宮本武蔵 資料篇
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 Q&A   史実にあらず   出生地論争   美作説に根拠なし   播磨説 1 米田村   播磨説 2 宮本村 

[資 料] 地 志 播 磨 鑑 2 Go back to:  資料篇目次 


 2 伊織の詳細記事   (印南郡の部)
 【原 文】
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宮本伊織  米田村に宮本伊織と云武士有(1)。父を甚兵衛と云。元来、三木侍にて別所落城の後、此米田村え來り住居して、伊織を生す(2)
 十二歳の時、魚を釣に出居たりし処に、天狗におかされてか、加古川邊までつれ行しを、いつく共なく白衣の装束したる化人飛來り、彼小児の袖を取て引もどし、本の米田村へつれ帰られ、化人は行方しらす失給ひぬ。其片袖を近代まで彼ゆかりの家に所持し有しと云。今は紛失して亡之(3)
 其後、伊織十六歳の時、赤石の御城主小笠原右近侯に、宮本武藏と云天下無双の兵術者を召抱へられ、客分にておはせしが、此伊織其家に召遣はれ居たりし処に、器量すぐれたる生れ付故、武藏養子にせられ(4)、後、豊前小倉へ御所替にて御供し下られける時、折節、しま原一揆烽起の節、彼戦場へ召連られ軍功有、其賞として三千石を賜はり、無役にて小笠原家に被仕。其後、宮本伊織とて、家老職になさる(5)
 子孫ゆかりの者、米田村に今に在之(6)
 其後、伊織、氏宮たるによりて、泊大明神の社頭拝殿舞殿舞台門守等迄、悉く建立有。則、石燈籠に作事の奉行人等銘彫現然也。則、泊の古宮を米田村へ曳取被建之、内宮と号す。泊りへは、堂上家の御歌仙三十六枚[各自御筆]、其外珍物等を被寄附。今、其子孫、小倉より江戸往來の節は、泊りの社へ使参有之也(7)
 此伊織殿、母は加東郡垂井ノ荘宮ノ脇村ノ人也。依之、伊織も久敷、宮ノ脇村に被居由(8)
 又、弟に(實は甥也)宮長清兵衛と云人有。此人の宿願にて、三十六歌仙の絵馬和歌は、則、堂上家の御自詠、其節の帝王御製御宸筆一枚下し給はりて、今、垂井荘内氏宮の神庫に藏め、宝物とす(9)
 又、弟に大原玄昌と云人有。此人の石碑、今、三木町本要寺[日蓮宗]に在之。右は伊織と玄昌トモニ寄附也。[二人共人物ノ部ニ見ヘタリ](10)
 【現代語訳】


宮本伊織  米田村に宮本伊織という武士があった。父を甚兵衛という。(甚兵衛は)元来、三木侍であって、別所長治の三木城落城の後、この米田村へやって来て住居して、伊織を生した。
 (伊織が)十二歳の時、魚を釣りに出かけていると、天狗に冒されてか、加古川あたりまで連れて行かれた。すると、どこからともなく白衣の装束をした化人*が飛んで来られ、かの小児(伊織)の袖を取って引もどし、もとの米田村へ連れ帰ってくれたが、その化人の方は行方も知れず姿をお消しになってしまった。その片袖は、最近まで彼(伊織)ゆかりの家に所持してあったという。(しかし)今は紛失してこれはもうなくしてしまった。
 その後、伊織十六歳の時、赤石(明石)の御城主小笠原右近侯(忠政)が、宮本武蔵という天下無双の兵術者を召抱えられ、客分にしておいでだったが、この伊織がその家(小笠原家)に召しつかわれていたところ、(伊織が)生れつき器量すぐれた性質であるため、武蔵の養子になさった。のち、(小笠原侯は)豊前小倉へ国替のため、(伊織を)お供にして下られた。そのころ、折節、島原一揆烽起のときで、彼(伊織)を戦場へ召連れられ、軍功があった。その報賞として三千石を賜わり、無役で小笠原家に仕えた。その後、宮本伊織として、家老職になされた。
 (伊織の実家・田原家の)子孫と縁戚の者が、米田村に今でもいる。
 その後、伊織は、泊大明神が氏宮であるため、神社の社頭・拝殿・舞殿・舞台・門守等まで、ことごとく建立したことがあった。すなわち、(泊神社の)石燈籠に造営工事の奉行人等の銘が彫られて(今なお)現然としてある。すなわち、泊(神社)の古宮を米田村へ曳いて行って、これ(古宮)を(米田天神社の社殿として)建て、内宮と号している。泊(神社)へは、堂上家の御歌仙三十六枚[各自御筆]、そのほか貴重な物などを寄附した。今もその子孫が小倉より江戸へ往来の節は、泊の社へ参らせることがある。
 この伊織殿、母は加東郡垂井荘の宮脇村の人である。これにより、伊織も久しく、宮脇村に居たとのことである。
 また、(伊織の)弟に[実は甥である]宮長清兵衛という人あり、この人の宿願で、三十六歌仙の絵馬和歌(を奉納)、これは堂上家(公家)の御自詠、当時の天皇御製御宸筆一枚を下されて、いま、垂井荘内の氏宮の神庫に蔵め、宝物としている。
 また、(伊織の)弟に大原玄昌という人があり、この人の石碑が、いま、三木町本要寺[日蓮宗]にある。右は伊織が玄昌とともに寄附したのである。[二人とも本書の「人物」の部に見える]

 

 【註 解】

 (1)米田村に宮本伊織と云武士有
 宮本伊織(1612〜78)は武蔵の養子になった人である。米田村は、前記のごとく現在の兵庫県高砂市米田町米田。ここは印南郡の項目なので、郡名は略してある。
 泊神社棟札には、「米墮」とある。これは、神殿に納める棟札として修辞的語法であるが、じっさいには地名由来譚に「飛鉢伝説」があった。
 すなわち、米田村の北方約十kmほどのところに、法華山一乗寺がある。その開基が播磨では諸所に伝説のある法道仙人。あるとき法道仙人、海上の船に鉢を飛ばし米の寄進を頼んだところ、船頭がそれを拒否、すると、積み荷の米すべてが空を飛んで法華山の仙人の方へ。慌てた船頭が謝罪して米俵は再び船に戻ったが、ただ一俵だけ戻らず、この地に落ちた。米俵の落ちたところが米塚となり、ゆえに地名を米堕という、云々。
 ようするに、米俵が堕ちたから「米堕」というとは、地名由来譚特有の付会だが、それもご愛嬌である。法道仙人の事蹟にちなむ地名なら、めでたい名であるが、ヨネダというからには、それとは異なる意味があろう。
 余談はさておいて、『播磨鑑』の記事。宮本伊織という武士があった、という書き方だが、むろん伊織が最初から「宮本氏」であったのではない。宮本武蔵の養子になって「宮本氏」になる。伊織のもとの名は田原貞次である。
 この田原貞次が武蔵の養子になり、宮本氏を名のる者になって以後も、しばらくは明石小笠原家家臣である。それゆえ、米田村に宮本伊織という武士があった、という書き方には矛盾はない。米田村には彼の生家があり、実父もそこに住居していたからである。  Go Back

