【註 解】
(1)太刀も身も一度にハうたざるもの也
ここも、重要な教えである。自分の身体と太刀の関係である。
ふつう、常識的なところでは、こう考えるであろう。――太刀は道具である。道具を使うに習熟するということは、この外在的な道具(external tool)を、自分の身体の延長として、あるいは身体の一部として使えるようになることである。太刀は身体と一体化し同化する。さらに言えば、太刀という外在的な道具を内在化してしまう。それが、上達ということの内実であり、太刀を我が物として自由に使えるということである――と。
こうした身体と太刀の一体化・内在化という思考からすると、身体と太刀の本来的な分離は解消され、その分裂は乗り超えられなければならない。言うならば、身体と太刀は一体化された運動体、オーガニックに統合されたものにならなければならない。そうしてはじめて、太刀は自身の身体の一部として、またその延長として、自在に使えるようになる、と。
しかし、武蔵の言うのは、それとはまったく逆のことである。
《惣而、敵をうつ身に、太刀も身も一度にハうたざるもの也。敵の打縁により、身をバさきに打身になり、太刀ハ、身にかまはず打所也》
太刀と身体は、同時には打ち込まない。身体の方を先に打ち出すかっこうで、太刀は先立つ身体にかまわず打つ。すなわち、身体と太刀とはその外在的関係をそのままに、両者は分裂させて運動するというのである。
こうした分裂運動(splitting)は、統合あるいは一体化・同化のイデオロギーからすると、まったく理に反するものであろう。道具を使用するのは、ある意味で因果律に従うことである。運動のスピードや滑らかさは、身体と道具の一体化によって生れる。とすれば、武蔵のいう分裂運動は、そうした身体と道具の一体性を解体することにほかならない。運動の因果関係は壊乱される。
ところが、ここで、すでに話の筋は見えてきたはずである。そのような壊乱的なネガティヴな局面こそが、まさにポジティヴな様相を直指しているのである。
この節のタイトルは「太刀に替る身」であった。《身にかはる太刀とも云べし》ともある。これは、身体と太刀が互換的な存在だということである。というのも、太刀が道具だというだけではなく、身体もまた道具だということである。太刀を打ち出す、しかし身体を打ち出すともいうのである。この打ち出される二つの道具は、同時運動してはならない。ここには、身体が太刀という道具を統合し一体化するという発想はない。
最初、身体と道具の関係は外在的である。上達に従い、身体と道具の関係は内在化し、一体化する。しかし、そこには留まらない。この形成された運動の一体性を解体し、もう一度分裂した運動にしてしまう。――この第三の段階のことを、武蔵は語っているのである。
これに相同のことは、すでに前の条々において見たように、「拍子」に関して述べられていた。
しかしながら、強調しておかなければならないのは、身体と道具のこうした運動の分裂性は、観念的なものではなく、きわめて実践的=実戦的な要諦であることだ。下手の立場に立ってみよう――。
相手が上手だと、下手はどんなに鋭く打ち込んでもフッとかわされ、どんなに必死に受け防いでもスッと打ち込まれてしまう。もっと言えば、攻撃しても手応えがなく、防衛しても手応えがないという感じになる。
これは要するに、達者な相手の分裂運動に対し、まさに打つ手がない状態である。相手は身体と太刀を分裂的に運動させている。その分裂の間隙に誘い込まれ、取り込まれて、翻弄されているわけだ。
この「太刀に替る身」の条は、以上のような場面を念頭において、読まれるべきである。また同時に「拍子」を説く諸条の場面も、併せて想起しつつ読むべきところであろう。
五輪書の記述に対して、肥後兵法書「太刀に替る身の事」の方は、もっと直截な説き方である。
《太刀を打出す時ハ、身ハ連れぬもの也。又身を打と見する時、太刀ハ跡より打こゝろ也》
とあって、身体と太刀の分裂運動が明確に述べられている。その分、わかりよいが、反面、エキスパートのための話かもしれないという部分がある。文は続いて、身体と太刀、この他に第三の次元として「心」を、ともに語っているからである。
こうしてみると、この部分は五輪書だけでも理解は十分できるが、武蔵死後、肥後の門流ではもっと複雑な話が語られていたのである。つまり、この運動原理に関して、身体と太刀の「2体問題」ではなく、身体と太刀と心の「3体問題」として語るとなると、話は一気に難解になる。要するに、後のものほど解釈が複雑になってくるという例である。
