天記』の十九ヶ条独行道より二つ多い、二十一ヶ条のヴァージョン(熊本県立美術館蔵)の方である。これの由来はいかがなものか。
 明治末の宮本武蔵遺跡顕彰会編『宮本武蔵』(明治四十二年)が当時の所蔵状況を一覧表にしてまとめているのを参照すれば、野田三郎八氏藏とある品々の中に、
     掛物  獨行道自筆  一幅
とあって、口絵写真を見るに、これが二十一ヶ条独行道で、今日武蔵真筆とされているものに他ならない。これは大正期の森大狂編『宮本武蔵遺墨集』の段階でも、野田辰三郎君蔵とあって、同じく野田家にあったものである。そのように明治以後の所蔵者は知れるのだが、これがいかなる経緯で野田家の手に入ったか、あるいは野田派伝書中にあったかどうか、それは確認できない。ただし、明治大正までは野田家所蔵であったということから、これを「野田家本」独行道と呼んでおくことにする。
 では、『二天記』とこの野田家本、十九ヶ条と二十一ヶ条の独行道、さてこれはどういうわけか。これは従来の武蔵研究では看過されてきた問題なので、ここで少々立ち入ってみることにする。



*【二天記】
《同五月十二日、寄之主・友好主へ、爲遺物〔遺物として〕、腰ノ物并鞍ヲ譲リアリ。寺尾勝信ニ五輪ノ卷、同信行ニ三十五ケ條ノ書ヲ相傳也。其外夫々ノ遺物アリ。増田惣兵衛・岡部九左衛門ト云者、武藏譜代ノ者ノ由ニテ、シカモ手ニ合ヒシ者故、被召使可給由頼テ、亡後ニ寄之主召抱ラル。物事カタツケ極メラレテ、自誓ノ心ニテ書セラル
   獨行道
一 世々の道そむく事なし
一 身に樂みをたくます
一 よろつに依怙の心なし
   (以下略) 》
島田美術館蔵
十九ヶ条独行道 末尾に記名日付を記す

熊本県立美術館蔵
二十一ヶ条独行道 末尾に異筆記名日付宛名を記す

二天記十九ヶ条独行道 野田家本二十一ヶ条独行道
     獨 行 道
一 世々の道そむく事なし
一 身にたのしミをたくます
一 よろつに依怙の心なし
    (な し)
一 一生の間よくしん思はす
一 我事ニおゐて後梅をせす
一 善悪に他をねたむ心なし
一 何れの道ニも別をかなします
一 自他ともニ恨みかこつ心なし
一 れんほの道思ひよる心なし
一 物事にすき好む事なし
一 私宅におゐてのそむ心なし
一 身ひとつに美食をこのます
一 末々代物なる古き道具所持せす
一 我身にいたり物いみする事なし
一 兵具は格別余の道具たしなます
一 道におゐてハ死をいとはす思ふ
一 老身に財寶所領もちゆる心なし
一 佛~は尊し佛~をたのます
    (な し)
一 常に兵法の道をはなれす

 正保二年
    五月十二日     新免武藏
                   玄信判
     獨 行 道
一 世々の道をそむく事なし
一 身にたのしミみをたくます
一 よろつに依怙の心なし
一 身をあさく思、世をふかく思ふ
一 一生の間よくしん思はす
一 我事におゐて後梅をせす
一 善悪に他をねたむ心なし
一 いつれの道にもわかれをかなします
一 自他共にうらミかこつ心なし
一 れんほの道思ひよるこゝろなし
一 物事にすきこのむ事なし
一 私宅におゐてのそむ心なし
一 身ひとつに美食をこのます
一 末々代物なる古き道具所持せす
一 わか身にいたり物いミする事なし
一 兵具ハ各別よ(余)の道具たしなます
一 道におゐてハ死をいとはす思ふ
一 老身に財寶所領もちゆる心なし
一 佛~は尊し佛~をたのます
一 身を捨ても名利はすてす
一 常に兵法の道をはなれす

