武蔵の五輪書を読む
五輪書研究会版テクスト全文
現代語訳と注解・評釈

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五輪書 火之巻 3  Back   Next 

 
   8 崩れを知る
【原 文】

一 くづれを知と云事。
崩と云事ハ、物毎に有もの物也。
其家の崩るゝ、身のくづるゝ、
敵の崩るゝ事も、時にあたりて、
拍子ちがひになつて、くづるゝ所也。
大分の兵法にしても、
敵の崩るゝ拍子を得て、
其間をぬかさぬやうに追立る事、肝要也。
くづるゝ所のいきをぬかしてハ、
たてかへす所有べし。
又、一分の兵法にも、戦ふ内に、
敵の拍子ちがひて、くづれめのつくもの也。
其ほどを油断すれば、又立かへり、
新しくなりて、はかゆかざる所也。
其くづれめにつき、敵のかほたてなをさゞる様に、
たしかに追かくる所、肝要也。
追かくるハ、直に強きこゝろ也。
敵立かへさゞるやうに、打はなすもの也。(1)
うちはなすと云事、能々分別有べし。
はなれざれバ、したるき心あり。
工夫すべきもの也。(2)
【現代語訳】

一 崩れを知るという事
 崩れということは、どんなことにもあるものである。その家の崩れる、身の崩れる、敵が崩れることも、その時にあたって、拍子が狂ってしまい、崩れるのである。
 大分の兵法〔合戦〕でも、敵の崩れる拍子をとらえて、その瞬間をのがさないように追撃することが肝要である。崩れるところの急所をのがすと、敵を立ち直らせることになる。
 また、一分の兵法〔個人戦〕の場合でも、戦っている最中に、敵の拍子が狂って、崩れ目ができるものである。それを油断してのがすと、(敵は)また立ち直り、復活してしまう。それでは捗が行かぬのである。
 その崩れ目につけ入り、敵が顔〔体勢〕を立て直さないように、徹底的に追撃する、そこが肝要である。追撃するのは、一気に強烈に、という心持である。敵が立ち直れないように、打ちはなす〔粉砕する〕のである。
 (この)打ちはなすということを、よくよく吟味あるべし。(敵に対する感情を)切断しなければ、べたつく心が残る。(これは)工夫すべきものである。
 
  【註 解】

 (1)敵立かへさゞるやうに、打はなすもの也
 前に続いて、敵の様子を知って攻撃にかかる要諦である。ここでは、「敵の崩れ」を知るということがテーマである。
 崩れて逃げにかかる敵を追撃して粉砕するというのは、敵が二度と立ち直れないようにするためだ、という。これは前条「剣を踏む」と連続した話である。《二度目を敵の打得ざるやうにすべし》《二の目を敵によくさせざるやうに心得べし》とあった。
 しかし、ここでの教えの調子は、それよりも強い。敵の崩れを見たら、即座に追撃にかかる。そして、徹底的に殲滅する(打はなす)。それが不十分であれば、敵は体勢を立て直し反撃に出てくる。その余地を与えないように、徹底的に粉砕するのである。
 これはゲームとしての試合のように、打った、打たれたで、勝ち負けが決まるのではない。ここは実戦のケースだから、ルールはない。敵を粉砕してはじめて、勝負が決まり、戦いは終結するのである。
 したがって、敵が崩れて、敗走したら終わりなのではない。敵が崩れて逃げ出したら、それを徹底的に追撃する。そして回復不可能なまでに粉砕しなければならない。
 これは一分の兵法〔個人戦〕の場合でも同じだとする。このように敵の崩れを見て、追撃し、徹底的に殲滅するというのは、合戦など集団戦〔大分の兵法〕がモデルだが、それが、一対一の勝負でも、同じ戦闘原則だとするわけである。
 この五輪書読解で何度も繰り返されているから、蛇足になるかもしれぬが、武蔵の教えは実戦での戦闘法、殺人術である。敵の軍勢を殲滅してはじめて戦いは終るのと同じように、一対一の個人戦でも敵を殺してはじめて戦いは終る。
《追かくるは、直に強きこゝろ也。敵立かへさゞるやうに、打はなすもの也》
 およそ、ルールなき実戦の場では、「勝つ」というのは、戦いを終らせてはじめて生れる状況のことである。武蔵が「勝つ」と言うとき、読者の多くは、まるでゲームで勝つことのように思うかもしれないが、そうではない。この条に書かれている通り、敵が崩れて逃走したら、それで勝ちなのではない。そうではなく、逃げる敵を追撃して、完璧に粉砕する――武蔵の言葉では「打はなす」――ことが、「勝つ」ということなのである。
 武蔵の教えでは、勝つとしたら無慈悲に勝つということである。敵の崩れを見て、それからどうすべきか――という教えには、まことにタフで無慈悲なものがある。それを見逃してはなるまい。

――――――――――――

 諸本校異について言えば、この部分に若干それがある。その一つは、冒頭部分で、筑前系諸本間に相違のあるところである。すなわち越後系諸本には、
《崩を知と云事ハ、物毎に有もの也》
とあって、「を知」二字を入れるのに対し、同じ筑前系でも、早川系の吉田家本・中山文庫本・鈴木家本は、《崩と云事ハ》として、「を知」二字を入れることはしない。
 他方、肥後系諸本を参照すれば、これは基本的に、《崩と云事ハ》として「を知」二字は入れない。狩野文庫本に《崩を知る事》とする例があるが、他の円明流系、稼堂文庫本では、《崩れと云事》である。したがって、筑前系/肥後系を横断して共通するのは、「を知」二字を入れない《崩と云事ハ》の方である。それゆえ、こちらが古型であり、越後系諸本の《崩を知と云事》には誤記がある。
 と、そこまで結論に達していたところ、後に立花隨翁本や赤見家甲本の発見により、これが裏付けられた。すなわち、越後系諸本の祖本たる立花隨翁本には、《崩といふ事ハ》と記してあり、丹羽信英の赤見家甲本にも、やはり「を知」二字は入れないのであった。
 このことより、この「を知」二字の錯入は、越後で本書が書写され派生した段階で発生した誤写だと知れたのである。我々が相遇したのは、渡部信行系統の五輪書であり、それらがどれも同様にこの誤記を示しているから、これは八代渡部信行の段階での発生だろうと見ることができる。
 ところで問題は、これに次く箇処である。つまり、筑前系諸本に、
《物毎有もの也》
とあって、《物毎(ものごと)に》として「に」字を付すのに対し、肥後系諸本のうちには、《物毎》として、「に」字を欠くものがある。また、別の箇処では、筑前系諸本に、
《時あたりて、拍子ちがひになつて》
とあって、《時に》とするのだが、これも肥後系諸本のうちには、《時の》として、「の」字に書くにものがある。あきらかに、前者の《物毎》には脱字があり、後者の《時の》は誤字である。
 この誤記を示すのは、肥後系の楠家本・細川家本である。丸岡家本では、ともに正しく記している。しかし、富永家本では、両方とも、脱字を示す。円明流系統では、狩野文庫本は、《物毎ニ》と記すが、後者は《時の》と記す。しかし同じ円明流系統でも、多田家本や稼堂文庫本は、《物毎に》《時に》と記す。
 以上のように肥後系諸本はまちまちである。《物毎に》の「に」字の脱落は早期に生じたかもしれぬが、《時に》を《時の》と誤記するのは後に発生した写し崩れである。したがって、このかぎりにおいては、《時の》と記す楠家本と細川家本は、後発性を示す写本とみるべきである。

――――――――――――

 さて、ここでひとつ、語釈のことで論うことがある。それは、上記の「打放す」という語のことである。
 既成現代語訳は、これを難物と思ったか、あるいは岩波版注記も無視して通り過ぎているので、異例にも現代語訳せず「打ちはなす」のままにしている。語釈を付加しないとすれば、これでは不親切というものである。
 現代語では、コンクリート壁のように「打放し」という用語がある。これは仕上げをしないで、コンクリートを打ったままにしていることである。そのように、「打ったままにしておく」では、むろんここでの武蔵の語義とはまったく異なる。ゆえに語釈が必要なのである。
 ここで「打放す」というのは兵法語彙であり、我々もその扱いなので、語訳はしていない。ただし語釈は提示しておくべきである。
 この「打放す」を現代語に訳しては意味がずれるが、要するに「粉砕する」ということである。「放す」は、弓鉄炮を「放す」というケースもあって、これは現代語では「放つ」で通じる。しかし、現代口語でも喧嘩などで「ぶっとばす」「ぶっ殺す」と言うが、ニュアンスとしてはこの「打ち放す」に近いものがある。
 しかし、ここでの「放す」は、むしろ語源に近く、まとまった物をばらばらにしてしまうことである。したがって我々は「打放す」を、思い切り打ち砕く、粉砕する、という語釈にしたわけである。
 これは現代語の「はなす」のセンス(感覚=意味)からは、かなり遠い語意である。そこで「放す」を「離す」と誤解してしまう読みがあり、一部解説書に、「はなす」を敵を遠ざけることと読み、敵が近くにいると反撃されるから、というような珍解釈をしている。これでは、古典を知らぬ初級の間違いであるが、それ以上に、本質的に武蔵のロジックを理解できない者の解釈である。
 重ねて言えば、ここでの教えは、敵が逃げても徹底的に追撃し粉砕しろ、ということであるから、敵が逃げて遠ざかったら、それでおしまい、という甘い話ではないのである。
 こういう次第なので、この「打放す」という語、これまで誰も現代語に正しく訳してくれる者がいなかったという言葉なのである。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 





