武蔵の五輪書を読む
五輪書研究会版テクスト全文
現代語訳と注解・評釈

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五輪書 火之巻 2  Back   Next 

 
   4 枕をおさえる
【原 文】

一 枕を押ると云事。
枕をおさゆるとハ、
かしらをあげさせずと云所也。
兵法勝負の道にかぎつて、
人に我身をまはされて、あとにつく事、悪し。
いかにもして、敵を自由にまはしたき事也。
然によつて、敵も左様に思ひ、
われも其心あれども、人のする事を
うけがはずしてハ、叶がたし。
兵法に、人のうつ所をとめ、つく所をおさへ、
くむ所をもぎはなしなどする事也。
枕を押ると云ハ、我実の道を得て、
敵にかゝりあふ時、敵何事にても思ふ
氣ざしを、敵のせぬうちに見しりて、
敵の打と云、うの字のかしらをおさへて、
跡をさせざる心、是枕をおさゆる心也。
たとヘバ、敵の懸ると云、かの字(のかしら*)を
おさへ、飛と云、との字のかしらをおさへ、
きると云、きの字のかしらをおさゆる事、
ミなもつておなじ心也。(1)
敵我にわざをなす事につけて、
役にたゝざる事をば敵に任せ、
役に立ほどの事をバ、おさへて、
敵にさせぬやうにする所、兵法の専也。
これも、敵のする事をおさへん/\とする心、
後手也。先、我は何事にても、
道にまかせてわざをなすうちに、
敵もわざをせんと思ふかしらをおさへて、
何事も役にたゝせず、敵をこなす所、
是、兵法の達者、鍛錬の故也。
枕をおさゆる事、能々吟味有べき也。(2)

【現代語訳】

一 枕をおさえるという事
 枕をおさえるとは、(敵に)頭をあげさせないというところである。
 兵法勝負の道に限っても、人に我が身を廻され〔翻弄され〕て、後手につくことはよくない。どうにかして、敵を自由に廻したいものである。
 したがって、敵もそのように思い、こちらもそのつもりだが、相手のすることに対応することなしには、それができない。(それゆえに)兵法において、相手の打つところを止め、突くところをおさえ、組みついてくるところを、もぎ離しなどするのである。
 (これに対し)枕をおさえるというのは、我が真実の道を会得して、敵にかかり合う時、何ごとであれ、敵が思うきざしを示さぬ内に、こちらはそれを察知して、敵の「打つ」というその「う」の字の頭をおさえて、その後をさせないこと、これが枕をおさえるという意味である。
 たとえば、敵の「かかる」という「か」の字の頭をおさえ、「飛ぶ」という「と」の字の頭をおさえ、「切る」という「き」の字の頭をおさえる。これは、すべて同じ(枕をおさえるという)意味である。
 敵がこちらに業を仕懸けてくるにつけても、役に立たない事は敵に任せて、役に立ちそうな事はこちらがおさえて、敵にさせないようにするところ、これが兵法の専〔第一に重要なこと〕である。
 これも、敵のすることを、おさえよう、おさえようとするのは、後手〔ごて〕である。まず、何ごとであれ、自分は道に任せて業をするうちに、敵も業をしようと思う、その頭をおさえて、何ごとも役に立たせず、敵をこなす*〔自由に扱う〕ところ、これが兵法の達者であり、鍛練の成果である。
 (この)枕をおさえること、よくよく吟味あるべきである。
 
  【註 解】

 (1)かしらをあげさせず
 この「枕をおさえる」というテーゼは、有名な教えの一つである。機先を制するという一般的な作戦の、武蔵流の要諦を述べたものである。
 前条「三つの先」では「先」〔せん〕をとることが語られた。ここはそれと連続する教えである。
 戦闘において、人はだれでも「敵を廻す」立場を押さえたいものである。相手にわが身を廻されて、後手につきたくない。そうはしたいのだが、しかし、相手のすることに対応することなしには、それができない。敵の打つところを止め、突くところをおさえ…というように、戦闘では、敵の攻撃を受けて、それに対応するかたちになるわけである。これを我々は、戦闘の相対性、対称性と呼ぶ。
 これに対し、武蔵の「枕をおさえる」というのは、そんな相対〔あいたい〕の対称性を破断する先制攻撃の方法である。ただし、機先を制するというふつうの教えとは、少し違っている。
 何ごとであれ敵が思う兆候を示さぬ内に、こちらはそれを察知して、敵の「打つ」というその「う」の字の頭をおさえて、その後の何もさせないこと。――これが「枕をおさえる」という意味である。
 このあたり、まさに徴候分析(symptomatic analysis)というべきものであり、武蔵流行動心理学の面目とされるところであるが、それはいかがなものか。
 敵が攻撃行動に移るその瞬間を捉えて攻撃するというのは、よくある話である。行動と行動の間だけではなく、意図(intention)と行動(action)の間には必ず隙間がある。その瞬間が攻撃のチャンスである。
 しかし、武蔵が「枕をおさえる」というのは、もう少し話が具体的であるし、またニュアンスもちがう。ここでは、意図と行動の隙間という話ではなく、むしろ「打つ」という意図の起動する頭をおさえるという話なのである。
 言い換えれば、敵の「行動」の頭をおさえるのではなく、その「意図」の頭をおさえてしまうのである。それが――とりわけ有名な――《敵の打と云、うの字のかしらをおさへて》という一節である。
 それゆえ、「枕をおさえる」とは、起動の抑止(deterrence)あるいは押収(seizure)のことだが、太刀の「手」をあげさせないのではなく、意図という「頭」をあげさせないわけで、比喩として「枕」という武蔵の措辞は、よくよく適切なものだと言うべきであろう。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 




鈴木家本 当該箇処



箱枕・撥枕
 ここで、やはり語釈の問題につき、言うべき事どもが少なからずある。すなわち、「枕をおさえる」という、ことのほか重要なこの箇処を、まともに読めたものがなかった。それゆえ問題を明確にしておく必要がある。
 そのひとつは、
《敵も左様に思ひ、われも其心あれども、人のする事をうけがはずしてハ叶がたし》
とある箇処である。一般に流布した五輪書本の底本である細川家本でも、ここは同じく、《人のする事をうけがわずしてハ叶がたし》であるが、これにつき、岩波版注記は、「相手の出方を察知することができなくては」という解釈を示している。だが、むろん「うけがふ」という語には「察知する」などという意味はない。「うけがふ」はもともと「肯う」であって、物事を受けとめることである。だから「察知する」というこの語釈は誤りである。
 後文に《敵何事にても思ふ氣ざしを、敵のせぬうちに見しりて》とある。むしろ、この「見知る」が察知することである。
 どうやらこの解釈は、戦前の石田訳の「見抜く」という語訳にアイディアを得たものらしい。これは、「うけがふ」を「うかがふ」と曲げて解したもののようだが、岩波版注記は、それを曖昧なかたちで、語釈を提示したものである。けれども、この「うけがふ」を「うかがふ」と変更する理由はない。
 既成現代語訳をみるに、この岩波版注記以前の神子訳は、「うけがふ」を「承知する」と直訳して、ややマシかというところだが、やはりこの語訳でも誤りであることには変りはない。この点は、神子訳を踏襲した大河内訳も同じである。
 しかし、それよりも、この神子訳において、大きな過誤が認められることが問題である。それは右掲訳文のごとく、敵が打とうとするのを止め、突こうとするのをおさえ…などすることが「枕をおさえる」だとしていることである。「枕をおさえる」という話が、すっかり混乱してしまっているのである。これでは、武蔵が何を述べているのか、さっぱりわからなくなるであろう。
 どうしてそんな大きな間違いが生じることになったか、それはだいたい推測がつく。実はこの部分、次に続く《枕を押ると云は、我実の道を得て…》以下の一文と、対照的に配置されていることが読めなかったせいである。
 武蔵のえ教えるところは、機先を制することであり、これに対し前文は「人のすることをうけがはずしては叶がたし」、つまり敵の打つところを止め、突くところをおさえ…というように、相手の攻撃を受け止めるのに終始するという境位を指している。
 このコントラストが見えないから(事実、神子の訳文はここで改行していない)、前後をベタに読んでしまって、そこから前文も同趣旨の記述と錯覚し、「枕をおさえる」とは、敵が打とうとするのを止め、突こうとするのをおさえ…などすることだ、と誤解してしまったのである。とくに、「組もうとするのをもぎはなしなどすることを、枕をおさえるという」とするに至っては、ほとんど爆笑物である。
 この神子訳を引き継いだ大河内訳は、原文から逸脱して勝手な文章を作文している。これは神子訳を「底本」にして、それを書き換えたものである。いわば恐るべき重訳であるが、これでは「訳文」とは云えない。
 こういう神子訳の明白な誤りとは別に、「うけがふ」という語を「察知する」と曲解するのも、そう大して違いはないのである。というのも、やはり同じく前後のコントラストが見えないから、そういう誤訳になったものである。鎌田訳はこのあたりを看過している。直訳しただけのかたちで、先行者の訳文の混乱にさえ気づいていない。
 いづれにしても、このあたりは五輪書のなかでも重要な箇処であるから、現代語訳には正確を期したいのだが、従来こんな訳文しか存在しなかったのである。瑕疵の大小はあれ、訂正を要するであろう。