 正保弐年
    五月十二日    新免武藏
                 玄信[花押]
      寺尾孫之丞殿
 これは本来のものから減ったのか増えたのか、差し当たってはどちらとも云えないが、県美所蔵の野田家本を武蔵真筆とする見方からすれば、もとは二十一ヶ条で、「独行道」なるタイトルもあったことになる。
 しかるに問題は、ここに記されている日付署名宛名である。むろんこれは明らかに異筆で、後入れとみえる。しかも、「寺尾孫之丞殿」と宛先まである。『武公伝』には、自誓書が孫之丞に与えられたとは書いていない。武蔵は自誓の書を書いたとあるが、それがだれに与えられたとも書いていない。また『二天記』も同様で、しかもその引用文には日付と署名はあるが、寺尾孫之丞殿という宛先はない。ということは、野田家本の後入れ部分は、『武公伝』『二天記』の時代より後に、記入された文言だということになる。
 この後入れの範囲は、その手跡からして、日付・武蔵署名花押・宛先の部分であるから、この文書にはもともと日付も武蔵署名花押も宛先もなかったのである。ということは、どういうことか。
 この文書は、もともと二十一ヶ条の条文のみの裸の文書であった。しかも武蔵が書いたという言い伝えのある文書であった。それが書写されて流通していた。その流通する過程で、二十一ヶ条は十九ヶ条に減って、それが豊田正剛が入手した自誓書。――とりあえず、そういう経緯を想定してみることができる。
 ところが、それはこの野田家本二十一ヶ条独行道を武蔵真筆とみなす、という仮定の上のことである。しかしまた、後人が武蔵の書蹟を真似て作った可能性もある。野田家本の条文の手跡は、武蔵書状の筆跡によく似ているが、この程度の模倣は達者な書家なら大して無理なわざではない。
 『武公伝』は、この自誓の書が豊田家に所持されていると述べる。そして、『二天記』の自誓の書=独行道には、「正保二年五月十二日」という日付と、「新免武藏/玄信判」なる署名記載があるが、「寺尾孫之丞殿」という宛先はない。この系統と思われる写本(島田美術館蔵)でそれが確認できる。
したがって、豊田家の伝承内容を記す『武公伝』に、これが寺尾孫之丞へ授与されたという記事がないのも当然である。豊田正剛は、孫之丞経由ではないルートでこれを入手したのである。
 さて、豊田景英の『二天記』が引用する「独行道」は二十一ヶ条ではなく、十九ヶ条である。逆にいえば、『武公伝』のいう自誓書は、この十九ヶ条独行道であろう。そこで、改めて、二十一ヶ条に対し不足する2か条はいかなるものかとみるに、
   「身をあさく思い、世をふかく思う」
   「身を捨てても、名利はすてず」
 つまり、二十一ヶ条の中でも、武蔵のテーゼにしては胡乱な条々である。深読みすれば、いろいろ語れようが、さまでする必要がないのが、自誓書=独行道である。そもそもこの文書それ自体が武蔵の作だとみなす根拠は薄弱である。自誓書=独行道はそんな根本的な問題を残しているのである。
 豊田家所蔵の自誓の書=独行道が、十九ヶ条構成であったとすれば、これとは別のもので、すでに散佚したのであろう。しかし、この自誓の書=独行道を、武蔵が五月十二日に書いたという『武公伝』の記事は信憑しうるか。これも、前記の三十九ヶ条兵法書が同日求馬助に伝授されたという記事と同じレベルで、さして信を置くことはできない。とすれば、武蔵の自誓の書には、日付も署名もなかったことになり、豊田家所蔵という自誓の書が、『二天記』の段階で、「独行道」というタイトルと日付署名をもつ以上、これも後世の写しとみるべきである。云うならば、「自誓の書」たるものに、日付署名があるというのも、妙な具合なのである。
 そうすると問題は、ふたたび、上述の武蔵自筆との伝承がある野田家本二十一ヶ条独行道である。後入れと思われる異筆の日付署名宛名は別にしても、これが武蔵真筆なのか、それとも後人が武蔵の書蹟を真似て作ったものか、あるいは武蔵の独行道は本来二十一ヶ条だったのか、それとも十九ヶ条だったのか、また、そもそも、武蔵がこういう独行道のような文書を書き残したというのは事実かどうか、――こうした諸問題がこの資料には残るのである。  Go Back




熊本県立美術館蔵
二十一ヶ条独行道 末尾


島田美術館蔵
十九ヶ条独行道 末尾
 
 (3)五輪書序、武公奥書、孫之亟相傳書、自誓書
 すでに述べた部分と重複するが、当時豊田家に現存しているという関連諸文書の話である。補注で「いま豊田家にある」というのだから、橋津正脩ではなく、息子の豊田景英がこの補註を書いたと思われる。
 おそらくこれらの武蔵関係文書は、豊田正剛の代に蒐集したものであろう。ただし、これは『武公伝』にはあるが、『二天記』にはない記事であり、他のケースと同じく『二天記』の作者は自家伝来の物を記載しないのである。したがって、『二天記』では豊田家所持の文書は不明である。豊田景英は、村上八郎右衛門の跡を嗣いだ大右衛門に、豊田家伝来の書類を譲渡した形跡もある。それがまた、どういうわけか野田派伝書に入っていたりする。
 この『武公伝』の記事には、五輪書序・武公奥書・孫之丞相伝書・自誓書という四種の文書が、現在豊田家にあるという。これはそのままでは不明なものもある。以下順を追って検分してみよう。