 
 (2)父を甚兵衛と云
 伊織の父を甚兵衛という。宮本家系図に見える田原甚兵衛久光のことである。甚兵衛は、田原甚右衛門家貞の子である。つまり、伊織の祖父は甚右衛門家貞、父は甚兵衛久光である。
 この甚兵衛には男子五人があった(三男は早世)。伊織は田原甚兵衛久光二男の貞次である。
 武蔵の伝記にある伊織の出自譚には、周知の荒唐無稽な話がある。肥後系武蔵伝記『武公伝』『二天記』には、伊織が出羽国正法寺村の産とする「泥鰌伊織」の話がある。また筑前系伝記『丹治峰均筆記』(兵法大祖武州玄信公伝来)には、伊織を「商家の子」とする。『丹治峰均筆記』は享保十二年(1727)の文献だが、早期の武蔵伝記とはいえ、その特徴はすでに説話化・伝説化がかなり進行していることである。
 これらとは対照的に、『播磨鑑』の記述は記録性が高く、史実としての信憑性がある。伊織は出羽国で拾われた少年でもなく、また商家の子でもなく、米田村に住む甚兵衛という武士の子だったのである。
 この甚兵衛は、元来「三木侍」だった。――この三木侍というのは、三木城に拠って東播磨国人衆の盟主だった別所長治の家臣であったということだろう。
 この「三木侍」という表現のニュアンスに注意したい。『播磨鑑』が書かれた場所(印南郡平津村)からすると、三木は同じ播州でも、海岸部に近い米田村とはちがって、加古川の川上にある内陸地域、表現のニュアンスには少し距離がある。
 さらに言えば、米田村の方は、同じ赤松一党とはいえ、別所氏とは異なる小寺氏の居城・御着城に近く、その勢力域内にある。甚兵衛が「三木侍」だということは、地元の小寺家臣、「御着侍」ではないのである。
 というわけで、この「三木侍」という表現には、余所者という感じがある。それを見逃さないことだ。
 別所落城の後、とある。信長の時代、播州は織田・毛利の東西勢力の攻防が展開された地域だった。黒田官兵衛を手先とする秀吉の播州攻略のハイライトは、毛利方に与した播州勢の盟主別所長治〔べっしょ・ながはる〕の三木城を包囲するいわゆる三木合戦だった。
 別所長治は、最初は信長に与していた。播磨の諸城主は大半が最初抵抗しなかった。秀吉はまたたく間に播磨の平定に成功し、いったんは引き揚げる。ところが、別所長治ら播磨諸城主は突然、毛利方に寝返り、織田方と敵対することになった。
 天正六年(1578)から天正八年(1580)までの二十二ヶ月に及んだ籠城戦の結果、城主・別所長治は家臣与力の者らの救命を条件に降参、彼と一族は切腹自害して竟った。こののち秀吉の播磨支配時代へと移行する。
 この『播磨鑑』の記事によれば、三木落城後、伊織の父・甚兵衛は、この米田村へやって来て、ここに住むようになり、そうして伊織が生まれたという。
 伊織ら兄弟が建てた三木の田原氏墓碑によれば、田原甚右衛門は天正五年(1577)歿、息子の甚兵衛は、天正六年(1578)生れ、したがって、父が死んで後出生したのである。そして、三木落城のときはまだ三歳である。甚兵衛は、三木落城で主家を失った別所家臣の遺児として、親族に連れられて、米田村に流れてきて暮らすようになったのであろう。したがって、平野庸脩が甚兵衛を「元来、三木侍」というのは、甚兵衛の家が三木の別所旧臣だったということである。伊織が印南郡の米田村生まれたのは、そういう前史があるということだ。
 このあたりは重要な部分なので、注意して読むことだ。つまり、甚兵衛はもともと「三木侍」で、この印南郡の米田村にとっていわばストレンジャーだったということ。三木落城の後、いつかは不明だが、こちらへ流れてきて、米田村で住むようになったのである。
 この件で見逃せないのは、「元来、三木侍」と書いた平野庸脩の先祖も、その三木合戦敗退組だったことだ。亀田次郎(平野庸脩翁傳・大正六年)によれば、彼の先祖は、三木の別所長治に与した志方城主・櫛橋氏に属し、三木落城後、伊藤氏・油居氏とともに、平津村に居住するようになった。その伊藤・油居・平野の三家は、平津村の旧家だという。
 このように平野庸脩自身の先祖も、三木合戦敗退組だったとすれば、それだけに、『播磨鑑』に田原甚兵衛を「元来、三木侍」と書いた平野庸脩の記事にも、信憑すべきところがある。それに、庸脩は伊織ゆかりの親戚も見知っているから、当時、地元では、田原家は「元来、三木侍」だったのである。
 とすれば、別に示した泊神社棟札の記事(伊織表白文)と矛盾する。すなわち、棟札記事によれば、田原氏は先祖代々米田村産だということになっている。ところが、『播磨鑑』は、甚兵衛の代に米田村へやってきた家だというのである。
 おそらく、どちらが正しいかと言えば、米田村隣村居住の学者である、この平野庸脩の記事の方であろう。それが証拠に、棟札は伊織自撰とはいえ、田原氏を赤松持貞まで遡らせているが、この氏の起源はほとんど信憑のない虚構である。しかしそれは、伊織が出自を粉飾したというよりも、田原氏の起源について、彼が親から聞いて育ったのは、そういう話だったのである。(別掲「泊神社棟札全文詳解」参照)
 我々の所見では、伊織の実家・田原氏は、本来は加西郡田原村(現・兵庫県加西市田原町)から出たものである。この田原村は、米田村からすれば加古川を遡って、万願寺川という支流沿いに行った土地である。
 この加西郡あたりは別所氏の本拠である。『播磨鑑』によれば、古くから田原に構居もあったらしく、この構居に拠る者らが田原氏を名のったものと推定しうる。
 この加西・河東・三木諸郡は加古川中流域である。微細なことだが、加古川下流の米田村あたりとは文化も言葉も異なる。米田村へ流れてきた田原甚兵衛は余所者であっただろう。
 それに加えてもう一点、甚兵衛が米田村に来たのはいつか、という問題がある。
 庸脩は「別所落城の後」この村へ来て居着いたというが、このあたり別の問題がある。すなわち、前述のごとく、甚兵衛久光の生年は、その没年年齢から逆算して天正六年と考えられる。別所の三木落城は天正八年である。とすれば、甚兵衛はこのときまだ三歳の幼児である。つまり、三木落城に遭遇した親なき子が、だれか親族の縁でもあったか、この米田村に連れて来られた。あるいは、もっと成長したあと、ここへ来て居着いて伊織という子を生した、ということか。どちらなのか、不明である。
 伊織は米田村で生れたが、後に見るように、母の実家のある加東郡垂井庄の宮ノ脇村というところで「久しく」暮らしたという。しかも、弟の玄昌は、垂井庄の別の村で生れた。したがって、伊織父の甚兵衛は、そのころはまだ米田村に居ついたわけでもなく、三木の方と二股であったのではないかと思われる。
 いづれにしても、地元の人間にとって、甚兵衛は本来土着の者ではない、「元来、三木侍」という余所者の札付きなのである。米田村へ来たのは甚兵衛の代であって、その父や祖父ではない。まして、棟札の伊織がいうが如く先祖代々この村にいたわけではない。
 そして、伊織ら兄弟は、三木に父祖の墓を設けている。つまり、伊織ら息子たちにとっても、父の代までは、田原家は「元来、三木侍」なのである。この点は十分認識されるべきである。  Go Back