――――――――――――















*【現代語訳事例】
《敵のする事を見抜く力がなくしては、それは出來ない。兵法においては敵の打つ所を受け留め、突く所を押へ、組む所をもぎ放しなどしなければならない。枕を押へるとは、我が兵法の道を體得して、敵と合戰する時は…》(石田外茂一訳)
《相手がどう出ようとしているのかを承知していなければ先手をとることはできない。武芸にあって、敵が打とうとするのを止め、突こうとするのをおさえ、組もうとするのをもぎはなしなどすることを、枕をおさえるという。これは、わが兵法の真髄を心得て敵に相対するとき…》(神子侃訳)
《相手の出方を承知していなければ不可能である。兵法でいう「枕をおさえる」とは、敵が打とうとするのを止め、突こうとするのをおさえ、組みついてくるのをもぎ離しなどすることである。これは、わが兵法の道を心得て、敵とわたりあうとき…》(大河内昭爾訳)
《相手の出方を察知することができなくては、先手をとることはできない。兵法において、敵が打つのを止め、突くのをおさえ、組み付いてくるところをもぐようにひきはなしなどすることである。枕をおさえるというのは、自分が兵法の要諦を心得て敵に向いあうとき…》(鎌田茂雄訳)

 なお、ここで諸本校異につき、指摘しておくべき点がある。そのひとつは、筑前系諸本に、
《敵の打と云、うの字のかしらをおさへて、跡をさせざる心》
とあるところ、肥後系諸本の中には、これを、
《敵のうつといふ、うつのうの字のかしらをおさへて》
として、「うつの」という字句を入れるものがある。
 従来の肥後系(とくに細川家本)中心主義的な見方からすれば、筑前系諸本にはここに「うつの」という文字の脱落があったということになるが、すでに各所で述べたように、肥後系諸本は門外流出後の写本の子孫なので、それを基準とするわけにはいかないのである。
 筑前系諸本に共通して同じ表記があるということは、それが筑前系初期からあったということを示す。言い換えれば、柴任美矩が寺尾孫之丞から相伝した五輪書に、そのように記されていた可能性が高い。筑前系現存写本のこの文言は、寺尾孫之丞前期の相伝写本の表記を伝えているのである。
 この条文の他の文例もあわせ見れば、以下のごとくであろう。
   敵のうつと云、うの字のかしらをおさへて、
   敵のかゝると云、かの字(のかしら)をおさへ、
   飛ぶと云、との字のかしらをおさへ、
   きると云、きの字のかしらを押る
 こうした文字列からすると、たとえば、「飛ぶと云、とぶのとの字のかしらをおさへ」という文言はないし、「きるという、きるのきの字をかしらをおさえる」、というような文言ではない。ようするに、《敵のうつといふ、うつのうの字のかしらをおさへて》の「うつの」という字句は、武蔵のオリジナルの段階からなかったのである。
 かくして、肥後系諸本にあるところの「うつの」「打の」という字句は、誤記と見なしうる。しかも、肥後系早期派生系統の子孫たる円明流系の狩野文庫本や多田家本には、《敵の打と云、うの字の頭をおさへて》とあって、「うつの」「打の」という字句はない。これは筑前系と同様である。言い換えれば、筑前系/肥後系を横断して共通するのは、「うつの」「打の」という字句がない文言であり、それが古型である。
 以上のことからすれば、肥後系でも早期のある段階までは、「うつの」「打の」という文字はなかったのである。肥後系現存諸本にあるところの「うつの」「打の」という文字は、早期写本のある段階で発生した誤記である。爾後の諸写本はこの先祖の誤記を継承したものである。
 また、もう一つ、校異の問題があるとすれば、それは以下の箇処であろう。すなわち、筑前系/肥後系を横断して共通するところ、つまり、
《たとへバ、敵のかゝると云、かの字をおさへ》
とあるところ、これを見るに、「かの字の」という箇処に、脱字がありそうである。つまり、以下の同様文に、
《とぶと云、との字のかしらをおさへ、きると云、きの字のかしらをおさゆる》
とあるのだから、ここに《かの字をおさへ》とあるのは、《かの字のかしらをおさへ》とすべきところであり、「のかしら」という字句の脱落があるとみなすべきである。
 しかるに、これが筑前系/肥後系諸本を通じて、この脱字を示すということは、これが寺尾孫之丞段階に遡及しうる異変だということである。つまり、これが古型だとみなしうる。
 他方、肥後系では一部に、この脱字を回復したものもある。一つは、丸岡家本・田村家本の系統であり、そこには、《カノ字の頭を押へ》と記す。またもう一つは、円明流系統の狩野文庫本・多田家本で、そこには同じく《かの字の頭をおさへ》として、「の頭」という字句を入れている。
 このことから、肥後系諸本の中には、脱字のない写本が存在することが知れるが、ただし、これが肥後系早期から存在したとは考えられない。というのも、筑前系諸本には、これに該当するものがないからである。
 ようするに、肥後系に見られるこの措置は、後世の校訂によって生じたものである。書写者がここに脱字があると考えて「修復」したものである。その限りにおいて、今日の我々の立場と大差ない写本である。
 この脱字は、上述のように、寺尾孫之丞の段階に遡及しうるものである。武蔵草稿を寺尾孫之丞が書写し編集する段階で発生した脱字である。そのために、孫之丞前期後期を通じて、ここに脱字のある五輪書が発給されたというわけである。
 以上のことからする帰結として、我々の五輪書テクストでは、ここに脱字があるとみなし、「のかしら」という四文字を( )に入れて、その脱字への注意を喚起しておいたのである。   Go Back


*【吉田家本】
《敵の打と云、【】うの字のかしらをおさへて》
*【中山文庫本】
《敵の打と云、【】うの字のかしらをおさへて》
*【鈴木家本】
《敵のうつと云、【】うの字のかしらをおさへて》
*【赤見家甲本】
《敵のうつと云、【】うの字のかしらをおさへて》
*【近藤家甲乙本】
《敵のうつと云、【】うの字のかしらをおさへて》
*【石井家本】
《敵のうつと云、【】うの字のかしらをおさへて》
*【楠家本】
《敵のうつといふ、うつのうの字のかしらをおさへて》
*【細川家本】
《敵のうつと云、うつのうの字のかしらをおさへて》
*【丸岡家本】
《敵の打といふ、うつのうの字の頭を押て》
*【富永家本】
《敵の打といふ、打のうの字の頭をおさへて》
*【狩野文庫本】
《敵の打と云、【】うの字の頭をおさへて》








*【吉田家本】
《敵のかゝると云、かの字【】をおさへ》
*【中山文庫本】
《敵の懸ると云、かの字【】をおさへ》
*【鈴木家本】
《敵のかゝると云、かの字【】をおさへ》
*【近藤家甲乙本】
《敵のかゝるといふ、かの字【】を押へ》
*【石井家本】
《敵のかゝるといふ、かの字【】を押へ》
*【楠家本】
《敵のかゝるといふ、かの字【】をおさへ》
*【細川家本】
《敵のかゝると云、かの字【】をおさへ》
*【富永家本】
《敵のかゝると云、かの字【】をおさへ》
*【丸岡家本】
《敵のかゝると云、カノ字の頭を押へ》
*【田村家本】
《敵ノカヽルト云、カノ字ノ頭ラヲヽサヘ》
*【狩野文庫本】
《敵の懸るといふ、かの字の頭をおさへ》
*【多田家本】
《敵のかゝると云、かの字の頭をおさへ》

 
 (2)役にたゝざる事をば敵に任せ
 ここで最初に語釈の点を一つ言えば、《敵をこなす》の「こなす」という語である。
 これは要するに、「敵を廻す」と語義がほぼ近い類語である。自分の思うように敵を引き廻し処理することである。現代語でも「難題をこなす」「仕事をこなす」という形で、やや近い用法が存在する。我々の訳文では、この「こなす」という語のニュアンスを保存するために、とくに別語で置換せず、そのままにしておいた。
 さてこの節は、「枕をおさえる」という教えだが、武蔵はここで重要な教訓を補足しなければならない。
 枕をおさえるとはいえ、敵のしようとすることをおさえよう、抑止しようとすると、後手になる。意図すること自体が、すでに遅いのである。だから、
《先、我は何事にても、道にまかせてわざをなすうちに、敵もわざをせんと思ふかしらをおさへて、何事も役にたゝせず、敵をこなす所》
と云うのだが、これがむずかしい。道にまかせて業を為すうちに、自然と枕をおさえることができるようになるには、鍛錬あるのみである。――これは、初心者への教訓として、平凡だが、至極真っ当な話である。初心者はどこに目標とモデルをおくか、その高みと深みを望見できるのである。
 このように語る五輪書に対し、肥後兵法書の方は、祖述しながら説明が要約的である。両者の違いは、むろん、前者が初心者を含めた読者を対象にした普遍的な教本たらんとしたのに対し、後者は一流の内輪での文書であることによる。肥後兵法書は、五輪書のスタンスまでは継承していない。いわば、別のスタンスで書かれた文書なのである。
 ところで、武蔵の教えにあるように、ようするに、枕をおさえることの実践的効果は、役に立たない事は敵に任せて、役に立ちそうな事はこちらがおさえ、敵に何もさせないようにすることである。この「役に立たないことは、敵にまかせろ」という話は、むろん武蔵のユーモアである。
 役に立たないことはしない、という話では、地之巻後書に、「我兵法を学んと思ふ人は、道をおこなふ法有り」として、九ヶ条をあげるなかに、
《第九に、役に立ぬ事をせざる事》
という有名な一文のあったことが想起されるであろう。
 ところが、この「役に立ぬ事をせざる事」という武蔵テーゼ、どうやら世間で独り歩きしてしまう傾向があるらしく、とんでもない文脈のなかで説明されることもある。右掲のごとき恐るべき通俗説教はその一例であろう。
 しかし武蔵は、役に立たないことはするな、というこの教えを、上のごとく、戦闘において敵の攻撃を無力化するという文脈で用いたのである。いつも武蔵のテーゼは独り歩きしてしまうが、武蔵がどのような文脈でそれを語っているか、それを承知しておかないと、とんでもない「人生論」や「精神論」に化けてしまうのである。
 繰り返して言えば、「役に立たぬ事をせざる事」という武蔵テーゼは、戦闘の最中での心得を述べたものであるが、これは、「役に立たぬことは、敵にまかせろ」という指示と一対の教訓なのである。つまり、「役に立たぬことはするな」というのは、「役に立たぬことは、敵にまかせろ」という意味なのである。   Go Back


















