日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
【玉 石】  壱
 目 次      Back     Next 

 小太刀半七   青地三之亟   正木大膳   徳川頼宣   野口一成 
 可兒才藏   徳川光友   柳生又十郎   家光時代の槍   槍の長短 
 無眼流開祖   雲州の某士   可休と十郎兵衛   原田藤六   無邊流の槍 
 東郷某と劍僧   海 野 某   死者狂の強   熊谷紋太夫   高松の某士 
 井上八郎   不覺の創士   彰義隊士と薩兵   渡邊 昇 


 
    小太刀半七

 二代將軍秀忠の時に、小太刀半七といふ劍法の達者が鐵扇をもつて仕合をすることに妙を得てゐるといふことを秀忠が聞いて、それには何か特別の術があるかと尋ねて見た處が、
 「別に何の術もございませぬが、仕合を致しまするときに、何となく面白い心持が致すのが極意でございます。」
 と、返答をしたので、秀忠が大いに感心して云ふことには、
 「すべて戰などに臨んでもその通り、面白しとさへ思へば恐しいことはなくなつて、謀も自から出て來るものである、聊かの爭ひにも心が迫つて顚倒するところから手ぬるくなつておくれをとるものだ。」
 と云はれた。
(三河之物語)

 
    青地三之亟

 備前公池田光政の家來に青地三之亟といふ弓の名人がゐた、或時、この人が梅の花を的として五本の矢を放つたが、その矢が一々五枚の花瓣に當つたといふことである。

 
    正木大膳

 安房上總の主、里見義弘の臣正木大膳は十二三の頃から馬を習ふのに片たづなで乘ることを好んでゐた、馬をヘへる師匠がそれを見て、怒つていふことには、
 「片たづなといふものはよくよく乘りおぼえて、ものになつてから後のことです、そこ許にはまだ鍛錬もないのにさ樣な生意氣のことをしては相成りませぬ。」
 とたしなめる、大膳がいふに、
 「侍の大將となるものは馬から下りて槍を合せ功名するといふことは多くあることではない、馬上で下知をしたり其まゝ勝負をしようといふには片たづなを達者に覺えなくてはならぬ。」
 と云ひ切つた通りに、その後度々戰場へ出て馬上で勝負を決した、その中でも鴻ノ臺で里見義弘の子息義高が北條氏康と合戰して負けたがその後れ口に正木大膳は馬上で待ち受けて敵のよき侍を或る處では八人又或る處では九人、又或る處では四人といふ風に一日のうちに良き侍廿一人を馬上で斬り落して立ち退いた事がある。
(甲陽軍鑑)

 
    徳川|頼宣

 或る時、紀州侯徳川|頼宣に逸物の犬を進上する者があつた、豫て聞えた荒犬であつたので、二人附添うて庭へ出た、頼宣から、
 「之へ引いて參れ。」
 と云はれたので附添の者は縁鼻へ引付け、頼宣のお小姓に向ひ、
 「この犬はトテも人に荒いのでございますが。」
 といつたが、頼宣は頓着なく、
 「いゝ犬だ、定めて獵きゝだらう、顔構へも惡くない。」
 と云つて、足で頬を撫でた時、果して犬は猛然として怒り出し一聲唸つて頼宣の足に噛み付いた、その時、頼宣は足を犬の咽喉へ突き込んでしまつたので犬は驚いて逃げ出したが、それから頼宣を見れば尾を垂れ首を俯して柔順であつたといふ、この時もし頼宣が足を引いたならば却つてこれが爲に噛み付かれて大怪我をしたであらうが、咄嗟の間の機先を制した働きは平生武術の鍛錬のヘゆる處であつた。

 
    野口一成

 黒田家の士、野口一成は戰場武功の者であつたが、或る劍客と仕合をして、相手の木刀を左の腕で受け止めて、右に持つた木劍で敵を突さ倒した、その劍客が、
 「腕で受ける劍術といふものは無い。」
 といつて冷笑すると野口は具足櫃から籠手を取り出して太刀痕の多く付いてゐるのを示し、
 「おれの流儀はこれだ。」
 と云つた話がある、その籠手には筋金を多く入れて、楯の代りにして戰場に用ひたものであつた、また、謙信流といふ流儀には、柄の長い刀を地摺につけて敵の股倉を穿き上げる兵法もある。

