宮本武蔵 資料篇
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[資料] 繪本二島英勇記 巻之九  Back    Next 

 前巻からの続きである。筑前名島の近くまで来て、七助の家に寄ることになった無三四だが、迎えに出ていた娘婿十助が、実は以前宮本家に奉公していた日下幸助で、無三四は再会を歓び、連れ立って七助の家に行くと、これもかつて宮本家に奉公していた七助の娘・巻もいて、家族そろっての歓待、そして長雨が続いたこともあって、無三四はそのまま十日ばかり逗留してしまう。
 すでに八月、季節は初秋。ある日雷雨があり、家のそばに雷が落ちたことから、無三四の雷体験談になる。形あるものはどんなものでも怖くはないが、無形のものほど怖いものはない。しかし、雷の物理はわかっていても、怖いものは怖い。一度経験したショックのトラウマは消えない。無三四にそんな心理学を語らせながら、話は意外な方向へ展開する。
 つまり、無三四の雷が怖いという話を聞いて、七助は、自分もショックで忘れられない怖い経験があると、長物語を語りだす。それは他人はおろか妻にさえ話したことがない、自分一人の胸の内に秘めていた話である。
 それが、先日小倉城下での若侍たちとの悶着のおり、七助が気絶した深い原因、すなわち、三年前のある夜に、彼が名島城下で目撃した殺人事件――吉岡太郎衛門が闇討ちにされた事件であり、七助はその目撃者でありながら、後難を恐れてひた隠しに隠して、誰にも口外しなかったのである。ここで読者は巻之二に、枳殻〔からたち〕の籬に隠れて、事件を目撃した下男の記事が、たしかにあったのを想起し、物語の伏線にようやく気づかされるのである。
 七助が見た犯人の大男の容姿は、無三四が播州姫路まで出向いて聞き込んだ佐々木巌流の容姿と一致する。しかし、七助がこの話を出したのは偶然で、彼は、宮本無三四が吉岡の実子であることを知らずに、無三四と無関係な自身の体験談として、この物語を語った――彼の物語の本当の意味は別のところにあり、語り手である七助自身にもわかっていなかった――のだが、これが無三四にとってこの上ない重要な証言であり、ここではじめてすべての糸が結びつき、しかも先日、小倉城下で諍いの仲裁に入った大男が、無三四の実父を殺した犯人だったと判明する。無三四は不倶戴天の仇に会っていながら、それとは知らず、ただ善意の仲裁者として彼に感謝していたのである。
     小倉の大男の仲裁者 = 父吉岡を殺した犯人
 かくして、目指す仇は小倉にあり、というわけで無三四は早速、その日に小倉へ旅立つ。同伴を志願した十助を連れて。
 さて、佐々木巌流は、吉岡を暗殺した後、総髪の姿を変え、名も「官大夫」と改めて、四国丸亀にもいたが、三年前に小倉へ来て、黒田勘解由高政という城主に、客分として召抱えられている。おりしも秀吉の朝鮮侵略のころで、黒田高政は参戦し、その父・吉高という人物が国城を守っている状況。
 もちろん、豊前小倉が黒田家の城地というのは物語上の設定で、モデル関係は黒田高政〔たかまさ〕が黒田長政〔ながまさ〕で、その父・吉高〔よしたか〕がモロに同音の孝高〔よしたか〕なのだが、ただし黒田勘解由は父の如水考高、当時は、実際の黒田家の城地は豊前中津で、小倉は毛利勝信の城地。このあたり設定は適当にズラしてある。しかも巌流の改名・官大夫というのも、黒田官兵衛の名にちなんだ戯作とみてよかろう。
 ともあれ、朝鮮出兵で、家中の諸士は出陣しているので、剣術師範の佐々木官大夫は当然ヒマで、魚釣りをして遊んでいるという次第。そこへ無三四がやってくる。
 小倉にきた無三四は旅宿を拠点に、つきとめた巌流=官大夫の屋敷を、用心して変装したりして偵察し、数日後、釣りに出かける彼を見つけて、先日の仲裁者であることを確認し、すなわち目指す仇の巌流本人にようやくたどり着いたのである。二度目で初めて(一度目はそれと知らず、二度目にはじめてそれと認識して)、というメビウスの環の構造に似たプロセスをたどって。かくして、無三四はその日は旅宿へ帰り、翌日、佐々木の家へ向かった――というところまでがこの巻の話である。
 以上のことからすれば、本巻が、この物語全体の結節点を構成する最も重要な部分であることが知れる。すなわち、これまで伏線としてあった一切が、ここで合流し、一挙に露頭するのである。前の巻にあった七助の気絶というエピソードさえ、ここでその意味が明らかにされ、かくして物語は結末へ向かって一気に走り出すのである。
 それにしても、本巻の見出しに無三四の雷の話とあって、その内容を読むまでは、本当は吉岡横死事件の目撃者が七助だったという事実が伏せられている。言い換えれば、雷の話は仕掛けられた韜晦のルアーであって、作者は、さながらヒチコック映画のように、読者を相手に最後まで引きずり回すということである。
 なお、蛇足ながら、佐々木巌流の人となりについて、生まれつき気随気儘の傲慢な変人とするあたり、誰ぞやの宮本武蔵像に似通うところがあり、いうならば、二百年前のこの小説の中の巌流像が、そっくり現代の武蔵像へ転化しているところが、なかなか歴史のよくするアイロニー、冷やかしではないが、我々の武蔵研究において興味深いことである。

 
   卷之九 目録
 【原 文】

繪本二島英勇記 巻之九
    目 録

  無三四霹靂話〔かミなりばなし〕の事
    震雷〔かミなり〕地に墮る圖
    無三四吉岡が横死の話を聞くの圖
    無三四旅装、名島を發足の圖
  無三四覗佐々木官太夫事
    佐々木官太夫時服拜領の圖
    佐々木官太夫に屋敷を賜ふ圖
    無三四佐々木が家を覗ふ圖

 【現代語訳】

絵本二島英勇記 巻之九
    目 録

  無三四、雷の話の事
    [絵]雷、地に墮る図
    [絵]無三四、吉岡の横死の話を聞くの図
    [絵]無三四、旅装して名島を出発の図
  無三四、佐々木官太夫を覗う事
    [絵]佐々木官太夫、時服拝領の図
    [絵]佐々木官太夫に屋敷を賜う図
    [絵]無三四、佐々木の家を覗う図