*【肥後兵法書】
《 枕をおさゆると云事
一 枕を押ゆると云ハ、敵太刀打出さんとする氣ざしをうけ、打んとおもふ、うの字のかしらを、空より押ゆるなり。おさへやう、心にても、身にても、太刀にても押るもの也。此氣ざしをしれば、敵を打にもよし、入にもよし、はづすにもよし、先をかくるにもよし。何れにも出合心あり。鍛錬肝要なり》






*【役に立ぬことをせざる事】
《役にも立たぬこと、無意味なことをやりたがる人間は、この世に何をするために自分が生れてきたか、生きながらえてきたかが、分からぬ人間なのだ。生きる目的、生涯をかけてやりぬく仕事が、なんであるかを、自覚しない人間である。兵法者として一途に生きぬこうとした宮本武蔵は、こうした人間の無意味な行動を戒めたのだ》(桑田忠親『宮本武蔵五輪書入門』 昭和57年)


 
   5 渡を越す
【原 文】

一 とをこすと云事。
渡をこすと云ハ、縱ば海をわたるに、
せとゝいふ所も有、又は、四十里五十里とも
長き海をこす所を、渡と云。
人間の世をわたるにも、一代のうちにハ、
渡をこすと云所多かるべし。
舩路にして、其との所を知り、
舟の位をしり、日なミを能知りて、
たとひ友舩は出さずとも、
その時のくらゐをうけ、
或はひらきの風にたより、或は追風をもうけ、
若、風かはりても、二里三里は、
ろかひ*をもつて湊に着と心得て、
舩をのりとり、渡を越す所也。
其心を得て、人の世を渡るにも、
一大事にかけて、渡をこすと思ふ心有べし。
兵法、戦のうちに、渡をこす事肝要也。
敵の位をうけ、我身の達者をおぼへ、
其理をもつてとをこす事、
よき船頭の海路を越すと同じ。
渡を越てハ、又心安き所也。
渡を越といふ事、敵によはミをつけ、
我身先になりて、大かたはや勝所也。
大小の兵法のうへにも、とをこすと云心、肝要也。
能々吟味有べし。(1)
【現代語訳】

一 渡を越すという事
 渡*〔と〕を越すというのは、たとえば、海を渡るに「せと」〔狭渡〕という(狭い)所もあり、または、四十里五十里という長い海を越す所を渡〔と〕という。人が世間を渡るにも、一生のうちには、渡を越すという場面が多いであろう。
 船路にあっては、その渡の場所を知り、あるいは船の位〔性能〕を知り、日並〔天候〕をよく知って、たとえ連れの舟は出さなくとも、その時々の状況に応じて、あるいは開きの風〔横風〕に頼り、あるいは追風をも受け、もし風が変っても、二里三里(の距離)は、櫓や櫂を使ってでも港に着けると心得て、船を操り、渡を越すのである。
 そのように心得て、人の世を渡るにも、(ここぞという)大事な場面では、渡を越すと思う心があるであろう。
 兵法(においても)、戦いの最中に、渡を越すということが肝要である。敵の位に応じ、我身の達者〔技能〕を自覚し、その理〔理性〕によって渡を越すこと、これは優れた船頭が海路を越すのと同じこと。渡を越せば、再び安心できるのである。
 渡を越すということは、敵には弱みを着けさせ、我が身は先〔せん〕になって、すでにほぼ勝ちおさめるというところである。
 大小の兵法*の上でも、渡を越すという心持が肝要である。よくよく吟味あるべし。
 
  【註 解】

 (1)渡を越す
 戦いというものは、起伏なく単調に推移するわけではない。戦いのなかで、ここぞ、という重大な局面がある。そこを乗り切ることを、「渡〔と〕を越す」という言葉で譬喩している。
 ここは読むのに、さして問題があろうとは思わないが、ただタイトルの「渡を越す」について説明が要るかもしれない。
 「渡」はふつうは「渡し」「渡り」であって、「と」とは読まない。これが当時の海事用語であったか、どうか。それは確認できない。
 我々の所見では、この「渡」は宛字で、本来はたとえば「瀬戸際」の「と」の意味であろう。ようするに、「と」は境目の部分を指し、そこから生死の分れ目、運命が決まる重大な分岐点のことである。したがって、この「と」を「渡」とするのは、渡海の意味からの変色であって、必ずしも適切な当て字ではない。むしろ「と」と仮名で書いた方がよかろう。
 かくして、「渡を越す」は、運命の分れ目、そのような重大なポイントを乗り切るということである。
 これを武蔵は渡海の比喩で語っているわけだ。海を渡る船路がある。狭い海峡もあれば、四十里(160km)も五十里(200km)もある海路もある。そのなかでも、「渡を越す」というポイントがある。そこを巧みに切り抜ける智慧を、船頭たちはもっている。
 おそらく武蔵の念頭にあったのは、子供の頃から見慣れた瀬戸内の多島の海であろう。そこには潮流の変化する複雑な急所が無数にあり、海難事故は昔から跡を絶たない。これを乗り切れるのは、その「と」のポイントを熟知している優れた船頭のみである。
 そうした優れた船頭が海路を乗り切るのと同じことで、兵法においても、戦いの最中に、渡を越すということが肝要だ、というのがこの「渡を越す」の教訓である。
 しかしながら、五輪書のここでの教訓は、一般的な心得にとどまり、戦闘術としては具体的な記述がない。あるとすれば、《渡を越といふ事、敵によはみをつけ、我身先になりて、大かたはや勝所也》という記事だけであって、前条「枕をおさえる」の連続であるかのような書きぶりである。つまり、役にたたぬことは敵にまかせろ、というレベルの話である。
 おそらく、武蔵はここにもう少し書き足すつもりだったかもしれない。前後の条々と比較すればわかることだが、ここにかぎって戦法の記述がないからである。
 これに対し、右掲肥後兵法書を見れば、別の記述がある。つまり、敵我接近して、我が方が太刀を打ちかかったとき、敵に「と」の内を越されそうになったら、思い切って入身をして、身も足も一緒に敵の身際へ密着させろ、――というのが、「渡を越す」の具体的な教えである。
 この《「と」の内こされん》は、敵が主体である。敵が「と」のうちを出る、つまり我は「と」を越されてしまいそうになっている、というシリアスな不利な状況である。「と」はまさに勝敗の分れ目、そこで、思い切って入身をして、この状況を突破しろ、というのが、肥後兵法書の教説である。
 これを見れば、五輪書に本来「とを越す」とあったものが、「との内を越す」へ変形しているようである。それにしたがって、《敵によはみをつけ、我身先になりて》という五輪書の趣旨が消滅して、敵に「と」の内を越されそうになったら、思い切って入身をして、身も足も一緒に敵の身際へ密着させろ、という新義に変質しているのである。
 こういう教義変異が生じるというのも、そもそも五輪書に、具体的な戦法の教えが書かれていなかったからである。いわば教義の空白を埋めるかたちで、肥後兵法書の記述が発生したのである。
 ところで、「渡を越す」というここでの武蔵の譬喩は、船頭をもって兵法の喩とするものである。
《敵の位をうけ、我身の達者をおぼへ、其理を以てとをこす事、よき船頭の海路を越と同じ》
 これは、前例では、地之巻に、大工をもって兵法の道を述べるところがあった。大工にしろ、船頭にしろ、それを武士の職能としての武芸の譬喩にしてしまうところが、いかにも武蔵流である。
 あるいはまた、ひとの人生にも、その船頭の「渡を越す」にかけて、
《人間の世をわたるにも、一代のうちには、渡をこすと云所多かるべし》
《其心を得て、人の世を渡るにも、一大事にかけて、渡をこすと思ふこゝろ有べし》
と、述べたりする。武蔵が語りかけているのは、主として若年初心の武士の子弟たちなのだが、武士にも、その渡世には波乱や一大事があって、波風が立つ時代であった。ある意味では、武蔵はここで、武士たちの切実な機微にふれて、人生の教師の振舞いをみせている。
 ただし、別の箇所でも云うところだが、武蔵は、兵法に譬えて人生を語ったのではない。逆である。人生に譬えて兵法を語ったのである。それゆえ、武蔵の兵法論をもって人生論を語る、今日の杜撰な通俗武蔵本とは逆の方向が、武蔵の兵法論である。このことの意味については、よくよく吟味あるべし。
 なお、語釈の点では、《大小の兵法のうへにも、とをこすといふ心、肝要也》の「大小の兵法」がある。これは、合戦のような大人数の戦闘、合戦ほどではないが小人数の集団戦、という意味である。
 ただしこれは、既出の「大分一分の兵法」と同じく、武蔵の兵法用語である。異国語ならいざしらず、日本語で五輪書を読みたしと思うほどの者なら、武蔵のスペシフィックな兵法語彙を修学すべきである。したがって、我々の訳では、これを別語に置き換えず、そのままにして記している。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 






