宮本武蔵 資料篇
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[資料] 繪本二島英勇記 巻之七  Back    Next 

 無三四が富塚三郎左衛門の妻女を連れ帰るころ、作州高田の富塚家では、近辺の郷民を集め、諸方へ捜索隊を出す騒ぎ、そこへ無事妻が帰還したので、富塚は大喜びで、無三四を賓客として歓待した。
 さしもの無三四も、この間の疲労がたたり病臥したが、治療されて完治。無三四の話を聞いた富塚は、岡山の様子を探らせ、もはや追討はありえないとわかる。その年の暮、無三四は富塚の家で過ごし、新春を迎え松の内が明けたころ、富塚から衣服路銀を提供され、美作を出立した。
 無三四は伯耆から因幡へ向かい――補注によれば、途中、西の石見へ行き――丹後を経て、北陸路に入り、天正二十年の六月には、美濃へ越えようとして、越前の奥地、穴間〔あなま〕の山中に入った。そこで無三四は偶然の成行きで、郷民と一緒になって怪物的な鮫を退治する。
 山中に海の鮫が棲息するとは奇妙な話だが、作者は主人公・無三四にこれを重々不審がらせ、この伝奇的説話を合理的な説明解釈へもって行くふりをする。このあたり、作者は読本通有の単純な伝奇性に距離をおく人であり、同時に、伝奇性を「演じる」というスタンスがあって、そこが興味深い。
 つづいて無三四は峠にさしかかり、夏のこととて、宵に野宿し、深夜起き出して、旅を進もうとしたおり、これも不思議な山伏に遭遇し、対戦することになる。
 ここではまず、論戦が面白い。すなわち、この山伏は、廻国武者修行の武芸者を退治しようという、反暴力主義者なのである。無三四が、自分はこれまで多くの人間を殺してきたが、それはすべて悪人であって、善人は一人として殺傷していない、と抗弁するが、そんな半端な勧善懲悪は、この山伏には通用しない。
 山伏は仏性論を持ち出して、悪人だろうが一人の人間を殺せば、仏性の種子を一つ断つことになる、として無三四の懲悪論を却下し、おまえをこのまま放置すれば、これから人を何人殺すか知れたものではない、と無三四を「退治」にかかる。すなわち、山中の怪物的な鮫を退治した無三四は、こんどは自分が退治されかかる。この筋立ては、なかなか見事で、作者の腕前がわかる。同時に、反暴力もそれが実践においてまた一つの暴力だという側面も、きちんと押えられているのである。
 両者の戦闘はなんと六時間に及び、かろうじて無三四の勝ちとなるが、それは、敗れて虚空に飛び去った山伏の正体が天狗だったという説話の方向ではなく、この山伏が無三四の分身であるというのが、この場面のポイントである。
 つまり、無三四は峠で入眠して、深夜目覚めて、天狗=山伏と遭遇し対戦したのだが、もちろんこれが夢か現実か境目はないのである。天狗=山伏が残したリアルなものの小片は、草葉を点々と赤く染めた血痕のみである。種を明かせば、無三四自身の葛藤こそ、この分身同士の戦闘だという次第である。ここでも作者の手並には看過できないものがある。
 さらに、美濃から信州へ廻った無三四は、そこで笠原新三郎という老いた隠逸の士と出会う。無三四は、第三の「父」としての、この老人の庵にとどまり、相気の秘法を相伝される。これは「勝負は偶然」という制約を克服する勝利必然の法である。つまり合理的な勝利法の会得である。
 そこまでは、どういうことはないが、笠原老人は、印可をゆるすと同時に、殺人をタブーとする掟を課す。それが《人は真剣、おのれは木刀》というテーゼである。ところが、これは先ほどの天狗=山伏の反暴力論の反復であって、この巻の緊密な物語編成が明確になる。
 すなわち、この巻で継起する無三四の対戦相手、無三四の〈他者〉は、
     怪物(鮫)/天狗(山伏)/師父(笠原)
という三者であるが、これらがいわば、フロイト流のエス/自我/超自我という異なる次元のトリアーデに配されて、弁証法的に編成されているのである。師父による禁止という特徴的な超自我の振舞いを受容したとき、無三四はシンボリックな秩序に回収され、それゆえ彼は父の「本国」へ戻ろうとするのである。巻末に時節到来と暗示する一節があるのも、まさに英勇(ヒーロー/主人公)が廻国修行という迂回を経て、ようやく本来のポジションを志向することを明示するものである。
 したがってこの巻は、作者の力量が最大運用された部分と謂うべきで、曖昧な読解を却下する強力な物語編成を有している。

 
   卷之七 目録
 【原 文】

繪本二島英勇記 巻之七
    目 録

  無三四發足美作事
    富塚之家族無三四に礼謝する圖
  穴間山中に殺鮫魚事
    同 圖
  無三四遇天狗山伏事
    無三四妖修験者と闘ふ圖
    妖道士原形を見し逃去る圖
  宮本無三四遇笠原新三郎事
    無三四雪中に笠原が廬に投宿の圖
    笠原剣術の玄旨を傳ふ圖

 【現代語訳】

絵本二島英勇記 巻之七
    目 録

  無三四、美作を出発の事
    [絵]富塚の親類、無三四に礼をする図
  穴間山中に鮫魚〔さめ〕を殺す事
    [絵]同図(穴間山中に鮫魚を殺す図)
  無三四、天狗山伏に遭遇する事
    [絵]無三四、妖修験者と闘う図
    [絵]妖道士、原形を現し逃げ去る図
  宮本無三四、笠原新三郎に遭遇する事
    [絵]無三四、雪中に笠原の庵に宿を乞う図
    [絵]笠原、剣術の奥義を伝授する図



巻之七 1
1 ・・ 巻之七 ・・  

巻之七 1/2
2 ・・ 巻之七 ・・ 1

巻之七 2/3
3 ・・ 巻之七 ・・ 2

 
   1 無三四發足美作事(1)
 【原 文】

   無三四發足美作事

 爰に美作國高田の郷士、富塚三郎左衛門が家にハ、其妻を盗賊に奪れ、婢女〔めしたき〕は路頭〔みちばた〕の木にくゝり付られ居たりしを、助け帰り、子細を尋ね問に、賊ハ三人なりと申せしかバ、富塚やがて近辺の郷民〔がうミん〕等を催し、諸方の山林へわけ遣し、盗賊の棲〔すミか〕をさがし、騒動大かたならざる所に、妻ハ無三四に助られて帰りけれバ、父母親族〔しんるい〕すべて手の舞足の踏所を忘れて歓び、又その蹺蹊〔やうす〕を尋るに、彼妻涙を流し、始終つまびらかに物語りけれバ、富塚斜ならず歓び、まづ無三四を上座とし、急〔きう〕に藏を開き、新しき衣服を取出して、無三四に着換させ、飽〔あく〕まで酒食を薦め、其夜ハあたゝかに無三四を休ませける。
 無三四ハ備前の危難を脱れ、且旅行の労〔つか〕れに依て、身躰大きに悩ミいたミ、十日ばかり病臥〔やミふし〕けるに、富塚夫婦心を用ひ、医師を迎へ、頻〔しきり〕に薬湯を施〔ほどこ〕し、十余日にして全く快く治〔ぢ〕しければ、主〔あるじ〕三郎左衛門に向ひ、此程よりの恩を謝し、この日はじめて白倉源五左衛門が家にて難に罹し事ども、ならびに復讐〔ふくしう〕の大望につき、武術修行に詫〔ことよせ〕て諸国經歴のおもむき、逐一に語りける。
 富塚横手〔よこで〕を打て驚き、ひとへに白倉が家の御働、凡夫の所爲〔しよゐ〕とハ覚へず。これ全く天の孝心を感じて助玉ふことうたがひなし。まづ我家に當年ハ輟〔とゞま〕り玉へ。某ひそかに、物慣たる者を、商人〔あきんど〕の形に出たゝせ、備前岡山につかハし、委〔くハし〕く落着〔らくじやく〕の所を探り窺ひ、其後改名して宜敷ハ改名をし玉ひ、後難〔かうなん〕を防ぐはかりことを廻し玉へ。また旅行に趣〔おもむき〕玉ハゞ、盤纏〔ろぎん〕の類ひハ、某ともかくも賄ひ申べしと、懇に申にぞ、無三四も安堵の思ひをなし、今年ハこゝに止まりける。
 三郎左衛門ハ、己〔をの〕が腹心の者を撰び、商人に贋〔した〕て、備前國へ遣しける。その後十日ばかりを經て立帰り、我岡山の城下に至り、事の様〔やう〕を伺ふ所に、白倉が家にて手疵を受しものども、或ひハ追放、おもきハ死罪に行〔おこなハ〕れ、秀家卿はなハだ白倉師弟の不義を憤り玉ひ、這様〔かやう〕の事ハ人倫の風俗を失ふ所也。隣国へ聞へても、なを國の恥辱〔はぢ〕なりとのたまひ、これにつけても宮本氏のはたらき、ひとへに鬼神の所変〔しよへん〕なりなどと、評判〔へうばん〕はなハだよろしく、中々彼国より追手を出さるゝこと決して候まじと申ける。富塚が家内大きに歓喜〔よろこび〕、いよ/\無三四を尊敬〔そんけう〕せり。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