印南郡米田村とその周辺



錦絵 観音霊験記
西国観音霊場26番法華山一乗寺
法道仙人飛鉢伝説を記す



*【小倉宮本氏系図】(抜粋構成)

 赤松刑部大夫 田原中務小輔
 持貞────┬家貞───┐
       │     │
       └政顕   │
 ┌───────────┘
 │      田原右京大夫
 └─某─某──貞光───┐
 ┌───────────┘
 │田原甚右衛門
 └家貞────┐
 ┌──────┘
 │田原甚兵衛 大山茂左衛門
 ├久光───┬吉久
 │     │
 │     ├貞次 宮本伊織
 │     │
 │     ├某 丑之助 早世
 │     │
 │     ├某 小原玄昌法眼
 │     │
 │     │田原庄左衛門
 │     └正久→
 │      
 │宮本武蔵  宮本伊織
 └玄信────貞次→[宮本家]



秀吉侵攻時の播磨諸城主


三木合戦絵図 法界寺蔵
兵庫県三木市別所町東這田
別所長治の菩提寺。命日には毎年
追悼供養に絵解きが上演される



[資料篇]   泊神社棟札 




田原城址 兵庫県加西市田原町



田原・垂井・三木
加古川中流域
 
 (3)十二歳の時、魚を釣に出居たりし処に
 伊織が十二歳の時、魚釣りに出かけていて、神隠しに逢いそうになったこと。おそらく平野庸脩が子供の頃から聞いていた咄であろう。
 このあたりは『播磨鑑』の面目著しい部分である。いわば、民俗学に先立つ民俗学的ポジションである。平野庸脩は伝説口碑を本書に多数採集しているが、この伊織伝説もその一つである。伊織については、地元でこんな言い伝えがあるよ、という具合である。
 この伊織伝説によれば、少年伊織は「天狗におかされてか、加古川あたりまで連れて行かれた」のである。天狗は山に棲むばかりのものではない。川天狗という妖怪もあって、人を誑かすという。ここで言う「加古川」は、河川の名ではなく、米田村からすると加古川対岸にある加古川町のことである。
 現在の加古川の流路は昔とはちがう。現在の米田交差点あたりは当時は川端である。つまり、米田村は加古川に面した村だったのである。
 加古川町は対岸にある。この神異譚では、少年伊織は無意識のうちに河を渡っていたのである。
 すると、どこからともなく白衣の装束した化人が飛来して…。この「化人」〔けにん〕は、化生〔けしょう〕の人、つまり仏や菩薩が人間に姿を変えて現れた存在。ここでは少年伊織を救う神的存在として現れている。
 ただし「化人」には化物・妖怪の意味がないではない。善悪がはっきりするのは、同じ一つのものの両義性が失われたときである。神々であれ、祟りなす神が古い。
 この「化人」は少年伊織の袖をつかんで引もどし、もとの米田村へ連れ帰ってくれた。そうして化人は姿を消してしまって、どこへ行ったか知れない。これはすべて、少年伊織の心的現象であり、ラカン的な意味での「幻想」(fantasy)である。
 しかし心意伝承はそこでは留まらず、必ずリアルな物の小片を伝える。これが、《近代まで彼ゆかりの家に所持し有し》という当の片袖である。
 これを興味深く記述した庸脩の民俗学的視線がここにある。そうして我々は、伊織が一方で、故郷の地にこうした伝承を残していた存在であることを知るのである。
 《其片袖を彼ゆかりの家に所持し有しと云。今は紛失して亡之》
 ここでは庸脩の記述法に注意したい。リアルな物の小片である片袖は、米田村の伊織縁戚の者の家が最近まで所持し伝えられていたと「云う」が、「今は紛失して亡之」なのである。
 つまり、伊織ゆかりの親戚の家があって、そこに、この伝説の証拠物たる片袖があった。それを庸脩は確認したが、残念ながらそれはすでになかったのである。片袖が存在したと「云う」とあるのは、伝承記事である。そして、「今は紛失して亡之」は、庸脩の経験的な事実記事である。
 このような書き分けは『播磨鑑』では一貫している。数学者・科学者でもあった庸脩は、伝聞伝承・伝説でも、「話は話として」記録しているのである。
 しかし、昨今、世の中には、『播磨鑑』はこんな迷信じみた伝説を収録しているから、信憑性がないなどと、蒙昧なことを書く者らもある。ならば、日本民俗学の父・柳田國男の著作には伝説満載だが、それはどうなんだ。要するに、怪異伝説を収録する民俗学的スタンスについて無知な者のタワ言である。伝説素材と採取主体の距離がゼロだと妄想する阿呆である。  Go Back

