宮本武蔵 資料篇
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[資料] 繪本二島英勇記 巻之四  Back    Next 

 天正十八年、ちょうど秀吉の北条攻めの頃である。肥後熊木城でも、清正が、小田原出馬の件を重臣会議に懸けて評定させていた。その席に、庄林隼人が、宮本武右衛門父子の願書を提出する。(ここで庄林が登場するのは、彼が清正三傑の一人、清正伝説の中で有名な人物だからであろう)
 清正は、その敵討ちの願書を披見したが、そのまま許可を出すのではなかった。言って聞かせることがあるから、宮本父子を呼び出せという。ここで読者は首をひねる。なぜ清正は、即座に敵討ちを許可しないのか。庄林隼人は宮本方に使いを出して、父子を召出し、清正の前に連れて来る。
 ここは英雄清正の出番である。清正は敵討ちを認めない――この意外性が、この作品の結構である。清正が提起したのは、一つのアポリア(難問)。つまり、他家を相続する養子が、実父の敵討ちをした例はない。どうしてもやるなら、吉岡へ復姓してからやるべきである。しかし、それは養家の親を捨てることになる――実家の親のために命を懸けて敵討ちをすることは、正しくない、という理屈である。あちらを立てれば、こちらが立たず、ここで、親に対する孝が両立不可能な矛盾に達するのを示す。これは読本に不可欠な、教訓シーンであり、いわば倫理学の思考法を教えるのである。
 宮本友次郎は、これでは敵討ちに出ることはできない。さて清正は、このアポリアを切り抜ける妙案を授ける。それは、敵討ちに出るのは許可できないが、武者修行に出るというのなら許可する。天下武者修行の名目で諸国を巡って敵を探せ、というわけである。というのも、吉岡を殺すほどの者なら一流の師範人だろう、その剣術の達人というポイントが、仇を特定する手がかりである。剣術の達人を探せ、そのために武者修行の体で諸国を遍歴しろ、ということである。
 それゆえ、宮本父子が陥った両立不可能な矛盾を克服するのは、たんなる形式と内容の分裂ではなく、厳密に言えば、形式(武者修行)に内容(敵討ち)を生産させるという智略である。これが英雄清正によって伝授されるというのが、この物語の仕掛けである。
 かくして友次郎は、武者修行(敵討ち)に出発する。まずは、筑前名島へ行って、実父母の墓に参り、復讐を誓う。それから、吉岡門下の高弟らと会って、父の横死の仔細を聞き、親の仇の情報を得る。
 高弟らはすでに、吉岡を暗殺した犯人は、播州姫路の佐々木巌流だろうと目星をつけていた。それで姫路の様子を探らせている。飛脚が戻り、巌流が姫路を去って、どこかへ行ってしまって行方が知れない、との報告である。しかも巌流の顔を知っている吉岡の家僕は病死してしまっている。顔は知れず、名のみで探すことになるが、巌流は変名しているかもしれない。障碍は山積している。しかし肥後を出るまでは、だれが仇なのか、目星もついていなかったので、友次郎は大いに喜んで、吉岡門下の高弟らに感謝して、名島を出発する。
 ちなみに、この段の終わりに、さりげなく、友次郎は思うところがあって「無三四」と名のる、とある。理由はあきらかではないが、この改名は自称のようで、以後は宮本無三四である。
 無三四は九州諸国を廻り、ついで中国路に入り、周防・長門・安芸・備後と進む。その間、無三四は武者修行の試合をしてきたが、手ごたえのある達人と遭遇せず、また、敵討ちも、これという手がかりを得なかった。それで、無三四は上方へ行ってみようと、途中、備前岡山までやって来る。これが天正十九年の秋のこと。
 その岡山で、無三四は、ある剣術道場を覗き見したことから、トラブルに巻き込まれる。この窃視行為は、巻之一の実父吉岡太郎右衛門のそれの反復である。
 さて、その道場主は、白倉源五左衛門という浮田(宇喜多)家師範役の武芸者。六尺有余の巨漢、いかにも魁偉な中年男で、人物は奸曲であるというから、これは悪役。そこで、読者に、これが変名した佐々木巌流ではないかという推測へと仕向けるようであるが、それはこの白倉の段を読み終わるまでもなく、白倉が吉備津宮の夢告によって一流を開創した、と作者はあらかじめ断わっているから、その可能性はない。ところが、その人物容姿からすると、巌流に共通するところがあり、いわば巌流の分身がここで登場するのである。
 ともあれ、備前岡山は播州姫路の隣国であり、無三四には、白倉が巌流ではないとは、まだ判らない。偶然、白倉の門弟とトラブルになったわけだが、無三四はそれを好機として、負けたら門人になるという条件で、白倉に試合を申し入れる。白倉の方は、この旅人が間者(スパイ)なら捕虜にして手柄にしよう、またそうでなかったら、ぶち殺して娯楽にしようという腹で、無三四の申入れを承諾して、まずは高弟らと立合うよう求める。ところが、無三四は彼らと順番に対戦するが、ことごとく打倒してしまう。
 すると、白倉は、貴殿のような古今未曾有の人に出合ったことはない、まったく凡夫のわざとは思えない、と賛嘆するふりをして、次は自分の番だが、まあ少し休憩でもしてと、無三四に茶をすすめる。――というところまでが、この巻の話。
 この巻で、友次郎は、父の仇は佐々木巌流と目星をつけ、しかし巌流がすでに播州姫路を去っていると知って、彼を探して廻国修行の旅に出るまでが一気に語られ、かつ備前岡山での一件へと話は進む。
 友次郎はこの巻で、宮本「無三四」と名乗るようになる。この小説では宮本「武蔵」ではない。主要登場人物は、少しだけ名を変えて、それと判別できるようにしてある。英雄清正は「加藤」ではなく「佐藤」である。しかし、筑前名島の小早川隆景や、備前岡山の浮田秀家は実名である。また、清正重臣の加藤美作や庄林隼人以下の面々も実名で登場する。
 とすれば、さしあたり、物語内でとくに活躍のない人物は実名であり、それに対し、主要人物は実名を避けるという傾向である。したがって、武蔵研究の方面では、佐々木巌流の「佐々木」は実名ではなく、歌舞伎・浄瑠璃等演劇におけると同様、物語内のフィクションとしての設定名であろうと結論しうるのである。この小説の中で、巌流は変名しているかもしれない、とあるが、それは物語の外でも妥当するのである。

 
   卷之四 目録
 【原 文】

繪本二島英勇記 卷之四
    目 録

  宮本復讎〔ふくしう〕訴訟之事
    宮本父子訴状を書替て
          武者修行に出る圖
  友次郎熊木發足事并名島之高弟曾宮本事
    宮本父子及門人別離を惜むの圖
    其 二
    友次郎亡父の霊を祀るの圖
    名島の高弟宮本に會する圖
  宮本無三四與白倉源五左衛門試劔事
    宮本竊に白倉之演武〔けいこ〕を観る圖
    無三四打倒白倉之門弟の圖

 【現代語訳】

絵本二島英勇記 卷之四
    目 録

  宮本、復讎訴訟の事
    [絵]宮本父子、訴状を書き替えて
              武者修行に出る図
  友次郎、熊木出発の事
         ならびに、名島の高弟、宮本に会う事
    [絵]宮本父子および門人、別れを惜しむ図
    [絵]其 二
    [絵]友次郎、亡父の霊を祀るの図
    [絵]名島の高弟、宮本に会う図
  宮本無三四、白倉源五左衛門と剣を試合う事
    [絵]宮本、ひそかに白倉の稽古を見る図
    [絵]無三四、白倉の門弟を打倒す図