個人蔵
長久手合戦図屏風 部分












吉田家本 校異箇処

*【吉田家本】
《崩と云事ハものごと有もの也。(中略)時あたりて拍子ちがひになつて》
*【中山文庫本】
《崩と云事ハ物毎有もの也。(中略)時あたりて拍子ちがひになつて》
*【鈴木家本】
《崩と云事ハものごと有ものなり。(中略)時あたりて拍子ちがひになつて》
*【立花隨翁本】
《崩<といふ事ハ物毎有もの也。(中略)時あたりて拍子ちがひになつて》
*【赤見家甲本】
《崩と云事ハ物毎有もの也。(中略)時あたりて拍子ちがひになつて》
*【近藤家甲乙本】
《崩を知と云事は物毎有物也。(中略)時あたりて拍子ちがひになつて》
*【石井家本】
《崩を知と云事は物毎有物也。(中略)時あたりて拍子ちがひになつて》
*【楠家本】
《崩といふ事ハ物毎【】有物也。(中略)時あたりて拍子ちがひになりて》
*【細川家本】
《崩と云事ハ物毎【】ある物也。(中略)時あたりて拍子ちがいになりて》
*【丸岡家本】
《くづれといふ事は物ごと有者也。(中略)時あたりて拍子違に成て》
*【富永家本】
《崩れと云事ハ物毎【】あるものなり。(中略)時【】當りて拍子違に成て》
*【狩野文庫本】
《崩を知る事は物毎有もの也。(中略)時當りて拍子に違ふに成て》



*【現代語訳事例】
《追いうちをかけるというのは、一気に力ずよくうつ呼吸であり、敵が立直れないように打ちはなすものである。この打ちはなすという呼吸を、よくよく理解してもらいたい》(神子侃訳)
《追いうちをかけるというのは、一気に、強く打つということで、敵が立ち直れないように打ち放すものである。この打ち放すということを、よく理解する必要がある》(大河内昭爾訳)
《追いうちをかけるとは、一気に強くうつことである。敵が立ちなおれないように打ちはなすものである。この打ちはなすということを、よくよく理解しなければならない》(鎌田茂雄訳)



細川家本 校異箇処
 
 (2)はなれざれバ、したるき心あり
 この「崩れを知る」では、全体が解りやすく書いてあるので、読むのにとくに支障はない。ただ、語釈について、若干の補足をしておくべきであろう。重要なテーゼを含む以下の文にそれがある。
《うちはなすと云事、能々分別有べし。はなれざれバ、したるき心あり》
 まず問題は、《したるきこゝろ》の「したるい」である。こちらの方は、現代の関東方言で「かったるい」というのに近い。「したるい」という語には、日葡辞書に《Xitarui(したるい)ヒト》の記載があり、まだるこしい、のろのろだらだらしている、まごついている、という語義のあったもののようである。
 しかし「したるい」の本義の語感は、汗がべたべた、べたついているさまである。だから、「したるき心あり」とは、「べたつく心あり」なのである。まごまごしているというよりも、べたついて、すっきりしない、という意味である。武蔵のこの語の用法は、別の多用されている言葉では、「捗が行かない」の意味に類縁のものであろう。
 岩波版注記は、これを「ぐずぐずしがちである」としているが、これでも誤りとは言えないが、「したるい」のニュアンスから外れている。「ぐずぐず」と「べたべた」とは違うのである。
 ここの《はなれざれバ、したるき心あり》の「はなる」の方は「離れる」である。ふつう古語では、
《離れぬ御仲なれば、つひに聞きあはせたまはむこと、いと憂かるべし》(『源氏物語』浮舟)
という用法で、離れるとは、「気持が離れる」、信頼関係・情愛関係が切れる、断たれることをいう。五輪書のここでの《はなれざれバ》も、敵に対する思いを断たなければ、という意味である。
 敵に対する感情を断ち切って、思い切って粉砕する。そうでないと、べたべたした心が残って、すっきりしない――という、これまたタフでワイルドな教訓、さらに言えば「無慈悲」の教えなのである。
 以上は我々の語釈であるが、ここで既成現代語訳を見れば、右掲のごとく、さまざまである。誤訳がさまざまある、ということだが。
 戦前の石田訳は、文脈を察して意訳で臨んでいる。戦後の諸訳と比較すると、まともな訳である。しかし、「すがりついて來ることがある」とは、敵のことをいうようだが、「したるき心」は敵ではなく、こちらのことである。語意が確実にわからないのでは、意訳しても間違うばかりである。
 戦後の神子訳は、まことに杜撰なことに、《はなれざれば、したるき心有》(細川家本)の当該部分を無視している。文意不明の箇所は、勝手に削除してしまうという神子流の処理法である。次の大河内訳は、珍しく苦心の跡が見てとれ、「不徹底さを残すことになる」と意訳するが、むろん意味がずれている。そして鎌田訳は、例によって岩波版注記のパクリで、何の翻訳努力の跡も認められない代物である。
 そして大河内訳と鎌田訳の二者ともに共通しているのが、《はなれざれば、したるき心有》の「はなる」を、前記の「打ち放す」とすり替えていることである。離ると打ち放すでは、まったく違う話である。これでは、武蔵のこの際立ったテーゼ、《はなれざれバ、したるき心あり》が、立ちようがない。
 結局、既成現代語訳には、この無慈悲のテーゼを正しく訳した者は存在しなかったのである。――というわけで、この重要な部分につき、語釈上の問題を明らかにしてみたが、我々の読解提示によって、誤訳だらけの不運な五輪書も、少しはまともに読めるようになることであろう。   Go Back





個人蔵
長久手合戦図屏風 部分











*【現代語訳事例】
《徹底的にやッつけなければすがりついて來ることがある》(石田外茂一訳)
《[訳文なし]》(神子侃訳)
《打ち放さないと、不徹底さを残すことになる》(大河内昭爾訳)
《打ちはなさなければ、ぐずぐずしがちになる》(鎌田茂雄訳)


 
   9 敵になる
【原 文】

一 敵になると云事。
敵になると云ハ、我身を
敵になり替りておもふべきと云所也。
世の中を見るに、ぬすミなどして、
家のうちへとり籠るやうなるものをも、
敵を強くおもひなすもの也。
敵になりておもへバ、
世の中の人をみな相手として、
にげこミて、せんかたなき心也。
とりこもる者ハ雉子也、打はたしに入人ハ鷹也。
能々工夫有べし。
大なる兵法にしても、敵といへバ、
強くおもひて、大事にかくるもの也。
我常に*よき人数を持、兵法の道理を能知り、
敵に勝と云所を能うけてハ、
氣づかひすべき道にあらず。
一分の兵法も、敵になりて思ふべし。
兵法能心得て、道理強く、其道達者なる者に
あひてハ、かならず負ると思ふ所也。
能々吟味すべし。(1)
【現代語訳】

一 敵になるという事
 敵になるというのは、我が身を敵になり代って考えてみろ、ということである。
 世の中を見るに、盗みなどをして、家の内へとり籠る〔籠城する〕ような者であっても、(家の外からは)相手を強いと思い込んでしまうものである。
 (しかし)敵(盗賊)の身になって思えば、世の中の人をみな相手として、(家の中へ)逃げ込んでいるのであり、絶望的な気持なのである。とり籠る者は雉子〔きじ〕である。(これを外から)打ち果しに入ろうとする人は鷹である。よくよく工夫あるべし。
 大きな兵法にしても、敵といえば、強いと思い込んで、大ごとにして懸るものである。(しかし)こちらが常々すぐれた軍勢をもち、兵法の道理をよく知り、敵に勝つというところを十分承知していれば、心配する必要は何もない。
 一分の兵法でも、敵になって考えるべきである。兵法をよく心得て、道理が強く*、その道に練達した者に逢えば、必ず負けると思うものである。よくよく吟味すべし。
 