  無三四、美作を出発の事

 そのころ、美作の国高田の郷士、富塚三郎左衛門の家では、その妻を盗賊に奪われ、下女は道端の木にくくり付けられていたのを、助けて帰り、(下女に)仔細を尋ね問うと、「賊は三人です」と言ったので、富塚はすぐに近辺の郷民等を集め、諸方の山林へ手分けして派遣し、盗賊の棲みかをさがしていた。その騒動で大変なところへ、(富塚の)妻が、無三四に助られて帰ったので、父母や親族はみな手の舞い足の踏むところを忘れるという歓びよう。また事件の次第を尋ねると、かの妻は涙を流し、始めから終りまで詳しく物語ったので、富塚は非常に歓び、まず無三四を上座に据え、急いで蔵を開き、新しい衣服を取出して、無三四に着換えさせ、飽きるまで酒食をすすめ、その夜は温かくして無三四を休ませた。
 無三四は、備前の危難を脱れ、また旅行[寒中の逃避行]の疲れのため、身体が大いに苦しく痛み、十日ばかり病み臥した。富塚夫婦は(無三四の病を)気遣い、医師を呼び、しきりに薬湯(など治療を)を施した。(無三四は)十数日で全快し、主の(富塚)三郎左衛門に向い、この間からの恩を謝し、この日はじめて、(備前岡山の)白倉源五左衛門の家で危難に遭ったこと、ならびに(実父の)復讐の大望があり、武術修行にことよせて諸国を経歴している事情を、逐一に語った。
 富塚は両手を打って驚き、「まさに白倉の家のお働き、凡夫の行いとは思えません。これはまったく、天が(あなたの)孝心を感じて、お助けになったこと、疑いありません。まず我が家に今年はお留まりください。それがしは、ひそかに、物慣れた者を商人の姿で出立させ、備前岡山につかわして、くわしく(事件の)落着するところを探らせます。(あなたは)その後改名してよろしければ改名なさって、後難を防ぐ方策を考えてください[ここでは最悪のケースを想定しているらしい]。また、旅に出られるならば、路銀の類いは、それがしがともかくも用立ていたします」と、懇ろに言ったので、無三四も安堵の思いをなし、今年はここに逗留した。
 三郎左衛門は、自分の腹心の者を撰び、商人に仕立て、備前の国へ遣わした。その後十日ばかりして(その者が)帰り、「私は岡山の城下に至り、事件の様子をうかがいましたところ、白倉の家で負傷した者どもは、追放されたり、(罪の)重い者は死罪にされ、秀家卿は白倉師弟の不義を非常に憤られ、「かようのことは人の道の姿を失うものだ。隣国に知られたりすれば、まったく我が国の恥だ」と言われ、これにつけても宮本氏の働きは、まさに鬼神の所変[神仏または鬼霊など超自然的存在がこの世の存在に姿をかりて現れること。化現とも]だなどと、評判がはなはだよろしいので、あの国[備前]から追手を出されることは決してありますまい」と述べた。富塚の家の者たちは大いに喜び、ますます無三四を尊敬した。


巻之七 3/4 富塚之家族無三四に礼謝する圖
4 ・・ 巻之七 富塚之家族無三四に礼謝する圖 ・・ 3

巻之七 4/5
5 ・・ 巻之七 ・・ 4

 
   2 無三四發足美作事(2)
 【原 文】

   無三四發足美作事 (承前)

 年矢〔ねんし〕速に立て、其年もすでに暮、あら玉の年をむかへ、天正十九年*の春になりぬ。
 正月十六日に、無三四申けるハ、われはからずも貴宅〔きたく〕に新春を迎へ、慌惚〔おぼへ〕ず幾許の日を過せり。明日より當所を發足し、伯耆國に立越、因幡但馬を經て、丹後より及び北陸道に趨〔おもむく〕べし。
 三郎左衛門申けるは、世上いまだ余寒〔よかん〕も厳しければ、今一月〔いちげつ〕逗留し玉へ。其内にハ山々の雪も消、手足あたゝかにも成申べしと、頻りに輟〔とゞむ〕るといへ共、終に聽〔きか〕ず。
 又三郎左衛門も、別れハ惜〔おし〕きならひなれども、一回〔たび〕ハ別るゝ道なれば、ぜひなきことにおもひ、多くの路費〔ろよう〕の金銀を用意し、すべて裘褐〔なつふゆ〕の衣量〔いるい〕を包袱〔ふろしき〕一隻〔ひとつ〕に拾収〔とりをさめ〕、無三四が前にさし置、申けるハ、愚妻が命を救ひ玉ひし厚恩に比〔くらぶ〕れバ、なを家財半〔なかバ〕を分て奉るとも謝し盡すに足らず。多くの衣量等〔いるいとう〕を参らせなば、この後も行末遠き長途〔ながたび〕、御艱難をはゞかりて、這些〔このすこし〕の衣量盤纏〔いるゐろぎん〕を参らする也。この後盤纏の絶〔たへ〕たる事あらば、いづれの所に在〔おハ〕すとも、一封の書をだに書玉ハゞ、早速遣〔まい〕らすべし。いさゝか輕微の所といへども、これを笑納〔しやうなう〕し玉ハゞ満足ならん。
 無三四、押いたゞき、包裏〔つゝミのうち〕をひらき見るに、黄金〔きんす〕一百両、碎銀〔こまがね〕二三百粒、多くの衣量あり。
 無三四、黄金十両、碎銀五十粒、衣服三ツをわけて、包袱〔ふろしきつゝミ〕に収め、その余ハこと/\く三郎左衛門に戻し、寔〔まこと〕に芳志〔ほうし〕千万かたじけなし。是にて我ためにハ十分の路用なり。
 三郎左衛門、何故に人の志を空しうしたまふぞ。
 無三四が曰、金銀多きときハ艱難を忍ばず。夫讐〔あだ〕を討〔うつ〕事の難きや、越王勾践〔ゑつわうこうせん〕ハ薪〔しん〕に臥〔ふし〕膽〔たん〕を甞〔なめ〕、晋の豫譲〔よじやう〕ハ漆〔うるし〕を浴〔ゆあミ〕し炭〔あかすミ〕を呑〔のむ〕。徒〔いたづら〕に腰に黄金を纏ひ、労〔つか〕れたる時は駕に乗り、倦〔うみ〕たるときハ馬に跨りなば、是ぞ遊参〔ゆさん〕の回国なり。此十片の黄金も、我ためにハ実〔じつ〕ハ過たる賜〔たまもの〕なり。しかれども、自然〔しぜん〕病患〔べうげん〕發りし時の用意なり。われいかでか人情をつとめて、そら辞義〔じぎ〕するものにあらずと、言〔ことバ〕潔白〔きつぱり〕と艶〔つや〕なかりしかば、三郎左衛門も深く感じ、強て言ず、旅行の支度ごと/\く調ひしかば、十七日の暁天〔げうてん〕に富塚が家を辞〔いとまごひ〕し、伯州さして急ぎけり。
編者曰、無三四富塚が家を出て後、伯耆を經て因州鳥取に至り、宮部是祥坊〔ぜじやうばう〕が家臣貝田玄蕃といふ者あり。これと比量〔しあい〕をなせしに、貝田玄蕃比量〔しやい〕にうちまけ、憤り怨ミ、密に無三四が旅宿〔りよしゆく〕へ押寄、門人大勢と倶に夜襲ふ。無三四憤激して、貝田を打殺し、因州を去、石見国へ趨き、そののち丹後を經て、所々に於て武術の玄妙〔げんめう〕を見せたる事多しといへども、繁〔しげ〕きが故に畧しぬ。

 【現代語訳】

   無三四、美作を出発の事 (承前)

 時は矢のように速やかに過ぎて、その年もすでに暮れ、あら玉の新年を迎え、天正十九年の春[前後の経緯からして天正二十年のはずだが]になった。
 正月の十六日に[つまり松の内が明けて]、無三四が言うには、「私は思いがけず貴宅で新春を迎え、うっかりと多くの日々を過してしまいました。明日からは当所を発足し、伯耆の国へ越えて、因幡・但馬を経て、丹後から、さらに北陸道に向かいます」。
 三郎左衛門が言うには、「世の中はまだ余寒も厳しいので、もうひと月ご逗留なさいますように。そのうちには山々の雪も消え、手足は暖かにもなりましょう」と、しきりに留めたが、(無三四は)ついに聞き入れない。
 また、三郎左衛門も、別れは惜しいのが当然だが、一度は別れる道なので、やむをえないと思い、(無三四の)旅費に多くの金銀を用意し、夏冬の衣類をすべて風呂敷一つにとり納め、無三四の前に差し出して、言うには、「愚妻の命をお救いいただいた厚恩に比べれば、まさに家の財産半分を分けて差上げても、謝礼し尽くすには足りません。多くの衣類等を差上げると、この後も行末遠き長旅ですから、お困りになるのを憚って、こんな少しばかりの衣類と路銀を差上げるのです。こののち路銀がなくなるようなことがありましたら、どこにおられても、手紙一つさえ書いてくだされば、早速お送りします。いささか少なすぎるものですが、これを笑ってお受取りくだされば、(それがしの)満足になります」。
 無三四はこれをおし頂き、包みの中を開いて見ると、金貨百両、碎銀[小粒の銀貨。上方では豆板銀(まめいたぎん)]二、三百粒、それに多くの衣類があった。
 無三四は、金貨十両、碎銀五十粒、衣服三着を(別に)分けて、それを風呂敷包みに収め、その残りは全部三郎左衛門に返し、「まことに多大なご好意、ありがたいことですが、私にはこれだけで十分の旅行の用意です」。
 三郎左衛門、「なぜ、人の好意をお受けにならないのですか」。
 無三四が曰く、「金銀が多いと、艱難を忍ばない(ようになる)。讐を討つことが困難なのは、越の王・勾践が、薪に臥し膽を甞め[紀元前五〜六世紀の中国の故事、むろん有名な「臥薪嘗胆」の説話による]、晋の豫譲は漆を浴び炭を呑んだ[これも有名な刺客豫譲の故事。漆を浴びたのはハンセン病者を装うため、炭を呑んだのは声を変えるため、智伯の讎討ちのため豫譲が乞食に身をやつした説話による]。無駄に黄金を所持し、疲れたら駕籠に乗り、(歩くのに)倦めば馬に跨る、それでは行楽の国めぐりです。この十枚の黄金でさえ、私には実は過分の賜物です。しかしこれは、当然起こる病患の時の用意です。どうしてこの私が、世間通りの振舞いをして、儀礼的な辞退などしますか」と、言うことがきっぱりとして迎合がなかった[ここでは艶は迎合、追従の意]ので、三郎左衛門も深く感動して、強いて言わず、旅行の支度がごとごとく整ったので、(無三四は)十七日の明け方に、富塚の家を辞し、伯州を目指して急いだ。[このコースは、美作真庭郡から伯耆の大山へ抜ける米子道であろう]
編者曰く[作者補注である]、無三四が富塚の家を出て後、伯耆を経て因州鳥取に至り、宮部是祥坊[宮部善浄坊継潤(一五二八〜九九)のことらしい。継潤は近江の人で叡山の僧、秀吉に取り立てられ天正八年但馬豊岡、天正十年には因幡鳥取城主、文禄四年家督を譲って隠居]の家臣・貝田玄蕃という者あり。これと試合をしたところ、貝田玄蕃は試合に負けて、それに憤り怨み、夜ひそかに門人大勢と無三四の旅宿へ押し寄せ襲った。無三四は憤激して、貝田を打殺し、因州を去り、(西の)石見国へ行き、そののち丹後を経て、各地で武術の玄妙を見せたことが多くあるが、数が多いので省略した。[無三四についてはいくらでも説話があるということ]



