宮本武蔵 資料篇
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[資料] 繪本二島英勇記 巻之十  Back  

 無三四は佐々木官大夫(巌流の変名)に会いに行く。ただし、問題はある。巌流に巌流本人だと認めさせ、しかも無三四の実父・吉岡を闇討ちにしたことを認めさせる、という難題をクリアしなければ、ようするに、敵討ちにはならないのである。
 無三四は巌流の屋敷に乗り込んで、まず、「自分は諸国遍歴の武者修行の者、高名な先生を拝顔したい」という案内である。そうしてまんまと大座敷に通されて、さあ巌流との対面である。
 無三四は、尊大に構える官大夫(巌流)を挑発して怒らせ、「吉岡が在世中に出合っていたら、打ち倒したものを」と言わせる。そこで無三四は話を転じて、「貴殿は佐々木巌流殿ではないか」と図星を指す作戦に出る。官大夫(巌流)は、最初否定していたが、無三四が、「自分の従者は生国播州姫路の者だ、彼が貴殿のことを見知っている」と嘘言して、官大夫(巌流)を罠にはめる。
 官大夫(巌流)は姫路にいて、剣術師範をしていたが、吉岡太郎左衛門に負けて、その後姫路を去り、行方不明になった、というのが、ここでの暴露情報である。官大夫(巌流)は、あっさり巌流であることを認める。
 さらに無三四は詰問して、吉岡に負けたというだけで、巌流の名を改めるというのは、小人のすることだ、とかなんとか、巌流を散々怒らせておいて、それはともかく、自分は貴殿と試合がしたいだけなのだ、と言う。巌流は大言を吐くこの若い武芸者を打ち殺してやろうと思い、試合に同意する。しかも真剣勝負(真比試)でなければ、と無三四に水を向けると、むろん無三四は同意する。
 これで、流儀の優劣を競うだけの稽古試合ではなく、命を賭した真剣勝負を、無三四、巌流ともに、相手に同意させたことになる。巌流は無三四を打ち殺してやろうという腹で、また一方、無三四はもちろん、親の仇・巌流を殺せるからである。
 真剣勝負の決闘となると、負ければ死に損。互に将来に恨みのないことを約した契約を結び証文を取り交わす。無三四は従者・十助を証人に立て、押印の上証文を巌流に渡し、巌流はまた、門人二人を証人に立て、盟約状を無三四に渡す。しかも巌流は、客分とはいえ小倉の黒田家の師範人、当然城内にこの一件を文書で申告する。
 そういう手続きを踏んだ上で、さて無三四は、巌流に、「どうか佐々木巌流の名で、試合をしていただけまいか」と、頼み込む。「そんなに自分の実名にこだわるのはなぜか」、巌流が不審に思うと、無三四は、第二の暴露へと進む。
 すなわち、吉岡を暗殺したのは巌流で、「目撃者がないとはいえ、寝覚めが悪いので改名したのだろう」と詰め寄る。巌流が「そんな覚えはない」と否認すると、無三四は、「ここにいる十助が事件の一部始終を見た証人だ」と言い出す。続いて十助は、巌流に向かって、吉岡暗殺当夜の詳細を暴露する。
 むろん、実際の目撃者は、すでに読者も知るように、七助(十助の舅)以外になく、この贋の目撃者の証言は偽証にほかならないが、巌流はまんまとこの第二の罠にはまってしまい、吉岡を闇討ちにしたことを認める。そこで、巌流は、十助が先ほど生国播州姫路の者だと言ったのは、自分に実名を名乗らせるための策略だったかと、はじめて気づくが、しかし、この第二の目撃証言が嘘で、これまた自分を重ねてはめる罠だということには、気がつかない。
 巌流は無三四に、おまえは(吉岡にとって)何者か、と問う。巌流は、目の前にいる若者が何者か、知らなかったことに気づくのである。ここではじめて、無三四は、自分は吉岡の次男だと明らかにし、四年の間苦労して探し求めたが、やっと実父の敵討ちができると、復讐の位置づけをしてしまう。しかし巌流も、「その孝心に感じて、実名で勝負をしてやろう」と、これを了解する。もちろん返り討ちにしてやる腹である。
 ここまでの問答は、いささか面倒な手続きをへて、巌流に試合を同意させただけではなく、敵討ちだと認めさせたということである。ここへもって行くためには、二つの嘘が、巌流を嵌める罠として用意されており、それを知らぬ巌流は、無三四の策略に嵌められてしまったわけである。
 こういう策略は、前巻に、斉の晏嬰のいわゆる「二桃三士を殺す」の故事への言及のあったことを想起させ、無三四が晏嬰なら、巌流は晏嬰に嵌められた三士であり、巌流への同情の余地を開いている。
 さて、続いて場面は、小倉沖の小島での決闘へと移るのだが、それをめぐって、小倉城下では大騒動で、巌流の門人らが加勢しようと海へ押し出すわ、それを制止する役人を乗せた官船が発進するわ、加えて見物の町人たちまで我先きにと海上へ漕ぎ出すという騒ぎ。このあたりは、いわば盛大な祝祭的興奮のスペクタクルであり、鳴物入りで最高に盛り上がるシーンである。ことほどさように、本書では、この海上シーンの絵は多くて、しかも連続している。
 勝負は無三四の勝ち。無三四は、これが復讐(敵討ち)であることを記した文書を、上陸した役人に手渡し、旅宿で裁許を待つことになった。そこで、前勘解由入道、つまり大殿・黒田吉高が前面に登場、無三四に好意的な裁きを行なう。となると、この物語のルールでは、やはりこれは、加藤清正が「佐藤」清正へシフトされたように、黒田孝高は「吉高」と名をズラす必要があったのである。
       加藤清正 → 佐藤清正
       黒田孝高 → 黒田吉高
 それだけではなく、巌流島となる沖の小島も、小倉沖とし、その方角も実際は北方であるべきが、小倉の「南」の海上にあるというわけで、島の場所や地理そのものも変えてある。作者は地誌に詳しいから、フィクションだという有徴化が必要とみて、わざわざそのように改変したのである。となると、この巌流島は、現実にはどこにもない島だということを、読者は承知しなければならない。『繪本二島英勇記』というタイトルにある「二島」が「二刀」の言語遊戯であることは見やすい道理だが、もう一つ、これが現実の島と仮想の島の二島だという含意もあることは、看過されてはなるまい。
 さて、巌流に勝ったあと、小倉の黒田吉高入道という英雄から、厚遇された無三四は、やがて放免され、国境まで丁重に護送され(これは播州姫路で吉岡が受けた待遇の反復)、その後、筑前名島へ行き、実父吉岡の墓へ詣で、復讐の報告をするとともに、吉岡の高弟等とも会い、さらに十助とともに七助の家へ行き数日逗留する。
 そうしておいて、無三四は肥後熊木へ急ぎ帰る。出迎えたのは、舎弟・友之助一人である。無三四がわけを問うと、宮本の養父母ともにすでに死んでしまっていた。無三四は落胆して十数日を過ごすが、ある日、弟に、自分はもう仕官するつもりはないと、家を出ることを告げ、思い止まってほしいという弟の懇願をも聞き入れず、肥後熊木を立ち去る――ということで、この物語は終りである。
 すなわち、物語は、主人公が艱難辛苦のイニシエーション・プロセスを経て、ついに自身の場所を得る、というハッピーエンドで終るのではない。これもまた、きわめて興味深いところである。以下の解説は、このページの最後に「附記」として掲げてあるのでそれを読まれたい。
 それよりも、まずは、無三四はいかにして巌流と対決し、勝利するのか、それを一読する必要があろう。

 
   卷之十 目録
 【原 文】

繪本二島英勇記 巻之十
    目 録

  無三四對面巌流之事
    無三四巌流面會十助巌流と説話の圖
    無三四巌流と期を約して小嶼に渡る圖
  無三四討巌流事
    官舩競ふて海を渡る圖
    其 二
    其 三
    山内堀の両士君命を奉て
           警固に出る圖
    無三四巌流と雌雄を決する圖
  宮本無三四始終之事
    無三四舎弟友之助に對面
    并故武左衛門之門人等慶賀に來る圖

 【現代語訳】

絵本二島英勇記 巻之十
    目 録

  無三四、巌流と対面の事
    [絵]無三四、巌流と面会し、
          十助、巌流と説話の図
    [絵]無三四、巌流と期を約して、小島に渡る図
  無三四、巌流を討つ事
    [絵]官船が競って海を渡る図
    [絵]官船が競って海を渡る図 其二
    [絵]官船が競って海を渡る図 其三
    [絵]山内堀の両士、君命をうけて警固に出る図
    [絵]無三四、巌流と雌雄を決する図
  宮本無三四の行く末の事
    [絵]無三四、舎弟友之助に対面、ならびに、
      故武右衛門の門人らが帰国の慶賀に来る図



巻之十 1
1 ・・ 巻之十 ・・  

巻之十 1/2
2 ・・ 巻之十 ・・ 1

巻之十 2/3 無三四巌流面會十助巌流と説話の圖
3 ・・ 巻之十 無三四巌流面會十助巌流と説話の圖 ・・ 2

巻之十 3/4
4 ・・ 巻之十 ・・ 3

 
   1 無三四對面巌流の事(1)
 【原 文】

   無三四對面巌流の事

 宮本無三四は、既に佐々木官大夫が人物〔じんぶつ〕を見て、巌流なるべき事を腹に察し、やがて十助を召連、渠が宿所に至り、玄關に案内しけれバ、一人の若黨立出で、何れの御方にて候ぞ。
 無三四申けるハ、某は諸國を廻〔めぐ〕りて武者修行いたす浪人、宮本無三四と申もの也。先生の高名既に四國中國までも鳴響〔なりひゞき〕候間、此度態々〔わざ/\〕拝顔仕らんため参たり。若〔もし〕御對面下されなバ満足に存奉ると、懐中より名貼〔なふだ〕を取出し、慇懃に述けれバ、若黨其儘奥に入、官大夫に斯〔かく〕と告けれバ、礼譲慇懃なる由を聞、無三四を大聽〔おほざしき〕のうちに迎〔むかへ〕させ、暫くあつて立出づるに、其体はなハだ尊大にして、少も遜〔ゆづ〕る氣色なく、座定り寒暑の談〔あいさつ〕畢りて後、官大夫、無三四が顔を熟〔つく/\〕とうちながめ、足下〔ごへん〕ハ先月中旬〔なかごろ〕、池塘〔ちたう〕の辺において對面いたしたる仁〔じん〕にあらずや。
 無三四答て、実〔じつ〕に然り。某〔それがし〕其時は一人の農夫を同往〔どう/\〕いたせし間、貴館へ訪〔とむら〕ハず、直さま筑前博多邊〔へん〕へ参り、思ハず日を送りて今日〔こんにち〕に及び候ぬ。某幼稚の時より武藝一ミちに心をゆだね、少く学び得たる所あれども、いまだ心底〔しんてい〕に叶ざるが故に、あまねく天下を徘徊して名師〔めいし〕に出合〔いであひ〕、その機関〔きくわん〕の底を叩き、道を明らかにせんと存じ、諸国を馳廻りて此三四年の間、劔術達人とさへ承れば見参いたし、得失の論は仕らず比量〔しあひ〕を仕り試るに、いまだ某が右に出るものなく、夫故〔それゆへ〕彼方此方にて猥〔みだ〕りに名師を尋問ふに、或人申ハ、筑前國名島の家中に、吉岡太郎右衛門といふ者あり。此人こそ當世〔たうせい〕の一人なりと語りし間〔まゝ〕、某が心中大きに力を得、一ツにハ吉岡に對面して武術の蘊奥をも承ハり、次にハ貴所〔きしよ〕にも對面いたし、一比量〔しあひ〕仕らんと存じ、海を渡り九州に來りしに、名島の土民が噂に承れバ、吉岡は不慮の事ありて先年横死〔わうし〕致せし由、懊悩〔ざんねん〕少なからざる処なり。是によつて今日貴館へ参りしハ、比量〔しあひ〕の望あつて推参仕ると、敢て謙退〔けんたい〕の氣色もなく、さも大勇〔だいゆう〕に申ける。
 官大夫もとより果敢にして堪〔こらへ〕ざる男なりしかバ、今無三四が一言に、吉岡を敬し我をいやしむる如く聞ゆるのミならず、若年にして大言を吐事を憤り、怒心頭より起つて申けるハ、我も吉岡が存生の間〔うち〕に對面仕らざる事を深く残念に存ずる也。若それがし吉岡に出合〔であひ〕なバ、一打に打倒して呉〔くれ〕んものを。
 無三四又申けるハ、足下〔ごへん〕ハ佐々木巌流殿ならずや。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

