宮本武蔵 資料篇
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[資料] 繪本二島英勇記 巻之三  Back    Next 

 巌流に吉岡が暗殺されて、この巻之三は場面を一転、宮本武右衛門とその養子・友次郎に話題が移る。
 師匠吉岡の二歳の次男を養子にもらった宮本武右衛門は、その子に愛情を傾けて教育すること、まったく尋常ではなく、少年友次郎は成長するにつれて、武芸に早熟の天稟を現わし、宮本の高弟にもかなうものがいなくなり、さらには父・武右衛門と肩を並べるほどの腕前になった。
 宮本武右衛門は主計頭「佐藤」清正に仕えていたが、清正が肥後国「熊木」へ移封となって、宮本父子も肥後へ移住した。これが天正十六年三月、友次郎は十七歳である。とすれば、この吉岡改メ宮本友次郎くん、元亀三年生れの申年で、同じ申年生れのモデルの宮本武蔵よりも一回り(十二歳)年長、というのが物語上の設定らしい。
      宮本武蔵 → 宮本無三四
      申年(天正十二年) → 申年(元亀三年)
 こういうズラし操作は、むろん自動的に遡行を誘発するから、逆にモデルを強調させるわけで、それは、熊本→熊木、加藤→佐藤、木下→此下等々のズラしと同じ操作である。
 さて、宮本家肥後移住からまもなく、友次郎は阿蘇岳を見物したいと、父に願って、七日ほどの暇をもらい一人で観光旅行に出る。すると、かねがね友次郎の武芸の評判が高いことを心憎く思っていた家中の腕自慢の武士四人が、友次郎を襲って恥をかかせてやろうと、城下郊外で待ち伏せていた。
 覆面の四人が襲撃すると、友次郎は圧倒的な強さで、彼らを手もなく打ち倒す。負けた連中は、これは強盗ではなく腕だめしなのです、命は助けてくれと、ひら謝りに詫びるので、友次郎を彼らを赦して放免してやる。
 さて友次郎はこの襲撃事件など気にせず、阿蘇岳に登って絶景を楽しむ。この巻では、風土記逸文や日本書紀への言及など、著者の国学の知識の披露もあって、読本独特の衒学趣味もなきにしもあらず、それが興味深い。小説は、本来、何を書いてもよい無制約なジャンルなのである。
 阿蘇岳とその周辺を探訪したあと、友次郎は熊木へ帰る。その夜、先日襲撃を受けた場所を通りかかると、またもや、友次郎は襲われた。先日の者に加えてこんどは十六人の徒党であり、しかも弓矢の飛道具で攻撃してきたのである。どうしても友次郎を殺そうというわけである。
 しかし友次郎は即座に一計を案じ、まず彼らに矢を射尽くさせておいてから、神通の早業でその十六人をことごとく打ち倒す。しかし友次郎は彼らを負傷させても、殺さず命まではとらなかったが、徒党を組んで襲撃した者らは、その後世間の噂が立って熊木城下に居づらくなり、傷が癒えると出奔せざるをえなかった。
 もう一つのエピソードは、この多敵の戦闘で友次郎が二刀を使って、自覚するところがあり、それが宮本二刀流の起源だとする話である。ところが巻之一で、父吉岡も二刀を使っているのは絵図にもある通りである。そのあたりの些事には頓着しないのが、本書の著者である。
 さて、友次郎はその後も鍛錬に励み、その芸術(martial arts)は、父・武右衛門よりはるかに勝るまでになったのだが、やがて変な夢をみるようになり、心が騒ぐ毎日である。端午の節句で門人たちも大勢集まった会のとき、友次郎は、父が猪に乗って山に登るという夢を見たが、これは吉凶どちらの徴候なのか、と問い語り。ともあれ、そんな話をしていると、そこへ、友次郎の実家のある筑前国名島から、飛脚が到来する。
 飛脚が持参したのは、名島の吉岡門下の高弟らの書状。そこではじめて、友次郎は実父吉岡太郎右衛門が暗殺され、そのうえ実母まで悲嘆して死んだことを知る。
 宮本武右衛門も泣いて悲しみ、吉岡は師匠であり、自分が師の敵を討つべきだが、仕官の身の上だから自由が利かない。友次郎にとっては実父の仇である。お前は一日も早く名島へ出発しろ。ただし、まず主人清正の許可を得なければならない。そこで父子は敵討ちの願書を作成して、清正に提出する。――というところまでが、この巻の話。
 この巻で、ようやく宮本友次郎(無三四)が登場し、かつ彼を中心に物語が進行するようになる。そして、前巻の結末がこの巻の結末に接合されることにより、いよいよ主役が起動するのである。
 ところで、友次郎が見たという、父吉岡が猪に乗って山に登るという夢は、いったい何か、という問いがあろう。本書にいちおうその絵もあり、関心のある方のために解説しておけば、これは和気清麻呂伝説に関連づけられよう。
 すなわち、和気清麻呂は道鏡との抗争に破れ、足筋を切断されて遠く大隅国に流刑となる。大隅への道中、宇佐八幡の神託により豊前の温泉で湯治せよと告げられ、そこに現れた一頭の猪に乗って湯川の温泉に行き、傷を癒して足で立つことができた。これが小倉の足立山の伝説だが、ここで、「温泉」と「小倉」という具体的な夢告があり、すなわち、温泉治療(つまり、有馬温泉の帰りの播州姫路での一件)、そして豊前小倉という場所の予告を読むことは容易であろう。この夢解きまではせずに、作者はさりげなくこの夢を提示している。
 なお、繰り返すまでもないが、本文中、宮本武右衛門の主人・清正は、「加藤」ではなく「佐藤」であり、その居城は「熊本」ではなく「熊木」である。目録と絵図にこれを「加藤」と記すのは、粗忽か故意か。そのあたりも面白い。

 
   卷之三 目録
 【原 文】

繪本二島英勇記 卷之三
    目 録

  宮本友次郎逢難事并脱難事
    宮本武右衛門加藤氏に仕ふ圖
    宮本友次郎旅行發足の圖
    友次郎惡徒と郊外に闘ふ圖
  友次郎再逢難事并二刀流の起りの事
    奸人野外に矢を放つ圖
    其 二
  名島の高弟遣書於熊木事
    宮本友次郎夢咄の圖
    其 二

 【現代語訳】

絵本二島英勇記 卷之三
    目 録

  宮本友次郎、難に逢う事、ならびに難を脱する事
    [絵]宮本武右衛門、加藤氏に仕える図
    [絵]宮本友次郎、旅行出発の図
    [絵]友次郎、悪徒と郊外に闘う図
  友次郎、再び難に逢う事
           ならびに、二刀流の起源の事
    [絵]悪漢ども、野外に矢を放つ図
    [絵]悪漢ども、野外に矢を放つ図 其二
  名島の高弟、書状を熊木に送る事
    [絵]宮本友次郎の夢の話の図
    [絵]宮本友次郎の夢の話の図 其二