  【註 解】

 (1)我身を敵になり替りておもふべきと
 ここから少し話のシリーズが変ってくる。まずは、敵の身になって考えてみろ、という教えである。
 これはかなり親切な教えで、初心の者向けに平易な話になっている。したがって、とくに読むのに困難はないはずである。
 敵の身になって考えてみろ、という教えの趣旨は、戦闘の恐怖から敵をつい強大な相手と考えてしまう、という心の傾向に釘を刺し、それはいわば逆の誇大妄想にすぎないと諭すことである。
 恐ろしい、こわい、という恐怖はあろう。しかし、それは自分がつくり上げた幻影であり錯覚なのだ。何もこわがる必要はない。敵の身になって考えてみろ、相手の方がよほどこわがっているじゃないか、と。
 あるいは、逆のことでも言える。敵の身になって考えてみろ、敵は、こちらを強い相手だと過剰に思い込んでいる。敵は負け犬の心持になってしまう。それが付け目だ。ならば、そのように振る舞えばいい。敵が負けると思い込んでいるなら勝ってやればよい――それが武蔵流の論理である。
 この点では、右掲肥後兵法書は、明確に核心を衝いた語りである。まさに《敵の心の堪難きをおもひ取べし》、あるいは《敵ハ利無きを、利を取付る事あり。敵になりて、よく分別すべき事なり》とあるごとくである。肥後兵法書にも、五輪書の教えを忠実に敷衍している記述もあるという例である。
 ここで五輪書の教えは、初歩的だが、実は的確な教訓であることに気づかざるをえないだろう。武蔵は戦闘心理を分析し、具体的に垂訓しているだけではない。いわば戦闘の敵我は、まさしく相互に反射し合う鏡像関係にある。互いに自身の恐怖の幻影を投影し合っている。そうである以上、その恐怖の幻影も利用して戦えばいい。
 このような兵法論は、むろん極めて新しいものであったが、同時に空前にして「絶後」であったことを知っておく必要がある。
 武蔵流のこの戦闘心理学は、リアルな殺し合いの現場の論理から、兵法が精神主義へ傾斜する時代の、いわば消滅した未発の戦闘論の相貌を垣間見せる。それは、一瞬出現してたちまち消えた、異質なものの束の間の登場であった。
 我々は、少なくともそうしたことを念頭において、本条以下の一連の教えを読むべきであろう。

 ところで、語釈の問題がひとつあろう。それは、この「敵になると云事」の条で二例出てくる「道理」という語である。《兵法の道理を能知り》と《道理強く、其道達者なる者》というこの部分に関連して、若干述べておく。
 《兵法の道理を能知り、敵に勝と云所を能うけては》とある最初の「道理」は、「正しい筋道」という意味の「道理」である。ところが、《道理強く、其道達者なる者》とある第二の「道理」は同じようには読めない語である。
 これを「正しい筋道」と普通いうところの意味の「道理」と読んでしまうと間違いである。意味はそうではなく、いわば仏教的な意味での「明証」、英語なら《evidence》というニュアンスのある語である。
 ただし、この「道理」という語は特種なものであるから、我々はその意味を汲んだ語に置き換えて訳さず、そのままにしておく。けれども、この語が、現代語でも通じる「道理」の意味とは違う意味を有することは、強調しておかねばなるまい。
 道理が強い――これは現代語のセンスでは馴染みのない表現である。この「強い」は、堅固である、ゆるぎがない、というような意味である。したがって、「道理が強い」とは、正しい筋道を通す信念が固いということではなく、むしろ、道の明証たることがゆるぎない、ということである。
 したがって、《道理強く、其道達者なる者》とあるごとく、その道の達人というのは、道理が強い人である、つまり、道の明証たることがゆるぎない人なのである。
 このあたり、《兵法よく心得て、道理強く、其道達者なる者》の既成現代語訳は、右掲のようなものである。
 戦前の石田訳は、「道理明るく」としており、《道理強く》の訳になっていない。戦後の神子訳は、「道理にまさっており」と若干工夫を凝らしているが、それでも、《道理強く》の語意に届いていない。
 岩波版注記は、これを「剣理にも明るく」としているが、上記のような《強く》の語釈上のニュアンスを知らないだけではなく、「道理」を「剣理」とするとは、きわめて蒙昧杜撰な語釈である。もちろん、剣理、術理などという近来の剣術中心主義的な用語は、武蔵流の語彙ではない。
 鎌田訳はこの岩波版注記をそのまま頂戴しているが、大河内訳はさすがに「剣理」では拙いと思ったのか、「兵法の理」と変更している。だが、「兵法の理に明るい」と誤訳に及んでいる点では、岩波版注記=鎌田訳と同レベルである。
 言っておけば、「道理」が、「剣理」や「兵法の理」であるわけがない。《兵法の道理》という語がすでに出ているのである。岩波版注記とそれ以後の現代語訳は、「道理」という語を無理に訳そうとして、能力不足を露呈し、自滅した格好である。それなら、石田訳や神子訳のように、「道理」という語をそのまま使った方がよいのである。
 何れにしても、《道理強く》という語句は、これまで正しく訳されたことはなかったのである。
――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 







恐怖の幻影

*【肥後兵法書】
《 敵に成ると云事
一 我身を敵になりておもふべし。或ハ一人取籠り、又ハ大敵か、其道達者なる者に逢か、敵の心の堪難きをおもひ取べし。敵の心の迷ふをバしらず、弱をも強とおもひ、道不達者なる者も達者に見なし、小敵も大敵と見〔ゆ〕る、敵ハ利無きを、利を取付る事あり。敵になりて、よく分別すべき事なり》













石井家本
「道理強く、其道達者」



*【現代語訳事例】
《兵法をよく心得て道理明るく道に通達した者》(石田外茂一訳)
《兵法をよく心得、道理にまさっており、武芸にすぐれているもの》(神子侃訳)
《兵法をよく心得、兵法の理にも明るい、その道の達人》(大河内昭爾訳)
《兵法をよく心得て、剣理にも明るく、武道にすぐれているもの》(鎌田茂雄訳)

 なお、ここで諸本校異について指摘するとすれば、以下の点である。これも、筑前系/肥後系を区別する指標となる相異である。ただし、このケースでは、まず、筑前系のうち、立花=越後系の相異問題を片付けておかねばならない。
 すなわち、筑前系に、《我常能人数をもち、兵法の道理を能知り》とする例があるところ、越前系諸本には、《我常》と記している。これは何れが正しいのか。その問題は、決済留保のままにしておいたが、立花隨翁本の発見によってカタがついたのである。
 というのも、越後系諸本には《常々》とあるのだが、それらの祖本である立花隨翁本には、《常ニ》とあったからである。これにより、《常々》は越後での発生と知れた。ただ、隨翁本には、その問題の「ニ」字が小さく記されており、「々」と誤読しかねない文字であった。それゆえ、この誤写を誘引したものらしい。
 この誤写はどの段階で発生したか、それは杲らかである。つまり、丹羽信英による赤見家甲本に、《常々》と記している。ということは、師の立花隨翁は《常ニ》と書いたつもりであったが、弟子の丹羽信英が、これを《常々》と読み損ねたのである。以下、越後系諸本はどれもこれを《常々》と誤記している。
 そこで注目したいのは、大瀧家本である。これは、肥後系写本(ただし誤字脱字が多い)を底本にしているが、地水火の三巻については、越後系の三巻兵書の写本を参照して、随所に変更を加えている。
 そして、大瀧家本がここをいかに変更しているか、それを見ると、《常に》と記している。とすれば、越後系写本にも《常に》とするものがあったということになるが、これはそういうことでもない。大瀧家本の参照本は、たぶん《常々》を《常ニ》と再度読み違えた。それを大瀧家本が平仮名にして《常に》と記したという次第のようである。


*【吉田家本】
我常に能人数をもち》
*【中山文庫本】
我常に能人数をもち》
*【鈴木家本】
我常に能人数をもち》
*【立花隨翁本】
我常ニ能人数を持》
*【赤見家甲本】
我常々能人数を持》
*【近藤家甲本】
我常々能人数を持》
*【石井家本】
我常々能人数を持》
*【大瀧家本】
我常に能人数を持》