 (一)五輪書序
 まず、「五輪書序」とある。これは、すでに見たように、『武公伝』に、龍田山泰勝寺春山和尚に添削を頼んだという伝説記事があるものである。
 『武公伝』のいう「五輪書序」については、既述のごとく「二天一流兵法書序鈔」(宝永四年・1707)にみえる、豊田正剛が註解を試みている文章がそれで、景英は、これを「五輪書序」と見なしているのである。
 豊田正剛が「二天一流兵法書序鈔」に書いているのをみると、『武公伝』に書かれているところの、五輪書序文にからむ春山和尚の逸話と同じ話が記されている。既述のように、豊田景英はこの逸話を「五輪書序」のそれとして流用したのである。
 一方、それでは、そもそも五輪書に序文があったか否か、という問題がある。たしかに、『兵法二天一流相伝記』によれば、志方半兵衛の認識でも、五輪書に序文があるということである。しかし、武蔵生前、五輪書に序文があったという証拠はどこにもない。つまり、筑前系の吉田家本を含めて、現存五輪書写本には、序文は付されていないのである。したがって、『武公伝』のいう「五輪書序」なる文書は、後世のある時点で、肥後で沸いて出たローカルな作成物であろう。
 上記の「二天一流兵法書序鈔」を見るに、豊田正剛の当時、この序文が偽作だという言説が、すでに出ていたらしい。おそらくこの序文の出現のいかがわしさは、正剛の当時語られていたということである。正剛はこの文書を弁護しているのだが、その論説は、この「五輪書序」は武蔵の述作ではなく、だれか学者の偽作だろう、という意見に対する抗弁のみで、文書発掘に関する書誌学的言及ではない。おそらく豊田正剛にも、この文書が出現した経緯についての情報はなかったようである。

 (二)武公奥書
 次に「武公奥書」とあるのは、武蔵が書いた奥書だという文書らしいが、それが何を指すか、そのまま不明である。
 ここでは、「五輪書序」のことが語られているので、これは五輪書の奥書のことを指しているとともみえるが、五輪書の序文というものと同じく、五輪書の奥書というものは、現存写本の構成を見る限りにおいて存在しない。
 しかるに、上述のごとく、「五輪書序」が五輪書の序文というより、三十九ヶ条兵法書の序文というべきものだとすれば、五輪書よりも三十九ヶ条兵法書の方を当たってみた方がよさそうである。そこで、その兵法書の内容に見るに、なるほど、奥書らしきものがある。
 これをみると、「右に書き付けたところは、我が流派の剣の使い方の大略をこの巻に記しておこうとしたものである」云々とあって、奥書のかたちであるが、じつはこれが五輪書水之巻の後記と同じ文章なのである。















*【武公伝】
《寛永二十年[癸未]十月十日、劔術五輪書、肥後巌門ニ於テ始テ編之。
序ハ龍田山泰勝寺春山和尚[泰勝寺第二世也]ニ雌黄ヲ乞フ。春山、コレニハ斧鑿ヲ加フル寸〔時〕ハ却テ其素意ヲ失ン事ヲ愁テ、更ニ文躰法度ニ不拘、唯文字ノ差誤セル所マデヲ改換、且ツ義理ノ近似ナル古語ヲ引用テ潤色之ト也》



