宮本武蔵 資料篇
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[資料] 繪本二島英勇記 巻之八  Back    Next 

 時はすでに文禄二年になった。本巻冒頭に太閤秀吉の朝鮮侵略への言及がある。そんな大名総動員の最中、肥後の清正家中の宮本の、しかも武勇で知られた嫡男が、いまどき国内でうろついているとは思えないが、それはともあれ、天正十八年五月、無三四が故郷・肥後熊木を出てから、すでに足かけ四年である。無三四は故郷へ帰ろうと、播磨国の室泊から船便を得て、九州へ戻る。
 上陸したのは豊前小倉の湊、無三四はまず筑前名島に立寄って、それから肥後へ帰るつもりである。そのとき、船中に乗合わせた年齢五十余りの農民、七助夫婦が名島近在の者というので、道連れになることにし、季節は七月の暑中、小倉近くの溜池のほとりの大樹の蔭で休憩することにしたが、ここで魚釣に来ていた小倉の若侍たちと、思わぬトラブルに巻き込まれる。
 原因は、若侍の弁当箱を七助が潰したことにあるが、彼をかばった無三四に侍たちの矛先が転じて、いまにも斬り合いになりそうなところへ、中年の大男の侍が喧嘩の仲裁に入り、うまく事を納めてくれる。
 事なきを得たので、無三四と七助夫婦は旅を進め、名島近くまで来たとき、七助は、小倉での恩を感じ、無三四に我が家まで来て逗留してほしいと、切に頼むので、無三四は名島城下に入る前に七助の家へ寄ることにした。
 すると七助の娘婿が村はずれまで出迎えに来ていた。が、この婿十助が何と、無三四の知合いという奇遇。二人は再会を歓ぶが、要するに十助は、かつては宮本家の若党で、名を日下幸助といい、剣術修行も熱心で、友次郎(無三四)の稽古相手であったという関係である。
 ところが、七助の娘・巻(まき)も、同じ頃たまたま宮本家に奉公していた。日下幸助が、巻に恋慕し、二人はデキてしまって、妊娠した巻の腹も目立つようになっては、このままにはしておけないと、友次郎(無三四)の母が、二人に言い含めて、筑前の巻の親元へ立退かせたのである。幸助は七助の家に婿入りし、十助と名を改めて、今は農夫である。
 ――というところまでが、本巻の話だが、ここで名島の農民・七助を登場させたことで、この物語の長い伏線がいよいよ露頭するのである。九州へ帰る無三四は播磨からの船中で七助と知り合ったのだが、実はこれは、無三四が熊木の宮本家の若党だった日下幸助(七助の娘婿・十助)と再会する奇遇よりも、はるかに大きな偶然の賜物なのである。
 さらに、さりげなく小倉の一件のエピソードに織り込まれた、七助の気絶という場面も、伏線の路頭の一端である。小倉の若侍らとの喧嘩の仲裁に入ってくれた大男の侍が、七助に、「最前より、さぞ畏しく思っただろう」と優しく声をかけると、それまで喧嘩の恐ろしさに震えていただけの七助が、男の顔を見て失神してしまうのである。とすれば、この中年の大男は何者か、ということになろうが、それは次巻以降のお楽しみである。
 なお、本巻の後半、農夫七助一家の家庭の事情や、日下幸助(十助)と七助の娘・巻の是非なき関係など、この武勇物語では珍しく、いわば世話物の世界であるが、これも作者はユーモアを交えて、さらりとスマートに語り通す。そのストーリーテリングの手際は十分楽しめるであろう。

 
   卷之八 目録
 【原 文】

繪本二島英勇記 巻之八
    目 録

  無三四八人の壮士と爭競を起す事
    無三四九рノ着岸の圖
    七助過て壮士之飯筒を破るの圖
    投釣〔つりする〕壮士怒て七助を嘖む
       并無三四衆〔おほぜい〕と闘ふの圖
    七助一個大漢に遇て絶意の圖
  七助名島に還る事
    七助無三四を誘て古里に帰るの圖
    日下幸助巻女と奇縁を結ぶの圖

 【現代語訳】

絵本二島英勇記 巻之八
    目 録

  無三四、八人の壮士と爭いを起す事
    [絵]無三四、九州に着岸の図
    [絵]七助、過って、壮士の飯筒を壊すの図
    [絵]釣する壮士、怒って七助を責める
         ならびに無三四、大勢と闘うの図
    [絵]七助、一人の大男に遇って、気を失うの図
  七助、名島に還る事
    [絵]七助、無三四を誘って故郷へ帰るの図
    [絵]日下幸助、巻女と奇縁を結ぶの図


巻之八 1
1 ・・ 巻之八 ・・  

巻之八 1/1
1 ・・ 巻之八 ・・ 1

巻之八 1/2
2 ・・ 巻之八 ・・ 1

巻之八 2/3 無三四着岸于九州圖
3 ・・ 巻之八 無三四着岸于九州圖 ・・ 2

巻之八 3/4
4 ・・ 巻之八 ・・ 3

 
   1 無三四八人の壮士と爭競を起す事(1)
 【原 文】

   無三四八人の壮士と爭競を起す事

 本邦の兵革〔へいかく〕すでに治まり、漸〔やうやく〕太平に帰し、天正二十年元〔げん〕を建られ、文禄元年と改りぬ。
 然るに豊臣の太閤、朝鮮を征伐し給ひ、干戈ふたゝび起りて、黍庶〔たみ〕安き事を得ず。萱莢荏苒〔つきひおのづから〕たちゆきて、文禄二年と成ぬ。然れ共朝鮮の役、ますます盛んにして、甲兵〔かうへい〕東西に奔走し、大八洲〔おほやしま〕の外に、粮を運送し、何時はつべき軍〔いくさ〕とも知れず。豪傑英勇塞外に苦しむ秋〔とき〕とハなりにける。
 爰に宮本無三四は、天正十八年五月よりこのかた、本國を出、おもては武術修行に言詫〔ことよせ〕、たしかにそれとハ知らねども、佐々木巌流を大かたの心充〔こゝろあて〕とし、彼方這方〔こなた〕と徘徊に、数多〔あまた〕の年月を過し、一まづ旧里〔きうり〕に立帰り、養父が安否をも訪〔と〕ひ、再び九州四國の諸藩鎭〔くに/\〕を捜し試みんと、同年六月下旬の頃、九州さして下りける。
 播磨國室〔むろ〕の泊より、豊前國小倉に帰る舩に便りを覓〔もと〕め、やがて追風〔おひて〕の順風おだやかにして、七月廿日小倉の邊〔ほと〕りに着岸し、乗合たる旅人〔りよじん〕ことごとく舩より上り、何れも海路の障〔つゝが〕なきを歓び、まづ無三四も小倉の城下に入、同舩〔どうせん〕の乗合十五六人、共に酒屋の内にいたり、盃をとばして酒をくミ、其後思ひ思ひに放装〔たびよそほひ〕し、面々少し宛の行李〔てまハり〕の包袱〔ふろしきづゝミ〕を脊負、互ひに暇ごひし、懇に離別を告、御縁も有ばかさねてと、或は三人あるひは五人、一群〔ひとむれ〕々々打連〔うちつれ〕て、おもひおもひに別れ行。無三四は唯一人衣類の包袱を肩にうちかけ、酒屋の内を立出る。
 時に乗合の中に年齢〔としごろ〕五十有餘〔ゆうよ〕の農民と覚しき男、四十餘りの女を誘〔いざな〕ひ、無三四が後より來り、扨々墓〔はか〕なきものハ舩の乗合、昨日まで互ひに脚を交へ、憂〔うき〕つらさを慰さめ合、今日は舩より上るとそのまゝ、早〔はや〕おもひ/\に別れ行。一樹の陰に宿り、一河の流れを汲むも、他生〔たしやう〕の縁とこそ、説法にも聞つれ。御侍さまハ、何〔いづ〕かたへ赴き玉ふぞ。
 無三四答て、某舩中にても申ごとく、肥後國熊木〔くまげ〕に両親あり。父母の安否を訪〔とハ〕んため立帰る也。おの/\は何〔いづ〕れへ帰玉ふぞ。
 夫婦の者こたへて、我等ハ筑前國名島の城下ちかき在中〔ざいちう〕の農民、このたび大願のむねありて、讃岐國金毘羅〔こんぴら〕へ参詣いたし、その叙〔ついで〕なれバ都へ上り、神社佛閣を拝ミ廻〔めぐ〕り候。
 無三四聞て、然らば宜しき同伴〔ミちづれ〕にてこそ侍れ。それがしも名島の城下へ立越〔たちこへ〕、夫より肥後へハ帰るなりと、三人一同に打連〔うちつれ〕、たがひに四方山の物がたりをはじめ、ひたすら道を急ぎしが、頃しも七月の天氣、白日〔はくじつ〕中天〔ちうてん〕に照し、白雲四方にをさまり、虚空一むらの雲もなく、炎天焦〔こがる〕がごとく熱〔あつか〕りしかバ、三人面〔おもて〕に汗をながし、天晴〔あつハれ〕よき樹陰もあらバ、立寄〔たちより〕休息すべしと、眺望〔ながむ〕れバ、還道〔だいだう〕の右手〔めて〕のかたに、蒼々たる大池あり。
 池頭〔いけのほとり〕にハ、松榎の大樹、枝葉大きに繁茂〔しげり〕、日陰数多〔あまた〕ありて、いと涼しげに見へしかハ、無三四悦び、あれ見玉へ。幸ひの水邊〔すいへん〕かな。かしこに至りて休息せん。
 農家夫婦も力を得、疾〔はや〕暑さをもうち忘れ、たゞちに池の方にかけ付、子細に此ほとりを見るに、池塘〔つゝミ〕高く築〔つき〕めぐらし、塘〔つゝミ〕のうへの樹木、何れも五六圍〔ゐ〕計〔ばかり〕、中にも老樹の大榎十圍〔とかゝへ〕あまりも有つべし、枝葉ことに周密〔こより〕、日の光を遮り覆ひけれバ、農夫一番に此木陰に立憩〔たちやすら〕ひ、包袱をも下さず、根笹をおしふせて、尻居〔しりゐ〕にどつかと坐する所に、忽ち滅唎々々〔めり/\〕と物の碎〔くだく〕る音、尻の下に響〔ひゞき〕たり。
 農夫大きに周章〔あハて〕、飛退て、押伏たる根笹を掻分〔かきわけ〕、さがし見れバ、一ツの食簟〔べんたう〕を網嚢〔あミぶくろ〕に入たるまゝに押つぶせり。こハいかに、といふ間もなく、正〔ちやう〕ど大樹の後のかたに人ありて、大音を上〔あげ〕詈り、何者なれバ我食簟を踏碎〔ふミくだ〕ぞ。一寸も身を動揺〔うごか〕さバ一打〔ひとうち〕にすべし。迯〔にぐ〕る事なかれと呼ハりける。
 農夫再び忙〔あハて〕驚き、大樹の後の邊〔あたり〕を顧るに人影もなし。あやしやと塘の下を覗〔ミや〕れハ、池の水際より一人の士〔さむらひ〕、片手に釣竿を携へ、池塘の上に跳〔おどり〕あがる。
 其時七八人の聲として、這奴〔きやつ〕捕候へ。我等もそれへ参りて、一慰〔ひとなぐさ〕ミなぐさむべしと、一同に譍〔のゝしる〕にぞ、農夫いよいよ愕〔おどろ〕き、眼をとゞめて吃〔きつ〕と見れバ、塘の下にすべて七八箇所の木陰あり、その邊〔ほとり〕の涼しき所に、小さき床几を置、おのおの其上に臀〔しり〕うちかけ、魚をつりて並び居る。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