巻之七 5/6
6 ・・ 巻之七 ・・ 5

巻之七 6/7
7 ・・ 巻之七 ・・ 6

 
   3 穴間山中に殺鮫魚事(1)
 【原 文】

   穴間山中に殺鮫魚事

 斯て宮本無三四ハ諸国を廻〔めぐ〕り/\て、天正二十年六月、越後国大野郡を經て美濃国へ出んとおもひしかば、穴間〔あなま〕の山中に入りぬ。
 されば穴間越と申ハ、人烟稀にして、山高き事幾千仭〔せんじん〕といふ事をしらず。李伯〔りはく〕が蜀道難〔しよくだうなん〕の詩に、天梯石棧相句連、黄鶴之飛尚不能過〔天梯石棧あい句連〔かうれん〕す、黄鶴の飛ぶすらも過ぎがてにす〕といひしハ、げに此山の事ならん。
 むかしハ桟〔かけはし〕を構へ、谷をわたれる藤蘿〔ふぢかづら〕を橋として、僅に往來を通ぜしとかや。飛鳥〔ひてう〕枯木の中に號〔さけ〕び、まことに遠近〔をちこち〕のたつきもしらぬ山路〔やまじ〕なり。此山をわたれば、美濃飛騨両国に越る逕路〔ちかみち〕也。
 且、因〔ちなミ〕に曰、飛騨國ハ、むかしハ美濃国と一ツなり。美濃國大野郡、益田郡、荒木郡を割〔さき〕て飛騨国を置と、國史に見へたり。もと彼国は山林たるが故に良木など多くあり、上古の世にハ朝廷内裏造営などの時、賦役にさゝれ、多くの大工を出したる所也。これを飛騨の工〔たくミ〕といふ。飛騨の工といふハ更に一人の名にあらず。然るを今の世女童〔をんなわらべ〕などの話しに、其所の堂ハ飛騨の匠人〔たくミ〕の建〔たて〕たるなり、此所の社ハ飛騨の匠人の作りたるなどいふハ、後の世の誤りなり。
 殊更穴間ハ、美濃飛騨に境をまじへ、地〔ち〕ハ越前に属〔しよく〕すといへども、山脈は美濃の国に續けり。故〔かるがゆへ〕に今美濃國長柄川といふハ、其源ハ越前國穴間の山中より出、岐阜の北を流れて長柄川といひ、下の方にてハ合渡〔がうど〕川といひ、合渡の下〔しも〕油島といふ所にて木曾川と一ツに落合〔おちやい〕、後、伊勢國桑名の大海に入る也。
 却説〔さて〕無三四ハ世の中に畏しき事をしらぬ剛氣の人なれども、かばかり人跡絶たる山中に入〔いつ〕て、更に東西を分たず、岐路〔わかれミち〕所々に有て、問んとすれども前後人なきにより、忙然として立たる所に、忽〔たちまち〕数十人の叫ぶ聲、山も崩るゝばかりに聞へければ、無三四大きに驚き、こハけしからずの聲かな。人居〔じんきよ〕まれなる山中に、斯〔かく〕大勢の號哭〔さけぶ〕こと、合點ゆかずと首〔かうべ〕をめぐらす間もなく、再び一齊〔いちど〕にさけぶ聲、耳につらぬき聞ゆるにぞ、いよ/\不怪〔ふしぎ〕と窺ふ所に、無三四が後の方より五六人の男共手毎〔てごと〕に鎗を提〔ひつさ〕げ、頭〔かしら〕にハ鉢巻しめ、身にハ藤布〔ふぢぬの〕を以て織たる帷子を着し、双身〔さうミ〕何も眞黒なり。此炎天に干れて山野を家とする故なるべし。
 無三四側〔かたハら〕に避て、彼等に問けるハ、汝等鎗を携へ何れに走るぞ。
 最後〔いちあと〕なる男申けるハ、此山の後の方に一ツの鮫魚〔さめ〕すミ、人を撮〔とる〕事毎度なり。され共、唯蟒蛇〔うハばミ〕の所爲〔しよゐ〕ならんと思ひしに、此頃鮫魚を見出し、今日村々より人数〔にんじゆ〕多く集り、彼鮫魚を撮也と、いひ捨て急ぎゆく。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

   穴間の山中に鮫魚〔さめ〕を殺す事

 かくして宮本無三四は、諸国をめぐりめぐって、天正二十年六月、越後の国大野郡を経て美濃の国へ出ようと思って、穴間〔あなま〕の山中[現・福井県大野郡和泉村]に入った。
 ところで、穴間越えというのは、人烟稀れにして、山の高きこと何千仭[仭は尋(ひろ)に同じ]あるか分からないほどである。李伯(李白)の蜀道難の詩に、「天までのぼる梯子、石の階段が続く。空飛ぶ黄鶴さえ避けて通る」といったのは、まさにこの山のことだろう。[この李伯は李白のこと。唐の有名な詩人(七〇一〜六二)、蜀(四川省)の人。蜀道難の詩当該部分は、蜀道之難難於上青天、蠶叢及魚鳧、開國何茫然、爾來四萬八千歳、始與秦塞通人煙、西當太白有鳥道、可以絶峨眉嶺 、地崩山摧壯士死、然後天梯石棧方鉤連、上有六龍回日之高標 下有衝波逆折之迴川、黄鶴之飛尚不得、猿猱欲度愁攀援…]
 むかしは、階段(棧)を構え、谷をわたる藤かづらを橋として、ようやく往來を通じたとかや。飛ぶ鳥は枯木の中に叫び、まことに遠近の見当もつかない山路である。この山を過ぎれば、美濃・飛騨の両国へ越える近道である。
 ところで、ちなみに云えば[以下は地誌案内]、飛騨の国は、むかしは美濃国と一つであった。美濃の国の大野郡、益田郡、荒木郡を分割して飛騨国を設置したと、国史に見えている。もともとかの国は山林であるので、良木などが多くあり、上古の世には朝廷の内裏造営などの時、賦役に指定され、多くの大工を出した土地である。これを飛騨の匠という。飛騨の匠というのは、決して一人の名ではない。ところが、今の世の女子供などの話に、「そこの堂は飛騨の匠が建てた。ここの社は飛騨の匠が作った」などというのは、後の世の誤りである。
 とくに穴間は、美濃・飛騨に境を接し、土地は越前に属するとはいえ、山脈は美濃の国に続いている。したがって、いま美濃国の長柄川というのは、その水源は越前の国穴間の山中から出て、岐阜の北を流れて長柄川といい、下流の方では合渡川といい[このあたりの記事は正確ではないのがご愛嬌]、合渡の下流の油島という所[現・岐阜県海津市]で、木曾川と一つに合流し、それから伊勢国桑名の大海[伊勢湾のこと]に入るのである。
 さて、無三四は、世の中にこわいものを知らない剛気の人であるが、これほど人跡の絶えた山中に入って、まったく東も西も分らず、岐れ路が所々にあって、(道を)問おうにも前後に人がいないので、茫然として立っていたところに、突然、数十人の叫ぶ声が、山も崩れるばかりに聞えたので、無三四は大いに驚き、「これは、わけがわからぬ声だ。人居のまれな山中に、こんな大勢が叫ぶのは、合点がいかない」と、振り返る間もなく、再びいっせいに叫ぶ声が、耳をつらぬいて聞えるので、「いよいよ不思議だな」と(様子を)うかがっていると、そこに、無三四の後の方から、五、六人の男どもが、手に手に鎗をひっ提げ、頭には鉢巻をしめ、身には藤布で織った帷子を着て、全身どこも真っ黒。この炎天に日焼けして、山野を家とするからであろう。
 無三四は脇に避けて、彼らに問うたのは、「おまえたち、鎗を携えて、どこへ走って行くのか」。
 (集団の)最後にいた男が言うには、「この山の後の方に、一匹の鮫魚〔さめ〕が栖んでいて、人を獲るのが毎度のことです。ところが、ただ大蛇のしわざだろうと思っていたが、近頃になって鮫を見つけ、今日は村々より人数[討伐隊]が多く集り、かの鮫魚を退治するのです」と、言い捨てて急いで行った。


巻之七 7/8  無三四穴間山中にて鮫魚を殺す圖
8 ・・ 巻之七 無三四穴間山中にて鮫魚を殺す圖 ・・ 7

巻之七 8/9
9 ・・ 巻之七 ・・ 8

巻之七 9/10
10 ・・ 巻之七 ・・ 9

 
   4 穴間山中に殺鮫魚事(2)
 【原 文】

   穴間山中に殺鮫魚事 (承前)