    無三四、巌流に対面の事

 宮本無三四は、すでに佐々木官大夫の人物[容姿]を見て、(彼が)巌流であると確信し、やがて十助を召し連れ、彼の屋敷に至り、玄関で案内する[ここは取次ぎを頼むの意]と、一人の若党が出て来て、「どちらのお方でございますか」。
 無三四が言ったのは、「それがしは、諸国をめぐって武者修行をいたす浪人、宮本無三四と申す者です。先生(佐々木官大夫)の高名は、いまや四国・中国までも鳴り響いていますので、このたび、わざわざ拝顔するために参りました。もし御対面下されるなら、満足に存じます」と、懐中から名札[ルビによる。名刺のこと]を取出し、慇懃に述べた。若党は、そのまま奥に入り、官大夫に、こうですと告げたので、(客=無三四が)礼譲慇懃[礼儀正しい]なのを聞いて、無三四を大座敷[ルビによる。広間]の中へ通させ、しばらくあって(官大夫が)出てきたが、その態度ははなはだ尊大で、少しも謙譲の気色はなく、座が定って寒暑の挨拶[ルビによる。時候の挨拶]が終って後、官大夫は、無三四の顔をつくづくと見て、「貴殿は、先月中ごろ、池の堤のあたりで対面いたしたお人ではないか」。
 無三四、答えて、「まさにそうです。それがしは、あのとき一人の農夫を同道しておりましたので、貴館[貴殿の屋敷]へも伺わず、すぐさま筑前博多のあたりへ参り、思いがけなく日を過ごして、今日に至りました。それがしは、幼い時から武芸一途に心をゆだね、少しく学び得たところがありますが、いまだ心底では満足できませんので、あまねく天下を徘徊して、有名な師匠に出合い、その働きの根底に参究し[機関の底を叩くは禅家用語]、道を明らかにしようと存じまして、諸国を馳せ廻って、この三、四年の間、剣術の達人とさえ聞けば見参いたし、得失の論[理論のあげつらい]はせず、試合をしてみましたが、いまだにそれがしの右に出る者がなく、それゆえ、あちらこちらと目当てもなく、有名な師匠を尋ね問うておりますと、ある人が言いますには、「筑前の国名島の家中に、吉岡太郎右衛門という者がいる。この人こそ現代の第一人者だ」とのことで、それがしの心の中に大いに力を得、まずは、吉岡に対面して武術の蘊奥を教えてもらい、次には、貴殿にも対面いたし、一試合したいと存じ、海を渡り九州に来ましたが、名島の土民[ここは農民]の噂に聞きますに、吉岡は不慮の事があって先年横死したとの由、残念(の思いが)少なからざるところです。それで、今日貴館へ参りましたのは、(貴殿との)試合の望みがあって推参した次第です」と、あえて謙退の気色もなく、さも大げさに勇ましげ[大勇は真に勇気あることだが、ここは意味が異なる]に語った。
 官大夫は、もともと果敢[攻撃的]で、堪らえ(性の)ない男だったので、今や無三四の一言に、吉岡を尊敬して自分を蔑視しているように聞こえるだけではなく、若年なのに大言を吐くのを憤り、怒りが心頭より起って、言ったのは、「私も、吉岡が存生のうちに対面しなかったのを、深く残念に思っておる。もし、それがしが吉岡に出合っていたら、一打ちで打ち倒してやったものを」。
 そこで無三四が言ったのは、「貴殿は、佐々木巌流殿ではありませんか」。


巻之十 4/5
5 ・・ 巻之十 ・・ 4

巻之十 5/6
6 ・・ 巻之十 ・・ 5

巻之十 6/7
7 ・・ 巻之十 ・・ 6

 
   2 無三四對面巌流の事(2)
 【原 文】

   無三四對面巌流の事 (承前)

 官大夫甚だ驚き、某全く左様の者にあらず。
 無三四曰、否〔いや〕、足下いかに覆し包ミ玉ふ共、たしかに足下を見識〔みしり〕たる證人あり。即某が僕は、生国播姫路の者なり。先日某此所へ着〔ちやく〕いたして後、いさゝか所労によつて、旅宿に逗留仕る事五日許、渠はからず足下を見付、我に告て、官大夫と申ハ、則我國に逗留の間〔うち〕は、佐々木巌流と申せし人也と語れり。若わが言〔ことば〕を信じ玉ハずは、僕を呼出して見参致させ申さん。およそ人たる者、時に臨んで姓名を改〔あらたむ〕るは、古今の通例也。足下何故それ程には深くつゝまるゝや。
 官大夫莞尓〔につこ〕とうち笑ひ、我足下とハ初ての對面なり。然るに思ひがけなき我初名〔しよめい〕を指〔さゝ〕れたるにより、思ハず驚いて答話〔たふわ〕にまよひ、前名〔ぜんミやう〕を覆んといたしたり。成程某初めの名は巌流也。
 無三四申けるハ、巌流殿ならば、吉岡には往昔〔むかし〕出合玉ひつべし。しかるを、若吉岡が存生のうちに出合なば、打倒さんものをとの給ふは、あまり餘所〔よそ〕げなる言〔ことば〕かな。既に播州姫路の城下に於て、吉岡太郎右衛門がために、足下却て打倒され玉ひし事ハ、我僕〔わがぼく〕眼前にこれを見たりと申す。我も又播州に参りし節、彼家の諸士が物語に、前年如々〔しかじか〕の事ありて、城外の旅店〔りよてん〕に於て爭ひ起り、巌流と吉岡と互ひに手を接〔まじ〕へ闘しが、巌流立どころに打負、其後姫路を立去、いかゞなりしや、その趨く所を知らずと申せり。其説の如くならバ、吉岡にうち倒され玉ひし事、明白なりと申すにぞ、
 官大夫、無三四がためにむかしの羞辱〔はぢ〕を説顯〔ときあら〕ハされ、流石〔さすが〕豪氣の性質〔うまれつき〕なりといへども、敢て口をひらく事あたハず、満面忽ち紅〔べに〕のごとく成て居たりしが、哥々〔から/\〕と笑ひ申けるハ、すべて武藝にハ、熟不熟の時あり。考ふるに、其時は今年〔こんねん〕より五ケ年以前、某が武術今に比べミれバ、遥かに未練の時なり。若唯今に於て吉岡に出會なバ、何條〔なんでう〕吉岡といふとも我前にハ立れまじきものを。
 無三四も同じく口を開ひて大きに笑ひ、足下の論は、たゞ己れ有て人無〔ひとなき〕の論といふもの也。足下既に五ケ年の間〔うち〕に、大に自得する所あらバ、渠もまた五ケ年の内にハ、遥に玄妙を得る所あるべし。是等の論は、唯言を匠〔たくミ〕にし、己を利する僻論〔へきろん〕、畢竟する処確論〔もっとものろん〕とは云ひがたし。縦〔よし〕や吉岡に負玉ひしことハ、何の羞かあらん。然るに小人〔せうじん〕の如くその羞を包ミ覆し、姓名を改るほどの事には曁〔およ〕ぶまじきものを、それにハふかき子細ぞあらん。其事ハ強て某が問究〔とひきハ〕むるに及ばざる義なり。某はたゞ足下と試合をいたし度〔たき〕望なりと、言語〔げんぎよ〕の底に官大夫が恥辱をかぞへあげ、渠十分の憤りを催し氣を励す如〔やう〕に説ければ、
 官大夫心中はなハだ憤り、殊に無三四が年齢漸く微若〔びじやく〕なるを以て、一打に打居〔うちすへ〕んと懐ひけれバ、打點〔うちうなづ〕き申けるハ、某當家に來て後、いまだ三ケ年の間に、嘗て足下の如くなる豪傑に出會〔しゆつくわひ〕せず。望に任せ試合いたすべし。然れ共、都て比量〔しあひ〕にハ二ツの倣〔なら〕ひあり。一ツハ眞比試〔しんひし〕と云、一ツは假比試〔かひし〕と云。眞比試は一身をかけて比量〔しあふ〕。これ俗にいふ眞劔試合也。假比試は竹刀木刀〔ちくたうしなへ〕を以て尋常の稽古比量のごとく、仮に勝負を試みるまでの事なり。是れによつて、某、假比試は實〔じつ〕の勝負にあらざるが故に、何人にもあれ、我方〔わがゝた〕に來り比量〔しあひ〕を臨〔のぞ〕む仁〔じん〕にハ、何時にても眞劔にて御訪〔おとな〕ひ申す。されど是までたまたま比量を望て來る人も、僉〔ミな〕眞劔を見てハ戦慄〔ミぶるひ〕して迯帰るのミ。足下眞劔にて試らるゝや、唯世間並の木刀にての立合を臨まるゝや、承らんと申ける。
 即此一言〔いちごん〕官大夫無三四が強弱を様試〔ためしこゝろミ〕るといふもの也。其故は無三四眞劔といふに聞怖〔きゝおぢ〕して遁れ帰る歟、若又真劔の勝負を臨むとも、渠僅に二十有許〔はたちばかり〕の年齢〔としばい〕、腹の中〔うち〕より学びたり共、尺〔たけ〕の知〔しれ〕たる藝術、己は三十年來昼夜の界〔さかひ〕なく修行をなし、別して五ケ年以前吉岡に打負し後は、只顧〔ひたすら〕に武を講じ、今ハ己に及ぶ者普天の下には有まじと、いさゝか慢心胸に満〔ミち〕、真劔の勝負に詫〔かこつけ〕て打殺し呉んものをと、腹に計〔はかり〕し奸曲なり。
 無三四もとより好む所なれバ、快然〔くわいぜん〕として笑を含ミ、眞劔の義、我望む處なり。足下ハ眞劔を携〔と〕らるべし。某は木刀を以て御相手〔ごあひて〕に相成べし。我師小笠原〔をがさわら〕*新三郎、某に教諭〔さとし〕して、人命の尊き事ハ天地の如し。猥りに人命を傷〔そこな〕ふ事なかれと、某師の教誠〔けうかい〕を蒙りて後、その高論〔かうろん〕に服し、相手ハ真劔、己は木刀と云法律〔はふりつ〕を立、國々に於てたま/\真劔にて勝負せんと臨む人あれバ、相手にハ真劔を携〔とら〕せ、我は木刀にて立合ふ。腹に悪念有て立合ひ、猥りに我を害せんと思ふ者をバ、我立所に木刀にて打殺し、又我木刀の玄妙に伏して、戦のうちに先非〔せんひ〕を悔、帰伏する者は、某一々命を助くる。是に依て某が手裏〔てのうち〕の木刀は、即木刀の真劔、真劔の木刀。生活動作〔せいかつどうさ〕我掌〔たなごゝろ〕におぼへありと、少しも動ぜぬ返答に、
 官大夫ます/\憤りを含ミ、然らバ速に勝負を決すべし。さりながら某當所に逗留の間〔うち〕、家中の師範を憑〔たの〕まれ、城主より格別に接待せられ、當分賂料として年俸〔あてがひ〕五百石を辱〔かたじ〕けなうす。即今〔たゞいま〕足下と真劔勝負の義を、監察の方〔かた〕まで届おいて試合申べし。扨〔さて〕眞劔の試合ハ、一方ハ死亡するか傷損〔けが〕する歟、二ツの間を免るゝ事あたハず。然らバ殺されたるかたハ殺され損〔ぞん〕、勝ば勝徳〔かちどく〕也。互に此事ハ将来を約し、一札〔いつさつ〕を取換〔とりかハ〕し、監察の方へ訟〔うつたゆ〕る事、文書〔かきつけ〕にも両人の實印を押て、後日〔ごにち〕の異論を免れん。また城下を騒さん事もいかゞなれバ、此所の南の海外壹里ばかりに當つて、一ツの小嶼〔こじま〕あり。此所人家もなき所なれバ、外〔ほか〕に妨すべき者もなし。彼處にて勝負せんはいかにと申けれバ、
 無三四横手〔よこで〕をうち、足下の言〔ことば〕こと/\く確論〔くわくろん〕なり。我に於てハ浮雲流水〔ふうんりうすい〕の浪人。足下迚〔とて〕も普天の下に主人なき潔白の豪傑、自己の死傷は互ひの心に任すといへども、城下を騒動させんは、領主への恐れあり。扨〔さて〕證文は先〔まづ〕某より書て進上申べし。しかし證人なくてハ何の益かあらん。幸ひ某僕を召連たれば、我等が方〔かた〕の證人にハ此ものを立べしと、やがて十助を庭前〔ていぜん〕へ呼入、證人とし、一紙〔いつし〕の盟状を認め、假令〔たとへ〕バ死亡傷損仕るとも、死損〔しにぞん〕たるべき旨、書畢りて、實印を居〔す〕へ、十助にも爪形〔つめがた〕を印させ、官大夫に渡しけれバ、官大夫も同じく盟約の文をしたゝめ、折節〔をりふし〕門人両人來りてありしかバ、両人の門人に花押〔かきはん〕を書加〔かきくハへ〕させ、證人と定め、無三四へ渡し、同く一通の文書〔かきつけ〕を作り、監察の方へ遣し、直に立上らんとする處を、無三四官大夫を押とゞめて申けるハ、足下願はくは、昔の如く、佐々木巌流と名乗て勝負して賜るまじきや。