巻之三 1
1 ・・ 巻之三 ・・  

巻之三 1/2
2 ・・ 巻之三 ・・ 1

巻之三 2/3 宮本武右衛門加藤氏に仕ふ圖
3 ・・ 巻之三 宮本武右衛門加藤氏に仕ふ圖 ・・ 2

巻之三 3/4
4 ・・ 巻之三 ・・ 3

巻之三 4/5
5 ・・ 巻之三 ・・ 4

 
   1 宮本友次郎逢難事并脱難事(1)
 【原 文】

   宮本友次郎逢難事并脱難事

 肥後國風土記に曰く、昔崇神天皇の時、益城郡〔ますきのこほり〕、朝來名〔あさくな〕の峯に、土蜘蛛二人あり。一人は打猿〔うちさる〕、一人を頸猿〔うなさる〕といふ。其徒百八十人あり、峯頂〔みねのうへ〕に蔭〔こも〕り、常に皇命〔みことのり〕に降服〔したがハ〕ず。天皇、肥君〔ひのきミ〕の祖〔おや〕・健緒組〔たけをぐミ〕に勅して、彼賊衆を誅〔ほろぼ〕さる。
 健緒組たちまち土蜘蛛等〔ども〕を亡ぼし、その後八代郡白髪〔しらかミ〕山に至りしに、日既に暮て、その夜白髪山に止宿〔とゞま〕りぬ。然るに、夜に入忽ち虚空に火燎〔ひもえ〕、かの火自然とくだりて、此山に燎〔もへ〕つけり。健緒組驚き、そのゝち都に上り、此事を奏せしかバ、天皇勅をくだして、その國を火の國に号〔なづけ〕玉ふ。後世〔のちのよ〕肥のくにといへり。
 又二ケ國にわかちて、肥前、肥後、是れなり。別〔わけ〕て肥後國は、西南を面とし、山海盤旋〔さんかいばんせん〕として土地陽氣多く、極寒の時節といへども暖氣たる事、諸國に倍し、米糧〔べいりう〕豐にして沃野千里の上國なり。
 然るに其黎〔そのころ〕同國熊木〔くまげ〕の城ハ佐藤主計頭〔かずへのかミ〕清正の藩鎭〔はんちん〕、忠孝文武を以て國を治め玉ひしかば、黎民〔れいみん〕徳に化し家々腹を鼓し、みな太平を諷〔うた〕ひける。就中〔なかんづく〕此國は西洋の外國に近きが故に、烽火〔とぶひ〕の備を厳ふし、武士ハ弓馬を操練し刀劔の技〔ぎ〕を宗〔むね〕とせられければ、一藝に秀たる者ハ多く彼所〔かしこ〕に抜擢〔ばつたく〕せられける。
 爰に清正朝臣〔あつそん〕、熊木〔くまげ〕の城を賜はらざる以前に、宮本武右衛門といふ者あり。武藝六流〔りくりう〕の奥儀を究め、其先〔そのせん〕山城國宇治郡の英産〔ゑいさん〕、專ら武を講じけるに、後吉岡太郎右衛門にしたがひ、其流儀を信じ、晝夜の修行怠慢なく、終に三年にして、師太郎右衛門と高下〔かうげ〕の分〔ぶん〕をわかつ事なし。太郎右衛門大きに感じ、秘中の秘を叩〔たゝい〕て奥妙を傳ふ。
 主計頭清正、武右衛門が武技に名ある事を聞、頻りに召〔めさ〕る。これに依て武右衛門、清正朝臣に仕ふるとき、名島に趨き、吉岡に告けるハ、われ師の玄氣を惜まず傳へ玉ふがゆへ、今海内〔かいだい〕の英勇たる人に仕官し、共に驥尾〔きび〕につきて名を顯すべし。然るに某いまだ男子なし。師幸ひに二男子〔じなんじ〕を生じ玉へバ、願はくは御二男友次郎殿を玉ハらば、大切に養育し、師の相傳〔さうでん〕し玉へる蘊奥〔おんなう〕こと/\く傳へ遣〔のこ〕さば、師の流義をして普天の下に弘むる道理なり。先生の尊意いかにと。
 吉岡はなハだよろこび、もとより己が望む所なり。汝これを養ふて子とせよ。然れども、渠〔かれ〕いまだ襁褓〔むつき〕をはなれず、其成長のところ畢竟いかゞあるべし。汝もしやしなふて後に物の用に立つまじき者ならば、少も憐愍乃心なく逐失〔おひうし〕なへ。其ときわれに於て更に恨ミとすまじ。ゆくすへ汝のかたに実子出生して家を繼べき血脉〔けつミやく〕あらば、渠をもとにかへすべし。かならず血脉を以つて家系を續〔つが〕しむる事ハ、先祖への孝なり。努々〔ゆめゆめ〕迷ふ事なかれと、懇に教へければ、武右衛門深く感じ、終に友次郎が二歳になりけるを懐にして、清正の方〔かた〕に至りける。
 然るに武右衛門、友次郎を愛し、心を用ひ成育を加へ、晝夜おこたりなく武藝を教授しけるに、天質〔てんしつ〕大膽にして、十二三歳の頃より早業は自然に備ハり、数年練磨〔すねんれんま〕の高弟といへども及ぶものなし。武右衛門いよ/\愛し、流義の極意を盡して傳へぬ。
 友次郎十四歳の時、武右衛門に男子一人出生せり。是を友之助といふ。されど実子に家を續〔つが〕すべしともおもハず、愛情実子に倍し、益〔ます/\〕精心を盡してをしへける。友次郎もまた武右衛門に孝を盡し、既に十五歳の時に、父の流義の極意ことごとく傳ハり、家中の評判にも、武右衛門よりは遥かに勝れ、天狗の再生〔さいせい〕なりともてはやせり。
 されば世の言にも、高木ハ風に憎まるゝ乃ならひにして、武藝を業〔わざ〕とする壮士等、彼方此方にて出曾〔よりあふ〕時ハ、僉々〔ミな/\〕とり/\に諷謡〔うハさ〕し、他流ハ別してこれを惡〔にく〕ミ、あはれ時もあらバ一驚〔おどろか〕し駭〔おど〕して弄〔なぶ〕り辱しむべしと、かねていひ合せけるが、甞て其便〔たより〕もなかりしに、天正十六年三月佐藤主計頭清正、肥後國熊木城を賜り移り玉ひしかば、宮本父子〔ふし〕も此所にうつりぬ。時に友次郎十七歳なり。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

