武蔵の五輪書を読む
五輪書研究会版テクスト全文
現代語訳と注解・評釈

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五輪書 火之巻 6  Back   Next 

 
   25 鼠の頭、午の首
【原 文】

一 そとうごしゆと云事。
鼠頭午首*と云ハ、敵と戦のうちに、
たがひにこまかなる所を思ひ合て、
もつるゝ心になる時、
兵法の道を、常に鼠頭午首/\とおもひて、
いかにもこまかなるうちに、
俄に大きなる心にして、
大、小に替る事、兵法一つの心だて也。
平生、人の心も、そとふごしゆと思べき所、
武士の肝心也。
兵法、大分小分にしても、此心、はなるべからず。
此事、能々吟味有べきもの也。(1)

【現代語訳】

一 鼠頭午首という事
 鼠頭午首*そとうごしゅ〕というのは、敵と戦っている最中、互いに細かいところに気をとられて、もつれた感じになる時、兵法の道をつねに「鼠頭午首、鼠頭午首」と思って、いかにも細かい様子でいるうちに、突然、大きな心になって、小から大へ切り替えること。これが兵法の一つの心だて〔心搆え〕である。
 平生、人の心も、「鼠頭午首」と思うべきである。そこが武士の肝心である。
 兵法が大分・小分〔多人数・少人数〕の場合にしても、この心持を離れてはいけない。このことは、よくよく吟味あるべきものである。
 
  【註 解】

 (1)俄に大きなる心にして、大小に替る事
 ここは、急に戦闘モードを替えること。とくに、小を大に切り替えることを教える。
 そこで、いつもこれを忘れないように、武蔵はひとつの「咒言」のようなものを伝授する。それが、「そとうごしゅ、そとうごしゅ」という文言である。これをいつも思い出して戦え、というわけである。
 この「そとうごしゅ」(鼠頭午首)は、鼠の頭と午(馬)の首である。鼠の頭が「小」であり、午の首が「大」である。
 この「ごしゅ」については、現存写本は、「午首」「牛首」と文字がまちまちである。それは、これまでの諸例のように、筑前系と肥後系に相違があるということではない。同じ筑前系でも、写本によって「午首」「牛首」と文字がまちまち、肥後系でも同前である。
 このばあい、「ごしゅ」の「ご」が、「午」(馬)か「牛」かとなると、語例は両方いづれもありうるところである。午は、たとえば午後の「午」〔ご〕だが、牛でも、たとえば、食材のゴボウは「牛蒡」と書くように、牛は「ご」ともよむ。
 ゆえに諸本には、「午首」「牛首」とまちまちである。現存写本では、オリジナルがどちらかだったか、決しがたい。武蔵の当時、一部で存在した警句であろうか。この武蔵の咒言、もし何か典拠があればと、探してみたが、いまのところ見つからない。それゆえ、「午首」「牛首」いづれか決するには、語句の内容分析が必要となる。
 そこで、午(馬)か牛かとなると、まず思い浮かぶのは、牛頭天王(ごづてんのう)、これは京都の祇園社の祭神である。あるいは、祇園社の牛頭天王は、播磨の広峰神社から遷座したともいうから、「生国播磨」の武蔵にあながち無縁でもない。
 しかし、五輪書のような兵書において、牛の頭だとするポジティヴな理由は見当たらない。ここは、「馬の首」としておくべきであろう。というのは、武芸の一つに馬術があるゆえ、牛より馬の方が連想しやすかろうし、また、仏教習俗では馬頭観音のこともある。
 ことに「馬の首」という言葉について、柳田國男『遠野物語』に、オシラサマ起源譚として、
昔ある処に貧しき娘あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養ふ。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、つゐに馬と夫婦に成れり。ある夜父此事を知りて、其次の日娘に知らせず、馬を連出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬の居らぬより父にたづねてこの事をしり、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首にすがりて泣きゐたしを、父は之を悪みて斧を以て馬の首を切落せしに、忽ち娘はその首に乗りたるまま天に昇りて去れり。オシラサマと云ふはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像をつくる。(遠野物語 六九)
 切られた馬の首の説話は、さまざまな怪談の妖怪にもなって展開した。しかしこれも、もとは、馬の供犠、雨乞い儀礼の一種だったのである。『日本書紀』に皇極天皇元年(642)の大旱に、村々の咒師が牛馬の首を杜の神に祀って雨乞いしたとある。とくに馬の首を供犠して雨乞いする風習は近代まで残っていた。
 余談じみた迂回になったが、ともあれ、五輪書のような戦闘法を教える兵書には、「牛」は似合わない。戦場で使用するのも、牛ではなく、馬である。武蔵が本書で主たる読者として想定している武士の子弟にしても、馴染みのあるのは、牛ではなく、馬である。したがって、武蔵のオリジナルには、「午」(馬)とあったものとして、我々のテクストでは、これを「午首」としている。
 さて、ここの文意は、――敵と戦いの最中、敵我互いに細かいところに気を奪われ、もつれた感じになる時、兵法の道をつねに「鼠頭午首、鼠頭午首」と思って、いかにも細かいところにかまけているうちに、突然、大きな心になって、小から大へ切り替えること。それが兵法の一つの心だて、心得である、――という教えなのである。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 







鼠頭/午首





馬の首出土写真
大阪府四条畷市 奈良井遺跡

 ここは「鼠頭午首」という、やや特異な語句を除けば、とくに難しいところはないであろう。――と思っていたら、案外そうではなかった。というのも、気持を小から大へ切り替えろ、そうしてもつれた状況を打開しろ、という文脈であるはずなのに、それとは違う読みが存在したのである。
 岩波版注記では、これについて、仰天すべき解釈を提示している。
「鼠の持つ細心さと牛の持つ大胆さを兼ね備えよということ。胆大心小は、とくに武士の心搆えに肝要であると述べている」
 五輪書はそんなことを述べているか?――述べていない。「鼠の持つ細心さと牛の持つ大胆さを兼ね備えよ」というような話はどこにもない。だいたい「牛の持つ大胆さ」なんてことが、この世に存在するはずもない。
 しかしこの、細心大胆兼備ということは、岩波版注記の発明ではない。『劍道秘要』の三橋鑑一郎頭注に、「鼠頭午首膽大心小」とあるところからみれば、こういう解釈は少なくとも明治以来存在したのである。これが、もつれた状況を打開するにはどうするか、という武蔵の文脈から大いに外れた解釈であることは言うまでもない。
 こうした解釈が明治以来あったとしても、戦後の岩波版注記の「牛の持つ大胆さ」はさらなる踏み外しである。誤りは時を追って大きくなる。誤謬のバタフライ効果である。
 かくして、既成現代語訳はいかがなりや、と見るに、右掲のごとくである。
 まず、戦前の石田訳は、異例である。小なるものも大なるものも兵法の眞體から見れば無差別である、という珍妙な解釈であるが、その注釈に、「膠着状態を脱却するにあたつて大即小なる觀法――つまり、空の哲理の活用を説いたのである」とあるところを見るに、これは本気らしい。戦前にはこの種の言説は例外ではなく、こうした「空の哲理」なる言葉が大いに流行したのである。
 むろん、「空の哲理」とはそれ自体が空虚な言葉であって、その言説は、まさしく我知らず「空論」を実践していたのである。戦前の武蔵論にはこの手のものが少なくなかった。
 しかし、この「大即小なる觀法」が、明治以来の「大膽小心兼備」という解釈の一亜種であったことは見やすい筋道である。「兼備」の心得が「即非」の哲理になるには、さして懸隔はないのである。
 次に、戦後の現代語訳をみるに、神子訳は、文字づらではおおむね誤りはないが、肝心なところで誤釈を暴露している。「ねずみの頭のことから、牛の首に思いを移す」というのがその間違いで、前述のごとく、正しくは、自分の頭が鼠の頭になってしまっているのを、馬の大きな頭に切り替えることである。
 次の大河内訳も、文字づらではおおむね正しい。鎌田訳は神子訳のパクリだが、「ねずみの頭から、牛の首を思うように」となると、それからもズレている。
 鎌田訳と大河内訳の誤りは、それぞれの注釈に明らかである。両者とも、前出の岩波版注記の《鼠の持つ細心さと牛の持つ大胆さを兼ね備えよ》という路線をそのまま忠実に踏襲しているのである。
 いづれにしても、戦後訳は文字づらではおおむね誤りはないが、テクストのどこにも書いていない「大膽小心兼備」という話を持ち出して、肝心なところで脱線している。
 直訳は、ある場合には、よい結果を生む。しかし、それは、余計な解釈をしないという条件つきである。したがって、我々が注文を付けるとすれば、ここは、もっと字義通りに読め、――ということなのである。

――――――――――――









*【劍道秘要】
《「鼠頭午首」とは全く大膽小心の謂に外ならず、武藏先生が大敵を物の數ともせず、常に單身敵中に飛込みながら、其の飛込み迄には十分の用意を爲すに於て、極めて細心ばりしとなり、(中略)要するに大膽の中に小心のところあり、大小宜敷に適ひ、初めて英雄の本領を發揮し得べし》(三橋鑑一郎頭注)


*【現代語訳事例】
《鼠頭午首とは、敵と戰ふうちに細かい技のせり合いとなって膠着状態になる時は必ず、兵法の道を鼠頭午首と思って――つまり、小なるもの鼠の頭も大なる馬の首も兵法の眞體から見れば無差別であると思って、細かい心を忽ち大きな心に變へるのである》(石田外茂一訳)
《「ねずみの頭、牛の首」というのは、敵とたたかう間に、互いに細かいところに気をとられもつれ合うような状況になったとき、ねずみの頭のことから、牛の首に思いを移すように、がらりと大きな心にかわり、大局を判断してことに当る心得をいうのである》(神子侃訳)
《「鼠頭午首」というのは、敵と戦う間に、互いに細部ばかり攻め合って、もつれあう状態になったとき、兵法の道を常に、鼠頭午首、鼠頭午首と思って、非常に細かい心遣いから、にわかに大きな心になって、局面の転換をはかることは、兵法の心がけのひとつである》(大河内昭爾訳)
《「鼠の頭、牛の首」というのは、敵とたたかううちに、互いに細かいところばかりに気をとられてもつれあうような状況になったとき、兵法の道をねずみの頭から、牛の首を思うように、細かな心遣いから、たちまち大きな心にかわって、局面の転換をはかることは、兵法の一つ心がけである》(鎌田茂雄訳)