  無三四、八人の壮士と諍いを起す事

 本邦の兵革[兵は武器、革は甲冑武具。転じて戦争の隠喩]はすでに収まり、ようやく太平に帰し、天正二十年、元号を立てられ、文禄元年と改まった。
 しかるに豊臣の太閤[秀吉]は、朝鮮を征伐なさって、戦争がふたたび起り、人民は安心(して暮らすこと)はできなかった。月日おのづから[原文ルビによる。懐風藻に日月荏苒去とあり。荏苒(じんぜん)は経過すること]経過して、文禄二年となった。けれども朝鮮の役は、ますます盛んで、武装兵は(半島の)東西に奔走し、大八洲[国学的古語。日本列島のこと]の外に兵粮を運送し、いつ終る戦さとも知れず、豪傑英勇たちが塞外[中国で万里の長城の外をいう。ここでは異民族の地の意]に苦しむ状況となっていた。
 ここに宮本無三四は、天正十八年五月よりこのかた、本国[肥後]を出て、表向きは武術修行にことよせ、たしかにそれとは知らないが[顔も知らないまま]、佐々木巌流を大よその目当てとし、彼方こなた徘徊するのに多くの時間を費やしたので、ひとまず故郷へ戻り、養父[宮本武右衛門]の安否もたずね、再び九州や四国の国々を捜してみようと、同年[文禄二年]六月下旬の頃、九州を目指して下向した。
 播磨国室の泊[瀬戸内の有名な湊。現・兵庫県たつの市]より、豊前国小倉[現・北九州市]に帰る船便を求め、追風の順風おだやかにして、やがて七月二十日、小倉の辺りに着岸し、乗合った旅人はみな船からあがり、誰も彼も海路の無事を歓び、まず無三四も小倉の城下に入り、同じ船に乗合せた十五、六人が、ともに酒屋へ行き、盃を交わして酒を汲み、そののち思い思いに放の装いをして、それぞれ少しずつのの手回りの風呂敷包みを背負い、互いに別れの挨拶をして、懇ろに別れを告げ、「ご縁があれば、またいずれ」と、三人あるいは五人と、一群ずつ連れ立って、思い思いに別れ行く。無三四は唯一人、衣類の風呂敷をを肩にうちかけ、酒屋の内を出る。
 ときに、乗合い[乗客]の中に、年の頃五十歳あまりの農民と覚しき男が、四十歳あまりの女を連れて、無三四の後から来て、「さてさて、はかないもの[墓なきは宛字]は船の乗合いですな。昨日まで(窮屈な船室で)お互いに脚を交え、物憂きつらさを慰め合っていたのに、今日は船から上るとそのまま、はや思い思いに別れ行く。同じ樹の陰に宿り、同じ河の流れを汲むのも、他生の縁[前世の因縁]と、(仏僧の)説法にも聞きました。お侍様は、どちらへ行かれるのですか」。
 無三四は答えて、「それがしは、船中でも言いましたように、肥後の国熊木〔くまげ〕に両親があり、父母の安否をたずねるために帰ります。そなたたちはどこへお帰りか」。
 夫婦の者が答えて、「私どもは、筑前の国名島の城下に近い在中の農民です。このたび、大願の旨があって、讃岐の国の金毘羅[金毘羅宮。現・香川県仲多度郡琴平町]へ参詣いたし、そのついでなので、都へ上り、神社仏閣を拝み回りました」。
 無三四は(これを)聞いて、「それなら、よい道連れですね。それがしも名島の城下へ行って、それから肥後へ帰るのです」と、三人一緒に連れだち、互いに四方山話をはじめ、ひたすら道を急いでいたが、ころはちょうど、七月の天気、白日[太陽]は中天に照らし、白雲は(空の)四方へ引いて、虚空にはひと群れの雲もなく、炎天は焦がれるように熱かったので、三人は顔に汗をながし、「ああ、よい樹陰でもあれば、立ち寄って休息しよう」と、(道の先を)眺めると、街道の右手の方に、蒼々とした大池があった。
 池のほとりには、松や榎の大樹(があり)枝葉は大いに繁茂し、日陰がたくさんあって、とても涼しげに見えたので、無三四は悦び、「あれを見たまえ。幸いにも水辺がある。あそこへ行って休息しよう」。
 農家夫婦も元気が出て、はや暑さも忘れ、ただちに池の方へ走って行き、よくよくこの(池の)ほとりを見ると、池の(周囲に)堤を高く築きめぐらし、堤の上の樹木は、どれも五、六かかえ[幹周約八m]ほどあり、中でも老樹の大榎は十かかえ[幹周約十五m]あまりもあるようで、枝葉がとくに密生して[こよりは蚕寄。蚕の密集をいう]、日の光を遮って覆っている。農夫は真っ先にこの木陰に憩い、風呂敷包みもおろさず、根笹を押し伏せて、尻居にどっかと坐った。すると、たちまちメリメリと物の砕ける音が、尻の下に響いた。
 農夫は大いに慌て、飛び退いて、押し伏せた根笹をかき分け、さがして見ると、一つの弁当箱[食簟は高踏表現]を、網袋に入れたままで、押しつぶしたのであった。「これはしまった」、という間もなく、ちょうど大樹の後の方に人がいて、大声をあげて怒鳴り、「どいつが、おれの弁当箱を踏み碎いたのだ。少しでも体を動すと、一打ちにするぞ。逃げるでないぞ」とわめいた。
 農夫は再び慌て驚き、大樹の後のあたりを見ると、人影もない。おかしいなと(思って)堤の下を覗くと、池の水辺から一人の侍が、片手に釣竿を持って、池の堤の上に跳りあがった。
 そのとき、七、八人の声がして、「そいつを捕えたまえ。我々もそこへ行って、ちょっと弄りものにしてやろう」と、いっせいに怒鳴るので、農夫はいよいよ驚き、眼をとめてじっと見ると、堤の下に全部で七、八ヶ所の木陰があり、そのあたりの涼しい所に、小さな床几[腰掛台]を置き、それぞれその上に尻をかけ、魚釣りして並んでいる。


巻之八 4/5
5 ・・ 巻之八 ・・ 4

巻之八 5/6 七助過破荘士之飯筒圖
6 ・・ 巻之八 七助過破荘士之飯筒圖 ・・ 5

巻之八 6/7
7 ・・ 巻之八 ・・ 6

巻之八 7/8
8 ・・ 巻之八 ・・ 7

 
   2 無三四八人の壮士と爭競を起す事(2)
 【原 文】

   無三四八人の壮士と爭競を起す事(承前)