(以下つづく)

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 【現代語訳】

   無三四、巌流に対面の事 (承前)

 官大夫は、はなはだ驚き、「それがしは、全くさようの者ではない」。
 無三四は云う、「いや。貴殿がいかに包み隠されても、たしかに貴殿を見知っている証人がおります。それがしの従者[僕は高踏表現]は、生国播州姫路の者です。先日、それがしがここへ到着して後、いささか疲れが出て旅宿に五日ばかり逗留しましたが、彼ははからずも貴殿を見つけ、私に告げて、「官大夫というのは、我が国[ここは播磨国のこと]に逗留のうちは、佐々木巌流といっていた人です」と語りました。もし私の言葉をお信じにならないのなら、従者を呼出して見参させましょう。およそ、人たる者が、時に臨んで姓名を改めるは、古今の通例です。貴殿は何ゆえそれ程までに深く隠されるのですか」。
 官大夫はにっこり[ルビによる。莞爾]と笑い、「私は貴殿とは初めての対面だ。しかるに、思いがけなく我が初名を指摘されたので、思わず驚いて返答に迷い、前名を隠そうとした。なるほど、それがしの初めの名は、巌流だ」。
 無三四が言うには、「巌流殿ならば、吉岡とはむかし仕合なさったでしょう。そのはずなのに、「もし吉岡が存生のうちに立合っていたら、打ち倒したものを」と言われるのは、あまりにもよそげな[よそよそしい。知らぬ顔の]言葉ではありませんか。以前、播州姫路の城下において、吉岡太郎右衛門に、貴殿が逆に打ち倒されましたことは、私の従者が眼の前でそれを見たと言っています。私もまた、播州に参ったおり、かの家[姫路城主・此下家]の諸士の話に、「前年しかじかの事があって、城下の旅館で諍いが起り、巌流と吉岡が互いに手を交え[ルビによる。立合]、闘ったが、巌流はたちどころに負け、そののち姫路を立ち去り、(その後)どうなったか、その行方は知れない」と申しました。その話の通りならば、(貴殿が)吉岡にうち倒されたことは、明白です」と言うので、
 官大夫は、無三四に昔の恥を暴露され、さすがに豪気の生まれつき[ルビによる]だとはいえ、あえて口をひらくこともできず、満面たちまち紅のように(真っ赤に)なっていたが、からからと高笑いして言うには、「すべて武芸には、熟不熟の時がある。考えれば、あの時は今年より五年前、それがしの武術は、今と比べてみれば、遥かに未熟の時だ。もし今、吉岡に出合ったら、いかに吉岡とはいえ、私の前に立てないだろうに[私の相手にはならないだろう]」。
 無三四も同じく口を開いて大いに笑い、「貴殿の論は、ただ自分だけがあって他人がいない論[自己中心的、egocentricな言い分]というものです。貴殿がこの五年のうちに大いに自得するところがあれば、彼もまた、五年の内には、遥かに玄妙[ここは高度な芸術]を得るところがあるはず。そういう(貴殿の)論は、ただ言葉を巧みにして己れを利する僻論[偏った論法]、畢竟するところ、尤もの論[ルビによる。説得力のある議論]とは言いがたい。たとえ、吉岡にお負けになったとしても、何の恥がありましょう。しかるに、小人[徳のない小人物]のように、その恥を包み隠し、姓名を改めるほどのことまでなさるには及びますまいに、それには深いご事情がおありなのでしょう。そのことは、強いてそれがしが問い詰める必要のないことです。それがしの望みは、ただ貴殿と仕合をしたいだけなのです」と、言語の底に、官大夫の恥辱を列挙し、彼が十分に憤りを催し、気[闘争心]を励ますように、(挑発して)語ると、
 官大夫は、心中非常に憤り、ことに無三四の年齢がまったく子供みたいに若いので、「一打ちに打ちすえて[懲らしめて]やろう」と思い、うなづいて言うには、「それがしは、当家[小倉の黒田家]に来て以来、三年になるが、いまだかつて貴殿のような豪傑に出会ったことがない。お望みに任せ、試合をいたそう。しかれども、すべて試合[ルビによる。以下同じ。比量は優劣比較のこと]には通例二つのやり方がある。一つは、真比試(しんひし)といい、一つは仮比試(かひし)という。[以下、真比試と仮比試の解説]真比試は一命を賭して試合う。これは俗にいう真剣試合だ。仮比試は、竹刀木刀でやる普通の稽古試合のように、仮に勝負を試みるまでのことだ。そこで、それがしは、仮比試は真実の勝負ではないが故に、だれであっても我が方に来て試合を望む[以下、臨むは望む]お人には、いつでも真剣で(試合を)お伺いする。ところが、これまで時たま、試合を望んでやって来る人も(いたが)、みな真剣を見ては身震い[ルビによる]して逃げ帰るだけだった。貴殿は真剣で試合をされるのか、(それとも)ただ世間並みの木刀での立合いを望まれるのか、承ろう」と言った。
 つまり、この一言は、官大夫が無三四の強弱を試してみた、ということである。そのわけは、真剣というのを無三四が聞いて怖くなって逃げ帰るか、またもし真剣の勝負を望むとしても、彼はやっと二十歳そこそこの年齢、体得したものがあるとしても、それは丈の知れた[ルビによる。方寸]芸術、自分は三十年来昼夜の境なく修行をなし、とくに五年前吉岡に負けた後は、ひたすらに武を講じ[武術鍛錬し]、今は自分に及ぶ者はこの広い天下にもあるまいと、いささか慢心が胸に満ち、真剣の勝負にかこつけて、打殺してやろうと、という腹で、計った奸曲[よこしまなこと]である。
 無三四は、もとより望むところなので、快然として笑みをうかべ、「真剣の試合は、我が望むところです。貴殿は真剣をお持ちください。それがしは木刀で御相手になりましょう。我が師・小笠原新三郎[前出巻之七参照。ただし小笠原ではなく笠原新三郎]が、それがしに教え諭して、「人命の尊き事は天地の如し、みだりに人命を損なうな」と(言われました)。それがしは、師の教誠を受けて後、その高論[高邁な説論]に服し、《相手は真剣、己れは木刀》という法律[戒律、掟]を立て、さまざまな国で、時おり真剣で勝負しようと望む人があれば、相手には真剣を持たせ、自分は木刀で立合いました。腹に悪念[悪意]があって立合い、みだりに私を害しようと思う相手は、私はたちどころに木刀で打ち殺し[殺しては人命尊重にならないが]、また我が木刀の玄妙に伏して、戦いの最中に先非を悔い帰伏する者はすべて、それがしは命を助けた。したがって、それがしの手中の木刀は、つまり、木刀の真剣、真剣の木刀。その生活動作[生きた働き]は我が掌に会得しております」と、少しも動じない返答に、
 官大夫はますます怒気を含んで、「では、速やかに勝負を決しよう。しかし、それがしは当地に逗留のうち、家中(の諸士)の師範を頼まれ、城主より格別に待遇され、当分賂料として年俸[宛行扶持]五百石を頂いておる。だから、ただ今[ルビによる]貴殿と真剣勝負の件を、目付[監察は漢流]の方まで届け出ておいて、試合することしよう。さて、真剣の試合は、一方が死亡するか負傷するか、どちらかを免れることはできない。しからば、殺された方は殺され損、勝てば勝ち得である。互いにこのことは、将来(怨みなきことを)を約し、一札[契約書]を取り交わし、目付の方へ申告すること(にして)、文書(書付)にも両人の実印を押して、後日の異論を免れるようにしよう。また、城下を騒がせることも問題なので、ここの南の沖一里(約四km)ほどに、一つの小島がある[海は小倉の北にあって南にはない。これも設定のズラし]。そこは人家もない所なので、他に妨げる者もない。そこで勝負するのはどうか」と言ったので、
 無三四は、(わが意を得たりと)横手を打ち[両手を打ち合わせ]、「貴殿の言葉は、ことごとく確論[もっともの論]です。私の場合は、浮雲流水[一所不住]の浪人。貴殿とても普天の下に主人なき潔白の豪傑[主人持ちは穢れがあるという観念]、自身の死傷はお互いの勝手とはいえ、(やはり)城下を騒動させるのは、領主への恐れがあります。さて、証文は、まずそれがしから書いて(貴殿に)差上げましょう。しかし(証文も)、証人がなくては何の役にたちましょうか。幸い、それがしは従者を連れていますので、我ら方の証人にはこの者を立てましょう」と、すぐさま十助を庭先へ呼び入れ、証人とし、一紙の盟状を書き認め、たとえ死亡傷損しても死に損だという旨を書きおわって、実印を押し、十助にも爪形[印章代りの爪印。拇印]を印させ、官大夫に渡すと、官大夫も同じく盟約の文を書き認め、ちょうど門人二人が来ていたので、その二人に花押を書き加えさせ、証人と定め、無三四へ渡し、同じく一通の文書(書付)を作り、目付の方へ提出させ[つまり文書は計三通。うち二通は相互に交換する契約書。一通は目付への届出書]、直ちに立ち上ろうとする。そのとき、無三四は官大夫を押しとどめて言うには、「貴殿、どうか、昔のように佐々木巌流と名乗って、勝負してくださるまいか」。