 さて、諸本校異のことを云えば、指摘しておくべき箇処がある。その一つは、上述の《そとうごしゅ》の「午首」「牛首」の相異である。
 これは下にまとめて示すように、我々が参照した諸本では、筑前系/肥後系を横断して見られるところである。

系統 午 首 牛 首
筑前系
中山文庫本
石井家巻子本 猿子家本
吉田家本 鈴木家本
立花隨翁本 赤見家甲本
近藤家本 石井家冊子本
伊藤家本 神田家本
肥後系
細川家本 常武堂本
富永家本
楠家本 丸岡家本
田村家本 山岡鉄舟本
円明流系統諸本

 これによって見るかぎりでは、筑前系/肥後系を横断して、「午首」「牛首」両方が分布している。したがって有意な差異は見出せない。
 筑前系諸本に注目するに、早川系では吉田家本と鈴木家本が「牛首」、中山文庫本が「午首」と双方に分かれているが、他方、立花=越後系も「午首」「牛首」の両方がある。
 とくに興味深いのは、石井家本であり、その巻子本と冊子本では違っている。これは巻子本と冊子本では世代が違うのではなく、同じ九代五十嵐正一の代のものである。同一人のものでさえ表記のゆらぎがあるということである。
 したがって、全体と個別の両方のレベルで、校異によって「午首」「牛首」の何れかを決定できない。また、「そとうごしゅ」という武蔵のソースも判明しない。
 上述のごとく、祇園社の「牛頭天王」や、「馬の首」という古来の習俗もある。そこで、あえてどちらかに決定するとすれば、武芸なら馬だろうということで、我々のテクストでは、当面は「午首」ということにしておいたのである。だから、さして確かな根拠があるわけではない。
 もうひとつ、これとは別種の校異について、ここでの事例を挙げることにする。すなわち、それは、筑前系諸本に、
兵法、大分小分にしても、此心、はなるべからず》
とあって、《此心》とするところ、肥後系諸本には、《此心を》として「を」字を付す。
 これは、筑前系/肥後系を区分する指標的相異である。つまり、筑前系諸本は共通して、《此心》とし、肥後系諸本も共通して、《此心を》として、明確に分布しており、双方を横断する事例はない。
 この件について云えば、筑前系に共通してあるところから、既述の諸事例と同様にして、「を」を付さない《此心》を古型とみなしうる。それに対し、肥後系諸本の《此心を》として「を」字を付すのは、後に肥後で発生したローカル・パターンである。
 これは早期派生系統の子孫たる諸本も同じであるから、肥後系早期に発生したものである。以後、諸系統の分岐派生を経過して、この「を」字を付す語句が、現存書写本に現れているというわけである。
 蛇足ながら、文の内容分析の方からすれば、この「を」字の有無によって文意に大差ないものの、文章のリズムからして、「を」字がないほうがよろしい。つまり、《此心をはなるべからず。此事、能々吟味有べきもの也》よりも、《此心、はなるべからず。此事、能々吟味有べきもの也》の方が、文体はよい。
 ただし、これは文体の優劣で決めることではなく、上述のように、どの写本にどちらの語句があるか、つまりは、間テクスト的分析によって規定されるステイタスによって決まることなのである。   Go Back


右:吉田家本 「牛首」
左:細川家本 「午首」



右:石井家冊子本 「牛首」
左:石井家巻子本 「午首」



*【吉田家本】
《此心、はなるべからず》
*【中山文庫本】
《此心、離るべからず》
*【立花隨翁本】
《此心、はなるべからず》
*【赤見家甲本】
《此心、はなるべからず》
*【近藤家甲乙本】
《此心、はなるべからず》
*【石井家本】
《此心、はなるべからず》
*【楠家本】
《此心はなるべからず》
*【細川家本】
《此心はなるべからず》
*【富永家本】
《此心はなるべからず》
*【狩野文庫本】
《此心はなるべからず》


 
   26 我は将、敵は卒
【原 文】

一 しやうそつをしると云事。
将卒を知るとハ、何も戦に及とき、
我思ふ道に至てハ、たへず此法をおこなひ、
兵法の智力を得て、わが敵たるものをバ、
ミなわが卒なりと思ひとつて、
なしたきやうになすべしと心得、
敵を自由にまはさんと思ふ所、
われハ将也、敵ハ卒也。
工夫有べし。(1)
【現代語訳】

一 将は卒を知るという事
 将は卒を知る*〔支配する〕とは、(こういうことだ。つまり、――)
 だれでも、戦いに及ぶ時、自分が思う道に達したら、たえずこの法〔教え〕を実践し、兵法の智力を得て、敵である相手を、皆自分の兵卒だとみなして、(自分の)したい通りに扱えばよいと心得て、敵を自由に廻さん〔動かしてやろう〕と思うところ、そこでは、我は将であり、敵は卒である。(これを)工夫あるべし。
 
  【註 解】

 (1)われハ将也、敵ハ卒也
 前条につづいて、ここも戦場での心得である。敵を全員、自分の兵卒、部下だとみなして、敵を自分のしたいように自由に動かす、そんな心持で戦闘に臨め、という教えである。
 これは戦いのイニシアティヴ(主導権)をとるというよりも、ヘゲモニー(支配権)をとるという、もっと強い意味である。敵を全員、自分の兵卒、部下だとみなせとは、たしかに荒唐無稽な教えだが、それが武蔵流である。命がけの実戦の塲では、そのインパクトの強さで、釣合うのである。戦闘者は、この《われハ将也、敵ハ卒也》を、咒言のように反芻しつつ、戦場を驅け廻るのである。
 語釈の点で、まず注意したいのは、ここの「将、卒を知る」の「知る」は、将たる指揮者は部下の兵士のことを知るべきだ――などと云うときの「知る」ではない。この「知る」は政治的用語であり、「支配する」と同義の語である。
 初代神武天皇は、神日本磐余彦尊(かむやまといはれひこのみこと)の「ヒコ」名の他、天皇(すめらみこと)としては、「始馭天下之天皇」の名があり、これは「はつくにしらす」と読む。初めて国を統治した者という意味である。この「しらす」は「しる」の敬語用法である。
 「知」は、「治」に同じく、統治する・支配するという政治的概念からきている。知行・下知などという言葉もこの一連である。それゆえ、
《遂に世中をしり給べき右のおとどの御いきほひは》(源氏物語 桐壺)
《むかし、男、津の国にしる所ありけるに》(伊勢物語 六六)
とあるところ、いづれも、現代語式に「世の中をお知りになる右大臣」とか「摂津国に知っている所があった」とか訳すと間違いなのである。源氏の方は「世の中を統治なさる」であり、伊勢の方は「摂津国に支配地(領地)があった」という意味である。
 ここで武蔵がいう「知る」も、これと同様に、統治する・支配するという政治的概念からきている。「知る」は、ここでは、この路線の延長で、相手を自由に扱うという意味である。
 したがって、既成現代語訳に、「将卒を知る」として、「知る」という字句を、何の注釈もなくそのまま用いているのは、誤訳である。
 そのように、翻訳しないことによって誤訳する結果になるという事例は、たとえば、既出例では、《そのまゝ》という語句である。これは五輪書では、たいてい「すぐさま」の意であるが、これを現代語訳で、そのまま「そのまま」と書いてしまっては、誤訳なのである。
 ようするに、「無為にして錯る」という逆説がここにある。翻訳しないことによって誤訳にいたる、何もしないのに誤ってしまうのである。今後本書を翻訳する者は皆、既成現代語訳の轍を踏まざるように、この点に注意することだ。
 もう一つ、語釈で採りあげるべきは、「自由にまはす」という語であろう。これは、たとえばこの火之巻の「三つの先」の教えに、
《いつにても我方よりかゝる事にはあらざるものなれども、同じくハ、我方よりかゝりて、敵を自由にまはしたき事也》
とあったところである。「廻す」という言葉は、猿廻しの「廻し」で、我が方の思い通りに敵を動かすことである。すでに見た通り、五輪書にしばしば登場する用語である。
 以上のことを踏まえて、この「将は卒を知る」という節の内容は、――我が敵である相手をすべて自分の部下の兵隊だとみなして、自分の思い通りに扱えばいいと心得て、敵を自由に廻してやろうと思うこと、そこでは、我は将であり、敵は卒である、ということである。
 これと同じ教えは肥後兵法書にもある。それを見ると、タイトルが「将卒の教」となっており、「将卒を知る」とはない。また、「将卒と云ハ」とあって、「将卒」というだけで通じるようになっていたらしい。つまり、一流内部ではこれで通じるほど、周知の教訓であったものとみえる。
 したがって、これは五輪書の記事を請けて書かれたものであり、もとより五輪書以後の文書である。
 つまり、五輪書以後とは、武蔵死後のことであり、その段階で書かれたものである。武蔵が死後も物を書くはずがないとすれば、肥後兵法書は、むろん武蔵の述作ではない。
 こうした自明のことが、実はなかなかのみ込めないのが、近年に至るも、武蔵研究者の症候の一つである。兵法三十五箇条は、寺尾求馬助が武蔵から相伝されたものだ、さらには、細川忠利の死の前に、武蔵がそれを忠利に献上したものだ、という伝説が、いまだに信じられているのである。
 しかし、もう、そんな蒙昧に浸っている時ではない。三十九箇条であれ、三十五個条であれ、肥後兵法書については、とくに史料批判をきちんとなすべきである。そうすれば、この文書が、武蔵死後に書かれたもので、寛文年間の求馬助奥書以前には遡れない文書であることが知れよう。
 「物毎に」そうであるが、武蔵研究においても、伝説に惑わされず、何事も虚心に先入見なしに、立ち入ってみることが必要である。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 