 元來〔もとより〕周圍〔めぐり〕十町あまりの大池〔ためいけ〕、むかしより何〔いか〕なる大旱〔おほひでり〕にも水渇する事なく、底深ふして藍を流したるが如く、大小の鯉鮒其外の小魚夥しく聚り居るといへども、人さらに釣するものなし。
 其所以〔ゆへ〕は、深淵のうちに水魔〔ばけもの〕あつて、たまたま釣するもの有る時は、人を劫〔おびやか〕して水中に引入、その腸〔はらわた〕を探り食ふが故に、敢て魚をとるものなし。
 たまたま大膽の者ありて、或は五人或は七人、同伴〔つれ〕を催し來て釣する時は、人氣〔じんき〕に恐れて害をなさず。これによつて、侠勇〔けうゆう〕を好む武士等〔ぶしども〕、もとめて來り、釣するも多かりける。
 然るに今日、小倉城中の士〔し〕八人、おのおの早天〔さうてん〕より來り、面々携たる食簟〔べんたう〕を、木の枝又は草の茂ミなど、日の照ざる地〔ところ〕に隠し置、百念〔ひやくねん〕を忘れ釣する所に、すでに農夫がために食簟を損〔そこなハ〕れ、人の足音に一驚〔おどろき〕を喫ひ、聚りたる小魚四方へ溌〔ぱつ〕と離散しけるを見て、忽ち怒り心頭より發〔おこ〕り、如此〔かく〕喧しく叫びたり。
 此時農夫は、地に匍匐〔はらばひ〕し、戦々〔わな/\〕と兢〔ふる〕ひ出し、私は當地不案内〕の旅人〔りよじん〕、ひとへに暑氣の苦しさに前後をうち忘れ、此地の木陰を見つけ、疾〔はや〕く休息仕らんと存じ、興〔きよう〕を妨げ申のミならず、尊簟〔をべんたう〕を損ひ申せし事、幾重にも寛宥〔おゆるし〕下されなバ、廣大の御慈悲ならんと、両手を合せて詫けれども、彼士〔かのし〕少しも聴納〔きゝいれ〕ず、たちまち携〔もつた〕る釣竿にて、農夫が頭面〔づめん〕を續うちに撃居〔うちすへ〕たり。
 農夫が妻此躰を見て、彼士〔かのさむらひ〕の袂にとりすがり、誠に御憤り御道理千万、ひとへにわが夫の麁忽〔そこつ〕。則ち我々どもハ、筑前名島の土民〔どミん〕、夫が名は七助と申て、生れのまゝ乃農民〔のうミん〕ゆへ、すこしも世間を見ざる山猿、御詫の申やうをも存ぜず。御憤のうへに御怒りを加〔そへ〕る事あるべし。此度宿願の事ありて、讃州金毘羅へ参詣仕り、その序〔ついで〕に京都へ上り、帰りに男山八幡宮へも参詣仕るもの也。弓矢神〔ゆミやがミ〕さまへ参詣の者と憐ミ玉ひ、八幡宮に免じて寛免〔おゆるし〕あらバ、生々世々の御厚恩と、涙を流して申すにぞ、彼士〔かのし〕は女が一言に八幡宮へ参籠といふに、すこし思慮やありけん、猶豫して見えたる處に、
 池の渚〔ミぎハ〕より一人の同僚一跳〔ひとおど〕りに馳來り、手ぬるき仕方かな。渠が輩〔ともがら〕にハ是を喫すべしと、尻敷〔しりしき〕の小床几を携へ來り、七助が額を照〔てら〕して撃んとするを、無三四最前より側〔かたハら〕にあつて、此競〔あらそ〕ひを見たりしかども、敢て手を動さず居たりしが、既に同僚の壮士〔さうし〕が手を下さんとするを見るに忍びず、直に中間〔なか〕に押隔〔おしへたゞ〕り、七助を助け、壮士が手を徐〔しづ〕かに捕停〔とりとゞ〕めて申けるハ、まづ暫く待玉へ、説話あり。
 渠も無三四が人物〔じんぶつ〕よのつねならざるを見て、敢て手を下さずといへども、大きに怒り、我ともがら此旅人が狼藉を働く故、撃んとするに、何人〔なにびと〕なれバ此中間〔なか〕に遮り來りて、我々を戯弄〔なぶりもの〕にするや。
 無三四、否〔いや〕おの/\を戯弄にするにあらず。此もの夫婦は、某が同伴〔ミちづれ〕の人なり。我全く渠が輩〔ともがら〕と同郷の人にもあらず。計らず播州の海邊〔かいへん〕より同舩に乗合、舩中において渠夫婦の輩、はなハだ心を用ひ、朝暮〔てうぼ〕某を憐ミ、羈旅〔たび〕の寂寞〔ものうき〕を慰め、猶〔なを〕名島辺〔へん〕まで導きくれんと云。其芳志〔はうし〕にひかれて、今日〔こんにち〕この所まで同往〔どうわう〕仕り、はからず這様〔かやう〕の爭ひを引出すといへども、原來〔ぐわんらい〕求めたる罪にあらず。畢竟〔ひつきやう〕農民の質朴、ひたすら前後を伺ひ見る事なく、尊器〔そんき〕を損じ、又釣魚〔てうぎよ〕の尊遊〔おなぐさミ〕を驚し奉ること、全く不案内の科〔とが〕なり。何事も田夫野人〔でんぶやじん〕の失礼、愚直の妻が詫言に免ぜられ、御了簡に預りたしと、腰を折て申候處へ、同僚こと/\く塘の上に聚まり、無三四が前後をとり圍む。
 中にも無三四に手を捕停〔とりとゞめ〕られたる男、眼〔まなこ〕に角〔かど〕をたて、足下〔そつか〕、田夫野人は失礼をいたしても、苦しからぬと思ひ玉ふか。
 無三四答へて、全く然様〔さやう〕にハ存ぜず。たゞ田夫野人をとらへて、對手〔あひて〕とし玉ふとも、取〔とる〕に足らざる者にて、杖をもつて打給へバ杖を蒙り、棒をもつて打給へハ棒を蒙り、ひたわびに身を匍匐〔ほふく〕して撃〔うた〕るゝのみ。然らバ犬鶏を撃るゝに等しく、譬ハゞ、手を下〔くだ〕し給ふとも、何某〔なにがし〕は豪傑英勇を打とりしなどゝ云〔いハ〕るゝ時は、子孫に傳へても其名芳〔かうば〕しく、土民〔どミん〕を打殺したりなどゝ申時は、不仁〔ふじん〕の悪名を蒙るのミ歟、子孫に至るまで、臭〔なまぐさ〕きを傳ふるといふものなり。
 この時彼士〔かのさむらひ〕いよ/\怒り、床几を放下〔ほか〕し、無三四が前に詰寄、今足下の一言は、事を招るゝに近し。田夫野人は畢竟犬鶏同然にして、對手〔あひて〕とならざる者を對手とせんより、己〔おのれ〕が如き武士を對手にせよと、我輩〔わがともがら〕を辱めらるゝといふもの也。若〔もし〕足下野人に代て對手と成り玉ハゞ、速に勝負を遂〔とげ〕んと云けれバ、
 無三四答て、こは思ひ寄ざる憤りに預るものかな。われひとへに言語不辨〔くちぶてうはふ〕にして、人々の厳威〔おぼしめし〕を犯せり。申所〔ところ〕さらに各〔おの/\〕を輕んずるにあらず。農夫が身にかハり、膝を屈し腰を折て、實情〔じつじやう〕を以て罪を謝するといへども、假初〔かりそめ〕の失言〔いひぞこなひ〕を質〔しち〕とし、土民に更〔かへ〕て某を弄〔もてあそば〕んとぞならバ、千万言語〔げんぎよ〕を尽くして罪を謝するも、畢竟言〔ことば〕を弊〔ついや〕すに似たり。此上ハ一言雙辞〔いちげんさうじ〕さらにわびことハ申まじ。渠等もと土民といへ共、同伴〔どうはん〕の人、我双眼あきらかなる間〔うち〕にハ、唯すこしの皮をも傷〔やぶ〕らすべからず。いざ豪傑たち、一同にかゝりて勝負を一挙にする歟、又は一人宛〔づゝ〕尋常〔じんじやう〕の化粧〔けしやう〕勝負に果し合ふ歟。余〔われ〕に於てハ天命にまかすなりと、少しも驚く氣色なく、七助夫婦を大樹の後に押遣〔おしやり〕、その身は大樹を小楯〔こだて〕とし、眼〔まなこ〕を配りて立たる形状〔ありさま〕、威風凛々としてあたりを拂ひ、なか/\手強く見〔ミへ〕にける。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

   無三四、八人の壮士と諍いを起す事(承前)