なお、一部解説書に、上記《身をバさきに打身になり、太刀ハ、身にかまはず打所也》という箇処を、これを「捨て身」の戦法と解釈するものがあるが、これは間違いである。
これでは、肥後兵法書に、《太刀を打出す時ハ、身ハ連れぬもの也》と逆のケースも同時に示されているのを、どう解するのか。捨て身の反対に、へっぴり腰で太刀だけ前に出している格好をしろというのか。こんな嗤うべき珍解釈が跡を絶たないというのが、困りものである。
ようするに、全体の文脈は、以上に分析したように、身体と太刀の分裂運動を語っているのだから、ここは「身体とは関係なく打つ」という意味である。
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校異のことでは、以下の点がある。
すなわち、肥後系諸本に、《若ハ、身はゆるがず、太刀にてうつ事ハあれども、大かたハ、身を先へ打…》とするところである。これは、筑前系諸本に、身は「ゆかず」とする。つまり、筑前系は、「身は行かず」とするのに対し、肥後系諸本では、「身は揺るがず」とするのである。
これは、筑前系諸本の「身は行かず」が正しい。というのも、本条の趣旨文脈からして、《身をバさきに打身になり》ということだから、ここは身が先に「行く」か「行かぬ」かということである。それゆえ、続いて、《大かたハ、身を先へ打、太刀を跡より打もの也》という話になる。
これを「ゆるがず」とする肥後系写本は、「ゆかず」の語句に「る」という余計な文字を挟んでしまったのである。この衍字誤記は、筑前系写本にはないから、後に肥後で発生したものである。
そこで興味深いのは、円明流系統の多田家本である。そこには、肥後系では例外的に、《行ず》として「ゆかず」の文言を記している。ただしこれは、古型をとどめたものではなく、肥後系一般の「ゆるがず」では文意が通らぬと見たための修正であろう。
あるいは、越後の大瀧家本も、《ゆかず》とするが、これは底本の肥後系写本に、越後の三巻兵書を参照して、訂正したものである。いづれにしても、肥後系写本はその早期に、《ゆるがず》という誤記が発生していたのである。
もとより、こういう次第であるから、肥後系諸本だけを見ていては、これが「ゆかず」とは知れない。筑前系諸本も、早川系だけではなく、立花系である越後諸本まで漁渉してはじめて、判明するところである。
しかるに一般には、肥後系細川家本しか知らない状況である。そこでは、これを「ゆるがず」としか知らないから、敵に見抜かれないように、身体は動かさず、太刀だけをすばやく打つ、などという、文脈から脱線した頓馬な語釈になってしまうのである。
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○此条諸本参照 → 異本集
武備志 陰流猿飛目録
Stanley Kubrick 2001: A Space Odyssey
*【肥後兵法書】 《 拍子の間を知ると云事
一 拍子の間をしるハ、敵により、早きもあり、遅きもあり、敵にしたがふ拍子也。心おそき敵には、太刀相になると、我身をうごかさず、太刀の起りを知らせず、早く空にあたる、是一拍子也。敵氣はやきには、我身と心を打、敵動きのあと打事、是殘しと云也。又、無念無相と云は、身を打やうになし、心と太刀ハ殘し、敵の氣の間を、空よりつよく打つ、是無念無相也。又、おくれ拍子と云ハ、敵太刀にてはらんとし請んとする時、如何にも遲く、中によどむ心にして、間を打事、是おくれ拍子也。能々工夫すべし》
*【肥後兵法書】 《 太刀に替る身の事
一 太刀にかはる身と云ハ、太刀を打出す時ハ、身ハ連れぬもの也。又身を打と見する時、太刀ハ跡より打こゝろ也。是空の心なり。太刀と身と心と、一度に打つことなし。中に在る心、中に在る身、能々吟味すべし》
*【吉田家本】
《身ハゆかず、太刀にてうつ事は有れども》
*【伊丹家甲本】
《身ハゆかず、太刀にてうつ事はあれども》
*【赤見家丙本】
《身ハゆかず、太刀にてうつ事あれども》
*【近藤家甲乙本】
《身ハゆかず、太刀にてうつ事ハあれども》
*【石井家本】
《身ハゆかず、太刀にてうつ事ハありとも》
*【伊藤家本】
《身ハゆかず、太刀にてうつ事ハあれども》
*【楠家本】
《身ハゆるがず、太刀にてうつ事ハあれども》
*【細川家本】
《身はゆるがず、太刀にてうつ事はあれども》
*【富永家本】
《身ハゆるがず、太刀にて打事ハあれども》
*【多田家本】
《身ハ行ず、太刀にて打事ハあれ共》
*【大瀧家本】
《身ハゆかず、太刀にて打事ハあれども》
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