 無三四奇異の思ひをなし、こはけしからぬ珍説なり。鮫魚は鰐魚〔わに〕の種類にして、海中の悪魚也。いま山中に住〔すむ〕といふハ心得がたし。韓文公が文章に感じ、眞渕〔しんゑん〕の鰐魚〔がくぎよ〕その処を移したるといふハ、海中とハ思ハれず。されども是とても水ある渕とこそきけ、山中に鮫魚の居るとハ、何にもせよ不怪〔ふくわい〕なり。我彼者共に従ひ、彼処〔かしこ〕に至りて是を見んと、山路の嶮岨を厭ひなく足にまかせ、郷民〔がうミん〕の後〔しりへ〕に従ひ、駆行処に、人聲僅に間近く聞え、四方次第に闇〔くら〕く、虚空一面に曇り、陰雲〔いんうん〕谷を覆ひ、物すごき事いふばかりなく、風の響凄々〔せいせい〕として、山谷〔さんこく〕鳴ひゞき、人の毛孔〔もうこう〕を寒からしむ。
 これ数千百年の年功を經たるものには、老狐猫子〔らうこめうじ〕といへ共、自然と造化〔ざうくハ〕の功を自在する処あり、今此鮫魚も幽谷の間に栖て、山氣〔さんき〕を吸ひ、雲霧〔くもきり〕を起すの妙用〔めうよう〕あり。
 無三四巌上〔がんじやう〕に立て遥に見下せバ、一ツの谷あり、山勢相陜〔せま〕り、数百年の老樹枝を垂て谷を覆ひ、此地〔このところ〕かの悪魚の栖〔すミか〕なり。
 すべて数十人の健民〔けんミん〕、手毎に猪鎗〔しゝやり〕を引提、かけ向ひ、またハ鉄炮をもつて取かこむといへども、悪魚の猛悪すさまじく、霧を吹かけて近づきすゝむ事能ハず。
 鉄炮をうちかけるといへ共、双身〔さうしん〕の鮫甲〔さめかふ〕固くして鉄石に砂を投つけるがことく、少しも肉に通らず、其上四ツの手足ありて谷の間をはいめぐる事自在を得、口を張〔はり〕牙を顯し飛かゝる勢ひ、物すさまじく、其形状〔けいじやう〕大約〔おほよそ〕七八間許り、流石の健民〔ひやくしやう〕も勢ひ避て、互に人を楯とし、鎗を揜〔とり〕ながら、突かくべき義勢ハなかりける。
 無三四此ありさまを見て、たまりかね、直〔すぐ〕に谷へ駆下り、いかに汝等、唯鉄炮を放つといへ共、目當の善悪を弁へず、みだりに甲上〔せなか〕をうつによつて、打とめる事あたハず。眼〔まなこ〕をねらふて放つべし。
 健民〔ひやくしやう〕共此言〔ことバ〕を聞て心づき、眼をねらひ放つとハすれども、僉〔こと/\〕く心忙〔あハ〕てゝうちかくれば、一ツもあたらず。
 無三四一挺の鉄炮を奪ひ、忽ち眞先にすゝみ、一聲の雷炮を放つに、的當〔めあて〕すこしもあやまらず、悪魚乃左の眼〔まなこ〕に打あてたり。然ばかり猛き曲者も、眼をうたれて、活動〔はたらき〕自在ならず。無三四ハ精心いよ/\加ハり、鎗一筋を引奪ひ、跳り上て右の眼を一鎗に突留たり。
 健民共これに氣を得て、續て鎗を入、終〔つい〕に谷の内に突伏、同音に歓びけり。
 此時無三四鎗を捨、そのまゝ鮫魚の上に飛あがり、尾より頭〔かしら〕まで子細に是をミるに、長さ八間余、脊甲〔せなか→脊中?〕の鮫甲〔さめ〕はなハだ大きにして、大なる物ハ指の頭のごとく、頭〔かうべ〕乃怪畏〔おそろしげ〕なること、まことに海中にすめる熊鰐〔くまわに〕に異なる事なし。
 諸人悉く歓び、これがために親をとられ子を撮〔とら〕れしもの、天に歓び地に躍〔おどり〕、年ごろの恨を晴したることの嬉しさよと、聲をはなつて泣もあり。
 無三四諸人に對して申けるハ、我今この形をミるに、全く海中にすむ所の物と同じ、此辺海に遠く、殊に此谷を見るに、巌石〔がんじやく〕の間老樹の陰齊しく湿地にして、満地〔まんち〕澤〔うるほ〕ひあり。然〔さ〕ハ云へ渕川〔ふちかハ〕とてもなく、いかゞして如此〔かゝる〕ものゝ栖やらん。萬物利を以て推〔をし〕がたし。
 一人の老人側〔かたハら〕に有て、この事を聞〔きゝ〕こたへけるハ、いやさして怪むに足ず。たまたま此山中にて鮫魚〔さめ〕をとる事あり。七十年以前にも此地〔ところ〕にて、ひとつの鮫魚を撮〔ゑ〕たりとうけ玉り候。其時のハ長さ五尺ばかりのものなりと、老人どもかたり傳へ侍るなり。それのミならず、此邊〔へん〕の山中木の葉などの下、又ハ竹林〔やぶ〕の中、すべて落葉の下湿りたる処に、自然と小さき魚を生ずる事まゝあり。又此地川邊〔かハべ〕の篠葉〔さゝは〕、水に漬り朽たるが化して魚となるハ常の事也。上方〔かミがた〕の水邊〔すいへん〕にて鮠〔はへ〕と申小魚に似たり。其外怪しき事幾らも候とぞ申ける。
 無三四ハ奇怪の不審解〔とけ〕、健民〔ひやくしやう〕にわかれて、いそぎゆく。

 【現代語訳】

   穴間の山中に鮫魚を殺す事 (承前)

 無三四は不思議に思って、「これは、わけのわからぬ変な話だぞ。鮫は鰐[ここは鱶のこと]の種類で、海中の猛魚である。先ほど(の話では)山中に住むというが、納得できない。韓文公の文章に感じ、眞渕の鰐魚がその棲処を移したというのは[韓文公は唐代の文章家・韓愈(七六八〜八二四)のこと。潮州ので韓文公が祭文を書いて渕に投じて、鰐の被害をなくしたという故事による]、海中とは思われないが、これとても、水ある渕と伝えている。山中に鮫が居るとは、何れにもせよ、納得できないことだ。かの者どもに従って、そこへ行って、その鮫というものを見てやろう」と、山路の嶮しいのもかまわず、足にまかせ、郷民の後について走って行くと、かすかに人声が間近に聞え、あたりは次第に暗くなって、虚空一面に曇り、黒雲が谷を覆い、その凄絶なこと、言いようがないほどで、風の響きは凄まじく、山と谷に鳴りひびき、ぞっとして身の毛がよだつ。
 これは、数千百年の年功を経た存在には、老いた狐や猫といえども、おのずから造化の功[森羅万象の作用]を自由にできるところがあり、いま、この鮫も、幽谷の間に栖んで山の気を吸い、雲や霧を起す神秘的な力がある。
 無三四が崖の上に立って遥かに見下ろすと、一つの谷があり、山勢は迫り、数百年の老樹が枝を垂れて谷を覆い、ここがあの悪魚(鮫)の栖みかなのだ。
 総勢数十人の百姓たち[健民は高踏表現、通例は土民。ここは後出のルビによる]は、手に手に猪鎗[狩猟用の鎗]をひっ提げて立ち向かい、あるいは鉄炮をもって取り囲むのだが、悪魚の猛威は凄まじく、霧を吹きかけるので、接近することができない。
 鉄炮で攻撃しても、鮫の全身を被う皮膚が固くて、鉄石に砂を投げつけるようなもので、少しも肉まで貫通しない。そのうえ、四つの手足があって[ということは、姿は鰐か?]、谷の間を自在に這いまわることができ、口を広げて牙を現わし、飛びかかるその勢いは物すごく、その形状はおおよそ七〜八間[約十四m]ほどで、さすがの百姓たちもひるんで、互いに他人を楯とし、鎗を持っていながら、攻撃する威勢がない。
 無三四は、このありさまを見て、たまりかね、すぐに谷へ駆け下り、「おい、おまえたち。ただ鉄炮を撃つといっても、どこを狙って打てばよいのか、わきまえず、むやみに(鮫の)背中を撃つから、仕留めることができないのだ。眼を狙って、撃て」。
 百姓たちは、この言葉を聞いて、(そのことに)気がついて、眼を狙って撃とうとする。だが、ことごとく心が焦って撃ちかけるので、一つも当たらない。
 (そこで)無三四は、一挺の鉄炮を(百姓から)奪い、すぐさま一番前に進み出て、一発銃声を放つと、狙いは少しも誤まらず、悪魚の左の眼に命中させた。これほど猛烈な怪物[ここでの曲者は怪物、化物の意]も、眼を撃たれて、活動の自由を失った。無三四はますます精心が増大し[つまり、調子にのって]、鎗を一筋引ったくり、跳りあがって一鎗、(鮫の)右の眼を突き留めた。
 百姓たちは、これに勇気を得て、つづいて鎗を入れ[一番鎗の無三四に続いて、次々に鎗で突く]、とうとう谷の中に突き伏せ、みなそろって歓喜の声を挙げた。
 このとき、無三四は鎗を捨て、すぐさま鮫の上に飛びあがり、尾から頭まで仔細に観察するに、長さ八間余[約十五m]、脊中の鮫甲[鮫皮。ここでは楯鱗の小突起のこと]は非常に大きくて、大きなものは指の頭ほどあり、頭部の怪畏なこと、まことに海中に棲む熊鰐[神話的な巨大な鮫。紀に豊玉姫が八尋大熊鰐の正体を現す場面あり]と異なることはない。
 人々はみな歓び、この鮫に親を獲られ子を取られた者は、天に歓び地に躍り、「年来の恨みを晴らせた。嬉しいよ」と、声を放って泣く者もある。
 無三四が人々に対し言ったのは、「私がいまこの形を見るに、全く海中に棲むものと同じだ。このあたりは海に遠く、ことにこの谷を見ると、岩石の間や老樹の陰は同じように湿地で、どこも湿気が多い。とはいえ、渕や川などはないのに、どうしてこんなものが栖んでいたのだろう。万物は、理をもってしては、推し量りがたい」。
 一人の老人が傍らにいて、このことを聞いて答えたのは、「いや、さして怪しむに足りません。ときどき、この山中で鮫を獲ることがあります。七十年前にも、ここで、鮫魚を一匹獲ったと聞いています。その時のは、長さ五尺[一・五m]ほどのものだったと、老人どもが語り伝えています。それのみならず、この辺の山中では、木の葉などの下、または竹藪の中、総じて落葉の下の湿った所に、自然と小さな魚を生ずることが、時折あります。またここの川辺の篠の葉が、水に漬たって朽ちたのが、化して魚となるのは、常のことです。上方[ここは、京大坂のこと]の水辺で鮠[はえ・はや、ウグイのこと。川魚]と申す小魚に似ています。そのほかに怪しい事は幾らでもあります」と言った。
 無三四は、奇怪(なこと)の不審が解け、百姓[ルビによる]たちと別れて、(先を)急ぎ行く。