 
    可兒才藏

 福島正則の士、可兒才藏〔かにさいぞう〕に向つて仕合を申込んだものがあつた、その後になつて待つてゐると、才藏は具足甲で笹の差物を差し、若黨に鐵砲を切火繩にして左右に槍を立て脇を詰めさせ、總て二十人ばかりひた甲にて押して來た、相手は案に相違して、
 「拙者の所望は斯樣の仕合ではない、一人々々の槍仕合である。」
 といふ、才藏が笑つて、
 「吾等が仕合はいつもこの通りである。」
 といつたとのこと。
 亂世の槍、後世の槍の相違といふものであらう。
(異説まちまち)

 
    徳川光友

 尾張の徳川光友が或時、御ふくろ棚へ鼠が入つたのを追出して、自身は小品柄を持つて、つるつると逃げる鼠をとめてしまつた、その手際が何とも云へず輕妙であつたので、其座にありし者共が、あつと感心してしまふと、
 「これは連也がお蔭であるぞ。」
 と云つたさうである。
(昔咄第九卷)

 
    柳生又十郎

 これは、講談などにも、よく現はれる有名な話だが、最初の正確な出處は不明であるけれども、修行の~髄を面白く傳へてゐる處がないではないから次に記して置く。
 又十郎が父の勘當を受けて、磯端伴藏のもとに薪水の勞をとりながら、日夜、修行に心を碎いた時分の事である。
 或る時、伴藏先生樂寝をしてゐる、又十郎この隙に髭でも拔かうと懐中から用意の毛拔きを取出して、又その邊で拔いてゐると叱られると思ふから、外へ飛出して庭前の大きな石の上に腰をかけ、前の流れを見ながら頻りに鼻の下の髭を拔いてゐる、そのうち伴藏眼を細く開いて見ると、又十郎が彼方を向ひて髭を拔いてゐる樣子、やつと聲をかけて肩先を突いた、突かれて又十郎は谷川へ眞つ倒に顚り込んで七八間流れたが漸くのことで岩へつかまつて濡鼠の樣になつて先生の前に來て、
 「誠に恐入りました、つい餘り髭が伸びましたから。」
 といふと、先生は、
 「いや、髭は拔かうと拔くまいと隨意だが余が後ろへ廻つて行くのが氣がつかなかつたか、竹刀を取つて立ち上つた時ばかりが劍術でない、平素の心掛が肝腎だ、伴藏だからいいが敵であつたらその方の命はあるまい。」
 と云はれた、又十郎、
 「恐入りました。」
 と頭を下げる所を又一つポカリ打たれた。
 その後又十郎炊事をして一生懸命火を吹き付けてゐる處を先生ポカリと背中を打つた、又十郎驚いて後ろを見ると、先生が袋竹刀を持つて立つてゐる、そのうち先生は又十郎の進境を認めながら、今日は氣のついた處を一本打つてやらうと例の袋竹刀を採つて又十郎の焚火をしてゐる後ろへ廻つて來た處が又十郎今日は氣がついてゐる、先生は氣がついたなと思ひつゝ一本やつと打下した、又十郎は後ろへ下つてがつちりと受けた、先生は、
 「感心感心。」
 と賞めて、それでなくては可けないと喜んだので、又十郎が、
 「有難う存じます。」
 と吹竹を置いて御辭儀をするを所又[誤植・所を又]ポカリと腦天を打たれた、先生は更に、
 「どうもまだ油斷があつていけない、向後は寝るにしても眼を開いて寝ろ。」
 と命じた、又十郎二三日は少しも寝ない、身體は綿の如くになつて疲勞を感じて來た、そこで薪を採りに山へ往つて草原の景色のいゝ處で一寝入り寝込んでそれから歸つて來た、其夜伴藏先生腹の中に、今日はもう四日目だ、大方疲れて寝るに相違ない、眠つたならば一つ打つてやらうと樣子を見てゐると、さつばり寝入らない、ハテ不思議だと思つてゐると、翌る日薪を採りに山へ出て行く、そのあとを見えかくれについて行つて見ると、又十郎さうとは少しも氣が付かず、例の通り草原で晝寝をしようとすると伴藏先生突然其處へ飛び込んでポカリポカリと五つ六つ續け打ちに打つた。
 「これ、その方は不都合の奴だ。」
 又十郎は、
 「どうも恐入りました。」
 と低頭平身する、先生は、
 「斯樣な不埒のことで修業が出來るものではない、これから七日の間少しも寝ることはならぬ。」
 と嚴命を下した。
(劍術落葉集)