巻之十 7/8
8 ・・ 巻之十 ・・ 7

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10 ・・ 巻之十 ・・ 9

 
   3 無三四對面巌流の事(3)
 【原 文】

   無三四對面巌流の事 (承前)

 官大夫眉をひそめ、今端的〔たんてき〕勝負の際に臨んで、人の姓名の事までを右〔と〕や左〔かく〕、貪着〔とんぢやく〕せらるゝハ、何〔いか〕なる道理ぞ。
 無三四答へて、然らば足下本名を改られし來歴は、何なる故にて候ぞ。官大夫いまだ答ざる時、無三四再び官大夫が側〔かたはら〕近くすり寄、足下の改名の子細は、某その腹中〔ふくちう〕に入らずといへども、能〔よく〕しれり。吉岡太郎右衛門がために、いさゝか羞辱〔はづかしめ〕を蒙りし事を憤り、天正十八年四月十五日夜、吉岡を闇討に殺し、外〔ほか〕に見る者ハなしといへども、流石に大膽の人物も寝覚〔ねざめ〕快からず、改名ありしにあらずや。
 官大夫此時顔色〔がんしよく〕大きに赧〔あか〕らミ、我決して覚悟せざる処なり。其にハ正しき證據ありての事か。
 無三四其證人は、それにある我僕十助也。
 其時十助、官大夫に向ひ、其夜の有状〔ありさま〕こまかに語り申さん。聞玉へ。四月十五日、日暮て後雷雨おびただ敷〔しく〕、深更に及んで一天快く晴て、昼の如くなりしに、吉岡殿僕をも連ず只一人、謡曲〔うたひ〕高らかに諷ひ、鳴尾五郎左衛門といふ人の別荘〔やしき〕の裏門前〔うらもんぜん〕、一方は大藪茂り、一方は屋敷の高塀、枳殻籬〔きこくがき〕の際〔きハ〕に來り給ひし処を、御身その跡より黒き小袖を着し、草鞋〔わらんじ〕をはき、無言にして後より迫り近付、吉岡殿の右手〔めて〕の肩先より、ねらひ打に切付られしかバ、深手にてありし故、二言といはず俯臥〔うつぶし〕に倒れ玉ふを、忽ち髻〔もとどり〕を摑〔つか〕んで引仰〔ひきあをの〕け、血刀を取直し、いかに吉岡、先年某に恥辱を与し其恨、覚たるかと、世に恐しき聲をいだし、胸板を足にて踏しめ、吭〔のどぶへ〕二刀〔ふたかたな〕つゞけざしにせらるゝ折から、鳴尾の屋敷の内より数多の人聲して、門外に人をあやめたる者ありと覚〔おぼゆ〕るぞ。棒よ鎗よとひしめくを聞、其まゝ刀を鞘に納め、東の方へ迯られし事を、慥に覚玉ふか。唯今の物語、符節〔わりふ〕を合せたるが如くならん。
 官大夫十助が言處〔いふところ〕、誠にすこしも違ハざるを聞、黙然として頭〔かしら〕を傾け、汝が一言悉く割符を合せたるがごとし。某いかにも吉岡氏〔うぢ〕に恥辱を蒙りしを憤り、闇討に討〔うつ〕たり。後に思へらく、嗚呼〔あゝ〕よしなき事をせしもの哉〔かな〕と、後悔せしかども、悔て返らず。汝いづれの所にありて、如此〔かく〕つまびらかに蹺蹊〔やうす〕を知るや。
 十助答て、私〔わたくし〕は、吉岡殿の隣家に溝口源兵衛といふ人あり、其家の僕なり。主人の要用〔えうよう〕に就て其邊に行かゝり、計らず物かげにありて、其夜の始終をこと/\く見たり。其後忙てゝ主人の家に帰り、此の事を語りぬ。既に吉岡殿横死につき、其翌日より國中〔こくちう〕吟昧厳しく、若や家中の士等〔さむらひども〕の所行〔しハざ〕にやと、區々〔まち/\〕の評定、これによつて其夜の子細知たるものハ私一人、この事主人源兵衛より城主へ訴出、それ故我さま/\の口問〔くちどひ〕に預り、具〔つぶさ〕に御身の模様、ならびに罵り玉ひし事共、申上しかバ、扨は去年吉岡に恥辱を蒙りし者ハ、播州姫路に住する所の浪人、佐々木巌流に相違なしと、當分に一決せり。
 官大夫又曰、先刻無三四の言〔ことば〕に、家僕〔わがぼく〕は播州姫路の産なりと申されしハ、某に実名〔じつミやう〕を名乗らせん爲の調略〔てうりやく〕にて有けるよな。寔〔まこと〕に愼心〔つゝし〕むべきは天の命なり。然らバ宮本氏は吉岡がためにハ實に何人〔なんひと〕ぞ。
 無三四答て、某は太郎右衛門が次男、肥後國熊木の家士、宮本武右衛門がために、襁褓〔きやうほう〕の内より養子となれり。今実父の讐〔あだ〕を報ずべき人なきが故に、養父を辞し、主人主計頭清正へ願書を奉りしかども、敵討の願ひは如々〔しか/\〕の事にて聴〔ゆる〕し給ず、武者修行として他国偏[徧]歴を免されたり。これ憐愍の芳志といふもの也。夫より以來〔このかた〕四ケ年の艱難、今日一時に散悶〔こゝろをやすん〕ずる時來れり。いかに巌流、速に勝負せよ。
 官大夫聞て、尓笑〔わらひ〕を催し、孝子の志感心に堪〔たへ〕たり。我前名〔ぜんミやう〕に復〔かへ〕して勝負すべしと、直に袴を着し、平生秘藏して腰を放さず帯たる備前長光を携へ、若黨二人を引具〔ひきぐ〕し、無三四主従に伴ひ、路次〔みちのほど〕少しも油断をせず、小倉の城下を發出し、濱辺をさして急行〔いそぎゆく〕。

 【現代語訳】

   無三四、巌流に対面の事 (承前)

 官大夫は眉をひそめ、「今まさに勝負をしようという時に臨んで、人の姓名のことを、そこまでとやかく頓着[拘泥]なさるのは、いかなるわけか」。
 無三四、答えて、「しからば、貴殿が本名を改められた来歴は、どういうわけなのですか」。官大夫がいまだ答えないうちに、無三四は官大夫の側近くすり寄り、再び(言う)。「貴殿の改名のわけは、それがしは、その腹中[心の中]に入らないとはいえ、よく知っていますぞ。吉岡太郎右衛門に、いささか辱しめを蒙ったのを憤り、天正十八年四月十五日夜、吉岡を闇討ちに殺し、他に目撃者はいないとはいえ、さすがに大膽の人物も寝覚めがよくなくて改名した、ということではないのか」。
 官大夫はこのとき顔色が大いに赧らみ、「私にはまったく覚えのないことだ。それには正当な証拠があってのことか」。
 無三四、「その証人は、そこにいる我が従者、十助だ」。
 そのとき、十助は官大夫に向い、「その夜のありさまを、詳しくお話申しましょう。お聞きなされ。四月十五日、日が暮れて後、雷雨がおびただしく、深夜になって一天快く晴れて、昼のようになりましたが、吉岡殿は従者も連れず、ただ一人、謡曲を高らかにうたい、鳴尾五郎左衛門という人の屋敷[ルビによる。前出は下屋敷]の裏門の前、一方は大きな(竹)藪が茂り、一方は屋敷の高塀、枳殻の籬のあるところまで来られたのを、御身[あなた]はその後から、黒い小袖を着て草鞋をはき、無言で後より迫り近づき、吉岡殿の右の肩先から、ねらい打ちに斬りつけられた。(吉岡殿は)深手であったので、うむとも言わず俯臥せにお倒れになった。そこを、(御身は)たちまち髻をつかんで(体を)仰向けにし、血刀を持ち直し、「どうだ、吉岡。先年、それがしに恥辱を与えたその恨み、思い知ったか」と、世にも恐しい声を発し、(吉岡殿の)胸板を足で踏みしめ、喉笛[ルビによる]に、刀を二回続けさまにお刺しになりました。そのとき、鳴尾の屋敷の内から数多くの人声がして、「門外に人をあやめた者があるようだ。棒よ、鎗よ」とひしめくのを聞き、すぐさま刀を鞘に納め、東の方へお逃げになったことを、(御身は)たしかに覚えておられるか。唯今の(私の)話は、割符[ルビによる]を合せたよう(にぴったりと事実と一致している)でございましょう」。
 官大夫は、十助の言うところが、まことに少しも(事実と)違わないのを聞き、黙然として頭を傾け、「おまえの一言は、ことごとく割符を合せたようだ。それがしは、いかにも、吉岡氏に恥辱を受けたのを憤り、闇討ちにした。後になって思うに、「ああ、バカなことをしてしまったな」と、後悔したけれど、悔いても元には返せない。おまえは、どこにいて、このように詳しく様子を知っているのか」。
 十助、答えて、「わたくしは、吉岡殿の隣家に溝口源兵衛という人があり、その家の下男でした。主人の要用[大事な用]があって、そのあたりを通りがかり、はからずも、物かげにいてその夜の一部始終をことごとく見たのです。その後、あわてて主人の家に帰り、このことを話ました。まさに吉岡殿横死について、その翌日から国中の吟昧[取調べ]が厳しく、もしや家中の侍ども[ルビによる]のしわざではないかと、さまざまな取り沙汰がありまして、そこで、その夜の詳細を知っている者はわたくし一人、このことを、主人源兵衛から城主へ訴え出まして、それゆえ、私はさまざまの口問い[尋問]を受け、つぶさに、御身の様子ならびに(あのとき吉岡殿に)罵しられた事どもを、申し上げましたところ、「さては、去年吉岡に恥辱を蒙った者は、播州姫路に住する浪人、佐々木巌流に相違なし」と、それぞれに一決したのです」。[この証人十助はためにする偽証者で、巌流は無三四の仕掛けた罠にはまる]
 官大夫はまた言った、「先刻、無三四の言葉に、我が従者は、播州姫路の産だと言われたのは、それがしに実名を名乗らせるための調略[策略]であったのだな。まことに、気をつけなければならないのは、天の命だ[これは自嘲。しかし十助が真の目撃者ではないとは気づいていない]。しからば、宮本氏は、本当は吉岡とどういう関係の人か」。
 無三四、答えて、「それがしは、(吉岡)太郎右衛門の次男。肥後の国熊木の家士、宮本武右衛門のために、幼児の内から養子となった。いま、実父の讐を報ずべき人がないので、養父(の家)を去り、主人(佐藤)主計頭清正へ願書を提出したが、敵討の願いは、しかじかの理由でお許しにならず、武者修行として他国遍歴をお許しになった。これは憐愍の芳志[慈悲のお情け]というものだ。それよりこのかた[ルビによる]、四年の艱難、(しかし)今日こそ、一度に心を安んじる[ルビによる。散悶は苦悩の解消]時が到来した。さあ、巌流。速やかに勝負せよ」。
 官大夫は聞いて、笑いを催し、「その孝子の志は、感心に堪えない。(それゆえ)我が前名に復帰して、勝負してやろう」と、直ちに袴を着し、日ごろ秘蔵して、腰に離さず帯びた備前長光[鎌倉時代を代表する備前長船の刀工。中世以来の大名物]が鍛えた二尺七寸の刀[刀身八十一cm]を携え、若党二人を引き連れて、無三四主従とともに、道の途中少しも油断をせず、小倉の城下を出発し、浜辺を目指して急ぎ行く。