巻之七 10/11
11 ・・ 巻之七 ・・ 10

巻之七 11/12 無三四妖修験者と闘ふの圖
12 ・・ 巻之七 無三四妖修験者と闘ふの圖 ・・ 11

 
   5 無三四逢天狗山伏事(1)
 【原 文】

   無三四逢天狗山伏事

 宮本無三四、思ハず鮫魚を撮〔とる〕にひかれて、山中にひまどり、其日未〔ひつじ〕のさがりより山路を急ぎ、家あるかたへと走るといへども、人跡いよ/\絶〔たへ〕、日西山〔せいざん〕に沈ミて、はや黄昏に向々〔なん/\〕たり。
 無三四いたく後悔し、嗟呼〔あゝ〕これわが過り也。先刻の健民〔けんミん〕共に旅宿〔りよしゆく〕を請なば、渠等子細なく一宵〔ひとよ〕を借〔かす〕べきものを。其上土地の善悪また人里〔じんり〕の遠近をも問ずして、ひたすら道を走りしこそ、我ながら愚さよ。今宵ハ六月廿日也、宵のほどは黒闇〔くらやミ〕なれば行がたし。宜布〔よろしく〕木陰もあらば、其所に一宿すべしと、魍魎鬼神〔もうりやうきじん〕もおのれが朋〔とも〕と心得たる大丈夫なれバ、何の怖畏〔おそれ〕もあらバこそ、彼方此方と見廻すうち、山路闇〔あん〕に朦朧として、はや世界冥々と晩果〔くれはて〕たり。
 されどもさぐりながら道を求め、一ツの峠に上〔のぼ〕りミれば、此所は山頂すこし平〔たいら〕かに、風よく吹通り、蚊など少なかるべく見へ、老樹枝こまやかなる松あり。是幸ひの所ござんなれ。秦の始皇にあらねども、此松がえに宿〔やどり〕求むべしと、包袱〔ふろしき〕の中より雨具取出し、松の根〔もと〕に布〔しき〕、草鞋を脱すて膝打組、松の木にもたれかゝり、やがて睡〔ねむり〕を催しける。
 山路の睡眠こゝろよくや有けん、凡三更の黎〔ころ〕まで一息に瞑〔やす〕ミ、忽ち両眼〔りやうがん〕を雎瞭〔ミひらけ〕ば、月色〔げつしよく〕高く上〔のぼ〕りて、一天明朗とほがらかに照し、長空〔てうくう〕一片の雲もなく、微風徐〔おもむろ〕に來りて肌〔はだへ〕こゝろよく、思ハずしらず聲をあげて、あら面白〔おもしろ〕の山路の有さまや。かゝる風景の地に月を翫〔もてあそ〕ぶ事も、全く修行の徳也。月の光も清けれバ、山路くらくも有まじ。去來〔いざ〕明日の炎天に照されて行んよりハ、今宵のうちに難所〔なんじよ〕を超んと、速かに座具を納め、包袱〔ふろしきづゝミ〕を負、峠を下らんとする所に、坂の下より人影見へて、上り來るものあり、計らず礑〔借字・はた〕と行逢たり。
 無三四左りにかハして行んとすれば、渠左りを塞ぎ、右に避て進んとすれバ、渠また右を遮り、無三四心に思ひけるハ、是なん知れたる盗賊ならめ。打殺して捨んと、笠を上てその人物を見るに、頭〔かしら〕にハ檜木の笠を頂き、身にハ綌〔さいミ〕の帷子を着し、身躰〔ミのたけ〕六尺余りにして眼〔まなこ〕の光星のごとく、乱髪〔らんはつ〕肩に垂、大太刀前垂〔まへだれ〕に佩、脊中に藤の笈〔おひ〕を負ひ、是分明〔ぶんミやう〕に山伏なり。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

   無三四、天狗山伏に逢う事

 宮本無三四は、ついつい鮫を獲るのに魅かれて、(穴間の)山中で時間を費やし、その日未の下刻[午後二時半ころ]から山路を急ぎ、人家のある方へと走ったが、人跡いよいよ絶えて、日は西の山に沈み、はや黄昏になりそうである。
 無三四はひどく後悔し、「ああ、これはおれの失敗だ。先ほどの百姓たちに旅の宿を頼めば、彼らは何の面倒もなく、一夜(の宿)を借してくれただろうに。そのうえ、地理の良し悪しや、人里の遠近も聞かないで、ひたすら道を急いだのは、我ながらバカだった。今宵は、六月二十日で、宵のうちは暗闇だから[月の出るのが遅いから]、(先へ)行けない。適当な木陰でもあれば、そこに一宿しよう」と、(無三四は)魍魎鬼神も自分の朋輩と心得えている大丈夫なので、何の怖畏もあろうはずもなく、彼方こなたと見廻すうちに、山路は闇に朦朧として、はや周囲は冥々と暮れ果てた。
 けれども、さぐりながらも道を進み、とある峠にのぼって、見れば、そこは山頂がすこし平坦になっていて、風がよく吹き通り、蚊など少なかろうと思われ、枝が繊細で美しい松の老樹がある。「これは絶好の場所があったよ。秦の始皇帝ではないが、この松が枝に宿りを求めよう」[中国山東省泰山で始皇帝が雨宿りしたという「五大夫」松の故事]と、風呂敷の中から雨具を取出し、松の根元に布き、草鞋を脱ぎ捨て、膝を組んで(座って)松の木にもたれかかり、そのうち睡りを催した。
 山路の睡眠が心地よかったのか、およそ三更[真夜中、十二時]のころまで一息に眠って、ふっと両眼を見開けば、月は高くのぼって、天空を明朗と晴れやかに照し、広々とした空には一片の雲もなく、微風がゆっくり吹いて来て肌に心地よく、思わず知らず声をあげて、「ああ、なんと風情のある山路の光景か。こんな(すばらしい)風景の地で月を賞翫するのも、全く修行の功徳だな。月の光が清らかに照らすので、山路は暗くもあるまい。いざ、明日の炎天に熱照されて行くよりは、今夜のうちに難所を越えよう」と、さっさと座具[先ほどの雨具]をしまい、風呂敷包みを背負い、峠を下ろうとすると、坂の下に人影が見え、登って来る者があり、思いがけず、ばったりと行き逢った。
 無三四が、左にかわして行こうとすると、彼は左を塞ぎ、右に避けて進もうとすると、彼はまた右を遮る。無三四が心に思ったのは、「こいつは、いうまでもなく、盗賊だろう。ぶち殺してしまおう」と、笠を上げてその人物[その人の様子、人品人柄]を見るに、頭にはひのきの笠を頂き、身には細布[さいみ・貲布。目の粗い平織の麻布。粗衣の素材]の帷子を着し、身の丈は六尺余り(の巨漢)で、眼光星のごとく、乱髪は肩に垂れ、大太刀を前垂れに佩き[太刀は差すのではなく腰に吊って、前下がりにする]、脊中に藤の笈を負っていて、これは明らかに山伏(の姿)である。


巻之七 12/13
13 ・・ 巻之七 ・・ 12

巻之七 13/14 妖道士原形を見し逃去る圖
14 ・・ 巻之七 妖道士原形を見し逃去る圖 ・・ 13

巻之七 14/15
15 ・・ 巻之七 ・・ 14

 
   6 無三四逢天狗山伏事(2)
 【原 文】

   無三四逢天狗山伏事 (承前)