 
    家光時代の槍

 家光の時代槍をもつて名を得たのは高田又兵衛、不破けいが、下石〔おろし〕平右衛門、この三人が十文字使ひであつた、素槍は山本甚兵衛、これはむへんといふ、又紀州に石野傳一といふのは大島雲平の師匠で聞えたる使ひ手である、丸橋忠彌は是等の人よりも後のものでかなり有名ではあつたのである、又兵衛、平右衛門よりけいがは落ちてゐた。
 徳川二代三代の頃、槍は右の如く追々名人と稱ばれるけれども劍術はそれほどでなく一流を立て千石ともなつたものは無い、これは柳生流、一刀流が天下の劍術を抑へてしまつてゐるためであつた。
(古老茶話)

 
    槍の長短

 伏見の城で人々が槍の長短によつて利不利あることを論じ合つたが、論より證據これは幾度も槍を合せた經驗のある人に聞くに越したるはないと、酒井作右衛門重勝を召出してお尋ねといふ事になつたが、重勝は直ちに、
 「槍と申すものは長いのが宜しい、昔から定められてある通りでございます。」
 と云つたので、家光も道理と感じ、その論は定つたさうである。
(寛永系圖)

      

 槍術の師、中川柔軒に或人が槍のこしらへのことを尋ねたところが、柔軒がいふ。
 「どうなりと各々の勝手次第がよろしい、治世の槍はさのみ強いことも要るまい、亂世ならばまき柄、ぬり込めなどにして力にさへ合はゞ太く重きものを用ふるがよい、昔からこしらへやうに書きつけはあるけれども、それにこだはつては用に立たない、柄の寸も定まりは九尺であるけれどもその技量に應じて大柄のものは一丈でも二間でもよろしい、小男ならば八尺にも七尺にもするがよい、定まつたことは無いものだ。」と答へた。
 小野次郎右衛門も劍道のみならず槍術も人にヘへたが、槍の拵へやうに就て同樣のことを云つた。
(八水隨筆)

 
    無眼流開祖

 無眼流劍術の祖、反町無格〔そりまちむかく〕が諸國修行の節、或る山路を通つた處が、長い谷があつてその渓流に架せる長橋は丸木橋であつて、容易に渡り難い、どうしようかとあたりの石に腰打ちかけて思案してゐた處が、一人の盲人がその橋へさしかゝつて來た、無格心の中に思ふよう、兩眼のある我身でさへも渡りかねたる程であるのを、この盲人にどうして渡ることが出來るものかと息をこらしてそのせんやうを見てゐると、盲人は右の丸木橋に差しかゝるや否や左右よりその丸木橋を杖でさぐり、何の苦もなくすらすらと向ふの岸に渡つてしまつた。
 そこで無格、思はず兩手を打つて、劍道もこゝだ、兎角眼があればこそ疑ひが起つて妙所に至ることが出來ないのだ、眼をつぶして修行をしようと、自ら無眼流と改めて一流を開いた――この逸話には疑問あり、無格はまた事實無眼流の祖ではないとの説もあるが逸話としてはなかなか道の要領を得た處がある。