橿原神宮と畝火山
奈良県橿原市久米町



神武天皇と金鵄
小学2年修身教科書挿絵





猿廻し


*【肥後兵法書】
《 將卒の教の事
一 將卒と云ハ、兵法の利を身に受てハ、敵を卒に見なし、我身將となりて、敵に少も自由をさせず、太刀を振せんも、すくませんも、皆我心の下知に付て、敵の心にたくみを失はせ、業をさせざる様に有べし。此事肝要なり》


 
   27 束をはなす
【原 文】

一 つかをはなすと云事。
束をはなすと云に、色々心ある事也。
無刀にて勝心有、又、
太刀にてかたざる心あり。
さま/\心のゆく所、書つくるにあらず。
能々鍛練すべし。(1)
【現代語訳】

一 束をはなすという事
 束〔つか・柄〕を放すというのには、いろいろ意味がある。無刀で勝つという意味もあれば、また、太刀では勝たないという意味もある。
 その意味の行くところ、さまざまであるが、それを書きつくせはしない。よくよく鍛練すべし。
 
  【註 解】

 (1)無刀にて勝心有、又、太刀にてかたざる心あり
 ここは文が短いだけに、解釈が必要なところである。
 束〔つか・柄〕を放すというのは、字義通りには、太刀の束を手から放すことである。太刀を抛棄することである。
 ――というと、へえ、剣聖武蔵はそんなことまで言っていたのか、と意外な感じがあろうが、ここはまた微妙な話なので、注意して読むべきところである。
 ひとつは、無刀で勝つという意味もあれば、また、太刀では勝たないという意味もある、というところを字義通りに読んで、これを太刀遣いの応用篇と読む方向である。
 言うまでもなく、無刀で勝つことは、柳生宗矩の『兵法家伝書』その他、これをテーマにする言説が多くあった。いざとなれば、刀なしでも勝つという空手〔くうしゅ〕の技である。したがって、これは取り立てて大したテーマではない。
 もう一方の、太刀では勝たないという意味なら、これは太刀を放り出して、それ以外の武器で勝つということである。すでに何度も述べたごとく、剣術は武芸一般のひとつであるにすぎない。とくに具体的な場面を想定すれば、太刀は武器としては脆く、実戦ではすぐに使い物にならなくなる。そんなとき、その太刀を捨てて、別の武器を採って戦うのである。
 しかし、ここは、別の武器で勝てというそんな話ではない。無刀で勝つということと、太刀では勝たないということは、同じことの両面である。その両面の相違を示唆しているのである。
 ところが、第二の読みは、「束をはなす」それ自体が隠喩として使われているとして、そのレベルでここを読むことである。
 これはどういうことかと言うに、前にあった「四つ手をはなす」という教えと同じような意味と捉えるのである。四つ手をはなすのは、実際に組み合った手を放すという字義通りの意味ではない。戦況が膠着してしまったら、事態を打開するために、それまでとっていた戦術からいったん離脱して、頭を切り替えてまったく別の手段をとれ、ということであった。
 ここもそうした隠喩としての「束をはなす」であるとすれば、これはたんに一分の兵法のことに限らず、いわゆる大分の兵法、合戦などの集団戦を含めた戦い一般のことに拡大しての話である。
 すなわち、《無刀にて勝心有》は、武器なくして勝つことであり、《太刀にてかたざる心あり》は武器では勝たないということであり、ようするにいづれも「戦わずして勝つ」という古来の戦争訓にある逆説的なポジションとなる。
 おそらく、武蔵の《さま/\心のゆく所、書つくるにあらず》というのは、無数に口舌に載せられた孫子以来の「不戦勝」の、そうした兵法の根本的逆説性を念頭においてのことである。
 パラドックスを説明すると、パラドックスではなくなる。言い換えれば、パラドックスは、言葉の表象的次元ではなく、まさしく行為の実践的次元にのみ、そのポジションがある。パラドックスは、イデアルなものでも、イマジナリーなものでもなく、まさにリアルな次元にのみあるからだ。
 この《束をはなす》という語句が隠喩として行使されているとすれば、
《無刀にて勝心有、又、太刀にてかたざる心あり》
というテーゼの微妙さを、一応以上のようなことは念頭において読み取るべきである。ここは省略されているのでも、言葉が足らないのでもない。兵法の根本的逆説性を示唆しているこのテーゼは、この火之巻がそろそろ末尾に近づいたという徴候でもある。
 しかしまた、この段は《無刀にて勝心有、又、太刀にてかたざる心あり》以上の具体的な記事はなく、武蔵が《さま/\心のゆく所、書つくるにあらず》と書いているのだから、不立文字である。水之巻末尾条々の例でいえば、これも「口伝」と付記があってよさそうなのに、寺尾孫之丞は、そうは書かなかった。
 おそらく、寺尾孫之丞は、この「束をはなす」について、武蔵から何も聞いていなかったのである。寺尾は、その意味で正直な伝承者だと云える。しかし、次条の「巌の身」については、何か聞いていたらしく、「口伝」と付記している。

――――――――――――

 さて、我々の解釈に対して従来の解釈はどうであろうか。
 しばしば引き合いに出してきた岩波版注記は、この《束をはなす》を、これまた、「転心法の一つ。握っている束(太刀の柄)を放す。太刀を捨てるのではなく、刀にこだわっている、わが心を放つこと」として、これまた戦前からの古臭い心法説めいた説教を開陳するのである。
 しかしながら、それだけの話なら、武蔵は「太刀にこだわるな」とストレートに言ったはずである。言外にある何かを示唆するような、ここでの物言いは、そんな単純な話ではない。また大分の兵法にたえず言及してきたこの火之巻である、そんな「刀にこだわっている、わが心を放つ」などという場違いの言説がここにあろうはずもない。
 ここで、既成現代語訳を見るに、右掲の如しである。ここは、戦前の石田訳がテクストの文意に最も近接している。とくに《太刀にてかたず》について、「刀以外の物で勝つ」は意訳ながら、このテクストを、隠喩としてではなく、字義通りに読むレベルでは、これはこれで正しい。これに対し、戦後の諸訳は、いづれもこの箇処で間違っている。
 神子訳は、「太刀をもちながら勝たぬ」という誤訳の路線を開き、大河内訳はこの誤謬を踏襲して、「太刀をもってしても勝ち得ない」、鎌田訳もまた「太刀をもっても勝たない」とする。これでは、刀がなくても勝つ場合もあれば、刀があっても勝てない場合がある、という凡庸きわまる意味でしかない。
 ようするに、《無刀にて勝心有、太刀にてかたざる心あり》を文脈まで読み込んでいないから、こうした間違いが生じるのである。神子訳の影響は他にもあって、「刀にこだわるな」というその頭注の解釈は、岩波版注記に取り込まれ、以後の現代語訳にもその路線は踏襲されたとみえる。
 もとより、武蔵の《さま/\心のゆく所、書つくるにあらず》の微妙な物言いに、こうした粗雑な読解は遠く届かない。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 










*【兵法家伝書】
《無刀はとる用にてもなし。人をきらんにてもなし。敵から是非きらんとせば、取べき也。取事をはじめより本意とはせざる也。よくつもりを心得んが爲也。敵とわが身の間何程あれば太刀があたらぬと云事をつもりしる也》
《無刀と云ふは、人の刀をとる藝にはあらず、諸道具を自由につかはんが爲也。刀なくして人の刀をとりてさへ、わが刀とするならば、何かわが手に持ちて用にたゝざらん。扇を持ちて也共、人の刀に勝つべし。無刀は此心懸なり》

*【四手をはなすと云事】
《四手をはなすとは、敵も我も、同じ心に、はりあふこゝろになつては、戦はかゆかざるもの也。はりあふ心になるとおもはゞ、其まゝ心を捨て、別の利にて勝事を知る也。大分の兵法にしても、四手の心にあれば、はかゆかず、人も多く損ずる事也。はやく心を捨て、敵のおもはざる利にて勝事、専也。又、一分の兵法にても、四手になるとおもはゞ、其まゝ心をかへて、敵の位を得て、各別かはりたる利を以て勝をわきまゆる事、肝要也。能々分別すべし》

*【孫子・謀攻篇】
《孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。是故百戦百勝、非善之善者也。不戦而屈人之兵、善之善者也



石井家本 火之巻末尾二条




*【現代語訳事例】
《束を離すとは、種々の意味がある。無刀で勝つといふ意味もあり、また刀以外の物で勝つといふ意味もある。様々な場合の意味を納得いくまで書き付けることは出来ない》(石田外茂一訳)
《「柄(つか)をはなす」つまり太刀を手からはなすというのには、いろいろな意味が含まれている。刀を持たずとも勝つ道はあり、また太刀をもちながら勝たぬこともある。くわしい内容を書き記すことはできない》(神子侃訳)
《「束(太刀の柄)をはなす」ということには、いろいろな意味が含まれている。無刀で勝つという意味もある。また、太刀をもってしても勝ち得ないという意味もある。さまざまな内容は心のゆくまで書き記すことはできない》(大河内昭爾訳)
《束(つか)をはなすというのには、いろいろな意味がある。刀を持たないでも勝つ道もあり、また太刀をもっても勝たないこともある。さまざまな意味があるので、いちいち書き記すことはできない》(鎌田茂雄訳)


 
   28 岩石の身
【原 文】

一 いはをの身と云事。
巖の身と云ハ、兵法を得道して、
忽巖のごとくになつて、
萬事あたらざる所、うごかざる所。(口傳*) (1)