二天一流秘書 熊本県立図書館蔵
三十九ヶ条版兵法書 序文




二天一流秘書 熊本県立図書館蔵
三十九ヶ条版兵法書 奥書
三十九ヶ条兵法書 奥書 五輪書水之巻 後記
右書付ル所、一流ノ劔術、大形此書ニ記シ置事也。兵法、太刀ヲ取テ人ニ勝所ヲ覺ルハ、先、五ツノ表ヲ以テ、五方ノ構ヲシリ、太刀ノ道ヲ覺ヘテ、惣躰ヤハラカニナリ、心ノキ丶出テ、道ノ拍子ヲシリ、己ト太刀モ手サヘテ、身モ足モ心ノマヽニホドケタル時ニ随ヒ、一人ニ勝二人ニ勝、兵法ノ善悪ヲ知ル程ニ成、此一書ノ内ヲ一ケ條一ケ條ト稽古シテ、敵ト戦、次第/\ニ道ノ理ヲ得テ、不絶心ニ懸、急心ナクシテ、折々手ニ觸テハ徳ヲ覺へ、何ノ人共打合、其心ヲ知テ、千里ノ道モ、一足ヅヽ運ブ也。ユル/\ト思ヒ、此法ヲ行フ事、武士ノ役ナリト心得テ、今日ハ昨日ノ我ニ勝、明日ハ下手ニ勝チ、後ハ上手ニ勝ト思ヒ、此書物ノゴトクシテ、少モ脇ノ道ヘ心ノユカヌヤウニ思フベシ。縦令何程ノ敵ニ打勝テモ、習ヒニ背ク事ニオヒテハ、眞ノ道ニ有ベカラズ。此理、心ニ浮ミテハ、一身ヲ以、数十人ニ勝ツ心ノ辨ヘ有ベシ。然上ハ、劔術ノ智力ニテ、大分一分ノ兵法ヲモ得道スベシ。千日ノ稽古ヲ鍛トシ、万日ノ修行ヲ練トス。能々工夫有ベキ者也。
右書付所、一流の劔術、大かた、此巻に記し置事也。兵法、太刀をとつて人に勝處を覚るハ、先、五つの表を以て、五方の搆をしり、太刀の道を覚へて、惣躰やはらかになり、心もきゝ出、道の拍子をしり、おのれと太刀手さへて、身も足も心のまゝほどけたる時に随ひ、一人に勝、二人にかち、兵法の善悪をしるほどになり、此一書の内を一ヶ条/\と稽古して、敵と戦ひ、次第/\に道の利を得て、たへず心にかけ、急ぐ心なくして、折々手にふれ、徳を覚へ、何れの人とも打あひ、其心をしつて、千里の道も、ひと足宛はこぶ也。ゆる/\と思ひ、此法をおこなふ事、武士の役なりと心得て、今日ハ昨日の我に勝、あすハ下手に勝、後ハ上手に勝と思ひ、此書物のごとくにして、少もわきの道へ心のゆかざる様に思ふべし。たとへ何ほどの敵に打勝ても、習にそむく事におゐてハ、實の道に有べからず。此利、心にうかミてハ、一身をもつて、数十人にも勝心のわきまへ有べし。然上ハ、劔術の智力にて、大分一分の兵法をも得道すべし。千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす。能々吟味有べきもの也。
 なぜ、五輪書水之巻の後記が、こんなところへそっくりそのまま登場するのか、といえば、『武公伝』の記事よって知れるところ、おそらくこの文章が、「武公奥書」として単独で流通していたのである。三十九ヶ条兵法書は、主として五輪書水之巻の条々と対応する内容のもので、それゆえ、水之巻後記も三十九ヶ条兵法書の奥書に編入されることになったと思われる。
 『武公伝』の記事が証言するのは、三十九ヶ条兵法書がまだ、序文・三十九ヶ条本文・武蔵奥書という形態に達する以前の状態である。序文は「五輪書序」と云われ、五輪書水之巻と同文の武蔵奥書部分は「武公奥書」と呼ばれて、単独で流通していたのである。この段階では、五輪書/兵法書の境界で、我々の見ないヴァージョンの構成が存在したのである。
 したがって、兵法書成立のことをいえば、三十九ヶ条兵法書が発展して五輪書になったのではなく、逆のコースが考えられるのである。つまり、
    三十九ヶ条兵法書 → 五輪書
という方向ではなく、逆の、
    五輪書 → 三十九ヶ条兵法書
という方向があったのである。このことは、『武公伝』が「武公奥書」という文言を残しておいてくれたことから判明する事態である。そして、三十九ヶ条兵法書の奥書と五輪書水之巻の後記が同文である理由を証言するものである。