 
    雲州の某士

 慶長年間のこと、播州姫路の近邊へ雲州の侍で四五百石ばかりとるとおぼしいものが通りかゝつて駕籠から出で、茶屋に腰をかけて茶を飲んでゐる處へ、年のころ十四五才になる童が走つて來て申すには、
 「わたくしは親の仇を覘ふものでございますが、只今この處にて見かけましたから討ち果したうございますが、敵は槍を持たせて居りますから、私も槍で勝負をいたしたうございますが、浪人の悲しさに如何とも致し難うございます、就きましては近頃御無心ながらあなた樣がお持たせある處のお道具を拜借いたしたいものでございますが。」
 と頼み込んだ、雲州の侍がそれを聞いて、
 「委細承知いたした、御若年の處感じ入りました、しかし、その仇討はかねてお届けになつて居られるかどうか。」
 と尋ねると、浪人の童が答へて、
 「かねて、相届けて置きました、今日この處にて勝負を仕ること故に、處の領主へも申し達して置きました、お氣遣ひ下さいませぬやうに。」
 雲州の侍これを聞いて、
 「然らば拙者の持槍を御用立たいと思ふが主用にて旅行の途中でござる故、私の儘にはなり難い、槍は主人の爲の槍でござる故お貸し申すことは見合せよう、併し乍ら貴殿のうしろ立にはなつておあげ申す故心強く思召され候へ。」
 と云はれたので、浪人の童も大いに喜んでゐるうちに相手の敵も出て來た、相手は大身の槍を提げて來て直ちに少年に向つて突きかくる、少年もこゝをせんとと闘つた、雲州の侍は挾箱に腰打ちかけてこれを見物してゐるところ、相手は大兵の手だれであり長物の得意の道具を持つてゐることだから少年の方があやふく陰になつて見えると、敵は陽に進んでつけ入らうとする時雲州の侍が、
 「その石つきは。」
 と不意に聲をかけた處、敵がうろし[うしろ]へ振り返つた處を少年が飛び込んで斬り殺してしまつた。
 さうしてゐると、敵の若黨共がこの少年に斬つてかゝろうとした時に、雲州の侍が槍のサヤを外し、目を荒らげて、
 「その方共は劍を追うといふものである、退け退け、退かなければ拙者が相手にならう。」
 といつたので忽ち散つてしまつた。
 あとの事などを雲州の侍がねんごろに世話をして、彼の浪人に向ひ、
 「お手柄天晴れなること感心いたしました、苦しからずば我等主へお仕へあるまいか、それがし、よきに御推擧申上げよう。」
 といつたので、少年は答へて、
 「だんだんの御厚意、御好恩辱けなき仕合せにございます、仰せに甘えて御取持に預つて御奉公を申上げたうございます。」
 やがて松江へ同道して主人へその趣を申上げたところ、殿の感賞斜めならずして、彼の侍には加増を賜り、少年へは新知二百石ほどを與へ小姓として召し使はれた。
 後、事があつて、この推擧した侍が松江をたち退かなければならないことになると、其時この仇を討つた少年も離參した。
 太守が深くこれを惜んで彼を召し返されることになると少年も亦歸參し兩人共に忠勤をつくし、長くよしみを結んだといふことである。
(雨窓閑話)

 
    可休と十郎兵衛

 元禄年間のこと、下總國結城に二人の劍客があつた、一人を深澤可休といひ常陸の國鹿島の生れで、年は三十二三、痩肉で柄が小さく髪を總髪にしてゐた、この人は戸田流の使ひ手であつた、もう一人は十郎兵衛といつて土地の富豪であつた、身の丈五尺八寸、力が強く吉岡流に達していつも新刀の下坂三尺ばかりのを帯びてゐた、いづれも若いものを集めて劍術をヘへてゐたが門人共は互に各々の流儀の甲乙を爭つて口論し果はいつか相方の師匠達の勝負を望んで止まないやうになつた、可休は温厚の人であつて別段意に介せずにゐたが十郎兵衛は血氣の男であつて聞かない、よしいつか本當の手並を見せてやらうといつてゐた。
 或日の早朝のこと、深澤可休は駒下駄を穿いて、備前の古刀、細身の一尺三寸ばかりのを腰に差して庭に出で楊子を使つてゐる處へ十郎兵衛が不意に押しかけて來て、例の下坂三尺ばかりの長刀を拔き言葉をかけをがみ打ちに打ち込んで來た。
 可休は駒下駄を脱ぐ閑もなく、右の一尺三寸の小刀を以て之を受け、互に切り結び追ひつ追はれつしてたうとう河原に出てしまつたものだから見るものが市の立つたやうであつた。
 ところが十郎兵衛の刀は打ち合ふ度に歯のこぼれること、砂を散すやうで、動もすれば十郎兵衛の危いこと限りがない、けれども獲物の長短のせいか可休は十郎兵衛を屡々危地に陥れながら打つことは出來ない、それと進退の自由を妨げる駒下駄を脱いでゐる閑がなかつたが、石につまづくと下駄の緒が切れたものだから、そこへ倒れてしまつた、あはや十郎兵衛の長刀の爲に命を落すかと見えた時見物の中から飛び出したのは、この近村府河の舟乘りで孫右衛門といふ者であつた、この者が樫の杖をもつて今打ち下そうとする十郎兵衛の刀を受け止めて、
 「お前さんは男らしくない、可休殿は下駄を脱ぐ閑もなくて亘り合つて居られる、それを又あやまつて倒れたのを幸ひ打勝たうとするのは卑怯千萬である、なぜ起して後に打たないのか、それでお前さんの劍術が可休殿に劣つてゐることは明かでござる、わしは府河の孫右衛門だ、この勝負はわしに任せて貰ひたい。」
 といつた、この孫右衛門は香取流の棒の達人で有名なものであつたから十郎兵衛もその理に服し互に和睦をしたといふことである。
(見聞集)