【現代語訳】

一 岩石の身という事
 巌〔いわお・岩石〕の身というのは、兵法の道を会得して、たちまち岩石のようになって、どんな場合でも、当らない、動かない、というところ(である)。(口伝*)
 
  【註 解】

 (1)萬事あたらざる所、うごかざる所
 これは五輪書の最も有名な教えのひとつである。それゆえ、これに言及する論も多い。しかるに、解釈そのものが間違っていたら、どんな立論も無効になろう。この教えについて語ろうとする者は、以下の註解によって、まず語の正しい意味を知るべきである。
 「いわお・いはを」(巌)とは岩石の意味で、しかも巨石のイメージがある。磐坐〔いはくら〕という巨石を神体とする信仰は、今日でも随所にその痕跡を認めることができる。「巌の身」は、巨石を――神体ならぬ――我が身体とする教えである。
 前条「束をはなす」に続いてこれも短文であるが、それとはちがって、ここは「口伝」とある。そうであるからには、本当は解釈に及ぶのは蛇足であろう。
 ここで改めて云っておくが、五輪書が武蔵の兵法論の集大成であるとか、あるいは二天一流の奥義を明らかにした書だとか、そういう解説は後を絶たないが、それはすべて誤りである。
 五輪書は決して奥義など語らず、肝心な処にくると、寺尾孫之丞は、「口伝」と付記して、不立文字の指標を立てる。五輪書は入門書であっても、決して奥義書などではないのである。
 さて、ここでも「いわお(巌・岩尾)の身」がテーマだが、その内容はほとんどわからない。かろうじて、
《萬事あたらざる所、うごかざる所》
という部分で何事かが語られているのである。
 寺尾孫之丞は、これについて、何ごとかを教えを受けていたらしく、ここに「口伝」と記す。すでに見たように、水之巻末尾、「打あひの利の事」「直通の位と云事」の二ヶ条について、「口伝」と記している。したがって、この「巌の身と云事」で三つの口伝が揃ったことになる。
 しかし、前に述べたように、水之巻末尾三ヶ条は、他の条々と異なる体裁をもつ。これは元になる武蔵草稿に断簡があったのだが、それをそのままここに編入したのではなく、寺尾孫之丞が何らかの加工をしたうえで、そこに編入したものである。
 武蔵本来の水之巻の記述は、「多敵の位」までであり、水之巻後記には、この末尾三ヶ条に関連のあることは語られていない。末尾三ヶ条は、草稿にはなく、寺尾孫之丞の編集によって生じたものである。
 おそらく、それと同じく、火之巻本文は、前条「束をはなす」までであって、この「巖の身と云事」は、寺尾孫之丞による編入であろう。ただし、これは寺尾の作文なのではなく、武蔵にこの種の言説があったのを、忘れがたし、捨てがたしとして、寺尾がここに入れたのである。
 寺尾孫之丞は、武蔵草稿に書かれざる一条をここに入れて、それを「口伝」(unwritten)とした。まさにそれを字義通りに受け取る必要がある。五輪書の教義すべてを知っていたわけではない寺尾だが、また逆に五輪書草稿に書かれていないことも知っていた。それは彼が長年武蔵に隨仕したからである。
 したがって、寺尾が本条をここに編入したとしても、すくなくとも、《萬事あたらざる所、うごかざる所》という文言は、武蔵自身のそれであり、寺尾はそれをここに記録したのである。
 しかし我々に知れるのはそこまでであって、寺尾が武蔵から、それ以上の何事を聞いたのか、推測のしようがないのである。むしろ、寺尾孫之丞は、五輪書に記したいくつかの口伝条々を資産として、自派を立ち上げた。だから、門人以外にはそれは明かされないのも当然である。
 ところが、寺尾求馬助系統の肥後兵法書には、この「巌の身」に対応する一条がある。それを見るに、「口伝」という文言は付されていない。したがって、これは五輪書に「口伝」とあるのを知っている者が、いわば口伝などないと明かすかたちである。
 そこで、肥後兵法書の記事を確認してみると、――岩尾の身になるというのは、動くことなく、強く大きくなる意味である。おのづから一切の理を得て尽きせぬことであるから、生ある存在は岩尾の身を避ける心があり、降る雨、吹く風にいたっても、この岩尾を避けることは同じである。岩石には精(spirit)はあっても、心(mind)はない、無心である――という話である。
 これが口伝の内容かどうか、となると、何も確証がない。ちなみに、この肥後兵法書の次条「期を知ると云事」には、《一流に直通と云極意の太刀あり。此事口傳》とある。それに対し、こちらの方は、口伝が別にあるとは書いていない。むしろ、肥後兵法書を文言を見るに、これは五輪書の「巌の身と云事」を解釈したもので、もとより、肥後兵法書全体がそうであるように、武蔵死後、だれかが為した著述である。
 ただし、肥後兵法書の、生ある存在は岩尾の身を避ける心があり、降る雨、吹く風にいたっても、この岩尾を避ける、というあたりが、五輪書にいう《萬事あたらざる所》の解釈であり、武蔵死後、求馬助の門流ではそう解釈していたという以上のことは知れない。
 寺尾孫之丞の「口伝」は、これとは違ったものであろう。口伝とは、必ずしも秘伝奥義を意味しない。それは本来、言語レベルではなく行為レベルで、直接的な教えによってのみ可能な次元に関わるものである。
 言語化できるのは抽象的なことで、具体的なものほど言語化できない。これが門外不出の排他的なものとなることによって、かろうじて実用的次元に留まりうる所以である。それはいかなるものか、という秘密を開示する「口伝」とは、実は究極的には言語ではなく、まさに行為の次元に関わる具体的なものであったからだ。とすれば、以下、その行為の具体的な次元に立ち入ってみる必要があろう。
○此条諸本参照 →  異本集 











剣座〔つるぎくら〕
兵庫県芦屋市剣谷





*【水之巻末尾三ヶ条】
《一 打あひの利の事
此打あひの利と云事にて、兵法、太刀にての勝利をわきまゆる所也。こまやかに書記すにあらず。 (能)稽古有て、勝所を知べきもの也。大かた、兵法の実の道を顕す太刀也。口傳》
《一 一つの打と云事
此一つの打と云心をもつて、たしかに勝所を得事也。兵法よく学ざれば、心得がたし。此儀、よく鍛錬すれば、兵法心のまゝになつて、おもうまゝに勝道也。能々稽古すべし》
《一 直通の位と云事
直通の心、二刀一流の實の道をうけて傳ゆる所也。能々鍛練して、此兵法に身をなす事、肝要也。口傳》











*【肥後兵法書】
《 岩尾の身となる事
一 岩尾の身になるといふは、動くことなく強く大きに成心なり。をのづから万理を得て尽きせぬ事なれバ、生ある者ハよくる心ある也。ふる雨、吹風までも同事也。石に精有、心ハなし。能々吟味有べし》