巻之九 1
1 ・・ 巻之九 ・・  

巻之九 1/2
2 ・・ 巻之九 ・・ 1

巻之九 2/3
3 ・・ 巻之九 ・・ 2

巻之九 3/4 震雷地に墮る圖
4 ・・ 巻之九 震雷地に墮る圖 ・・ 3

 
   1 無三四霹靂話の事(1)
 【原 文】

   無三四霹靂〔かミなり〕話の事

 諺に、縁有ば千里相隔〔あひへだつ〕といへども相値〔あひあふ〕、縁無れば紙門〔ふすま〕を障〔へだ〕つといへども相知らずと、理〔ことハり〕なるかな。
 無三四は七助と同舩〔どうせん〕せしより、不思儀に十助に廻りあひ、歓喜〔よろこび〕他〔かぎり〕なく、十助も斜〔なゝめ〕ならず、いさミ進ミ前路〔さき〕にたちて立帰れば、七助が帰るを見つけ、娘まき門〔おもて〕に出て、七助夫婦に向ひ、やれ恙〔つゝが〕なく帰り玉ふかやと、いひつゝ無三四が顔をミて仰轉〔ぎやうてん〕し、こは思ひがけなき御主人の御入〔おいり〕、ひとへに夢とおどろけバ、無三四も同じく悦び、七助と同舩のやうすを語りければ、巻ハ涙を流し、まことに佛神の引合〔ひきあハせ〕にてこそ候へ。われ/\夫婦つね/\御厚恩の事をのミ申出す計〔ばかり〕にて、もとより風の便りをも仕ることかなハず、如何〔いかゞ〕わたらせ玉ふやらんと、幾ばくの年月を過し参らせしに、今日かゝる御對面を申さんとハ、存じよらざる事也。まづ我家〔わがいへ〕に幾日〔いくか〕も御逗留なし玉へと、俄に草鞋を解〔ほど〕き足を清〔すゝ〕がせ、七助夫婦十助夫婦、ともに礼儀を尽しける。
 七助も舩中〔せんちう〕の物がたり、路次〔ろじ〕の危難を助けられし事共、一々に巻に語り、つね/\十助夫婦が申出せしハ、友次郎様とのミうけ玉り、御改名ありて無三四様といふことを知らず、道終〔みちすがら〕泊々〔とまり/\〕の失礼、ひとへに御免下されよと、懇〔ねんごろ〕に罪を謝しけれバ、無三四も大きに笑を催し、是より酒飯を用ひ、湯を浴〔つか〕ひ、心を安んじ憩ひける。
 此日を初として、一連〔いちれん〕五六日ばかり逗留しけるに、七助等四人の者ども、少しも麁略の躰〔てい〕なく、心をつくし饗應するに、無三四大きに迷惑〔めいわく〕し、ひたすら辞〔いとま〕を告けれども、敢て聴〔ゆる〕さず、覚えず十日ばかり逗留するに、はや八月の時候〔じこう〕にもなりしかば、金風〔あきかぜ〕肌〔はだへ〕を吹さまし、其上毎日霖雨〔りんう〕ふりすさみけれバ、七助親子四人これをかこづけて、いよ/\無三四を輟〔とゞ〕めて放さず、既に八月十二日になりにける。
 其日午刻〔むまのこく〕の下りより、密雲〔ミつうん〕四方に起り、東西一度に風の音凄々〔せいせい〕と聞え、須臾の間に、雷〔いかづち〕鳴出し、あたかも天地をくだくがごとく、雨は盆をかたぶけたるが如くなりしかば、無三四及び七助が家内すべて一ツ所〔しよ〕に聚り、此ハけしからぬ雷雨〔らいう〕かなといふ間もなく、忽ち一聲〔せい〕の雷〔いかづち〕、まさしく頭上より墜かゝるがごとく響きければ、ミな/\一度に驚き、嗚呼〔あゝ〕といふて、ひれ伏ながら、むかふの畑の中を見るに、一塊〔ひとかたまり〕の火の玉おちて、地の上を旋〔めぐ〕る事五六偏、烏雲〔くろくも〕かの火輪〔くハりん〕をつゝみ、なを真黒に雲聚り、盤桓〔くるり/\〕としてかけめぐりければ、七助も十助も、たがひに聲をも出さずながめ居るうちに、烏雲次第に散乱し、程なく雷鳴やミ、雨も少し降やミしかば、十助やがて笠を冠り、彼所〔かしこ〕に抵〔いた〕りて見るに、其遠さ壹町ばかり、かの火の王の墜たる畑の中を睨〔うかゞ〕ふに、すべてその邊〔へん〕五六間ばかりの地〔ところ〕、野菜の類こと/\く掻〔かき〕みだしたるがごとく、草葉ハ残らず枯矮〔かれしぼミ〕て、全く燒たるに異なる事なし。

(以下つづく)

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 【現代語訳】

  無三四、雷の話の事

 諺に、縁があれば、千里離れていても、逢うことができる、縁がなれば、襖[ルビによる]しか隔てていなくても、互いに気づかない、と(言うが)道理ではないか。
 無三四は、七助と同船したことから、不思議に十助にめぐり逢い、歓喜かぎりなく、十助も非常に喜んで、興奮して先頭にたって帰ったが、七助が帰るのを、娘の巻が見つけ、表[ルビによる。表はカドとも]に出て、七助夫婦に向い、「やあ、無事にお帰りなさったか」と言いつつ、無三四の顔をみて仰天し、「これは思いがけない御主人[かつて巻は宮本家に奉公していた]のお越し、まったく夢か」とおどろいた。無三四も同じく悦び、七助と同船の次第を話してやると、巻は涙を流し、「まことに仏神のお引合わせでございます。我々夫婦[十助と巻]は、つねづね(宮本家での)ご厚恩の話をしているだけで、もとより風の便りさえすることはできず、どうしておいでかと(思いつつ)、数々の年月を過していましたが、今日、こんなご対面ができるとは、思いもよらないことです。まず我が家に何日でもご逗留してください」と、さっそく(無三四の)草鞋を解き、足をすすがせ、七助夫婦と十助夫婦が、ともに礼儀を尽くした。
 七助も、船中の話、道中で危難を助けられたことなどを、一つひとつ巻に語り、「つねづね十助夫婦が言う話では、(あなたのことを)友次郎様とのみお聞きしており、御改名なさって無三四様ということを知らず、道すがら(船の)泊りとまりの失礼、ひとえに御免下されよ」と、懇ろに詫びるので、無三四も大いに笑いを催し、それから、酒食のもてなしをうけ、風呂に入り、心を安んじて寛いだ。
 この日をはじめとして、そのままずっと五、六日ほど逗留したが、七助ら四人の者たちは、少しも(無三四を)おろそかにはせず、心をつくして饗応するので、無三四は大いに困って、ひたすら暇を告げるけれども、(無三四が去るのを彼らは)一向にゆるさず、思わず十日ばかり逗留してしまったところ、はや八月の時候にもなった[旧暦八月は中秋]ので、秋風[ルビによる。五行説で金は西あるいは秋]が吹いて肌をさまし、そのうえ毎日霖雨[長雨]がはげしく降るので、七助親子四人は、これを口実にして、いよいよ無三四を引き留めて離さず、すでに八月十二日になった。
 その日は午の刻の下り[昼1時前]から、密雲[雷雲]が四方に発生し、東も西も一度に風の音が凄々と聞こえ、またたく間に、雷が鳴り出し、あたかも天地を粉砕するがごとく、雨は盆を傾けたように(どしゃ降りに)なったので、無三四と七助の家族がすべてひとつ所に集まり、「これは、とんでもない雷雨だな」という間もなく、たちまち一つ雷鳴がして、まさしく頭上から落ちてくるように響くので、皆々一度に驚き、「ああ」といって、ひれ伏しながら、向うの畑の中を見ると、一塊の火の玉が落ちて、地上を旋回すること五、六回、黒雲[ルビによる]がかの火の輪を包み、なおもまっ黒に雲があつまり、くるくると[ルビによる]走り回るので、七助も十助も、たがいに声をも出さず見つめているうちに、黒雲は次第に散乱し、ほどなく雷鳴もやみ、雨も少し降りやんだので、十助はやがて笠をかぶり、そこに行って見た。その距離は一町[約百m]ばかり、かの火の王の墜ちた畑の中の様子をみると、そのあたり五、六間[約十m]ほどの土地はすべて、野菜の類いはことごとく掻き乱したごとく、草葉は残らず枯れしぼんで、焼いたのと全く違わない。


巻之九 4/5
5 ・・ 巻之九 ・・ 4

巻之九 5/6
6 ・・ 巻之九 ・・ 5

巻之九 6/7
7 ・・ 巻之九 ・・ 6

 
   2 無三四霹靂話の事(2)
 【原 文】

   無三四霹靂〔かミなり〕話の事(承前)