印南郡細見図(寛延2年) 部分



江戸中期の加古川の流路
現在はかなり違う




米田橋 明治期
 
 (4)伊織十六歳の時
 以下、伊織が十六歳のとき、武蔵の養子になった経緯を述べる。武蔵が登場する重要な部分なので、注意して読まれたし。
 まず、《赤石の御城主小笠原右近侯》とある。「赤石」は明石の異字。その御城主小笠原右近侯とは、前出の小笠原忠政(忠眞)、伊織の主人となった人である。
 明石城主・小笠原忠政は、宮本武藏という天下無双の兵術者を召抱えた。この「宮本武藏という天下無双の兵術者」という書き方、叙述法は、いかにも客観的である。この点、以下のことを関説しておくべきだろう。
 すなわち、武蔵が伊織の縁者であれば(そして小倉宮本家系図にあるごとく伊織の「叔父」であれば)、こんな書き方にはならない。そして、それは別掲の泊神社棟札にも通じることである。そこには、神免(新免)という者の「遺を受け家を承くるを武蔵掾玄信と曰す、後に宮本と氏を改む。亦た無子にして、以て余、義子と為る。故に余、今其の氏を称す」とあった。
 つまり、最初、伊織からすると武蔵は他人なのである。決して小倉宮本家系図にあるような父の弟といった近縁者ではない。もしそうなら、庸脩は、
  「宮本武蔵、伊織の叔父也」
と書いたはずである。庸脩は、人物について親族関係を必ず書きとめている人であるから、それを彼が記さない以上、武蔵と伊織は親族ではなかったと考えるべきである。
 小笠原忠政は武蔵を「客分」として遇したようだ。これは家臣として召抱えるのではないということだ。今で言えば、社外顧問みたいなものであろうが、大名は有名人をそのようにして囲い込みたがったのである。
 ただし武蔵は、姫路城主・本多忠政(1575〜1631)との縁が先である。本多忠政は、小笠原忠政の舅、つまり妻の父である。小笠原忠政が明石に移封されたとき、その最初の仕事は、明石城の築城と、その城下町の建設、及び明石港の整備という土木建築工事である。築城にあたっては、本多忠政が縄張り(基本設計)をしたという。
 前述のごとく、城下町明石の町割り(都市計画)は、宮本武蔵がやったという話が地元明石にあり、『播磨鑑』もその話を記録している。小笠原家の記録では、明石城内の樹木屋敷の造園設計を武蔵がやったという(小笠原忠真一代覚書他)。これはどちらも元和のはじめである。武蔵は、かくのごとく明石に足跡をとどめているわけだ。この「明石の武蔵」に関して『播磨鑑』は、後出のように別に記事を書いている。
 そうして、『播磨鑑』には、《此伊織、其家に召遣はれ居たりし処に》とある。「其家」というのは、明石藩小笠原家である。封建時代のこととて、仕官はある特定の「家」に召抱えられることであり、その主人への奉仕となる。伊織は小笠原家に出仕して、その家臣であった。そのとき、武蔵が明石にやってきて、彼らは遭遇するのである。
 伊織が生れつき器量すぐれた性質であるため、武蔵の養子になさった――つまり、「器量すぐれたる生れ付故、武藏養子にせられ」とある。この敬語表現からすると、主人・小笠原忠政が主語である。とすれば、忠政は武蔵に、この伊織は器量すぐれた奴だから養子にしたらどうかと薦め、武蔵はこれを受諾したという場面が浮上する。
 ともあれ、武蔵が伊織を養子にしたというこの一件は、従来の武蔵研究や武蔵小説の焦点の一つである。つまり、
  「伊織が養子になったのは、小笠原家仕官の後か、先か」
という問題である。
 この点につき、武蔵評伝には、忠政が武蔵に仕官を勧めたところ、自分はその気がないから、その代りに自分の養子に伊織というすぐれた者がいるから、それを召抱えてくれと言って、その結果、伊織は小笠原家に仕えるようになった、という経緯を語る。これは後世の伝説である。
 これを武蔵伝記で確認すれば、筑前系武蔵伝記『丹治峰均筆記』には、武蔵が養子の伊織を小笠原忠政に推挙し仕官させたという記事がある。この場合、伊織はまず先に武蔵の養子になっていて、その後小笠原家に仕えるようになったという話になる。また、それが明石時代ということでもなく、文脈からすれば、小倉転封後の九州時代のごとくである。
 これに対し、肥後系武蔵伝記『武公伝』には、武蔵は伊織を出羽国で拾って、諸国を経歴し、伊織は兵術抜群の英雄豪傑となり、宮本伊織と号し、豊前国小笠原家の家老となり、二千石の知行を得たというストーリーが語られている。また、『二天記』では、武蔵は、伊織を出羽国で拾った後、国々を遍歴して、豊前小倉にやって来た。そして伊織は後に小笠原家に仕えたという。
 ようするに、九州の武蔵伝記は、どちらも、伊織はまず先に武蔵の養子になっており、その後、豊前小倉ではじめて小笠原家に仕官したことになっている。
 『播磨鑑』によれば、順序は逆である。まず先に伊織は明石小笠原家の家臣であった。そして伊織が十六歳の時、小笠原忠政が伊織と武蔵の養子縁組をして、宮本武蔵という「天下無双の兵術者」の養子になったのである。伊織の親戚はじめ、地元の言い伝えでは、そういう経緯だったのである。
 この点につき、『播磨鑑』は別の宮本武蔵の部分で、前出のごとく、武蔵が明石にやって来て忠政に謁見した、その時、伊織を養子にしたとする。すなわち、「明石ニ到リ、小笠原右近将監侯ニ謁見シ、其時、伊織ヲ養子トシ」と書いているのは、ここでの記述と一致する。
 小倉宮本家系図でも、いつ伊織が武蔵の養子になったのかは不明である。この件について、時期を特定できる情報を与えるのは、『播磨鑑』以外にはないのである。この点、諸氏の注意を喚起しておく。  Go Back




明石城址
兵庫県明石市





明石町割図 『明石記』所収
播磨鑑にも武蔵が計画に
参与したとの伝説を誌す




小笠原忠眞一代覚書 部分
小笠原文庫
武蔵作庭の事蹟を誌す









*【丹治峰均筆記】
《武州、壯年ヨリ妻子ナシ。宮本伊織、同造酒之助、両人共ニ養子也。伊織ハ商家ノ子トイヘリ。豊州小倉ノ城主、小笠原右近將監忠貞〔忠真〕公ニ勤仕セリ。武州、或時、御物語ノ序ニ、某シ子ヲ守リ、差上可申。打込ニ被召仕候而ハ御用ニ立ガタシ。御側ニ被召置、御家老衆ヘ何ゾ御内用等之取次ヲモ被仰付候ハヾ、畢竟御用ニ相立可申由、申述》

*【武公伝】
《夫ヨリ諸國ヲ經歴シ、兵術拔群英雄豪傑ト也、宮本伊織ト號シ、豐洲小笠原ノ家宰トナリ、二千石ノ知行ヲ得、終ニ夙志之通、把鎗跨馬身ト也、子孫相続シテ、豐城諸子ノ冠タリ》

*【二天記】
《夫ヨリ國々ヲ經囘シ、豊前小倉ニ留ル。後ニ小笠原家ニ仕へ、誠ニ夙志ノ如ク、鎗ヲ把リ馬ニ跨ル身ト成リ、子孫相續シテ、今ニ豐城ノ諸士ノ冠タリ。宮本伊織ト號ス》
 