神鳴石 保久良神社
神戸市東灘区本山町
 ここで口伝の所在を示す《萬事あたらざる所、うごかざる所》は、攻撃を受けても、それが当らない、こちらは不動のままで、先様がよけて通るということである。こうなると、巌の身は奇跡的身体であり、このあたり神秘主義的言説に似てくる。
 ところが、本当はそうではない。
 ――攻撃を受けても、身体は動かず、しかも当らない。
という事態は、奇蹟でも比喩でもなく、現実にありうることであった。いわゆる名人論・達人譚に、いくら打ち込んでも当らない、相手は動かないのに当らない、という話が山ほどある。
 これは、一つには物理的な話で、「見切り」ということがあるからである。つまり、一尺(30cm)、五寸(15p)の間合いで見切るなら、身体は動く。ところが、一寸(3cm)という間合いの見切りなら、身体が動いたようには見えない。そういうことがある。
 見切りという話では、右掲の『撃劍叢談』、柳生十兵衛の逸話が有名である。木刀で立合って相打ちとみえたものが、真剣では、生死の違いとなってリアルなものとなる。「すべて劍術のとゞくととゞかざるは、五分一寸の間に有る物也」というわけである。
 武蔵説話の中に以下のような話もある。――宮本武蔵が人と仕合をするを見るに、相手の打込む太刀先や突出す太刀先が、ほとんど武蔵の頭に当るか腰を擦るかと思うほどであっても、一度も当ったことがない。武蔵は、身を開いて避けもしなければ、受け留めることも払うこともしない。そうして、相手が立直るところへすかさず付け込んで、勝を取るかあるいは相手を悩ますのである。
 そこで、門弟中の少し出来る者たちが不思議に思って、ある日そのわけを質問すると、武蔵はにっこり笑って、こう答えた。
「それは、よいところへ気がついた。そこが、太刀先の見切と云って、仕合にも真剣勝負にも最も大切なことである。平生よく修業して置かぬと、大事の時に間に合わない。また、五躰の働きは、自由自在にすべきだが、大事の仕合等に、相手の太刀先を避けるため、あまり五躰を動かすと、その動くために五躰の備えに隙が出来て、相手につけ込まれる。だから、太刀先の見切によって無駄に五躰を動かさぬようにするのだ」という。むろん、
「初心の内は、五躰の働きを充分に修行せねばならぬ。だが、あらまし出来たらば、次には太刀先の見切を修行して、大事の時には無駄に五躰を動かさないようにするのだ」。
「そこで、この見切の仕方はいかにするかといえば、相手の太刀先と我身との間に一寸の間合を見切るのである。一寸の間合があると見切れば、相手が打ち下しても突いて来ても、決して我身に当るものではない。また一寸以上の間合があると見切れば、もとより何もする必要はない。もし一寸の間合を見切ることが出来なければ、その太刀先は我身に当ってしまうから、受けるとか脱すとか、わきまえておかねばなるまい」といって、
「しかし、はじめから、一寸の見切は出来るものでないから、まず五寸六寸ほどの見切を修業して、それが四寸になり三寸になり、次第に縮めていって、終に一寸の見切のつくようにするがよい」。
「さて、一寸の見切といえば随分細かいに相違ないが、一体剣術は大きい仕事を細かにするのが持前であるから、その心持で修業すれば、自然にその見切のつくようになるものである。これから、それを教えてやろう」。
 そう言って武蔵は、門弟の中で、出来る者を教える時には、門弟の打ってくるか突いてくる太刀先を見ては、それは一寸、それは二寸、または三寸四寸、と声を掛ける。自分の方から打ったり突いたりする場合は、わざと太刀先を控えて、これは一寸、これは二寸、と声をかける。
 かくして教えたので、門弟の中にも次第にこの見切のつく者ができたとのことである。武蔵の門弟中において、ある一派は、この見切の事を「色を見る」と称した。「色」とは有り余る意味で、一寸の色を見れば二寸の間合がある、という類である、云々。
 以上は孫引きだが、『剣術落葉集』という書物にある話である。こういう場面が実際にあったかどうか、それは別にしても、これが「間合いを見切る」ということで、むだに身体を動かさないのが、上手のする戦闘法である。派手な立ち回りは、むろん、スペクタクルのフィクションなのである。
 これに関連して、もうひとつは、身体の分裂操法ということがある。これで拍子が外されると、打ち込んでも当らない。あたかも身体の実体が消えたようで、手応えがない。これも、当らないということである。ここで、
 ――巌の身とは、空虚な身体である。
という逆説が不意に浮上する。
 そして第三に、この「当らない」が、その都度必死になってよける、かわす、避けるという身振りのないことである。《石に精あり、心はなし》とはそれである。しかもこうなると、あたかも相手の攻撃が身体を避けて通っているかのように見える。これが、不動にして当らない、生ある存在も、雨風も避ける巌の身という比喩のイメージとなる。
 これは名人達人と呼ばれる者の、アート(芸術)としての武術の極みであろう。しかし実戦の現場において、これがどれほど物の役に立つかとなると、それは極めて恠しい。こうした実用的次元から離れてはじめて、アートとしての武芸の価値がある。それは右の『丹治峰均筆記』の有名な武蔵説話によっても知れる。
 しかし、「口伝」のことを再び云えば、口伝とは単なる口頭伝授のことではない。それは言語のレベルではなく、身体行為の次元に関わるものであったことは、強調しておくべきであろう。しかし、その次元での教えは、あるばあいには、致命的なものとなる。いかにしてそれが可能かという秘密を開示する「口伝」とは、実は究極的には言語ではなく、まさに行為のリアルな次元に関わるものであったからだ。
 口伝と相関する行為のリアルな次元――それはたとえば、『撃劍叢談』の以下のようなエピソードによっても知れるであろう。
 これは一刀流の伝説的人物、伊藤一刀斎の話だが、――東国で一人の浪人が地摺の晴眼〔ぢずりのせいがん〕という太刀を習得し、これに勝つ者はあるまいと思い込んでいた。それが一刀斎に出会って、「この地摺の晴眼を止める方法があれば、ご相伝下されたい」と申し入れた。一刀斎は、「なるほど、伝えてもよい」と応諾しながら、それをせず、また他国へ出かけてしまおうとする。そこで浪人は、「一刀斎もこの太刀を止めることができないから、逃げようとするのだ」と思って、一刀斎の出かける途中に待ちかまえ、「先日私が望んだ地摺の晴眼の止め方をご伝授ないのは、恨みに思います。今ここで、ご相伝下さい」と云うと、そのまま刀を抜いて、かの地摺の晴眼でするすると仕かけてきた。これに対し、一刀斎が抜打ちに切ると見えたとたん、かの浪人は二つになって倒れ伏していた。地摺の晴眼を止める方法は伝授されたのだが、残念なことに、教えられた方は死んでしまった。これを地獄の土産ともいうべし、との世評であった、云々。
 まさに教えは致命的である。言い換えれば、教えのリアルな次元とは、たんなる「知識」ではなく、かような致命的な知にこそ関わるものである。
 さて、この「巌の身」について異説がある。寺尾家記の、武蔵晩年の門弟・寺尾求馬助に関する逸話にこうある。――細川光尚があるとき武蔵に尋ねた、「巌の身とは何か」。武蔵はそれに答える代わりに、寺尾をここへ召してもらいたいと言った。そこで呼ばれてやって来た寺尾に、武蔵は、「いまお前に切腹を仰せつかった。そう心得よ」と言った。寺尾はその言をうけて、自若常の如く、動揺することもなく切腹の支度をしにかかった。そこで武蔵は光尚に言った、「これが巌の身であります」。
 このパフォーマティヴな応答のシーンは、説話としてはまずまずの出來である。しかし、五輪書のいう巌の身とはすでに意味が違う。肥後兵法書の記事とも違う。武蔵通俗伝説の一種、後世発生の定型化した逸話である。同じ巌の身の解説譚として、光尚を父の忠利に、寺尾求馬助を都甲太兵衛に置き換えた、同型の逸話がある。
 武蔵のいう「巌の身」を、いかなる場合にも動揺しない不動心とするのは、早期からあった誤解のようである。こうした誤解の生じるのは、禅家の通俗的「不動心」論が、世間にあまりにも大きな影響力をもっていたからである。武蔵の巌の身が、これとはまったく違った、口伝の秘法であったことは、まさに上述の通りである。

――――――――――――








*【撃劍叢談】
《浪人、「憚りながら御立合下さる可き哉」と望む。三厳〔柳生十兵衛〕、即ち立合ひて打合はれしに、相打也。「今一度」と望む。又相打なり。三厳、浪人に向ひ、「見えたるか」と問はる。浪人怒りて「両度とも相打にて候」といふ。其時主人に向ひ、「いかに見られたるか」と問はる。主人も「いかにも浪人の申す通りに見請け候」との挨拶なり。三厳、「此勝負見分けられずば是非なし」とて坐に着る。浪人弥よせきて、「さらば眞劍にて御立合下さる可し」と望む。三厳、「二つなき命也。いらぬ事故やめにせられよ」とて、顔色常の如し。浪人、弥よ募りて、「此分にては明日より人前なり申さず。是非々々御立合下さる可し」といさむ。三厳静に下り、「いざ来られよ」と立合はれ、初の如く切結ばる。浪人は肩前六寸計切られて二言もいはず倒れたり。三厳坐に歸られしに、着用の黒羽二重の小袖、下着の\綿までは切先はづれに切さき、下着の裏は殘りたり。主人にこれを示され、「すべて劍術のとゞくととゞかざるは、五分一寸の間に有る物也。勝は如何樣にしても勝つべけれども、最初より申す所の違はざるを御覧に入るべき爲、此如に致し候」と申されたり。主人感じ且驚かれしと云ふ》(巻之一 柳生流)



柳生十兵衛三厳


*【丹治峰均筆記】
《武州、以ノ外機嫌損ジ、(中略)散々ニ呵リタマヒ、十左衛門ガ児小姓ヲ呼テ、「盆ニメシツブヲ入レ来タレ」トテ取ヨセ、右ノ児小姓ガ前髪ノ結目ニ食粒一粒ツケテ、「アレヘ参リ立テヲリ候ヘ」ト申付、立アガリ、床ニアリケル刀ヲ取テ、スルスルト抜放シ、上段ニ搆、児小姓ガウシロザマニ立チタルニ、上段ヨリ直ニ打込ミ、結目ニツケタル飯粒ヲ二ツニ切ワリ、条右衛門ガ鼻ヱサシ付、「コレヲ見ヨ」トテ、三度マデ致サル。条右衛門驚嘆シ、十左衛門ヲ初一座ノ面々舌ヲマキ感誉セリ。武州ノ玉フハ、「吾、如是手ワザ熟シタレ共、ワザニテハ敵ニ勝ガタシ。増而其方、兵意ハ得心セズ、ワザハ不叶、何ヲ以テ人ニ可勝哉。サテ/\ウツケ者也。早々帰候ヘ」トテ追カヘサレシト也》




伊藤一刀斎 武稽百人一首

*【撃劍叢談】
《又東国にて一人の浪人、地ずりの晴眼と云ふ太刀を覚へ、是に勝つ者あらじと思ひ、一刀斎に逢ひて、此の地ずりの晴眼の留め様も候はど御相伝下され候へと望む。一刀斎、成程伝へんと請合ひながら、其の事なく又他国に赴かんとす。浪人心には、一刀斎も此の太刀留る事ならぬ故ぞと思ひ、途中に出向ひ、日比望みし地ずりの晴眼の留様御伝授なきこそ遺恨なれ。唯今御相伝下さる可しと云ふままに、刀を抜きて彼の地ずりの晴眼にてする/\と仕懸けたり。一刀斎抜打に切ると見えしが、彼の浪人は二つに成りて倒れ伏したり。世に、地ずりの晴眼の留め様伝授すると、其の儘息絶えたる事残念也、是をや真金江の土産とも云ふべき、とて評しあへり》(巻之三 一刀流)




*【沢庵宗彭】
《不動とは、我心を動転せぬ事にて候、動転せぬとは物毎に留まらぬ事にて候。物一目見て其の心を止めぬを不動と申し候》(不動智神妙録)