巻之四 1
1 ・・ 巻之四 ・・  

巻之四 1/2
2 ・・ 巻之四 ・・ 1

巻之四 2/3 宮本父子訴状を書改めて武者修行に出る圖
3 ・・ 巻之四 宮本父子訴状を書改めて武者修行に出る圖 ・・ 2

巻之四 3/4
4 ・・ 巻之四 ・・ 3

 
   1 宮本敵討願ひの事(1)
 【原 文】

   宮本敵討願ひの事

 善人爲邦百年、亦可以勝殘去殺〔善人邦を爲(おさ)むること百年、亦(また)以て殘(ざん)に勝ち殺(さつ)を去るべし〕と、宜〔むべ〕なるかな。
 前〔さきの〕陸奥守佐々成政、肥後國を鎭藩〔ちんはん〕たりし時、國中〔こくちう〕おだやかならずして、國に一揆烽起し合戦やむ時なく、これによつて豊臣秀吉公、成政が苛政を憤り玉ひ、速に死を賜り、佐藤主計頭清正朝臣をもつて熊木〔くまげ〕の城主となし玉ひし後、わづかに三年が程に、國中たいらかにおさまり、あらたに土木の功を起し、城塁を改め築き玉ひ、今に至りて造功〔ざうかう〕既に終りぬ。
 然るに、ミやこには秀吉公相州小田原乃城主北條氏政氏直を誅伐のため、今年三月より屡〔しばしば〕攻撃ありといへども、城郭堅固にして容易〔たやすく〕おちざりし程に、此よし熊木に聞へしかバ、五月七日清正朝臣老臣等を聚め、相州出馬乃評定〔へうじやう〕せられける。此ときいづれも一同に申けるハ、既に御領分今ハのこる所なくおさまり、城郭等も僉〔こと/\〕く築玉ひたるの上ハ、何さまにも御出馬ありて宜かるべしと、衆評とり/\の所へ、庄林隼人〔しやうばやしはいと〕一通の願書を捧〔さゝげ〕來りて、清正朝臣の前に指出す。
 宮本武右衛門が奉る所にして、願書乃旨趣ハ、吉岡太郎右衛門が横死により、養子友次郎をもつて敵討出立いたさせんとの願ひ也。
 清正逐一に見て、大きに驚き、吉岡は高名の士、其名四方にながれて我も聞及ぶ所也。武右衛門、其門人として温〔蘊〕奥を究めたるぞ、ならば師ハ則父のごとし、殊に友次郎は吉岡が実子とあれば、かた/\もつて見捨がたき時節也。され共申きかすべき子細あり。武右衛門父子を召出〔よびいだ〕すべし。
 隼人たゞちに武右衛門が方へ召次〔めしつぎ〕の者を遣しければ、父子早速城に登り來る。隼人則両人を携〔たづさへ〕て、主人の座前に立出る。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

  宮本、敵討ち願いの事

 善き人が国を治めること百年、身体刑(残)や死刑(殺)をなくすることができる(というが、本当だね。この言葉は)とあるが、なるほどその通りである。[論語・子路第十三「善人爲邦百年、亦可以勝殘去殺矣。誠哉是言也」、また太平記・巻二十に「残に勝ち殺を棄てん事、何ぞ必ずしも百年を待たん」ともあるので有名]
 さきの陸奥守佐々成政[これは実名。秀吉取立ての武将、肥後一国領知。?〜一五八八]は、肥後国を治めていた時、国中が平穏にならず、国に一揆が烽起し合戦がやむ時はなく、このため豊臣秀吉公は、成政の苛政を憤られて、すみやかに(成政に)死を賜わり、佐藤主計頭清正朝臣を熊木(くまげ)の城主となされた。その後わずか三年ほどで国中が平定され、(清正は)あらたに土木の事業を起し、城塁を改めて築かれ、現在に至って建設事業はすでに完了した。
 しかるに京都には秀吉公が(いて)、相州小田原の城主、北條氏政・氏直を誅伐のため、今年(天正十八年)三月より、しばしば攻撃があったが、城郭堅固にして容易に落ちない。このことが熊木に聞えたので、五月七日、清正朝臣が老臣等を聚め、相州出馬[小田原出陣]の評定をさせた。このとき、だれもが一同に申したのは、「すでに御領分は、いまや残るところなくおさまり、城郭等もことごとく建設が終った上は、どのようにでも御出馬あってよろしいでしょう」と、それぞれが意見を述べているところへ、庄林隼人[これは実名。清正三傑の一人。?〜一六三一]が一通の願書を捧げもって来て、清正朝臣の前にさし出す。
 (これは)宮本武右衛門が提出したもので、願書の旨趣は、吉岡太郎右衛門の横死により、養子友次郎を敵討ちに出立させたい、との願いである。
 清正は(文面を)逐一に見て、大いに驚き、「吉岡は高名の士で、その名は四方にながれて、私も聞き及ぶところである。武右衛門は、その門人として蘊奥を究めたのだ。ならば、師はすなわち父のごとし、ことに友次郎は吉岡の実子とあれば、いづれにしても、そのままにはしておけない状態である。されども、申し聞かせるべきことがある。武右衛門父子を呼び出せ」。
 隼人は、ただちに武右衛門の家へ使い[召次は雅語]の者を派遣したので、(宮本)父子は早速登城して来る。隼人は、すぐに両人を連れて、主人の座前に現れる。


巻之四 4/5 宮本父子及び門人別離を惜の圖
5 ・・ 巻之四 宮本父子及び門人別離を惜の圖 ・・ 4

巻之四 5/6
6 ・・ 巻之四 ・・ 5

巻之四 6/7
7 ・・ 巻之四 ・・ 6

 
   2 宮本敵討願ひの事(2)
 【原 文】

   宮本敵討願ひの事 (承前)

 武右衛門一座をミるに、着座の人々にハ、加藤美作、飯田覚兵衛、赤星太郎兵衛、森本義太夫、齋藤立本〔りふほん〕、其外一班〔いつぱん〕の豪傑両方に列して、甚だ厳重なり。
 清正朝臣遥に両人を見て、先刻指出す処の願書、たしかに披見するに、友次郎を以て実父吉岡がために敵討させんとの事、理のさしあたりたる所とハいへども、しりぞいて思慮を廻らすに、汝はじめ友次郎を養子とする時、吉岡別に男子あり、不幸にして父に先達〔さきだつ〕て死し、今に於て其敵〔かたき〕を討つべき人なし。義を以ていはゞ、師弟の間といひ、実父の仇〔あだ〕、汝が輩〔ともがら〕父子共に出立して、敵を探求め、報讐〔ほうしう〕すべきの秋〔とき〕也。爰〔こゝ〕乃本朝〔わがくに〕近代の例として、他家相續の人、養父を捨て実父の仇を討ことを聞ず。法は壹人のために私すべからず。是によつて敵討といふ事ハ聽〔ゆるし〕がたし。殊に吉岡ハ、小早川が家士〔かし〕、汝父子ハ我家人〔いへびと〕也。若吉岡の仇を討といはゞ、宮本とハ名乘がたかるべし。本性〔姓〕に復して吉岡と称〔いハ〕ずば、敵討とハいひがたし。然る時ハ、友次郎、襁褓〔むつき〕のうちより養育を蒙りし養父乃厚恩を忘るゝに似たり。武右衛門も又親子の義を斷〔たつ〕こと快〔こゝろよ〕からんや。且敵討おほせなば、小早川家へ還り仕ずば道も立〔たつ〕まじ。その時は、生立〔おひたち〕よろしき若者を他家の臣とする事、清正も快からず。それに付、我早速に淺智〔せんち〕を廻らしたり。汝等わが思慮に從ハゞ、実父が怨〔うらミ〕をも晴し、義父の恩をも忘却せず、ふたつながら全〔まつた〕かるべし。いかにや清正が議する所に就〔つく〕や否やと申されける。
 誠に清正ハ智勇のミか、仁あつて人を誣〔しひ〕ず、家人といへども、猥りに志を傷〔やぶら〕ざる人也。宮本父子背中に汗を流し、有がたさ骨に徹し畳に頭〔かしら〕をすりつけ、こハ勿体なき御詞〔ことバ〕、何事をか背き奉る者あらん、臣等がごとき者に心を兼〔かね〕させ玉ふ事のおそれ多さよ。少も違背〔いはい〕仕るまじ。
 清正莞爾として申されけるハ、古今武藝者の横死の難に罹〔かゝる〕者をきくに、みな人の憤りを受て身を失ふ。吉岡が死もさだめて旧恨〔きうこん〕の者ありて殺害〔せつがい〕したるにきハまつたり。必定そのかミ若年の時、修行經歴の間などに、劔術に立負〔たちまけ〕たるものなど多く有て、おそらくハそれらの所爲〔しわざ〕ならん。又吉岡と立合〔たちあふ〕ほどの者、ミな一流をも極めたる一家の師範人〔しはんにん〕なるべし。是につきはかるに、今より友次郎、敵討と称せずして、武藝修行の廻国を俗にハ武者巡練〔むしやしゆぎやう〕といへば、天下武者修行といひ立、まづ九州中国の武藝に名ある者のかたへ至り、それらの輩〔ともがら〕の方に、或ハ一日或ハ一旬逗留して、人の心に腹を入れ、したしミをかさね、修行にことよせ伺がふ内にハ、思ハざる外の手がかり出づる物也。天も孝俤忠信〔かうていちうしん〕を捨ず、日月いまだ地におちずば、程なく本懐を達する事、何の疑ひかあらん。武者修行の願に於は子細なく聽〔ゆるす〕べし。汝父子とくとはかれ、と申されけれバ、一座大きに感心し、武右衛門父子も、いかでか違背に及ぶべき、早速に御受を申、やがて願書をかきあらため、願ひを出しける。
 清正朝臣すなハち友次郎を召よせられ、餞別の盃などあり、首尾のこる所なく、宿所〔しゆくしよ〕へぞかへりける。