  宮本友次郎、難に逢う事、ならびに、難を脱する事

 肥後国風土記に曰く[卜部兼方『釋日本紀』卷十引用逸文]、むかし崇神天皇の時、益城郡の朝来名の峯[熊本東方約十km]に、土蜘蛛[土着の神]二人あり。一人はウチサル、一人をウナサルといふ。その集団は百八十人いて、峯の頂上に籠り、つねに天皇の命令に従わなかった。天皇は、肥君の祖先・タケヲクミに命令して、かの賊衆を誅伐させた。
 タケヲクミは、たちまち土蜘蛛どもを亡ぼし、その後、八代郡の白髪山[白髪岳、現在五木村]に至ったが、日はすでに暮れて、その夜白髪山に止宿した。ところが、夜に入り、突然虚空に火が燃え広がり、その火が自然とくだって、この山に燃え移った。タケヲクミは驚き、そののち都に上って、この事を天皇に奏したところ、天皇は勅を下して、その国を火の国と名づけられた。後世これを肥の国といっている。
 またこの国を二ヶ国に分割したが、肥前・肥後というのは、これである。とくに肥後国は、西南を表とし、山と海にぐるりと囲まれ、土地の陽気が多く、極寒の季節でも温暖なこと、諸国に倍するほどで、米など食糧は豊かであり、沃野は千里に広がる上国である。
 ところで、その当時、同国熊木の城[くまげ、熊本にあらず]は、佐藤主計頭清正[加藤にあらず。むろんモデルは加藤清正。主計頭は清正の官職名]の居城で、忠孝文武を以って国を治められたので、庶民はその徳に化し、家々は豊かで、みな太平を謳歌していた。なかんづく、この国は西洋の外国に近きが故に、防衛軍備[烽火の備は擬古文辞]を厳しくし、武士は武術[弓馬は擬古文辞]を鍛錬し、刀剣の技を第一とされたので、ある武芸に秀いでた者たちが、多くそこへ抜擢された。
 この清正朝臣[朝臣は官位従四位下による]が熊木の城をまだ賜わらざる以前のこと、宮本武右衛門という者があった。武芸六流[弓馬刀槍砲柔の六芸、あるいは単に六つの流派]の奥儀を究め、もともと山城国宇治郡の英産で、もっぱら武術を研究していたが、のち吉岡太郎右衛門の弟子となり、その流儀を信奉し、昼も夜も修行に怠りなく、ついに三年にして、師太郎右衛門と優劣がなくなった。太郎右衛門は大いに感心し、秘中の秘にいたるまでその奥妙を伝授した。
 主計頭清正は、宮本武右衛門の武技が有名であることを聞き、しきりに仕官を呼びかけた。そうして、武右衛門が清正朝臣に仕えるとき、(筑前)名島に赴き、吉岡に告げた。「先生が、玄気[深遠な気]を、惜しまず伝えてくだされたので、私はいま日本の英勇たる人[清正のこと]に仕官できました。共にすぐれた人物の後に従って、名を上げましょう。ところが、それがしはいまだに男子がありません。先生は幸いにも二人男子を生されました。願わくは、ご次男、友次郎殿をそれがしに下されば、大切に養育し、師が相伝して下さった蘊奥を、ことごとく友次郎殿に伝え残すつもりですので、師の流儀を天下に広めることになります。先生のお考えはいかがでしょうか」と。
 吉岡ははなはだ喜び、「もとよりそれは私が望むところだ。そなたは、友次郎を養って子とせよ。しかれども、彼はいまだ幼児(おムツが取れない)、その成長の結果はどうであろうか(不確かである)。そなたが養育して後に、もし物の役に立ちそうにない者なら、少しも憐愍の情をかける必要はない。家から放逐してくれ。そのとき、私の方は決して恨みとすまい。また将来、そなたの方に実子が出生して、家を嗣ぐべき血縁の者ができたなら、彼をわが元へ返してくれ。必ず血縁の者に家系を嗣がしめることは、先祖への孝である。決して躊躇してはならない」と、懇ろに考えを述べたので、武右衛門は深く感激し、結局、二歳の友次郎を懐に抱いて、清正のもとへ行ったのである。
 さて、武右衛門は、養子友次郎を愛し、気を配って育成し、昼夜怠りなく武芸を教授したところ、友次郎は天質[もって生まれた、生来の性質]大膽にして、十二、三歳の頃から敏捷な業は自然に備わり、長年練磨の高弟といえども及ぶ者がなくなった。武右衛門はいよいよ友次郎を愛し、流義の極意をことごとく伝えた。
 友次郎十四歳の時、武右衛門に男子が一人出生した。これを友之助という。しかし武右衛門は、実子に家を嗣がそうとも思わず、友次郎への愛情は実子に倍するほどで、ますます精心をつくして教えた。友次郎もまた武右衛門に孝をつくし、すでに十五歳の時に、父の[養父経由で実父の、でもある]流儀の極意ことごとく伝わり、(佐藤清正)家中の評判にも、武右衛門より遥かに勝れ、天狗の生れ変わりだと、もてはやされた。
 そうなると、世の諺にも、高木は風に憎まれる、という通り、武芸を自慢にする壮士らは、あちこちで寄り合う時に、皆々とりどりに噂をし、[吉岡=宮本流ではない]他流はとくにこれが気にくわず、「おお、機会があれば、一つ驚かし脅して、弄って辱しめてやろうじゃないか」と、かねて談合していたが、一向にその機会がなかったところ、天正十六年三月、佐藤主計頭清正は肥後国熊木城[熊本城がモデル]を賜り、転封されたので、宮本父子もここに移った。時に友次郎は十七歳であった。[とすれば友次郎は元亀三年生れという設定らしい]


巻之三 5/6 宮本友次郎旅行發足の圖
6 ・・ 巻之三 宮本友次郎旅行發足の圖 ・・ 5

巻之三 6/7
7 ・・ 巻之三 ・・ 6

巻之三 7/8
8 ・・ 巻之三 ・・ 7

巻之三 8/9 友次郎悪徒と郊外に闘ふ圖
9 ・・ 巻之三 友次郎悪徒と郊外に闘ふ圖 ・・ 8

巻之三 9/10
10 ・・ 巻之三 ・・ 9

 
   2 宮本友次郎逢難事并脱難事(2)
 【原 文】

   宮本友次郎逢難事并脱難事 (承前)

 其年秋八月、友次郎父にむかひ申けるハ、我承る、當國の阿蘇が嶽ハ誠に天下の靈山、本朝五嶽の最首〔はじめ〕とも申せバ、かの峯に登り一覧いたしたし。六七日の暇を玉ハらば、かしこに至り、續いて其辺の名所をも見て参り候ハんと願ふにぞ、武右衛門打黙き、何さま宜〔よろし〕かるべし。六七日の程の事なれば、主人へ言上するにも及ぶまじ。心まかせに参るべし。
 友次郎やがて豫め旅行の支度をなし、僕をもつれず、唯一人同月十八日の暁天〔けうてん〕、いまだ夜をこめて出立すべしと、十七日の夜より旅装の調度〔ちやうど〕枕もとにおき、其夜ハ早く寝〔やすミ〕ける。
 此事いかゞして壮士等の耳に聞出しけん、常に侠〔うでだて〕を好む者五六人、ひそかに囁き合けるハ、是こそ僥倖〔さいはい〕の折から也。城下の郊外〔のはづれ〕に待伏し、慮〔おも〕ひよりなき所を半死半生にしてくれんずと、鎗にハ近藤鍋松、劔にハ熊沢甚之丞、體術にハ山内蟹丸、大雲新之助、四人もとより大膽不敵のうへに、いづれも藝道熟練のものども、出合〔であふ〕所をさだめおき、其夜ハ皆々帰りける。
 斯て友次郎ハ、旅行の用意とり装ひ、十八日鶏明の黎〔ころほひ〕に、少しばかりの衣服を袍袱〔ふろしき〕につゝミ、肩にかけ、既に城下をはなれ、郊外〔のはづれ〕に出來るに、孤村〔こそん〕の犬の戸を守る聲、明がた近く月影西に傾き、野邊の朝霧幾秋〔いくあき〕の玉を磨き、いと物すごき折こそあれ、荻の上風〔うハかぜ〕うちそよぐ朝嵐〔あさあらし〕に、何方〔いづく〕ともなく口笛の音高く響き、前後より黒装束したる大漢〔おとこ〕、ミな/\深く面〔おもて〕を隠し、四人ひとしく聲をかけ、一人は鎗、三人は刀にて切てかゝる。
 友次郎少も動ぜず、左右より來るものを引はづし、前より切付る刀の下をくゞり、電光より疾く抜放つ刀の棟打〔むねうち〕、前よりかゝる男が左りの肩骨の上をしたゝかに打たり。かの者骨やくだけけん、二言〔にごん〕と言ず倒れたり。
 即〔すなハち〕倒れたる者ハ大雲新之助也。左右よりかゝりたるは熊沢甚之丞・山内蟹丸、両人ひとしく付入て切來るを、二人が両刀を頭を廻らす間〔あいだ〕もなく打落し、直〔すぐ〕に飛込、蟹丸が額のうへより印堂〔いんだう〕へかけて棟打にうち居〔すへ〕たり。
 其隙〔ひま〕に近藤鍋松、鎗を捻つて突かくるを、鎗下〔やりした〕潜る入身の早業、巌下の水に影うつす月光よりはやく手本に來り、是もかハらぬ刀の平〔ひら〕打、顖會〔さうゑ〕の上より打たるに、眼くらミて倒れ臥す。
 其勢ひに敵しがたくや思ひけん、熊沢甚之丞、打落されたる刀をも取得ず、迯出すを、猶も追かけ、恥をしらざる盗賊、同僚〔どうはう〕を打倒されのがれ去ることやある、怯〔よハ〕き奴が振廻〔ふるまひ〕かなと、是もかハらぬ棟打に、大地へ倒れて悶絶す。
 友次郎とつてかへし、身うごきする者ハ腕も腰もうごかぬばかり打すくめ、怒聲〔いかりごへ〕雷〔らい〕のごとくにして申けるハ、汝等盗賊に相違なし。當主の仁政一國に溢れて、國民〔こくミん〕夜戸を扃〔さゝ〕ず、實に恩沢の深きにあらずや。然るに城下近く此所に入込、人を悄噪〔さハがす〕事、言語同断の積悪なり。唯今ことごとく切殺す事ハ安けれ共、天下の乱を鎭むる両刀〔ふたこし〕を、おのれらごときに血濡〔ぬら〕さば、刄の穢れなり。われ一々に踏殺し遣〔つかハ〕すべし。焔魔の廳前〔てうぜん〕に至らば、宮本友次郎が足下〔そくか〕の引導を蒙りし者なりと斷りて、能〔よき〕所に赴くべしと、既に蟹丸が咽ぶへに足をあげければ、苦しげなる聲を上て申けるハ、友次郎殿眞平〔まつぴら〕無禮乃罪をゆるし玉へ。某共ハ同家中の諸士でござる。御手並のほど驚き入奉る。元來盗賊の所業〔しハざ〕にあらず。武藝修行の腕だめしとぞんじ、此邊〔このへん〕に徘徊いたし、足下〔ごへん〕を見うけたる間、かねて藝道の貴名〔おな〕高くひゞきし事なるが故に、銘々の手固〔てがため〕との心得、とりかゝりかくの如き面目なき恥辱を蒙る。何とぞ了簡を加へられなば、拙者とも廣大の仁恩〔じんおん〕なりと申ける。
 三人ミな/\鼻をつまミて作り聲を出し、そのものゝ申通り、偏に御了簡に預りたしと、言〔ことば〕をそろへ詫けれハ、友次郎忽ち脚をゆるめ、まづ蟹丸を助おこし、其外の者共をもことごとく助起し、これは思ひよらざる事也。修行のため乃腕だめしとあれバ、互ひに同じ修行の身、いかでか麁忽〔そこつ〕といひがたし。然れ共業術〔げうじゆつ〕熟練の時は、何ぞ腕がためなどに及ぶべきや。我それ共存せず、法外〔はうぐわい〕の失礼を申せし事ハゆるし玉へ。此後遺恨をさしはさまることなかれ。
 三人齊しく答へて、何しに怨恨を含むべき。面〔おもて〕を顯し罪をも謝すべけれども、面目を失ふに似たれば、帽〔かぶ〕り事ハ此まゝにして玉ハれと、腰を屈め手を摺れば、友次郎、我とても此事口外いたすまじ。何さま然〔さ〕ばかりの篤志〔おこゝろざし〕、程なく熟練、年月を経ずして諸人の上に抽出〔ぬきんで〕玉ふべし。負たるも恥辱にあらず、勝たるも手柄にあらず。兎角〔とかく〕申内に黎明〔あけがた〕となるべし、人の怪しまざる以前〔さき〕に、早々帰らるべしと、落たる刀鎗ことごとく鞘に納めさせければ、四人ひとしく腰を抱へながら、疼ミ入たる仰〔おゝせ〕なりと、無理に痛苦をしのびてこしを伸し、すご/\別れ帰りける。