 (5)豊前小倉へ御所替にて御供し下られける時
 小笠原忠政は播州明石から豊前小倉へ転封、国替えになった。これが寛永九年(1632)のことである。武蔵は四十九歳、伊織は二十一歳である。
 この配置転換にともなって、小笠原家の家臣である宮本家は、明石から撤収して小倉へ移る。伊織はむろん、「父」の武蔵も、九州へ移住した。ここから伊織と武蔵の、つまり宮本家の九州時代がはじまるのである。
 そして、《折節、しま原一揆烽起の節》とある。切支丹宗徒の一揆による天草島原の乱は、小倉転封の五、六年後の寛永十四、五年(1937〜38)である。
 この叛乱に対し、幕府は早速上使を派遣した。最初は、百姓づれの一揆とみて、当事者である寺沢・松倉に鍋島を加えたあたりで鎮圧しようとした。ところが原城の一揆衆の抵抗が強固で、結局、近隣諸大名を総動員して、十数万の布陣となった。小笠原忠政は江戸出府中であったが、急遽帰国し、出陣は二月という後発組ながら、小笠原一門計約一万の軍勢を率いて、原城包囲に加わった。
 本書の記事は、《彼戦場へ召連られ軍功有》と進む。この「彼」というのは文脈から伊織であろう。いづれにしても、武蔵と伊織は小笠原家中にあって、島原の乱の戦場へ往き、参戦したものらしい。
 寛永十五年二月の原城陥落直後と推測される、武蔵の有馬直純宛の書状が残っている。それによれば、「せがれ伊織」に軍功があったようで、他方、武蔵は一揆勢の投石で負傷したという。武蔵には珍しい負傷もあったらしい。武蔵は五十五歳、伊織は二十七歳である。
 筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、伊織子孫の小倉宮本家文書よりも詳しい伝説記事があって、島原役のとき武蔵も小笠原隊で出陣したが、忠政の要請で、忠政甥の小笠原信濃守(長次)に附いたという。これは、大いにありうることで、武蔵は小笠原長次を子供の頃から知っているのである。実際、小笠原家の史料では、小笠原長次の旗本に宮本武蔵の名を記した出陣記録もある(小笠原文庫)。
 島原一揆鎮圧の軍功ということは、小笠原家としては重要な功績となる。『播磨鑑』では、その報償として、伊織に三千石が与えられたという。しかもこれは「無役」というから、役目のないポジションで、それだけの高禄を食んだということになる。これは播磨側の伝説である。
 このあたりは事実かどうか知れない。ただし、忠政の明石入部が元和三年(1616)だから、小笠原忠政と武蔵との関係が明石時代の初期からだとすれば、かれこれ二十年になる。島原の役の軍功で伊織(つまり宮本家)に三千石ということだが、そういう長い関係からすればこの高禄もそう不自然ではないかもしれない。
 《其後、宮本伊織とて家老職になさる》。老職は重役である。結局、伊織は、小倉小笠原家中で高いステイタスを獲得した。これでみると、伊織は、島原役後に三千石の知行を得ることになったのであり、家老職に就くのはさらにその後である。
 以上が、播磨での言い伝えの概略である。ところで、他方、伊織子孫の小倉宮本家系図によれば、伊織は二十歳で執政職(家老)に就いたという。伊織二十一歳の時、小倉へ転封だから、その前年である。このころはまだ家老という言葉はなくて、年寄といった。まずは、若年寄になって、重役である老職のメンバーに加えられたということだろう。
 しかし、伊織は二十歳で家老職、そんなことがありうるのか、というような声が昔からあった。
 年齢のことを言うのではない。親が早死にして家督相続で、代々家老職の家を若年者が嗣ぐということはありうる。しかし、その場合でも、将来の家老の席は約束されていても、まず組頭あたりからスタートするのではないか。
 しかし伊織は新参家臣であり、十五歳で仕官したのである。それが二十歳で老職。小笠原家なら譜代の老職家がいくつかある。伊織がいくら器量がすぐれ、しかも武蔵の養子だからといって、そんな抜擢がありうるものなのか。このあたり、不審である、というわけである。
 むろん、周知の如く、井原西鶴の『男色大鑑』に明石の殿様の寵童譚があることから、推測を重層させて小笠原忠政と宮本伊織の男色関係を云々する説もある。
 だが、そういう説を書く者らに言っておきたいが、当時少なくとも男色関係は珍しいものではなく、いわば「ノーマル」な関係で、後世の『葉隠』の時代まで「戀」はホモセクシャルな恋愛であった。『独行道』の「恋慕の道」がヘテロセクシュアルであるとしかみえない近代の眼では、この「恋慕の道」が衆道であることは思いもよるまい。
 男色が、リベラルな現代よりもはるかに「ノーマル」なセクシュアリティでありえた、そういう時代では、主君と男色関係にあるだけでは、出世の理由にはならないのである。
 さて小倉宮本家系図では、寛永九年小笠原家が豊前小倉に移って、ここで采地二千五百石とある。つまり、伊織が知行二千五百石となったのは、寛永九年あたりであって、島原役よりも以前である。
 かくして、伊織は十五歳のとき出仕、二十歳で老職に就き、豊前小倉移封の結果、采地二千五百石という知行を得たということである。また同系図では、寛永十五年二月(忠眞)公に従って肥州有馬浦に出陣。そのとき侍大将で、惣軍奉行を兼ねる。筑前福岡城主・黒田忠之が、戦功の褒美に、佩刀の備前宗吉を伊織に贈与したという伝説も記す。そして帰陣の上、加増千五百石、都合四千石を領す、とある。これが宮本伊織家の知行の由来と根拠である。
 他方、すでにみたように『播磨鑑』では、武蔵が明石で伊織を養子にし、その後、小倉転封にしたがって九州へ行き、そして移封の後の島原の乱のとき、戦功あって、その行賞として三千石を得て、そしてしばらく「無役」のまま仕えたが、後に、「伊織」という名を与えられ、家老職になったということになる。小倉宮本家の系図家譜では、いつから伊織が「伊織」名を称するようになったか、不明である。
 これは、伊織が明石時代の二十歳で執政職(家老)になった、という小倉宮本家の系図家譜等の史料とはかなり異なる記事である。『播磨鑑』の記事によれば、まず島原役で軍功を挙げて高禄の報賞を獲得し、それを基盤として宮本家は藩内に抬頭し、伊織は家老になった、それは少なくとも島原役の後だとする。
 九州から遠い播磨の伝承なので、伊織の九州時代のことは、『播磨鑑』の記事では確かではないとすべきであろう。しかし、小倉宮本家の初代伊織に関して、子孫の情報は詳しいものではないから、確かなことは言えない。『播磨鑑』の記事が小倉宮本家文書よりも一世紀早いということも、考慮しなければならないだろう。  Go Back