 【現代語訳】

   宮本、敵討ち願いの事 (承前)

 武右衛門が一座を見るに、着座の人々には、加藤美作、飯田覚兵衛、赤星太郎兵衛、森本義太夫、齋藤立本[以上いづれも加藤清正の重臣で、実名]、そのほか一団の豪傑が両方に列して、はなはだ厳めしい。
 清正朝臣は遥かに両人を見て[大広間か、遠い]、「先刻提出した願書は間違いなく見たが、友次郎を実父吉岡のために敵討させたいとのこと、当然ではあるけれども、退いて思慮をめぐらせば(以下のようなことである)――そなたがはじめ友次郎を養子とする時、吉岡には別に男子があったが、不幸にして父に先だって死に、今になってはその仇を討つべき人がない。義(の論理)をもって言えば、(武右衛門は)師弟の関係であり、(友次郎は)実父の仇である。そなたの一門が父子と共に出立して、敵を探し求め、報讐すべきときである。(しかし)ここの本朝[日本]の近年の例として、他家を相続する人が、養父を捨て実父の仇を討ったことは聞かない。法は一人のために私〔わたくし〕すべきではない。したがって、敵討ちということは許可できない。――ことに吉岡は、小早川の家士であり、そなたら父子は我が家人である。もし吉岡の仇を討つというのなら、宮本とは名乗りがたいであろう。本姓に復帰して吉岡と称さないと、敵討ちとは言いがたい。そうなると、友次郎は、幼児のうちから養育を受けた、養父の厚い恩を忘れたも同然である。武右衛門もまた、親子の義理の縁を断つことは、快よかろうか。さらに、敵討ちを遂げたら、小早川家へ戻って仕えないと、道も立つまい。その時は、立派に成長した若者を他家の臣とすることは、清正も快よくはない。――(しかし)それについて、私は早速に浅智恵を廻らした。そなたらが私の考えに従えば、実父の怨みも晴らし、義父の恩も忘却せず、ふたつながら全うできる。どうだ、清正の意見に就くか否か」と言われた。
 まことに清正は智勇のみか、仁があって人を誣せず[讒誣せず]、家人といえどもその志をみだりに損なったりしない人である。宮本父子は背中に汗を流し、ありがたさが骨に徹し、畳に頭をすりつけ、「これは、もったいないお言葉。どんなことでも背く者はありません。私どもごとき者に配慮してくださることの畏れ多さよ。(ご意見に)少しも違背いたしません」。
 清正が莞爾として、言われたのは、「古今の武芸者で横死の難に遭った者(のこと)を聞くに、みな人の憤りを受けて命を失っている。吉岡の死も、きっと以前から恨んでいる者あって、殺害したに決まっている。必ず、そのむかし若年の時、修行経歴の間などに、剣術に負けた者などが多くあって、おそらくはそいつらのしわざであろう。また、吉岡と立合うほどの者は、みな一流を極めた一家[流派]の師範人であろう。――(そこで)これについて計略をするに、これから友次郎は、敵討ちと称さずに、武芸修行の廻国を俗には武者修行というから、天下武者修行と口実を立て、まず九州中国の武芸に名のある者のもとへ行って、それらの連中のところに、一日あるいは一旬[十日]逗留して、人の心に探りを入れ、親しみを重ね、修行にこと寄せ、うかがっている内には、思わざる他の手がかりが出てくるものだ。天も孝俤忠信[仁義礼智の四徳に忠信孝俤を加えて成語]を捨てず、太陽も月もまだ地に墜ちなければ[つまり、世の終りでなければ、間違いなく]、ほどなく本懐を達すること、何の疑いがあろうか。(敵討ちは許可できないが)武者修行の願いには、異議なく許可しよう。そなたら父子はよく考えよ」と言われたので、その席の者らは大いに感心し、武右衛門父子も、どうして違背に及ぼうか、早速に受諾して、ただちに願書を書き改め、願いを(再)提出した。
 清正朝臣はすぐに友次郎を召し寄せられ、餞別の盃[門出の祝儀]などあり、なすべきことは全てすませて、自宅[宿所は給付屋敷]へ帰った。