 
    原田藤六

 久世侯の臣に、原田藤六といふ朴勇ともいふべき人品の男があつたが、或時、縁の下へ籠つた賊があると聞いて、着物は邪魔だといつて裸體になつて、繩をもつて縁の下へ入つて苦もなく捕へて來た、この藤六が或時今時の槍術を謗つた、館理左衛門といふ槍術家がそれを聞き捨てにしかねて、それでは一番仕合をしようと申込んだ、藤六もそれを承知して、いふことには、
 「我等が仕合は今時の仕合とは違ふ、眼を一つ位突き潰されても負けといふことにはしない、多少の手を負ふが片輪にならうがそんな事には構はない、組んでなりともどうしてなりとも首を取るのを仕合の勝といふのだ、その心得で仕合をいたしたい。」
 といふ、理左衛門もその頃の士風で、
 「おもしろい、然らば。」
 といふことになつたが、側からなだめ止めるものがあつてその仕合はやめになつたといふことである。
(異説まちまち)

 
    無邊流の槍

 無邊無極流の槍は、極めて激しい槍であつた、柄の長さ二間二尺めぐりは徑三寸、握れば指に餘るほどである、槍の末は一寸二分徑、革頭〔たんぽ〕の大きさは徑三寸ばかりのを使つてゐたさうだが、その師範の槍はなほ太く、柄の徑が四寸もあるべし、これを苧〔お〕がらをふるやうに握り廻し誠に手輕に見えるさうだが、徳川中期後番町にその槍の道場があつてなかなか榮えてゐたが門弟をその術の優劣によつて階級をたて、誰の次は誰れと席順を極めて置いて專ら他流仕合の來るのを待つてゐた、さうして他流仕合の申込があれば、その席順をもつてだんだんと出て勝負を試み其日は一般の見物を許した故に非常に雜沓したといふことである。
 或時某藩士が二人來て、仕合をしたが、その一人は一刀流で飛び上ることを得意とする男であつたからその立合ひのうちに一間餘も飛びあがつて入りこんで勝を得た、初級から三四人までこの飛術に負けたが六級目の弟子が遂に打ち勝つた、併し、その六級の弟子といふものも、その師範に向ふ時は一向槍を構へることが出來なかつたといふことである。
 斯樣な大槍であるから握りが自由に行かない爲に左の掌にわらを握り込んで槍の柄をすり出し、突き控きを速にする珍しい稽古であるといふ。
(甲子夜話)

 
    東郷某と劍僧

 鹿兒島に傳はる薬丸流、自源流は敵を一撃に倒すを目的として、二撃三撃を用ひないことにしてゐる、故にその打撃の猛烈なること他に多く類を見ないのである、昔、東郷某といふ薩摩武士があつて、劍道に達する一僧に就て學んだが、右の僧は立木に向つて打撃を練習させてゐたが、毎日々々その練習振を見て坊主は惡口雜言をし、そんなことではものにならぬ、意氣地なし等と罵つた、最初のうちは我慢もしたが如何に師匠なればとて餘りに罵り方が激しいので心中憤りを發して、今日こそはこの坊主を一撃のもとに打ち殺してやらうと、深く心に決してその翌日例によつて立木に向つたが、立木の前に立つや否や師の僧が一見して、
 「よろしい。」
 といつて許した、それから、
 「今日の氣合は全く日頃と違ふ、どうしてかうまで充實したのか。」
 と尋ねられたので、東郷は自分の決心のほどを語つて師僧にお詫びをしたので、師僧も成るほどゝうなづいたとのことである。
(劍道極意)