 【現代語訳】

   宮本友次郎、難に逢う事、
       ならびに難を脱する事 (承前)

 その年[天正十六年]秋八月[旧暦だから八月は中秋]、友次郎が父(武右衛門)に向って言うには、「私が承りますに、当国の阿蘇岳はまことに天下の霊山、本朝五嶽の第一とも申しますので、かの峯に登り、一覧したいと思います。六、七日ほど暇を下されば、そこへ行き、つづいて、その辺の名所も見て参りたいと思います」と、頼んだのに対し、武右衛門はうなづいて[ルビによる]、「いかにも、宜しいと思う。六、七日のほどのことだから、主人へ言上するにも及ぶまい。思い通りに行くがよい」。
 友次郎は、すぐさま旅行の支度をし、従者[僕は高踏表現]をも連れず、唯一人(で旅に出ることにし)、同月十八日の暁天、まだ夜の明けない内に出立しようと、十七日の夜から旅装一式を枕元におき、その夜は早く寝た。
 この事をどうして壮士らが聞き込んだか、つねに腕立て[腕自慢、または腕自慢を誇示する闘争]を好む者、五、六人が、ひそかに囁き合ったのは、「これこそ絶好の機会だ。城下の郊外で待ち伏せし、不意打ちにして半死半生の目に逢わせてやろうぞ」と、鎗術には近藤鍋松、剣術には熊沢甚之丞、体術[柔術]には山内蟹丸と大雲新之助、この四人はもとより大膽不敵のうえに、いづれも芸道熟練の者どもで、集合する場所を決めておいて、その夜は全員帰宅した。
 かくて友次郎は、用意しておいた旅行の装いをし、十八日、鶏が鳴く明け方のころに、少しばかりの衣服を風呂敷[ルビによる。袍袱は漢流]に包み、それを肩にかけ、すでに城下を離れ、郊外に出て来た。ぽつんと離れた村に家を守る犬の声がし、明け方近く月影が西に傾き、野辺の朝霧は何年も露の玉を磨き、まさに寂しい季節だとはいえ、荻の上を吹く風、うちそよぐ朝の嵐に、どこからともなく口笛の音が高く響き、友次郎の前後から黒装束の大男たちが現れ、全員(覆面して)深く顔を隠し、四人がいっせいに声をかけ、一人は鎗、三人は刀で切ってかかった。
 友次郎は少しも動揺せず、左右からかかってきた者をかわし、前から切りつける刀の下をくぐり、電光よりも素早く刀を抜放って棟打ち[峰打ち・斬らずに刀の背で打つ]にし、前からかかる男の左の肩骨の上を、したたかに打った。かの者は骨が砕けたのか、うむとも言わず倒れた。
 ようするに、倒れた者は、大雲新之助である。左右から(切り)かかったのは、熊沢甚之丞と山内蟹丸、両人が同時に攻撃して切って来るのを、二人の刀を、振り返る間もなく打ち落し、すぐに飛び込んで、蟹丸の額の上から眉間[印堂は漢方語彙]へかけて、棟打ちに打ちすえた。
 その隙に、近藤鍋松が、鎗をひねって突きかかるのを、鎗の下をくぐる友次郎の入身(いりみ)の早業は、岩の下の水に影を映す月光よりも速く、(あっというまに鎗の)手もとに達し、これも同じように、刀の平打ち[平は刀の側面]、前額[顖会は漢方]の上から打ったので、(近藤は)眼が眩んで倒れ臥した。
 その勢いに、これではかなわないと思ったのか、熊沢甚之丞が、打ち落された刀も拾わずに逃げ出すのを、友次郎はさらに追いかけ、「恥を知らない盗賊め。仲間を打ち倒され、逃げ去ることがあるか。卑怯な奴の振舞いだな」と、これも同様の棟打ちにすると、(熊沢は)大地へ倒れて悶絶した。
 友次郎はとって返し、身動きする者は、腕も腰も動かぬほど打ちすくめ、雷のような怒声をあげて言ったのは、「おまえたちは盗賊に間違いない。当主[清正]の仁政が国中に溢れて、(肥後)国の民は夜の戸締りをする[扃はかんぬき・閂]必要がないのは、まことにその恩沢の深いせいではないか。しかるに、城下近く、ここに入り込み、騒動を起すのは、言語同断の罪悪の積み重ねである。ここで今、お前たちを全員切り殺す事は簡単なことだが、天下の乱を鎭める(大小)両刀を、おのれらごときの血に濡らせば、刄の穢れである。おれが一人ひとり踏み殺してやろう。(地獄で)焔魔[閻魔大王)]の裁きを受けるときは、宮本友次郎の足で引導を渡された者ですと断わって、よい所に行け」と、早速蟹丸の咽笛に足を上げたので、苦しげな声をあげて(蟹丸が)言うには、「友次郎殿、どうか無礼の罪をお許し下され。それがしどもは(貴殿と)同じ家中の諸士でござる。御手並のほど、驚き入りました。(貴殿を襲撃したのは)もともと盗賊の所業ではなく、武芸修行の腕だめしと思い、この辺で徘徊いたしておりましたところ、貴殿を見うけたので、かねて貴殿の芸道の名が高く響いていました故に、銘々の手固め[腕だめし]と心得えて貴殿を襲撃し、かくの如き面目ない恥辱を蒙りました。何とぞ赦してくだされ。そうすれば、拙者どもは広大な仁恩と感謝します」と言った。
 他の三人も皆それぞれ鼻をつまんで作り声を出し、「その者の申す通り、ひとえにお恕しいただきたい」と、言葉をそろえて詫びるので、友次郎は、すぐに(蟹丸の喉を踏みつけた)脚をゆるめ、まず蟹丸を助け起し、そのほかの者どもも全員助け起し、「これは、思いもよらなかったことだ。修行のための腕だめしとあれば、お互いに同じ修行の身、決して麁忽[無思慮な過ち]とは云えない。けれども業術に熟練すれば、どうして腕固め[腕だめし]など必要であろうか。(ともかく)私はそんなこと(腕だめし)とも知らず、とんでもない失礼を申した事は許したまえ。この後、遺恨を抱かれぬように」。
 三人はいっせいに答えて、「どうして怨恨を抱いたりしましょうか。(覆面をとって)顔を現して罪を謝すべきですが、面目を失ったも同じなので、覆面はこのままにしておいてください」と、腰を屈め手を摺するので、友次郎は、「私のほうも、このことは口外しますまい。いづれにしても、(武芸に対して)そこまでの篤いお志があれば、程なく熟練し、年月を経ずして諸人の上にぬきん出られることでしょう。負けたのも恥辱にあらず、勝ったのも手柄にあらず。あれこれ言っている内にもう明け方が近い。人が怪しまない前に、早々に帰られた方がよい」と、落した刀と鎗をすべて鞘に納めさせたので、四人は同じように腰を抱えながら、「痛み入った(ありがたい)仰せです」と、無理に痛苦をしのんで腰を伸ばし、友次郎と別れ、すごすごと帰ったのである。