武蔵伊織関係地図


秋月郷土館蔵
島原陣図屏風戦闘図


吉川英治記念館蔵
有馬直純宛武蔵書状


*【丹治峯均筆記】
《寛永十四年ヨリ翌十五年ニ至テ、肥州原ノ城ニ賊徒楯篭リ、西國ノ諸將、人数ヲ引テ嶌原ニ至、原之城ヲ責ラル。武州、其時ハ小笠原右近将監殿御頼ニテ、御同姓信濃守殿、御若輩ユヘ、後見トシテ出陣セラル。初終、鎧ハ著玉ハズ、純子ノ廣袖ノ胴著ヲ著シ、脇指ヲ二腰サシ、五尺杖ヲツキ、信州ノ馬ノ側ラニ居ラル。城乘ノ時、賊徒石ヲ抛ツ。馬前ニ来ル石ヲ、「石ガマイル」ト言葉ヲカケ、五尺杖ニテツキ戻シ、落城ニ及ンデハ、例ノ薙刀ニテ數人薙伏セラレシト也》

*【小倉宮本家系図】
《貞次 宮本伊織
實ハ田原久光二男。母ハ小原上野守源信利女。慶長十七壬子十月廿一日生於播州印南郡米堕邑。寛永三丙寅於播州明石奉仕于忠眞公之御近習[于時十五歳]。寛永八辛未執政職[廿歳]。同九壬申従于(忠眞)公移于豊前小倉。於此采地二千五百石。同十五戊寅二月従于(忠眞)公肥州有馬浦出陣。于時侍大将[此時廿六歳]惣軍奉行兼。傳曰、城攻之日筑州太守黒田忠之侯、於忠眞公御陣營、貞次被召出、此度之働御褒詞之上御指料之御刀[備前宗吉]賜之。同年自肥州御皈陣之上御加恩千五百石。都合四千石ヲ領》



井原西鶴『男色大鑑』
早大図書館蔵





小倉城
 
 (6)子孫ゆかりの者、米田村に今に在之
 伊織の縁戚に当る者が、今も米田村に住んでいるということ。それは、言ってみれば、作家三島由起夫の親類が加古川辺につい最近まで生きていたというのと同じようなことである。
 三島の実家平岡家の祖父の出自は、現在の加古川市域である。本籍はまだそこにあったので、三島は、徴兵検査を受けに、東京から播州加古川まで来なければならなかった。そして醤油を呑んでかどうか、徴兵を免れたという話である。有名作家の記念館ばやりの近年だが、三島の記念施設はこの当地にはむろん一つもない。
 というわけで、余談になったが、『播磨鑑』の平野庸脩は、この米田村の隣村・平津村の住人である。そこで生まれ育った人である。伊織の親類にあたる者らを見知っていたことだろうし、彼らから直接取材することもあっただろう。そういう意味で、『播磨鑑』の伊織情報は第一級であり、他の史料が書きようがない記事を含んでいるのである。
 ちなみに、庸脩は医師でもあり、また数学者でもあった。近隣の古社・生石神社には、ある扁額があって、それは高等数学を解いた図柄らしい。これが、庸脩にみられるこの土地の知的伝統とその水準を、ある意味で具体的に示すものであることは言うまでもない。  Go Back





米田天神社
兵庫県高砂市米田町米田

 
 (7)其後、伊織、氏宮たるによりて
 以下、泊大明神社殿再建の一件である。これについては、別掲ページ「泊神社棟札」読解を参照されたい。
 伊織は、故郷の十七邑の氏宮たる泊神社と、米田村の天満宮の、両社再建の願主になったのである。
 《泊大明神の社頭、拝殿・舞殿・舞台・門守等迄、悉く建立有》。これは泊神社の伊織棟札の記事と完全に一致する。泊神社は当時かなり頽朽し、それを伊織の実家・田原氏の兄弟が見かねて、社殿造営工事の願主になった。
 とはいえ、主役はやはり伊織であろう。兄弟の中の抜群の出世頭で、故郷に錦を飾るの譬えのごとく、伊織は神社再建の奉行人となってこれを完遂し、後世に名を遺したのである。
 この造営に関わったはずの長兄吉久の名も末弟正久の名も『播磨鑑』には出てこない。辛うじて名を『播磨鑑』に遺したのは、別に出て来る伊織の弟・大原(小原)玄昌(四男の貞隆)である。
 ここでは、《石燈籠に、作事の奉行人等銘彫、現然也》と記す。泊神社には、伊織が寄進した高さ七尺ほどの大きな石燈籠がある。銘文によれば、承応二年(1653)の三月吉日、宮本貞次建之とある。この「宮本貞次」が伊織である。《石燈籠に、作事の奉行人等銘彫、現然也》というのは、まさしくこれである。
 ちなみに言えば、もう少し小ぶりの五尺ほどの石燈籠が、左右対をなして二基あり、それには、同じく承応二年三月吉日、田原久光・法名道円とあり、もう一方には、承応二年三月吉日、田原道円久光室・理応院妙感建立、とある。
 言うまでもないが、二人ともこの日付のときには故人である。伊織が父母名義で建てたものであろう。
 田原久光は伊織の父・甚兵衛であり、その室・理応院妙感とは彼の母である。京都深草の宝塔寺に伊織が兄弟と建立した父母の墓があるが、その墓誌によれば、父の久光の歿年は寛永十六年(1639)、行年六十二歳であり、母の歿年は承応元年(1653)、行年六十六歳で、すなわち石灯籠寄進の前年である。
 ようするに、伊織は自身の名を刻んだ石燈籠だけではなく、ほかに父母名義の燈籠二基を寄進していたのである。少なくとも三木合戦敗北を契機に不遇に陥った田原家を守って苦労した、実家の父母の供養をしたということであろうか。