巻之四 7/8 宮本父子及び門人別離を惜の圖 其二
8 ・・ 巻之四 宮本父子及び門人別離を惜の圖 其二 ・・ 7

巻之四 8/9
9 ・・ 巻之四 ・・ 8

巻之四 9/10
10 ・・ 巻之四 ・・ 9

巻之四 10/11 友次郎亡父の霊を祀圖
11 ・・ 巻之四 友次郎亡父の霊を祀圖 ・・ 10

 
   3 宮本友次郎熊木發足の事并名島高弟會于宮本事
 【原 文】

   宮本友次郎熊木發足の事
        并名島高弟會于宮本事

 宮本友次郎、天下武者修行の義を聴され、立帰れば、武右衛門あらかじめ旅行の用意をとりまかなひ、武右衛門が妻も歓〔よろこび〕のうちに、年頃の愛惜〔いつくし〕ミ淺からざるに、假初〔かりそめ〕の旅だにも、別〔わかれ〕となりてハ、かなしきならひなるを、まして何〔いつ〕の年月〔としづき〕とも帰るさしらぬ浮雲の、ゆくすゑ遠き旅の空、いかゞとおもひやられつゝ、先だつものハなミだ也。
 幼弟友之助も今年六歳、年齢よりハおとなしく、庶兄〔あに〕の別〔わかれ〕に涙ぐミ、門弟もことごとく來り集り、離別の酒盃も終りければ、其日ハ未〔ひつじ〕の刻も下りければ、すべて敵討などの首途〔かどいで〕ハ、主人より暇〔いとま〕を賜りし日に發足する事、古実〔故実〕〔こじつ〕なればとて、友次郎も心を焦燥〔いらち〕立出れば、門弟友之助を誘ひ二里ばかり送り、むまのはなむけして帰りける。
 却説〔さて〕友次郎、旅行速〔すミやか〕に名島に赴、先〔まづ〕実父太郎右衛門が墳墓に詣で、香花〔かうげ〕を手向、大きに歎き、若霊魂此下〔こゝ〕に在〔ましま〕さば、我心膽を照〔てら〕し見玉ふべし。われ襁褓のうちより父母の側〔かたハら〕をはなれ、一日も父の高恩を報ずる事あたハず、剰〔あまつさ〕へ他人のために討れたまひ、父母の葬礼をだに仕らず。これによつて心肺〔しんはい〕ともに破裂〔さきやぶ〕るがごとし。然れ共敵人〔かたき〕九天の上に隠れ九地の下に竄〔のが〕るゝといへども、さがし出し、其屍〔かばね〕を千万に切屠〔きりはふり〕て、父の怨恨〔うらミ〕を晴させ奉るべしと、牙〔きば〕を噛、眼〔まなこ〕をいからし、涙のくだる事雨のごとし。
 次に母の塚を祀り、生〔いけ〕るがごとく掻〔かき〕くどき、其後高弟等の方〔かた〕に至り、一々に礼謝をなし、旅宿〔りよしゆく〕にかへれば、吉岡が門人ことごとく友次郎が旅店〔りよてん〕に會合して申けるは、
 我儻〔ともがら〕さきに師父の横死の後、国中〔こくちう〕の者にこゝろを付て窺ひ探るといへ共、今に至りてそれぞと思ふ敵〔かたき〕の手がゝりを得ず。
 扨〔さて〕師父の行状、尤〔もつとも〕謙損〔遜〕にして強傲〔たかぶら〕ず、餘の師範たる人を謗り侮慢〔あなどら〕ず、禮を厚〔あつふ〕して諸士に交り玉ふがゆへに、曾て人と諍ひを發されたる事をきかず。一國のうち知〔しる〕もしらぬも横死を惜まざる者なし。さればとて、恨なき者がかゝる嗚呼〔おこ〕のふるまひすべしとも覚へず。
 是によつて熟〔つら/\〕考ふるに、去年八月上旬ねがひを上、摂州有馬の温泉に入湯し玉ひ、帰國の序〔ついで〕、播州姫路の城下におゐて一日逗留有し所、はからず云々〔しか/\〕の事ありて、佐々木巌流といふ者と口論發り、巌流かへつて師のために恥辱を蒙りしよし、承りおよびぬ。恐らくは這奴〔きやつ〕めが所爲〔しわざ〕なるべし。
 其所以〔ゆへ〕ハ、われ/\共師父の横死の形状〔ありさま〕を見るに、慥に後方〔うしろ〕より切付たる体にて、右の肩の上より左の脇骨〔わきぼね〕の際〔きハ〕まで一刀に斬下たり。尤勝〔すぐれ〕たる剛刀〔きれもの〕とハ覚へたれども、拳〔こぶし〕も能定りたる者の所行ならんと、検使も區々〔まち/\〕に批判せり。其余〔よ〕にハ、とゞめを刺たる刀の疵のミ也。
 此時鳴尾の荘〔やしき〕内より、刄音を聞付、侍共あまた駈出たるに駭〔おどろ〕き、敵は東西に分離〔わかれ〕て逃去しとの風説〔ふうぜつ〕也。これによつて諸人〔しよにん〕の評判〔へうばん〕とり/\にして、壹人の所爲にあらずと申す。
 こゝを以て姫路の動静〔やうす〕をうけたまハらんがため、先日人を姫路に遣したれバ、五六日の間にハ播州の飛脚かへるべし。その様子によつて發足し玉へと、懇に慰〔なぐさむ〕るにぞ、
 友次郎大きによろこび、残る所なき高弟がた乃芳意〔おんこゝろざし〕、然らバかの一左右〔さう〕によつて計較〔はかりごと〕あるべし。各〔おの/\〕の推察の如くハ、巌流がしハざに疑ひなしと、其日は皆々別れける。
 斯〔かく〕て六七日を過しけるに、高弟等きたりて告けるハ、さて今日、播州へ遣す所の飛脚、かの地の模様うけ玉り帰りぬ。先年巌流、吉岡氏と不慮のあらそひを仕出〔しいだ〕し、門人の眼前に於て面目を失ひ、其後は姫路を出奔同様に辞し、何國〔いづく〕へ參りしや、踪跡〔そうせき〕さだかに知〔しる〕者無〔なし〕となり。いよいよ巌流が所爲に疑なし。此上は巌流が行方をさがして渠〔かれ〕を討て、尊父の讐〔あだ〕を報じ玉へ。
 友次郎雀躍〔こおどり〕して申けるハ、誠に手がゝりの端〔はし〕を得たり。誰をさして敵〔かたき〕とすべきやと、はなハだ忙然たる所に、まづ其便〔たより〕を聞に於てハ、それと目的〔めあて〕定りぬ。さて我父を討たる者、巌流に相違なくば、變名〔へんめう〕したるも計がたし。父太郎右衛門が入湯の時、供〔とも〕に侍りし僕〔ぼく〕こそ、巌流が人物を見覚〔ミおぼへ〕つべし、是ハ何方〔いづかた〕に候や。
 門人共申けるハ、其事にて候、この者ハ去年の冬、暇〔いとま〕をとりて在所に帰りしが、間もなく病死して、師父に先達〔さきだつ〕たり。友次郎、それハ殘念千万。しかれどもむかしより君父の仇〔あだ〕を討事、たやすき事にあらず。唯〔たゞ〕天の照覧に任せ本意を遂べし。
 是より豫〔あらかじめ〕行李を収拾〔とりおさ〕め、諸高弟につとづとに礼謝〔れいしや〕を述、頓〔やが〕て吉日を撰びて、名島をぞ出にける。又懐ふ所ありて、宮本無三四と名乗ぬ。