 (この池は)もともと周囲十町[約千m]あまりの溜池で、むかしからどんな大旱魃にも渇水することがなく、底は深く(池水は)藍を流したように青く、大小の鯉や鮒その他の小魚が夥しく集まっているのだが、決して釣をする者はない。
 そのわけは、(この池の)深淵に怪物(水魔)がいて、たまたま釣する者があると、人を攫って水中に引きずり込み、その内臓を探って食うので、あえて魚をとる者がいないのである。
 (しかし)たまたま大胆な者がいて、五人あるいは七人と連れを集めて、やって来て釣する場合は、人の気に恐れて害をなさない。このため、侠勇を好む[勇ましいところを誇示したがる]武士どもが、わざわざやって来て釣することも多かった。
 それで、今日は、小倉城中の侍八人が、おのおの早朝から来て、各人携帯した弁当箱を、木の枝や草の茂みなど、日の当たらないところに隠し置いて、何も忘れて(夢中で)釣をしていると、さきほど農夫に弁当箱を壊され、集まっていた小魚も、人の足音にびっくりして、四方へパッと離散したの見て、たちまち怒り心頭より発し、このように喧ましく怒鳴っているのであった。
 このとき農夫は、地に腹ばい、わなわなと震え出し、「私は当地不案内の旅の者です。暑気の苦しさにまったく前後を忘れ、このところの木陰を見つけ、はやく休息しようと思って、(釣りの)興を妨げましたのみならず、お弁当を壊しましたことは、幾重にも(お詫び申し上げます。もし)おゆるし下されば、広大な御慈悲と存じます」と、両手を合せて詫びたけれども、かの侍は少しも聴き入れず、たちまち、持った釣竿で農夫の頭や顔を続けさまに打ちすえた。
 農夫の妻は、このありさまを見て、かの侍の袂にとりすがり、「まことにお憤りは当然でございます。ひとえにわが夫の麁忽。と申しますのも、わたくしどもは、筑前名島の土民[農民卑称というより土着の民]で、夫の名は七助と申して、生れのままの農民、すこしも世間を知らない山猿で、御詫びの申しようも存じません。お憤りのうえにお怒りを重ねることもございましょう。このたびは宿願のことがあって、讃州の金毘羅宮へ参詣し、そのついでに京都へ上り、帰りに男山八幡宮[石清水八幡宮。とくに弓矢の神として武家が信仰。現・京都府八幡市]へも参詣いたしました。弓矢神さまへ参詣した者と憐れみ下さり、八幡宮に免じておゆるしあらば、永遠に御厚恩(を忘れません)」と、涙を流して申したので、かの侍は、女の一言に八幡宮へ参籠というのに、すこし思うところがあったのか、ためらいが見えたところに、
 池の水際から一人の同僚が、一跳りに馳せ来たり、「手ぬるい仕方だな。そいつの連れには、これをくらわしてやる」と、尻に敷く小床几を持って来て、七助[かの農夫]の額をめがけて撲ろうとするのを、無三四は、先ほどから側にいて、この争いを見ていたけれど、あえて手を出さずにいたのだが、いまや同僚の壮士が(七助に)手を下そうとするのを見るに忍びず、ただちに間に(入って)押し隔て、七助を助け、壮士の手をしずかにとり押えて、言った。「まず、しばらくお待ち下さい。話があります」。
 彼[七助を撲ろうとした同僚の壮士]も、無三四の人物[人品骨柄、外見]が尋常でないのを見て、(七助に)あえて手を下さなかったけれども、大いに腹を立て、「我々は、この旅の者が狼藉を働いたので撲ろうとするのに、おまえは何様のつもりなのだ、この間に入って来て邪魔をして、我々を弄りものにする[愚弄する]のか」。
 無三四、「いや。おのおの方を愚弄するのではない。この者夫婦は、それがしの(旅の)道連れです。私は全く彼らと同郷の者でもない。偶然、播州の海辺[前出、室の泊]から同じ船に乗合わせ(ただけだが)、船中で彼ら夫婦は(私に)大変親切にしてくれ、朝に夕にそれがしを気づかい、旅の寂寞を慰め、さらには、名島あたりまで道案内をしてくれるという。その好意にひかれて、今日ここまで同道したところ、はからずも(農夫が)こんな争いを引起しましたが、もともと意図してなした罪ではない。畢竟は農民の質朴、よくよく前後を注意して見ることなく、ご器具を壊し、また魚釣りのお楽しみを妨げましたことは、全く不案内[無知]の科(咎)です。何ごとも田夫野人[田舎者]の失礼(のことゆえ)、愚直な妻の詫言に免じて、おゆるし願いたい」と、腰を折って詫びているところへ、同僚たちがことごとく堤の上に集まり、無三四の前後を取り囲む。
 なかでも、無三四に手をとり押えられた男は、眼に角を立て、「貴殿は、田夫野人は失礼をいたしても、かまわないと、お思いか」。
 無三四は答えて、「全くそうは思いません。ただ、田夫野人をつかまえて相手になさっても、取るに足らぬ者ですから、杖でお打ちになればその杖に打たれ、棒でお打ちになればその棒に打たれ、ひたすら詫びて、身を腹ばいにして打たれるのみ。であれば、犬や鶏を打たれるに等しく、たとえば、手をお下しになっても、何某は豪傑英勇を打ち取ったなどと云われる場合は、子孫に伝わっても、その名は芳しく、(逆に)土民を打殺したなどという場合は、不仁[仁という徳のないこと]の悪名を蒙るのみか、子孫に至るまで、生臭い[芳名の反対物](名を)を伝えるというものです」。
 このとき、かの侍はいよいよ怒り、床几を放り投げ[ホカすは関西方言等に現存]、無三四の前に詰め寄り、「今の貴殿の一言は、事を招くに近い[喧嘩を売るに等しい]。田夫野人は、畢竟、犬や鶏と同然だから、そんな相手にならない者を相手とするよりも、自分のような武士を相手にせよと、(貴殿が)我々を辱しめられた、ということだ。もし貴殿が、この田舎者に代って相手となられるのなら、速やかに勝負をしよう」と云ったので、
 無三四は答えて、「これは、案外なお憤りをいただいたなあ。私は、まったく、口が不調法[口下手。言語不辨は高踏表現]で、皆さんの誇りを傷つけた(ようです)。私が言うところは、決して皆さんを軽んじるのではありません。(私が)農夫の身代りになって、膝を屈し腰を折って、誠実の心情を以って謝罪したのに、一時的な失言を質にとって、土民の替わりにそれがしを弄ぶおつもりならば、どれほど言語を尽くして謝罪しても、畢竟、言葉を無駄にするも同じ。この上は、もう一言も詫言は申すまい。もとより彼ら(夫婦)は土民とはいえ、(私の旅の)道連れの者、私の両眼が明らかなうちは、ほんの少しでも(七助の)皮膚を傷つけさせない。いざ、豪傑たち、いっせいにかかって来て勝負を一挙にするか、それとも、一人ずつ尋常の化粧勝負[殺し合いではない、見せかけだけの戦闘。形式的な試合。むろんこれは恫喝]で果し合うか。おれは天命にまかせるぞ[どっちでも構わないよ]」と、少しも驚く気色なく、七助夫婦を大樹の後に押しやり、自身はその大樹を小楯[盾の代り]とし、眼を(周囲に)配って立った姿は、威風凛々として、あたりを威圧し、なかなか[荘士らの予想に反して]手ごわく見えたのであった。


巻之八 8/9
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巻之八 9/10
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巻之八 10/11
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巻之八 11/12 七助遇一個大漢子絶意圖
12 ・・ 巻之八 七助遇一個大漢子絶意圖 ・・ 11

 
   3 無三四八人の壮士と爭競を起す事(3)
 【原 文】

   無三四八人の壮士と爭競を起す事(承前)

 八人の若者共、初より無三四が壹人なるを見て、一慰〔ひとなぐさミ〕なぐさまんとおもひ、却て其勢をとりひしがれ、八人互ひに目と目を見合せ、溜息繼〔つい〕て立たる所に、池の彼方〔あなた〕の木陰より、菅笠を頂きたる一人の大男、大音声を上て、双方少しも手を動かす事なかれと、呼〔よば〕ハり/\、息をはかりに駈來り、若者を叱り退〔の〕け、速に笠をとり、無三四に對〔むか〕ひ、旅行の豪傑、それがし申事あり。まづ憤りを止〔やめ〕玉へと申にぞ、無三四も晴〔め〕を定てかの人を見るに、年齢〔としごろ〕四十有餘〔ゆうよ〕と見へ、眼〔まなこ〕ざし尋常〔よのつね〕に勝れ進疾〔するどく〕、人物〔ひとがら〕賤しからず、慇懃に告て曰、某事の起りハ知らずといへども、池の彼方〔あなた〕より人々の喧嘩[借字・口+花]〔けんくわ〕の模様を見付て駈來れり。某双方の旨趣〔ししゆ〕を承りて後、よろ敷無事を計〔はかり〕申さん。
 無三四面〔おもて〕を和らげ、答へけるハ、事の起と申ハ、某が同伴仕る処の農家〔ひやくしやう〕七助と申もの、尓々〔しか/\〕の事にて、過〔あやまつ〕て豪傑の飯器〔べんたう〕を損ひ、すでに其罪を謝〔わび〕するといへども、許容せられず。それ故某も同件の人の遇[過]〔あやま〕ちを見るに忍びず、農夫〔ひやくしやう〕に代て、さまざまに罪を謝し、利害を申すといへども、某不才〔ふさい〕のうへ愚辨〔ぐべん〕にして、決句〔けつく〕豪傑のために憤怨を副〔そへ〕、此諍ひに及べり。
 彼〔かの〕大男、無三四が老実〔りちぎ〕の言〔ことば〕を聞、笑ひを催し申けるハ、誠に一時の不平によつて、忽ち劔戟〔けんげき〕に及んとせしこそ危ふけれ。しかれども足下〔ごへん〕も両刀を佩〔さし〕玉へバ、定めて仕官の仁〔ひと〕なるべし。私〔わたくし〕の憤りに身を傷〔やぶら〕るゝぞならバ、君家〔くんけ〕への不忠、父母まします御方ならバ、不孝なり。今僕〔やつがれ〕は時に取ての年老〔としかさ〕、まげて此競〔あらそひ〕を某に賜らバ、大に満足なるべし。
 無三四忽ち土に手をつき、却て其事ハ此方より好む所なり。仰〔おほせ〕のごとく、某〔それがし〕主人もあり、両親ともに存在仕る。定めて只今時分、僕〔やつがれ〕が帰るを日をかぞへて相待申ベし。希〔こひねが〕ハくは、諸英勇の憤りをなだめられ、無事の和睦をとゝのへ賜るに於ては、莫大の僥倖〔さいはひ〕なり。
 此時彼大男、八人の若者に對し申けるハ、各〔おのおの〕聞玉ふごとく、彼豪傑の言〔ことば〕、はなハだ穏當〔おだやか〕なり。殊にハ、其競〔あらそ〕ひの本人は、畢竟農家の人。其上婦人を同道せり。旅行の豪傑は挨拶の人。それに本人を捨て、挨拶人〔あいさつにん〕に取懸るは理にあたらず。且世間の人の謂〔いハ〕んには、小倉の士等〔さむらひら〕ハ、強きを凌ぎ弱きを慢〔あなど〕り、壹人の旅行の士〔し〕を見て、大勢徒黨をなし、如々〔しか/\〕の口論を起して討果せしなどと、人口〔じんかう〕にかゝるも我國の恥辱なり。速に一時の憤りを辭〔やめ〕て、和睦をなし給へと申にぞ、
 八人心の中深く歓喜〔よろこび〕、言〔ことば〕を揃へて答けるは、いかさま我儻〔わがともがら〕、一時の性急に事の本末を忘れ、過〔あやまつ〕て旅行の豪傑を劫〔おびやかさ〕んといたせしハ、僕等〔それがしら〕が辜〔つミ〕なり。兎も角も御はからひに任すベし。よろしく無難に事ををさめられ玉るべしと申けるに、大男また無三四に對して、唯今聞玉ふ如く、八人の者更に悪念〔あくねん〕なしと申す。然らバ足下〔そつか〕も、這一回〔このたび〕は、五分〔ごぶ〕の憤りを我に賜れ。我はまた双方より十分の憤りを申請て、徳分〔とくぶん〕とすべしと云けれバ、無三四も八人の若士〔わかざむらひ〕も、聲を等しくして笑ひける。
 七助夫婦ハ、最前無三四が八人の諸士と爭論〔あらそひ〕のはじめより、顔色〔がんしよく〕土のごとく慄懼〔ふるひおそ〕れて居たりしが、すでに和睦と成し事を聞、悦ぶ事かぎりなく、匍ひながら樹の陰を出、八人の前に踞〔かしこま〕り、奴〔わたくし〕が麁忽より事起りて、這様〔かやう〕の大事に曁〔およば〕んと仕る事、千万後悔仕れどもいたし方なし。先刻奴〔わたくし〕がくだきたる食簟〔おべんたう〕の代りとし、此携へたる飯笥〔めしごり〕を奉るべし。
 大男これを聞、哥々〔から/\〕と笑ひ、七助が側〔そば〕近くさし寄、汝は老實〔りちぎ〕の村夫〔いなかもの〕。何ぞ其代りを出すに及ぶべき。最前より、嘸〔さぞ〕畏しく思ひつらんといふに、七助顔をあげて、かの大男の面〔おもて〕を見るとき、如何〔いかゞ〕したりけん、哈〔うゝん〕と云て地に倒れ、俄に氣を失ひけれバ、人々大きに愕き、還魂丹〔きつけ〕を口中〔くち〕に含ませ、其妻に池水〔いけミづ〕を汲で顔に吹かけさせけるに、須臾〔しバらく〕ありて忽ち蘇生〔よミがへ〕れり。
 妻も無三四も大きに歓喜〔よろこび〕、なを七助を介抱しいたハるにぞ、小倉の諸士も渠が活生〔よミがへり〕たるを見て安堵し、これ察する所、最前より我儻〔わがともがら〕の爭論を見て、大きに驚愕〔びつくり〕を喫〔くら〕ひ、漸〔やう/\〕和睦の出來るに安心し、嬉しさの餘り這様に氣を失ひつと覚たり。去來〔いざ〕さらバ、今日は釣をやめて帰るべしと、面々釣針の類ひを収め、無三四に向ひ一個々々〔ひとり/\〕叮嚀〔ていねい〕にいとま乞し、竿を携へて帰りぬ。
 無三四も今ハ心を安んじ、なを七助夫婦に晝飯〔ひるはん〕など用ひさせけれバ、かれ夫婦も無三四に向ひ恩を謝し、ふたゝび帰旅〔きりよ〕にむかひける。
 【現代語訳】

