宮本武蔵略伝年譜
武蔵の生涯とその時代を概観する

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生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也。(五輪書・地之巻)
 宮 本 武 蔵   略  伝  2  Back   Next 

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巌流島の決闘
 十代の武蔵は、新免の兵法家を相続し、兵法者として自立し、同時にさまざまな流派の兵法者と試合をしていたようである。だが、いつだれと試合をしたか、それらの履歴はほとんど不明である。
 そのなかでも例外がある。つまり、それが巌流島の決闘である。ただし、武蔵自身はこの決闘について一切何も記していない(1)。この決闘の初出史料は、決闘現場にほど近い、小倉郊外手向山に設置された武蔵記念碑の碑文である(2)。地元近隣での武蔵事蹟ということで、碑文に記録されたのであろう。
 しかし、この決闘はあまりにも有名になりすぎて、多数の書物に書かれ、諸説にぎやかに繁茂して、情報がありすぎるのだが、この決闘については、実際は、ほとんど史実からほど遠い伝説の域にあると言える。
 それというのも、18世紀半ばに、この決闘をハイライトシーンとする演劇(歌舞伎及び浄瑠璃)作品が登場して、それが大衆的人気を博し、武蔵の名を世間に知らしめるようになった。現代にいたる巌流島物人気も、そもそも18世紀における演劇作品の成功にその発端を得ている(3)。他方、読本〔よみほん〕に小説化され、これも大いに読まれた(4)。18世紀を通じて、武蔵物は父の仇・佐々木巌流を、巌流島で討ち果たす、という復讐物語になった。この仇討ちという説話パターンは日本人に人気のあったテーマであった(5)
 小倉の碑文では、この決闘の記事はごく簡潔なもので、武蔵の相手は「岩流」〔がんりゅう〕という名号のみ記されていて、その姓は記されていない(6)。ところが、巌流島決闘を演劇化するさいに、武蔵の相手として、「佐々木巌流」という名が創作された。「巌流」は小倉の碑文と同様としても、「佐々木」という姓は演劇作品の作者の創作である。したがって、武蔵の相手は「佐々木」だとするのは、18世紀の演劇作品を起源とするものであって、実際には、いかなる姓であったか不明である(7)。それゆえ、武蔵の対戦相手について、今日「佐々木小次郎」という名が広く知られているが、その「佐々木」姓には根拠はない(8)
 また、小倉の碑文では、この決闘が行なわれた年の記載がない。したがって、巌流島決闘がいつ行なわれたか、本来は不明である。これに対し、肥後系武蔵伝記では、武蔵29歳のときのイベントだとする(9)。また、筑前系の伝記では、この決闘を武蔵19歳のときのことだとする(10)。これは日本人の国民投票で多数決で決めるわけにもいかず、どちらとも決しがたいのだが、地元長門のローカルな伝説をもとにしているという点では、後者のほうに分がある。したがって、ここでは、巌流島決闘は武蔵十代の出来事、つまり19歳、1602年あたりの出来事だとしておく(11)
 武蔵はこの決闘で対戦相手・岩流を倒した。決闘の場所、巌流島は長門国下関(現・山口県下関市)の沖の小島である。もともと舟島という名であるが、地元の人々が敗者・岩流を追悼してこの島に墓を建て、以来この島を「岩流島」と呼ぶようになったという(2)
 武蔵自身が『五輪書』でこの決闘について記していないところをみれば、彼が六十数回行った決闘勝負の一つにすぎず、かれの兵法者としてのキャリアにおいて特記すべき事件ではなかったようである。巌流島決闘が特別な事件になるのは、上述のようにこれが18世紀半ばに演劇化されて世間で有名になって以来のことである。むろんそれは、武蔵本人とは無関係な、後世の人々のしわざである(12)