巻之十 10/11
11 ・・ 巻之十 ・・ 10

巻之十 11/12 無三四巌流と期を約して小嶼に渡る圖
12 ・・ 巻之十 無三四巌流と期を約して小嶼に渡る圖 ・・ 11

巻之十 12/13 官舩競て海を渡る圖
13 ・・ 巻之十 官舩競て海を渡る圖 ・・ 12

巻之十 13/14 官舩競て海を渡る圖 其二
14 ・・ 巻之十 官舩競て海を渡る圖 其二 ・・ 13

巻之十 14/15 官舩競て海を渡る圖 其三
15 ・・ 巻之十 官舩競て海を渡る圖 其三 ・・ 14

巻之十 15/16 山内堀の両士君命を奉て警固に出る圖
16 ・・ 巻之十 山内堀の両士君命を奉て警固に出る圖 ・・ 15

 
   4 無三四討巌流事(1)
 【原 文】

   無三四討巌流事

 文禄二年癸巳〔ミづのとミ〕八月廿五日、既に宮本無三四が至孝〔しいかう〕天に通じ、佐々木巌流に廻り逢、小倉海外の小嶼〔こじま〕に於て、勝負を一時に決するに究〔きは〕まりしかバ、両人齊〔ひとし〕く濱邊に出、二艘の漁舩〔りやうせん〕を借、一艘にハ宮本主従、一艘には佐々木主従是に打乗り、直ちに海上の小島をめがけて押出し、互ひに舩に目ばなしせず、両舩舷〔ふなバた〕をきしりて漕連〔こぎつれ〕たり。
 此事すでに城中に達せし上、さきに巌流が家に居合せたる両人の士、斯〔かく〕と諸門人に告げしらせしかバ、門人等この告〔つげ〕を聞とひとしく、復讐の出會〔であひ〕とあれバ、敢て救ひ助くる事能ずといへども、居ながら安否を聞べきにあらずと、追々に濱辺に出、漁〔すなどり〕の小舟に打乗、次第/\に漕〔こぎ〕かけたり。
 扨〔さて〕監察官の許へは、巌流が先達て訟〔うつたふ〕る所の文書〔かきつけ〕に依て、監察官大きに驚き、城内に入て、此由前〔さきの〕勘解由吉高入道に訟〔うつたへ〕れば、入道大きに驚き玉ひ、余家中〔わがかちう〕に渠が門弟多ければ、若過て官大夫に荷膽し、法外の失ある時ハ清正の憤りを引起し、得〔え〕て這様〔かやう〕の事より隣國不和と成事あり。急ぎかの島を警固し、厳重に制止を加ヘよとありしかバ、静謐を司どる山内金左衛門、堀徳内、早馬〔はやむま〕をもつて城中より駈出せば、其手に従ふ徒士〔かち〕、歩卒〔あしがる〕、雑兵〔ざふひやう〕、小者〔こもの〕追々にかけ出し、或ハ熊手股叉〔さすまた〕を携へ、城中より濱辺まで、俄に上を下へとかへし、馬煙〔むまけぶり〕を上〔あげ〕塵砂〔ぢんしや〕を蹴たて、以の外の騒動なり。
 是に依て海邊〔かいへん〕にハ役舩〔やくせん〕に舳艫〔ともろ〕をかけ、官々〔やく/\〕の人々込乗〔こミのり〕々々漕出す。此事穏便ならざるが故に、城下の町人に至まで、斯〔かゝ〕る事は珍らしき事に思ひ、皆〔ミな/\〕我一にと漁舩〔ぎよせん〕輕舟〔けいしう〕の類ひに、廿人三十人ヅゝ乗こぼれ、島を目がけて押出せしハ、目ざましかりける有状〔ありさま〕なり。
 此日すこしく風起り、白雲虚空に飛、逆浪〔げきらう〕舩の舳艪を洗ふといへども、巌流無三四が舩、はや小嶼に漕着〔こぎつけ〕たり。
 無三四舩中にて身整〔みごしらへ〕し、舩より砂上〔しやじやう〕に跳あがる。身にハ袷の黒小袖に、萌黄色の革袴を、裾みじかに着し、手次〔たすき〕をかけ、舩中に有合ふ處の櫂〔かひ〕を取て、中より踏折二ツに爲〔なし〕て、左右の手に提〔ひつさげ〕たり。
 巌流は白き袷帷子に、布袴〔ぬのばかま〕を高く股〔もゝ〕の上に攐〔からげ〕、白布〔しらぬの〕の帕〔はちまき〕しめ、長光の刀を挾んで舩より上る。
 此時海上より門人の舩追々に漕着〔こぎつけ〕、諸門人こと/\く巌流が前後を圍ミ、禮をなせば、巌流も礼を返し、遥々〔はる/\〕と御見繼〔おみつぎ〕の程、歓に絶たり。唯今この所にて、互ひに玄妙〔げんめう〕を用ひ、運を天命に任せて試合申べし。
 門人等言〔ことば〕を齊〔そろ〕へて申けるハ、まづ試合とあれバ、唯雌雄〔かちまけ〕を試て、流義の勝劣を究むるまでの事也。其義ならバ何ぞ死生にかゝる程の義ハ有まじきに、此試合はわれ/\に仰付られ候へかし。
 巌流申けるハ、此義は別に義論〔ぎろん〕のある事也。一人も御手ざし御無用。何れも舩へ召〔めさ〕れ候へと、挨拶半へ、制止の役、山内金左衛門、堀徳内が舩、諸艪〔もろゝ〕をもつて押來り、舩中より大音聲を申けるハ、當家の面々一人も麁忽して手を下す事なかれ。比量〔しあひ〕のミにあらず、復讐の義ある由、すでに大殿〔おほとの〕の聞〔きゝ〕に達したり。何れも自分々々の舩中に差控、神妙に見とゞけらるべしと、制するにぞ、諸士舩中へ去にける。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

   無三四、巌流を討つ事

 文禄二年癸巳[一五九三年に相当]八月二十五日、いまや宮本無三四の至孝が天に通じ、佐々木巌流にめぐり逢い、小倉沖の小島において、勝負を一時に決するに至ったので、両人そろって浜辺に出て、二艘の漁船を借り、一艘には宮本主従、一艘には佐々木主従が、これに乗り、直ちに海上の小島をめがけて押し出し、互いに(相手の)船から目を離さず、両船は舷をきしり合せるようにして漕ぎ連れていった。
 このこと[無三四と巌流の決闘]はすでに城中に達している上に、さきに巌流の家に居合せた二人の家士が、こんなことになったと諸門人に告げ知らせたので、門人等はこの知らせを聞くと同時に、復讐の出合[敵討ちの立合、決闘]とあれば、あえて助太刀をすることもできないとはいえ、居ながら安否を聞いている場合ではないと、追々に浜辺に出て、漁人の小舟に乗り、次から次へと(沖へ)漕ぎ出した。
 さて、目付[監察官は漢流]の許へは、巌流が先に申し出た文書(書付)を見て、目付は大いに驚き、城内に入って、この由を前勘解由吉高入道[前出、モデルは黒田官兵衛孝高]に申告すると、入道は大いに驚かれ、「我が家中には彼(官大夫=巌流)の門弟が多いので、もし過まって官大夫に加担し、法外の失[法に外れた過失]があったりすると、(肥後の)清正の憤りを引き起し、えてして、こんなことから隣国と不和になることがある。急いで、かの島を警固し、厳重に制止を加えよ」と(命令が)あったので、治安維持[静謐は高踏表現]を司どる山内金左衛門と堀徳内が、早馬で城中から駈け出すと、その配下に従う徒士、足軽[ルビによる。歩卒は漢流]、雑兵、小者[従卒]たちが追々にかけ出し、あるいは熊手や股叉を携え、城中から浜辺まで、にわかに上を下へとひっくりかえし、馬煙りをあげ塵砂を蹴たてて、とんでもない騒動になった。[以下、祝祭的興奮の光景]
 これによって、海辺には役船[公役の船舶。官船]に舳艫をかけ[漕ぎ出す用意をし]、諸役の人々が次々に乗り込んで漕ぎ出す。これが穏便ならざる騒ぎなので、城下の町人に至るまで、こんな事件は珍らしいと思い、皆々我先きにと漁船・軽舟[小舟]の類いに、二十人三十人ずつ、こぼれ落ちるほど乗り込み、島を目がけて押し出したのは、あきれるほどの光景であった。
 この日、少し風が起こり、白雲は虚空に飛び、逆浪が船の舳艪を洗うのだが、巌流と無三四の船は、はやくも小島に漕ぎ着いた。
 無三四は船中で身ごしらえし、船から(浜の)砂上に跳りあがる。身には、袷の黒小袖に、萌黄色の革袴を、裾をたくして着し、襷をかけ、船中にたまたまあった櫂を取って、中間から踏み折って二つにして、左右の手にひっ提げた。
 巌流は、白い袷帷子に、布袴を高く腿の上にからげ、白布の鉢巻をしめ、長光[前出備前長光]の刀を腰に差して、船からあがる。
 このとき、海上から門人の船が追々に漕ぎ着け、諸門人ことごとく巌流の前後を囲み、礼をすると、巌流も礼を返し、「はるばると、御見継[加勢]くださり、歓びにたえません。ただ今この場所で、互いに玄妙を用い[秘術を駆使して]、運を天命に任せて、試合をします」。
 門人等が言葉をそろえて申すには、「まず、試合ということでしたら、ただ勝ち負け[ルビによる]を試みて、流儀の勝劣[優劣]を究めるまでのこと。それならば、まったく死生に関わる程のことはありますまいに。この試合は、我々に仰せ付けください」。
 巌流が言うには、「このことは、わけが別にあることなのです。一人でも御手出しは御無用。(諸君は)いづれも船へお戻りください」と、挨拶[応答]半ばのところへ、(吉高入道の命を受けた)制止の役、山内金左衛門と堀徳内の船が、諸艪をもって押し来り[多数の艪を漕がせて、猛烈な速度で迫って来て]、船中から大音声を(あげて)言うには、「当家の面々、一人も麁忽して[短慮の過ちをして]手を下す事なかれ。(これは)試合のみにあらず、復讐[敵討ち]の義がある由、すでに大殿[吉高入道]のお耳に達している。誰もみなそれぞれ自分の船中に控えて、(勝負を)神妙に見届けられるべし」と、制したので、諸士は(島から)船中へ引きあげた。