   無三四、八人の壮士と諍いを起す事(承前)

 この八人の若者どもは、はじめから、無三四が一人なのを見て、ちょっと弄ってやれ、と思って(喧嘩をしかけたが)、逆にその勢いを挫かれ、八人互いに目と目を見合せ、溜息をついて立っていたところに、池の向うの木陰から、菅笠をかぶった一人の大男が、大音声をあげて、「双方、少しも手を動かすな」と喚きながら、息を限りに走って来て、若者(ども)を叱って退かせ、すぐに笠を取って、無三四に向い、「旅行の豪傑よ、それがしは申すことがある。まず憤りを止めたまえ」と言うので、無三四も、眼をすえてかの人を見るに、年の頃四十あまりのようで、眼差しが非常に強くて鋭く、人物[人柄。前出、人品骨柄]は賤しからず、慇懃に(無三四に)告げて曰く、「それがしは、事の起り[原因]は知らないが、池の向うから人々の喧嘩する様子に見つけて、駈けつけた。それがしが、双方の旨趣[存念、言い分]を承り、その後、よろしく無事に収まるよう、取り計らいましょう」。
 無三四は表情を和らげ、答えたのは、「事の起りというのは、それがしの同伴する百姓[ルビによる。この農家は武家というに等しく人を指す]の七助と申す者が、しかじかのことで、過まって豪傑[ここは尊称]の弁当箱を壊し、すでにその罪を詫びましたが、彼らは許容なさらない。それゆえ、それがしも、同件の人の過ちを見るに忍びず、この農夫に代って、さまざまに罪を謝し、利害を申した[弁明した](つもりです)が、それがしは不才[不材。出来がよくない]の上に愚弁[口下手。実は無三四の口は達者である]でして、結局、豪傑をますます怒らせてしまい、この諍いになってしまったのです」。
 かの大男は、無三四の律儀[ここはルビによる。老実は慎重誠実の意]な言葉を聞き、笑いを催して、言うには、「一時の不平[心の不穏、憤懣]によって、たちまち剣の戦闘に及ばんとしたのは、まことに危うい。されども、貴殿も両刀を差しておられる以上、きっと仕官の人であろう。私の[個人的な。公私の弁別論である]憤りから、命を落とすようなことがあれば、君家[主人]への不忠であり、父母がおられるお方ならば、不孝である。いま、やつがれ[謙譲自称。ここでは逆に大仰]は、年齢からすれば年かさ、(無理にも)まげて、この諍いをそれがしに譲って下されば、大いに満足と存ずる」。
 無三四は、ただちに地面に手をつき、「むしろ、そのことは、こちらからお願いすることです。仰せのように、それがしは主人もあり、両親ともに生きております[存在は在世中の意]。きっと今ごろは、やつがれが帰るのを日をかぞえて待っておりましょう。どうか、諸英勇の憤りをなだめられ[英勇豪傑のバーゲン気味]、無事の和睦をご調整いただけましたら、莫大の僥倖と存じます」。
 そこで、かの大男が、八人の若者に対し言った。「諸君、お聞きの通り、かの豪傑[これは無三四のこと]の言葉は、きわめて穏当である。とくに、この諍いの本人[当事者]は、畢竟、農家の人で、その上婦人を同道しておる。旅の豪傑は、挨拶の人[代理人、挨拶人]。それに、本人を無視して、(身代りの)挨拶人に取りかかる[攻撃する]のは筋違いである。さらに、世間の人の評判に、小倉の侍たちは、強きを凌ぎ[やり過ごし]弱きを慢どり、旅の侍が一人なのを見て、大勢徒党を組んで、しかじかの口論を起して討ち果したなどと、噂にのぼるのも、我が国[豊前]の恥辱である。速やかに一時の憤りを止めて、和睦をなしたまえ」と言うので、
 (若侍)八人は心中で深く喜び、言葉を揃えて答えたのは、「たしかに、我々が、一時の性急から事の本末を忘れ、過って旅行の豪傑を脅かそうとしましたのは、それがしらの罪です。ともかくも、(あなたの)お計らいに一任します。よろしく無難に事を収めてください」と言ったので、大男はまた無三四に対して、「唯今お聞きのように、この八人の者は、もう悪い感情はないと申しておる。しからば貴殿も、このたび[這一回は漢語風]は、半分(五分)の憤りを私に下され。私はまた、双方より(五分ずつ、合計)十分の憤りを貰い受けて、(自分の)儲け[徳分は得分、利得]としましょう」と云ったので、無三四も、八人の若侍も、声をそろえて笑った。[無事に一件落着]
 七助夫婦は、最前、無三四が八人の諸士と口論しはじめたときから、顔色が土のごとく(血の気が引いて)恐ろしくて震えていたのだが、いまや和睦となったのを聞いて、悦ぶことかぎりなく、匍ったまま樹の陰を出て、八人の前にかしこまり、「私めの麁忽が原因で、こんな大ごとになってしまいましたことは、重々後悔しておりますが、どうすることもできません。先ほど壊した弁当箱の代りとして、(私めが)携えているこの飯笥を差上げます」。
 大男はこれを聞き、からからと大笑い、七助のそば近くに寄って、「おまえは律儀な田舎者だな[村夫は高踏表現]。どうしてその代物を出す必要があろうか(そんな必要はないのだよ)。最前より、さぞおそろしく思っただろう」と声をかけるので、七助は顔をあげて、かの大男の顔を見る。そのとき、どうしたことか、(七助は)うーんといって地面に倒れ、突然気を失ったので、人々は大いに驚いて、還魂丹[気付け薬]を口中に含ませ、彼の妻に池の水を汲ませ、顔に吹かけさせると、しばらくして、たちまち蘇生した。
 妻も無三四も大いに歓び、さらに七助を介抱し、いたわっていると、小倉の諸士も、彼が蘇生したのを見て安堵し、「これは、察するところ、最前からの我々の口論を見て、大いにびっくりを喰らい[ルビによる]、やっと和睦が成立したので安心し、嬉しさのあまり、このように気を失ったと思える。いざ、さらば、今日は釣をやめて帰ろう」と、各自釣針の類いをしまい、無三四に向って一人ひとり叮嚀に別れの挨拶をして、竿を携えて帰った。
 無三四も、いまはホッとして、さらに七助夫婦に昼飯など食べさせたので、彼ら夫婦も無三四に向い恩を謝し、ふたたび帰り旅に向かったのである。