 十助得〔とく〕と見て立帰り、無三四に向ひ申けるハ、正〔まさ〕しく唯今の火の玉ハ雷〔いかづち〕の墜たるに相違なし。満地〔まんち〕悉く荒損〔あれそん〕じ、殊に其辺塩硝〔ゑんしやう〕の臭氣酷〔はなハだ〕しく候。
 無三四、それこそ雷〔らい〕の天降〔あまくだり〕たるに疑ひなし。我諸国經歴する事すでに三年なり。去年はからず信州に於て、郊野〔のはら〕の中にて雷雨に値〔あひ〕、いづれへ立よらんにも木陰だになく、足にませて家あるかたへと急ぎし所に、六七間向ふの方にいかづち墜たり。此時某おぼへず地に倒れて伺ふ所に、火の光散乱して忽ち闇夜〔あんや〕のごとく、これ黒雲にまかれたる也。其時何となく焔硝〔えんしやう〕の臭ひ鼻に入て堪がたく覚へたり。我其時に一驚を吃〔くら〕ひ、地に倒れ、火輪の旋轉として地の上を盤〔めぐ〕るを見て、魂魄天外に飛び、唯今も是に身を觸〔ふる〕るときハ、身體微塵となるべしと、其畏しさ心〔しん〕にこたへしが、それより以來〔このかた〕雷〔らい〕をきくときハ、身上の毛孔一度にたち、思ひ出すさへ心快〔こゝろよか〕らずと、かたりければ、七助側〔かたハら〕より進ミ出て、しからば其時さだめて雷〔らい〕の形をば見たまひつらん。鬼の形とも、またハ小さき獣のかたちとも申すが、左様の物にて候しか。
 無三四聞て、否〔いや〕、雷〔らい〕に形ある物にあらず。今の世に絵に画〔かく〕ハ、漢土の王充〔わうじう〕といふ人の利[理]をもつて画せたる絵そらごとにて、雷ハもと天の火氣ふかく地に照込〔てりこミ〕、その火氣再び天にのぼらんとする時、雲ハもと水氣なり、水氣の雲の中に火氣包まれて、出る事あたハず。水火〔すいくハ〕互ひに激して、終に聲を發するものなり。易にてハ震〔しん〕の卦を雷〔らい〕とす。故に震の卦は、陽氣下〔しも〕にあるを、陰氣をもつて押へたる形に作れり。然らバ聲のミ有て形なく、水火の戦ひと俗にいふこれなり。
 七助また申けるハ、それほど能〔よく〕その利[理]を知りながら、何ゆへ畏れ玉ふぞ。形ある物ならバ、畏れ玉ふも道理なり。形なきものと悟りて畏れ玉ふハ、近ごろ似合ざる御事也。
 無三四答て、然らず。甚だ相違なり。形ありて手に取られ眼〔まなこ〕に遮り、劔戈〔けんげき〕の刄の立べき者ならば、譬へバ天狗の所変といへども、おそるゝに足らず。世の中に無形〔むぎやう〕にして勢ひの厳しきものほど畏しき物ハなし。されども死生ハ天の数〔すう〕なるが故に、畏るゝともまたおそれずとも、天命の然らしむる物ならば、鉄郭の中〔うち〕に籠り、石室の内に隠〔かくれ〕たり共、免かるゝ事なし。天命の然らざる時ハ、赤裸にして郊野〔のはら〕に臥たり共、何の怖畏〔おそれ〕かあらんと、我悟りても観じても、雷鳴をきくと、何となく畏ろしく覚ゆるハ、一度驚きたる轉動心〔てんだうしん〕の再び治らざる者也。われすでに諸國經歴する事、父武右衛門が命〔めい〕を蒙りて、武者修行をする身の上なれば、國々に於て真劔にて試合せし事数回〔あまたゝび〕、別して備前岡山などにてハ、数十人の曲者共、劔戈〔けんげき〕の中に取圍れしかども、刀劔を更に恐るゝ心半點〔はんてん〕も起らず。刀劔も命を断〔たつ〕凶器、雷霆〔いかづち〕も一心を損ずるの凶激〔けうげき〕、され共嘗て刄物ハ何ともなく、雷に堪がたきハ、我ながら不審晴〔はれ〕ずとかたるにぞ、
 七助も嘆息〔ためいき〕つき、扨々武門の御身の上ほど恐ろしき者ハ候ハず。何さま人ハ懲〔こり〕たる事あれば、忽ち膽玉〔きもだま〕轉動〔ひつくりかへ〕りて、氣を失ふ物にて候。すでに先日池の側〔はた〕にて難儀の時、私思ハず氣絶仕るも、これ下地〔したぢ〕に懲たる事あるが故也。初め壮士〔わかさむらひ〕どもと爭ひの間ハ、怖しくハありしかども、是非なき事なりと観念して居たりしに、四十有余の大男が來り、幸ひに双方をなだめ、頓〔やが〕て和談に及びし処に、思ハずかの者の顔を見て大きに驚き、双身〔さうミ〕ことごとく麻〔なへ〕たるが如く氣絶いたしたり。
 無三四是をきゝ、まことに其時の形容〔ありさま〕、我も不審〔いぶかしく〕思ひしなり。驚き忙〔あハて〕たる上の利害〔わけ〕ならば、初めの言戦〔ことばあらそ〕ひの間にこそ、氣をも失なふべけれ、和談の後乃悶絶ハ合點ゆかず懐ふ所、唯今の一言にていよ/\不審起れり。扨〔さて〕かの男の顔色〔がんしよく〕を見て一心をとり失ふ程の恐懼〔けうく〕せらるゝハ、いかなる道理ぞや。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

   無三四、雷の話の事 (承前)

 十助は(落雷の現場を)入念に見て、帰って無三四に向い云うには、「まさしくただ今の火の玉は、雷が落ちたのに相違ありません。一面ことごとく荒れ損じ、ことにその周辺は煙硝の臭気がものすごいのです」。
 無三四、「それこそ、雷の天降ったに疑いなし。私は諸国経歴して、すでに三年になる。去年、たまたま信州で、野原[ルビによる]の中で雷雨に遇い、どこへ立ち寄ろうにも木陰さえなく、足にませて人家のある方へ急いでいると、六、七間[約十二m]向うの方に雷が落ちた。このとき、それがしは思わず地に伏して(様子を)うかがうと、火の光が散乱して、たちまち闇夜のようになった。これは黒雲にまかれたのだ。そのとき、どこからともなく煙硝の臭いが鼻に入って、堪えがたく感じた。私はそのときにびっくりを喰らって地面に倒れ、火の輪がくるくると地面の上を旋回するのを見て、魂魄が天の外にぶっ飛び、この瞬間、これに身を触れたら、身体が微塵になってしまうと、その畏しさが心にこたえたが、それよりこのかた[ルビによる]、雷鳴を聞くと、体中の毛孔が総立ち、(あれを)思い出すさえ、不安になる」と語ったので、七助は傍らから進み出て、「しからば、そのとき、きっと雷の姿をご覧になったでしょう。(雷は)鬼の形とも、または小さい獣のかたちとも言いますが、さようの物でございましたか」。
 無三四、聞いて、「いや、雷は形あるものではない。今の世に絵に(雷を)画くのは、漢土の王充という人[後漢時代の思想家。会稽上虞の人。著書論衡に鬼神論あり]の理論をもって描かせた絵そらごとだ。雷は、本来、天の火気が地に深く照り込み、その火気が再び天にのぼろうとする時、雲はもともと水気だから、水気の雲の中に火気が包み込まれて、出ることができず、水と火が互いに激して、ついに音を発するというわけだ。易(の八卦)では、震(しん)の卦を雷(らい)とする。故に震の卦は、陽気が下にあるのを、陰気で押えた形に作る[震の卦:震の卦]。だから、(雷には)音はあるが形がない。水火の戦いと俗に言うのはこれである」。[易による物理学を語り手が開陳]
 七助がまた言う。「それほどよくその物理を知りながら、どうして畏れなさるのか。形ある物ならば、畏怖なさるのも当然ですが、形なきものと悟って(おられるのに)、畏怖なさるのは、まったく(あなたのような豪傑に)似合わないことです」。
 無三四、答えて、「そうではない。まったく違うのだ。形があって手に取ることができ、眼に見え、武器[劔戈]の刄が立つような物ならば、たとえば天狗の出現[所変]といえども、恐れるに足らない。世の中に無形にして勢いの激しいものほど畏しいものはない。されども、「(人の)死生は天の数[天の計らい]だから、畏れてもまた畏れなくても、天命のしからしむるものなので、鉄の囲いの中に籠り、石室の内に隠れたとしても、免がれることはできない。天命のしからざる時は、赤裸で野原で臥していても、何の畏れがあろうか」と、悟っても観じても、雷鳴をきくと、私が、何となく畏ろしく感じるのは、一度ショックをうけた転動心[動転した心]は再び元にもどらないということだ。私はすでに諸国を経歴してきたが、父(宮本)武右衛門の命を受けて、武者修行をする身の上なので、国々において真剣で試合したことが多数ある。とくに備前岡山などでは、数十人の曲者どもに武器で包囲されたが、それでも刀剣を恐れる心は少しも起らなかった。刀剣も命を断つ凶器、雷も一心を破損する凶激[トラウマティックなショック。この前後は語り手の心理学]、されども、刄物はまったく何ともないのに、雷が堪えがたいのは、我ながら不審が晴れない」と語ると、
 七助もため息をつぎ、「さてさて、武門の御身の上ほど恐ろしいものはございません。たしかに、人は懲りたこと[二度と遭いたくないトラウマティックな体験]があれば、すぐさま膽玉がひっくりかえって[ルビによる。気が動転して]、気を失うものでございます。先日(小倉の)池の端で難儀の時、私が思わず気絶いたしましたのも、これは下地に懲りたことがあるためです。はじめ、若侍ども[ルビによる]との口論の間は、怖しくはありましたが、しかたがないと観念していました。(ところが)四十歳余りの大男が来て、幸いに双方をなだめ、そのうち和談に至りましたところで、(私は)不意に、かの者の顔を見てしまって、大いに驚き、総身ことごとく萎えたようになって、気絶いたしました」。
 無三四はこれを聞き、「まことに、あのときのありさま[ルビによる]は、私も不審に思ったのだ。驚いて慌てた上のわけならば[ルビによる。利害得失は道理の意]、最初の言葉争い[ルビによる。口論]の間に、気を失うはずだ、和談の後の悶絶は納得がいかないと思っていたところだが、ただ今の一言で、いよいよ不審が起こった。さて、かの男の顔つきを見て、一心を喪失するほど恐怖されたのは、どういうわけなのか」。


巻之九 7/8 無三四吉岡が横死の話を聞圖
8 ・・ 巻之九 無三四吉岡が横死の話を聞圖 ・・ 7

巻之九 8/9
9 ・・ 巻之九 ・・ 8

巻之九 9/10
10 ・・ 巻之九 ・・ 9

巻之九 10/11
11 ・・ 巻之九 ・・ 10

 
   3 無三四霹靂話の事(3)
 【原 文】

   無三四霹靂〔かミなり〕話の事(承前)