 (三)孫之丞へ相伝書
 これは、寺尾孫之丞ヘ相伝の書で、いづれにしても、『武公伝』のこの部分にある、《正保二年[乙酉]五月十二日、五輪書ヲ寺尾孫之亟勝信[後剃髪、夢世云]ニ相傳在》という記事に相応するところの、孫之丞へ相伝された五輪書を指すのであろう。五輪書序・武公奥書と共にそれがいま豊田家にあるというわけである。
 豊田正剛は、孫之丞の系統ではなく、寺尾求馬助の門弟である道家平蔵の弟子である。したがって「孫之丞へ相伝の書」が家にあるというのも異な話であろうが、これは、豊田正剛が武蔵流伝書を蒐集しにかかっていたとみれば、ありうることである。
 ところが、もう一つ想定しうる可能性は、この段を書いた息子の橋津正脩が所持する五輪書というものである。正脩は、孫之丞の門弟・堤次兵衛から五法相伝を受けた人である。したがって、「孫之丞へ相伝の書」を入手したのは、この正脩かもしれない。ただし、豊田正剛は宝永年間すでにこれを所持していたらしいから、豊田家には別系統の「孫之丞へ相伝の書」があったということになる。
 同時代の志方半兵衛は『兵法二天一流相伝記』で五輪書を「序地水火風」の五巻としているところからすれば、求馬助嫡流の志方半兵衛の方は、不完全な伝書であり、それに対し、豊田家には、地水火風空を完備した孫之丞系統の五輪書があったということであろう。
 では、孫之丞が武蔵から託された五輪書草稿一式は、『武公伝』の当時どこにあったのか。それについて、『武公伝』には何の情報もない。『武公伝』には孫之丞は一代で、兵法を子孫に伝えなかったとあるが、実際には孫之丞の跡は養子が嗣いで、十八世紀後期まで存続した。だが後出記事に関連して述べるように、この家は結局断絶した。孫之丞の子孫は寺尾本家で養育され、他家へ養子に行ったからである。兵法を嗣がなかった子孫の家に、伝書が死蔵されるケースもあるから、五輪書原本は孫之丞の子孫に流れて、死蔵されているうちに散佚してしまったとみる方が現実的かもしれない。
 筑前系の『丹治峯均筆記』には、武蔵自筆の兵書が、公儀(幕府)に召上げられ、江戸城天守に収蔵されたが、その後火災に遭って焼失してしまったという伝説を記す。この兵書が五輪書原本だと限ったわけではないが、筑前ではとにかく、そういう伝説が発生していたのである。しかし、公儀召上げというそんな顕著な事件があれば、地元肥後の『武公伝』が記さないはずがなかろう。これは筑前ローカルの伝説である。しかも、筑前二天流のうち立花系のみの内輪の伝説である。
 ともあれ、「孫之丞へ相伝の書」、地水火風空の五巻完備の五輪書が、景英の当時、豊田家に所持されていた、ということである。

 (四)自誓書
 これは上にすでに述べられている通りである。すなわち、後継『二天記』の引用するところからすれは、豊田家本自誓書=独行道は条文十九ヶ条で、現存野田家本独行道のような二十一ヶ条構成ではない。
 また、『武公伝』は、この五月十二日に武蔵が自誓書を書いたという伝説を記しても、これが寺尾孫之丞に授与されたとは記していない。したがって、野田家本二十一ヶ条独行道にある異筆の日付署名宛名部分は、もともと疑わしい後入れである。『武公伝』はむろん、『二天記』でさえ、寺尾孫之丞という宛名はまだないから、その宛名を含めた日付記名は、『武公伝』『二天記』以後になされた工作であろう。
 となると、いわば引き算で、それ以前の裸の独行道が単独で存在したことになるが、独行道という名は『武公伝』段階ではまだ現われていない。『二天記』の段階で生じる。とすれば、この武蔵自筆という野田家本二十一ヶ条独行道は、それが「独行道」というタイトルを有する以上、少なくとも『武公伝』の時代以後の制作物だということになろう。
 さてさて、豊田家の自誓書=十九ヶ条独行道と、野田家本二十一ヶ条独行道、どちらのヴァージョンが武蔵が書いた独行道なのか、あるいはどちらも武蔵が書いたものではなかったのか、むしろいえば、そもそも武蔵は独行道などという文書は書かなかったのではないか?――そういう疑問を満載しているのが、この独行道という伝書である。

 以上、景英は『武公伝』のこの補註で、五輪書序・武公奥書・孫之丞相伝書・自誓書の四点について、それらが、現在豊田家にあると書くわけだが、これらは五月十二日に武蔵が遺品を皆に分配したという伝説に関連するものである。それらが原本なのか写しなのか、それは明記していないが、この四点が豊田家にあるというのである。  Go Back

























*【豊田氏関係兵法伝系図】

○新免武蔵守玄信─┐
┌────────┘
├寺尾孫之丞―堤次兵衛―橋津正脩

└寺尾求馬助┬道家平蔵―豊田正剛
      │
      └新免弁助┐
┌──────────┘
└村上平内正雄┐
 ┌─────┘
 ├村上平内政勝―村上平内正則
 │
 └村上八郎右衛門┬村上大右衛門
         │
         ├野田一渓種信
         │
         └豊田景英



*【武公伝】
《夢世ハ一代ニテ兵術子孫不傳》





*【丹治峯均筆記】
《武州自筆ノ兵書、何等ノ訳ニテ公儀ヘ被召上候哉、御城ヘ上リ御天守ニ納ル。焼失ノ時、此書ニ不限、數多之珍寶珍器、焦土トナレリトカヤ。可惜可悲》



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