 
    海 野 某

 美濃國岩村の城下の人が山へ遊びに行つて熊の子を一頭捕へて歸つて來たところが、親熊が怒つて市中に出で、或る一人住みの家へ入り込んで、その人を掻き殺して行つてしまつた。
 訴へ出があつたので足輕共を出し長銃で熊を撃たせることにし、物頭各組を列ねて城山のほとりを終日捜索したが、日も漸く暮れさうになつたから皆々歸らうとして山を下りた、その時は隊伍を亂してあと先きになり、ちりぢりに歸路についたのであるが、海野勝右衛門といふ物頭が、何心なく通つて行くと路邊の篁が、さつと音がして笹が寝たかと思ふと一頭の大熊が飛びかゝつて來た。
 勝右衛門は無邊流の槍術者であつたが、それを見るより小物の持つたる槍をとつて突いた處が、幸に熊の咽喉の横手から脇腹へ突き通しはしたが臓腑へ當らなかつたせいか、熊は少しもひるまず、ますます怒つて槍の柄をたぐり寄つて來るので詮方なく自分の身體をめぐらして、あしらつてゐるうちに、後から來た足輕が駈けつけて長銃で熊を撃ち止めてしまつた。
 後日に勝右衛門がいふには、
 「稽古といふものは、よいものである、はじめ熊の飛びかゝつたのを槍をつけた時は、所謂間不容髪の場合であつた、若しあはてゝ鞘のまゝ槍をつけた時には熊の一掻きにやられてしまつたに相違ない、われ知らず夢中に鞘を外したばかりで遁れることが出來た。」
 と、眞實を物語つて誇る色もなかつたので人々が感心した。
 木下淡路守の淡路流の槍の流儀には、鞘は刄なりになつてゐて、紙を張つて置く、よつて斯樣な危急の場合は鞘ながら突いても効果があるやうにしてある。
(甲子夜話)

 
    死者狂ひの強

 ある一刀流の達人何某の召仕の下人が他の歴々の方へ無禮をした故、先方から其の下人を所望して來た時、主人が下人を呼んで云ふには、
 「其方何某殿へ無禮を致したる故、其方を所望せられたのだ、不びんには思ふけれども是非なくその方を引渡す、定めて先方に於て手討にあふ事であらう、其方所詮なき命であるによつて、拙者の刀を其方に與へるから、拙者を斬つて立去れ、さうでなければ先方の手討になるのだ。」
 と云はれたので下人は、
 「それは左樣でございませうが、御主人樣、あなた樣は天下に名高き劍術の達者、私風情に、どうなるものではござりませぬ。」
 と辭退した、處が主人が云ふ。
 「イヤ、拙者はまだ死者狂の者を相手にした事がない、所詮無い命の貴樣を試〔ため〕しにしたいのだ、我が相手となつて力限りに働いて見よ。」
 そこで下人が、
 「左樣ならばお相手になりませう。」
 と立ち合つて勝負をした時に、その死者狂の烈しい太刀先きで主人何某は思はず後へ退けたが終に塀際まで追ひ詰められ既に危く見えたが、
 「エイ。」
 と一聲かけるや、下人を大袈裟に斬つてしまつたが、見物してゐた弟子に向ひ、
 「扨てさて死者狂は手剛い者だ、君達も斯樣な無uの事をこれからしなさるな、無手の下人さへ此の通り、況んや一流鍛錬のものなどに死者狂に働かれてはたまるものではあるまい。」
 と云つた、弟子がたづねて云ふ。
 「先生があのやうに追ひつめられなされたのは、事實追ひつめられなさつたのか、又偽つて退きなされたのでございますか。」
 師答へて曰く、
 「本當に追ひつめられたのぢや、下人の太刀先が鋭く、たまり兼ねて後へ下つたのに相違ない。」
 と答へる、そこで弟子がまた質問して、
 「左樣ならばあのエイと斬つてお捨てになつたのは、奴に隙があつたればこそでござりませう。」
 師曰く、
 「いやいや聊も隙はない、それを斬つてしまつた處は言葉では云へない妙といふものゝ助けである。」

 
    熊谷紋太夫

 下谷の七曲り杉浦隠岐守の家來で熊谷紋太夫といふ人、心形刀流の劍術の師匠であつたが、朝は昌平坂の學問所へ出で、歸つて子供に劍術を手をとりヘへてゐる處へ内弟子が亂心して不意に劍を拔いて紋太夫の後ろから斬りつけて來た、紋太夫は引き外しあしらふうちに何分子供の事を思ふものだから、子供をかばつてゐるうちに、片手を打ち落されて了つた、それでもひるまず、たうとう亂心者を取り抑へてしまつた、この亂心した内弟子は十二の時から養つて置いたものであつたから斯樣な狼籍を働いたけれどもなほ紋太夫は不びんに思つたといふ。
 紋太夫の劍術の師匠は旗本の三間鎌一郎といふ人であつたが、紋太夫はまだ傳授の卷物を皆傳に至つてゐなかつた、只今この手疵で果てゝしまつてはそれが殘念だといふことを鎌一郎へ申送つて願つた、鎌一郎はその執心を喜んで直ちに印可を持參して紋太夫の宅へ行き病床で免許皆傳を與へた。
 その時紋太夫聊か變つた氣色もなく平日の如くであつたにより、醫者もその氣力を感じてこの分ならば生命を保つこと疑ひなしといつたとのことである。
(事々録)