 七助嘆息〔ためいき〕して申けるハ、これにハ段々〔だん/\〕の長物がたりあり。今日幸の雨天なれば、外にも人の往來なし。委く話申べし。外へ漏てハ一大事なり。無三四様も随分ちかく寄たまへ。十助娘も近くよるべし。我今日までも、女房にも話さず。此事をいはんとするも、胸ふさがる事共也。
 われ先年、身上〔しんしやう〕困窮の節、家内わかれ/\に奉公挊〔かせぎ〕を仕出し、まづわが身ハ名島の城下にいたり、溝口源兵衛といふ人の方へ僕〔しもべ〕奉公にありつき、ずいぶん律義に勤〔つとめ〕たり。主人も我奉公に内外〔かげひなた〕なきを見て、甚だ憐ミを加へられ、およそ三年ばかりつとむる内、又他の家士〔やしき〕に年給〔きりまい〕よろしき口ありしまゝに、溝口家のいとまを乞取、その家に奉公する事、還〔また〕一年ばかり。嘗て奉公の暇〔いとま〕あるときハ、先主〔せんしゆ〕溝口殿へ訪〔ミま〕ひに参ること毎度也。
 扨此人小身なりといへども、至〔いたつ〕て慈悲深き、篤実主顧〔とくじつだんな〕。時々〔よりより〕にわれに向ひて、汝もし在所へ帰らず、猶今暫く奉公を挊〔かせぐ〕ぞならば、ふたゝび我家に還り來れと薦らるゝ故に、我もまた主顧〔だんな〕の慈恵〔なさけ〕を忘れがたく、溝口どのに帰り新参となり、復〔また〕三年の間奉公仕りぬ。
 前後七ケ年の辛抱、六ケ年ハ溝口家に仕へ、其後此所へ帰り、僅に埴生〔はにふ〕の小家〔こや〕をつくり、農業耕作をむねとし、木を樵〔きり〕ては城下に賣〔うり〕、いさゝか農事〔つくり〕の暇ある時ハ、人に雇れ四方を駈めぐり、賃錢〔ちんせん〕を取、挊けるに、城下へいづる度ごとにハ、古主〔こしゆ〕の家に至り訪へば、古主もまた我こゝろざしの変らざるを歓び、吉〔よき〕につけ凶〔あしき〕に就〔つけ〕てハ、我を呼よせ、折々多く金錢をも賜ハるにより、厚恩を感じ、両日三日〔ふつかミか〕隔〔はざま〕にハ機嫌を伺ひに参りし処、すでに四年以前より、それなる十助還〔きた〕りて後ハ、我に代りて農業を営めば、我は大かた溝口家へ参り、僕〔しもべ〕代りに雇ハれ、或ハ旬日〔とをか〕あるひハ一月逗留仕る事、尋常〔つね/\〕也。
 然るに、三ケ年以前の三月、彼家の僕〔しもべ〕俄に越度〔をちど〕の事ありて、暇を出され、我を呼に遣し、僕代りに一二ヶ月雇はれ居たりし処、四月十五日の夜半〔よなか〕の頃、召仕の下女、俄に腹痛を仕出し、大きに苦ミけるほどに、主顧〔だんな〕ハもとより、奥方さま/\にいたハり、丸散〔くすり〕よ水よと詈り喧〔さハげ〕ども、痛疼〔いたミ〕ますます厳敷して、治りがたき故に、日頃出入の針医〔はりい〕あれバ、我に迎へ來れと有しまゝに、我も大きに忙〔あハて〕ながら、醫者の方〔かた〕へかけ出せし処、其日ハ正〔てう〕ど今日のごとく雷鳴雨〔かみなりあめ〕降て、宵に雨もやミ、空は晴たれ共、路次湿り、所々に水潦〔たま〕りありし間、木履〔あしだ〕を着〔はき〕、善悪を厭〔かまハ〕ず駈付る折こそあれ、鳴尾殿と申大身の別荘〔しもやしき〕の後門〔うらもん〕の圖〔づ〕へ参る所に、向ふの方より謡曲〔うたひ〕高らかにうたふて來る人あり。
 耳を傾ふけてくハしく其聲をきけば、溝口家の隣家吉岡殿と申、武藝の師匠あり、其人也。此主顧〔だんな〕も個〔ひとり〕の篤実なる人物〔ひとがら〕。溝口殿とハことの外懇意にて、平日圍碁を好玉ひ、我居る主人の方へ日々に來り玉へバ、我等も折に觸てハ茶などはこび出るに、ことの外したしく、言〔ことば〕をもかけらるゝといへども、劔術者ときけば、何となく心地悪〔あし〕く、其上其人礼義正しき人なれバ、我もつねに路次などにて出合ときハ、少しも不礼〔ぶれい〕を活〔はたらか〕ず、其夜ハ雨の後、空も清〔さやけ〕く晴わたり、月の光昼よりも明〔あき〕らか成しかバ、若〔もし〕出合てハ木履〔ぼくり〕をぬぐも邪魔なれバ、やりすごして行んと見廻す処に、鳴尾家の屋敷の土墻〔へい〕の外に、枳殻〔きこく〕の籬〔まがき〕有て所々損じ、土墻と籬の際〔あいだ〕にかゞミ竄〔かく〕るべき木蔭あり。
 我これを見付、幸ひの所なりと、忍んで籬〔かき〕の後にわけ入、ひそかに伺ふ折しも、吉岡殿、はや我かくれゐる籬の処へ來り玉ふをミれば、よほど酒に酔玉ひしとおぼへて、脚歩〔あしもと〕穏〔おだやか〕ならず、我忍びゐる木蔭の前を二間ばかりも通玉ハざるに、一人の大男、草鞋をはき、忍び足にて伺ひ逼〔せま〕り、吉岡殿の後〔うしろ〕より、ひらりと抜て切つけたり。彼男の劔術の勝れたるか、又ハ刄物の名作物か、あゝといはさず切倒す。
 其時われハ枳殻の蔭に有て、此形状〔ありさま〕を見て、おそろしさいふばかりなく、満身〔からだ〕一度に麻縮〔なへちゞま〕り、地の上に打臥、今も見付られて殺さるゝかと、其時心願〔しんぐわん〕を做〔かけ〕て、南無金毘羅大權現、此度の難を救ひ玉ハゞ早速参詣いたすべしと、只顧〔ひたすら〕拝み居るうちに、彼くせもの、吉岡殿の髻〔たぶさ〕をとつて引仰〔ひきあを〕のけ、いかに吉岡、先年某に恥辱を与へし欝憤〔うつぷん〕今はらすぞ、思ひしれといひさま、とゞめといふものにても候べし、吭〔のどぶへ〕を二刀〔ふたかたな〕までさし通したる其有さま、畏ろしさ強〔こハ〕さ。其聲耳の底にとゞまり、月の明りに能々〔よく/\〕面躰〔めんてい〕をミるに、双髪にして色白く、腮〔おとがひ〕方〔しかく〕にして、両の頬骨たかく聳〔あがり〕、眉の毛黒く、年齢〔としごろ〕四十余り、一向〔いつかう〕名嶋の家中にハ見慣ざる人柄〔ひとがら〕、殊に旅装〔たびよそほ〕ひしたれバ、全く他國の人に相違なし。其顔かたち夜分なれども、恐怖〔おそろし〕さの余り、目さきに着てわすれがたく、然るに太刀音〔たちおと〕鳴尾の屋敷に響てや有けん、門内に数多〔あまた〕の人聲ありて、たしかに刀の刄音なり。後門〔うらもん〕の外へかけ出ミよと、聲々に騒〔さハぎ〕のゝしるを聞て、彼のくせ者ハ刀を鞘に納め、迯出すを、我も由縁〔よし〕なき所に居て、捕へられてハ身の大事なりと存じ、籬の裏〔うち〕よりにげ出、路筋を改〔かへ〕て走りしが、其夜より城下大きに騒ぎたち、吉岡を切たるもの、諸士の内にあるべしと、殿様よりの御詮議きびしく、我より外に子細を見認〔ミしり〕たる者なしといへ共、もしや掛り合となりてハ、後日の難儀なりとぞんじ、曽て口外〔かうぐわい〕に出さず。
 其時に金毘羅大權現様へ願籠いたしたる故に、此度願解のため参詣いたせし也。
 扨〔さて〕其後時々其事を思ひ出せば、彼の者の悌〔おもかげ〕まぼろしに見え、ひたすらおそろしかりしに、先日はからず池の側〔はた〕におゐての扱ひに入たる男の顔をミるに、彼〔かの〕吉岡どのを殺したる曲者に相違なし。競〔あらそひ〕の時、我渠をミるより駭〔借字・びつくり〕し、懐〔おも〕はずしらず氣を取失ひぬ。
 是こそかなたの先刻の仰〔おほせ〕の通、一度動轉したる魂蟲〔むし〕の治らざる故と覚〔おぼへ〕たりと、汗を流して物がたる。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

   無三四、雷の話の事 (承前)