瀬戸内海



船路絵図屏風
神戸市立博物館蔵



天保12年
糸荷廻船絵馬
瀬戸内海歴史民俗資料館蔵



*【肥後兵法書】
《 渡とを越すと云事
一 敵も我も互にあたる程の時、我太刀を打懸て、との内こされんとおもはゞ、身も足もつれて、身際へ付べきなり。とをこして、氣遣はなき物なり。此類、跡先の書付にて、能々分別有るべし》









 
 諸本校異の問題について言えば、ここは指摘すべき箇処がいくつかあるであろう。それが複数集中しているから、以下にそれをまとめて示しておく。  
*【吉田家本】
《渡をこすと云ハ、たとヘバ、海をわたるに、瀬とと云所も有、又ハ、四十里五十里とも長き海をこす所を、渡と。人間の世をわたるにも、一代のうちにハ、渡をこすと云所、多かるべし。舟路にして、其との所を知り、舟の位を知り、日なミを能知りて、たとひ友舩ハ出さずとも、其ときのくらゐをうけ、或ハひらきの風にたより、或ハおひ風をもうけ、若、風かはりても、二里三里ハ、ろかひをもつて湊に着と心得て》
*【楠家本】
《渡を越と云ハ、縦バ、海をわたるニ、瀬【】といふ所も有、又ハ、四十里五十里とも長き海を越所を、渡といふ。人間の世をわたるにも、一代の内にハ、とをこすといふ所、多かるべし。舟路にして、其との所をしり、舟のくらゐをしり、日なミをよくしりて、【】友船ハ出さずとも、其時のくらゐをうけ、或ハひらきの風にたより、或ハ追風をもうけ、若、風かはしりても二里三里ハ、ろかずを以て湊につくと心得て》
*【丸岡家本】
《とをこすといふは、たとへば、海を渡るに、瀬とゝいふ處も有、又ハ、四十里五十里とも長き海を越所を、渡といふ也。人間の世を渡るにも、一代の内には、度を越といふ所、多かるべし。舟路ニして、其度の處をしりて、舟のくらゐをしり、日なミを能知て、【】友舟は出さずとも、其時のくらゐをうけ、或は開きの風にたより、或は追風をも請、若、風変りても、二里三里は、櫓の数を以も湊に着と心得て》
*【赤見家甲本】
《渡をこすといふは、縱バ海をわたるに、せとゝいふ所も有、亦【】、四十里五十里とも長き海をこす所を、渡と。人間の世をわたるにも、一代のうちにハ、渡をこすと云所多かるべし。舩路にして、其との所を知り、舟の位をしり、日なミを能知りて、たとひ友舩は出さずとも、その時のくらゐをうけ、或はひらきの風にたより、或は追風をもうけ、若、風かはりても、二里三里は、ろかいを以て湊に着と心得て》
*【細川家本】
《渡を越と云は、縦ば、海を渡るに、瀬戸と云所もあり、亦は、四十里五十里とも長き海を越所を、渡と云也。人間の世を渡るにも、一代の内には、とをこすと云所、多かるべし。舟路にして、其との所を知り、舟の位を知、日なミを能知りて、【】友舟は出さず共、其時の位を受、或、ひらきの風にたより、或、追風をも受、若、かぜ替りても、二里三里ハ、ろかずをもつて湊に着と心得て》
*【富永家本】
《渡を越と云ハ、縦バ、海を渡るに、瀬【】と云所もあり、またハ、四十里五十里とも長き海を越所を、渡と云なり。人間【】世を渡るにも、一代の内ニハ、渡を越と云處、多かるべし。舟路にして、其渡の所を知り、舟の位を知り、日なミをよくしりて、【】友船ハ出さずとも、其時の位を請、【★★脱字★★】、若、風替りても二里三里ハ、ろかひを以て湊に付と心得て》
 まず、偶発的な脱字衍字があって誤記とみなすべきものから片付けると、次のようなことであろう。
 筑前系諸本のうち、越後系の赤見家甲本以下諸本に、《亦、四十里五十里とも》とするところは、「亦ハ」とすべきもので、「ハ」字の脱字であろう。また筑前系吉田家本に、《舟路にして、其との所を知り》とあるところ、この「も」字は錯入文字である。同じ早川系の中山文庫本や鈴木家本は、ここを《舟路にして》と正しく記している。
 あるいは、肥後系楠家本で、《海をわたるニ、「瀬」といふ所も有》とするところ、この「瀬」は「瀬と」であり、「と」字の脱落があろう。これは富永家本も同前である。また、楠家本に《若、風かはしりても》とするところ、この「風かはしり」は、「風かはり」が正しく、「し」字が衍字である。他にもあるが、指摘はこれにとどめておく。
 それよりも問題は、筑前系/肥後系を区別する指標的相異である。すなわち、一つは、筑前系諸本に、
《四十里五十里とも長き海をこす所を、渡と云》
とあって、《渡と云》するところ、肥後系諸本には、これを《渡と云なり》として、「なり」を付す。ただし、例外は楠家本で、これは《渡といふ》とする。
 また次に、筑前系諸本に、
《日なミを能知りて、たとひ友舩ハ出さずとも》
とあって、「たとひ」という字句を入れるところ、肥後系諸本には、この字句を欠く。
 まずこの二ヶ所について云えば、筑前系/肥後系において、一方はあり、他方はない、という脱字/衍字の凹凸の持ち合いである。しかるに、筑前系諸本においては、これが立花=越後系の諸本も含めて共通することから、筑前系初期にすでにこれがあり、そして、寺尾孫之丞前期にまで遡りうる字句である可能性が高い。
 他方、肥後系も、早期派生系統の子孫たる富永家本や円明流系統諸本も同じであるから、肥後系早期にこの脱字/衍字があったものみなしうる。しかし、これは寺尾孫之丞段階まで遡りうるものではない。他の諸事例と同じく、門外流出後、早期に発生した写本に由来するものであろう。
 したがって、上記前者の校異において、肥後系のうち楠家本が例外的に、《渡といふ》として筑前系と同じ様態を示すが、これは楠家本が古型を示すということではない。これは、衍字のさらなる脱字である。つまり、肥後系は早期に《渡と云なり》として「なり」を付す誤記を有していたが、楠家本系統はそれを脱字せしめた。それゆえ、見かけは筑前系と同じものになったにすぎない。
 この「渡を越す」の条文については、肥後系諸本の特徴として、この他にも、《兵法、戦の内に、とをこす事肝要也》、《敵によはミをつけ、わが身先になりて、大かたはや勝所也》と、「も」字を付する傾向がある。全体に写し崩れが諸所にある。
 とりわけ、次の箇処にその特徴が示されているであろう。すなわち、筑前系諸本に、
《二里三里ハ、ろかひをもつて湊に着と心得て》
とあるところ、この「ろかひ」の部分について、肥後系写本の多くは、これを「ろかす」と記している。
 例外は富永家本と山岡鉄舟本である。これらは筑前系諸本と同じく、「ろかひ」「櫓カイ」と記す。富永家本は早期派生系統の子孫であるから、おそらく肥後系初期の写本は、「ろかす」ではなくこの「ろかひ」を書いたものであったと思われる。それに対して、後のある段階で、誤写が生じて、「ろかす」と記す写本が増殖して行ったのである。
 これは、「ろかず」(艪数)と解釈したものだが、「ろかひ」の「ひ」(比)字を、字形類似の「す」(須)字と読み違えたもので、もとより誤写である。これは、筑前系諸本にはない語句なので、肥後で伝写される過程で発生した誤記である。
 このように「ろかず」という誤記が生じて、肥後系では、細川家本のように、この「す」(須)字を、「す」(寸)字に書き換える例が出るし、さらには、丸岡家本のように、むりやり、「艪の数」としてしまうような変形が続いた。丸岡家本は、こうした誤記を有する点でも、後発写本なのである。しかるに丸岡家本と同系統の山岡鉄舟本は、「櫓カイ」と記す。これは、この系統の早期にも「ろかひ」と記していたことの痕跡を示す。
 また、この箇所では、細川家本は、《ろかずをもつても》と「も」字を入れている。丸岡家本も《櫓の数を以も》と「も」字を入れる。これは、筑前系諸本はむろんのこと、肥後系の他の系統の諸本にもない文字で、これも衍字誤記である。
 しかるに、従来校訂者に、《ろかず》の問題点を指摘した者がいない。諸本照合を怠るという傾向、とりわけ細川家本中心主義という悪弊の結果がそこにも現われている。他にも誤写はいろいろあるが、同様に見過ごされている。それが五輪書校訂の現状である。
 それゆえまた、既成現代語訳は、この箇処において、艪のほかに櫂の文字があるとは思ってみない。そのため、「ろかず」という不可思議な語を何とかやり過ごすに終始している。
 戦前の石田訳は、「ろかず」という語句に疑問をもったのか、異本を見た上で、「艪櫂をこいで」と訳した。これが我々以前では最も正しい訳である。ただし石田は、原文には「ろかず」と記した。筑前系諸本を知らなかったからである。
 戦後になると、「ろかず」という語への疑念を無視するようになった。神子訳は、「ろかず」の「かず」を抹殺して、「櫓をうごかして」と訳した。これが皮切りで、岩波版注記も、「風に頼らず、艪を漕いででも」と記している。
 その後の大河内訳は、神子訳と岩波版注記を頂戴したが、さすがに「風に頼らず」という語句は原文にないので入れなかった。しかし、鎌田訳は、例によって岩波版注記そのままで、念の入ったことに「風に頼らず」という解説語句まで入れ込んでしまっている。
 こうして見ると、戦前の石田訳に及ぶ訳文は戦後には出なかった。それどころか、明らかに語訳は退行したのである。そして近年は、そんな退化した現代語訳しか流布していない、という始末なのである。
 ようするに、これら既成現代語訳は底本たる細川家本の「ろかず」という字句を抹殺するばかりである。まことに原文に忠実ではないというスタンスでは共通している。しかしながら、もともと、「ろかず」という語句には、誤写によって生れたという因縁がある。とすれば、現代語訳によって無視されるというのも、ある意味では因果応報なのである。   Go Back