巻之十 16/17 無三四巌流と雌雄を決する圖
17 ・・ 巻之十 無三四巌流と雌雄を決する圖 ・・ 16

巻之十 17/18
18 ・・ 巻之十 ・・ 17

巻之十 18/19
19 ・・ 巻之十 ・・ 18

 
   5 無三四討巌流事(2)
 【原 文】

   無三四討巌流事 (承前)

 巌流は、無三四が木刀をもつて真劔に當らんといふを殊に怒り、ちか/\と近付すゝミ、いかに無三四、汝が振廻〔ふるまひ〕傍に人無しといふべきのミ。まづ我手の中〔うち〕の真劔に當り、黄泉〔くわうせん〕に趨くべしと、貳尺七寸の腰刀鞘をはなれて抜出せば、無三四折櫂〔をれがひ〕をとりて、間を詰よせ、眞劔に勝る木刀の安[按]排〔あんばい〕を見よと、近寄ところに、巌流先〔せん〕を取べき透間〔すきま〕や有けん、無三四が頭上へ電〔いなづま〕のごとく切還〔きりかゝ〕るを、無三四右の手に携たる一片の櫂の折〔をれ〕をもつて受とめたり。
 是より双方秘術をつくし、刀去れバ木刀すゝみ、木刀されバ刀進んで、時を移して切結ぶ。海上の見物此ありさまを見て、あたかも酒に酔〔ゑふ〕たるがごとく、牙〔きば〕を噛〔かミ〕肘をはり、瞬〔またゝき〕もせず見る処に、巌流歩〔ほ〕をすゝめ飛込しが、忽〔たちまち〕無三四が両足を薙〔なぎ〕つけたり。
 無三四其劔の上を跳り超〔こへ〕、大喝一聲し、右手〔めて〕の折櫂をもつて巌流が眉間を照〔てら〕して一撃〔ひとうち〕打たり。何かハもつてたまるべき、櫂の當る処髪際〔はつさい〕より印堂〔いんだう〕へかけて脳骨〔なうこつ〕打砕かれ、満面血煙りおこつて地に倒るゝを、無三四なを一下〔いつか〕して、再頭骨〔づこつ〕を打たりしかバ、両眼迸り出、苦しげに叫び、七轉八倒して息絶たり。
 此時無三四袴の裾を見れバ、裾の方〔かた〕より貳寸許さらりと裁〔きれ〕てあり。是最前無三四巌流が劔の上を躍り超たる時に切〔きれ〕たるなり。今少し飛〔とぶ〕事高からず、袴の裾より下のかたに足あらバ、忽ち両足を切らるべかりしに、袴の裏〔うち〕に隠れたるが故に、僥倖〔さいはひ〕にして危きを免がれたり。
 其時人の言の葉に、切〔きり〕も切たり、飛〔とび〕も飛んだりと、称美せしと也。是よりこの島を巌流島と呼なして、猶今にいたるまで小倉海外にありて、普く人の知る處なり。
 時に海上数百人の見物、無三四が早業群に超たるを見て、一度に嗚呼〔あつ〕と感ずる聲、しばしハ鳴〔なり〕もしづまらず、警固の舩より、山内金左衛門、堀徳内、島にあがり、無三四に對面して子細を問に、無三四は兼て一通の口旨〔くちがき〕を認め、十助に持せ置たるを取出し、両士〔りやうしや〕の前に差出せば、両士文書〔かきつけ〕を受取、逐一に披讀するに、実父太郎右衛門を巌流に討れたる始末、今年〔こんねん〕に至りて巌流を見付得たる子細、又理不尽に鎭藩〔じやうか〕を騒せ奉るのうへは、縦令〔たとひ〕巌重の罪科に處せらるゝ共、少しも恨〔うらミ〕奉るまじと書認め、住所姓名悉く詳〔つまびらか〕なりしかバ、両士書付を収め再び礼を返し、復讐とあるのうへハ、何の相妨る所あらん。しかれども此趣、前勘解由〔さきのかげゆ〕入道へ申べし。其間は旅宿に在て裁許を待〔また〕るべしと、宮本主従を請て官舩に乗移らせ、次に浦邊〔うらべ〕の民に申付、巌流が尸〔かバね〕をまもらせ、ミな/\城中に帰りける。
 後に巌流が死骸は此島に葬り、墓なを今にあり。

 【現代語訳】

   無三四、巌流を討つ事 (承前)

 巌流は、無三四が、木刀で真剣に立ち向うというのを、ことに怒り、近々と接近してきて、「さあ、無三四。そなたの振舞いは、傍らに人無し[傍若無人]というしかない。まっ先に我が手中の真剣に当たって、黄泉に趨くべし[死ねの意。黄泉は死者の国]」と、二尺七寸の腰刀が鞘をはなれて抜出すと、無三四は折れ櫂[前出、踏み折って二つにした櫂の両片]を執って、間合いを詰めよせ、「真剣に勝る木刀の按排[具合がどんなものか]を見よ」と、近寄るところを、巌流は、先〔せん〕を取る[先制する]べき隙をみたのか、無三四の頭上へ稲妻[ルビによる]のごとく斬りかかる。それを、無三四は右の手にもった一片の櫂の折れで受けとめた。
 それから、双方は秘術を尽し、(巌流の)刀が去れば(無三四の)木刀が進み、木刀が去れば刀が進んで、時を移して切り結ぶ。海上の見物は、このありさまを見て、あたかも酒に酔ったごとく、歯を噛み肘を張り、瞬きもせず見つめるところ、巌流は歩を進めて飛び込み、たちまち無三四の両足を薙ぎつけた。
 (その瞬間)無三四はその剣の上を跳び超え、大喝一声して、右手の折櫂で巌流の眉間をめがけて一撃を打った。これはもうたまったものではない、櫂が当たったところ、髪際[髪の生え際。髪際は漢方語彙]から印堂[眉間。印堂は漢方語彙]へかけて頭蓋骨が打砕かれ、満面血煙りが起って、(巌流が)地に倒れたのを、無三四はさらに一撃して再び頭骨を打ったので、両眼が飛び出し、(巌流は)苦しげに叫び、七転八倒して息絶えた。
 このとき、無三四が袴の裾を見ると、裾の方から二寸[六cm]ばかり、さらりと切れていた。これは先ほど、無三四が巌流の剣の上を躍り超えた時に、切れたのだった。もう少し飛ぶのが高くなく、袴の裾から下の方に脚があれば、たちまち両脚を切られていただろうに、(脚が)袴のうちに隠れていたために、幸いにして危きを免がれたのである。
 そのとき、人の言の葉に、「切りも切ったり、飛びも飛んだり」と、称賛したという。これ以後、この島を巌流島と呼びなして、なお今にいたるまで、小倉沖にあって、あまねく人の知るところである。
 ときに、海上(の船にいた)数百人の見物たちは、無三四の早業が抜群なのを見て、一度に「あっ」と感動する声が、しばらく鳴りやまず、警固の船から、山内金左衛門と堀徳内が、島にあがり、無三四に対面して、事情を問うに、無三四は、かねて一通の口書[訴訟文書]を書き認め、十助に持せて置いたのを取り出し、両士[山内金左衛門と堀徳内]の前に差し出す。両士は文書を受取り、その内容を読むと、実父・太郎右衛門を巌流に討れた一部始終、今年に至って巌流を見つけ得た経緯、また、「理不尽に城下[ルビによる。鎭藩は領域]をお騒がせしました上は、たとえ巌しく重い罪科に処せられるとも、少しもお恨みいたしません」と書き認め、住所姓名がすべて明らかなので、両士は書付[文書]を受理し、再び礼を返し、「復讐とある以上、妨げる理由はどこにもない。(ただし)そうであっても、この趣旨を前勘解由入道[大殿・黒田吉高]へ申告する必要がある。その間は、旅宿にいて裁許を待たれるように」と、宮本主従に言って官船に乗り移らせ、次に、浦辺の民に申し付けて、巌流の屍体の番をさせ、皆みな(小倉)城中に帰った。
 後に、巌流の死骸はこの島に葬り、墓はなお今にあり。