巻之三 10/11
11 ・・ 巻之三 ・・ 10

 
   3 友次郎再び逢難事并二刀流の起りの事(1)
 【原 文】

   友次郎再び逢難事并二刀流の起りの事

 却説〔さて〕、友次郎ハ、危殆〔きたい〕をものゝ員〔かず〕ともせず、壮士等に別れ、阿蘇乃嶽にと急ぎゆく。
 そも/\肥後國阿蘇郡と申ハ、人皇十二代、景行天皇十八年に、天皇ミづから筑紫の國を巡狩し玉ふ六月に、肥前國高木の縣〔あがた〕より御舩〔ミふね〕を召れ、肥後國玉杵名〔たまきな〕邑に渡らせ玉ひ、其所に居る土蜘蛛、津頬〔つづら〕といふ盗賊を攻亡し玉ひ、其後阿蘇の郡に行幸ましましける。
 此時鴻荒〔おほむかし〕の運〔よ〕なるが故に、郡縣開けず、此所茫々たる郊原〔のはら〕、人さらになく、天皇勅〔のたま〕ハく、此國に人ありやなきやと。然るに郡中〔ぐんちう〕阿蘇嶽に二柱の神まします。一~〔しん〕の御名〔をな〕ハ阿蘇津彦[男神なり]、一神ハ阿蘇津媛[女神なり]と申す。帝のかくのごとく勅〔ちよく〕し玉ふを聞て、忽ち人の形と化〔け〕して、帝の御前〔ミまへ〕に至りて、何ぞ人なき事あるべきや、我等二人むかしより此処に住〔すめ〕り。其時帝勅〔のたま〕ひけるは、然らハ此國ハ阿蘇等が國なりとのたまひしより、この郡〔こほり〕を號て阿蘇郡といへり。
 阿蘇〔あそ〕とは、今の世の言〔ことば〕に汝等〔そちたち〕といふが如し。すべて我國乃神代よりの古言〔ふること〕ハ、後世になりくだりてハ、絶果ぬれども、かゝる地〔ところ〕の名などに付て、少しづゝのこれり。上古〔じやうこ〕の代〔よ〕に、天子左右の臣下たちに、物仰付らるゝに、阿曽〔あそ〕如此〔かふ〕せよ、阿曽然〔さふ〕せよ、などと宣ひしが、朝廷に傳ハつて、今の世までも天子に仕へまつる朝臣〔てうしん〕たちを朝臣〔あそん〕といふは、あそといふ言〔ことバ〕の僅に轉〔うつ〕りて遣〔のこ〕りたる者なり。
 扨かの二柱の神ハ、阿蘇が嶽に住玉ひ、延喜式に健磐龍命〔たけいはたつのミこと〕神社、阿蘇比盗_社といふは是なり。阿蘇の大宮司は、代々此神乃神裔〔しんゑい〕なり。
 友次郎ハ唯壹人〔ひとり〕阿蘇山に登り、四方を眺望するに風景佳色、さらに言語に絶たり。筑紫風土記に曰、肥後國閼宗〔あそ〕の縣、坤〔ひつじさる〕の方二十餘里にして高山あり、閼宗が岳といふ。頂に靈沼〔いけ〕あり。石壁〔せきへき〕垣のごとくに立、縦五十丈横百丈深さ二十丈、清潭百尋、すべて白銀を布といひしに少も違事なし。岳勢〔がくせい〕傑峙〔けつじ〕としてすぐれて高く、誠に翶翔〔はしり〕てハ青天〔おほぞら〕にも登るべき形容〔かたち〕なり。
 覚へず山中に日を暮し、これより近邊の名所残る所なく見廻り、七日に及べり。忽〔ふと〕思謂〔こゝろづき〕、われ思ハざるに数日を費せり。父母今ハ待難〔まちかね〕玉ふべし。さらば帰路を急ぐべしと、八月廿五日熊木の城に立帰る。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

   友次郎、再び難に逢う事、
        ならびに二刀流の起源の事

 さて、友次郎は、危難に遭ったのも気にせず、壮士等と別れ、阿蘇岳へと急いだ。
 そもそも肥後国阿蘇郡というのは[以下日本書紀、景行紀十八年六月条による]、人皇十二代、景行天皇十八年に、天皇みずから筑紫の国を巡狩なさった六月に、肥前国高木の縣[現・佐賀市]から御船を召され、肥後国玉杵名〔たまきな〕邑[現・熊本県玉名市]にお渡りになり、そこに居る土蜘蛛[土着の神]、ツヅラという盗賊を攻め亡ぼされ、その後阿蘇郡に行幸なさった。
 このころは大昔の時代なので、郡縣は未開の地で、ここは茫々たる野原であり、人の姿は一向にない。天皇が言われるに、「この国に人はいるのか、いないのか」と。しかるに阿蘇郡の中の阿蘇岳に二柱の神がおられた。一神の御名はアソツヒコ[男神である]、一神はアソツヒメ[女神である]という。帝がかくのごとく言われたのを聞いて、たちまち人の姿と化して、帝の前に来て、「どうして人がいないことがあろうか。我ら二人がむかしよりここに住んでおる」(と答えた)。そのとき帝が、「しからば、この国はアソたちの国である」と言われたことから、この郡を名づけて阿蘇郡といった。
 アソ(阿蘇)とは、今の世の言葉に「そちたち」[おまえたち]というようなものである。すべて我国の神代以来の古語は、後世になりくだると絶え果てたけれども、こうした地名などに付いて、少しずつ残っている。上古の時代に、天子が左右の臣下たちに、物を仰せつけられるときに、アソ(阿曽)こうしなさい、アソ(阿曽)そうしなさい、などと言われたのが、朝廷に伝わって、今の世までも天子にお仕えになる朝廷の臣下たちを「あそん」(朝臣)というのは、「あそ」という言葉がかろうじて転訛して遣ったものである。[作者の国学の知識の披露。ただし俗説]
 さて、かの二柱の神[アソツヒコとアソツヒメ]は、阿蘇岳にお住みになり、延喜式[巻九・十が神名帳]に健磐龍命神社・阿蘇比盗_社というのは、これである。阿蘇の大宮司は、代々この神の神裔である。
 友次郎はただ一人阿蘇山に登り、四方を眺望するに、風景はすばらしく、まったく言語に絶している。筑紫風土記に曰く[前出釋日本紀巻十による]、「肥後国閼宗(あそ)の縣、南西(坤)の方向、二十余里にして高山あり、閼宗が岳という。頂上に神秘的な池がある。石の壁が垣のごとくに立ち、縦五十丈[百五十m]横百丈[三百m]深さ二十丈[六十m]、水は透きとおって、百尋の底はすべて白銀を敷いたようである[ただし原文は、C潭百尋、白高鋪きて質と為す]」と言っているのに少しも違いはない。山岳の形勢は決然としてすぐれて高く、まことに飛翔して青天に登りそうな山容である。
 (友次郎は)茫然として山中に日を暮し、これより近辺の名所を残る所なく見廻り、七日目になった。ふと心づき、「自分でも気がつかないうちに日が経ってしまった。父母は今はもう待ちかねておられるだろう。さらば、帰路を急ごう」と、八月二十五日熊木の城に立ち帰った。