楠家本 校異箇処



石井家本 校異箇処



細川家本 校異箇処



丸岡家本 校異箇処






*【現代語訳事例】
《二三里は艪櫂をこいでも港に着く覺悟で》(石田外茂一訳)
《二里や三里は櫓をうごかしてでも港に着くつもりで》(神子侃訳)
《二里や三里は櫓を漕いででも港に着くつもりで》(大河内昭爾訳)
《二里や三里は風に頼らず櫓をこいでも港に着く気で》(鎌田茂雄訳)


 
   6 景気を知る
【原 文】

一 けいきを知と云事。
景氣をみると云ハ、大分の兵法にしてハ、
敵のさかへ、おとろへを知り、
相手の人数の心を知り、其場の位をうけ、
敵のけいきを能見分、我人数何としかけ、
此兵法の理にてたしかに勝と云ところを
のミ込て、先の位をしつて戦所也。
又、一分の兵法も、敵のながれをわきまへ、
相手の強弱、人がらを見分け、
敵の氣色にちがふ事をしかけ、
敵のめりかりを知り、其間の拍子をよく知て、
先をしかくる所、肝要也。
物毎のけいきといふ事ハ、
我智力強けれバ、かならずミゆる所也。
兵法自由の身になりてハ、
敵の心を能斗て勝道多かるべき事也。
工夫有べし。(1)
【現代語訳】

一 景気を知るという事
 景気*〔勢い〕を見るというのは、大分の兵法〔合戦など集団戦〕においては、敵の勢いの隆盛衰退を知り、相手の軍勢の企図を察知し、その場の位〔態勢〕に応じ、敵の景気をとく見分け、我が方の軍勢をどう仕懸け、この兵法の理〔利〕で確実に勝つというところを呑み込んで、先〔せん〕の位を知って戦うことである。
 また一分の兵法〔一対一の戦闘〕でも、敵がどの流派かをわきまえ、相手の強弱やその性格を見分けて、敵の気色〔けしき〕とは違うことを仕かけ、敵の調子の抑揚高低を知り、その間〔あい〕の拍子を知って、先〔せん〕を仕懸けること、これが肝要である。
 どんなものでも、景気ということは、こちらの智力が強ければ、必ず見えるものである。兵法が自由自在の身になると、敵の心をよく計量して勝つという道が多くなるのである。(この点)工夫あるべし。
 
  【註 解】

 (1)敵のけいきを能見分
 景気の話である。といっても経済の景気(business conditions)のことではない。戦闘における景気の話である。
 ここで「景気」とは、勢いというほどの意味である。現代口語でも「景気がよい」は、花火が景気よく上がるとか云うから、これは威勢がいいという意味である。
 しかし、もとは眼前の情景を詠み込んだ和歌を「景気の歌」というから、これは現代語でも使う「景色」と同じである。だから景気には観察・観測される状況、という意味があったらしい。
 そこで、兵法用語でも「景気を見る」というわけである。ただし何の景気を見るかというと、敵の景気を、である。敵の勢いがどんな様子か、認識するのである。
 同じように、文中、《敵の氣色にちがふ事をしかけ》とある「気色」は「けしき」で、もとは「景色」と同じである。ここは、敵の景気の様子ということで、文は、そんな敵の気色に反することを仕懸て、拍子を外すことである。
 もう一つ語釈上のことで言えば、ここで「めりかり」という現代語では聞き慣れない言葉が出てくるのだが、これは音曲などでいう「めりかり〔乙・甲、減・上〕」、つまり、調子の抑揚である。仕舞などやる武蔵だから、ここで音楽用語を用いたのかもしれない。
 現代語でも「めりはり」という近い言葉がある。こちらは、凹凸の輪郭のことである。「めり込む」とか「かり立てる」とかいうし、ペニス亀頭部の張り出しを「かり」というなど、その痕跡は随所にある。
 これに対し「めりかり」の「めり」は抑制、「かり」は高揚。かくして、ここでの「めりかり」という語の意味は、高低、強弱、浮沈という調子の抑揚のこと、景気の変動のことである。
 戦いにおいては、景気観測者として相手の勢いの「めりかり」を見分けることが大事である――と、これはいわゆる「大分の兵法」、合戦の場合にしばしば云う一般的教訓である。実はこれは、それほど大した話ではない。
 しかし五輪書のトポロジーは、そこから、「一分の兵法」、個人戦でも話は同じだとする。つまり、ここでは集団戦をモデルにして個人戦の教訓ともするわけだ。こうしたアナロジーには、むろん注意が必要である。
 すなわち、個人であってもその主体は、意図/行動の単純なユニットではない。むしろ、多様な諸要素の組合せであり、集合体である。それゆえにその諸要素間の統合状況には景気の変動がある。言うならば、個体レベルでの景気変動論である。
 集団戦の軍勢と個人戦の個人とのこのアナロジーは強力で、いわば一対一の戦いでも、個人はある種の戦闘機械として諸要素の集合的存在なのである。その諸要素の集合体だから、勢い(景気)の強弱浮沈、抑揚高低がある。
 一分の兵法について武蔵が云うのは、
《又、一分の兵法も、敵のながれをわきまへ、相手の強弱、人がらを見分け、敵の氣色にちがふ事をしかけ、敵のめりかりを知り、其間の拍子をよく知て、先をしかくる所、肝要也》
ということ。「流れ」とは流派のこと、その相手の流れ(流派)をわきまえる、つまり敵の流儀、戦い方をあらかじめ知っておくこと、また相手の強い弱い、人がら(性格)を見分けること、――これは「敵を知る」という一般的教訓にすぎない。
 ところが、そういう分析的な認識を前提にして、こちらがアクションを起すだけではない。相手の気色(景気)に背反することを仕かけて、その抑揚変動するところ〔めりかり〕を見てとり、「間の拍子」をよく知って、先〔せん〕を仕懸けるのである。
 ここで誤解なきよう、若干説明を要すると思われるのは、「敵を知る」という一般的な教訓と、この「景気を知る」との違いである。これは根本的に異なる。
 すなわち、右の肥後兵法書の教えにあるごとく、物事の尺度たる「いとかね〔糸矩〕」というのは常々の儀だが、「景気を知る」は即座のことだという。もとよりこれは、後に生じた教義の分節化(articulation)であるが、興味深い理説である。
 これを敷衍して言えば、「敵を知る」ことは基本的な静態的認識だが、「景気を知る」のは戦闘中の動態的認識である。つまり、「敵を知る」の認識基準は動かない静止系だが、「景気を知る」のは基準そのものが動く運動系である。
 したがって武蔵の論は、「敵を知る」という静止系の本質認識であるところの一般的教訓の境位に留まらず、さらに、「景気を知る」という、戦闘中の即座の認識、まさに運動系としての動態的認識を要求している。ようするに、前者は本質の認識、同一性(identity)の認識だが、これに対し後者は作用の認識、差異(difference)の認識である。
 これを禅家流に言えば、不動智には二つあり、前者は動中の静としての不動だが、後者は動中の動としての不動である。しかし武蔵は、その不動智のレベルにはとどまらない。ほんとうは不動智など床屋談義にすぎぬ評論の談である。これに対し武蔵は具体的な日常語をあえて対置させる。すなわち、「景気」という言葉で語って、禅味を漂白脱臭している。
 要点は、《物毎のけいきといふ事は、我智力強ければ、かならずみゆる所也》という兵法の智力である。智力ということは、すでに何度が登場している。では、その智力において何をどう把握するのかと言えば、この「景気を知る」ことがその一つなのである。これはまさに戦闘中の即座の認識であり、不動智ではなく運動智なのである。
 そして――重要なのは――景気の変り目のその「間の拍子」を知ることである。この「間の拍子」も前に出た話である。
 つまり、たんに景気の変動を知ることを言っているのではなく、まさにその変動の変り目が攻撃チャンスだ、ということである。これは他の諸条においても反復された教えである。言わば武蔵流戦闘術の共通事項である。
 かくして、景気を知るというこの教えは、結局は「先〔せん〕を仕懸ける」ことである。言い換えれば、「三つの先」「枕をおさえる」そして「渡をこす」という先行諸条の連続であり、「先」をとるという主題のシリーズなのである。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 





