巻之八 12/13
13 ・・ 巻之八 ・・ 12

巻之八 13/14
14 ・・ 巻之八 ・・ 13

巻之八 14/15 七助引無三四帰古里圖
15 ・・ 巻之八 七助引無三四帰古里圖 ・・ 14

 
   4 七助還于名島事(1)
 【原 文】

   七助還于名島事

 斯〔かく〕て、三人のひと/\、日を經ずして名島ちかく成しかバ、七助無三四と別れんとする時、懇〔ねんごろ〕に告けるハ、願ハくは我家〔わがいへ〕に於てゆる/\と五六日も逗留し玉ひ、其後城下に至り玉へ。我家は城下より一里ばかりこなた、元來〔もとより〕草深き所なりといへども、隣家〔となり〕遠く隔たり、人の來る事も逅〔まれ〕なり。静に労〔つかれ〕をもはらし玉へ。はからず舩中より朝夕〔てうせき〕とも御恩を蒙るのミならず、既に八人の士等〔さむらひども〕がために殺さるべかりしを、身に代りての説話〔わびくどき〕に命を活〔たすか〕り、ふたゝび古郷〔こきやう〕に帰、孩子等〔こどもら〕が顔を見る事、ひとへに尊士〔あなた〕の厚恩なり。ひらに先〔まづ〕我家に來り玉へと、袂をとりて申けれバ、無三四も渠等が叮嚀直實なる志しを感じ、終に背く事能ずして、七助が方に赴きける。
 却説〔さて〕那〔かの〕七助が家にハ一人の女〔むすめ〕あり。今年三十有餘〔ゆうよ〕、年花〔さかり〕大きに過、十分の顔色〔がんしよく〕無しといへども、父母に事〔つか〕へ甚〔はなハだ〕孝心なり。
 然るに婿あり、其名を十助といふ。渠その前〔さき〕は、肥前國熊木〔くまげ〕の人也。生質〔うまれつき〕篤實にして、少しにても非に与せず、農業に怠りなく、二三箇年〔がねん〕このかたに少しの田畑〔でんはた〕を求め、夫婦もとより睦じく、七助夫婦が晩年の労苦を助〔たすけ〕ける。
 此日十助忽〔ふと〕おもひけるハ、舅夫婦すでに帰らるべき時節也。もしや今日など帰らる事もあらんかと、村梢〔むらはづれ〕の地〔ところ〕まで出〔いで〕來り、彼方此方眺望〔てうばう〕するに、忽ち七助夫婦が帰るを見つけ、其まゝ走來り、やれ、舅大人〔おやぢさま〕姑娘々〔はゝじやひと〕帰玉ひしか。
 七助夫婦も十助を見て、嗚々〔おゝ〕聟室〔むこどの〕か。甚麼〔どうして〕我帰るを知り、迎〔むかひ〕には出たるぞ。
 十助曰〔いふ〕、何とやら虫がしらせたる歟、今日ふと思ひ出し、閭盡〔むらはづれ〕まで迎ひ意〔ごゝろ〕に出たりと、隨言〔いひつゝ〕二人が菅笠を乞取れバ、七助無三四を指ざして、十助に告けるハ、彼方〔あなた〕は舩中よりの御連〔おつれ〕なり。道すがらにても我們〔わがともがら〕夫婦をはなハだ憐ミ玉ひ、其上尓々〔しか/\〕の事にて、小倉の辺〔へん〕にて悪黨等〔あくたうども〕がために、既に殺さるべかりしを、身に引受て、危き難を救玉ひし命の親なり。此たび名嶋の城中に赴き玉ふを、我等夫婦誘〔いざな〕ひ申て帰りぬ。まづ彼方〔あなた〕の御笠をも預るべしと云けれバ、十助大きに驚き、無三四に向ひ恩を謝し、無三四が脊負し包嚢〔ふろしきづゝミ〕と菅笠をも一緒に受取ながら、十助熟々〔つく/\〕無三四を見て、腰を傴〔かゞ〕め、彼方〔あなた〕は肥後國熊木の御家中、宮本友次郎様にあらずや。
 無三四も驚き、汝は日下〔くさか〕幸助ならずや。十助答へて、即〔すなハち〕幸助にて候。
 これハ/\と計〔ばかり〕にて、両人互ひに手を打バ、七助も不思議の思ひをなし、扨ハ我婿とは知音〔ちゐん〕のかたにておはせしかや。誠に深き因縁にてぞ有けれ。何事もまづ帰りて後、ゆる/\と御物語〔おんものがたり〕をもいたすべしと、四人等しく打つれて、やがて村裏〔そんり〕に立帰る。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

   七助、名島に還る事

 かくして三人は、日を経ずして名島近くまでやって来た。そこで七助は、無三四と別れようとする時、懇ろに告げたのは、「どうか我が家で、ゆっくりと五、六日も逗留なさって、そののち(名島の)城下においでください。我が家は、城下から一里ばかり手前で、もとより草深きところですが、隣家は遠く隔たり、人の来ることもまれです。静かに(旅の)疲れでも癒してください。思いがけず、船中から朝に夕に御恩を蒙るのみならず、あのとき、八人の侍どもに殺されそうになったのを、身代りになって侘言をしていただいて命を助かり、ふたたび故郷へ帰り、子供らの顔を見ることができますのは、ひとえにあなた[尊士は高踏表現]のご厚恩です。お願いですから、まず我が家に来てください」と、袂をとって言うので、無三四も、彼らの叮嚀で直実な好意を感じ、とうとう、いやとは言えず、七助の家に行くことにした。
 さて、かの七助の家には、一人の娘あり。(年齢は)今年三十あまり、(女の)盛りを大いに過ぎ、十分の容色はない[このあたりはユーモア]とはいえ、父母に仕え、きわめて孝心(のある女)である。
 また、(彼女に)婿あり、その名を十助という。彼は、もとは肥前の国熊木〔くまげ〕の人である。生まれつき篤実で、少しでも非[よくないこと]に与せず、農業に怠りなく、二、三年このかた、少しの田畑を求め(得て)、夫婦もとより睦まじく、七助夫婦の晩年の労苦を助けていた。
 この日、十助がふと思ったのは、「舅夫婦がもう帰られる頃だ。もしや今日あたり帰られることもあろうか」と、村はずれのところまで出て来て、彼方こなたを眺望していると、たちまち七助夫婦が帰るのを見つけ、すぐに走って来て、「やあ、親父さま、母者びと[舅大人・姑娘々は漢流]。お帰りになったか」。
 七助夫婦も十助を見て、「おお、聟どのか。どうして[甚麼は漢流]、帰るのを知って、迎えに出たのだ」。
 十助がいう、「何となしに、虫が知らせたか、今日ふと思いついて、村はずれ[閭盡は漢流]まで、迎えるつもりになって出てみたのです」と、言いつつ、(舅夫婦)二人の菅笠を、持ちましょうと取ると、七助が、無三四を指さして、十助に教えたのは、「あの方は、船中よりのお連れだ。道中でも、我々夫婦にたいへん親切にしてくださり、そのうえ、しかじかのことで、小倉の辺で悪党どもに殺されそうになったのを、身代りになって、危うい難を救ってくださった命の親だ。このたびは、名島の城中に行かれるのを、我ら夫婦がお誘いして帰ったのだよ。まずあの方の笠をお預りしなさい」と云ったので、十助は大いに驚き、無三四に向って恩を謝し、無三四が背負っていた風呂敷包みと菅笠を、一緒に受取りつつ、十助がつくづく無三四を見て、腰をかがめた。「あなたは、肥後の国熊木の御家中、宮本友次郎様ではありませんか」。
 無三四も驚き、「おまえは、日下幸助ではないか」。十助が答えて、「はい、幸助でございます」。
 これは、これは、とばかりに、両人互いに手を打つ。七助も不思議に思って、「さては、我が婿とはお知り合いの方でございましたか。まことに深き因縁でありますなあ。何事もまず(家に)帰って後、ゆっくりとお話いたしましょう」と、四人同じく連れ立って、やがて村の内に帰って来た。


巻之八 15/16
16 ・・ 巻之八 ・・ 15

巻之八 16/17
17 ・・ 巻之八 ・・ 16

 
   5 七助還于名島事(2)
 【原 文】

   七助還于名島事 (承前)