巻之十 19/20
20 ・・ 巻之十 ・・ 19

巻之十 20/21
21 ・・ 巻之十 ・・ 20

 
   6 山内堀両士無三四饗應并護送の事
 【原 文】

   山内堀両士無三四饗應并護送の事

 再説〔さて〕山内、掘の両士、宮本が口旨〔くちがき〕を携へ、城中に立帰り、吉高入道に奉りければ、入道殿大きに感心し給ひ、誠に順孝と謂〔いひつ〕べし。しかしながら家中に巌流が門人多けれバ、自然いかやうのへ変〔へん〕を生ぜんもはかり難し。警固の人数〔にんじゆ〕をもつて無三四が旅宿を護らせ饗應せよ。又此旨熊木〔くまげ〕の城へ報ずべしと、懇〔ねんごろ〕に申付らるゝにぞ、山内金左衛門、堀徳内ふたゝび無三四が旅宿におもむき、吉高朝臣の芳志の旨を演説〔ゑんぜつ〕し、旅宿を轉じて饗應せんと申ける。
 無三四謹んで両士に向ひ、某御城下を騒し奉るのミならず、御賄料を賜りて召置〔めしをか〕るゝ師範人を殺害〔せつがひ〕仕る事、莫大の罪科也。しかるに仁恕を以て赦宥を蒙るすら、なを廣大の御恩なり。何ぞ慇懃の御饗應を乞願ハんや。もし此上の厚恩にハ、一日も早く帰国の御免〔ごめん〕を蒙なば、肥州〔ひしう〕の本國に立帰り、養父養母に此事を告知らせたく存ずるのミ。次に復讐の事ハ、全く表立たる義にあらず。既に口旨〔くちがき〕に認め、各〔おの/\〕を以て言上仕るごとく、主人より差ゆるされたるハ、武術修行の偏[徧]歴なり。若〔もし〕當館より復讐の義を仰遣〔おほせつかハ〕されなバ、却て主人の不興を蒙る道理なり。去〔さり〕ながら某の申旨、胡乱〔うろん〕にも思召れ候ハゞ、内々〔ない/\〕人をもつて本國へ御問合下さるべし。また御不審もなく此まゝに御宥免下されなバ、實〔じつ〕に一日の逗留は三秋〔さんしう〕を經るが如し。龍肝鳳髄〔りうかんほうずいゐ〕の御饗應よりも、養父養母に對面仕るこそ、身にとりての歓喜〔よろこび〕なれ。両公此趣をもつて一應しかるべき様に御執成〔おんとりなし〕頼入ると、涙を流して申ける。
 両士も無三四が養父を思ふ孝心を感じ、直に城中に立帰り、詳かに訟〔うつたへ〕ければ、吉高入道大きに称美し玉ひ、道理至極せり。襁褓の中〔うち〕より撫育の恩を受たる養父にハ、義をもつて孝を存〔そん〕し、血肉をわかちたる実父にハ、艱難を嘗〔なめ〕て孝を全ふす。孝義ともに備〔そなハ〕れり。然るときは、久く輟〔とゞ〕むべからず。去ながら時運〔とき〕戦國にして、人の心詭〔いつハ〕りを善〔よし〕とす。渠もし官大夫を殺害し、偽言〔いつハり〕を設けて人を欺くも計がたし。頓〔やが〕て相糺〔あひたゞし〕て後、實情相違なきに於てハ、孝子を窮〔きう〕するは罪也。望〔のぞミ〕にまかせ今晩一夜饗〔もてな〕し、明日早々發足させよと、殘るかたなき言付に、両士ふたゝび座をしりぞき、速に巌流が家に至り、奴僕等〔しもべども〕を糺明するに、渠元來〔もとより〕妻子なく、家僕はみな當所のものにて、今日宮本と巌流が説話、逐一に物かげに立聞せしに、敵討に相違なしといふのミならず、證人となりて花押〔かきはん〕を副〔そへ〕たる両個〔ふたり〕の家士、側にあつて始終の蹺蹊〔やうす〕ことごとく聞居たれバ、此ものをも呼出して聞に、分明〔ぶんミやう〕に敵討なりと告しかバ、両士城中に入て此由を申す。
 吉高重ねて宣〔のたまひ〕けるは、しからバ隨分叮嚀にもてなし、明朝發足する時節は、領分界〔りやうぶんざかひ〕まで護送すべしと命ぜられ、両士また旅宿に來り、無三四に見〔まミ〕へ、明日出立を聴さるゝ旨申渡しけれバ、無三四いよ/\雀躍〔こおどり〕し、歓喜〔よろこぶ〕事かぎりなし。
 扨その夜は両人無三四に陪〔ばい〕して酒宴を催し、深更に曁〔およ〕び辞〔いとま〕を告て帰らんとする時、無三四両士に對し慇懃に申けるハ、先刻より申如く、御咎をも蒙るべきを、却て恩饗を辱〔かたじけなく〕し、速に御いとまを賜る事、太守の仁恩とハ申ながら、畢竟両公の執〔しつ〕し宜敷〔よろしき〕がいたす處なり。此恩骨に銘じて忘れがたし。次に明朝の發足いまだ明ざるさきに参るべけれバ、今般の御別離〔おんわかれ〕は互ひに天の一方、拝顔も是かぎりなるべしと、いまだ言〔ことば〕も終ざるに、山内金左衛門申けるハ、否〔いや〕、明日なを御對面いたすべし。主人より別して心を用ひられ、某どもに命じて界〔さかひ〕を出らるゝまで護送仕れとの事なり。
 無三四はなハだ恐れ入、決して其儀にハ及ぶまじ。両士聞ず、君命のうへは、我々が心に任せざる処なりと言ひつゝ、其座を立にける。
 無三四其まゝ旅宿の門外まで送り出るに、旅宿の前後ハミな高張〔たかはり〕の挑灯〔てうちん〕をかゝげ、警固厳重なる事いふ計〔ばかり〕なし。無三四は再び驚轉〔ぎやうてん〕し、吉高朝臣の芳志をぞ感じける。
 既に鶏明〔けいめい〕の黎〔ころ〕にも成しかバ、無三四主従旅装〔たびよそほひ〕を整へ立出んとする時、山内、堀の両人、巌重に旅行の装束を調へ、馬を牽せて門外に來り、無三四を請〔こふ〕て駕に乗せ、両人つゞひて馬にまたがり、前後の隨兵〔ずいへい〕五六十人、何れも旅出立〔たびでたち〕にて駕に従ふ。無三四今ハ辞する事あたハず、境に望んで出〔いで〕にける。
 【現代語訳】

   山内堀両士、無三四を饗応、
            ならびに護送の事

 さて[以下は後日談]、山内と掘の両士は、宮本の文書(口書)を携え、城中に帰り、吉高入道に差し出すと、入道殿は大いに感心なさって、「まことに順孝と謂うべきである。しかしながら、家中に巌流の門人が多いので、当然、どんな変事を起すかもしれない。警固の部隊[人数は武装の軍勢]で無三四の旅宿を護らせ、(彼を)饗応せよ。また、この旨を、(肥後)熊木の城へ通報しなさい」と、懇ろに申し付けられたので、山内金左衛門と堀徳内は、ふたたび無三四の旅宿に出向いて、吉高朝臣のご厚意の旨を演説[説明]し、「旅宿を変えて饗応しよう」と言った。
 無三四は、謹しんで両士に向い、「それがしは御城下をお騒がせしたのみならず、御賄料を賜って召しおかれている師範人を殺害いたしましたのは、重大な罪科です。しかるに、仁恕[情けある寛大さ]をもって赦宥[赦免]を蒙ることすら(あって)、さらに広大な御恩(と感謝しております)。(この上)どうしてご丁寧な御饗応をお受けすることがありましょうや。もし、この上の厚恩(をお願いするとすれば)、一日も早く帰国の御免[お許し]を蒙れば、肥州の本国に帰り、養父養母にこのことを告げ知らせたく存ずるのみ。次に、復讐の事は、(実は)全く表立った(正式の)ことではありません。すでに口書に書き認め、おのおの方を通じて言上いたしました通り、主人から許可されたのは、武術修行(のため)の遍歴です。もし、当館[小倉城。当城]から、復讐の件でご報告なされてしまいますと、むしろ主人[清正]の不興を蒙ることになります。しかしながら、それがしの申す旨が、胡乱[疑わしい]にお思いなられるようでしたら、内々に人をもって本国[肥後]へお問合せください。また、御不審もなくこのまま御宥免くだされますなら、まことに一日の逗留は三年を経るのと同じ(と感じます。一日も早く帰国したいのです)。龍肝鳳髄の御饗応[龍の肝臓、鳳凰の骨髄。珍味の御馳走]よりも、養父養母に対面いたしますことこそ、我が身にとっての歓びです。両公、この趣旨で、一応しかるべきように、(吉高入道への)おとりなしをお願いします」と、涙を流して語った。
 両士も、無三四の養父を思う孝心に感じ、直ちに城中に帰り、詳しく申告すると、吉高入道は大いに称賛なさって、「その道理はこの上ないものだ。幼児のうちから撫育[養育]の恩を受けた養父には、義をもって孝をあらしめ、血肉を分けた実父には、艱難をなめて孝を全うする。孝と義ともに備わっている[どちらも欠けていない]。そうであるかぎりは、長く引き留めてはならない。しかしながら、時は戦国で、人の心は詭計を善しとしている。もしやすれば、官大夫を殺害して、彼が嘘をでっちあげて、人を欺いているかも知れない。引き続き調査して後、事実に相違ないときは、孝子を窮地に立たせるの罪である、望みにまかせ、今晩一夜もてなして、明日早々に発足させよ」との遺漏のない[完璧な]命令に、両士はふたたび座をしりぞき、速やかに巌流の家へ行き、使用人たちを糺明すると、彼(巌流)はもとより妻子なく、使用人はみな当地の者であり、「今日の宮本と巌流の話を、すべて物かげで立ち聞きしていましたが、敵討ちに相違ありません」と言うのみならず、証人となって(証文に)花押を副えた二人の家士は、(無三四巌流問答の)側にいて、始終の様子をことごとく聞いていたので、この者らをも呼出して訊くに、「明らかに敵討ちです」と告げたので、両士は城中に入って(吉高入道に)この由を報告した。
 吉高が重ねて言われるには、「しからば、できるかぎり丁寧に(無三四を)もてなし、明朝出発する時は、領分の境まで護送すべし」と命ぜられ、両士はまた旅宿にやって来て、無三四に面会し、明日出立を許された旨を申渡したので、無三四はいよいよ小躍りし[ルビによる]、喜ぶことかぎりなし。
 さて、その夜は、両人[山内・堀の2人]が無三四に陪席して酒宴を催し、深夜に及んで暇[ルビによる]を告げて帰ろうとする時、無三四が両士に対し慇懃に言ったのは、「先刻より申しますように、御咎めをも蒙るべきを、逆に恩饗[君命による饗応]をたまわり、速やかに出国を赦されたこと、太守[国守。ここは吉高入道]の仁恩とは申せ、畢竟、両公のおとりなしがよかったお蔭です。この恩は骨に銘じて忘れません。次に、明朝の出発は、いまだ(夜の)明けない前に参りますので、今般の御別離は互いに天の一方[遠く別れ別れになること]、拝顔もこれが最後になります」と、いまだ言も終らないうちに、山内金左衛門が言うには、「いや、明日もう一度御対面いたします。主人から格別の配慮があり、それがしどもに命じて、国境を出られるまで護送せよ、とのことです」。
 無三四は、はなはだ恐縮し、「決してそれには及びません」。両士は聞き入れず、「君命の(あった)以上は、我々の勝手にはできないことです」と言いつつ、その座を立った。
 無三四は、それから(二人を)旅宿の門外まで送って出ると、旅宿の前後はすべて高張提灯[提灯を竿の尖端に取り付けた丈の高い照明器具]をかかげ、警固の厳重なこと、言いようのないほどである。無三四は再び仰天[ルビによる]し、吉高朝臣の厚意に感動した。
 (翌朝)すでに鶏鳴の時刻になったので、無三四主従は旅装を整え、出立しようとした時、山内・堀の両人が、巌重に旅行の装束を調え、馬を牽かせて門の外に来て、無三四に言って駕に乗せ、両人は続いて馬にまたがり、前後に隨う兵は五、六十人、いずれも旅の出立ちで駕に従う。無三四も、こうなっては断わるわけにはいかず、国境を目指して出発した。


巻之十 21/22 無三四舎弟友之助に對面并故武右衛門の門人等無三四の帰国を慶賀に來る圖
22 ・・ 巻之十 無三四舎弟友之助に對面并故武右衛門の門人等無三四の帰国を慶賀に來る圖 ・・ 21