景気のめりかり



















*【肥後兵法書】
《 兵法上中下の位を知事
一 兵法に身搆あり。太刀にも色々搆を見せ、強く見え早く見ゆる兵法、是下段と知るべし。又兵法こまかに見え、術を衒ひて拍子能やうに見へて、其品綺羅ありて、見事に見ゆる兵法、是中段の位なり。上段の位の兵法ハ、強からず弱からずかどらしからず、早からず、見事にもなく、惡くも見へず、大きに直にして、靜に見ゆる兵法、是上段の位なり。能々吟味すべし》
《 景氣をしると云事
一 景氣を知ると云ハ、其場の景氣、其敵の景氣、浮沈淺深強弱の景氣、能々見知べきもの也。糸かねと云ハ常々の儀、景氣ハ即座の事なり。時の景氣に見うけてハ、前に向ふても勝、後に向ふても勝。能々工夫すべし》
《 糸かねと云事
一 常に糸かねをこゝろに持べし。相手ごとに、糸を付て見れば、強き所、弱き所、直なる所、つがむ所、はる所、たるむ所、皆見ゆるなり。我心をかねにして、直にして糸をひきあて見れバ、人の心能知もの也。其かねにて、丸きも、角なるも、長きも、短きも、ゆがみたるも、直なるも、能知なり。工夫すべし》

 ここで、諸本校異の点について言えば、筑前系と肥後系の写本に相違のあるところ、すなわち、筑前系諸本に、
《敵のけいき(景氣)を能見
と記すのに対し、肥後系では、《敵のけいきを能見うけ》として、「見わけ」を「見うけ」としている。これは一字の相異だが、それよりもむしろ、他に語句の相異もある。つまり、筑前系諸本では、
《敵のながれをわきまへ、相手の強弱、人がらを見分、敵の氣色にちがふ事をしかけ》
と記すのに対し、肥後系では、《人がらを見うけ、人のつよきよハき所を見つけ》としている。この箇処もまた、筑前系/肥後系を截然と区別する指標である。
 この相違箇処については、我々は筑前系諸本の書記を採った。それは、早川系諸本(吉田家本・中山文庫本・鈴木家本)と、赤見家甲本をはじめとする立花系=越後系諸本が同一であるから、この文言の初期性を認めてのゆえである。
 ただし、これはかなり大きな相異である。したがって、寺尾孫之丞にまで遡及しうる相異かもしれないという可能性がある。つまり、寺尾は前期には、筑前系諸本にある文言を記していたが、後期には、肥後系諸本にみられるような文言を書いていた、という可能性である。
 ここでは、肥後系諸本の文言は、寺尾孫之丞後期のものとみなし、我々のテクストでは、これを採らず、寺尾孫之丞前期を示す、筑前系諸本の文言に依ることにしたのである。
 しかし、これがかなり大きな相異であることの反面は、相異が大きすぎるということである。それゆえ、もう一つの可能性は、肥後系早期に、書き換えが発生したのではないか、ということである。ここでは、その可能性があることを示唆するにとどめておく。
――――――――――――
 ところで、既成現代語訳は、細川家本しか知らぬので、この箇処はいわずもがなである。あげつらうまでもない。ただし、他に誤訳のあるところは指摘しておかねばならぬ。
 それは細川本なら《敵の氣色にちがふ事をしかけ》とあるところ、ようするに上記のように、「敵の気色(景気)に背反することを仕かけて」とある箇処である。
 まず、戦前の石田訳がこれを「敵の意外な事」と誤訳した。これでは、景気・気色の話がどこかに飛んでしまっている。戦後の神子訳は、石田訳の路線で、「気色」を「思惑」と誤訳している。むろん、景気について述べるところであるから、この「気色」は「景気」と同義語である。「気色」とは、こちらが観測した相手の勢い抑揚高低の様子である。その「気色」と違ったことを仕かけて乱調させる、というのが話の趣旨である。しかるに、神子訳のこの類いの誤訳が、以後の語訳で模倣されるのである。
 岩波版注記は、ここを「敵の意表をつき、全く拍子の違ったことを仕掛けること」と注釈して、まさに脱線路線を延長した。大河内訳は、神子訳の「思惑」をそのまま頂戴している。しかるに、鎌田訳は、例によって、岩波版注記の単なる転記である。「敵の意表をつき、まったく拍子のちがうように仕掛け」とするのだが、これでは、《敵の氣色にちがふ事をしかけ》の訳ではなく、別の文章の訳としかみえない。かくして、誤訳は反復模倣されるのである。   Go Back

*【吉田家本】
《相手の強弱、人がらを見分、敵の氣色にちがふ事をしかけ》
*【中山文庫本】
《相手の強弱、人がらを見分、敵の氣色にちがふ事をしかけ》
*【鈴木家本】
《相手の強弱、人がらを見分、敵の氣色にちがふ事をしかけ》
*【赤見家甲本】
《相手の強弱、人がらを見分け、敵の氣色にちがふ事をしかけ》
*【近藤家甲乙本】
《相手の強弱、人がらを見分け、敵の氣色にちがふ事をしかけ》
*【石井家本】
《相手の強弱、人がらを見分け、敵の氣色にちがふ事をしかけ》
*【楠家本】
《相手の人がらを見うけ、人のつよきよハき所を見つけ、敵の氣色にちがふ事をしかけ》
*【細川家本】
《相手の人柄を見うけ、人のつよきよわき所を見つけ、敵の氣色にちがふ事をしかけ》
*【富永家本】
《相手の人がらを見請、人のつよきよわき所を見付、敵の氣色に違ふ方を仕懸》
*【狩野文庫本】
《相手の人柄を見請、人の強き弱き所を見付、敵の氣色に違ふ事を仕掛》





*【現代語訳事例】
《敵の意外な事を仕掛け》(石田外茂一訳)
《敵の思惑とはくいちがうように働きかけ》(神子侃訳)
《敵の思惑とはまるきり違うことを仕かけ》(大河内昭爾訳)
《敵の意表をつき、まったく拍子のちがうように仕掛け》(鎌田茂雄訳)


 
   7 けんを踏む
【原 文】

一 けんをふむと云事。
劔を踏と云心ハ、兵法に専用る儀也。
先、大なる兵法にしてハ、
弓鉄炮におゐても、敵、我方へうちかけ、
何事にてもしかくる時、
敵の弓鉄炮にてもはなしかけて、
其跡にかゝるによつて、又矢をつがひ、
鉄炮にくすりをこみ合するによつて、
又新しくなつて追込がたし*。
弓鉄炮にても、
敵のはなつ内に、はやかゝる心也。
はやくかゝれバ、矢もつがひがたし、
鉄炮もうち得ざる心也。
物ごとに敵のしかくると、
其まゝ其理をうけて、
敵のする事を踏付てかつこゝろ也。(1)
又、一分の兵法も、
敵の打出す太刀の跡へうてバ、
とたん/\となりて、はかゆかざる所也。
敵のうち出す太刀ハ、
足にて踏付る心にして、打出す所を勝、
二度目を敵の打得ざる様にすべし。
踏と云ハ、足には限るべからず。
身にてもふミ、心にても蹈、
勿論太刀にてもふミ付て、
二の目を敵によくさせざる様に心得べし。
是則、物毎の先の心也。
敵と一度にと云て、ゆきあたる心にてハなし。
其まゝ跡に付心也。能々吟味有べし。(2)

【現代語訳】

一 けんを踏むという事
 剣(懸*)を踏むという心持ちは、兵法においてもっぱら用いることである。
 まず、大きな兵法〔合戦〕では、弓や鉄炮の場合でも、敵がこちらへ撃ちかかり、何ごとでも(攻撃を)仕懸けてくる時、敵が弓や鉄炮でも攻撃したその後に、こちらが攻撃しようとするから、(その間に敵は)また、弓をつがい、鉄炮に弾薬をこめて、新しい攻撃体勢をつくってしまう。そのため、こちらは敵を追い込むことができない。
 (したがって)弓や鉄炮の場合でも、敵が発射するその最中に、すでに(攻撃に)かかることである。早めに攻撃すれば、(敵は)矢もつがうことができず、鉄炮も発射できないわけである。
 どんなことでも、敵が仕懸けてくると、(敵の仕懸けた)その理〔利〕を、すぐさま(こちらが)活用して、敵のする事を踏みつけて勝つ、ということである。
 また、一分の兵法〔個人戦〕でも、敵の打ち出す太刀の後へ打てば、「ト、たん、ト、たん」と(単調に)なって、捗が行かないものである。敵の打ち出す太刀は、足で踏みつける気持で、敵の打ち出すところを打勝ち、敵が二度目を打てないようにすべし。
 踏むというのは、足に限ったことではあるまい。身体でも踏み、心でも踏み、もちろん太刀でも踏みつけて、二度と攻撃ができないようにしてやる、そのように心得ること。これがすなわち、どんな場合でも、先〔せん〕の心である。
 (これは)敵と同時にといって、(正面から)ぶつかるという意味ではない。すぐさま後につく、という意味である。よくよく吟味あるべし。
 