 七助が嘆息して言うには、「これには、いろいろと長い話があります。今日は幸いの雨天ですから、(家の)外に往来する人もありません。くわしくお話しいたしましょう。外へ漏れては一大事です。無三四様も、ずっと近くへお寄りください。十助、娘も近く寄りなさい。私は今日まで、女房にも話しませんでした。このことを話そうとしても、胸が塞がる思いです。[以下、七助の長物語]
 私は先年、身上困窮のおり、家族別れ別れになって奉公稼ぎを始め、まず私自身は名島の城下に行きまして、溝口源兵衛という人の家へ下男奉公にありつき[ありつくは就職]、できる限り律義に勤めました。主人も、私の奉公に蔭日向のない[ルビによる。裏表がない]のを見て、非常に目をかけて下さり、およそ三年ほど勤めましたが、そのうち、また他の家士(の屋敷)に年給(切米)のよい口がありましたので、溝口家を辞めさせてもらい、その家に奉公すること、また一年ばかり。(しかし)奉公の暇があるときはいつでも、先主[以前の雇い主]溝口殿へ機嫌伺い[見舞い]に参るのが毎度のことでした。
 さて、この人は小身[禄高の小さい侍]だとはいえ、いたって慈悲深い、篤実な旦那[ルビによる。主顧はふつう顧客の意だが、ここは雇い主]でして、折々、私に向って、「おまえ、もし在所へ帰らず、もうしばらく奉公稼ぎをするつもりなら、もう一度我が家に帰って来い」とお薦めになりますので、私もまた、旦那のお情けを忘れがたく、溝口殿(の家)に帰り新参[出戻って再び仕える者]となり、また三年の間奉公いたしました。
 前後七ヶ年の(奉公稼ぎの)辛抱(でしたが)、六年は溝口家に仕え、そののち、ここへ帰り、やっと埴生の小家[土間しかない小屋、転じてみすぼらしい粗末な家]をつくり、農業耕作を主とし、(他に)木を樵っては(名島の)城下に売り、いささか農事の暇がある時は、人に雇われ四方を走り回り、賃銭をもらって稼いでいましたが、城下へ出る時はいつも、古主[溝口源兵衛]の家へ訪ねて参りますので、古主もまた、私の心ざし[誠心]の変らないのを歓び、よきにつけ凶しきにつけて、私を(手伝いに)呼び寄せ、折々多く金銭も下さるので、厚恩を感じ、二、三日おきには機嫌を伺いに参っておりましたところ、すでに四年前から、そこにいる十助が来て後は、私に代って農業をしてくれますので、私はほとんど溝口家へ行き、下男代りに雇われ、十日[ルビによる]あるいはひと月と、逗留いたしますのが常のことでした。
 ところが、三年前の三月、かの家[溝口家]の下男が、落ち度[過失]の事があって、急に暇を出され、(溝口家では)私を呼びに遣わし、下男代りに一、二ヶ月雇われていましたところ、四月十五日の夜半の頃、召仕えの下女が急に腹痛を起こし、大いに苦しみますので、旦那はもとより奥方がさまざまに看病し、「薬[丸薬・散薬]よ、水よ」と大声で騒いでいましたが、痛みはますますひどくなって、おさまりません。日頃出入りの針医[鍼医者]がありまして、私に「迎えに行って来い」と言われましたので、私も大いに慌てながら、医者の家へかけ出しましたところ、その日は、ちょうど今日のように雷雨が降りまして、宵には雨もやんで空は晴れましたが、道路は濡れて、所々に水たまりもありますので、足駄[ルビによる。雨天用の高下駄。木履はぽくり]をはき、濡れるのもかまわず、走って行きました。そのとき、鳴尾殿と申す大身[高禄の家士。前出によれば家老]の下屋敷[ルビによる。前出]の裏門の通り[図は条里制の条]まで参りますと、向うの方から謡曲を高らかに謳いながら来る人があります。
 耳を傾けてじっとその声を聞きますと、溝口家の隣家に、吉岡殿と申す武芸の師匠があり、その人なのです。この旦那も、これまた篤実な人物で、溝口殿とはことのほか懇意で、日ごろ囲碁を好まれ、私が居ります主人の家[溝口家]へ毎日のようにおいでになるので、私らも折にふれては茶など運んで出ますと、ことのほか親しく言葉をかけてくださる。とはいえ、剣術者ときけば、何となく気味が悪く、そのうえ、この人が礼義正しい人なので、私もつねに道端などで出くわすときは、少しも不礼にならないようにしておりまして、その夜は、雨ののち、空もさやけく晴れわたり、月の光で昼よりも明るいほどでしたので、もし出合っては、木履[ルビによる。前出雨天用の高下駄]を脱いで(挨拶しなければならない)、それが面倒なので、(吉岡殿を)やり過ごして行こう、と(あたりを)見廻しますと、鳴尾家の屋敷の土塀の外に、枳殻[からたち]の籬があって、所々に穴があり、土塀と籬のあいだに、屈んで隠れておれそうな木蔭があります。
 私はこれを見つけ、幸いの隠れ場所だと、そっと籬の後にわけ入り、ひそかに窺っておりますと、吉岡殿は、はや私が隠れている籬のところへ来られたのを見れば、よほど酒にお酔いなされているようで、足元[ルビによる。脚歩は漢流]がフラついています。私が隠れている木蔭の前を二間ばかり[約四m]も通過されないうちに、一人の大男が、草鞋をはき、忍び足で窺い迫り、吉岡殿の背後から、ひらりと(刀を)抜いて斬りつけました。かの男の剣術がすぐれていたのか、あるいは刀剣が名作物だったのか、(吉岡殿を)「ああ」とも言わさず、切り倒しました。
 そのとき、私は枳殻の蔭にいて、このありさまを見まして、その恐ろしさは口では言えないほどで、全身が一度に萎え縮まり、地面にうつ臥せになって、今にも見つけられて殺されるかと(思い)、そのとき心に願かけをして、「南無金毘羅大権現[前出、讃岐金比羅神]、この度の難をお救いくだされば、早速に(お礼に)参詣いたします」と、ひたすら拝んでいますうちに、かの曲者は吉岡殿の髻[もとどり、髪を束ね結んだ部分]をつかんで(身体を)仰向けにし、「どうだ、吉岡。先年それがしに恥辱を与えた欝憤を、いま晴らすぞ。思い知れ」と言いざま、とどめというものでございましょうか、喉笛[ルビによる。吭は漢流]を、二回も刀で刺し通したそのありさまの、畏ろしさ、こわさ。その声は耳の底に残り、月の明かりによくよく(曲者の)面躰を見ますに、総髪[髷を結わず肩まで垂らす髪型]で色が白く、頤は腮が張って四角く、両の頬骨は高く聳え、眉の毛は黒く(濃く)、年のころは四十歳余りで、一向に名島の家中には見慣れない人物、ことに旅装しているので、まったく他の国の人に相違ない。その顔かたちは、夜分だとはいえ、恐怖のあまり、目先にとり付いて忘れられません。そのとき、太刀音が鳴尾の屋敷まで聞こえたのでしょうか、門内に数多くの人声があって、「たしかに刀の刄音だ。裏門の外へかけ出て見よ」と、口々に騒ぎわめくのを聞いて、彼の曲者は、刀を鞘に納めて逃げ出します。私も、理由の立たない場所に居て、捕えられては身の破滅、と存じまして、籬の内から逃げ出し、道筋を(曲者とは逆方向に)替えて逃げましたが、その夜から城下は大騒動で、「吉岡を切った者が、(家中の)諸士のなかに居るはず」と、殿様からのご詮議はきびしく、私以外に(現場の)一部始終を目撃した者はいないとはいえ、万が一係わり合いになっては、後日の難儀だと考え、(これまで)一度も口外に出しませんでした。
 そのときに、金毘羅大権現様へ願こめ[願かけ]いたしましたので、この度は願ほどき[願かけが叶うとお礼参りして自身の願かけを解く]のため、(金比羅宮に)参詣したのです。
 さて、そののち、時々このことを思い出しますと、かの者の面影[ルビによる。顔]がまぼろしに見えて[フラッシュバックで再現し]、ひたすら恐ろしかったのですが、先日、はからずも池の端で仲裁に入った男の顔を見てしまいました。かの吉岡どのを殺した曲者に違いありません。諍いの時、私は彼を見てびっくりし[ルビによる]、思わず知らず、気を失ってしまったのでした。
 これこそ、あなたの先刻の仰せの通り、一度動転した心の虫[心傷の因、いわゆるトラウマ]が治らないためと思われます」――と、汗を流して物語った。


巻之九 11/12 無三四旅装名嶋を發足の圖
12 ・・ 巻之九 無三四旅装名嶋を發足の圖 ・・ 11

巻之九 12/13
13 ・・ 巻之九 ・・ 12

巻之九 13/14
14 ・・ 巻之九 ・・ 13

 
   4 無三四霹靂話の事(4)
 【原 文】

   無三四霹靂〔かミなり〕話の事(承前)