 【現代語訳】

   宮本友次郎、熊木發足の事
     ならびに、名島の高弟、宮本に会う事

 宮本友次郎は、天下武者修行の件を許可され、(家に)帰ると、武右衛門は、あらかじめ旅行の用意をととのえてやり、武右衛門の妻も(許可が出た)歓びのうちにも、長年のいつくしみは浅くはない(子である)、「一時の旅でさえ、別れとなっては、悲しいのがあたりまえなのに、まして帰るのはいつになるかわからない浮雲のようなもの、行く末遠き旅の空、(この子は)どうなることか」と思いやられて、先立つものは涙である。
 幼弟・友之助も、今年六歳、年齢よりはおとなびて、兄との別れに涙ぐみ、門弟もことごとく来て集り、離別の酒盃(の儀式)も終ったので、その日は未の刻[午後二時]も過ぎたので、およそ敵討ちなどの門出[ルビによる。首途は義経ゆかりの首途八幡宮(京都)で有名]は、主人から暇をもらった当日に出発することが、古くからの先例だからと、友次郎も気が急いて出立する。門弟は友之助を誘い、二里[八km]ほど送り、馬のはなむけ[壮行儀礼]をして帰った。
 さて、友次郎はすみやかに旅行して名島に到着、まず、実父太郎右衛門の墓に詣で、香花を手向け、大いに歎き、「もし(父の)霊魂がこの下におられるなら、我が心膽[胸中]をご照見したまえ。私は幼児のうちから父母のお側を離れ、一日も父の高恩を報ずることができず、そのうえ、人に討たれましたのに、(私は)父母の葬礼さえできませんでした。このため、心臓も肺もともに破裂しそうです。しかし、敵が九重の天の上に隠れ九重の地下に逃れていようとも、さがし出し、その屍体を千万に切り刻んで、父の怨みをお晴らしします」と、歯ぎしりし眼を瞋らし、涙の下ること雨のごとし。
 次に、母の塚[墓]に参り、(まるで母が)生きているがごとくかきくどき[哀切に語りかけ]、そののち高弟らの家に行き、一人ひとりに感謝の礼をして、旅宿に帰った。すると、吉岡の門人がことごとく友次郎の旅館へ集まって来て、(友次郎に)言うには、
 「我々は、さきに師父(吉岡)の横死の後、国中の者に気を付けて窺い探りましたが、今になっても、それぞと思う仇の手がかりを得ていません。
 さて、師父の行状は、まったく謙遜にして傲ぶらず、他の師範たる人を謗ったり侮ったりせず、礼を厚くして諸士と交際されたから、かつて人と諍いをおこされたということを聞かない。この国のうちで、知る人も知らぬ人も、その横死を惜しまない者はない。さればとて、恨みなき者がこんな不敵な[意訳。原文は「嗚呼」。通例はをこ(嗚滸)は馬鹿げた、不届きなの意]ふるまいをするとも思えません。
 そこで、よくよく考えるに、去年八月上旬(師は)願いを出して、摂州有馬の温泉に入湯なさって、帰国のついでに、播州姫路の城下で一日逗留されたところ、はからずもしかじかのことがあって、佐々木巌流という者と口論が起き、巌流は思いがけず師によって恥辱を蒙った、と聞いています。おそらくは、そいつのしわざでしょう。
 その理由は、我々が師父の横死のありさまを見たところ、たしかに後方から切りつけたようすで、右の肩の上から左の脇骨の近くまで、一刀で斬り下げている。なるほど刀剣は勝れた剛刀とは思うが、拳がよく定まった者[達人]の所行だろうと、検使もそれぞれに判定しました。その(刀傷の)ほかには、とどめを刺した刀の疵のみでした。
 このとき、鳴尾の屋敷内から、(刀の)刄音を聞きつけた侍たちが多数駈け出たのに驚いて、敵は東西に分かれて逃げ去ったとの風説です。これによって、諸人の噂はいろいろだが、一人のしわざではないと言います。
 そこで(我々は)、姫路の(巌流の)動静を知るために、先日人を姫路に派遣しましたので、五、六日の間には播州の飛脚が帰るでしょう。その(報告の)様子によって、(播州姫路へ)ご出発なされ」
と、懇ろに慰さめるので、友次郎は大いによろこび、
 「念の入った高弟がたの御こころざし(感謝します)。それでは、その一報[一左右は報せの意](の次第)によって、今後どうするか決めましょう。皆さんのご推察の通りなら、巌流のしわざに疑いなし」と、その日はそれで解散した。
 かくて、六、七日が過きたところ、高弟らが来て知らせるには、「さて今日、播州へ送った飛脚が、彼地の様子を聞いて戻りました。先年、巌流は吉岡氏と不慮の争いを仕掛けて、門人の眼前で面目を失い、そののちは姫路を出奔同様に去り、どの国へ行ったのか、行方を定かに知る者はいない、とのことです。(とすれば)いよいよ巌流のしわざに疑いなし。このうえは、巌流の行方を探して彼を討ち、尊父の讐(あだ)を報じなされ」。
 友次郎が小躍りして[ルビによる。喜んで]言うには、「まことに手がかりの端緒を得ました。誰を指して仇とすべきかと、はなはだ茫然としていたところへ、まずその情報を聞きましたので、それと目当て[ルビによる。目的は対象の意]が定まりました。さて、我が父を討った者が、巌流に相違なければ、変名しているかもしれません。(それに、私は巌流の顔を知らないけれど)父太郎右衛門が(有馬)入湯の時、供に付いて行った下男なら、巌流の人物[ここは容姿人相の意]を見覚えているでしょう。この者はどこにいますか」。
 門人どもが言うには、「そのことです。この者は去年の冬、暇をとって在所に帰りましたが、間もなく病死して、師父より先に逝ってしまいました」。友次郎は(言う)、「それは残念千万。けれども、昔から君父の仇を討つことはたやすいことではありません。ひたすら天の照覧に任せて、本意を遂げることにします」。
 それから(友次郎は)あらかじめ荷物をまとめ、高弟それぞれに感謝の礼を述べて回り、それから吉日を撰んで、名島を出立した。また、思うところがあって、「宮本無三四」と名乗るようになった。


巻之四 11/12
12 ・・ 巻之四 ・・ 11

巻之四 12/13 名島高弟宮本に会する圖
13 ・・ 巻之四 名島高弟宮本に会する圖 ・・ 12

巻之四 13/14
14 ・・ 巻之四 ・・ 13

 
   4 宮本無三四与白倉源五左衛門試劔事(1)
 【原 文】

   宮本無三四与白倉源五左衛門試劔事

 本邦、豊太閤の覇權、一たび振ひて四海漸やく掌握に皈〔き〕すといへ共、いまだ牛を桃林〔とうりん〕に放つに至らず。かるがゆへに、國家〔こくか〕武を講ずる事、朝夕〔てうせき〕耳に囂〔かまびす〕し。
 備前國岡山の城は浮田備前守豊臣秀家卿の藩鎭〔はんちん〕たり。家士をの/\武術を操り、晝夜教場〔けうじやう〕に稽古の聲絶るときなし。
 中にも白倉源五左衛門といふものあり。渠〔かれ〕吉備津宮の神社の夢想の神傳〔つげ〕を感じたりと称して、一流を起し、吉備神道流〔きびしんとうりう〕と名付、一國の上に關〔くわん〕たり。これによつて其名隣國に轟き、主人の覚へ他に異なりしかば、猥りに驕慢にして、人を見る事活〔いき〕たる蟲とも思ハず。しかりしほどに、諸士大小〔なに〕となく憎ミける。
 天正十九年九月十七日、門弟等をあつめ、分列〔ぶんれつ〕して二ツに頒〔わけ〕、西方〔にしのかた〕東方〔ひがしのかた〕とし、一人づゝ出し試合をさせ、勝たるときは圍〔かこミ〕の内に殘り、交〔かハ〕る/\出て、これを打倒す。もし續けて三人に打勝たる者にハ褒美の品を与へ、又ハ秀家卿へ言上して賜り物などあり。如斯〔かく〕する事一月の内に六ケ度也。それを部試合〔わけじあひ〕といふ。此日恒例乃日なるがゆへに、門人早朝より來り、木太刀の音第外〔やしきのほか〕に聞え、大道往來の人も耳をそばだつるばかり也。
 于時〔ときに〕ミや本無三四は名島を出てより、鎮西諸藩〔ちんぜいしよばん〕の國々をめぐり、中國にわたり、周防、長門は申におよバず、藝州備後を經て備中に至り、國々乃豪傑と藝術を競べ試るに、一人として手にたつものなく、甞て敵〔かたき〕の手がゝりもなかりしかバ、今ハ上方へと志し、岡山の城下にさしかゝるに、城中の富〔とミ〕たる状〔さま〕他國にかハり、市廛〔まち〕の賑ハしき事いふばかりなく、弓矢を肩にかけ馬をひかせたる士〔し〕、東西に奔走しければ、おぼへず彼方此方〔かなたこなた〕と徘徊し、忽ち白倉源五左衛門が門前に出來〔いできた〕る。
 然に門の内正面に玄關有て、稽古場ハ門長屋〔もんながや〕にあり、往還の道よりは墻〔かべ〕一重の裏〔うち〕なり。壮士の叫ぶ聲街〔ちまた〕の邊〔へん〕に聞えしかバ、無三四門外に立とゞまり、心に思ひけるは、この裏面〔うちら〕全く諸士の教場〔けいこば〕ならん。何人の何流を教授するやらん、見たき事なりと。やがて門のうちをうかゞふ所に、門番とてもなき平士の内、これ幸ひ也、物陰より闖〔のぞき〕ミるべしと、教場の邊に彳〔たゝず〕ミ、すこしばかりの壁の壊〔こぼ〕れより目を斜〔なゝめ〕にして窺ひ居る。
 此時一人の若年の壮士内より出、忽ち無三四を見付、高らかに詈りけるハ、汝何者なれバ門内へ忍入、其上我々の藝古〔けいこ〕を竊〔ぬすミ〕見るのミならず、壁を壊〔こぼち〕たるハ狼藉千万也。又汝の体〔てい〕を見るに、背中にハ少しばかりの行李〔にもつ〕を負、面体〔めんてい〕も見馴ざれバ、必定他國の者と覚たり。左〔さ〕あれば弥もつて不審〔いぶかし〕と、惡々敷〔にが/\しく〕とがむれバ、無三四急〔きう〕に行李をおろし、某は旅人〔りよじん〕也。曾て當所の土地案内を存ぜず、過て衙内〔やしきまち〕に入、その上出〔いづ〕る方角を失ひ、思ハず貴第〔きてい〕の門外に通りかゝり、高らかなる武藝の練聲〔かけごへ〕を承り、扨々〔さて/\〕このもしき事かなとぞんじ、不慮の外に御門内に旱脚〔どろずね〕を踏込、各〔をの/\〕の操練〔けいこ〕を拝けんいたしたり。此段いくへにも御了簡あるべし。壁を破りて竊〔ぬすミ〕見たりとの御咎ハ近黎〔ちかごろ〕迷惑なり。もとより壊〔やぶ〕れたる透間よりさし覗きたるばかり也と、慇懃に詫けれども、更に少しも聞入れず、汝まづこなたへ來るべしと、無三四が手を取て引寄〔よす〕る。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