吉田家本「我常に」

立花隨翁本「我常ニ」

赤見家甲本「我常々」

中山文庫本「我常に」

石井家本「我常々」

大瀧家本「我常に」
 かくして、立花=越後系諸本の相異は、立花隨翁本の発掘により決着がついて、筑前系は本来《常に》と記すものであったと判明した。そこで、次の問題は、肥後系諸本との相異問題へ土俵が遷る。すなわち、肥後系諸本には、その《我常に》の三文字を欠くこと、それが注意されるポイントである。
 この《我常に》の三文字の語句を欠く点では、楠家本・細川家本・丸岡家本その他も同様である。つまり、早期分岐派生写本の子孫たる富永家本や円明流系諸本もこの三文字を欠落させている。ということは、肥後系早期にすでにこの字句が失われていたのである。
 というのも、筑前系諸本には共通して、この語句がある。つまり越後系諸本まで含めて、共通するところから、この「我常に」という語句が、筑前系初期に存在したのである。これに対し、肥後系諸本においては、早期にこの三文字が脱落したものとみなしうる。
 その脱落は肥後系早期に生じたとして、それが寺尾孫之丞段階まで遡りうるか否かは、明言できない。つまり、寺尾孫之丞後期に、これが生じたのか、それとも、後の門外出後に発生したものか、確定は出来ない。しかし、それが何れであっても、筑前系に共通する以上、寺尾孫之丞前期には、この語句が存在したは可能性が高い。したがって、我々はこの語句を武蔵オリジナルにあったものとみなし、これを捨てずに取り込むのである。
 なお、この箇処につき、諸本に《敵いへバ、強くおもひて》とあるが、肥後系諸本の中で、細川家本には、《敵いへば、つよく思ひて》と記す。つまり、《敵と》ではなく、《敵を》とするのである。
 これは、細川家本と同系統の常武堂本も同じである。したがって、細川家本・常武堂本系統の祖本の段階で、《敵と》という字句を《敵を》と記していたらしい。もとより、筑前系/肥後系を横断して諸本は《敵と》と記すのだから、これは明白な誤写である。
 このあたり、肥後系諸本、楠家本・丸岡家本・富永家本などは、《敵と》と正しく記している。細川家本・常武堂本の系統でのみ、《敵を》と記す誤写が発生したのである。これは、「と」字を「を」字に読み間違えたという過誤である。その単純なエラーを細川家本・常武堂本の両本は引き継いだのである。
 しかるに他方、円明流系統の狩野文庫本・多田家本には、細川家本とは別の異変を示す。すなわち、狩野文庫本には、《敵を強シといへバ》と記し、多田家本には、《敵を強きといへば》と記している。
 これは単なる錯入ではなく、筆写者の一種の工夫であろう。《敵といへバ》という文言に何か不足を感じて、「を強シ」あるいは「を強き」という字句を挿入して、その「不足」を補ったものである。勿論これは、「あまりたるは、たらざるに同じ」のケースであって、余計な作為である。

 また、もう一つ校異を挙げるとすれば、筑前系諸本間の相異である。すなわち、立花=越後系諸本には、
《道理強く、其達者なる者》
とするところ、つまり、「其道達者」という語句であるが、筑前系写本の早川系、吉田家本・中山文庫本・鈴木家本には、この「道」字を欠く。これは越後系諸本の方が正しい。
 ちなみに、肥後系写本を見るに、こちらも「其道達者」と記している。筑前系/肥後系を横断して共通する語句は、基本的に古型である。とすれば、「道」字を欠く吉田家本など早川系の写本は、これを脱落せしめたものである。
 越後系写本の方が、吉田家本より正しいという事例は、これだけではなく、他に二十箇所ばかりある。ということは、立花峯均系写本は、吉田家本とは異系統の写本だということである。もう一つは、吉田家本の空之巻以外の諸巻は、柴任美矩→吉田実連の段階より以後の写本であるということである。
 吉田家本・中山文庫本・鈴木家本が、ともに「道」字を脱落せしめていることは注意すべきである。これらは同系統の早川系写本で、たとえば、「強く」という語に「剛く」と表記したり、「油断」を「弓断」と書いたりするなど、特異な文字運用を示す。それらは立花=越後系諸本にはない特徴である。
 ともあれ、立花=越後諸本の発掘により判明したのは、吉田家本の空之巻以外の諸巻は、柴任美矩→吉田実連の段階のものではなく、明かにそれより後に書写されたものであり、早川系に属するものだということである。
 それは、越後系諸本の発掘によって、はじめて判明したことである。つまり、吉田家本より越後系写本の方が正しいという書記例が少なからずあるという事実から知れたのである。
 五輪書研究においては、いづれにしても、可能な限り異系統の異本を発掘し、参照することが第一である。肥後系諸本のみを見ていては分からないことも、筑前系諸本を照合すれば、判明することもある。さらに、筑前系でも、中山文庫本や吉田家本だけを見ていては分からないことも、立花=越後諸本の発掘により判ってきたこともある。それにより、原五輪書へのアプローチが一歩前進したのである。それゆえ、五輪書研究においては、可能な限り広く異本を発掘し照合する努力を怠ってはならないのである。  Go Back



*【楠家本】
《敵といへバ、つよく思ひて、大事にかくるもの也。【】よき人数をもち》
*【細川家本】
《敵いへば、つよく思ひて、大事にかくるもの也。【】よき人数を持》
*【丸岡家本】
《敵といへば、強ク思て、大事にかくる者也。【】能人数を持》
*【富永家本】
《敵といゑバ、強く思ひて、大事にかくるものなり。【】能人数を持》





*【肥後系五輪書系統派生図】

○寺尾孫之丞―早期写本…流出…┐
 ┌―――――――――――――┘
 ├…………………富永家本 敵と
 |
 ├…┬…┬……楠家本 敵と
 | | |
 | | |誤写発生
 | | └◎┬……常武堂本 敵を
 | |   |
 | |   └…細川家本 敵を
 | |
 | └……┬…丸岡家本 敵と
 |    |
 |    └……田村家本 敵ト
 |
 └…流出……円明流系狩野文庫本
           敵を強シと








*【吉田家本】
《兵法能心得て、道理強く、其【】達者なる者にあひてハ》
*【中山文庫本】
《兵法能心得て、道理強く、其【】達者なる者にあひてハ》
*【鈴木家本】
《兵法能心得て、道理強く、其【】達者なるものにあひてハ》
*【立花隨翁本】
《兵法能心得て、道理強く、其達者なる者にあひてハ》
*【赤見家甲本】
《兵法能心得て、道理強く、其達者なる者にあひては》
*【近藤家甲乙本】
《兵法能心得て、道理強く、其達者なる者にあひては》
*【石井家本】
《兵法能心得て、道理強く、其達者なる者にあひては》
*【楠家本】
《兵法よく心得て、道理つよく、其達者なるものにあひてハ》
*【細川家本】
《兵法よく心得て、道理つよく、其達者なるものにあいてハ》

 
   10 四手〔よつで〕を放す
【原 文】

一 四手をはなすと云事。
四手をはなすとハ、敵も我も、同じこゝろに、
はりあふ心になつては、
戦はかゆかざるもの也。
はりあふ心になるとおもハヾ、其まゝ心を捨て、
別の利にて勝事をしる也。(1)
大分の兵法にしても、
四手の心にあれば、はかゆかず、
人も多く損ずる事也。はやく心を捨て、
敵のおもはざる利にて勝事、専也。
又、一分の兵法にても、
四手になるとおもハヾ、其まゝ心をかへて、
敵の位を得て、各別かはりたる利を以て
勝をわきまゆる事、肝要也。
能々分別すべし。(2)
【現代語訳】

一 四手〔よつで〕を放すという事
 四つ手を放すとは、敵もこちらも同じ心持になって、張り合う気持になってしまうと、戦いの渉が行かないものである。張り合う気持になったなと思ったら、すぐさまこの気持を捨て去って、別の利〔有利な手段〕で勝つことを知るのである。
 大分の兵法にしても、四つ手の心に留まっていては、捗が行かず、人〔戦闘人員〕も多く損耗することになる。早くその気持を捨てて、敵の予想もしない利で勝つこと、これが専〔せん〕である。
 また、一分の兵法の場合でも、四つ手になったと思えば、ただちに心持を変えて、敵の位〔態勢〕を把握して、まったく違う別の利を使って勝つ、それをわきまえることが肝要である。よくよく分別すべし。
 
  【註 解】

 (1)敵も我も、同じこゝろに、はりあふ心になつては
 戦闘中、敵も我も張り合う心になって、膠着状態に陥ってしまうことがある。そういうときどうするか、という教えである。
 敵もこちらも同じ心持になって、張う合う気持になったなと思ったら、すぐさまこの気持を捨て去って、別の有利な手を打ってみることだという。
 この「四手」〔よつで〕というのは、若干説明を要するであろう。相撲の「四つにわたる」「四つ身」と同じで、敵我二本、合せて四本の腕が、がっぷり組み合うことである。
 江戸時代の相撲で「四つ手投げ」とは、四つに組んで下手で相手の二の腕をつかみ上手で投げる技。現在の上手投げの一形態だが、上手投げは相手が四つに組む前に投げ、四つ手投げは四つに組み合ってからの投げであるとされる。また「四つ手の詰め」という決り手もあって、江戸時代、四つに組んで寄り進み、土俵際に相手を詰めて、相手を身動きできなくすると、勝ちとしたという。ルールも違ったのである。
 俗に「四十八手」というが、これは相撲にかぎったことではない。閨房での「技」にも四十八手あり、本手(正常位)のことを「四つ手組み」「四つがらみ」とも言ったらしい。そこで、
《孝行も四つ手、不孝も四つ手なり》
という周知の有名な川柳もあるわけだ。親孝行のために色を売る身に沈む女、それを買って遊ぶ親不孝な放蕩息子、二つの肉体が「四つ手」を組むのである。
 この「四つ手」について面白いのは、一枚の布を胸背中にX字形に組んで結び、汗取りの下着としたのも「四つ手」と言ったらしい。すなわち、×字形は四方に手がある形であるから、×字形をのことを四つ手というのであろう。また、同じようにして、×字形に縄を結ぶ緊縛の形態もある。
 ともあれ、「四つ手」の意味は相撲の四つ身にとどまらず、俗に性交のことを四つ手とも云い、また×字のような図形上の意味、交叉・緊縛など、そのコノテーションはさまざまである。
 しかしここでの「四つ手」は、相互に組み合って互角というより、むしろ要するに、戦闘の互酬性(reciprocality)にはまって、自由が利かなくなった状態である。すなわち、「敵も我も、同じ心に、はりあふこゝろに》なる状態が四つ手であり、そこから、《四手を放す》とは、そうした拮抗の膠着状態を打開することである。
 相撲の四つ手が、身体を組み合った状態ではなく、お互いに手を取り合って拮抗する形を四つ手といったようでもあるから、この場合は、四つに「組む」という意味ではなく、両手をつかみ合う格好である。したがって《四手を放す》は、組み合った手を放す、振りほどくことである。
 ここにも言うように、
《其まゝ心を捨て、別の利にて勝事をしる也》
とあるように、気持を切り替えてというよりも、その気持を捨て去って、まったく別の手段をとる方へ転換して、状況を打開するのである。「四つ手を放す」というテーゼは、武蔵流の臨機応変の教えの一つである。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 