巻之三 11/12 奸人郊外に矢を放つ圖
12 ・・ 巻之三 奸人郊外に矢を放つ圖 ・・ 11

巻之三 12/13
13 ・・ 巻之三 ・・ 12

巻之三 13/14 奸人郊外に矢を放つ圖 其二
14 ・・ 巻之三 奸人郊外に矢を放つ圖 其二 ・・ 13

巻之三 14/15
15 ・・ 巻之三 ・・ 14

 
   4 友次郎再び逢難事并二刀流の起りの事(2)
 【原 文】

   友次郎再び逢難事
         并二刀流の起りの事 (承前)

 猶其日も、彼方此方古蹟を探り求め、既に二更〔よつ〕の時黎〔ころほひ〕に至り、先日侠士〔うでだて〕どもに出合たる郊外〔のはずれ〕に行かゝる。
 其夜濃雲〔くろくも〕滋しく重り、星の光も見へざる闇夜〔あんや〕、四方に物の響く音して、草叢の内より一度に矢をはなつこと雨のごとし。
 友次郎心得て、扨ハ先日の奸惡〔わるもの〕ども遺恨を挾〔さしはさ〕ミ、待伏したるに疑ひなし。矢種〔やだね〕僅に射盡さすべしと心計〔はかりごと〕を案じ、直に大地に身を均しく平伏〔ひらぶし〕になり、着〔ちやく〕したる所の雨衣〔あまぐ〕を脱、そのまゝ刀の鞘にて押立れば、闇夜の事なり、是を的當〔めあて〕に射かくる矢は、きびしき事篠を投るがごとし。矢種次第に射盡したりと覚て、弦響〔つるひゞき〕既に間遠なり。
 友次郎今ハ恐るゝに足ずと、雨衣〔あまぐ〕を倒せば、草叢の滋ミより弓を持たる者四五人あらハれ出、其外鎗を携へ刀を抜持たる者七八人、都合十五六人ばかり駈出たり。是最前友次郎がために半死の難を蒙りたる近藤熊沢等の四人の悪黨、先日の憤りをはらさんため、同僚の奸人〔わるもの〕ども十六人いひ合せ、飛道具を用意し、又密に友次郎が帰りを、人を遣して伺ハせけるに、今日爰に帰ることを聞出し、加斯〔かゝる〕狼藉に及びける。
 されども友次郎神〔しん〕に通ずるばかりの早業なるがゆへに、金蝉脱殻〔きんせんだつこく〕の法を用ひて、忽ち躬を匍匐〔はらばひ〕して、雨衣を以て正身〔しやうじん〕のごとくミせ、程なく矢種を射盡させんとはかりしもの也。
 已に一時の謀計に欺かれて、雨衣の地に倒れたるを射伏たりとこゝろえ、一箇〔ひとりひとり〕の兵器を携へ立あらハれ、我先にと駈け寄るを、友次郎むく/\と立あがり、聲をあらゝらかにして詈〔のゝし〕りけるは、慙愧〔はぢ〕をしらぬ畜生、わが先日の佛眼〔よいかほ〕に夸傲〔つけあがり〕、なを手並にも懲ざるよな。いで其儀ならバ、此たびは一定〔ぢやう〕一人ものこらずなで切にして呉んずと、刀を抜かざして二王立にたちあがれば、数多〔あまた〕の悪黨、この有状に勢ひを奪れ、辟易して見へにける。
 山内蟹丸は、先日友次郎がために足下の恥辱を蒙りし事、鬱憤胸に塞りければ、忽ち身をなきものにして切入たり。是を見て大勢一度に切入突〔つき〕入、友次郎一人に群がり聚るもの十六人、刀鎗の來る事は萩花の風に靡〔なびく〕がごとし。然れども友次郎が働き、平日に十倍し、精心を抖擻〔とそう〕し、左手に小刀を取右手に大刀を提へ、あたるを幸ひに切まくる。これがため十六人の者ども手疵を蒙らざるもの一人もなし。
 尤友次郎眞實に切らんと思ハゞ、切倒す事安しといへ共、忍びの旅行なるが故に、敢て人を害することを好まず、身をのがれ守るを第一とせしもの也。かの悪黨ども、此処かしこの荊棘〔むぐら〕の中にかくれ、皆々額頬先鼻柱などを切削〔きりそが〕れ、又は腕肘〔うでかひな〕を損ひ、脚を薙〔なが〕れるのミにして、死するものもなし。
 友次郎は路頭〔ミちのほとり〕に捨置たる自分の行李〔こうり〕ををさめ、手負を一々にらミ廻し、おのれらこと/\く面〔つら〕を顯ハし明恥〔あかはぢ〕かゝすべき奴なれども、われ私〔わたくし〕の旅行故に、そのまゝ捨おく也。以來かゝる狼藉におよバゝゆるしがたし。この後志しをあらためずば、家名を失ふべしと、唾嘔〔つばきはき〕して帰りける。
(以下つづく)

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 【現代語訳】

   友次郎、再び難に逢う事、
       ならびに二刀流の起源の事 (承前)

 その日もなお、(友次郎は)あちらこちらと古蹟を探訪したので、すでに時刻は二更[四つ・午後十時]の頃あいになってしまい、先日、腕立て[ルビによる。乱暴者]どもに出合った、郊外に行きかかった。
 その夜は暗雲[ルビによる]が濃く重り、星の光も見えない闇夜である。そのとき四方に物の響く音がして、草むらの中から一斉に放たれた矢は、雨のごとくであった。
 友次郎は心得て、「さては、先日の悪漢どもが遺恨を抱いて、待ち伏せしたに疑いなし。射る矢がなくなるまで、射尽くさせよう」と一計を案じ、すぐに大地に身を横にして伏せ、着ていた雨具を脱いで、それを刀の鞘で押し立てる。すると、闇夜のことである、これを目当てに射かける矢は、猛烈なこと篠を投げるがごとくであるが、やがて矢種[射る矢]を次第に射尽したとみえて、弓の弦の響きがすでに間遠になった。
 友次郎は、もはや恐れるに足らずと、(鞘で押し立てていた)雨具を倒すと、草むらの茂みから、弓を持った者が四、五人現れ出て、そのほかに鎗を携え刀を抜き持った者が七、八人、合計十五、六人ほどが走り出た。これは、先日友次郎に半死半生の目に遭わされた近藤・熊沢等の四人の悪党が、先日の憤りをはらすため、同僚の悪漢ども十六人が相談して、飛道具[ここは弓矢]を用意し、また一方、密かに人を遣わして、友次郎の帰りを探らせていたところ、今日ここに帰ることを聞き出し、この狼藉に及んだのである。
 されども友次郎は、神に通ずるほどの早業なるがゆえに、金蝉脱殻の法[兵法三十六計、第二十一計による]を用いて、すぐさま体を腹ばいにして、雨具を自分の身体のごとく見せかけ、(相手が)矢種を射尽くすのを待とう、と計ったのである。
 (悪漢どもは)かりそめの謀計にすっかり欺かれて、雨具が地に倒れたのを、友次郎を射倒したと思い込み、それぞれ武器を携えて立ち現れ、我れ先にと駈け寄る。すると、友次郎はむくむくと立ち上り、声を荒げて罵った。「恥を知らぬ畜生め。おれが先日、甘い顔をした[ルビによる。仏眼は仏顔か]のにつけあがり、(おれが見せた)手並[腕前]にもまだ懲りないようだな。さあ、そのつもりなら、こんどは必ず一人ものこらずなで切りにしてやる」と、刀を抜きかざして、二王[仁王]立ちになって立ち上がると、多数の悪党は、このありさまに威勢を奪われ、たじろぐように見えた。
 山内蟹丸は、先日友次郎に足で踏みつけられる恥辱を蒙った鬱憤が胸に塞がっていたので、すぐさま命を捨てるつもりで(思い切って)切り込んだ。これを見て、大勢が一度に切り込み、突き入った。友次郎一人に群がり集中する者十六人、刀や鎗が(入り乱れて襲って)くるのは、萩花の風になびくがごとし。しかれども、友次郎の動きは、いつもより十倍し、精心を励まして[抖擻は梵語頭陀の漢訳語]、左手に小刀を取り右手に大刀をひっ提げて[つまり二刀で]、当たるを幸いに切りまくる。このため十六人の者ども、負傷しない者は一人もない。
 もっとも、友次郎が本気で切ろうと思えば、切り倒すことは容易なのだが、忍びの旅行なので、あえて人を殺害することをよしとはせず、身を遁れ守るを第一としたのである。かの悪党どもは、ここかしこの薮の中に隠れ、皆それぞれ額や頬先や鼻柱などを切り削がれ、あるいは腕や肘を損ない脚を薙がれるだけで、死ぬ者はない。
 友次郎は、道の脇に置いてそのままにしてあった自分の行李をもつと、負傷者を一人ひとり睨みまわし、「おのれらは全員(覆面をとって)顔を出させて赤恥をかかすべき奴だが、おれは私用の旅行だから、そのままにしておいてやる。以後こんな狼藉に及べば、赦さない。こののち心を入れ替えないのなら、家名を失うぞ」と唾棄して、帰ったのである。