  宮本無三四、白倉源五左衛門と剣を試合う事

 本邦(において)豊太閤(秀吉)の覇権がいったん確立し、四海[全国]がようやく掌握に帰すとはいえ、いまだ牛を桃林に放つ[周の武王の故事、戦争の時代は終ったと示す]に至らない。そんなわけで、それぞれの国では武芸を鍛錬して、朝に夕に、耳にやかましいほどである。
 備前国岡山の城は、浮田(宇喜多)備前守豊臣秀家卿[実名。卿は従三位・中納言の官位による。一五七三〜一六五五]の居城である。家士[家臣の武士]はそれぞれ武術を操練し、昼夜教場に稽古の音声が絶えるときがない。
 中でも、白倉源五左衛門という者があった。彼は吉備津宮の神社[吉備国一宮。現・岡山市吉備津]の夢想の神伝[夢告]を感じたと称して一流を起こし、吉備神道流と名づけ、国中の武芸の中心[関は漢方用語、臍の周辺三寸]となった。これによって、その名は周辺の国々に轟き、主人(秀家)の信頼が他とは異なるので、むやみに驕慢で、人を見ても生きた虫とも思わない。そういうことだったので、(家中の)諸士はあれこれとなく(白倉を)嫌っていた。
 天正十九年九月十七日、(白倉は)門弟らをあつめ、二つに列を分け、西の方・東の方とし、一人づつ出して試合をさせ、勝ったときは囲いの内に残り、代わる代わる出て、相手を打ち倒す。もし続けて三人に勝ったら、その者には褒美の品を与え、あるいは秀家卿へ言上して、賜り物などがあった。こうするのは、ひと月の内に六回である。それを部試合[ルビはわけじあい。対抗戦形式の試合]という。この日は、恒例の(部試合の)日なので、門人が早朝から来て、木太刀の音が屋敷の外へ聞こえ、大道往来の人も耳をそばだてるほどである。
 ときに、宮本無三四[以後、友次郎は無三四である]は、名島を出てから、九州の国々[鎮西諸藩は高踏表現]を廻り、中国[むろん日本の]にわたり、周防・長門はいうに及ばず、芸州・備後を経て備中に至り、国々の豪傑と芸術[むろん武術の]を競い試合をしたが、一人として手応えのある者がなく、また全く仇の手がかりもなかったので、「では、上方[京大坂]へ行こう」と、(備前)岡山の城下を通りかかったが、城中の富んだ様子は他国と異なり、市街の賑わしいことは言葉ではいいがたいほどで、弓矢を肩にかけ馬を引かせた武士たちが、東西に奔走しているので、(無三四は)思わずあちこちと徘徊しているうちに、不意に白倉源五左衛門の門前に出て来たのである。
 ところで、門内の正面に玄関があって、稽古場は門長屋[門が長屋門で、長屋は母屋とは別棟の道に面した建物]にあり、往来の道からは壁一重(を隔てた)内である。壮士の叫ぶ声は、街の周辺に聞えるので、無三四は門外に立ち止って、思ったのは、「この(壁の)裏側はまさに諸士の稽古場であろう。誰が何流を教授するのだろう、見たいなあ」[まだ無三四はこれが白倉の道場だとは知らない]と、そのまま門の内部を窺っていると、門番さえもいない平士[並の身分の武士]の家である。これは幸いだ、物陰から覗いて見ようと、稽古場のあたりに立って、少しばかりの壁の破れから目を斜にして覗いていた。
 このとき若い壮士が一人、中から出て来て、すぐに無三四を見つけ、声高に怒鳴ったのは、「おまえは何者だ。門内へ忍び入り、そのうえ、我々の稽古を盗み見るだけではなく、壁を壊したのは狼藉千万である。また、おまえの風体を見ると、背中には少しばかりの荷物[ルビによる]を背負い、面体[顔]も見馴れないので、たぶん他国の者だと思う。そうであれば、いよいよ怪しい」と、苦々しく咎めるので、無三四は急いで(背に負った)行李をおろし、「それがしは旅の者です。まったく当所の地理を知らないので、過まって屋敷町[ルビによる。衙内は漢流]に入り、そのうえ、出る方角を見失い、知らずにお宅の門外を通りかかり、高らかな武芸の掛け声を聞き、「さてさて、好ましいことだな」と思って、知らぬ間に御門内に泥脛[ルビによる]を踏込み、皆さんの稽古を拝見いたした。このことは幾重にもご容赦いただきたい。(ただし)壁を壊して盗み見たとのお咎めは、はなはだ迷惑です。もともと壊れていた隙間から覗いただけです」と、慇懃に詫びたけれども、一向に少しも聞き入れず、「おまえ、まずこっちへ来い」と、無三四の手をつかんで引き寄せる。


巻之四 14/15
15 ・・ 巻之四 ・・ 14

巻之四 15/16 宮本竊に白倉が演武を観圖
16 ・・ 巻之四 宮本竊に白倉が演武を観圖 ・・ 15

 
   5 宮本無三四与白倉源五左衛門試劔事(2)
 【原 文】

   宮本無三四与白倉源五左衛門
               試劔事 (承前)