 この「巌の身」の節はごく短く、また難解語句もないので、語釈に間違いようはないはずである。ところが、既成現代語訳を見るに、「当たらぬ」「動かぬ」という語句が読めなくなっているのがわかる。つまりは、訳者それぞれの思い込みが投影され、色目が着いて、原文通りに読めぬものらしい。
 戦前の石田訳は、「当たらぬ」というのを、「匹敵する者なく」と意訳したつもりだが、これは脱線である。また、「動かぬ」というところを「確固不動」とし、余計な語句を入れている。
 戦後の神子訳は、「萬事あたらざる所」を「どのような打撃にもたえ」とした。「当たらぬ」がなぜ「打撃に耐える」ことになるのか、よくわからぬ訳文である。しかし、「動かぬ」を、「動かされない」と訳したのが神子の新機軸である。この主客転倒の受動態によって、「動かぬ」という主体のポジションが消えたのである。
 ちなみに、岩波版注記は、巌の身について、「心技体一致の不動の体をいう」と、またまた半可通の珍解釈を示している。言うまでもないが、心技体一致なんてことは、五輪書のどこにも書いてない。解釈が恣意的な意味を生産してしまう例がこれである。他の解説本にも、この種の通俗解釈が多い。それについては、あまりにもバカげた歪曲なので無視してよかろう。
 言うまでもなく、ここの教えは、「巌の身」であって「巌の心」ではない。こうした誤読は、身体論が精神論へ歪曲されたというよりも、むしろ実戦的テクノロジーは、その根源的暴力性ゆえに、反社会的なものであり、シンボリックな秩序――言語であれ社会であれ――の内部には決して統合・回収されない、という事実を証言している。これが、物事が口伝としてしか伝承されないことの真の意味である。
 現代の恣意的な通俗的解釈を見るとき、やはり依然として、「巌の身」の教えは言説秩序には統合されないことを確認しうる。ここは、まさに不立文字で行くしかないようである。その意味では、「巌の身」の教えを口伝とした寺尾孫之丞は、今でも正しいのである。

――――――――――――

 この「いはをの身と云事」のごく短い条文においても、校異がある。それは、本条見出し冒頭で、諸本に次のような字句がある。
《一 いはをのミと云事。巖の身と云、兵法を得道して》
 このように、《云事》が反復されるのは、誤記だとみなしてよい。つまり、たとえば、前出条々の例では、
《一 あらたになると云事。新になると云ハ》
《一 そとうごしゆと云事。鼠頭牛首と云ハ》
《一 しやうそつをしると云事。将卒を知るとハ》
《一 つかをはなすと云事。束をはなすと云に》
というように、見出しは、《云事》であり、本文に入ると、《云ハ》《とハ》等々と記すのが五輪書の記述スタイルである。《云事》の重複はしない。とすれば、本条のように《云事》が反復されるケースは、後の《云事》が《云ハ》の誤記である。
 しかるに、興味深いことに、この誤記が筑前系/肥後系を横断しているのである。つまり、この誤記は筑前系諸本にもあり、肥後系諸本にもある。
 このように、筑前系/肥後系を横断するケースでは、その語句を古型として、正しいものとして採るのが我々の通例である。しかし、問題は、これは明らかに誤記であって、正しい字句とは云えないことである。
 それで、諸本を見るに、これを《云ハ》として正しく記す例もある。つまり、筑前系では越後系諸本がそれであり、また肥後系では狩野文庫本が《云は》と記すのである。
 しかし、これは筑前系/肥後系を横断するケースであるが、古型とみなすことはできない。たとえば、越後系諸本のばあい、その祖本たる立花隨翁本が、すでに《云事》の重複を示している。したがって、赤見家甲本に示すがごとく、立花増寿の弟子・丹羽信英の段階で、これを異として、《いふハ》へ変更したのである。肥後系の円明流末、狩野文庫本も、同様の仕儀で《云事》を《云は》に変更した系統である。
 ところで、この誤記《云事》をどう見るか。正しい字句ならともかく、誤記が筑前系/肥後系を横断して両方に存在するという事実は、両方に平行してそれぞれに偶発したものだとはみなしがたい。したがって、古型はこの誤記の方だろう、という見当がつく。
 とすれば、このように筑前系/肥後系に共通することから、これは寺尾孫之丞段階にまで遡りうる誤記なのである。ただ、このばあい、寺尾孫之丞が、ついつい誤写して「事」字を書いてしまったのか、どうかという問題とは別に、武蔵草稿の想定しうるオリジナルへ遡行するとすれば、正記の方をとるべきである。
 つまり、これは《云事》ではなく《云ハ》が正しい。そのことによって、オリジナル復元は、《云ハ》でなければならない。したがって、我々のテクストでは、これを《云ハ》とする方を採ったのである。   Go Back



*【現代語訳事例】
《忽ち磐石のやうになつて萬事につけて匹敵する者なく確固不動なることである》(石田外茂一訳)
《たちまち巌のように強固となり、どのような打撃にもたえ、動かされぬようになることである》(神子侃訳)



立花隨翁本 火之巻末尾二条


*【吉田家本】
《いはをのミと云事。巖の身と云
*【中山文庫本】
《いはのミと云事。巖の身と云
*【鈴木家本】
《いはをのミと云事。巖の身と云
*【立花隨翁本】
《いはほの身と云事。巖の身といふ
*【赤見家甲本】
《いはほの身と云事。巖の身といふ
*【近藤家甲乙本】
《いはほの身と云事。巖の身といふ
*【石井家本】
《いはほの身と云事。巖の身といふ
*【楠家本】
《いわをのミといふ事。岩尾の身といふ
*【細川家本】
《いわをのミと云事。岩尾の身と云
*【富永家本】
《岩尾の身と云事。岩尾の身といふ
*【狩野文庫本】
《岩尾の身と云事。磐の身と云


 
   29 火之巻 後書
【原 文】

右、書付る所、一流劔術の場にして、
たへず思ひよる事のミ、書*顕し置もの也。
今始て此利を記すものなれバ、
跡先と書紛るゝ心ありて、
こまやかにハ、いひわけがたし。
さりながら、此道をまなぶべき人のためにハ、
心しるしになるべきもの也。(1)
我若年より以來、兵法の道に心をかけ、
劔術一通りの事にも、手をからし、身をからし、
いろ/\さま/\の心になり、
他の流々をも尋みるに、
或ハ口にていひかこつけ、
或ハ手にてこまかなるわざをし、
人めによき様にみすると云ても、
一つも實の心にあるべからず。
勿論、かやうの事しならひても、
身をきかせならひ、心をきかせつくる事と
思へども、皆是道のやまひとなりて、
のち/\迄もうせがたくして、
兵法の直道、世にくち、道のすたるもとゐ也。
劔術、實の道になつて、敵と戦勝事、
此法聊かはる事有べからず。
我兵法の智力を得て、
直なる所を行ふにおゐてハ、
勝事うたがひ有べからざるもの也。(2)

【現代語訳】

 右に書き付けたところは、我が流派の剣術の現場おいて、たえず思いあたったことのみを、書きあらわしておいたのである。
 今はじめて、この利〔理論〕を書き記したので、後先が混乱して書いた感じがあって、詳細まで説明できていない。しかしながら、この道を学ぼうとする人のためには、心の道標になるはずである。
 私は若年のとき以来、兵法の道に心を懸けて、剣の技術は、一通りのことなら手も身体も余すところなく徹底的に試し、いろいろさまざまな心になって、(実際に)他の諸流派をも尋ねて(やり方を)見てきたのだが、(他流の彼らは)ある者は口先で屁理屈をこね、ある者は小手先の技巧を弄して、人目に見事なように見せているとはいえ、ひとつも真実の心にはありはしない。
 もちろん、このようなことを習っても、身体を利かせるのに習熟し、心を利かせつくす事だと思っても、すべて、まさに道の病いとなって、後々までも(それが)消しがたく、兵法の直道〔正しい道〕は世に朽ちて、(兵法の)道の廃れる原因になっている。
 剣術が、真実の道になって、敵と戦って勝つこと。この法〔原則〕が、いささかも変ることがあってはならない。我が兵法の智力を得て、(その)真っ直ぐなところを行う、そうすれば、勝つことは疑いのありえないものである。
 
  【註 解】

 (1)一流劔術の場にして、たへず思ひよる事のみ…
 以下、この火之巻の後書である。
 この「一流剣術の場」とは、なかなか面白い言い回しである。直訳すれば、我が流派の剣術の現場、ということになるが、若干解説が必要である。
 この「一流」というのは、五輪書の通例では、武蔵が自分の流儀を指すばあいに用いられている。しかし、ここでは若干ニュアンスが異なる。つまり、武蔵が振り返って見た一流の歴史が織り込まれているのである。意訳すれば、これは、武蔵が一流を立てて以来、行ってきた剣術の現場、ということである。
 その剣術の場が、どのようなものかと云えば、この火之巻序文にあるところである。
 つまり、――我が兵法においては、度々の勝負に一命を賭して(太刀を)打ち合い、生死二つの利の分かれ目を知り、刀の軌道を覚え、敵の打つ太刀の強弱を知り、刀の刃棟〔はむね〕の使い方をわきまえ、敵を打ち果せるよう鍛練をするものであるから、些細なこと、弱いことは、思いもよらないところである。ことに、甲冑を装着して(戦場に出るばあい)の利に、些細な(相違の)事を発想することはありえない。それゆえ、命がけの打ち合いにおいて、一人で五人十人とも戦い、その勝つ方法を確実に知ること、それが我が道〔二刀一流〕の兵法である、と。
 これが、武蔵の云う「一流剣術の場」なのである。となると、「剣術」という語も、現代語の意味の剣術とは違う。ここでは剣の技術、剣の戦闘術、という意味である。しかも一流の歴史を織り込んでいるので、その剣術鍛練の過程という含みもある。したがって、ここは、武蔵が一流を立てて以来、行ってきた剣術鍛練の現場において、ということである。
《一流劔術の場にして、たへず思ひよる事のみ、書顕し置もの也》
 したがって、これは、今日昨日、思いついたことを書いているのではない、ということである。長年一流鍛練の場で、たえず思いあたったこと、つまり、その鍛練の現場で得た実践的な智恵を、武蔵流にいえば「兵法の利」をここに書いておくというわけである。
 しかも、ここで《たへず思ひよる事のみ》とあって、「のみ」と強調しているのを看過できない。すなわち、ここで書いているのは、そういう剣術の現場で獲得したものばかりだ、ということ。言い換えれば、自分が剣術の現場で実際に経験して得た智恵だけを書く、それ以外のことは書かないということである。
 武蔵が強調しているのは、そういう現場で得た智恵だけを書いていること、すなわち長年の剣術鍛練の過程、その折々の現場で獲得し実証を得た実践的な兵法の智恵ばかりだ、ということである。他人の教えや他の兵書を読んで得た借り物の知識ではなく、自分が実証を得た兵法の智恵しか、ここに書いていない、――そう言うわけである。
 主として太刀筋に話が向った水之巻と異なり、火之巻は、大分小分の集団戦に言及する点、兵書たらんとしたところである。
 しかし、《今始て此利〔理〕を記すものなれば》とあるが、実際にはそうではなく、すでに述べてきたように、原型となる兵法論は五輪書に先行して存在していたはずである。というのも、《多分一分の兵法として、世に傳る所、始て書顕す事》(地之巻後書)と書いているように、五輪書以前に、武蔵は「多分一分の兵法として、世に傳る所」があったのである。
 しからば何故に「今始めて記す」あるいは「始て書顕す」と書いているかと言えば、それは、武蔵が世に伝えてきたのは、いわばオーラル(口頭)の教説理論であって、書物にしたものではなかったということである。つまり、釈尊や孔子は語り教えたが、書かなかった。それと同じように、武蔵はこれまで兵法理論を語り教えて、それが世の中に伝わったが、書物(writings)は書かなかった。しかし、いまや、それを書いておく、というわけである。
 本書の内容を見るに、明らかに世の中の兵法書と違う。異例異数のものである。その特徴はなにかと云えば、それまでの他の兵法書とは違う対象、つまり若年初心者までを含む広い範囲を想定して書かれた兵法教本だということである。
 このため、武蔵は、かつてない書き方・説き方をする必要があった。それゆえに、後先が混乱して書いた感じがあって、詳細まで説明できていない、と武蔵が書くとしても、それは少なくとも、これを読んで解らぬ読者まで対象にしているから、そのように云うのである。一流内部に限らず、多少とも兵法論に心得のある者が相手なら、こんな科白は言わずもがなである。
 言い換えれば、武蔵は本書を、兵法を学ぶふつうの読者の「心しるし」になるべし、と思って書いたのである。そのために、武蔵がこの巻を書下したということである。そのように後先が混乱して書いた感じがあって、詳細まで説明できていないけれど、――というのは、この巻がまるごと一筋に書下されたことを意味している。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 