豊国画 雲龍と境川


四つ手組み(本手)
孝行も四つ手不孝も四つ手なり



汗取りの四つ手 ×字形に結ぶ
 なお校異の点で言えば、指摘すべき相異箇処がある。それは、一つには、筑前系諸本に、
《はりあふ心になつてハ、戦はかゆかざるもの也》
とあって、《戦はかゆかざる》とするところ、肥後系諸本のなかには、《戦はかゆかざる》として、「の」字を入れるものがある。
 ただし、同じ肥後系でも、円明流系統の狩野文庫本・多田家本には、この「の」字を入れない。とすれば、肥後系において早期には、《戦はかゆかざる》と、「の」字を入れない写本があった可能性がある。つまり、《戦の》として「の」字を入れるのは、後に発生したケースだということである。
 このことは、筑前系諸本が共通して「の」字を入れないことでも明らかである。筑前系初期の段階でも、「の」字はなかった。《戦の》として「の」字を入れるのは、肥後で後世発生した錯入誤記なのである。
 この誤記を有するのは、楠家本・細川家本・丸岡家本等々であるが、これらは、《戦の》と記すことで、その後発性を示している。この《戦はかゆかざる》のような文言では、「の」字の錯入は書写過程で生じやすいエラーである。
 たとえば、本条の文でいえば、《各別かわりたる利を以て、かちをわきまゆる事》とあることろ、その《各別かわりたる利》の部分に、《各別かわりたる利》として、「の」字を錯入するケースが、越後系諸本にみられる。これは、立花隨翁本にはない誤記であり、五輪書が越後で伝写されたとき生じた後発的誤写である。ようするに、《各別かわりたる》であれ、《戦はかゆかざる》であれ、助詞「の」字の錯入は生じやすい傾向にあるということである。
 また、さらに別の校異では、この《戦はかゆかざるもの也》の前後にある字句が問題である。すなわち、筑前系・肥後系を問わず、《はりあふ》という字句を記すが、それを、一部諸本に《はりやう》と口語的に記している点が、注意されるはずである。
 この《はりやう》が、「はり様」ではないこと、つまり、この「やう」は、漢字「様」に対応する語ではなく、「合」の意味であることは文脈から知れる。したがって、これは「合」の《あふ》を、《やう》と記したのである。
 筑前系では、立花=越後系は《はりあふ》と記すが、早川系の吉田家本・中山文庫本は、《はりあふ》と《はりやう》の両方を記している。また、それが早川系の特徴かといえば、そうではなく、同じ早川系でも、鈴木家本は、《はり合》と記している。他方、肥後系では、楠家本と細川家本が、《はりやう》と記す。他はおおむね、《はりあふ》もしくは《張合》である。ところが、円明流系統では、多田家本にこの《はりやう》が記されている。
 ようするに、筑前系/肥後系を通じて、この《はりやう》が出現しているが、それは一部写本に限られる。もとより、古型ではなく、伝写過程で偶発的に生じた後発的な変異である。しかるに、問題は、この《はりやう》がいかにして生じたか、である。
 すなわち、これは近世初期の音韻というよりも、九州方言であろう。とすれば、そこから、二つの推測が出てくる。一つは、この《はりやう》は、五輪書伝写過程で、「あふ」(合)を「やう」と記すローカルな口語的傾向が一部にあり、そのため発生した字句ではないか、ということ。もう一つは、伝写が、一字一句、文字を厳密忠実に写しとるというよりも、何か口音を媒介にしているような気配がある。
 つまり、推測しうるのは、――このオーラルな気分は、伝写過程のある時期、伝書を直接見てではなく、読み上げを媒介にしてそれを文字に変換した、そういう伝書系統があったという痕跡なのではないか、――ということである。近世には、「読む」とは、黙読ではなく、音声に出して読み上げるという音声優位の傾向が、まだ存続していたのである。
 筑前早川系の吉田家本・中山文庫本のごとく、一部写本において、《はりあふ》《はりやう》の混在という、やや気まぐれな表記のゆらぎがあるのも、そういう条件で発生したと推測しうる。このことから、五輪書のグラマトロジーは、オーラルな口語を反映した特異な伝写のプロセスを想定させるのである。  Go Back


*【吉田家本】
《敵も我も同じこゝろに、はりあふ心になつてハ、戦【】はかゆかざるもの也。はりやう心になるとおもわば》
*【中山文庫本】
《敵も我も、同じこゝろに、はりあふ心になつてハ、戦【】はかゆかざるもの也。はりやう心になると思ハヾ》
*【鈴木家本】
《敵も我も、同じこゝろに、はり心になつてハ、戦【】はかゆかざるもの也。はり心になると思ハヾ》
*【立花隨翁本】
《敵も我も、同じこゝろに、はりあふ心になつてハ、戦【】はかゆかざるもの也。はりあふ心になるとおもハヾ》
*【赤見家甲本】
《敵も我も、同じこゝろに、はりあふ心になつてハ、戦【】はかゆかざるもの也。はりあふ心になるとおもハヾ》
*【近藤家甲乙本】
《敵も我も、同じ心に、はりあふこゝろになつてハ、戦【】はかゆかざるもの也。はりあふ心になるとおもハヾ》
*【楠家本】
《敵も我も同じ心に、はりやう心になつて【】、たゝかひはかゆかざるもの也。張やう心になるとおもはゞ》
*【細川家本】
《敵も我も同じ心に、はりやう心になつては、戦はかゆかざるもの也。はりやう心になるとおもハゞ》
*【丸岡家本】
《敵も我もおなじ心に、張心に成てハ、戦はか行ざる者也。張心になるとおもハゞ》
*【狩野文庫本】
《敵も我も同心に、はりあふ心に成てハ、戦【】はかゆかざるもの也。はりあふ心ニ成と思ハヾ、其儘心を捨て》



九州大学蔵
吉田家本 はりあふ/はりやう
 
 (2)はやく心を捨て、敵のおもはざる利にて勝事
 この「四つ手を放す」テーゼは、集団戦(大分の兵法)にも、個人戦(一分の兵法)にも、共通して該当する原則である。
 四つ手の心、張り合う心に留まっていては、膠着してうまく事が運ばず、戦闘人員も多く損耗することになる。だから、早くその気持を捨てて、敵の予想もしない手を打って勝つことが、集団戦において第一に重要なことである、と。
 合戦において、敵我互いに張り合って、押し合いを繰り返す拮抗膠着状態になると、兵員の損耗が激しい。《人も多くそんずる事なり》である。この点、武蔵はきわめて合理主義的である。敵我拮抗して、兵士がどんどん戦死する状況で、もっとがんばれ、とは云わず、そんな膠着からさっさと離脱しろ、というわけである。
 武蔵流兵法は、むやみな精神主義、根性主義とは違うのである。
 一分の兵法の場合でも同様で、四つ手になったと思えば、ただちに自分の心を変えて、敵の位、つまりここでは敵の態勢を把握したうえで、まったく違った別の手を打って勝つこと。――これが武蔵の教えである。
 この条文では、このテーゼのために、同じ趣旨の教えが三回繰返されている。
《其まゝ心を捨て、別の利にて勝事》
《はやく心を捨て、敵のおもはざる利にて勝事》
《其まゝ心をかへて、敵の位を得て、各別かはりたる利を以て勝をわきまゆる事》
 ただし、これは基本的な心得であって、何をどうするかという具体的な話はない。どちらかと言えば、五輪書向けに、つまり一般向けに提示されたテーゼである。
 肥後兵法書で用いられている類似の比喩は、右掲の「弦をはづすと云事」であろうか。五輪書が「張り合う」心であるのに対し、こちらは心が「引張事」、つまり引っ張り合う状態である。弦は弓の弦である。これを比喩として、引っ張り合う状態を「はずす」、解くことを教えている。
 しかしこの「弦をはづす」では内輪のジャーゴンのようなもので、あまり分かりよいとは言えない。五輪書の「四つ手を放す」という話の方が、世間一般向けである。
 「四つ手」のほうが解りよいというのは、連歌との関係もある。「景気」という語もそうだが、武蔵は五輪書でしばしば連歌語彙を用いている。ここでの「四つ手」には、上述の意味のほかに、連歌でいう意味合いもあろう。