泊神社本殿背面
中央が伊織燈籠、左右に父母名義の小ぶりの燈籠二基がある


 ここで見過ごせないのは、これら三基の燈籠が神社本殿背面に立つことである。これは神社正面から慎ましやかに身を潜めたということではない。まさに伊織にとって、正面は背面なのである。あるいは背面こそ正面なのである。
 この逆説を解くのは容易である。なぜなら、本殿背面とは、加古川上流の方向である。すなわち、おそらくは父母の故郷の方を向いているのである。
 我々の所見では、田原氏本願の地は加西郡田原村、母の出は『播磨鑑』によって河東郡垂井庄宮脇村、いずれもここからすれば加古川上流、とすれば、まさしくその方向に面した背面こそ正面なのであった。
 さらに、「泊の古宮を米田村へ曳取被建之、内宮と号す」とある。この泊大明神社殿造営工事に関連して、伊織らはもう一つ神社を再建している。それが米田村の天神社である。
 こちらは、老朽化して新築の泊神社の「古宮」をリフォームして再建したということである。そのために泊神社の古宮を、対岸の米田村まで曳いて行ったという。これと同じ記事が、神社の項目にもある。
 この米田村の天神社を「内宮」と呼んでいるというのは、河の対岸にあるこの二社が外宮・内宮として対をなしているということである。
 米田天神社には、これより先、七年前の正保三年(1646)に、伊織は鰐口〔わにぐち〕を寄進している。「鰐口」というのは、神社の参詣者が神前や仏前で綱を振って打ち鳴らす円形扁平銅器。中空で下方に横長の裂け口が切ってあり、そこから鰐口という。
 現在、この鰐口は神社隣の神宮寺に保存されている。神仏習合のおり寺社一体であった歴史があるからだ。
 伊織が納めたこの鰐口は青銅製口径一尺三寸、それには、「於豊州小倉小笠原右近大輔内 宮本伊織朝臣藤原貞次敬白 正保三暦丙戌九月吉日本社再興願主」とある。
 伊織は、天神社再興の願主となっていた。ようするに、伊織は泊神社造営に関わる以前に、出身地米田村の天神社に何かと関わっていたようである。
 これについて『播磨鑑』には神社の部で別の記事もある。
 《泊りへは、御歌仙三十六枚其外珍物等を被寄附》とある、この「泊り」というのは泊神社。そこへ三十六歌仙扁額その他を奉納したことをいう。
 泊神社は本工事だが、同時に、米田村の天神社も再建するかたわら、そこにも同じ三十六歌仙扁額を奉納している。ここで視点は、その前に話がいったん米田天神社へ移ったから、「泊へは」という言い方になったようである。
 この三十六歌仙扁額は、垂井庄の氏宮にも奉納された。それは後の記事に出てくる。
 そして、《今、其子孫、小倉より江戸往來の節は》とあって、今も伊織の子孫が参勤交代などで小倉から江戸往来の節には、この泊神社に参詣する。それはここが伊織所縁の神社だったからである。
 ささいなことかもしれないが、これは平野庸脩の「今」、現在の事実であった。それを地元の者として書き留めているわけである。  Go Back


[資料篇]  泊神社棟札 



泊神社
兵庫県加古川市加古川町木村




伊織寄進の石燈籠




泊神社と燈籠の位置




田原・垂井・三木




伊織寄進の鰐口
米田天神社隣 神宮寺蔵



伊織寄進の三十六歌仙扁額
 
 (8)母は加東郡垂井ノ荘宮ノ脇村ノ人也
 これは見のがせない記事である。伊織の母が、加東郡垂井荘宮脇村の人だというのである。
 ここは印南郡米田村からすると、加古川の川上の中流域である。この「垂井ノ荘宮ノ脇村」の現在地は、住吉神社のそばの村である(現・兵庫県小野市垂井町)。
 この母なる人につき、泊神社の伊織棟札は、摂州有馬郡小原城主・上野守源信利の娘とする。こちらは播磨ではなく摂津である。この「小原城」は、現在の兵庫県三田市大原にあった「大原城」と同定しうる。
 「小原」は「大原」であろう。この大原城の大原氏の方は、天正年間、摂津を制覇する荒木村重によって滅ぼされたという。「おおはら」と「おはら」が相互に転訛しうる名だとすれば、このケースでは両者は同一でである。
 こういうことも、『播磨鑑』が「小原」ではなく「大原」という名を書き遺しているから、照合できるのである。
 三木の墓碑によれば、信利の歿年は天正十五年(1587)である。京都深草の宝塔寺に伊織ら兄弟が建てた祖父母の墓碑の記事ともこれは一致する。また小原家系図では、小原信利は秀吉の九州攻略の前哨戦(田川郡香春岳の城攻め)で、豊前で戦死。
 嗣子の小原信忠は、三木合戦の後、三木城主になった中川秀政に従って、秀吉の朝鮮出兵に参加、そして彼地で戦死した。小原家系図によれば、信忠の歿年は文禄元年(1592)である。こうして後嗣をなくした実家・大原家のために、伊織の母は、四男貞隆に実家の家名を継がせ、医師にした。
 これが泊神社棟札の記事である。それに対し、『播磨鑑』は、この母を加東郡垂井庄宮脇村の人とするのだから、話はもっと具体的である。
 摂津有馬郡大原城主の大原氏は、荒木勢に排除されて滅亡したと摂津側の史料にあるが、信利は生き残って、その後おそらく結局中川清秀の麾下に入ったものと思われる。そして中川氏は、清秀の子・秀政の代になって、天正十三年(1585)三木城主として移封されてきた。そのとき、信利・信忠父子も三木へ移ってきたのである。
 しかし、信利は天正十五年(1587)豊前で戦死。伊織の母(理応院)は、三木の墓碑によれば承応元年六十六歳歿だから、彼女は父信利が死んだ年(天正十五年・1587)に生れたことになる。彼女は三木で生れたのである。
 そして、兄信忠が文禄の役で死んだとすれば、六歳の時(1592)兄を失ったということになる。伊織の外祖母・常光院(信忠と理応院の母。元和九年(1623)まで存命だった)は、幼い娘を連れて、三木の近くの垂井庄に身を寄せたと思われる。
 平野庸脩は、《依之、伊織も久敷、宮ノ脇村に被居由》と記す。つまり、母が加東郡垂井庄宮脇村の人だから、伊織も久しくその村に居たということである。伊織の産地は印南郡米田村だが、育ったのは加東郡垂井庄だったのであろう。
 後出のように伊織の弟・玄昌について庸脩は、これを「加東郡垂井庄池尻村ノ産」とする。弟の産地は加東郡垂井庄である。だから、伊織兄弟は、何か事情があって、印南郡米田村ではなく、母の実家のある加東郡垂井庄の村で育ち、あるいは生まれたということになる。  Go Back

 
 (9)又、弟に(實は甥也)宮長清兵衛と云人有
 この「宮長清兵衛」という人は不詳である。現在、三木市や加古川市など東播磨にこの宮長姓の家はあるから、その子孫かもしれない。
 とにかく、この宮長清兵衛が伊織の弟で、実は甥だという話である。甥ということになると、伊織の兄弟、長兄吉久の子か、末弟正久の子か。あるいは女きょうだいが伊織にあって、宮長氏に嫁して生まれた子が清兵衛かもしれない。
 この甥が「弟」になるについては、伊織の父母の養子になったということであろう。いずれにもせよ、伊織近親の者である。この「弟」は、伊織の母の実家のある加東郡垂井庄にいたものらしい。
 これと同時に、人々が気づく必要があるのは、庸脩の親族関係に対するこういう書き方である。こんな「実は甥なり」という情報を庸脩は書留めているのだが、もし武蔵が米田の田原氏で、伊織の父の弟だったなら、庸脩は絶対に「実は叔父也」と記しているはずである。
 庸脩のこういう細部にわたる視線まできちんと知っておけば、だれも、武蔵が米田村で生まれ伊織の叔父だったなどという根拠なき説を信憑するわけがないのである。
 《此人の宿願にて》とあって、以下、三十六歌仙絵馬等が「垂井荘内氏宮」に奉納された件を述べる。これによれば、三十六歌仙扁額一式と御製御宸筆一枚がセットであったものらしい。これは、印南郡の泊神社と米田天神社についても同様のようである。
 ところで、垂井荘内の氏宮ということだが、これは神社が特定できる。すなわち、住吉神社(現・小野市垂井町宮ノ下)である。
 ここには、三十六歌仙絵馬が一式揃って保存されている。そしてそれは、泊神社等と同じ絵師・甲田重信の作である。そして万治二年(1659)の日付があるところからすれば、伊織は泊神社造営の六年後、この「垂井荘の氏宮」へ奉納したのである。
 ところが、興味深いことに、その絵馬の箱書には、宮脇村出身で小倉小笠原家臣の大原重政という名の者が、寛政八年(1796)に奉納したとある。経緯は不詳だが、時期が寛政年間だとすれば、『播磨鑑』よりも後のことで、何か事情があってこの大原重政がこれを手に入れ、神社に奉納(もしくは返納)したということらしい。「大原」という名からすれば、おそらく伊織の母の縁者の子孫であろうか。  Go Back