 無三四聲をかけて、いかに賊山伏〔ぞくやまぶし〕。汝何故に道を遮るぞ。
 彼者こたへて曰、汝こそ盗賊、剪逕〔おひはぎ〕の屬〔たぐひ〕ならめ。某ハ天下の霊場仙蹟を尋ね、修験苦行の山伏也。汝が摸様、清白〔さつぱり〕ともせず、其上斯〔かく〕深更〔しんかう〕に及び、深山幽谷の間に徘徊する事、山賊の類〔るい〕にあらずして何者ぞ。
 無三四呵々〔から/\〕と打笑ひ、汝、霊地名山に分入て苦行するハ、不借[惜]身命〔ふしやくしんミやう〕の佛道修行といふ者也。然るに今往來の路頭をさし塞ぎ、旅行の妨を働くハ、必定〔ひつじやう〕悪心あること明白なり。我ハ清潔〔せいけつ〕の君子、天下廻国の武者修行。尋常〔よのつね〕の旅行と一様に意得〔こゝろへ〕、少しにても妨を做〔なさ〕ば、両片〔まつふたつ〕に斬屠〔ぶちはなす〕べし。いまだ我佛意〔ごしやうごゝろ〕あるうちに、早々道を開〔ひらき〕され。
 山伏ハ無三四が大言〔たいげん〕を聞て戯嘘〔ゑセわらひ〕、さればこそ某が推量に違ず。今の時武者修行と称して、天下を廻国する者、僉〔ミな〕盗賊に等しき罪人〔つミんど〕なり。專ら少しばかりの武藝に慢心を生じ、自己の修行未練なるをもつて人の勝〔すぐれ〕たるを憎ミ、暗計〔あんけい〕を構へ、善人の生命を傷〔やぶ〕り、無益〔むゑき〕の殺生を成〔なし〕て樂〔たのしみ〕とす。我ふかくこの輩を悪〔にく〕ミ、一々殺害〔せつがい〕し、天下の害を除かんとす。
 無三四が曰、汝が説のごとく、某〔それがし〕人の生命を絶〔たつ〕事夥し。されども皆我殺たる者ハ、不善非道にして、人を欺く悪人を亡したるのミ。一人も好〔よき〕人を傷らず、損ハず。
 山伏曰、所詮〔しよせん〕論〔ろん〕は無益〔むやく〕也。天下の衆生、鳥獣虫魚〔てうじうちうぎよ〕の類ひといへども、一ツとして佛生〔ぶつしやう〕を具せずといふ事なし。まして人界〔にんがい〕は万物の長、不善といふ共、豈輕々しく損ひ破るの利あらんや。一人を殺さば一佛生を絶〔たつ〕也。汝が如き者を蕩〔ほしい〕まゝに放ち置ときハ、行末幾許の佛生を斷〔たゝ〕んもはかり難し。這様〔かやう〕の悪人を殺すは、一殺多生〔いつさつたしやう〕の功、佛の本懐に叶ふ道利なり。汝速に我慈悲道得〔じひだうとく〕の刀を受よ、といふよりはやく、笈を下〔おろ〕して側に置、跳〔おど〕り上りて切かゝる。
 無三四も憤り頭上より發し、忽ち両刀を抜放して飛係り、是より両勇手段を盡し、闘ひ神妙〔しんめう〕に入て、互ひに負ず劣らず、既に夜半の時刻より暁天に至るまで、撃合〔うちあひ〕切結ぶこと、三時〔ミとき〕許、両方一點の差〔あやま〕りなし。
 無三四密に思ひけるハ、此者の武藝更に人間の業〔わざ〕とハ思ハれず。されども渠が性〔せい〕、憍豪〔けうがう〕なれば、利害を説て和睦する共、まげて従ふ者にあらず。是非打倒さずんば、却て禍ひを遁れがたしと、精心を抖擻〔はげま〕し、一回〔ひとたび〕死力を出し、鋭〔ゑい〕と呼はる聲と共に、曲者が右手〔めて〕の肩骨の上、磐石〔ばんじやく〕も徹れと切付れバ、あだかも鉄石を撃がごとく手ごたへして、山伏一聲わつと叫び、忽ち虚空に飛上り、何国〔いづく〕ともなく翻〔とび〕さりしハ、不思議といふも不思議なり。
 無三四ハ身躰倦労〔うミつか〕れ、忙然〔ぼうぜん〕として立たる所に、篠目〔しのゝめ〕漸やくミへわかりて、日は扶桑を拂ふて出たり。やがて心づき、あたりを見るに、かの妖怪の迯たるかた、所々に血したゞり、草葉をあけに染けるにぞ、扨ハ天狗の所爲〔しよゐ〕なりと、はじめて舌を巻きにける。
編者曰、此のち無三四美濃国関といふ所に出、宇留女〔うるめ〕治左衛門が方に逗留し、危難をのがれ、信濃へ趨し事ありといへ共、繁多〔はんた〕なるがゆへ畧す。

 【現代語訳】

   無三四、天狗山伏に逢う事 (承前)

 無三四は声をかけて、「どうした、にせ山伏[山伏の姿をした盗賊]。おまえは、なぜ道を遮るのか」。[以下、口舌による闘争]
 かの者が答えて云う、「おまえこそ、盗賊・追剥の類いだろう。それがしは、天下の霊場仙蹟を訪ねる修験苦行の山伏である。おまえの姿は清浄でもなく(さっぱりともせず薄汚く)、そのうえ、こんな真夜中に、深山幽谷の間を徘徊しているのは、山賊の類いでなくて、何者ぞ」。
 無三四はからからと高笑いして、「おまえな、霊地名山に分け入って苦行するのは、不惜身命[命がけの意]の仏道修行というものだ。しかるに、いま(おまえが)往来の路頭を塞ぎ、旅行の妨害をするのは、必ず悪心あることは明白だ。おれは清潔の君子[清廉潔白の道徳家。これは前の清白でないに対する壮語的応酬]、天下廻国の武者修行(者である)。世のつねの旅行(者)と同じだと心得て(勘違いして)、少しでも妨害をすれば、真二つにしてぶち殺すぞ。おれにまだ、仏ごころがあるうちに、さっさと道を開けて去れ」。
 山伏は、無三四の大言(壮語)を聞いて、せせら笑い、「(おまえはそんなことを言う、)だからこそ、それがしの推量は間違っていなかったわけだ。ちかごろ武者修行と称して天下を廻国する者は、みな盗賊に等しい罪人だ[以下、武芸者暴力批判]。決まって、少しばかりの武芸に慢心を生じ、自分の修行が未熟なのに、他人の勝れているのを憎み、陰謀を練って善人の生命を損傷し、無益の殺生をして楽しみとする。おれは心底この連中を憎んで、一人ひとり殺害して、天下の害を除こうとしておる」。
 無三四が曰く、「おまえの説のように、それがしが人の生命を絶ったことは数多い。けれども、おれが殺した者は皆、不善非道(の者)で、人を欺く悪人を亡しただけだ。一人でも善人を傷つけたり損ったりしたことはない」。[むろんこの弁明は弱い。以下勧善懲悪批判]
 山伏はいう、「所詮、(おまえとの)論争は無益だな。天下の衆生、鳥獣虫魚の類いといえども、一つとして仏生[仏性。仏となる可能性としての種子。大乗仏教は一切の生命体にそれが具わるとする]を具せずということなし。まして人界[人類]は万物の長だ。不善(悪)だからといって、軽々しく殺す道理があろうか。一人を殺せば、一つの仏生を絶つことになるのだ。おまえのような者を好き勝手に放置しておけば、ゆく末どれだけ多くの仏生を断つか知れない。このような悪人を殺すのは、一殺多生[一人を殺して多数を生かす]の功であり、仏の本懐にかなう道理である。おまえ、さっさとおれの慈悲と正義の刀を受けよ[ここでの道得は禅のそれではなく、道徳の意]」と、云うより早く、笈を下ろして側に置き、跳り上って切りかかった。
 無三四も憤怒が頭上から発し、すぐさま二刀を抜き放って飛びかかり、それから、両勇は手段[技と術]を尽し、闘いは神秘的な次元に入って、互いに負けず劣らず、夜半の時刻から夜明けに至るまで、打ち合い切り結ぶこと、すでに三時[六時間]ばかり、(しかし)両方一点のミスもない。
 無三四が密かに思ったのは、「この者の武芸は、まったく人間の業とは思えない。けれども、こいつは性質が傲慢なので、利害[道理]を説いて和睦しようにも、決して従うやつではない。是非とも打ち倒さないと、むしろ禍いを遁れることはできない」と、精心を励まし、一たび死力を出して、「えい」と発する声と同時に、曲者[ここは化物の意]の右腕の肩骨の上を、岩石をも貫けと切りつけると、まるで鉄石を叩いたような手ごたえがして、山伏は一声「わっ」と叫んで、たちまち虚空に飛び上り、どこともなく翔び去ったのは、不思議というも不思議である。[以上、分身関係説話]
 無三四は全身疲労して、茫然として立っていたが、(そのうち)篠目[しののめ=東雲]がようやく見えてきて、太陽が扶桑[古来中国で東海の中にあるとされた神木]を圧して出てきた。やがて(無三四は)はっと気がつき、あたりを見ると、かの妖怪が逃げた方向に、所々に血が滴って草葉を赤く染めていたので、「さては天狗のしわざだったか」と、(その時になって)はじめて舌を巻いた[驚嘆した]
編者曰く、こののち無三四は、美濃の国の関という所[現・岐阜県関市]に出て、宇留女治左衛門の家に逗留し、危難をのがれ、信濃へ向かったということがあるが、(話が)煩瑣になるので省略する。