――――――――――――

 この部分の校異の問題では、筑前系諸本に、
《四手のこゝろにあれバ、はかゆかず、人も多くそんずる事なり》
として、「人も多く」としているところ、肥後系諸本では、ここを「人の」としており、両者に語句の相違がある。
 ここは、筑前=越後系諸本に共通して、「人も多く」と記すところから、本書の初期形態は、筑前系写本の「人も多く」であったと想定しうる。肥後系の「人の」は、「多く」という語句の脱字があったあと生じた変形であろう。しかも「人の」というあたりが、やや奇態で、語呂もよくない。これは、「も」を「の」と誤写したものである。すなわち、
「人も多くそんずる」
  →「人そんずる」(脱字)→「人そんずる」(誤写)
というプロセスである。脱字と誤字の二段階・二重の誤記変換である。
 これが、早期に派生した系統の子孫たる富永家本を含めて、肥後系諸本に共通して存在するところから、これは早期に発生した変異である。ただし、これが寺尾孫之丞段階ですでにあったかというと、そうではない。上記のように、その変換が二重であるからだ。これは門外流出後に書写されているうちに発生した誤記である。
 ところで、従来の現代語訳で奇妙な現象が生じた。それは、細川家本も、肥後系写本ゆえ、《人のそんずる事也》として、「人も多く」とはしないのであるが、細川家本を底本にしたと称する戦後の現代語訳には、原文にはあるべくもない「人も多く」が出現していることである。
 戦前の石田訳は、見ての通り、「軍勢を損傷する」として、細川家本に忠実な訳である。しかるに戦後になると、まず、神子訳が、「兵員を多く失う」として、何と「多く」という語句を入れたのである。
 続いて、岩波版注記は、この神子訳をうけて、「味方の人員の損害が大きい」とした。もちろん、神子や岩波版編注者が、筑前系諸本の《人も多くそんずる》という語句の存在を知っていたわけではないから、これは偶然のことである。文意を強調するために、細川家本にはない、「多く」や「大きい」という語句を入れたにすぎない。
 その後の大河内訳は、岩波版注記のパクりであり、鎌田訳は、神子訳と岩波版注記の両方を取り込んでいるにすぎない。しかも、《はかゆかず》とあるのを、神子訳が、「決着がつかず」と胡乱な誤訳をしたのだが、それを、両者はご丁寧にもそのまま転記しているのである。
 しかし、かくして、戦後の現代語訳は、自身の底本であるはずの肥後系細川家本ではなく、筑前系諸本の文意を実現してしまった。恣意的というしかない脱線した誤訳が、結果として、正しいテクストを示すに至る。これは何とも不可思議な光景であり、五輪書翻訳史上の珍事というべきであろう。   Go Back


萬野美術館蔵
耳川合戦図屏風 部分


*【肥後兵法書】
《 弦をはづすと云事
一 弦をはづすとハ、敵も我も心引張事あり。身にても、太刀にても、足にても、心にても、早くはづすもの也。敵思ひよらざる所にて、能々はづるゝものなり。工夫有べし》







*【吉田家本】
《はかゆかず、人も多くそんずる事なり》
*【中山文庫本】
《はかゆかず、人も多く損ずる事也》
*【鈴木家本】
《はかゆかず、人も多くそんずる事なり》
*【立花隨翁本】
《はかゆかず、人も多く損ずる事なり》
*【赤見家甲本】
《はかゆかず、人も多く損ずる事なり》
*【近藤家乙本】
《はかゆかず、人も多く損ずる事なり》
*【石井家本】
《はかゆかず、人も多く損ずる事也》
*【楠家本】
《はかゆかず、人のそんずる事也》
*【細川家本】
《果敢ゆかず、人のそんずる事也》
*【富永家本】
《はかゆかず、人のそんずる事なり》


*【現代語訳事例】
《渉ゆかず軍勢を損傷するものである》(石田外茂一訳)
《決着がつかず、兵員を多く失うものである》(神子侃訳)
《決着がつかず、人員の損害が大きくなる》(大河内昭爾訳)
《決着がつかず、味方の人員を多く失うものである》(鎌田茂雄訳)


 
   11 陰を動かす
【原 文】

一 かげをうごかすと云事。
かげをうごかすと云ハ、
敵の心のミへわかぬ時の事也。
大分の兵法にしても、
何とも敵の位の見わけざる時ハ、
我方より強くしかくる様にみせて、
敵の手だてを見るもの也。手だてを見てハ、
各別の利にて勝事、やすき所也。
又、一分の兵法にしても、
敵うしろに太刀を搆、脇に搆たる様なるときハ、
ふつとうたんとすれバ、
敵思ふ心を太刀にあらはすもの也。
あらはれしるゝにおゐてハ、其まゝ利をうけて、
たしかにかちをしるべきもの也。
油断すれバ、拍子ぬくるもの也。
能々吟味有べし。(1)
【現代語訳】

一 陰を動かすという事
 陰を動かすというのは、敵の意図がよく分らない時のことである。
 大分の兵法〔合戦〕にしても、何とも敵の位〔態勢〕を見分けられない時は、こちらの方から、強く(攻撃を)仕懸けるように見せて、敵の手だてを見るのである。(敵の)手だてが分れば、(それとは)まったく別の利〔戦法〕によって勝つことは容易なことである。
 また、一分の兵法〔個人戦〕にしても、敵が後方に太刀を搆えたり、脇に搆えているような時は、(こちらが)「ふっ」と打つふりをすれば、敵は思っていることを(必ずその)太刀に現わすものである。(それが)現われ知れたとなれば、ただちにその利〔優位〕をうけて、たしかに勝ち〔勝機〕を知るべきものである。油断していると、その拍子が抜けることになる。よくよく吟味あるべし。
 
  【註 解】

 (1)かげをうごかす
 敵の企図がよく分らない時、どうするか、どのようにして、敵の作戦を知ることができるか。――ここでは、この問題に関する教えを述べる。
 「かげ」(陰)というのは、ここでは隠れて見えない物事のことである。その隠れて見えないものを、見えるものにする。そのためには、どうするか。
 これはいくら目を凝らし、視力を強化しても無駄であろう。眼力の問題ではないからである。この見えないものは、なりを潜めて動かないから見えないだけだ。であれば、隠れて見えないものを動かせばよい。――それが武蔵流のロジックである。
 敵の意図を知るには、敵を動かすことである。こちらが攻撃に出たとなると、すぐさま敵は対応して出てくる。この応対ぶりに敵の意図が現れてしまう。それがわかれば、もう戦いはこっちのものだ。その優位をもって敵を打つのである。
 この《かげをうごかす》テーゼは、集団戦だけではなく、個人戦でも同じように真理である。
 敵が太刀を、後方や脇に搆えているというのは、「正」ではなく「奇」の搆えである。ようするに、何か変なことを、つまり奇手を、「陰で」考えているのである。しかし、敵は何を考えているのか、それをこちらが考えろ――というようなことは、武蔵は教えない。考えるより、アクションを起こせ、ということである。
 こちらが仕懸けるふりをして挑発してやれば、これに対応して敵は行動を起す。そこに、敵が何を考えているかが現れる。言うならば、行動こそ心を映す鏡である。
 それゆえ、意図があって行動があるとしても、その意図は、「意図せず」行動に自身を暴露してしまうのである。言い換えれば、隠された意図は、必ず行動に外在化する。意図を知るには、意図そのものを探るよりも、意図を映す行動を起さざるをえないようにしてやればよい。
 したがって、これは、あれこれ試行錯誤してみろ、ということではない。むしろ、敵を挑発して、その企図を露呈させる、という挑発作戦である。
 かような具合の話であるから、これも基本的な教えである。とくに高等な技法は何もない。ただ、こうしたまったく基本的なところを、武蔵は、きちんと教えているのである。