*【火之巻序文】
《我兵法におゐて、数度の勝負に、一命をかけてうち合、生死二つの利をわけ、刀の道を覚へ、敵の打太刀の強弱を知り、刀のはむねの道をわきまへ、敵をうちはたす所の鍛練を得るに、ちいさき事、弱き事、思ひよらざる所也。殊に六具かためてなどの利に、ちいさき事、思ひいづる事にあらず。されば、命をはかりの打あひにおゐて、一人して五人十人ともたゝかひ、其勝道をたしかにしる事、我道の兵法也》





















*【地之巻後書】
《右、一流の兵法の道、(中略)多分一分の兵法として、世に傳る所、始て書顕す事、地水火風空、是五巻也》
*【水之巻後書】
《此利、心にうかみては、一身をもつて、数十人にも勝心のわきまへ有べし。然る上は、劔術の智力にて、大分一分の兵法をも得道すべし》

 ここで、指摘すべき校異が一つある。それは、筑前系諸本間にみえるところの相異であるが、
《右、書付る所、一流劔術の場にして、たへず思ひよる事のミ、顕し置もの也》
 筑前系の立花=越後系諸本では、このように、《書顕し》とするが、それに対し、早川系写本には、《云顕し》とする。「書」字と「云」字の相異である。
 これに関して、肥後系諸本を参照すれば、《云顕し》が多い。しかし、富永家本のように、《書顕し》とする例もある。
 つまり、肥後系諸本にも《書顕し》と《云顕し》の両方がある。したがって、「書」字と「云」字の相異は、両方とも筑前系/肥後系を横断して存在する。となると、諸本分布状況では、是非の決しがたいことである。
 もともと草体では「書」字と「云」字は紛らわしくて、双方向に誤読することがある。それゆえ、このケースでも、どちらかが誤写である。
 となると、内容分析から正誤を判断することになる。結論を云えば、この文脈からして、《書顕し》の方が《云顕し》よりも妥当である。というのも、ここは火之巻後書なので、火之巻そのものについて述べている。だから、云いあらわすという「表現」(expression)ではなく、書きあらわすという「記述」(description)のことなのである。
 この部分の次に、《跡先と書紛るゝ心ありて、こまやかにはいひわけがたし》とあるのは、細かに説明しがたいということだが、こちらは表現の方なので「云分けがたし」である。
 五輪書の類似箇所での語用例をみるに、たとえば、この火之巻序文には、
《戦勝負の事を、火之巻として、此巻に顕す也》
とある。あるいは、水之巻序文にも、
《水之巻として、一流の太刀筋、此書に顕すもの也》
とあり、また、地之巻後書には、
《多分一分の兵法として、世に傳る所、始て顕す事、地水火風空、是五巻也》
とあって、語例としては、《書顕す》とするものが多い。
 したがって、内容分析からすれば、ここは、《書顕し》の方が《云顕し》よりも妥当である。したがって、我々のテクストでは、《書顕し》を採っている。
 これも、肥後系諸本ばかりを見ていては分らぬことである。とくに、楠家本・細川家本・丸岡家本を中心に見ていては、物事が見えない。富永家本を例外として扱うしかない。また、これに筑前系の吉田家本を加えたとしても、それでは同じことである。同じ筑前系でも、早川系とは異系統の立花=越後系諸本と照合してはじめて、《書顕し》という語句が例外ではないことに気づくのである。
 すなわち、立花隨翁本が《書顕し》と記し、さらに丹羽信英による赤見家甲本がそれを記し、以下越後系諸本に《書顕し》と作る。
 このように、《書顕し》という字句が例外ではないことに気づけば、上述のように、内容分析へ進みうる。そして正解を得るのであるが、そうではないと、《書顕し》という語句を例外として却下してしまうところである。
 したがって、繰り返し言うように、かような誤りに陥らぬためには、できるだけ諸本を広く参照して、先入見なき心で、字句を読むことが、五輪書研究において専〔せん〕なのである。
 もう一つの校異に話を遷せば、こちらは、《書顕し》よりも、事はさして難しくはない。肥後系諸本だけではなく、筑前系諸本をよく見ればわかることだからである。すなわち、筑前系諸本には、
《今始て此利を記すものなれバ、跡先と書紛るゝ心ありて》
として、《記す》と記すところ、肥後系諸本には、これを《書記す》として、「書」字を入れる。つまり、「書」字の有無という相違であるが、これは筑前系/肥後系を截然と区分する指標的相異である。
 このケースでは、筑前系諸本に共通であるから、これまでしばしば出た事例と同じく、《記す》は、筑前系初期、就中、柴任美矩が寺尾孫之丞から伝授された段階に遡りうる字句とみなしうる。
 他方、「書」を付す事例は、それが肥後系諸本に共通することから、これも肥後系早期に存在したものとみなしうるが、筑前系諸本の《記す》のアドヴァンテージには及ばない。言い換えれば、それが寺尾孫之丞後期に記された字句であったとしても、前期/後期の順序からすれば、筑前系の《記す》を優先すべきであるし、また、その「書」字が、門外流出後に発生した衍字、肥後ローカルの変異である可能性も消去できない。
 したがって、我々の五輪書テクストでは、筑前系諸本に準拠するかたちで、「書」字のない《記す》の方を採っている。   Go Back

*【吉田家本】
《たへず思ひよる事のミ、顕し置者也》
*【中山文庫本】
《たへず思ひよる事のミ、顕し置者也》
*【鈴木家本】
《たへず思ひよる事のミ、顕し置者也》
*【立花隨翁本】
《たへず思ひよる事のミ、顕し置もの也》
*【赤見家甲本】
《たへず思ひよる事のミ、顕し置もの也》
*【近藤家甲乙本】
《たへず思ひよる事のミ、顕し置もの也》
*【石井家本】
《たへず思ひよる事のミ、顕し置もの也》
*【楠家本】
《たえずおもひよる事のミ、いひ顕し置物也》
*【細川家本】
《不絶思ひよる事而己、顕し置物也》
*【富永家本】
《絶ずおもひ寄事のミ、顕し置者なり》
*【狩野文庫本】
《不絶思寄る事而己、顯置者也》


火之巻当該箇処
左:赤見家甲本 右:吉田家本


*【吉田家本】
《今始て此利を記すものなれば》
*【鈴木家本】
《今始て此利を記すものなれバ》
*【中山文庫本】
《今始て此利を記すものなれば》
*【立花隨翁本】
《(破損)此利を記すものなれバ》
*【赤見家甲本】
《今始て此利を記すものなれバ》
*【近藤家甲乙本】
《今始て此利を記すものなれバ》
*【石井家本】
《今始て此利を記すものなれバ》
*【楠家本】
《今初而此利を書しるすものなれバ》
*【細川家本】
《今初而此利を書記物なれば》
*【富永家本】
《今初て此利を書記ものなれバ》
*【狩野文庫本】
《今初而此利を書記物成ば》
 