 無三四は、七助が説の間より、或ハ怒り又ハ歯がミをなして居たりしが、忽ち顔色〔がんしよく〕に怒りを顯〔あらハ〕し、扨は我父を討たる者ハ、先日の者にてありけるよな。それとしらずして、寸段々々〔ずた/\〕にせざるこそ残念なれ。只今汝の物語する吉岡殿といふは、吉岡太郎右衛門ならずや。
 七助答へて、是なり。無三四、其吉岡は我父なり。
 七助ふたゝび仰天し、彼方〔かなた〕ハ肥後の熊木〔くまげ〕、宮本家の御子息様と承りしに、吉岡殿の子とのたまふハ千万不審〔いぶかし〕きこと也。
 無三四申けるハ、某〔それがし〕実は吉岡が二男、襁褓〔むつき〕の内より、宮本武右衛門に養れ、武右衛門われを寵〔いつくし〕み愛せらるゝ事、実父の厚恩に勝れたり。然る所、実父横死〔わうし〕の後、更に其仇〔あだ〕を討べき者なし。某頻〔しきり〕に主人清正朝臣に復讐の願をあげ、武術修行と申立、其実ハ敵討の心底〔しんてい〕也。されども誰を敵〔かたき〕とすべき目的〔めあて〕なかりし間、肥後發足の後、名島に趨き、父が門人に曾合して、その手がゝりを探り問〔とふ〕に、其以前播州姫路におゐて、佐々木巌流といふ者あり、聊〔いさゝか〕父太郎右衛門と爭ひを發し、恥辱〔はづかしめ〕をうけたり。渠が所爲〔しハざ〕なるも計がたしと語〔かたり〕し間、其巌流を尋ね出し、試に子細を聞んと思ひ、三ケ年以前より國々にて佐々木といふものを尋ね求め、又播州姫路へもたち越、かの巌流が人物〔ひとがら〕を聞合す處に、双髪にして年齢〔としごろ〕四十有餘〔あまり〕と聞〔きけ〕り。然るに唯今汝のいふ所も四十有余にして双髪の大男とあれバ、汝のいふ所の模様と、某が播州にて承りし所の巌流が人物〔ひとがら〕と、果して符合せり。先日の大男ハ双髪にあらず。然れども深く按〔あん〕ずるに、巌流わが実交を闇討にせしのち、其形容〔かたち〕を変たるも知るべからず。かたちを易〔かゆ〕るほどならバ、又姓名をも改めつらん。何さまかの男の人物〔ひとがら〕を熟〔つく/\〕と思ひめぐらせバ、面躰の様子、ひとへに這厮〔きやつ〕巌流にうたがひなし。先日の時性名[姓名]を聞定めずといへども、小倉の諸士と申せしからハ、小倉城下に至り聞合さば、忽ち明白に相わかるべし。彼〔かれ〕巌流ならバ、我父をうつて後に小倉に仕へたるに疑ひなし。然らバ新参の士也。かた/\以て捜もとむるに容易〔やす〕し。此上は一刻も早く打立べしと、忽〔たちまち〕座を跳〔おど〕り上り、旅行の用意を取急げば、十助無三四にむかひ、某も御供仕るべし。
 無三四かしらをふり、無用/\。我既に諸国修行の間に、たま/\劔術鍛煉の者に出合所、相手ハ真劔、己ハ木刀といふ法を定め、真劔の勝負を試ミるに、唯我片腕にも勝得る者なし。巌流とても何の怖畏〔おそれ〕かあらん。一討〔ひとうち〕に撃殺して、実父が霊をよろこばしめんといへば、七助も側〔かたハら〕よりすゝミ出て、決してあなどり玉ふ事なかれ。私御供いたしたくハ存ずれ共、所詮期〔とき〕に臨で物の用に立がたし。十助ハ劔術をも仕れバ、片腕の御役をも仕るべし。是非に御供いたさすべしと願ふにぞ、無三四甚だ歓喜し、此上ハ敵討ハ事に臨〔のぞみ〕なば、願ひをあげて討べし。復讐に恥〔はぢ〕ある物なれば、助太刀ハかなふまじ。され共旅宿〔りよしゆく〕までハ倶〔ともな〕ふべしと有ければ、十助ハ雀躍〔こおどり〕し、無三四諸とも、旅行の支度そこそこに調〔とゝの〕ゆれば、七助が女房ハ、めでたふ敵〔かたき〕に鰹節〔かつをぶし〕の口祝〔くちいはひ〕の肴に、酒をとゝのへさし出す。
 十助が妻ハ、無三四が言〔ことば〕の動き恐るゝ氣色もなく、さらに泰然としたるに、少しハ心やすけれ共、勝負ハ時の運とあれバ、勝〔かつ〕にさだめぬ劔〔つるぎ〕の中、神にいのりをかけまくも、かしこふ手柄を壽留〔するめ〕の肴、盃三度かたふけて、無三四十助旅装〔りよさう〕をとゝのへ、未〔ひつじ〕乃さがりに首途〔かどいで〕して、小倉の城下へいそぎける。

 【現代語訳】

   無三四、雷の話の事 (承前)

 無三四は、七助が話をしている間から、怒ったり歯囓みしたりしていたが、(ここまで話を聞いて)たちまち顔に怒りの色を顕わし、「さては、我が父を討った者は、先日の者であったのか。それとは知らず、ずたずた[ルビによる]にしなかったのは残念だ。今、そなたの物語った吉岡殿というのは、吉岡太郎右衛門ではないか」。
 七助、答えて、「そうです」。無三四、「その吉岡は私の父なのだ」。
 七助は再び仰天し、「あなたは肥後の熊木、宮本家の御子息様とうけたまわっておりました。吉岡殿の子とおっしゃるのは、まったく理解できません」。
 無三四が言ったのは、「それがしは、実は吉岡の二男で、幼児[襁褓はオムツ]のうちから、宮本武右衛門に養子になり、武右衛門が私をいつくしみ愛されること、実父の厚恩以上だった。ところで、実父(吉岡)横死の後、その仇を討つべき者がまったくいない[実兄は早世したから]。それがしは、重ねて主人清正朝臣に復讐の願いをあげ(て許され)、武術修行と申し立て、その実は敵討ちというのが本当なのだ。されども、誰を敵(かたき)とすべきか、見当がつかなかったので、肥後を出てから名島へ行き、父の門人と会合して、その手がかりを探るために問うと、(門人等は)「播州姫路に、佐々木巌流という者があり、以前、(彼が)いささか父太郎右衛門と争いを起し、辱しめをうけたことがある、彼のしわざかもしれない」と言うので、その巌流を尋ね出し、試みに事情を聞いてみようと思い、三年前から諸国で佐々木という者を尋ね求め、また、播州姫路へも行って、かの巌流の容姿[ルビでは人柄]を聞き合わすと、総髪で年のころ四十余りだという。しかるに、唯今そなたの云うのも、四十余りで総髪の大男ということだ。そなたのいう様子と、それがしが播州で聞いた巌流の容姿[前出]とは、まさに符合[一致]した。先日の(小倉の)大男は、総髪ではない。けれども、よく考えれば、巌流が、我が実交を闇討ちにした後、その姿を変えたかもしれない。姿を変えるほどなら、また姓名も改めているだろう。たしかに、かの男の容姿をじっくりと思い起せば、面躰の様子では、まったくきゃつ[ルビによる。這奴に同じ。厮は仕丁の意]〕は、巌流に疑いなし。先日のとき、姓名を聞いておかなかったとはいえ、小倉の諸士というからには、小倉城下に行って聞き合わせば、すぐに明白にわかるだろう。彼が巌流ならば、我が父を討って後に、小倉(の黒田家)に仕えたに疑いなし。そうなら、新参の士[最近仕官した者]である。いろいろな点で、捜しもとめるのは容易だ。このうえは、一刻も早く(小倉へ)出立しよう」と、たちまち座を跳り上り、旅行の用意を急ぐと、十助は無三四に向い、「それがしもお供いたします」。
 無三四は頭をふって、「無用、無用。私はこれまで、諸国修行の間に、たまたま剣術鍛煉の者に出合っても、《相手は真剣、己は木刀》という掟を定め[前出参照]、真剣の勝負を試合うに、私の片腕にさえも勝ち得る者がいなかった[無三四は両刀使いだから片腕という語が出る]。巌流とても、何の畏れがあろうか。一討ちに撃ち殺して、実父の霊を悦ばそう」と言うので、七助も傍らから進み出て、「決してあなどってはなりません。私もお供したいとは思うのですが、所詮(大事な)ときになって役には立ちません。十助は剣術をやりますので、片腕のお役にでも立ちましょう。是非ともお供させてやって下さい」と願うので、無三四は非常によろこんで、「このうえは、敵討ちに臨んでは、願いを提出して討つことになる。復讐には恥のあるものなので、助太刀はできまい[敵討ちに助太刀を頼んでは恥になる]。けれども、(小倉で泊まる)旅宿までは一緒に連れて行こう」と言ったので、十助は小躍りし[ルビによる]、無三四とともに、急いで旅の支度を調えると、七助の女房は、めでたく敵に(勝つようにと)鰹節を口祝い[門出の祝い]の肴にして、酒を用意して差し出す。
 十助の妻(七助の娘・巻)は、無三四の言動には恐れる気色もなく、まったく泰然としているのに、少しは安心したが、勝負は時の運というから、勝つとは限らない剣の中、神に祈りをかけまくも、かしこく手柄を(するようにと)スルメを肴に出し、盃を三度かたむけて、無三四と十助は旅装を調え、未の下り[午後二時半頃]に門出して、小倉の城下へ急いだのである。[このあたりは祝言歌曲の節回し]