 
    高松の某士

 或時、高松侯の藩中に於て齋藤某といふものが亂心して、四五人の者に手を負はせて尚暴れ狂つてゐた、この者は一刀流を究めた劍術者でもあり、誰れも怖れて手向ふものもなかつたが、諸方を走り廻つて遂に廣鋪口へ斬り入つた、そこの番を勤めてゐた者は屋代某といつて身分の低い侍であつたが、これも一刀流を學んでゐたものであつたが、持場のことであるから已むを得ず立ち向つた。
 齋藤はまだ廿歳餘りの若く大きな男であつたが、長い刀を眞向に振り上げて來る、屋代が差した脇差は短いものであつたが一刀流の小太刀の手で向つた、然し必らずしも自信あつて向つたわけではないから、とても叶わぬものと思ひ夢のやうな氣持で兎に角向つたが、太刀で來るのを小脇差で三度まで右左へ斬り落した時はじめて敵の太刀先が分明に見えるやうに思はれたから手心が丈夫になつてその刀を打ち落し、飛びかゝつて組み伏せた、そこへ人々が馳け集つて繩をかけたといふことであるが、屋代が後日に至つてこのことを人に語つて云ふ。
 「流儀ではあるけれども、餘り小脇差は事に臨んで心細いものである、尺八寸よりうちのものは差さないがよろしい、また最初夢のやうに思つてゐた時分、袴のもゝだちを我れ知らず取り上げたが、後になつて見るとそれが高過ぎて如何にも見苦しかつた、もの前ではすべてそんな風に心持が顚倒するものである。」
 と、如何にも實驗から來た飾らざる云ひぶんに聞くものが感心したといふことである。
(甲子夜話)

 
    井上八郎

 幕末の劍道家が修業の爲上州へ赴いたが、博徒數人に圍まれ最初は正眼で戰つたけれども思はしくなく、やつとのことで斬り拔けた。
 ところがその晩山中に籠つて、自分ながら嘆息していふことには、
 「彼等如きが何十人來るとも、たかゞ博徒ではないか、それを相手にどうして今日はこんな拙劣な戰ひをしたものだらう。」
 と、數時間考へ込んでしまつたが遂に、
 「斯ういふ場合には上段に限る。」
 といふことを悟つてしまつた、翌日この山を出ようとする時にまた多勢の博徒に襲はれた、こゝぞとばかりこんどは上段に構へ込んで、いよいよ博徒が迫つて來て將に小手を斬らうとする時になつてはじめて打落し打落して戰つてゐるうちに遂に數人を斃して殘りのものを逃げ去らしてしまつたといふ事である。
(劍法至極評傳)