――――――――――――

 語釈上の点で、少し述べれば、ここでは「利」という語に関してのことである。この「利」は利益・利得という意味があり、有利・優位という意味もあり、さらには、働き・作用とか、方法・手段の意味もある。
 したがって、こういうポリフォニックな多義的概念だから、語の解釈にあたっては、文脈に応じて汲み分ける必要がある。それで一々のケースについて、訳し分ける必要がある。だが、そうなるとこの「利」という語のニュアンスが消えてしまう恨みがある。そのあたりが難しいところであるが、多義的な幅をもつと思うのは、現代語の狭いカテゴリーに無理やり閉じ込めようとするからだ。本当は「利」は「利」だ、というほかないのである。
 あるいは語釈上の別のことでは、
《あらはれしるゝにおゐてハ、其まゝ利をうけて、たしかにかち(勝)をしるべきもの也》
という箇処がある。この二つの「しる」が問題である。前の「しるゝ」は、「知れる」ということである。ところが、後者の「勝をしる」の「しる」は、現代語の「知る」ではないとみえる。
 それは、「領る」〔しる〕という意味の「知る」である。つまり自分のものにすることである。知行地、領知、というばあいの「知」であると。
 しかし、後者の「しる」は、そのように、前者の「しる」(知る)と意味がズラしてある、という見方は正しいのか。――それは実は間違いなのである。
 この行文の「しるゝ」と「しる」は、本当は同じ語なのである。武蔵は五輪書で、ワードプレイをしばしばやっているが、同じ行文で、わざわざ同じ語を使って語義をシフトさせ、語呂合わせをするようなことはしない。だから、前の「しるゝ」が「知れる」なら、後の「しる」も「知る」(know)なのである。類似例では、「勝をわきまえる」という表現もあるところである。「勝をしる」も「勝をわきまえる」も同類の運用語法である。
 したがって、ここはどちらも「知」という漢字を宛行うべきところである。つまり、「勝をしる」とは、勝機を知るという意味なのである。この件については、下に述べるように、既成現代語訳との関連で、再度見ることにする。

 この同じ箇処について、もう一つ指摘しておくべきは、諸本校異があることだ。それも、筑前系/肥後系を截然と区別する指標的相異である。すなわち、筑前系諸本に、
《其まゝ利をうけて、たしかにかちしるべきもの也》
として、《勝(かち)をしるべき》とするのだが、これに対し、肥後系諸本には、《勝(かち)しるべき》として、「を」字を欠くものがある。
 これは筑前系が、立花=越後系諸本も含めて共通するところからして、筑前系初期から《勝を》であったと思われる。柴任美矩が伝授された寺尾孫之丞前期の段階である。
 これに対し、肥後系の方は、早期に派生した系統の子孫である富永家本には、《勝としるべき》とあって、「と」字を入れるなどして、必ずしも諸本間で一定しない。というのも、この変異が、肥後で門外流出後に生じたものだからである。
 そのプロセスとして、想定されるのは、
   「勝をしるべき」→「勝としるべき」→「勝しるべき」
という漸減過程ではなく、むしろ、
   「勝をしるべき」→「勝しるべき」→「勝としるべき」
であっただろう。つまり、まず《勝を》の「を」字の脱落があった。それを異として、後に修復したのが、富永家本の系統だが、「を」字ではなく、「と」字を入れてしまった。このケースでは、「勝ちを知る」ではなく、「勝つと知る」である。
 あるいは、円明流系統でも、《勝知るべき》を異として、「可勝所〔勝つべき所〕を知る」と改竄した。この場合も、《勝知るべき》(勝可知)ではおかしいと感じて、「可勝所」という語句にしたのである。
 これらは何れも、写し崩れというよりも、解釈にもとづく自発的で恣意的な変更である。それというのも、肥後系の「勝しる」という語句に異和を生じたからである。しかしその前には、「勝しるべき」という「を」字の脱落があったのである。
 いづれにしても、こうしたことは肥後系にのみ生じた変形である。そもそもは、「勝をしるべき」の「を」字が脱落したことに起因する。

 ところで、この肥後系で生じた混乱は、既成現代語訳を見るに、現代にも尾を引くもののようである。
 新しい混乱はすでに戦前に生じていた。石田訳は、この同じ行文にある「しるゝ」と「しる」の両方とも訳していない。前者は無視し、後者は「知る」ではなく、それをズラして「つかむ」と意訳している。この「つかむ」は、把握するの意で、「知る」の範疇をやや逸脱しかけている。このシフトが、戦後の現代語訳の方向を決定したと言える。
 神子訳は、前の「しるゝ」を、石田訳のように無視していないが、後の「しる」については、「知る」ではなく、「しめる」と訳した。つまり、勝利を占めるというわけである。これは石田訳の「つかむ」を言い換えたものだが、その置換の結果が「占める」となると、「知る」という語意は跡形もなく抹消されたわけである。
 かくして、神子訳の段階で、「知る」は「占める」に変異してしまった。戦前の石田訳の「つかむ」で逸脱しかけた語訳は、ここで完全に脱線してしまうのである。
 しかも神子訳は、《しるべきもの也》を、「しめることができる」と誤訳した。しかしここは、後続文が、油断していると拍子が抜けるぞ、という警告なので、「べき」という語は、「できる」という可能態ではなく、「べきである」という指示なのである。神子訳の「しめることができる」では、二重の誤訳である。
 神子訳に続く現代語訳は、何れも、神子訳をなぞる以外には何もできないという無能を曝すばかり。大河内訳は、神子訳を言い換えたにすぎず、とくに神子訳の「勝利をしめることができる」では文が固いと感じたか、「勝つことができる」と平易化したつもりである。しかし、これは原文に当たっているのではなく、神子訳が「底本」なのである。他人の現代語訳を「翻訳」しているだけである。だから、原文の「しる」という語はどこかへ行ったかという意識もない。
 鎌田訳は、岩波版注記がこれについてノーコメントなので、ここでは、神子訳をパクっている。大河内訳のように「翻訳」もせず、神子訳をそのまま写しているだけ。訳文がこれほどそっくりだと、まさに盗用に等しいのだが、臆面もなくそれを隠さないのは、根性があると言うべし。
 ――というわけであるから、近年の五輪書現代語訳事情は低迷し惨状を呈している、という我々の所見も、読者諸君には首肯されることであろう。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 





岐阜市歴史博物館蔵
関ヶ原合戦図屏風






敵は何を考えているのか?


















立花隨翁本 「勝をしる」

*【吉田家本】
《たしかにかちしるべきもの也》
*【中山文庫本】
《たしかに勝しるべきもの也》
*【立花隨翁本】
《たしかにかちしるべきもの也》
*【赤見家甲本】
《たしかにかちしるべきもの也》
*【近藤家甲乙本】
《たしかに勝しるべきもの也》
*【石井家本】
《たしかに勝しるべきもの也》
*【楠家本】
《慥にかち【】しるべきもの也》
*【細川家本】
《慥にかち【】しるべきもの也》
*【富永家本】
《たしかに勝知るべき者なり》
*【山岡鉄舟本】
《慥ニ勝知ベキ物也》
*【稼堂文庫本】
《たしかに勝知るべき者なり》
*【狩野文庫本】
《慥ニ可勝所知もの也》











*【現代語訳事例】
《現れゝば直ちにそれを利用して勝つ方法をシツカリつかむことが出來るものである》(石田外茂一訳)
《敵の心があらわれ、知れたときには、こちらはそれに応じた手段をとって、確実に勝利をしめることができる》(神子侃訳)
《その狙いがわかったときには、それに応じた有利な手段で、確実に勝つことができるのである》(大河内昭爾訳)
《敵の意図があらわれ、知れたときには、こちらはそれに応じた手段をとって、確かに勝利をしめることができる》(鎌田茂雄訳)


 
   12 影をおさえる
【原 文】

一 影をおさゆると云事。
かげを押ると云ハ、敵のかたより、
しかくる心の見ヘたるときの事也。
大分の兵法にしてハ、
敵のわざをせんとする所を、おさゆると云て、
我方より其利を押る所を、敵に強く見すれば、
強きにおされて、敵の心かはる事也。
我も心をちがへて、空なる心より、
先をしかけて勝所也。
一分の兵法にしても、
敵のおこる強き氣ざしを、
利の拍子を以てやめさせ、
やみたる拍子に、我勝利をうけて、
先をしかくるもの也。能々工夫有べし。(1)

【現代語訳】

一 影をおさえるという事
 影をおさえるというのは、敵の方から仕懸ける気持の見えた時のことである。
 大分の兵法の場合では、敵が攻撃を仕懸けようとするところを「おさえる」といって、こちらの方からその利〔攻勢〕をおさえるところを、敵に強く見せる。そうすれば、その強さに(敵が)おされて、敵の心が変るということである。
 (そのとき)こちらも気持を変えて、空〔くう〕なる心から、先〔せん〕を仕懸けて勝つのである。
 一分の兵法にしても、敵の起こす強い気ざし〔闘志〕を、利の拍子をもって抑止し、それが止んだ拍子に、こちらの勝つ利〔優位〕をうけて、先〔せん〕を仕懸けるのである。よくよく工夫あるべし。
 