巻之九 14/15
15 ・・ 巻之九 佐々木官太夫時服拜領の圖 ・・ 14

巻之九 15/16 佐々木官太夫に家敷を賜ふ圖
16 ・・ 巻之九 佐々木官太夫に家敷を賜ふ圖 ・・ 15

巻之九 16/17
17 ・・ 巻之九 ・・ 16

 
   5 無三四覗佐々木官太夫(1)
 【原 文】

   無三四覗佐々木官太夫事

 往昔〔むかし〕齊〔せい〕の景公〔けいこう〕に、三人の豪傑あり。其名を陳開彊〔ちんかいきやう〕、顧冶子〔こやし〕、公孫捷〔こうそんしよう〕といふ。晏嬰〔あんゑい〕常に三人の英勇を悪〔にく〕ミ、殺さんとすれども、其序〔ついで〕を得ざりしが、忽〔たちまち〕二ツの桃をもつて、はかりて三人を殺す。諸葛孔明、これを嘆じて、梁甫〔りやうほ〕の吟〔ぎん〕を作り、つねに是を諷〔うた〕へり。人強くして亡ぼしがたきものハ、智をもつてこれを殺す。これ明らかに害せんとする者ハ防ぎ安く、闇〔あん〕に傷〔そこな〕ハんとするものハ防ぐことかたしと、宜〔むべ〕なるかな。
 佐々木巌流は、往昔〔むかし〕吉岡太郎右衛門に勝をとる事あたハず、却て諸人の眼前に恥辱を蒙りし事を憤り、播广〔はりま〕の國を出避〔しゆつへき〕し、名嶋の城外に徘徊して、吉岡を闇討に打取、結恨〔けつこん〕ハ解〔とけ〕しかども、底意快よからずや有けん、やがて額髪〔ひたひがミ〕を剃おとし、名を佐々木官大夫とあらため、そののち中国を經て四國に渡海し、讃州九亀の邊〔へん〕にとゞまり、專ら此邊の侠勇豪傑〔けうゆうがうけつ〕等に劔術をおしへ導き、己も日々に其藝を切瑳琢磨し、武術月々に上達しぬ。
 されど此地も己が心にかなハざる事やありけん、ふたゝび九州にわたり、天正十九年五月、豊前の国小倉の城下に着岸せり。
 其頃ハ黒田勘解由〔かげゆ〕高政朝臣の鎭藩〔りやうぶん〕、家中の諸士、大となく小となく、ことごとく武藝を講じ、高名の武士星の列〔つらな〕りたるがごとくなりしかバ、やがて驛店〔えきてん〕に逗留し、其後家中の士にしたしみ、武藝の得失を論ぜしに、元來渠が自得する所、常人〔つねびと〕にすぐれたる上、吉岡に打負たる後ハ、昼夜〔ちうや〕此道の工夫に怠慢なかりしまゝ、今の練磨の功つもりて、中々凡夫の類ひにあらず。
 夫ゆへ諸士追々に聞つたへ、旅宿〔りよしゆく〕の門前市のごとく、毎日かハる/\來りて、武をこゝろミけるに、果して奇代〔きたい〕の上手〔じやうず〕なりと、諸士の評判次第にたかく、既に高政朝臣の聴〔きゝ〕に達し、ある時城中に召れて、其武技を試らるゝに、官大夫が右に出〔いづ〕る者なし。
 高政朝臣も大に賞美〔しやうび〕し玉ひ、其後諸老臣に此事を評議〔へうぎ〕させ、秩禄を定めて召抱へらるべきに決し、やがて人をもつて官大夫に尋ねさせ玉ふといへども、渠生得〔しやうとく〕自儘自意〔きずゐきまゝ〕のすねものにて、獨り其身を憍慢〔たかぶり〕、甞て仕官の心なく、即〔すなハち〕使者に對して申けるハ、それがし若年の時より生質〔うまれつき〕放蕩〔わがまゝ〕にして、更に礼譲〔れいじやう〕の道に疎く、今四十余歳まで仕官仕らざる身の、今さらに五斗米〔ごとべい〕の爲に腰を偃〔おら〕んことも本意にあらず。奉公の義ハ恩免〔ごめん〕に預りたしと断りければ、高政朝臣も笑ハせ玉ひ、誠に今戦国の風俗、一藝一能を能〔よく〕する者の僻〔へき〕也。晋〔しん〕の杜預〔とよ〕が左僻〔さへき〕にハ變りて、官大夫が僻は蕩僻〔たうへき〕といふもの也。しかし是も又憎むべきにあらず。昔楠正成の泣男を抱へたるも、其入用の所を取〔とる〕といふ者なり。武術ハ戦國の急務にして、今にてハ第一の入用也。唯〔たゞ〕かの男の隨意〔わがまゝ〕にまかせ、家中隨分〔ずいぶん〕かれが熟したる道に逆〔さから〕ハずして学び取べし。宜く賄料〔まかなひりやう〕をあたへ、且武藝修業のためなれば、稽古所〔けいこば〕をも構へ、宿所をも修〔しつ〕らひ遣すべしと、厳〔おごそか〕にいひつけ玉ひ、當分薪水科〔しんすゐりやう〕として、五百石の年俸〔ねんぼう〕を定められ、あらたに召出され、時服〔じふく〕を賜り、賓客〔きやくぶん〕の斟酌〔あしらひ〕なり。
 これに因て家中の尊敬〔そんけう〕はなハだ厚かりしかば、官大夫憍慢〔たかぶる〕が上に慢心を加へ、弥〔いよ/\〕自己の武藝を鼻にかけて、すべて門人に對しても、至て失礼なる事も多かりき。

(以下つづく)