 此爭を聞て、事がな笛ふかんと思ふ壮士〔わかざむらい〕共、ばら/\と走出、何事ぞと聲々に咎〔とがむ〕るを、初〔はじめ〕の男如々〔しか/\〕の趣也と申けるにぞ、皆々それハ狼藉也、何にもせよ今戦國の最中、諸国の間者〔かんじや〕、又ハ細策〔さいさく〕の儔〔たぐひ〕も計がたし。門内へ案内もなく忍び入ハ、畢竟盗賊の所業也。打殺たり共、何の苦しかるべしと、手毎〔てごと〕に刀を携て駈いづるを、教場の内より高聲〔かうしやう〕に、各〔おの/\〕麁忽のふるまひせらるゝ事なかれと、左右を制し、年齢四十余〔あまり〕の男立出たり。
 無三四、頭〔かうべ〕を上て其人柄を見るに、身材〔ミのたけ〕六尺有餘〔ゆたか〕にミへ、面〔おもて〕の貌〔かたち〕圓く、巨眼〔おほまなこ〕に垂たる頬腮〔ほうあぎと〕の邊に髯〔ひげ〕生〔おひ〕、腕の上にも力毛〔ちからげ〕多く生じ、双髪にして其模様全く常体〔つねてい〕の男にあらず。諸士等ミな/\靜りぬ。
 この時無三四に向ひて申けるハ、某は教場〔けいこば〕を預る所の師役〔しやく〕、白倉源五左衛門と云ふ者也。足下〔ごへん〕何れの國の旅人〔りよじん〕、私〔わたくし〕の旅行か、又主人の命を蒙りて何方〔いづかた〕へぞ趨〔おもむく〕人か、其子細を語らるべし。
 無三四答て、某ハ仕官の人にあらず。諸國偏歴〔徧歴〕の武者修行也。性名〔姓名〕ハ追て名乗べし。某鎭西より中國に來る道すがら、足下〔ごへん〕の武名甚高し。これによつて當國に來る本意ハ、第一ハ足下に隨逐〔ずいちく〕いたし、我及ばさる所あらば、教授にも預り、且ハ浮田家の武威をも拝見いたすべしとぞんじ、明日〔めうにち〕は足下を訪ふべき処、今日はからず貴館〔きくわん〕に來り、求ざる外、對面をいたす事ハ深き因縁ありとこそ覚ゆれ。伏て希ハくは、我を御門人の中に加へ玉れかし。去ながら、某とても一流の印可を得たる者也。足下の武藝に及バざる所あらバ、謹で師として仕へ申べし。また我〔わが〕未熟の藝なりといへども、足下我に勝玉ふ事あたハずば、腰を折膝を屈て師として仕ん事もいたづらの月日を送るに似たり。願ハくは、我に御立會たまハらば望外の歓也と、恐るゝけしきもなく申ける。
 白倉源五左衛門、奸曲の人なるが故に、唯今諸士を制して諍〔あらそひ〕を止〔やめ〕させたる事、全くよき心にあらず。今四海おだやかならず、各國互に間者を用る時なれば、無三四が眼〔まなこ〕ざし尋常〔よのつね〕にかハり、すさまじく、殊に旅行の爲体〔ていたらく〕を見て、恐らくは敵國の間者なるべし、事を左右によせて誘落〔すかしおと〕し、間者ならバ擄として、恩賞に預り、如〔もし〕左なきに於てハ、打殺して娯〔たのし〕まんものをと、態と諸士を靜めて事の子細を問に、思ひの外なる無三四が返答、師弟互に顔見合〔ミあハせ〕、案に相違の風情也。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

   宮本無三四、白倉源五左衛門と
           剣を試合う事 (承前)

 この争いを聞いて、「何でもよい、騒ぎを大きくしてやろう」[事がな笛吹かん、前出註参照]と思う若侍どもが、ばらばらと走り出て、「何ごとだ」と声々に詰問する。はじめの男が、「しかじかのわけだ」と答えると、(若侍ども)全員が、「それは狼藉である。何れにもせよ、今は戦国の最中だ。諸国の間者[間諜、スパイ]または細策[細作・忍びの者]の類いかもしれない。門内へ案内もなく忍び入ったのは、つまりは盗賊の所業である。打ち殺しても、かまわないぞ」と、手に手に刀を携えて駈け出るのを、稽古場の中から、声高に、「おのおの方、麁忽の振舞い[無思慮な行動]をしてはならないぞ」と左右を制し、年齢四十余りの男が出て来た。
 無三四が頭を上げて、その姿を見ると、身の丈は六尺ゆたか[一・八m以上]に見え、顔面のかたちは丸く、巨きな眼、垂れた頬顎の辺に髯が生え、腕にも体毛が多く生えて、総髪で、その様子は全く常態の男ではない。諸士らは全員静まった。
 このとき(大男が)無三四に向って言ったのは、「それがしは稽古場を預る師範役、白倉源五左衛門と云う者である。貴殿はどこの国の旅人か。私(わたくし)の旅行か、あるいは主人の命を受けて[公用で]どこかへ行く人か、そのわけを語られよ」。
 無三四は答えて、「それがしは仕官する者ではない。諸国遍歴の武者修行(の者)です。姓名は追って名乗りましょう。それがしが九州から中国に来る道すがら、貴殿の武名は非常に高かった。そこで、当国に来た目的は、第一は貴殿に随逐して[門人になって]、自分の及ばないところがあれば、教えを受け、そしてまた浮田家の武威も拝見いたそうと思い、明日は貴殿を訪ねるつもりのところ、今日はからずも貴邸に来て、思いもよらず対面できたことは、深い因縁があると思います。伏して希わくは、私を御門人の中に加えてください。さりながら、それがしとても、一流[ある流派の意]の印可を得た者です。貴殿の武芸に及ばないところがあれば、謹しんで師として仕えましょう。また我が未熟の芸なりといえども、貴殿が私にお勝ちになれないとすれば、腰を折り膝を屈がめて師として仕えることも、無駄に月日を送るようなもの。願わくは、私にお立合いくだされば望外の歓びです」と、恐れるようすもなく述べた。
 白倉源五左衛門は、奸曲[悪賢い、よこしま]な人なので、さきほど諸士を制して諍いをやめさせたのは、まったく善意のことではない。いま全国は不穏な状況、各国が互いに(情報活動に)間者を使う時代なので、無三四の眼差しが尋常ではなくすさまじいものであり、ことに(無三四の)旅の姿を見て、「恐らくは敵国の間者だろう。うまくだまして油断をさせ、間者であれば捕虜にして恩賞に預り、もしそうでない場合でも、打ち殺して娯楽にしよう」と、わざと諸士を鎮めて、ことの仔細を問うたのだが、意外な無三四の返答。師弟は互いに顔を見合せ、案に相違の表情である。


巻之四 16/17
17 ・・ 巻之四 ・・ 16

巻之四 17/18
18 ・・ 巻之四 ・・ 17

巻之四 18/19 無三四白倉が門弟子を打倒圖
19 ・・ 巻之四 無三四白倉が門弟子を打倒圖 ・・ 18

巻之四 18/19
   ・・ 巻之四 ・・ 19

 
   6 宮本無三四与白倉源五左衛門試劔事(3)
 【原 文】

   宮本無三四与白倉源五左衛門
               試劔事 (承前)