巻之三 15/16
16 ・・ 巻之三 ・・ 15


 
   5 友次郎再び逢難事并二刀流の起りの事(3)
 【原 文】

   友次郎再び逢難事
         并二刀流の起りの事 (承前)

 此たび友次郎、大勢の痴人〔しれもの〕と闘ふに及んで、二刀を以て防ぎしより、はじめて自得する所ありて、二刀の操方〔つかひかた〕を工夫し、自然と得た玄妙を顯し、普く天下に名を高ふしける。
 本朝開闢より以降〔このかた〕、二刀を用ひることいまだ是をきかず。漢土にもまた聞くことなし。上古末代の壹人十手流〔じつてりう〕の開祖是也。
 むかし建武年中の乱れ、左近衛中將〔さこんへのちうじやう〕新田義貞朝臣、攝州兵庫の浦に戦ひ敗れ、求女塚〔もとめづか〕の上にのぼり、鬼切鬼丸〔おにきりおにまる〕といふ靈劔を左右の手に抜持、あまたの矢を切たる事有といへども、是不慮〔ふりよ〕に發りたる事にして、自己一身〔じこいつしん〕を脱るゝのミにて、其態〔わざ〕を他人に傳ふる事能ハず。
 宮本氏〔うじ〕の二刀に於るや、其流末代に教授し、数百年の後億兆〔おくてう〕の人の身を護るわざとなりしハ、称歎すべき事共也。
 却説〔さて〕、この奸人〔わるもの〕ども一箇一箇〔ひとり/\〕阿曲〔くま/\〕よりはひ出、互に疵を蒙りたる事をミるに、多くは頭面〔づめん〕又は手足の表疵〔おもてきず〕、さし當りたる面目なさと後日〔ごにち〕の難義に胸ふさがり、人々互ひに助け合、その夜ハミな/\帰りける。
 其後奸人どもの手疵癒〔いへ〕ても人前の交りもなりがたく、又何となく何某〔なにがし〕こそは大勢徒黨し、友次郎がためにかやうの恥辱を請しなどゝ、區々〔まち/\〕の取さた廣くなりしかバ、十六人の者共、なまなかなる事仕出して、今ハ後悔臍を噛〔かむ〕といへ共及ばず、若此事清正朝臣の耳に入〔いる〕ときハ、後難〔かうなん〕もはかりがたく、手疵こと/\く癒しかば、ひそかに熊木の城を出奔し、ゆくへなく成にける。後はいかゞなりしや、その終〔おハ〕る所をしらず。
私に曰、宮本幼稚の時よりの事共、説々〔せつ/\〕甚多しといへ共、事繁きがゆへに悉く記すにいとまあらず。此一条を出して余は畧しぬ。

 【現代語訳】

   友次郎、再び難に逢う事、
       ならびに二刀流の起源の事 (承前)

 このたびの事件で、友次郎は大勢の馬鹿者ども[ルビの痴れ者は、狂人の意だが、ここは罵倒語]と闘うに及んで、二刀をもって防いだことから、はじめて自得するところがあって、(その後)二刀の使い方を工夫し、自然と得た玄妙[深遠絶妙の芸術]を明らかにし、天下にあまねくその名を高くしたのである。[ようするに、これが無三四の二刀流の起源だという話]
 本朝開闢[紀記神話による国学的用語]よりこのかた、二刀を用いる例はまだ聞いたことがない。漢土にもまた聞くことがない。(二刀を用いたのは)上古から今日までただ一人、十手流の開祖がこれである。[これはフィクション。十手流の名が出るのは興味深いが、この十手流開祖=宮本無三四はここだけの説話。小倉碑文には十手は新免無二の家業という]
 むかし建武年中の戦乱のとき、左近衛中将・新田義貞朝臣[南北朝内乱時の雄(一三〇一〜三八)。朝臣は官位正四位下による]が、摂津兵庫の浦で戦いに敗れ、求女塚[現・神戸市東灘区]の上にのぼり、鬼切と鬼丸という霊剣を左右の手に抜いて持ち、(自分を射かける)あまたの矢を切ったことがある[太平記巻十六・新田殿湊河合戦事による]とはいえ、これは思わずそうしたのであって、自分の身を守って逃げるだけのことで、その技を他人に伝えることはできなかった。
 宮本氏の二刀においては、その流儀は現在でも教授し、(創始して)数百年の後、多くの人々の身を護るわざとなったのは、称歎すべきことがらである。[以上は語り手による宮本無三四賛]
 さて、この悪漢どもは一人ひとりあちこち隅から這い出して、互に負傷したのを見ると、多くは頭部顔面または手足という表疵[人目に立つ、隠せない負傷]である。さしあたっての面目なさと後日の難義を思うと憂鬱になり、連中は互いに介助し合い、その夜は皆それぞれ帰宅した。
 その後悪漢どもは、負傷が癒えても、世間での交際もなりがたく、また何となく「何某は、大勢徒党を組んで、友次郎にこんな恥辱を受けた」などと、さまざまな噂が広まったので、十六人の者どもは、半端なことをやらかして、今は後悔し臍を噛むとはいえ、もしこのことが(主君)清正朝臣の耳にでも入れば、どんな後難があるかも知れないので、負傷がすっかり癒えると、ひそかに熊木の城を出奔し、行方知れずになった。後はどうなったか、その最後はわからない。
私に曰く[作者の言]、宮本の幼い時からのことについて、いろいろと諸説がきわめて多いが、煩瑣になるがゆえに、全部を記す余裕がない。この一件だけを出して、残りは省略した。[これは省略の技法、残余の存在を空想せしめる]