 
    不覺の劍士

 男谷下總守の門下で相當に勝れた使ひ手が二人、非常な失敗を演じた例がある。
 或時、この二人が上州の或る長脇差の親分の處を訪ねた、これは、豫て知つてゐる人間であつたが、その家に到り着くと丁度日暮れ方で、二百人ばかりの人數が群り集つてゐた、その時主人の親分が二人の劍客に向つて云ふには、
 「今夜、私の家でばくちの大會があります、一つ御覧になつてゐたゞきたいもので。」
 と、二人はそれを承知して、賭場〔どば〕へ行つて大博奕〔おほばくち〕を終りまで見物してゐた。
 場が終へてから右の親分が、前に進み恭しく金一封を出して禮を述べていふに、
 「昨晩はあなた方がおいでになつたお蔭樣で私共の身内が思ふ存分勝負をすることが出來ました、これはほんのお禮の寸志でございます、だが、あなた樣方がこゝにおいでになると、危いことがございますので、ゆるゆるお止め申しておもてなしをしたいのですが、さういふわけに參らぬ事情がございますから、どうぞこれを持つて一刻も早く、お立退きを願ひ度いのでございます。」
 と、二人の者が、どうもその云ふことがわからないから、
 「吾々は茲にゐるにはゐたけれども、何が役に立つたのだか立たなかつたのだか、わからないが兎に角何か役に立つたとしても、そんなに急に出かけなければならない理由がないではないか。」
 と、親分がそこでいふことには、
 「あなた方は失禮ながら劍術の方はおやりになつても、まだ實戰といふものを御存じがないのである、凡そ、命がけで喧嘩なり戰ひなりをやらうとするにも無茶ではいけませぬ、矢つ張り、敵を知り、己れを知るといふことがなければならないのです、實はこんど繩張の爭ひで、先方の相手とこつちの身うちと喧嘩になつてゐるのですが、敵は百人以上、味方はどうしても六十人、それに敵には腕の利いた使ひ手が六人もゐるのですから、どうしてもこつちが負けると覺悟を決めて居りました、處が不意にあなた方お二人樣がおいで下さつたので、私は、それとは云はずにあなた方をばくちを見物なさるやうにというて賭場へ御案内したのは失禮ながら事を未前に防ぐ爲にあなた方を御利用申上げたのであります、それで相手の方ではもうこつちの頭數を讀み切つてゐた處へ不意に天から降つたか地から湧いたか立派なお侍が二人りうとして控へておゐでなさるので、こいつはたまらない、意外だ、あれは大豪傑であるだらう、いよいよなぐり込んで來ればあの二人の爲に死人の山を築かれるに相違ない、といふので折角勝てる筈の戰を向ふは手を引いてしまひました、だがこれが爲にあなた方は彼奴等の怨みをすつかり背負つておしまひになつた、何かあなた方に仕返しをするに相違ないから、あぶないことのないふちに早くお立退きなさるがよい。」
 といふ申譯を聞いて是非なく二人はその家を立つて出かけたが、行くこと三里ばかりで後ろからオーイオーイと呼びかけるものがある、二人が立つて待つてゐると、その者が近寄つて來て、
 「失禮ながら、あなた方は昨晩あの貸元の賭場におゐでなすつた御兩方ではございませんか。」
 と尋ねられたので、何心なく、
 「さうだ。」
 と答へると、その者が矢庭に隠し持つたる匕首を拔いてづぶりと一人を刺し殺して馳せ去つてしまつた、他の一人はポカンとして腰を拔かした態で、何とも仕樣がなく、立ち歸つてその有樣を師匠に告げた處が、師匠下總守は日頃の訓戒を無視したと怒つて、その場で其者を破門してしまつた上に殺された方も追破門に處したとの事である。
(劍道極意)

 
    彰義隊士と薩兵

 明治戊辰の頃彰義隊の武士が十二三名、薩摩の兵十五六名と街上に出會つて、互に劍を拔いて闘つたが暫くして彰義隊の方が三人まで薩兵の爲に斬られてしまつた。
 この彰義隊は何れも錚々たる劍術の使ひ手であつたが、まづ斯くの如き敗勢に陥つたのを見て隊長はどうも不思議だ、こんな筈はないと改めて自分の隊の姿勢を見直すと何れもいづれも正眼の形を離れて兩腕を上にあげてゐたから、
 「小手を下に。」と大聲で號令をかけて姿勢を直し、改めて太刀を合せたので忽ちにして薩摩の兵を斬り盡したといふことである。
(劍道極意)

 
    渡 邊 昇

 子爵渡邊昇が眞劍勝負の實際を物語つて云ふ。
 「詞で話すと、ザツト斯樣な順序であるが、實はこの間のことは全く五分か三分間の出來ごとで云はゞ電光石火である、この間の心持なり又感想はどうかと云はれても前に云うた如くそれは斯く斯くであるとは到底説明されるものでは無い、世には眞劍勝負と云ふことは能く云ひもし聞きもする事であるが、芝居や物の本などで見るやうな平氣なものでは決してない、斬るか斬らるゝか、殺すか殺さるゝか、二つに一つ生死の境であるから、強ひてどうであつたかと問はるれば正直なところ殆んど無我夢中であつたと答へる外はない、この時でも全く敵を斬らうと思うて斬つたわけではなかつた、向ふで「渡邊ツ」と呼びかけたから「何ツ」と答へて同時に何時か一刀に手がかゝつて居つたといふやうな次第である、敵を斬つた事は後で刀に膏が乘つてゐるのを見てはじめて知つた位である。」



 PageTop     Back     Next