  【註 解】

 (1)敵のする事を踏付てかつこゝろ也
 剣を踏むという。これは字義通りの意味では、打ち合いの最中、相手の太刀を踏みつけにすることである。つまり、敵に攻撃させておいて、その攻撃を踏みにじる、蹂躙するというのが「剣を踏む」の意である。本条後出の文例では、
   《敵のうち出す太刀ハ、足にて蹈付る心にして》
とあるところである。
 これはおそらく、もとは「懸(けん)を踏む」と言ったものであろう。その「懸」を、同音語「劒」に変換してシフトさせたらしい。「懸を踏む」ではなく「剣を踏む」となると、ある種のジャーゴン(符牒)であるが、語義に隠喩的ふくらみが生じている。いづれにしても、敵の攻撃(懸)を踏みつけにする、蹂躙するということ。かなりパワフルな戦法である。
 まずは、《大きなる兵法》、つまり他では「大分の兵法」とも呼ばれる、合戦のような大人数集団戦の場合である。
 合戦は最初、敵我の距離が遠く、弓や鉄炮といった飛び道具の応酬で始まる。そのときの心得が「けんを踏む」である。
 つまり、敵が弓や鉄炮で攻撃を仕かけてくる、その時、雨あられと矢や弾丸が飛んでくるので、こちらはその攻撃がいったん終るのを待って反撃に出ようとする。そうすると、後手に回ることになる。敵はその間に、弓をつがい鉄炮に弾薬をこめ、新しい攻撃準備をして、攻撃してくるので、我が方は一向に攻め込むことができないであろう。だから、敵が弓や鉄炮を発射している最中にこそ、突進すべきである。早く攻撃すれば、敵は矢も番う暇なく、鉄炮も発射準備する時間がなく、敵は何もできないからである。――すなわち、敵の攻撃の最中こそ、攻撃のチャンス、というのが武蔵の教えである。
 敵が攻撃している最中こそ、攻撃の好機というのは、逆説的に聴こえるかもしれないが、実はそうではない。それは、攻撃で防禦が手薄になっているから――ではない。攻撃の最中には、次の攻撃の準備ができないからである。ようするに、ここでの要点は、敵の次の攻撃を封じ、それによって勝機をつかむということである。
 具体的な場面としては、敵が弓や鉄炮で攻撃を仕かけてくるのに対し、我が方も弓や鉄炮という同じ武器で反撃するということではない。敵が弓や鉄炮で攻撃する最中に、鑓や太刀で接近戦に突入するのである。遠い間合いから一気に接近するのは、まさに敵が攻撃する最中なのである。
 この条の記述を見るかぎり、武蔵は、弓や鉄炮という飛び道具を使った攻撃は、簡単に撃破できるような書きぶりである。その点に留意することだ。すでに見たように、地之巻においてさまざまな武器について寸評を加えているが、飛び道具は合戦のいわば前座であり、真打はその後の槍や刀での戦闘のようである。
 したがって、このとき、敵の攻撃に対し「反撃」するという心持ではない。また、敵の攻撃など意に介さず突撃するのが主眼でもなく、むしろ敵の攻撃を利用して、その攻撃を台無しにしてしまうのである。その結果、敵の攻撃そのものを敵の弱みへ転化してしまう。それが「けんを踏む」ということの意味である。
 「踏む」という語は多義的であり、武蔵はそれをここで活用している。字義通りでは、足で押さえつける。次に、相手に損害を与えるという意味では、踏み倒すことである。また、踏みつけにする、蹂躙して台無しにしてしまうことである。「けんを踏む」という譬喩は、相手の攻撃を踏みにじって台無しにして勝つということである。
《物ごとに敵のしかくると、其まゝ其理をうけて、敵のする事を踏付てかつこゝろ也》
 ようするに、敵がどんなことを仕懸けてこようとも、敵の仕懸けたその利を、すぐさま自分のものにしてしまい、敵のする事を踏みつけて、――つまり、相手のすることを蹂躙し台無しにして――勝つ、ということである。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 










徳川美術館蔵
鉄炮隊の射撃 長篠合戦図屏風
 なお、ここで諸本校異の問題に立ち入っておく。とくに筑前系/肥後系諸本の間にかなり大きな相違があるので、それについて検討してみたい。  
*【吉田家本】
《敵の弓鉄炮にてもはなしかけて、其跡にかゝるによつて、又、をつがひ、鉄炮にくすりをこミ合するによつて、又新敷なつて、追こミがたし。(中略)物ごと敵のしかくると、其まゝ其理をうけて、敵のする事を踏付てかつこゝろ也》
*【楠家本】
《敵の弓鉄炮にてもはなしかけて、其あとにかゝるによつて、又、をつがい、又、鉄炮にくすりこミて、かゝりこむ時、こミ入がたし。(中略)物毎敵のしかくると、そのまゝ其理をうけて、敵のする事をふミつけて勝心也》
*【富永家本】
《敵の弓鉄炮にてもはなし懸て、其跡に懸るによつて、又、ひ、また、鉄炮に莢込て、懸り込時、込入がたし。(中略)物毎敵の仕懸ると、其まゝ其理を受て、敵のする事を踏付て勝心なり》
*【赤見家甲本】
《敵の弓鉄炮にてもはなしかけて、其跡にかゝるによつて、亦、をつがひ、鉄炮にくすりをこミ合するによつて、又新しくなつて、追込がたし。(中略)物ごと敵のしかくると、其まゝ其理をうけて、敵のする事を蹈付てかつこゝろ也》
*【細川家本】
《敵の弓鉄炮にてもはなしかけて、其あとにかゝるによつて、又、をつがい、亦、鉄炮にくすりこミて、かゝりこむ時、こミ入がたし。(中略)物毎敵のしかくると、其儘其理を受て、敵のする事を蹈つけて勝心なり》
*【大瀧家本】
《敵の弓鉄炮にても放し懸て、其跡に懸るに依て、又、をつがひ、又、鉄炮に莢をこみて、懸り込時、又新しくなりて、込入難し。(中略)物ごと敵の仕懸ると、其侭其理を受て、敵のする事を踏付て勝心也》
 まず、筑前系諸本には、こうあるであろう。
《又、をつがひ、鉄炮にくすりをこミ合するによつて、又新しくなつて、追込がたし》
 しかるに、肥後系諸本では、この「矢」を「弓」とするのはまだしも、《鉄炮にくすりこミて、かゝりこむ時、こミ入がたし》とあって、語句にかなりの相違がある。
 筑前系諸本の文では、ここは、――敵が弓や鉄炮で攻撃したその後に、こちらが攻撃しようとするから、その間に、また敵は弓をつがい、鉄炮に弾薬をこめて、新しい攻撃体勢をつくってしまう。そのため、こちらは敵を追い込むことができない。――という文意である。
 他方、肥後系の文では、《鉄炮にくすりこミて、かゝりこむ時、こミ入がたし》のあたりに、何やら脱落があるようである。そのため文意があやしくなっている。
 そこで、興味深いのは、上掲の大瀧家本である。これは、肥後系写本を底本にして、同時に越後系写本を参照したとみえる珍しい一本である。すると、右掲の如く、「弓」ではなく「矢」とするほかに、なんと、「又新しくなりて」という筑前=越後系諸本に特徴的な一言を挿入しているのである。かくして、大瀧家本は、肥後系写本の胡乱な文章を「修正」しようとしたらしい。
 肥後系諸本の文言は、早期派生系統の子孫たる富永家本でも同様である。また円明流系の多田家本なども同前であるから、これは肥後系早期からあったものである。門外流出後早々に、この文言が発生したのである。その後、この文言をもつ子孫が増殖して行った。
 それに対し、筑前系は諸本共通するから、これがその最初期からあった文言だと知れる。要するに、寺尾孫之丞前期に存在した文言である。肥後系諸本の文言は、それとはかなり隔差があるので、これを寺尾孫之丞後期ともみなしがたい。寺尾自身の記事とするには、変異が大きすぎるのである。したがって、肥後系諸本の文言は、門外流出後の写し崩れを示すものである。
 肥後系の語列では、「こミ」「こむ」「こミ」と三連発で不細工、まことに武蔵の文とも思えない。これだと、文意が胡乱で、敵我の区別が混乱する。不幸なことに、そうした肥後系通有の誤記を有する細川家本を底本とした解説書は、その点で最初から間違った迷路へ踏み込んでしまったようなものである。既成現代語訳も、混乱に輪をかけている。
 右掲の現代語訳事例を見ると、戦前の石田訳は、敵我の分別を正しく行っている。ところが戦後になると、読解能力が退化して、話が混乱してくる。
 皮切りは神子訳である。みれば、敵は「まず弓、鉄砲をうちかけておいて、そのあとからかかってこようとするのであるから、こちらも矢をつがえ、鉄砲に薬をこめなどしていては、敵にかかっていくことはできない」と、まさに敵我入り乱れた混乱の模様を呈している。
 もちろん、ここで、「そのあとからかかる」のは、敵ではなく、我が方であって、「矢をつがえ、鉄炮に薬をこめる」のは、我が方ではなく、敵のすることである。ようするに、神子訳は戦後の誤読の先陣を切ったのである。後二者、大河内訳・鎌田訳もこの読みをそのまま踏襲している点で、いづれも間違いである。
 こうした訳文では、敵の攻撃などかまわず、突入し、相手に次のさらなる攻撃をさせず、粉砕する、敵の攻撃を蹂躙する、というタフな「けんを踏む」の趣旨がまったく消えてしまっている。
 もともと底本・細川家本に誤記があるため、文意が胡乱なのは必然だが、それを無理やり読もうとすると間違ってしまう、という事例がこれである。史料批判の智力認識がないところでは、こういう誤謬は不可避である。
 また、別の校異もあって、それは、筑前系諸本に、
《物ごと敵のしかくると、其まゝ其理をうけて、敵のする事を踏付てかつこゝろ也》
とあって、《物ごと(物毎)に》するところ、肥後系諸本はこれは《物毎を》として、「に」字を「を」字に作る。
 これは「物毎」だから、どんなことであっても、という意味なら《物毎に》とあるべきところである。《物毎を》となると意味が違ってくる。そこで、丸岡家本のように、《物ごとを》と記すようになり、さらには田村家本のように、勘違いして、《物事ヲ》と書いてしまう例も出てくる。
 すると、既成現代語訳はこれをどう訳しているかと見るに、石田訳は、《物毎を》という原文を無視して、《物毎に》の意味の「何でも」と訳している。これは原文の誤りを訳文が越えてしまったという珍例である。
 しかるに、戦後の神子訳は、《物毎を》を本当に無視して抹消してしまっている。それは続く大河内訳も同じで、神子訳そのままである。鎌田訳は、これを無視できず、「物ごとを」と訳したが、これでは現代語の「物事を」というわけで、誤訳である。
 以上のところ、戦前の石田訳以外に正解はなく、以後は語訳能力が低下してしまったということである。
 しかし、続く部分の《其儘其理を受て》となると、訳者にはもっと困難があったようである。石田訳は、「直ぐ樣それに対處して道理に從つて」と、いかにも苦しい訳をしている。この「その理」というのを、「道理」と解しているのだが、これではどの理だか、話が通らない。
 石田が「道理」としたのは、「理」字に幻惑されているのである。これは「利」の替字である。五輪書の他の箇処に多用されているように、「利をうけて」とあるところである。石田は「理」字に惑わされて誤訳を誤ったのである。
 それでは戦後の現代語訳はいかに、と見れば、これがひどい。神子訳は、まず「そのまま」という語を、そのまま「そのまま」と誤訳している。石田訳が正しく訳しているように、これは現代語なら「すぐさま」の意である。
 しかも、神子訳は、続く《其理》という文字を無視している。神子訳は、自分では解らない語句は無視して、抹消してしまう傾向があるのだが、ここでも同じようにそれを無視して、「そのまま受けて」と記す。これでは何を受けたのか、それがわからない、というひどい訳文である。
 しかし、さらに状況が悪化したのは、この神子訳をそのままパクるものが続いたことである。つまり、大河内訳は神子訳そのままだし、鎌田訳は、「自然に」という語で、それに色をつけただけ。しかし、原文の《其理を受て》が、どうして「自然に受けとめ」と化けるのか、ほとんど爆笑物の誤訳であるが、五輪書からすれば笑い事ではないのである。   Go Back