巻之三 16/17 宮本友次郎夢咄の圖
17 ・・ 巻之三 宮本友次郎夢咄の圖 ・・ 16

巻之三 17/18 宮本友次郎夢咄の圖 其二
18 ・・ 巻之三 宮本友次郎夢咄の圖 其二 ・・ 17

巻之三 18/19
19 ・・ 巻之三 ・・ 18

 
   6 名島の高弟遣書於熊木事
 【原 文】

   名島の高弟遣書於熊木事

 柳屯田〔りうとんでん〕が勧学文〔くわんがくのぶん〕に曰、父母養其子而不教不愛其子也、父母教而不学是子不愛其身也〔父母其子を養ひて教へざるハ其子を愛せざる也。父母教へて学バざるハ是子其身を愛せざる也〕といへり。宮本父子〔ふし〕の行ひに於るや、武右衛門ハ父たるの道を尽して其子に教へ導き、友次郎ハ子たるの義を守りて、勤〔つとめ〕学びけるほどに、藝術日々に進ミ月々に抽〔ぬきん〕でゝ、既に天正十八年に至りてハ、妙義〔めうぎ〕父に勝れたること遥也。
 同年五月五日、門人端午の嘉祝〔かしゆく〕をのべて多く來りけるに、宮本父子酒をくミて人々をもてなし、酒興〔しゆけう〕に乘じて古今の軍物語〔いくさものがたり〕、又は近來諸将の剛臆〔がうおく〕、その外諸士の批判などしけるに、友次郎申けるハ、我先日より折々心さハぎし、さまざまの雜夢〔ざうむ〕を見るゆへに、夜ハ安く寝こと能ハず。夜前〔やぜん〕名島にある所の実父・吉岡太郎右衛門、大きなる野猪〔いのしゝ〕に乘て山にのぼると夢ミたり。覚〔さめ〕て後肉うごき今に心さハぎするハ、吉凶いかなる兆〔しるし〕ならんとかたり出せば、巧言令色を好む人ハ、吉夢〔きちむ〕ならんといふもあり、又ハ、夢は五臓の煩ひと承ハれば、足下〔そくか〕晝夜に武術を練磨し玉ふゆへ、心志〔しんし〕労〔つか〕れての事なるべしといふ。
 心ある者ハ眉をひそめて、いまだ言〔ことば〕を出さざる所に、次の間より若黨壹人忙〔あわたゞ〕しく出て申けるは、名島より飛脚到來仕る。
 友次郎聞とひとしく胸にこたへて走り出、子細を問に、吉岡が高弟等の送りたる書状あり。
 披〔ひら〕きミれバ、先月十五日の夜、厳父眞觀寺より帰り玉ふ路次におゐて、何者の所爲〔しわざ〕ともしらず、闇討に仕る。尊母〔そんぼ〕これに愁傷して病死したまひぬ。もとより名島に師父〔しふ〕の親族なきが故に、門人等まづ師父夫婦の遺骸を葬儀乃営〔いとなミ〕をなすといへども、家系既に断絶いたし畢ぬ。疾〔とく・借字〕この旨を告しらせ申べき所に、先生の横死に當惑し、曾て足下の事を失念して、漸く今に及べりと、弔慰〔てうい〕こまやかに書したゝめたり。
 友次郎大きに驚き、手の舞足の踏所をしらず。武右衛門も悲嘆大かたならず、在會〔ありあふ〕門人等甚だ驚駭〔きやうがい〕し、まづ父子の人々を慰さむるに、武右衛門涙を流して申けるは、抑〔そも/\〕普天の下わが師の武藝に及ぶ者あらん共覚へず。殊更篤実の君子、その技に高ぶらず。さらバとて人の憎ミを受玉ふべし共思ハず。又闇討にもせよ、中々尋常〔よのつね〕の人容易に手を下すものあらんや。これ必定〔ひつじやう〕他の師範たるもの、自己の藝道の及ばざるをもつて、人を偏執〔へんしう〕し暗殺したるに相違なし。我ためにも、師匠の讐〔あだ〕、すみやかに名島に趨き高弟等に會合し、その手掛の有無をたづね、敵〔かたき〕をも討べけれ共、仕官の身の上、心にまかせず。友次郎ハ実父の仇〔あだ〕、同じ天をいたゞくべきにあらず、一日も早く出立すべし。是とても事の子細を主君へ訴へ、そのゝちともかくも計るべしと、まづ名島へ返書を送り、武右衛門父子、直に願書〔ぐわんしよ〕を作り、清正朝臣へ奉りける。

  繪本二島英勇記 卷三 終

 【現代語訳】

   名島の高弟、書状を熊木に送る事

 柳屯田[中国北宋仁宗の時代の進士、福建の人]の勧学文に曰く[油口山人著『勧学之文』寛延四年刊によるか]、「父母がその子を養っても教えないのは、その子を愛していないのである。父母が教えても学ばないのは、その子が自身を愛していないのである」といっている。宮本父子の行いにおいては、武右衛門は父としての道を尽して、その子に教え指導し、友次郎は子としての義を守って、努力して学んだので、芸術[武芸]は日々に上達し月々に秀でたものになり、すでに天正十八年になっては、その妙義[妙技。絶妙の術技]は、父よりはるかに勝れたものになった。
 同年五月五日、門人たちが、端午の節句の祝言を述べるために多数やってきた。宮本父子は酒を酌んで人々をもてなし、酒の興にのって、古今の戦さの物語、あるいは近年の諸将の剛臆[剛勇と臆病。戦場での行動]、そのほか(家中の)諸士の批判[ここは評判の意]などをしていたところ、友次郎が言うには、「私は先日から、時々心が騒ぎ、さまざまの雑夢[これは夢判断の雑夢の意ではなく、訳が分からない夢というほどの意]をみるので、夜は安らかに寝ることができない。昨夜は名島にいる実父・吉岡太郎右衛門が、大きな野猪に乗って山に登るという夢をみた。眼が覚めて後、身ぶるいし、今でも心が騒ぐのは、吉凶いかなる兆しだろう」と語り出したので、巧言令色を好む人は、「吉夢でしょう」という者もあり、あるいは、「夢は五臓のわずらいと聞いておりますので、貴殿は昼に夜に武術を練磨なさるゆえ、心志が疲労してのことでしょう」という。
 心ある者は眉をひそめて、いまだ言葉を出さないところへ、次の間から若党が一人、あわただしく出て来て言うには、「名島から飛脚が来ました」。
 友次郎はこれを聞くと同時に、(あっと)胸にこたえて、走り出て仔細を問うと、(筑前名島の)吉岡の高弟たちが送ってよこした書状があった。
 (書状を)ひらいて見れば、「先月十五日の夜、厳父(吉岡太郎右衛門)は真観寺からお帰りになる途中で、何者のしわざとも知れないが、闇討ちに遭われた。尊母(友次郎実母)は、これに愁傷して、病死なさいました。もとより名島に先生の親族がないので、門人たちがまず先生ご夫婦の遺骸を葬儀する営みをしましたが、(吉岡先生の)家系はすでに断絶してしまいました。早くこの旨を(貴殿に)報告すべきところ、先生の横死に当惑して、まったく貴殿の事を失念して、ようやく今となってしまいました」と、弔慰こまやかに書きしたためてあった。
 友次郎は大いに驚き、手の舞い脚の踏む所を知らないというありまさま[動揺してバタバタするばかり]、武右衛門も、その悲嘆は並大抵のことではなく、居合わせた門人たちも非常に驚愕して、まず(宮本)父子の両人を慰めていると、武右衛門が涙を流して言うには、「そもそも、この広い天下に、わが師の武芸に及ぶ者があろうとも思えない。とりわけ篤実の君子で、その技に高ぶらない人である。(武芸の名人だが)さりとて人の憎しみをお受けになるとも思えない。また、闇討ちにもせよ、尋常の人ではなかなか、容易に手を下す者があろうか。これは必ず他の(武芸)師範たる者が、自分の芸道が(吉岡先生に)及ばないため、人を嫉んで暗殺したに相違ない。(犯人は)私にとっても師匠の仇である。(自分が)すみやかに名島に行って、高弟らに会って、その手がかりの有無を尋ね、仇を討つべきだが、仕官の身の上だから、思うにまかせない。友次郎よ、おまえには実父の仇である。同じ天を戴くべきにあらず[不倶戴天。つまり、仇を殺せ]。一日でも早く出立しなさい。(だが)これとても、事の仔細を主君へ訴え(る必要があり)、そののち何とでも計画を練ろう」と、まず名島へ返書を送り、武右衛門父子は、ただちに仇討の願書を作成して、清正朝臣へ提出した。

  絵本二島英勇記 卷三 終




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