巻之七 15/16 無三四雪中に笠原が廬に投宿の圖
16 ・・ 巻之七 無三四雪中に笠原が廬に投宿の圖 ・・ 15

巻之七 16/17
17 ・・ 巻之七 ・・ 16

 
   7 宮本無三四逢笠原新三郎事(1)
 【原 文】

   宮本無三四逢笠原新三郎事

 斯〔かく〕て宮本無三四、越の國穴間を超、美のゝ国に出、それより信濃路にさしかゝり。古〔いに〕しへ今の戦場など見廻〔めぐ〕り、ひたすら諸国の英勇に見〔まミ〕へ、同年霜月中旬、信濃國川中島に出、往〔いに〕し年永禄年間〔ゑいろくのあいだ〕、信玄謙信の對陣の地を只顧〔ひたすら〕にながめ、海津〔かいづ〕の城地など尋ぬる内、はや中冬の天にあたり、日ハ短く夜長き頃なりしかバ、夕陽〔せきよう〕西山〔せいざん〕に没しける。
 無三四旅宿を借〔かつ〕て一夕〔や〕をあかさんと、彼方此方徘徊し、人家もがなと見わたせども、近邊さらに人烟まれ也。無三四獨言〔ひとりごと〕して、又今ばんも野宿なるべし。せめて雨雪〔うせつ〕を凌ぐべき堂社もあらん、其所に入て休まん物をと、岡〔をか〕山に登りて見わたせば、人烟遥に上りて一ツの破家〔わらや〕あり。
 無三四歓びに堪ず、これ幸ひの人家ござんなれ。まづ此家に至りて夜をあかすべしと、足にまかせて駆ゆく間〔あいだ〕に、はや黄昏と成にけり。
 無三四破家の裏〔うち〕に入て見れば、年齢六十有餘〔あまり〕の老人、炉火〔いろり〕を焚て居たりしかば、慇懃に礼をなし、某ハ廻國の者にて候が、俄に暮にせまり、旅宿を取はづし難儀に及びぬ。何とぞ一夜〔いちや〕をあかさせ玉ハゞ、莫大の厚恩ならん。
 老人答て、廻国とのたまふからハ、武術修行の方とぞ存ずれ。快よく泊り玉へ。われ独身〔どくしん〕の老人なるが故に、飯〔はん〕をこしらへ参らする事かなひがたし。米ハ沢山に候へば、自身に炊て聞〔きこ〕し召れよと、心よく申にぞ、無三四はなハだ歓び、まづ包袱〔ふろしき〕を片方〔かたへ〕におろし、足を洗ひ、爐〔いろり〕の邊〔へん〕にいたり、ともに火にあたり、さらバ飯〔はん〕を炊〔かし〕ぐべし。老人やがて米を取出して与へ、おのれもとも/\野菜など調へ、無三四にあたへ、食事畢りて後、木を運び來り、おびたゞしく爐〔ろ〕の裏〔うち〕にくべ、主人〔あるじ〕無三四も爐〔いろり〕を圍んで休ミける。
 烏鵲〔からす〕劋啄〔かあ/\〕と鳴て夜明たり。無三四目をひらき急に起、戸をひらひて見るに、野も山も一面に雪積り、夕〔ゆふべ〕の氣色と景光〔やうす〕かハり、誠に銀世界となりにけり。
 無三四仰天して、さても降たる雪かな。夕ベこの処へ参りし時ハ、天色〔てんしよく〕ほがらかにして、斯〔かく〕一夜の間〔ほど〕に雲降るべしとハ思ひよらざりしものを。
 老人申けるハ、今年は時候〔じせつ〕暖和〔あたゝか〕にして、雪の來ること例年〔いつ〕よりハ遅し。夜前〔やぜん〕寂莫として物音しづかなりしハ、はたしてこの雪の來るべきしるし也。二三日ハ發足し玉ふ事かなふまじ。安心して逗留し玉へ。
 無三四懊悩〔いたつかハ〕しく思へども、その日かつて發〔たつ〕ことあたハず、忙然として居たりしが、忽然〔ふと〕壁の上をミれば、二すじの木刀、一柄〔いつへい〕の太刀をかけたり。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

   宮本無三四、笠原新三郎に逢う事

 かくして宮本無三四は、越(前)の国穴間を越え、美濃の国に出て、それから信濃路にさしかかり、古今の戦場跡などを見て廻り、ひたすら諸国の英勇と出会い、同年霜月[この物語の設定では天正二十年、霜月は十一月]中旬、信濃国川中島に出て、かつて永禄年間、(武田)信玄と(上杉)謙信が対陣した地を、一心に観察し、海津の城地[伝武田信玄築城。江戸中期以後松代城と呼ぶ。現・長野市内]などを訪ねるうち、中冬の季節にあたり、日は短く夜は長い頃なので、はやくも夕陽は西の山に没した。
 無三四は、旅の宿を借りて[借つては上方方言]、一夜を明かそうと、あちらこちらを徘徊し、人家はないかと見わたすけれど、近辺はまったく人烟稀れである。無三四はひとり言して、「また今晩も野宿だろうな。せめて雨や雪をしのぐ堂社でもあれば、そこに入って寝るのに」と、岡に登って見わたすと、人烟が遠くに上っていて、一つの藁家[破家はあばら家。ここはルビによる]があった。
 無三四は歓びに堪えず、「これは幸いにも、人家があったぞ。まずあの家に行って、夜を明かそう」と、足にまかせて走って行く間に、はや黄昏となった。
 無三四が藁家の中に入って、見ると、年齢六十余りの老人が、囲炉裏の火を焚いて居た。そこで、慇懃に礼をして、「それがしは廻国の者でございますが、急に日暮になってしまい、旅の宿を失って難儀しております。何とぞ一夜を明かさせてくだされば、莫大の厚恩と存じます」。
 老人は答えて、「廻国と云われるからには、武術修行の方と存じます。気楽にしてお泊りなされ。私は独身[一人暮らし]の老人ですから、食事をこしらえて差上げることはできません。米は沢山にありますから、ご自分で炊いてお食べください」と、心よく承知してくれたので、無三四は大そう歓び、まず風呂敷を傍らにおろし、足を洗い、囲炉裏の近くへ寄って、(老人と)ともに火にあたり、「では、飯を炊きましょう」。老人はすぐに米を取り出して(無三四に)与え、自分も一緒に野菜などを調理して、無三四に食べさせた。食事が終った後は、木を運んで来て、たくさん囲炉裏にくべ[くべるは死語化しつつあるが、火中に物を投じて燃やすこと]、主人と無三四も囲炉裏を囲んで寝た。
 烏がカアカアと鳴いて、夜が明けた。無三四は目をひらき、急いで起きて、戸を開いて見ると、野も山も一面に雪が積もり、昨夕の景色と様子が一変し、まことに銀世界となっていた。
 無三四は仰天して、「なんと、よく雪が降りましたなあ。ゆうべここへ参った時は、天候は晴々として、一晩の間にこんなに雲が降るとは、思いもよりませんでした」。
 老人が言うには、「今年は気候が温暖で、雪が来るのが例年よりも遅かった。昨夜、寂莫として物音が静かだったのは、案の定、この雪の来る徴しでした。(これだと)二、三日は出発なさることはできますまい。安心してご逗留なされ」。
 無三四は、面倒だな[いたつかはしは面倒な、煩わしいの意]と思ったが、その日は一向に出発することができず、茫然として居たが、ふと壁の上を見ると、二本の木刀と一ふりの太刀が掛けてある[ここで数詞は木刀が筋、太刀が柄らしい]


巻之七 17/18
18 ・・ 巻之七 ・・ 17

巻之七 18/19 笠原劍術の玄旨を傳る圖
19 ・・ 巻之七 笠原劍術の玄旨を傳る圖 ・・ 18

巻之七 19/20
20 ・・ 巻之七 ・・ 19

巻之七 20
   ・・ 巻之七 ・・ 20

 
   8 宮本無三四逢笠原新三郎事(2)
 【原 文】

   宮本無三四逢笠原新三郎事 (承前)

 無三四、老人にむかひ申けるハ、我夜前〔やぜん〕より足下〔ごへん〕の人物骨格をみるに、ひとへに尋常〔よのつね〕の人とおもハれず。又壁の上に二すじの木刀を掛られたるハ、さだめて武術鍛練の御方とこそ存れ。願ハくは其來歴を語り玉へ。某ハ肥後熊木の産にして、幼時〔いとけなき〕より劔術を好ミ、三ヶ年以前より武術修行のため本國を出〔いで〕しかども、いまだ然るべき師を得ざるのミならず、数多〔あまた〕の難を脱れて爰に來る。もし自得し玉ふ所の妙技〔めうぎ〕もあらば、その奥嚢〔おうのう〕を叩て教へ玉ハゞ辱〔かたじけな〕からん。
 老人微々〔びゝ〕として笑ひ答へけるハ、某ハもと當國にて古き家がら、則笠原平五頼直が末葉〔ばつえう〕、代々郷士にて此所に住居〔ぢうきよ〕し、われ農を嫌ひ弟に家を譲り、獨り爰に來りて隠逸を好む。某が名ハ、笠原新三郎頼種と申す。我も十一歳の時より劔術を好ミ、晝夜心を武術にゆだね師を求め、隣國を經歴して、武術すでに十一流の印可を得たり。其淺深得失を考ふるに、武藝にハ相氣〔あいき〕といふものありて、この相氣をだに得るときハ、百發百中千發千中、さらに勝〔かち〕を取ずといふ事なし。世間の武藝者比量〔しやひ〕をなして後、勝ものハ、はからざるの勝にして、これハ皆怪我の高名也。百度〔もゝたび〕比量〔しやふ〕て百度勝といへ共、畢竟実の勝にあらず。我年來〔としごろ〕此事を歎き、数年〔すねん〕此弊廬〔へいろ〕に引篭り、相氣の工夫に寝食を忘れ、終に其玄機〔げんき〕に通達〔つうだつ〕せり。是によつて人と比量〔しやい〕をするに、人氣の起る所を知り、其劔の何れより來る、何れを打んとするといふ事、玉壺〔ふらすこ〕の中を見るよりも安し。
 無三四飛しさり申けるハ、実〔じつ〕に先生の言〔ことバ〕妙論なり。我備前の国を始め、所々の闘争〔とうじやう〕ミな一命を丢捨〔なげすて〕て勝を得たるのミ也。必定の勝にあらず。ねがハくは此道を教授し玉ハゞ、生々世々を經〔ふ〕るとも厚恩を忘れじ。
 新三郎答へて曰、然らばまづ試ミに一回〔ひとたび〕立會べし。
 無三四そのまゝ座をたち、廬の外〔ほか〕に出、深沓〔ふかぐつ〕をはき、廬外〔ろぐわい〕の雪五六間ばかり足にまかせて踏かため、比量場〔しやいば〕となしければ、新三郎も立あがり、壁の上にかけ置たる木刀を二すじながら無三四に逓〔わた〕し、足下〔ごへん〕両刀を得たりと聞〔きく〕。まづこれを持べし。我ハ木刀なければ是を持べしと、側にある処の鍋蓋〔なべぶた〕を揜〔とり〕、やがて廬前に出、雪の堅庭〔かたにハ〕に立あがれば、無三四木刀を提〔ひつ〕さげ、直に新三郎に打てかゝる。
 新三郎見すまし、鍋蓋をもつて手もとへ入込、水もたまらず、かの蓋にて木刀を地に押へて働かさず。
 無三四是より精神を励し、凡五六度の比量〔しやい〕一度も勝を取事あたハず、そのまゝ木刀を棄、雪の上にひれ臥、寔〔まこと〕に奇妙〔きめう〕の御修練〔しゆれん〕、中々人力のよく及ぶ所にあらず。長く先生の門下にあつて仕へ奉らん。
 新三郎悦び、われも此道を天下に施し、武藝をまなぷものゝ助とせんとおもふといへども、更に傳ふべき人に値〔あハ〕ず。学びても悟るものなし。われ汝が術を見るに、普く天下の一人なり。若相氣の術を相傳せバ、まさに天下に敵なかるべしと、是より無三四を廬中〔ろちう〕にとゞめ、日々に教授に心力を尽せば、無三四も晝夜心氣を煉〔ねり〕、相氣工夫の外他念なかりける。
 光陰ハ矢よりもはやく、白駒〔はくく〕の歩〔あゆミ〕隙〔ひま〕なくして、既に五ヶ月の間〔あいだ〕を經て、文禄二年三月になりにける。
 しかるに無三四は笠原が相傳の相氣の道、今は漸く發明する事を得たり。或日新三郎無三四を膝もとに招き、汝まことに天質の才と謂つべし。今ハ相氣の法、通徹して我と異なる事なし。此後ハ廻国修行して、労〔らう〕を蒙り何の益〔ゑき〕なき事也。はやく本國に帰られよ。今印可を免〔ゆる〕すべしと、相氣の印書を一巻に書したゝめて、手にわたしければ、無三四頭〔かうべ〕をたゝき歓喜し、まことに此上ハ我何の道をか求ることあらん。比間〔このほど〕頻りに養父が事心に掛り、一回〔ひとたび〕本國へ立帰らんと一決〔いつけつ〕仕る。
 新三郎又曰、われ汝に示す事あり。人ハ万物の長、天地とひとしきもの也。人命を損ふより罪大ひなるハなし。たとへ眞劔をもつてむかふ者ありとも、かまへて此後木刀より外〔ほか〕にもちゆる事なかれ。これより長く法を立て、人ハ眞劔己ハ木刀とせよ。
 無三四利[理]に伏し、返す/\先生の教誡〔けうかい〕胸に徹したり。以後誓て眞劔を用ひ候まじと、誓を約し、是より旅行の用意を調へ、此年ごろの恩を謝し、涙をながしていとま乞し、新三郎が廬を出、何となく古郷〔こきやう〕の方したハしく、殊に四年の年月〔としつき〕を經たれども、いまだ敵〔かたき〕の動静を得ざるが故、今一應九州の地を委しくさがしミるべしと、ひたすら西へ向ひける。
 是ひとへに順孝〔じゆんかう〕天の感ずる所ありて、本意〔ほんい〕遂べき時節なり。