 白倉も元來無双〔ぶさう〕の大膽者、其上近國に是が右に出る者なく、無三四が若年なるを見て、腹に罵り、しや此小兒〔せうに〕、ことし生れの犢〔こうし〕、虎のおそろしきを知らず。木刀をもつて打臥〔うちふせ〕、手足をうち折、半死半生の苦しミをあたへんとおもひけれバ、敢て怒りの色をあらハさず、扨は修行体〔しゆぎやうてい〕の人に在〔おハ〕せしよな、それとはぞんぜず、門人等の失礼をゆるし玉へ。われ速に手を交〔まじ〕ゆべけれ共、主君の命を蒙り一國の上に師範する身として、最初より出合申さんも、主人への聞えあり、まづ我高弟と試合玉へ。自然〔しぜん〕門人等に勝玉ふ事能ずバ、當所にとゞまりて修行有べし。足下出所〔しゆつしよ〕性名〔姓名〕を名乘玉へ。
 無三四聞て、某万が一勝を得ば、輟〔とゞま〕らずして去べし。もしとゞまりて仕〔つかふ〕る時は師なり。然らバ師ハすなハち父のごとし、いかでか出所性名を申さゞらん。勝負の有無によつて名をなのるべし。御門人との試合、少しも異論なし。扨某が流義ハ両刀を用ひ候。對手は眞劔にても、此方ハ木刀也。御門人よりまづ次第に御立合賜ハれと、最〔いと〕穏に申にぞ、列座の高弟、渠が言語〔げんぎよ〕の驚駭〔きやうがい〕する氣色なきに、底氣味〔そこきミ〕わるく、師匠の指圖を守り居る。
 源五左衛門、列座をながめ、福田十左衛門殿出られよ、と言〔ことば〕の下より、十左衛門袴の裾取て、股の上に高く挾ミ、木刀を斜〔しや〕に構へ、教場に躍入。無三四、座中の門人に一礼して曰、旅行といへ共、われ又つかひ慣たる木刀あり。荷行李〔にがうり〕の上にさし置たり。是を以て御相手に、といふより早く立上り、行李〔にもつ〕の中より舌〔した〕を紋に染たる三ツ立の革袴を取出し、行装〔たびよそをひ〕の脚胖〔はゞき〕を脱すて、其儘袴を著し、二本の木刀左右に提〔ひつさ〕げ立向ふ。
 白倉が門人またゝきもせずながめ居る。両方互ひに聲をかけ、間合を詰て進ミ寄、福田先〔せん〕を取られじと、無三四が頭上へ一すじに打くだす。無三四、左劔〔さけん〕を上て是を隔〔へだて〕、とび込とミる間〔ひま〕もなく、右劔〔うけん〕の來〔きたる〕こと石火の光りよりもはやく、たちまち鉄面のうへ脳骨〔のうこつ〕を撃れて、福田十左衛門木刀引さげながら、尻居にどふと倒れたり。流石に眼〔まなこ〕はくらめども、疼〔いたミ〕を忍びて立あがり、すご/\として引退く。
 此有様に僻易し、師弟をのをの歎息し、暫〔しばし〕忙〔あき・茫〕れて居たりける。源五左衛門大きに焦燥〔いらち〕、村山源右衛門殿出られよ。村山も當惑の内に怒りを起し、たとへ此者三頭六臂の天魔なり共、何ほどの事有べし、微塵になして呉んずと、同く圏〔かこミ・圍〕に躍り入り、去來参らふ、といふよりはやく、無三四が眉間に打おろすを、無三四再び左劔を以てこれを凌ぎ、初〔はじめ〕の手段にすこしもかハらず、右劔をもつてしたゝかに打居〔すへ〕れば、村山源右衛門頭上をうたれて引しりぞく。
 両人が負ざま更に同様なりしかば、今ハ門弟顔色〔がんしよく〕かハり、なまなかなる者を咎だてして、けつく禍ひを引出したることのうたてさよと、思ハぬものハなかりける。源五左衛門、心焦沸々的、これより高弟かハる/\立出るに、高田千之介、福島金左衛門、森脇左十郎、浮田源兵衛、猪子内匠・貝沢万右衛門、すべて十八人、出れば打れ、交〔かハ〕れば敲〔たゝ〕かれ、今ハミな/\言語〔げんぎよ〕も絶、何と仕〔し〕いだす態〔わざ〕もなし。
 白倉大きに聲をあげ、まことに某、此年月〔このとしつき〕劔術鍛錬の人に出合といへども、いまだ足下〔そくか〕のごとき古今未曾有の人に出合ず。更に凡夫の所爲とも覚へず。此上は某が番なり。しかれども、最前よりあまたの門人たちかハりて、足下一人を攻まいらすれば、さだめてつかれ玉ふべし。まづ茶をももゐて休息し玉へ。われ追付試合〔しあふ〕べし。
 無三四答へて、まことに未練の我藝、これ一時の僥倖〔こぼれさいはひ〕のミ。しからば仰にしたがひ、休息のうへ先生の太刀筋拝見いたすべしと、少時〔しばらく〕息をやすめける。

  繪本二島英勇記 卷四 終

 【現代語訳】

   宮本無三四、白倉源五左衛門と
           剣を試合う事 (承前)

 白倉も元来無双の大膽者[豪胆な性格の者]で、そのうえ近国に彼の右に出る者はなく、無三四が若年なのを見て、腹の中で罵倒し、「くそ、この赤児め。今年生れたばかりの子牛、虎のおそろしさを知らんな。木刀で打ち臥せ、手足をうち折り、半死半生の苦しみを味わせてやろう」と思ったので、あえて怒りの色をあらわさず、「さては修行体[武者修行の姿]の人でありましたな。それとは存ぜず、門人等の失礼をゆるしたまえ。私が速やかにお相手をすべきだが、主君の命をうけて一国の師範をする身としては、最初から立合うのも、主人への聞えが悪い。まず先に、我が高弟と試合してください。もし門人らにお勝ちになれなかったら、当所にとどまって修行しなされ。(では)貴殿の出所[出生地]と姓名を名乗っていただきましょう」。
 無三四はこれを聞いて、「それがしが、万が一勝ちを得れば、(ここに)とどまらずに去ります。もしとどまって仕える時は、師です。そうなると、師は父も同然、どうして出所・姓名を申さないでしょう。勝負の結果次第で名を名乗ります。ご門人との試合は、少しも異論はありません。さて、それがしの流儀は、二刀を使います。相手は真剣でも、こちらは木刀です[巻之七参照。これは話の先取り]。(では)ご門人からまず、順番にお立合いください」と、きわめて穏やかに言うので、列座の高弟は、彼の言葉に驚くようすがないのが、底気味悪く[不気味に感じ]、師匠の指図を守ってそこに(控えて)居る。
 源五左衛門は、列座を見渡し、「福田十左衛門殿、出られよ」と言うと即座に、十左衛門が袴の裾を取って、股の上に高く挾み、木刀を斜(しゃ)に構えて稽古場に躍り入る。無三四は、座中の門人に一礼して曰く、「旅行中とはいえ、私には使い慣れた木刀があり、荷行李の上に差して置いています。これでお相手に」と、言うより早く立ち上り、荷物の中から、笙舌を紋に染めた三つ裁ちの革袴[皮製の軽衫]を取り出し、旅装の脚胖を脱ぎすて、すぐさま袴を著け、二本の木刀を左右にひっさげて立ち向う。
 白倉の門人らは瞬きもせず見詰めている。両方互いに声をかけ、間合いを詰めて進み寄り、福田は、先[せん。先制の手]を取られまいと、無三四の頭上へ一筋に打ち下す。無三四は、左剣[左手の木刀]を上げてこれを防ぎ、飛び込むと見る間もなく、(無三四の)右剣[右手の木刀]の襲うこと、石火[火燧石の火]の光よりもはやく、たちまち福田十左衛門は鉄面[顔面防具]の上、頭骨を撃たれて、木刀をひっさげたまま、尻もちをついてどうと倒れた。さすがに目が眩んだが、苦痛を忍んで立あがり、すごすごと退きさがる。
 この有様にたじろいで、師弟はおのおの歎息し、しばし呆然としている。源五左衛門は大いに焦れて、「村山源右衛門殿、出られよ」。村山も当惑のうちにも怒りを起し、「たとえ、この者が三頭六臂[三つの頭・六つの腕。つまり、二刀の両手使いよりすごい?]の天魔であろうと、何ほどのことがあろうか。こっぱ微塵にしてやる」と、同じく囲みに躍り入り、「いざ、参ろう」と言うよりはやく、無三四の眉間に打ちおろすのを、無三四は再び左剣でこれをしのぎ、さっきの手段[仕方、方法]とすこしも変らず、右剣でしたたかに打ちすえると、村山源右衛門は、頭上を打たれて引き退く。
 (福田・村山)両人の負け方がまったく同様なので、今や門弟の顔色が変り、「得体の知れぬ者に文句をつけて、結局禍いを引き出したのは、情けないことよ」と、思わぬ者はなかった。源五左衛門は、心がふつふつと焦れて[心焦沸々的は漢語]、それから高弟を代わる代わる出す。高田千之介、福島金左衛門、森脇左十郎、浮田源兵衛、猪子内匠、貝沢万右衛門ら、すべて十八人、出れば打たれ、代れば叩かれ、もはや全員絶句して、何も仕掛けるわざもない。
 白倉は大きく声をあげ、「まことに、それがしはこれまで長年(さまざまな)剣術鍛錬の人に出合ったが、いまだ貴殿のような古今未曾有の人に出合ったことはない。まったく凡夫のわざとは思えない。こうなれば、それがしの番です。けれども、最前より多数の門人たちが代わる代わる貴殿一人を攻めましたので、きっとお疲れのことでしょう。まず、茶でも飲んで休息してください。私は追っつけ試合いましょう」。
 無三四は答えて、「まことに未練[未熟]の我が芸です。これは一時の僥倖にすぎません。しからば仰せにしたがい、休息のうえ、先生の太刀筋を拝見いたしましょう」と、しばらく休息した。

  絵本二島英勇記 卷四 終




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