住吉神社 兵庫県小野市垂井町



播州加東郡垂井庄と摂州有馬郡大原


大原城址 兵庫県三田市大原



宮脇村と池尻村




住吉神社 兵庫県小野市垂井町




三十六歌仙図絵馬 小野小町
住吉神社蔵

 
 (10)又、弟に大原玄昌と云人有
 この大原玄昌は、前述の通り、伊織の弟・貞隆のことである。「玄昌」は医師たる名号。京で医を学び、後に典薬寮から法眼の位を受けたという。
 泊神社棟札によれば、伊織の母が命じて、この母の実家を嗣がせたということである。それにしても、『播磨鑑』の記事の方は、一貫して「大原」である。「小原」ではない。
 《此人の石碑、今、三木町本要寺に在之》。大原玄昌の石碑が、今も三木町本要寺にある、ということ。三木町の本要寺とは、吉祥山本要寺(現・兵庫県三木市本町二丁目)のことである。三木合戦の折、秀吉はここに本陣をおいたという。包囲する三木城は指呼の間である。
 この石碑は、《右は伊織と玄昌トモニ寄附也》とあるごとく、伊織が関与している。すなわち、三基の墓碑が、本要寺蓑谷墓地に現存する。本要寺によれば、石碑はもとは本要寺内にあったが、街区の区画整理で寺の墓地が失われたため、代替地の蓑谷霊園(三木市本町三丁目)の方へ移設したとのことである。
 このうち左右二基は、右に田原家祖父母の墓、左に母の父母、つまり伊織ら兄弟の外祖父母の墓である。もう一つは中央の大きい石碑で、伊織と玄昌の父母の墓である。つまり田原家の墓である。
 別にも何度か指摘しているように、伊織の父母の墓は、ここ播州三木の本要寺と、京都深草の宝塔寺にあるが、伊織が生まれた印南郡米田村には存在しない。
 このことは、泊神社の伊織棟札の記述と違う事実を物語る。つまり、そこには田原氏は代々米田村に居たと記しているが、では、なぜ米田村に伊織は父母や祖父母の墓を建てなかったのか。結論だけ言えば、それは米田村が父祖の地ではなかったからである。
 この点では、むしろ、父の甚兵衛は《元来、三木侍にて別所落城の後、此米田村え來り住居して、伊織を生す》とある、この『播磨鑑』の記事の方が信憑性がある。たぶん、この三木の本要寺に父母の墓を建てたのは、父祖が別所麾下の「三木侍」であったからであり、また母が三木の北の加東郡垂井庄の人だったからであろう。
 《二人共人物ノ部ニ見ヘタリ》。伊織と玄昌の兄弟二人は、『播磨鑑』に名を残している。「人物ノ部」というのは、同書附録にある人物の項で、それぞれ「武の部」「醫の部」に記事がある。重複するが、短いのでそれを引用すれば、
  「宮本伊織  印南郡米田村ノ産也。宮本武藏、養子トス。
          舊跡ノ部ニ委ク記ス」
  「大原玄昌  加東郡垂井庄池尻村ノ産。任法眼被加典薬寮。
          延寶比ノ人也」
 この記述により、伊織たち兄弟の田原家の当時のことについて、我々は何ごとかを知るのである。すなわち、田原甚兵衛久光は、印南郡米田村に流れてきたが、やはり本地の三木郡・河東郡など加古川中流域に所縁があって、米田村に居ついていたわけではなかった。あくまでも父甚兵衛は「元来、三木侍」だったのである。  Go Back



本要寺と墓地



伊織兄弟が建てた父祖の墓
本要寺蓑谷墓地 兵庫県三木市




米田村と加東郡垂井庄

  【後 記】

 以上のように『播磨鑑』は、宮本伊織について圧倒的な情報を提供してくれている。それは他の史料によって、あるいは現存遺蹟によっても裏づけられる。そして何よりも、他の史料では決して得られない伊織情報を記録しているのである。
 このように『播磨鑑』が、宮本伊織の事跡に関して、他の追随をゆるさぬ第一級の史料たるゆえんは、平野庸脩が地元播磨の人、それも伊織の産地・印南郡米田村の隣村で生まれ育って、そこに現住する学者だったことによる。庸脩は子供の頃から、伊織のことを聞いて育った人である。
 これだけの史料が存在しながら、武蔵の養子たる伊織について、出羽国で拾った子だとか商家の子だという伝説しか知らない九州の伝記に信をおく、という武蔵研究の貧困な有様は、現在でもあまり変ってはいない。
 しかしながら、武蔵あるいは伊織について、根拠なき謬説が「通説」となっていることは、極めて嘆かわしい事態である。とりわけ最近人気急上昇の印南郡米田村出生説にいたっては、この『播磨鑑』の記事はおろか、自身が根拠とする泊神社の伊織棟札さえきちんと読めない者らの謬説である。それは悲惨としか言えない情況なのである。
 ことに、平野庸脩が米田隣村・平津村の住人たることは、これまで何びとも注意も強調もしたことがなかったポイントである。
 武蔵播磨出生説のうち、印南郡米田村説を採る者らが、これについて述べたことがなかったのは、我々の見るところ、この点を「無視」したというよりも、そもそもが無知、知らないためのようである。『播磨鑑』をまともに読まずに播磨説を主張する、といった研究の惨状が続いてきたのである。(諸氏よ、「庸脩が米田隣村住人たることなど、すでに知っていた」と今後諸君が抗弁するとも、それはすでに時遅しである。諸君の既刊書物・論文を一読すれば、看過は明白である)
 それゆえにこそ、伊織棟札を正確に校訂し厳密に読解すること、そして『播磨鑑』を詳細に読み取るという研究が必要であった。我々が為したのは、まず、そうした基礎的な実践である。
 ここでの註解で明らかにしたように、伊織について、また武蔵について、他の史料とは異なる情報が存在する。いくつかの点は、我々の今後の研究課題として、問題提起にとどめたい。


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