 却説〔かへつてとく(=さて)〕、此十助が身のうへに話〔わけ〕あり。是不題〔これハさておき〕、那舅的〔かのしうと〕の七助が家ハ、元來名島近在にてハ、人にも知られたる程の農家〔ひやくしやう〕なりしが、渠が父の代にあたり、不幸にして身上〔しんしやう〕傾き、あまたの田畠をもことごとく沽却〔うりはら〕ひ、終に零落の身と成りて終りぬ。
 七助が代にいたりても、弥〔いよ/\〕艱難に迫り、彼方此方と漂蕩〔さまよふ〕うちに、其妻一人の女子〔によし〕を生〔うめ〕り。左右〔とかく〕して撫育〔はごくミそだつ〕るに、さすが月日に關守なけれバ、昨日よ今日よといふ間〔うち〕に、女子〔むすめ〕十三才になりぬ。
 七助妻子をあたり近く呼よせ申けるハ、扨も我等親子三人、如此〔かく〕零落に迫りなバ、行末乞食〔こつじき〕の躰〔てい〕となる事疑ひなし。恩愛の道に迷ひ、互ひに一緒に居て艱難せんよりハ、三人三所〔ミところ〕に分離〔わかれ〕て、人の家に奉公し、少しづゝの給銀〔きうぎん〕をもためて、ふたゝび其すこしばかりの本銭〔もとで〕を儲〔こしらへ〕、これにて晩年〔ゆくすへ〕をも樂しミ、先祖の祭〔とむ〕らひをもするやうにすべし。汝等いかゞ計較〔おもふ〕やといふに、妻は大きに悦び、我もさこそは思ひつれ。然らバ最初〔いちばん〕に娘が片付〔かたつけ〕を着〔つけ〕て後、われわれが身をも治むべしと、知音〔ちゐん〕の人を求めける處に、肥後國熊木の城下に、七助が内戚〔ちゝかた〕の従弟あるを幸ひに、渠を誂〔かたら〕ひて、熊木の家士〔かし〕の家へ奉公に出し、其後七助は名島の城下に至りて、諸士の家に仕〔つか〕ゆれば、妻はもとより紡績〔うミつむぎ〕機織〔はたをり〕する事、尋常〔よのつね〕の人よりハ勝れて上手なるが故に、在所こそ心安けれと、近在の富家〔ふうけ〕のもとに身を寄けれバ、世俗の諺〔たとへ〕にもいふごとく、女寡〔をんなやもめ〕に花咲のならひにて、彼方這方〔あちこち〕より求〔もとめ〕を得て奉公し、各々身をぞ治めける。
 其後七助夫婦互ひに志しを固〔かたく〕して、便〔たより〕をも通ぜず、七年の年月を過し、身を倹約して些少〔すこし〕の本銭を貯へ、頓〔やが〕て旧里〔こきやう〕に立帰、親類朋友を憑ミ、假初〔かりそめ〕に膝を容〔いる〕るばかりの小家〔こや〕をしつらひ、夫婦晝夜のさかいなく農業をいとなミしかバ、挊〔かせぐ〕に追付〔おひつく〕貧乏なしと、僅に一両年の間〔うち〕に、少しの田畑をも買求めて、往昔〔むかし〕の富にハ遥に及ずといへども、夫婦心を安んずるやうにハ成りにける。
 却説〔さて〕かの肥後國熊木に遣したる処の小女〔むすめ〕、稚名〔をさなゝ〕ハ巻〔まき〕とよび做〔な〕し、心の操〔ミさを〕正しく、幼稚心〔おさなごゝろ〕にも父母の艱難する事を深く歎き、熊木にいたり奉公する内にも、少しも美服〔びふく〕など着んことを乞ねがハず、僅の給銀を求得てハ、父母の方へ鴻便〔こうびん〕を待て送り還し、既に七年〔なゝとせ〕の春秋〔はるあき〕を送りて、十九に成し時、父七助夫婦が方より申遣しけるハ、我們〔わがともがら〕夫婦、今ハ奉公を罷て旧里〔きうり〕に帰り、再び農業をいとなミ暮せば、兎角して汝も本國に帰り來れなど、こま/\と聞へけれども、今は故郷を出て年久〔ひさし〕く、熊木の繁華の地に慣て、寂寞の地に還らん事を強て臨〔のぞ〕まず、重〔かさね〕て便を得て文をしたゝめ、懇にいひおこしける様〔やう〕は、父母〔ちゝはゝ〕のかハらせ玉ぬよしを聞、殊にハ故郷〔ふるさと〕に帰て、ふたゝび家をも起し玉ふ事、ひとへに神仏の護りとハ云ながら、父母の御志〔おんこゝろざし〕の切なるよりなす所なるべし。我とてもはやく帰りて、更〔かハ〕りたまハぬ有状〔ありさま〕をも見もし、我顔をも見せ奉りたき事ハ、やま/\なれども、早〔はや〕此処に住慣てハ、假初のやうに思ふまゝに、徒に七年〔なゝとせ〕を過し、さすがに年頃の名残も惜まれ侍〔はんべ〕りぬ。今三四年も奉公尋常〔じんじやう〕にいたし、少しの給銀をも貯へ帰へりて、ふたりの人々を安く養ひ参らすべきまゝ、今しばしの年月は、帰る事も侍るまじなど、返りごとして、終に熊木の城下に、又数多〔あまた〕の年月をぞ過しける。

(以下つづく)

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 【現代語訳】

   七助、名島に還る事 (承前)

 さて、この十助の身の上にはわけがある。それはさておき、かの舅の[那舅的。このあたり漢語の連発で、作者も読本のモードを楽しんでいる]七助の家は、もともと名島近在では、人にも知られた程の農家であったが、彼の父の代になって、不幸にして身上[これはしんじょうではなく、しんしょう。家産、経済状態]が傾むいて、多数あった田畠もことごとく売り払い、ついに零落の身となってしまった。
 七助の代になっても、いよいよ生活は苦しくなるばかり、あちこちと彷徨ううちに、妻は一人の女子を生んだ。そうして可愛がって育てていると、さすがに月日に関守などないので(時は速やかに過ぎ)、昨日よ今日よといううちに、娘は十三歳になった。[このころ十三歳は成人]
 七助は妻子を近くへ呼びよせ、言うには、「さても、我ら親子三人、こんなに零落してしまったが、(このままでは)行く末、乞食の姿となることは疑いない。(家族)恩愛の道に迷い[これは仏家のせりふ]、互いに一緒に居て苦しむよりは、三人別々に分かれて[一家離散して]、他人の家で奉公し、少しずつでも給銀を貯めて、もう一度、わずかながらも元手(本銭)をこしらえて、これで老後を楽しみ、先祖の祭もするようになろう。おまえたち、どう思うか」と問うに、妻は大いに悦び、「わたしもそう思っていたのです。それなら、まず先に娘の片付けをつけて[身の振り方を決めて]、その後、我々の身も収める[寄寓先を得る]ことにしましょう」と、知り合いの人を探したところ、肥後国熊木の城下に、七助の父方(内戚)の従弟があるのを幸いに、彼に相談して、(娘を)熊木の家士の家へ奉公に出し、そののち七助は名島の城下へ行って、諸士の家に仕えた。妻はもともと紡績や機織をするのが、世の常の人よりも勝れて上手なので、(城下の町より)在所(に居た方)が心安いだろうと、近在の富家[金持ち、富裕な家]の元に身を寄せたのだが、世俗の諺にもいうように、女寡(やもめ)に花が咲く[この対句が、男鰥に蛆が湧く]のならいで、あちこちから求人を得て奉公し、(三人)それぞれが身を収めた。[一家離散と単身化の効果]
 その後、七助夫婦は、互いに志を固くして、便りをも交わさず、七年の年月を過し、身を倹約して些少の元手(本銭)を貯え、やがて故郷へ帰り、親類や朋友を頼り、とりあえず膝を容れるばかりの小さな家を用意し、夫婦は昼夜の別なく農業を営んだ。稼ぐに追いつく貧乏なし[働いて稼げば貧乏に苦しむことはないの意。近世後期の勤労道徳の定式。むろん逆は、貧苦に追いつく稼ぎなし]と、わずか一両年のうちに、少しの田畑を買い求めて、往昔の富には遥かに及ばないとはいえ、夫婦が心を安んずるほど(の暮らし)になった。
 さて、かの肥後国熊木にやった娘のことだが、彼女の幼名は巻(まき)と呼んでいて、心の操正しく、幼な心にも、父母の苦労を深くかなしみ、熊木に行って奉公する間にも、綺麗な着物[美服は高踏表現]など着たいとは少しも願わず、僅かな給銀を得ては、父母の家へ、幸便[鴻便は高踏表現]を待って送金し、すでに七年の春秋を送って、十九歳になったとき、父の七助夫婦の方から言ってよこしたのは、「我々夫婦は、今では奉公をやめて故郷へ帰り、再び農業を営んで暮しているので、とにかくおまえも本国(筑前)に帰ってきなさい」などと、心細やかに伝えたけれども、(娘は)今は故郷を出て年久しく、熊木の繁華の地に慣れて、寂寞の地[田舎]に帰るのを強いて望まず、重ねて便を得て文をしたため、懇ろに言い起した、その内容は、「父母のお変わりなき様子を聞き、とくにまた故郷に帰られて、ふたたび家を興されたことは、ひとえに神仏のご加護とはいえ、父母の御志の切なる結果でございましょう。わたくしとても、はやく帰って、お変りなき姿を見もし、我が顔をもお見せしたいことは、やまやまなれども、仮そめのように思うままに、むなしく七年を過し、はや、この土地に住み慣れては、さすがに年来の名残も惜しまれ(離れられないでい)ます。もう三、四年も、奉公をこれまでのようにして、少しの給銀をも貯えて帰って、お二人を養い安心していただけるようにいたしますので、もう少しの間は、帰ることもありますまい」などと返事をして、結局、熊木の城下で、さらにあまたの年月を過したのである。


巻之八 17/18 幸助与巻女結奇縁圖
18 ・・ 巻之八 幸助与巻女結奇縁圖 ・・ 17

巻之八 18/19
19 ・・ 巻之八 ・・ 18

巻之八 19/20
   ・・ 巻之八 ・・ 19

 
   6 七助還于名島事(3)
 【原 文】

   七助還于名島事 (承前)