  繪本二島英勇記 巻七 終

 【現代語訳】

   宮本無三四、笠原新三郎に逢う事 (承前)

 無三四が老人に向って言ったのは、「私は、前夜から貴殿の人物骨格[人品骨柄]をみておりますに、まったく尋常の人とは思えません。また、壁の上に二本の木刀を掛けられているのは、明らかに武術鍛練のお方と存じます。願わくは、その來歴を語ってください。それがしは肥後の熊木の産で、幼い時から剣術を好み、三年前から武術修行のため本国(肥後)を出ましたが、いまだにしかるべき師を得ないばかりか、数多の難を脱れて、ここにやって来ました。もし(貴殿が)自得なされた妙技があれば、(それがしに)その奥嚢に至るまでお教えくだされば、ありがたいと存じます」。
 老人は微々として笑って、答えたのは、「それがしは、もとは当国で古い家柄、すなわち笠原平五頼直[信州高井郡笠原(現・中野市)の人。木曽義仲の軍に破れ越後へ敗走。のち頼直男四郎光正が頼朝に属して旧領笠原郷を回復。源平盛衰記に有名]の末葉で、代々郷士としてこの地に住居し(ていたが)、私は農を嫌い弟に家を譲り、一人ここに来て、隠逸を好んでいます。それがしの名は、笠原新三郎頼種と申す[笠原新三郎といえば、志賀城(現・長野県佐久市)で武田信玄と戦って敗死した笠原清繁が勇将で有名だが、その係累という設定か]。私も十一歳の時から剣術を好み、昼夜武術に夢中になり、師を求めて隣国を経歴して、武術はすでに十一流の印可を得ている。その(諸流儀の)淺深得失[深い浅い、優劣の差]を比考するに、武芸には相気[合気とも]というものがあって、この相気さえ会得すれば、百発百中、千発千中、勝ちを取らないということはまったくない。世間の武芸者(は誰でも)、試合をして勝つ者は意図しない勝ちであり、これはみな怪我の高名[偶然の産物の意]である。百回試合して百回勝っても、畢竟(それは)真実の勝ちではない。私は長い間このことを歎き、多年このあばら家の庵に引きこもり、相気の工夫に寝食を忘れ、ついにその玄機に通達した[玄妙な作用を会得した]。これによって人と試合をするに、人の気の起るところを知り、その剣がどこから来るか、どこを打とうするか、フラスコ[むろん頸の長いガラス製容器。ポルトガル語:frascoによる]の中を見るよりも容易にわかる」。
 (笠原が大変な人物だと知って)無三四が飛びしさって、頼み込んだ。「実に先生のお言葉は、すばらしい理論です。私が備前の国をはじめ、各地で(やった)闘争は、すべて一命を投げ捨てて勝ちを得ただけのことです。必然の勝利ではありません。願わくは、その(相気の)道をご教授くだされば、永遠にご厚恩を忘れません」。
 (笠原)新三郎は答えていう、「しからば、まず試みに、一回立会ってみましょう」。
 無三四は、すぐさま座を立ち、庵の外へ出て、深沓[雪用の藁製の長靴]を履いて、屋外の雪を五、六間[約十m]ほど、足にまかせて踏み固め、試合場を作ったので、新三郎も立あがり、壁の上に掛けて置いた木刀を、二本とも無三四に渡し、「貴殿は二刀(の術)を得たと聞きました。まずこれをお持ちなさい。私は、木刀がないので、これを持ちましょう」と、側にあった鍋の蓋を取り、すぐに庵の前に出て、雪の堅庭[カタニハは古語。ここでは雪を踏み固めた試合場]に立ちあがると、無三四は木刀をひっ提げ、ただちに新三郎に打ってかかった。
 新三郎は(これを)見すまし、鍋の蓋をもって(無三四の)手元へ入り込み、あっというまに、その蓋で木刀を地に押えて、(無三四を)働かさない。[このエピソードはのちに塚原卜伝が鍋蓋で若き武蔵と対戦という説話素になった]
 無三四は、それから、精神を励まし、およそ五、六回試合をしたが、一度も勝ちを取ることができなかった。(無三四は)すぐさま木刀を棄て、雪の上にひれ臥し、「まことに絶妙のご修練[手練とも]です。まったく人間の力の及びうるところではありません。(私は)長く先生の門下にあって、お仕えいたします」。
 新三郎は悦び、「私も、この(相気の)道を天下に知らしめ、武芸を学ぶ者の助けとしようと思ったが、一向に伝えるべき人に遭遇しなかった。学んでも悟る者がいなかった。私がそなたの術を見るに、広い天下の第一人者である。もし相気の術を相伝すれば、まさに天下無敵となろう」と、それからは、無三四を庵に留め、日々に教授に心力を尽した。無三四も、昼夜心気を煉り、相気を工夫[研究]する以外、何も考えなかった。
 光陰は矢よりもはやく、白駒の歩みは隙なく[時の経過の早いこと。荘子知北遊篇参照]、すでに五ヶ月の月日が過ぎて、文禄二年三月になった。
 そうしているうちに、今や無三四は、笠原相伝の相気の道を、ようやく発明することができた[教えは自得、ゆえに弟子は発明するという]。ある日、新三郎は無三四を身近に呼び、「そなたは、まことに天質の才というべきである。今や、相気の法に通徹して、私と差がなくなった。この後は、廻国修行しても、煩わしいだけで、何の益もない。はやく本国に帰られよ。いま(ここで)印可をゆるそう」と、相気の印書[印判のある証書]を一巻に書きしたためて、(無三四の)手にわたした。無三四は頭を叩き[床や地面を叩頭する重礼]、歓喜して、「まことに、このうえは、私は何の道を求める必要がありましょう。最近しきりに養父のことが気にかかり、一度本国(肥後)へ戻ろうと決めました」。
 新三郎はさらに曰く、「私はそなたに教示することがある。人は万物の長で、天地とひとしい存在だ。人命を損うほど大きな罪はない。たとえ真剣で向かってくる者があっても、今後は決して木刀以外は使ってはならない。これ以後、長く法[自己規範、掟]を立て、《人は真剣でも、おのれは木刀》としなさい」。
 無三四はその理に伏し、「先生のご教誡はよくよく胸に徹しました。以後、誓って真剣を用いますまい」と誓約して、それから旅行の用意を調え、この間の(教授の)恩を謝し、涙を流していとま乞いをして新三郎の庵を出て、何となく故郷の方角がなつかしく、ことに四年の年月を経たけれど、いまだ仇(佐々木巌流)の動静(の情報)を得ないので、今はいちおう九州の地を委しく探してみようと、ひたすら西へと向った。
 これ[つまり、無三四が九州へ向うこと]は、ひとえに(無三四の)順孝を天が感じたのであって、本意を遂げる時節(が到来したの)である。[これは以後の展開の暗示文]

  絵本二島英勇記 巻七 終




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