 (2)兵法の直道、世にくち、道のすたるもとゐ也
 ここで、まず武蔵は、自分が若年の頃から兵法者としてさまざまな経験を積んできたことを語る。ここに到るまでには、紆余曲折があったであろうと思わせる、口ぶりである。
 すでに地之巻冒頭の自序部分で、武蔵が語っていたのは、二十代までの武芸の天才が、三十を越えて反省=再帰(reflexive)の過程に入り、いわば「事後の修行」を、その後、五十歳になるまで二十年も続けたということである。
 このプロセスにおいて、最初の成就は――ヘーゲル流に言えば――《即自》であり、その後二十年かけてたどり着いた、第二の成就は《対自》であると言える。あるいは、こうも言える――最初の一周は裏側へ出て、次の周回でようやく元の地点に戻るというメビウスの環のように、一通りのプロセスを辿るには、二周することが必要である、と。言い換えれば、「二」は「一」であるが、それは実は「一」は「二」であるからである。「二天」とは陰陽なのであった。
 ともあれ、誰しも思うのは、道が向上の一筋道で、最後には究極に到るという、リニアなプロセスである。たぶん武蔵のように、二重に折り畳まれたここまでのプロセスを歩みうる者は稀であろう。
 その上で、武蔵がここで、つい、筆をすべらせてしまったかのように、状況批判がこれに続くのである。
《勿論、かやうの事しならひても、身をきかせならひ、心をきかせつくる事と思へども、皆是道のやまひとなりて、のち/\迄もうせがたくして、兵法の直道、世にくち、道のすたるもとゐ也》
 なかなか武蔵の批判は手厳しい。ひとは老ゆれば角が取れて円くなる――そんな常識(あるいは期待)を裏切るのが、武蔵の老境である。
 武蔵のいう「道の病」、この隠喩としての病は、我々の時代の用法と共通するから、説明は要らない。
 道に病いがある。それは失せがたい病である。《兵法の直道、世にくち、道のすたるもとゐ也》――。かくして、武蔵の兵法は、まさしく道の末法である。言い換えれば、剣術興隆の真最中に、武蔵の認識によれば、末法を我が状況としていたのである。五輪書が批判の書でもあるのは、こうした状況認識のゆえである。
《劔術、實の道になつて、敵と戦勝事、此法聊かはる事有べからず》
 剣の技術が真実の道になって、敵と戦って勝つこと、この原則がいささかも変ることがあってはならない。――ということは、道の末法においては、剣の技術が真実の道にならず、敵と戦って勝つという第一義すら忘れられている、ということである。そこで、武蔵は改めてこれを強調しているのである。
《我兵法の智力を得て、直なる所を行ふにおゐては、勝事うたがひ有べからざるもの也》
 これが、この火之巻を要約する教訓である。「戰氣」と書いた、武蔵自筆と伝える書幅がある。その文字の堂々たる気迫たるや、巷間大いに賞揚されるところであるが、同時にこの「戰氣」、その足をすくうような状況もあったのである。それゆえに、この「戰氣」は単純なそれではなく、あえて「戰氣」、いわば反時代的な「戰氣」でもあった。
 しかしながら、もう一つ付け加えるべきことがあろう。五輪書読みを何十年もやっておれば気づくことであるが、――これは、兵法を説き来たった火之巻の後書としては、どこか尋常ではない言説である。他流批判は次の風之巻で展開されるが、テクストはそれを待ちきれないかのように、いきなり話が展開するからである。
 つまり、火之巻を完結する後書としては未完成で、しかも次の風之巻との区画が明確ではない。想定されるのは、おそらく、「原五輪書」には、まだ完全な形での火之巻後記はなかった、武蔵はここを書く前に絶筆した、ということである。
 それに対し編集者たる寺尾孫之丞は、遺された未定稿をもとに整理せざるをえず、たまたま、現存写本のごとき、座りの悪い奇妙な後書になったのである。最後に《勝事うたがひ有べからざるもの也》とあるところ、唐突にここで文章が終っているのは、そのためである。

――――――――――――











メビウスの環
帯を一回捻ってつないで輪にする
















伝武蔵筆「戰氣」 松井文庫蔵
 なお、語釈の問題があるとすれば、
《劔術一通りの事にも、手をからし、身をからし、いろ/\さま/\の心になり、他の流々をも尋みるに》
とある部分であろう。この《手をからし身をからし》の「からす」は、前にあったように、空っぽになるまですべてを動員し消尽することであるが、ここでは「手」と「身」において余すところなく技術を徹底的に試してみた、という意味である。岩波版注記のように、《手をからし身をからし》を単に「鍛錬する意」とするだけでは、「からす」という語の意味の大半を見過ごしているわけである。
 次の《いろ/\さま/\の心になり》というのは、先の「手」「身」に対して「心」である。この心の面では、いろいろさまざまな心になってみたというのである。この「いろいろさまざま」は、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、右往左往して、心が散々迷った、心の迷いを経験した、――ということではない。前に「敵になる」という教えがあったが、それと同じように、他流の心は、いろいろさまざまあるが、それもいちいち経験してみて、ということである。したがって《いろ/\さま/\の心になり》を、岩波版注記のように、「心の修行を積み重ねて」と解するのは、語句の意味が外れているばかりではなく、別の物語を創作してしまっているのである。
 要するに、ここで文意は、およそありとあらゆる流派について、「手」と「身」と「心」の三つの次元で徹底的に試してみた、というわけであるから、そうしたコンテクストを外しては、誤りなのである。これは、地之巻冒頭の、諸国を廻り六十余度の勝負に勝ったという一節と呼応するものと、読むべきところである。
 この箇処の既成現代語訳は、右掲のように、はなはだ問題がある。すなわち、戦前の石田訳以下、いづれも「からし」を「鍛錬する」とする誤訳において共通し、また《いろ/\さま/\の心になり》をまともに訳せていないのである。とくに近年のものほど、誤訳量が増大しているのは、まことに困った事態であると云わざるを得ない。

――――――――――――











*【現代語訳事例】
《劍術一通の事にも腕も鍛錬し身も鍛錬し、心を自由自在にし、他の諸流派も研究してみるに》(石田外茂一訳)
《剣術の一とおりのことには、手をならし、身をきたえ、さまざまな心境に立ち、さて他の流派の人々を見てみると》(神子侃訳)
《剣術のひと通りのことにも手を染め、身を鍛錬し、さまざまな心の修行を積み重ね、また他の流派の人々をも尋ね見たところ》(大河内昭爾訳)
《剣術の一とおりのことは、手をならし、身をきたえて鍛錬し、さまざまな修行を積み重ねて、他の流派を尋ね見てみると》(鎌田茂雄訳)

 ここで、校異の問題に関して指摘すべきところがある。すなわちそれは、筑前系諸本に、
《我若年より以來、兵法の道に心をかけ、劔術一通りの事にも》
として、《心をかけ》と記すところ、肥後系諸本には、これを《心をかけて》として、「て」字を入れるものがある。つまり、「て」字の有無という相違である。ついでに、もう一つ挙げれば、筑前系諸本に、
《兵法の直道、世にくち、道のすたるもとひ也》
として、《世にくち》と記すところ、肥後系諸本には、これを《世にくちて》として、「て」字を入れる。つまり、これも「て」字の有無という相違である。
 前者の「て」については、肥後系諸本すべてがこれを付すわけではない。円明流系統諸本では、「て」字を付けない。したがって、肥後系でも早期には、《くちて》ではなく、《くち》と記した可能性もあると知れる。
 また、後者の「て」については、前者のケースとは異なり、肥後系は諸本共通して、「て」を付す。したがって、後者の「て」字の有無は、筑前系/肥後系を区分する指標的相異である。
 この件については、前者・後者とも、筑前系諸本に共通して、「て」字を付さないのであるから、これまでの前例と同じく、筑前系諸本の書記例を古型とみなして、それを採るべきである。したがって、我々のテクストでは、どちらも「て」字を付さないのである。

 さて、この火之巻でも諸本に奥書を記す。既述の通り、肥後系諸本は、奥書に関して、相伝文書の体をなさぬものだが、筑前系諸本には、相伝年月日、相伝者氏名とも記す。
 吉田家本は、柴任美矩から吉田実連への相伝年月日を記すが、同じ早川系の中山文庫本にはこれを欠く。これは中山文庫本には伝系記事に関して脱落があって、その点二次史料たることを示す。
 これに対し、越後系諸本は伝系記事を正確に伝えている。柴任美矩から吉田実連への相伝年月日も、吉田家本と一致し、また相伝時期によって相異のある柴任の諱も正確に伝えている。
 とりわけ、立花=越後系諸本の奥書に関して、重要なのは、吉田実連から立花峯均へ、五輪書諸巻がいつ伝授されたか、たとえば、この火之巻の相伝時期が知れることである。
 立花峯均が吉田実連から五輪書諸巻をいつ伝授されたか、それを示すのは、従来は越後系諸本のみであったが、後に立花隨翁本の発掘により、越後系諸本の伝系記事が正しく伝えられていることが判明したのである。
 したがって、現在までのところ、近年越後その他で発掘できた諸本は、五輪書研究のみならず、武蔵道統・筑前二天流、立花峯均研究においても、重要史料なのである。   Go Back

*【吉田家本】
《我、若年より已來、兵法の道に心をかけ》《兵法の直道、世にくち
*【中山文庫本】
《我、若年より已來、兵法の道に心をかけ》《兵法の直道、世にくち
*【鈴木家本】
《我、若年より已來、兵法の道に心をかけ》《兵法の直道、世にくち
*【立花隨翁本】
《我、若年より以來、兵法の道に心をかけ》《兵法の直道、世にくち
*【赤見家甲本】
《我、若年より以來、兵法の道に心をかけ》《兵法の直道、世にくち
*【近藤家甲乙本】
《我、若年より以來、兵法の道に心をかけ》《兵法の直道、世にくち
*【石井家本】
《我、若年より以來、兵法の道に心をかけ》《兵法の直道、世にくち
*【楠家本】
《我、若年より已来、兵法の道に心をかけて》《兵法の【蝕損】にくちて
*【細川家本】
《我、若年より以来、兵法の道に心をかけて》《兵法の直道、世にくちて
*【丸岡家本】
《我、若年より以来、兵法の道に心をかけて》《兵法の直道、世に朽て
*【狩野文庫本】
《我、若年より以来、兵法の道に心を》《兵法の直道世にくちて


立花隨翁本 火之巻奥書伝系記事 立花峯均相伝年月日「元禄十三年八月十九日」


赤見家甲本 火之巻奥書伝系記事 立花峯均相伝年月日「元禄十三年八月十九日」



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