赤見家甲本 校異箇処


細川家本 校異箇処


*【現代語訳事例】
《敵が弓鐵砲を發射して後にかゝつて行かうとするから、敵はまた矢を番ひ鐵砲に丸を込めて射ちかけるので、突入できないのである》(石田外茂一訳)
《敵が弓、鉄砲などをうちかけてくるときには、まず弓、鉄砲をうちかけておいて、そのあとからかかってこようとするのであるから、こちらも矢をつがえ、鉄砲に薬をこめなどしていては、敵にかかっていくことはできない》(神子侃訳)
《弓、鉄砲にしても、敵がこちらへ仕かけてくるときは、敵は弓や鉄砲などを射ちかけておいて、そのあとでかかってくるはずであるから、それに対して、弓をつがえたり、鉄砲に火薬をこめたりしていては、攻撃するとき敵陣に押し入ることができない》(大河内昭爾訳)
《敵が弓、鉄砲を用いて、こちらへうちかけ、どんなことでもしかけてくるときは、敵はまず弓、鉄砲をうちかけて、そのあとから攻めかかるのであるから、こちらもまた弓をつがえたり、鉄砲に火薬をつめていては、敵にかかっていくとき、敵陣に押し入ることができない》(鎌田茂雄訳)


*【吉田家本】 《物ごと敵のしかくると》
*【中山文庫本】 《物ごと敵のしかくると》
*【鈴木家本】 《物ごと敵のしかくると》
*【赤見家甲本】 《物ごと敵のしかくると》
*【近藤家甲乙本】 《物ごと敵のしかくると》
*【石井家本】 《物ごと敵のしかくると》
*【楠家本】 《物毎敵のしかくると》
*【細川家本】 《物毎敵のしかくると》
*【丸岡家本】 《物ごと敵のしかくると》
*【田村家本】 《物事ヲテキノシカクルト》


*【現代語訳事例】
《敵が何でも仕掛けて來たら直ぐ樣それに対處して道理に從つて》(石田外茂一訳)
《敵がしかけてくるところを、そのまま受け》(神子侃訳)
《敵が仕かけてくるところを、そのままに受けて》(大河内昭爾訳)
物ごとを敵が仕掛けてくるところを、そのままに自然に受けとめ》(鎌田茂雄訳)
 
 (2)二度目を敵の打得ざる様にすべし
 ここは、「一分の兵法」のことに話が代わるのだが、この《二度目を敵の打得ざる様にすべし》が、「けんを踏む」ということの本旨である。
 また、「剣を踏む」ということが太刀の打ち合いをモデルにしたアナロジーであるから、「一分の兵法」という個人戦の場合を語るこの部分をもって、前段の集団戦のケースの教えを読み直すことが必要であろう。
 打ち合いの最中、敵の攻撃を踏みつけにして、蹂躙するというのが「けんを踏む」の趣旨である。かなりパワフルでタフな戦い方であることは、すでに述べた。
 《敵の打出す太刀の跡へうてば、とたん/\となりて、はかゆかざる所也》とあるところ、前に水之巻「はりうけと云事」に、類似の記述があったのを想起されたし。敵我相互に打ち合って単調になったところを、破調してかかる「張り受け」という業の記述箇処である。
 この「けんを踏む」でも、「ト、たん、ト、たん」と単調になることを嫌い、相手の攻撃を蹂躙するという挙に出る。むろんこれは、「張り受け」のように、軽く張って拍子を変えて先をとる、ということではない。逆に、きわめて強く出ることである。相手の攻撃を蹂躙し、台無しにして、《二度目を敵の打得ざる様にすべし》ということである。
 これは肥後兵法書を見るかぎりでは、比喩ではなく、文字通り本当に踏みつける――左足で、とある――と思われたらしい。
 剣を踏みつけると、どうなるか。剣はたやすく折れる、もしくは曲がるのである。使い物にならなくなる。実戦ではこういう「剣法」もありうるだろう。もっとも、《劔をふむ事、度々にハあらず》とあるように、そうは何回も使う手段ではない。
 ただし、肥後兵法書は、五輪書の「剣を踏む」という比喩を、どうやら字義通りに受け取ってしまったらしい。それゆえ、《劔をふむ事、度々にハあらず》と、現実に剣を踏むのに制約を加えようとする。しかし、それは後人の誤解にほかならない。本来「剣を踏む」というのは、あくまでも比喩なのである。
 それというのも、五輪書では、次にあるように、踏みつけにするのは、足だけとはかぎらない、とくる。《身にてもふみ、心にてもふみ、勿論太刀にてもふみ付け》にするのである。この踏み付けは、足下に敵の攻撃能力を無力化することである。
 こうなると、「剣を踏む」は比喩である。しかも比喩の二重化である。「剣を踏む」という比喩で合戦を語り、そしてこんどは太刀での一分の兵法をかたる。この二重化した比喩で、《身にてもふみ、心にてもふみ》ということになり、そして最後に《勿論、太刀にてもふみ付け》と述べる。太刀で剣を踏みつけるのである。
 こういういささか高度な修辞学で、五輪書の文章は運用されている。そのことは、従来指摘されたことがないので、ここでとくに注意を喚起しておく。
 そうして、《二の目を敵に能させざる様に心得べし》である。「二の目」は「二度目」に同じ、次の攻撃をさせない、ということである。
 ただし、これも、敵の攻撃と同時に正面から衝突するのではなく、《其まゝ跡に付心也》というのがポイントである。
 この「すぐさま後につく」というのは、後手になるということではない。むしろ、敵を攻撃させて、その間に打って出る、という場面である。したがって、敵の攻撃から僅かに拍子を遅らせて取る「先」、あるいは「待の先」と呼ばれたものに近いとも言える。ただ、この「けんを踏む」は、もっとタフな、敵の「先」を踏みにじり、台無しにしてしまうような、「後につく」なのである。   Go Back










*【はりうけと云事】
《はりうけと云は、敵と打合とき、とたん/\と云拍子になるに、敵の打所を、我太刀にてはり合せ、うつ也。はり合する心は、さのみきつくはるにあらず、又、うくるにあらず。敵の打太刀に應じて、打太刀をはりて、はるよりはやく、敵を打事也。はるにて先をとり、うつにて先をとる所、肝要也》(水之巻)

*【肥後兵法書】
《 劔をふむと云事
一 敵の打かくる太刀の先を、足にてふまゆると云心也。敵の打かくる太刀の落付所を、我左の足にてふまゆる心なり。ふまゆる時、太刀にても、身にても、心にても、先をかくれば、いかやうにも勝位也。此心なけれバ、とたんと/\とたがひに成て、悪き事なり。足ハくつろぐる事もあり。劔をふむ事、度々にハあらず。能々工夫すべし》




剣を踏む



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