巻之十 22/23
23 ・・ 巻之十 ・・ 22

巻之十 23
   ・・ 巻之十 ・・ 23

 
   7 宮本無三四始終の事
 【原 文】

   宮本無三四始終の事

 百行のうち孝より大〔おほひ〕なるはなし。
 宮本無三四は既に父の讐〔あだ〕を復して後ハ、仁人のために感を起し、護送を蒙りて境をはなれ、夫より筑前國名嶋に赴き、亡父吉岡が塚に詣で、香花〔かうくわ〕を備へ、復讐のよしを告て、霊を祀り、其後諸高弟に對面して、事の子細を告けれバ、吉岡が高弟等も倶に感涙を催しける。
 夫より十助諸共〔もろとも〕七助が方〔かた〕にいたり、爰に逗留する事三日也。七助夫婦娘がよろこび、蘇生の人に逢ふがごとく、猶幾許〔いくばく〕日をとゞむるといへども、無三四は養父に對面せん事を心せきけれバ、七助もとゞむる事あたハず。
 これより無三四昼夜のへだてなく道を急ぎ、熊木に立帰る。無三四が帰しと聞て、舎弟〔しやてい〕友之助奥より走り出て迎けれバ、無三四弟にむかひ、父母〔ちゝはゝ〕はいかにして見えさせ玉ハぬぞ。
 友之助是を聞、涙を流し語けるハ、母は三年以前八月、風のこゝちと煩ひ病死し給ひ、父はひたすら兄の事を案じ、此友次郎は如何〔いかゞ〕したるぞ、本意〔ほんゐ〕を遂しやなど、朝夕〔あさゆふ〕に氣づかひ玉ふうへに、母の病死に力をおとし、程なく病に罹り、去年十月に墓〔はか〕なく成玉ひ、今日も兄〔このかミ〕の事申出し、獨寂莫〔ものうく〕して暮しかねたる折節なり。能〔よく〕こそ帰り玉ひつと、聲をあげて歎きける。
 無三四も両親〔ふたおや〕の死を聞、大きに力を失ひ、倶に涙にくれけるが、友之助に向ひ、實父の讐〔あだ〕を報いたる物語をなし、これより父母の墳墓〔はか〕に詣で、鬱々として十有餘日を過しけるが、一日〔あるひ〕友之助に向ひ申けるハ、某すでに仕官の道に心なし。また忙然〔ばうぜん〕として此所に年月を費さん事を希ハず。猶廻〔めぐ〕り残したる国々を巡り、心に任せたる住處〔すミどころ〕を求むべし。
 友之助忙〔あハて〕おどろき、今ハ世に憑〔たのミ〕なき孤子〔ミなしご〕、兄をもつて父とも母とも思ひしに、復〔また〕家を出給ハゞ、行末はいかゞせん。是非に思ひ止まり玉へと、かきくどき嘆くといへども、無三四決して聴入ず、終〔つひ〕に同年十月下旬、肥後國熊木の城下を出去〔いでさり〕ける。
 嗚呼〔あゝ〕無三四が英名、唯武術を以て天下に鳴るのミならず、孝心節義ならびなき俊傑也。後世〔のちのよ〕の君子、つとめて其の孝をとらバ可ならんかし。
編者曰く、無三四再び家を出諸國を經歴せし事跡并前編に洩たる所々〔しよ/\〕の奇談等、詳かに後編に出す。前編と照し観〔ミ〕玉ふべし。

  繪本二島英勇記 巻十 大尾

 【現代語訳】

   宮本無三四の行く末の事

 あまたある行いのうち、孝より偉大なものはない[読本的教訓。そろそろ結語]
 宮本無三四は、すでに父の讐を復した[敵討ちをした]後、仁人[黒田吉高入道](の措置)に感激し、護送を受けて国境を離れ、それから筑前の国名島へ赴き、亡父吉岡の墓に詣で、香花を供え、復讐をやりとげた由を報告し、霊を祀り[法要を行い]、そののち(吉岡の)諸高弟に対面して、ことの仔細を報告したので、吉岡の高弟等も一緒になって感涙を催した。
 それから、十助とともに七助の家に行き、ここに三日間逗留した。七助夫婦と娘は、蘇生の人に逢ったようによろこび、さらに数日留めようとしたが、無三四は養父に対面することを急いだので、七助も引き留めることはできなかった。
 これより無三四は、昼も夜も道を急ぎ、(肥後)熊木に帰った。無三四が帰ったと聞いて、舎弟・友之助が(家の)奥から走り出て迎えたので、無三四は弟に向い、「父母は、どうしてお見えにならないのか」。
 友之助はこれを聞き、涙を流して語った。「母は三年前の八月、風邪の心地がすると煩い病死なさいました。父はひたすら兄のことを心配し、「あの友次郎はどうしたのか。本意を遂げただろうか」など、朝夕に気づかわれていた上に、母の病死に力を落とし、ほどなく病いに罹り、去年十月に亡くなりました。今日も(亡父霊前に)兄[このかみは古語]のことを語り出し、一人もの憂く[ルビによる。侘しく]、暮しかねていたところです。よくこそお帰りになりました」と、声をあげて嘆泣する。
 無三四も、両親の死を聞き、大いに落胆して、ともに涙にくれたが、友之助に向い、実父(吉岡)の讐を報いた話を語り聞かせ、それから父母の墓に詣で、鬱々として十数日を過したが、ある日、友之助に向い、言った。「それがしは、もはや仕官の道には関心がない。また、茫然としてここに年月を費すことも願わない。(これからは)めぐり残した国々をさらに巡り、自分の気に入った住み処[ルビによる。落着く先]を探すつもりだ」。
 友之助は慌て驚き、「(私は)今となっては、この世に頼りのない孤児です。兄を父とも母とも思っていましたのに、また家を出てしまわれては、(私は)行末はどうすればいいのですか。是非とも思い止まってください」と、泣いて頼んだが、無三四は決して聴き入れず[無三四は弟に家督を嗣がせる]、ついに同年[文禄二年]十月下旬、肥後の国熊木の城下を立ち去った。
 ああ、無三四の英名[名声]は、ただ武術をもって天下に鳴り渡るのみならず、孝心と節義[ともに儒教道徳](において)並びなき俊傑[傑出した人物]である。後の世の君子よ、(武術の無三四ではなく)できるだけその孝(の無三四の方)を取ればよいであろう。
編者曰く、無三四が再び家を出て、諸国を経歴した事跡、および前編に洩れた諸所の奇談等は、詳しく後編に出す。前編と照し(合わせ)観ていただきたい。[むろんこの予告にある後篇はない]

  絵本二島英勇記 巻十 完結


 【 附 記 】

 この物語の結末については、いくつかの点を指摘できるであろう。
 無三四は、艱難辛苦のあげく実父・吉岡の讎を報じるのだが、肥後熊木へ帰ったものの、そこを立ち去ってしまう。任務を終えた無三四は、なぜ熊木に落ち着くことができないのか。
 これは、宮本家の養子になった無三四だが、弟が養父武右衛門の実子なので、彼に家督相続権を譲った――という含みのある行動だとしても、それは記さず、むしろ無三四が、仕官するつもりはすでになく、一所不住の漂泊の人生を選んだという話の終り方である。作者は、孝心節義という道徳を結語として、読本としての体裁を整えているが、実は、物語そのものは、はるかに自由な主人公を野放しにしてしまった恰好の結末である。
 孝心節義という道徳を実現するには、養父・宮本武右衛門は生きて無三四を迎え、さらに無三四は養父母に孝養を尽し、家を相続して、英雄清正のよき家臣として、いわば封建秩序にぴったり身を収納するのでなければなるまい。しかし、この物語がそんなハッピーエンドとはまったく異なる結末を用意したことは、孝心節義の秩序道徳のまさに中心部で、それをぶち壊してしまっている。これが読本の戦略なのである。しかも、そうなければ、読み手も納得しない。
 ところで、現代の読者が注意すべきは、無三四が巌流を殺したのは、敵討ちではなく、あくまでも決闘試合だ、という外面もしくは形式が維持されなければならない、という制約である。これは無三四自身が黒田家の役人に釘を刺したことでもある。この、公然化できず隠蔽されなければならない敵討ち(復讐)という枠組が、この物語を複雑な構造に仕立てあげている。
 これについては、二人の英雄がからんでいる。彼らのポジションは、肥後熊木の清正が、無三四の欲望(敵討ちの願望)を禁止する〈他者〉なら、豊前小倉の吉高は、清正を気にしつつ、その禁止を解除する〈他者〉であり、この二者が相俟って一種の〈父〉として機能している。そして、第三の〈父〉たる、養父宮本武右衛門は、無三四が帰国するとすでに死去していた。その〈父〉の不在に逢着して、無三四は父の跡を襲うのではなく、その現場から立ち去る。これは、父殺し(を殺す)という行為の主体は、〈父〉の秩序におさまらないからである。言い換えれば、無三四に、「仕官の道に心なし」と作者が言わせるのも、まさにそのポイントにおいてである。
 作者は、巌流を呼んで、「主人なき潔白の豪傑」とも言わせる。とすれば、無三四はこの主人なき潔白の道を歩むことにおいて、まさに巌流の道を反復するのである。すなわち、無三四が歩むのは、二人の父、すなわち実父(吉岡太郎右衛門)や養父(宮本武右衛門)のような仕官の道ではなく、まさに決して仕官を望まない巌流の道なのである。
 そのかぎりにおいて、巌流は無三四の逆説的な師父(Master-Father)のポジションを占める。さらに言えば、巌流は、無三四の父・吉岡を殺し、その巌流を無三四が殺す、という物語編成からすれば、無三四の行為は巌流を媒介にしての父殺しという神話的行為にほかならず、まさにそれゆえにこそ、この媒介項としての巌流のポジションこそ、興味深いものがある。
 そこで注目すべきは、巌流は、先日の池の端での立派な理性的な仲裁者とはうって変って様変わりしていることである。彼は、この巻ではモードを変換し、一貫して邪悪な豪傑、言わば天下無双を独占したがる《anal father》として機能している。それゆえ、この邪悪な豪傑は、挑発にすぐに乗る、騙しやすい存在であり、いわば《inpotent》な〈父〉であって、前述の清正あるいは吉高といった系列の、理性的な秩序の〈父〉とは性格が異なる。ちなみに言えば、『丹治峯均筆記』所収の武蔵伝記に登場する父・新免無二は、いうまでもなく、《anal father》の系列である。
 繰り返せば、巌流は無三四の逆説的な師父のポジションを占める。巌流を殺した無三四が肥後へ帰って遭遇したのは、〈父〉の死=不在という事態である。これは物語の内在的論理からすれば、当然の帰結である。すなわち、無三四が巌流を殺したから、宮本武右衛門は死んでいたのである。
 さて、無三四の敵討ちは、父殺しを殺すという行為である。つまり、
    巌流が吉岡を殺す → 無三四が吉岡を殺した巌流を殺す
 ところで、ここで半ば明示されかかっていることであるが、父・吉岡を殺した巌流を無三四が殺すという設定は、現実の武蔵が吉岡を殺したという事実を内蔵したものである。物語の構造分析から浮上するシェーマは、
    武蔵が吉岡を殺す → 無三四が吉岡(を殺した巌流)を殺す
 物語分析は夢の分析に似たところがあって、いかに荒唐無稽な関係でも、それなりの論理構造を備えている。そうしてみれば、巌流が吉岡を殺すというこの物語の結構も、あながち荒唐無稽なものではなく、実は、物語上のある種の必然に適った変換操作だと言えよう。それゆえまた、無三四の実父が吉岡という名でなければならないのも、理由のあることである。
 また、こういう説話構成について、「敵討巌流島」という流布した設定に対し、作者がある種のアイロニーをもったスタンスをとっているとの見解も可能であろうが、それよりもむしろ、事実上、「これは敵討ちである」という言明の不可能性を、表層に掲げた作者の腹中を見ておくべきであろう。言わば自己否定の契機を公然化した物語、それがこの『繪本二島英勇記』なのである。
 この物語については、一筋縄でいかないのは当然、その他、さまざまな読みが可能であろう。いづれ関連論文が上載され、本書の物語分析は深化されることであろう。



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