 然るに、渠なを熊木の家中に、或は一年〔ひとき〕六月〔はんき〕彼方這方に奉公を挊〔かせ〕き居たりしが、天正十六年三月、佐々内藏助成政、熊木の城を没収〔もつしゆ〕せられ、佐藤主計頭清正をもつて城主と定められ、清正朝臣爰に移り玉ひし後、因縁や有けん、かの巻〔まき〕、宮本武右衛門が家に奉公して居たりしが、此時はやいたづらに年二十六なりしかども、いまだ男女遘合〔なんにょまぐはひ〕の道を知らず、世に珍らしき女なり。
 武右衛門も、渠が奉公ぶりの、蔭日向〔かげひなた〕なきを悦び、甚だ憐ミを加へて召遣ひけるが、此時武右衛門が家に若黨あり。すなハち佐々内藏助成政が家士〔かし〕にて、日下幸助といふ。
 成政すでに國城〔こくじやう〕を収〔めしあげ〕られて後、浪々の身と成、兼ては武藝を執心し、何とぞ一流の蘊奥を究め、仕官せんものをと、師を撰び居たりし所に、宮本當城主に従〔したがひ〕來り、專ら諸士に師範するを以て、宮本が家の若黨にあり付、常に忠直〔ちうちよく〕にして主従の道を闕〔かゝ〕ず、終日〔ひめもす〕武術に心をゆだねける間〔あひだ〕、武右衛門も深く感心し、我子友次郎が相手とさせ、百念をわすれて教授しけれバ、武術日を追ふて達人と成にける。
 時に如何なる紅絲〔こうし〕の因縁やありけん、那〔かの〕巻〔まき〕が來りて後、其下情〔したごゝろ〕に深く巻を恋慕し、竊に人目を忍びて、其志しのほどを筆に云〔いハ〕せて、文など度々に及びけれバ、何と否〔いな〕とハ石躑躅〔いはつゝじ〕、いはもとの神の誓ひや深かゝりけん、終に人知れず幸助と忍び通ひ、二世かけてかたらひを成にけるこそ、不思議なれ。
 すべて隠すより顯れたるハなしといふ言〔こと〕のごとく、いつとなく此事奴僕〔しもべ〕の耳に止り、巻と幸助が忍び忍びに通ふよし、口さがなく云ひのゝしるのミならず、いつしかに日かげに結ぶ五月帯〔いはたおび〕、夜る/\毎に増〔まさ〕る思ひのミか、腹さへかさまさりければ、
 友次郎が母は知らぬ由〔よし〕して居たりしかども、今ハ人目をも押へかねて、或時幸助まきの両人を、人無き所へよび申けるハ、扨もこの程より奴僕どもの兎や角いふを聞に付て、心苦しく思ひ、夫武右衛門どのゝ耳に入ざるやうと、さま/\心を用るといへ共、既に此程より此事耳にとまり、昨夜寝物語にのたまふ様〔やう〕に、両人の者の有さま、若氣〔わかげ〕とハ云ひながら、是非もなき事共也。若此事公になる時は、我既に門人を教授するの家柄なれば、便〔びん〕なき事ながら、手討にも爲ずに有べからず。你〔なんぢ〕此ものどもに少しの路用〔ろよう〕の調度〔てうど〕を与へ、巻が親元は筑前の名島と聞〔きけ〕バ、まづ幸助諸ともかの方へ参るやうにはからふべし。我憤りを畏れて出奔したりといハゞ、門人及び奴僕等〔しもべども〕が手前ハ濟べしとの事なり。然らば你が們〔ともがら〕両人ともに、今宵のうちに、衣類など、傍輩の知らざるやうにして、持出して立退くべし。これは月頃日頃〔つきごろひごろ〕両人の者の、私〔わたくし〕なき勤〔つとめ〕かたを感じて遺すぞと、金子一包幸助にわたしけれバ、両人大きに恐れ入、背中に汗を流し、ありがた涙畳にながれ、まことに申わけなき身の誤り、千非を悔〔くゆ〕といへども、今は返りがたし。しかれども此御厚恩は生々世々わすれがたしと、厚く礼謝を盡し、扨〔さて〕其夜両人のもの、竊に衣服大小の類ひを取持、やがて熊木を出奔し、筑前の名島へぞ帰りける。
 是より両人、七助夫婦のかたへ、人をもつてさま/\と誘〔すか〕しこしらへ、幸助やがて七助が婿となり、十助と改名し、程なく男子〔なんし〕出生し、當年四歳に成にける。
 今日〔こんにち〕はからず無三四に出逢〔いであ〕ひ、僅に五六年の間の別れなれバ、互ひに面〔おもて〕を見まがふべくハあらねども、無三四も四年の長旅の上、今炎天の暑〔しよ〕を犯して、顔色〔がんしよく〕墨のごとく、いつしか往昔〔むかし〕の面影あらん。幸助も農業のいとなみに苦労〔くらう・借字〕艱難して、いにしへの容姿〔かたち〕をうしなひ、其上思ひかけなき對面ゆへ、既に面を見損じたり。されども主従の奇縁盡ざるぞ、目出たけれ。

  繪本二島英勇記 巻八 終

 【現代語訳】

   七助、名島に還る事 (承前)

 しかるに、彼女は、なお熊木の家中に、一年あるいは半年と、あちらこちらに奉公して稼いでいたが[いわゆる渡り奉公。年季勘定では一年で一季、半年が半季]、天正十六年三月、佐々内蔵助成政が熊木の城を没収され[佐々成政は実名(一五三六〜八八)。ただし肥後国守だったのはわずか一年ほど]、佐藤主計頭清正を城主と定められ、清正朝臣がここに移られて後、因縁があったのか、かの巻(まき)は、宮本武右衛門の家に奉公するようになった。このとき、はやいたずらに年は二十六歳だったけれど、いまだ男女遘合の道を知らず[つまり処女で]、世にも珍らしい女である。
 武右衛門も、彼女の奉公ぶりが、蔭日向なき[裏表なき、忠誠ぶり]を悦び、大変目をかけて召使っていたが、このころ、武右衛門の家に若党がいた。すなわち(元)佐々成政の家臣で、日下幸助という。
 成政が国も城も没収されてしまって後、(日下幸助は)浪々の身となり、また以前から武芸に執心し、何とかして、一流の蘊奥を究め、仕官したいと、師を選んでいたところに、宮本(武右衛門)が当城主(清正)に従ってやって来て、もっぱら諸士に師範することになり、(幸助は清正の家臣ではないので)宮本の家の若党に就職し[あり付くは仕官就職に用いる]、常に忠実で正直で、主従の道を疎かにせず、終日[ひめもす=ひねもす]武術に心をゆだねているので、武右衛門も深く感心し、我が子・友次郎の相手をさせ、熱心に教授したので、(幸助の)武術は日を追って上達した。
 ところで、いかなる紅糸の因縁[男女の縁]があったのか、かの巻が(宮本家に)来て以来、(幸助は)その心中深く巻を恋慕し、ひそかに人目を忍んで、その思いのほどを筆に云わせて、文など(送るのが)度重なるうち、何と、否(いな)とはいわつつじ(石躑躅)[語呂合わせの言語遊戯。萬葉に、磯の浦回(うらみ)の石躑躅(いはつつじ)]、いわもとの神[磐もとの神。言語遊戯を重ねる]の誓いが深かったのか、とうとう、人知れず幸助と忍び通い、二世かけて離れまいというようになったのは、不思議である。[このあたりユーモアあり]
 すべて、隠すより顕れたるはなし[隠すことほど明らかなことはないという逆説。中庸に、莫見乎隠 莫顕乎微]、という格言のように、いつとはなく、このことが召使たちの耳にとまり、巻と幸助が忍び忍びに密通していると、口さがなく言い、声高に噂するのみならず、いつしか(巻は)日かげに結ぶ岩田帯[妊婦帯]、夜毎にまさる想いのみか、腹さえ嵩が増してきたので、
 友次郎の母は、(はじめ)知らぬふりしていたけれども、もはや人目を抑えかねて、あるとき、幸助と巻の二人を、人なき所へ呼んで言ったのは、「さても、この間から、召使たちのとやかく云うのを聞くにつけて、心苦しく思い、夫武右衛門殿の耳に入らないようにと、さまざま気をつかってきたが、すでにこの間からこのことが耳にとまり、昨夜寝物語に言われるには、「二人の行状、若気とはいえ、是非も(わきまえ)ないことだ。もしこのことが公になれば、私は門人を教授する家柄になっているので、しかたがないことだが、手討にせずには済まない。そなたは、この者どもに些少でも旅費の用意をしてやり、巻の親元は筑前の名島と聞くから、まず幸助も一緒にかの家へ参るように計らってくれ。私の憤りを畏れて出奔したということにすれば、門人や召使どもの手前は済むだろう」とのことです。そこで、おまえたち二人とも、今宵のうちに、衣類などを、傍輩に知れないようにして持出して、立ち退きなさい。これは、月頃日頃、そなたたち二人の、私なき[無私の]勤めぶりに感じて、あげるのですよ」と、金子一包みを幸助に渡したので、二人[幸助と巻]は大いに恐れ入り、背中に汗を流し、ありがた涙は畳にながれ、「まことに申しわけのない身のあやまり、千非を悔いても、今はもう元にはもどれません。けれども、この御厚恩は永遠に忘れはしません」と、厚く礼謝を尽くし、さて、その夜、二人はひそかに、衣服と大小(の刀)の類いを持って、すぐに熊木を出奔し、筑前の名島へと帰った。
 それから、二人は七助夫婦の家へ、人を介してさまざまに説得し[すかす・こしらえる、ともに説得の意]、幸助はやがて七助の婿となり、十助と改名し、ほどなく男児が出生し、当年四歳になった。
 (話はもどって)今日、はからずも、(幸助は)無三四に出逢い、顔を見ていないのはわずか五、六年の間なので、互いに顔を見まちがえるはずはないが、無三四も四年の長旅のうえ、いま炎天の暑熱をくぐって、顔色は墨のごとく(まっ黒で)、いつの間にか昔の面影はあろうか(消えている)。幸助も農業の営みに苦労艱難して、以前の容姿を失い、そのうえ、思いがけない対面ゆえ、(二人とも最初は)顔を見損じたのである。されども、主従の奇縁の(このように)盡きないことは、すばらしいではないか。[語り手の祝福]

  絵本二島英勇記 巻八 終




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