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 【現代語訳】

   無三四、佐々木官太夫を覗う事

 その昔、(中国の)斉の景公に、三人の豪傑があった。その名を陳開彊、顧冶子、公孫捷という。晏嬰はつねにこの三人の英勇を憎み、殺そうとしたけれども、その機会を得なかったが、にわかに二個の桃で(豪傑)三人を謀殺した[いわゆる二桃三士を殺すの故事。晏子春秋・内篇]。諸葛孔明はこれを嘆じて、梁甫の吟を作り、つねにこれを誦していた[梁甫(梁父)吟:一朝被讒言、二桃殺三士、誰能為此謀、国相斉晏子。むろん諸葛孔明作というのは怪しい]。強くて亡ぼしがたい相手は、智をもってこれを殺す。これは、明らかに害しようとする者は防ぎやすく、隠密に損なおうとする者は防ぐのが難しいということ、なるほどそうである。
 佐々木巌流は、むかし[ルビによる]吉岡太郎右衛門に勝ちをとることができず、逆に諸人の眼前で恥辱を蒙ったことを憤り、播磨の国を去って、(筑前)名島の城外[城下]に徘徊して、吉岡を闇討にして打ち取り、結恨[晴らすと誓った怨恨]は解けたけれど、心の底では気持ちよくはなかったのであろう、やがて額髪を剃おとし[総髪をやめて月代に剃る。額髪はぬかがみとも]、名を佐々木官大夫とあらため、そののち中国[むろん日本の]をへて四国に渡海し、讃州九亀[現・香川県丸亀市]の辺に滞在し、もっぱらその近辺の侠勇豪傑らに剣術を教え導き、自身も日々にその芸[martial arts]を切瑳琢磨し、武術は月々に上達していった。
 しかし、この地も自身の心に叶うものではなかったのか、ふたたび九州に渡り、天正十九年五月、豊前の国小倉の城下に着岸した[船便で到着]
 その頃は、(小倉は)黒田勘解由高政朝臣の領分[ルビによる。この黒田高政なる人物のモデルは黒田長政(一五六八〜一六二三)らしい]、家中の諸士は、大身となく小身となく、ことごとく武芸を学び、高名の武士は星の連なるがごとくであったので、(巌流=官大夫は)そのまま旅館[駅店は漢流]に逗留し、そののち、家中の士に親しみ、武芸の理論[利害得失は道理・理論]を論じたが、もともと彼が自得するところは、常人より優れていたうえ、吉岡に負けた後は、昼も夜もこの道[剣術]の工夫[研究]に怠りなかったので、新たな練磨の功が積もって、むしろ凡夫の類いではなかった。
 それゆえ、(黒田家中の)諸士が追々に(巌流=官大夫の評判を)聞きつたえ、旅宿の門前は市のようで、(諸士が)毎日代るがわるやって来て、武[武芸]を試合うに、はたして奇代の上手[稀に見る達人]だと、諸士の評判は次第に高く、ついに(小倉城主)高政朝臣の耳に達し、ある時城中に召されて、その武技を試みられたが、官大夫の右に出る者はなかった。
 高政朝臣も大いに称賛なさって、その後老臣[家老。必ずしも老人ではない]たちにこの件を評議させ、秩禄を定めて召抱えられることに決し、すぐに人をもって官大夫に(仕官の意志を使者を立てて)尋ねさせられたが、彼は生まれつき気随気儘[ルビによる]のすね者[自由なのが好きな変人]で、自分で自分を偉そうに思い、まったく仕官の意志はなく、すなわち使者に対して述べたのは、「それがしは若年の時から生れつき我儘[ルビによる]で、まったく礼譲[臣礼をとって、へりくだる]の道に疎く、いま四十余歳になるまで仕官をしたことのない身です。今さらに五斗米[薄給の扶持米]のために腰を折るのは本意でありません。奉公の義は御免[ルビによる]していただきたい」と断ったので、高政朝臣もお笑いになり、「まことに今は戦国の風俗であり、一芸一能をよくする者の僻[偏向した性格]である。(中国の)晋の杜預の左僻[左伝癖。晋の武帝の将軍杜預が(馬や金銭ではなく)春秋左氏伝を偏愛したという故事。晋書・杜預伝参照]とは違って、官大夫の僻は蕩僻[自由気儘を好む性質]というものである。しかし、これもまた、憎むべきにあらず。むかし楠正成が泣男[葬儀に代理で泣く役の男。同じく泣女あり]を召抱えたのも、その必要があってのことである。武術は戦国の急務であり、現在では必要の第一である。かの男の我儘[ルビによる。勝手]にまかせ、家中(の諸士)はできるかぎり、彼の熟した道に逆わずに学び取れ。よろしく賄い料[生活費]を与え、さらに、武芸修業のためだから、稽古所も構え、居宅[ここでは宿所は家屋敷のこと]も用意してやりなさい」と、厳命があり、当分の薪水科[日用経費]として、五百石の年俸[これは現代語でも使う]を定められ、(官大夫を)あらためて召出され、時服を賜り[春秋(又は夏冬)の二季に臣下に与える着衣。これを賜ることは家臣同様の扱い]、客分[ルビによる]の待遇である。
 こういうことで、家中(の諸士)の尊敬が非常に厚かったので、官大夫は驕慢の上に慢心を加え、いよいよ自己の武芸を鼻にかけて、すべて門人に対しても、いたって失礼な振舞いも多かった。


巻之九 17/18
18 ・・ 巻之九 ・・ 17

巻之九 18/19 無三四佐々木が家を覗ふ圖
19 ・・ 巻之九 無三四佐々木が家を覗ふ圖 ・・ 18

巻之九 19
   ・・ 巻之九 ・・ 19

 
   6 無三四覗佐々木官太夫事(2)
 【原 文】

   無三四覗佐々木官太夫事 (承前)

 然るに假初〔かりそめ〕の逗留に幾許の月日をかさね、既に三年の春秋を送りける時に、此黎〔ころ〕天下朝鮮の軍役〔ぐんやく〕肇〔はじま〕り、黒田勘解由朝鮮にわたり玉ひ、国城〔くにしろ〕にハ、親父〔しんぷ〕吉高〔よしたか〕朝臣、藩〔しろ〕を護り玉ひ、譜代武功の諸士ハ、彼土〔かのくに〕に渡りけるほどに、官大夫も聊〔いさゝか〕暇も多かりしかば、閑暇の時は、只顧漁釣〔つりすなどり〕を好ミ、門人の輩〔ともがら〕を誘引し、或時ハ海濱に釣し、あるときハ池水〔ちすい〕に釣をたれて、渭濱〔いひん〕の娯〔たのし〕ミを甘〔あまな〕ひける。
 却説〔さて〕宮本無三四ハ、倶に天を戴かざる父の仇〔あだ〕を報ぜんと、十助諸共〔もろとも〕名島を發足し、日を經ずして小倉に來り、まづ城外に旅宿を占〔しめ〕、巌流が蹺蹊〔やうす〕を伺ひ聞くに、人ミな申けるハ、當家にハ諸士はなハだ多く、又二三年このかたにあらたに召抱へられたる人も夥しく候。爰に三ケ年以前に、江州佐々木家の末葉〔ばつえう〕なりと称し、當家の客分の士に佐々木官大夫といふ人あり。此人生得〔しやうとく〕我まゝものにて、劔術ハ勝れたる名人也。平生〔へいぜい〕釣を好ミ、いとまの日ハ門人衆を同往〔どう/\〕して、海川〔うミかハ〕のさかひもなく、魚釣〔つり〕を好む人なりと申ける。
 無三四聞て、九分〔おゝかた〕ハ此人に相違あるまじと心裏〔こゝろ〕に歓び、詳かに其住所を問、猶子細に人物〔じんぶつ〕を見届けんと、毎日十助を召つれ、旅宿を出、官大夫が屋敷の邊〔へん〕を徘徊し、人目にたゝば見とがめられんことをはゞかり、或時は旅人の模様〔もやう〕に身をやつし、笠ふか/\と着〔かづ〕き、銘々すこしの行李〔にもつ〕を負、またある時は他國往來の商人〔あきんど〕の躰に出たち、数日門外を往還して伺がひしが、はたして一日〔あるひ〕官大夫が漁〔すな〕どりにいづる所を見つけ、熟〔つく/\〕と認見〔みとゞむ〕るに、あきらかに最前池糖〔いけ〕の側〔かたハら〕にて見たる大男に相違なかりしかば、無三四天にもあがるこゝちして、大きによろこび、其日は旅宿にかへりける。
 翌日早天に十助をよび、ひそかに耳に口をよせて、はかりごとを示し、朝飯〔あさはん〕つねのごとくに食し、官大夫が方へぞおもむきける。

  繪本二島英勇記 巻九 終

 【現代語訳】

   無三四、佐々木官太夫を覗う事 (承前)

 しかるに、(佐々木官大夫は)一時的な逗留(のつもりだったが)幾多の月日をかさね、(天正十九年小倉へ来て以来)すでに三年の春秋を送ったのだが、このころ天下は朝鮮の軍役がはじまり、黒田勘解由(高政)は朝鮮にお渡りになり[モデルの黒田長政も参戦している]、国の城には、親父・吉高朝臣[モデルは黒田官兵衛孝高(一五四六〜一六〇四)。実際には官兵衛も参謀で参戦](が居られて)、城をお護りになり[ルビによる。藩は城]、譜代武功の諸士は、かの土[朝鮮]に渡ったので、官大夫はいささか暇も多かったので、閑暇の時は、ひたすら釣りを好み、門人連中を誘っては、あるときは海浜に、またあるときは池に釣糸をたれて、渭浜の娯しみ[渭浜は中国の渭水の河岸。周の太公望が隠遁して釣りをした故事から転じて、渭浜の娯しみは魚釣をいう]をして満足していた。
 さて、宮本無三四は、不倶戴天の父の仇を報じようと、十助とともに名島を出発し、日を経ずして小倉に来て、まずは城外[城下]に旅宿を定め、巌流の様子を探り聞くに、人がみな言うのは、「当家[黒田家]には家臣が非常に多く、また二、三年このかた新たに召抱えられた人も数多くあります。それで、三年前に、江州[近江国]佐々木家の末葉だと称し、当家の客分になった侍に、佐々木官大夫という人があります。この人は生れつき我儘者ですが、剣術はすぐれた名人です。平生、釣を好み、休日は、門人衆を同道[ルビによる]して、海でも川でも、釣りを好む人です」と言った。
 無三四は聞いて、たぶん(敵は)この人に相違あるまい、と心の内で歓び、詳しくその住所を問い、さらに仔細に人物を見届けようと、毎日十助を連れて旅宿を出て、官大夫の屋敷のあたりを徘徊し、人目に立てば見とがめられるのを用心して、ある時は旅人の姿に身をやつし、笠を深々とかぶり、それぞれ少しの行李を負い、またある時は、他国往来の商人の体で出かけ、何日も(佐々木の)門外を往きつ戻りつして窺っていたが、はたして、ある日、官大夫が釣りに出かけるところを見つけ、じっくり見留める[ルビによる。認見は高踏表現]るに、あきらかに以前池の側で見た大男に相違なかったので、無三四は天にもあがる心地して、大いによろこび、その日は旅宿に帰った。
 翌日、早朝に十助を呼び、ひそかに耳に口を寄せて、計画を示し、朝飯をいつものように食べ、官大夫の家へと向かったのである。

  絵本二島英勇記 巻九 終




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