  【註 解】

 (1)敵のわざをせんとする所をおさゆる
 ここは、前条「陰を動かす」と対照させて読むべきところである。「陰を動かす」と「影をおさえる」、それはどうちがうのか。
 そもそも「陰」と「影」は同音ながら、意味が異なる。「陰」は「物陰」などというように、隠れて見えないものである。現代語でも、「陰で悪口をいう」とか「犯罪の陰に女あり」とかいう、「陰」である。他方、「影」は、「月影」「面影」、あるいは漢字で「魚影」「投影」でもよいが、目に見える光や姿形である。「影法師」というのも目に見える。「影」は、総体、可視的なものである。こういう「陰」と「影」の本質的な相違は念頭におかれるべきである。
 「陰をうごかす」という前条では、隠れて見えないものを、わざと動かざるをえないようにして、見えるようにする、露呈させるという話であった。これに対し、本条の「影をおさえる」では、突出した目ざわりな敵の動きを押し込んでしまうことである。前条が、引っ張り出すのに対し、今度は、逆に、引っ込ませる。
 つまり、敵の方から攻撃をしかけてくる時、こちらはそれに対応して、強く出てみせる。そうすると、その強さに敵はおされて、勢いがひるむ。そこで、その後退に乗じて、「先」〔せん〕を仕懸けて勝つ、という話である。
 これも、ある意味で作戦の常識であろう。とくに際立った教えでも何でもない。ただし、そうだからといって価値の低い教えではない。何事でも基本は最後まで大切である。
 しかしながら、こうした常識的な部分が、現代風の通俗解説によって汚染されている。人間関係論や人生論に応用の利く話が五輪書にあるがごとき解釈がそれである。これも、誤解の一つであろう。武蔵は戦闘術を語っているのであって、人生論を語っているのではない。

――――――――――――

 ここで語釈上の問題を挙げれば、
《空〔くう〕なる心より、先〔せん〕をしかけて勝》
とある表現であろう。《空なる心より》は「心を空にして」と解してもよいが、意味合いとしては、「それまでの気持を捨て去って、新たな気持で」というほどのことである。しかし、当時一般の語法では、《空なる心より》というのが分かりよいのである。
 ただし、もう少し言えば、すでに見たように、空にするのは、心を空にすることもあれば、身を空にすることもある。この「影をおさえる」では、心を空にするが、前記の「陰を動かす」では、身を空にして攻撃に出るのである。そのあたりの対比構造は、五輪書の文言では直接明確ではないが、これを読んだ武蔵流の内輪では、これだけの文言からそうした対比構造を読みとっていたはずである。
 《空なる心より》を現代語に訳すのは、たいてい不始末である。ここは「虚心に」と語訳してしまうと、意味が大きくずれる。
 というのも、「空にするのは、心か、身か」という一流内の文脈が消えてしまうであろうし、また、《空なる心》のポジティヴな働きという意味合いが抹消されてしまうのである。
 ここは別の訳語をあてがうのではなく、以上の意味合いを汲み取った上で、「空なる心より」と、そのままにするがよかろう。語訳しないのではなく、意味を解した上で、熨斗をつけて元へ返すのである。
 なお、また語釈の別の箇処について言えば、
《強きにおされて、敵の心かはる事也》
とあるところ、こちらが強く出れば、敵は気勢を挫かれて、心が変るということである。
 ただし、岩波版注記に、この「つよき」を、《強気、強い態度》とするのは、意訳だろうが、誤りである。これは《強き》という名詞形でよい。その強さに気勢が圧迫されて、というほどの意味である。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 








露呈と引っ込み
















鈴木家本 当該箇処
 ところで、もうひとつ、――少し込み入った話になるが――以下の点を論うことにする。
 すでに気づかれていると思うが、同じ「かげ」という言葉でも、前条では「陰」であり、こちらでは「影」である。現代語のセンスからすれば、文字で書き分けるほどの意味の差があるのかと疑われるが、実は歴然たる相異があるのである。
 影は目に見えるもの、姿かたちとなって現れたものだが、陰は隠れて見えないものである。おなじ「かげ」でも、まったく対蹠的な反対物なのである。したがって「陰」と「影」は文字では書き分ける必要があるわけだ。
 ところがおもしろいことに、肥後兵法書では、この「陰」と「影」が逆になっており、「影を動かす」「陰をおさえる」というタイトルなのである。これを五輪書のそれと対照させると、以下のような相違である。
五 輪 書 肥後兵法書
一 かげ〔陰〕をうごかすと云事。かげをうごかすと云は、敵の心のみヘわかぬ時の事也。大分の兵法にしても、何とも敵の位の見わけざる時は、我方より強くしかくる様にみせて、敵の手だてを見るもの也。手だてを見ては、各別の利にて勝事やすき所也。又、一分の兵法にしても、敵うしろに太刀を搆、脇に搆たる様なるときは、ふつとうたんとすれば、敵思ふ心を太刀にあらはすもの也。あらはれしるゝにおゐては、其まゝ利をうけて、たしかに勝をしるべきもの也。油断すれば、拍子ぬくるもの也。
一 影を動かすと云事
 影ハ陽〔よう〕のかげ也。敵太刀をひかへ、身を出して搆る時、心ハ敵の太刀をおさへ、身を空にして、敵の出たる所を、太刀にて打バ、必敵の身動き出るなり。動出れば、勝事安し。むかしハなき事なり。今は居付心をきらひて、出たる所を打なり
一 影をおさゆると云事。かげを押ると云は、敵のかたより、しかくる心の見ヘたる時の事也。大分の兵法にしては、敵のわざをせんとする所を、おさゆると云て、我方より其利を押る所を、敵に強く見すれば、強きにおされて、敵の心かはる事也。我も心をちがへて、空なる心より、先をしかけて勝所也。一分の兵法にしても、敵のおこる強き氣ざしを、利の拍子を以てやめさせ、やみたる拍子に、我勝利をうけて、先をしかくるもの也。
一 陰をおさゆると云事
 陰〔いん〕の影をおさゆると云事、敵の身の内を見るに、心のあまりたる所もあり、不足〔たらぬ〕所もあり。我太刀も、こゝろも、あまりたる所へ氣を付る様にして、足らぬ所の陰に其まゝ付ば、敵拍子まがひて、勝よきものなり。されども、我心を殘し、打所を忘れざる所肝要也。
 両者を対照すれば、一見形式は似ていても、「陰」と「影」の文字が入れ替わっている他にも、話の内容がずいぶん違っていると、わかる。
 まず、肥後兵法書では、陰陽二つの影を語って、話は「陽の影を動かす」「陰の影をおさえる」ということである。ここで対になっている諸要素がもつのは、
    陽の影/陰の影 : 動かす/おさえる という差異の構造である。したがって、陰陽二つの影の対比であり、五輪書のように陰/影の対比ではない。
 それぞれの内容をみれば、肥後兵法書は、影を「陽の影」とし、これを動かすという話である。具体的な場面としては、敵が太刀を控えて――意図を見せない――搆えをする、そのとき、敵が打って出るところを打つ。この動きが出れば、勝つことはたやすいとの教えである。
 しかし、五輪書の教えは、敵の意図の見えないとき、敵を挑発して、打つと見せて、その思うところを引っ張りだすということである。敵が打って出るところを打つ、のではない。話はかなり違っている。
 また、肥後兵法書では、隠れて見えない「陰の影」をおさえるといい、敵の身のうちの心の不足した所の「陰」につけ入って抑えれば、敵の拍子が狂って、これまた勝ちやすいとの教えである。 これも五輪書とは内容そのものが違っている。肥後兵法書の「陰の影」は、敵の心の不足した所、つまり盲点であって、敵自身が気づかない、見えないところである。見えないのは、こちらではなく敵自身である。これは五輪書の、敵の意図が当方には見えない場合というのとは違っている。
 また「おさえる」ということにしても、陰につく、つまり敵の注意の陰、死角になっているポイントを押さえる、ということであり、五輪書の、強く出て敵の気勢を挫き、圧倒するという話とは、まるで内容が違っている。
 かくして、肥後兵法書の記述を見れば、五輪書の教えから明らかに脱線している。しかも、五輪書の記述は整流され平易になっているのに、肥後兵法書では逆に混乱を生じている。「陰」と「影」と、文字が入れ替わっているのも、その一例である。新義は新義だが、五輪書の教説を理解しているとは思えない内容である。
 興味深いのは、肥後兵法書に、影を動かすという事について、《むかしはなき事なり》とするところである。これは、居つく心を嫌って、敵が攻撃に出たところを打つという方法で、昔はなかったというから、新しいやり方らしい。戦闘術にも遷移があるようだが、それよりも、五輪書とは話の内容が変化してしまっている。
 言い換えれば、武蔵死後、五輪書は寺尾孫之丞によって門人に伝授されるようになるが、他方、孫之丞門外に流出したものがあって、それが書写されて肥後系諸本の先祖になる。また一方では、門外流出後早々に、五輪書の内容は、摘要編集されて肥後兵法書のような別文書になる。もはや別文書だから、伝写の頚木を放たれ、解釈が加えられて、教義の内容も同時に変異したのである。これが武蔵撰述という仮託文書になるまでには、武蔵死後、それ相応の時間が必要だったと思われる。   Go Back



陰と陽 大極図二種



朱子太極図





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