(1) 『五輪書』地之巻。13歳の対有馬喜兵衛戦や16歳の対秋山戦は記すが、巌流島決闘の記事はない。
(2) 1654年宮本伊織が建碑した武蔵記念碑の碑文。通称「小倉碑文」。この碑文の記事が、巌流島決闘について記した最初の史料である。
(3) 巌流島決闘の演劇化作品は以下のものがある。――歌舞伎「姉小劍妹手槍敵討巌流島」(1737年)、人形浄瑠璃「花筏巌流島」(1746年)、人形浄瑠璃「花襷会稽褐布染」(1774年)。この系列の作品は敵討がテーマ、しかし武蔵をモデルとする人物が敵討をするのではなく、それを助ける脇役。主役は父の敵を討とうとする姉妹の女性たち。なかでも「花筏巌流島」の趣向は変っていて、巌流は悪役の仮面をつけた善玉という按配。
(4) 代表的な読本作品は、「絵本二島英勇記」(平賀梅雪作 1803年)。ここでは武蔵は「宮本無三四」という名で、二十歳前後の若者。無三四の実父は「吉岡太郎右衛門」。父を暗殺した親の仇=佐々木巌流を討つため、艱難辛苦して諸国を探し廻り、遂に巌流島で討ち果たす。このストーリーがあまりにも普及していたので、明治時代の人名辞典まで、その内容を真に受けて武蔵伝を記していたほどである。
(5) 仇討ちをテーマにした最も有名な作品は、「忠臣蔵」である。こちらは、主君の仇を旧家臣たちが討つというパターンで、1702年に江戸で起った実際の事件を題材にしている。演劇作品は、まず人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」(二代目竹田出雲他作 1748年)により定型が形成された。これが大当りとなったので、同じ年の暮に「仮名手本忠臣蔵」は、同じ題名で歌舞伎作品として登場し、以来最も人気のある歌舞伎作品となった。かくして、巌流島決闘の演劇化と、「忠臣蔵」の成立が、まさに同時期なのであった。
(6) ただし、後年の文献だが、「巌流」は人名ではなく、流派名だという説もある。筑前の海事文書『江海風帆草』(立花重根序 1704年)と、それをうけた筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』(立花峯均著 1727年)。前者は、武蔵の対戦相手の名を「上田宗入」とし、後者は「津田小次郎」と記録する。「巌流」は人名ではなく流派名だというのは、実際に因幡鳥取にあり中国地方に広く行われていた「岩流」なる流派をそれと混同したものである。
(7) 「佐々木巌流」の起源は明らかである。巌流島決闘の最初の演劇化作品「敵討巌流島」で、宮本武蔵は「月本武蔵之助」、岩流は「佐々木巌流」という役名を与えられたのである。これは実名を避けるやりかたで、「忠臣蔵」で大石内蔵助が「大星〔おおぼし〕由良助」という役名を与えられるのと同じ方式である。したがって、歌舞伎「敵討巌流島」で岩流が「佐々木巌流」という名を与えられているとすれば、少なくともモデルの岩流は「佐々木」姓ではなかったことはたしかである。この「佐々木」姓は、フィクションであることの指示記号である。
(8) 「佐々木小次郎」の名を出して有名にしたのは、20世紀初頭の『宮本武蔵』(宮本武蔵遺跡顕彰会編 1909年)である。同書はいきなり「佐々木小次郎」という名を出すが、何の典拠も提示していない。同書が参照したであろう肥後系武蔵伝記『二天記』には、本文ではなく注記に、「佐々木小次郎」の名が伝聞情報として記されているが、種本の『武公伝』にはそんな記事はない。これは演劇の「佐々木巌流」が世間に普及した後の、18世紀半ば以降に発生した新しい異説である。
(9) 肥後系武蔵伝記の『武公伝』、『二天記』。武蔵29歳説は他にはなく、肥後のローカルな伝説である。記事に根拠はない。肥後系武蔵伝記は、巌流島決闘という事件を細川家に我田引水する傾向が顕著であり、また小次郎を富田勢源の弟子とするなど、のちの肥後時代に伝説形成された要素が多く、その内容は伝説祖形からかなり離れている。他の諸史料に比して信憑性を欠く記事内容である。
(10) 『丹治峯均筆記』。同じく筑前の海事文書『江海風帆草』では、巌流島決闘は武蔵18歳のときのことである。これら筑前系の史料の説話要素には、地元長門の伝説祖形を保存している部分があり、この点に関する限り、上記の肥後系武蔵伝記の伝説よりはいくらかマシである。
(11) 『江海風帆草』および『丹治峯均筆記』。とくに『江海風帆草』は元禄以前の文書なので、17世紀後期の巌流島伝説では、決闘時の武蔵は十代の若者であったことが確認できる。また、江戸時代から明治期までの読物でも、武蔵はかならず若者、敵役の「佐々木巌流」は中年のゴツい豪傑、と相場が決まっていた。この巌流が、名も「佐々木小次郎」に改まり、前髪の美形の若者に変身するのは、昭和になって以後のことである。
(12) それゆえ、武蔵ファンには気の毒だが、「巌流島決闘は、武蔵の兵法修行の総仕上げをなす最大のイベント、小次郎は武蔵にとって最強のライバル」、ではなかった。そういう設定は、明治末の『宮本武蔵』(宮本武蔵遺跡顕彰会編)の影響下に、小説家たちの頭のなかで発生した空想の産物であり、むろんまったく根拠はない。




巌流島周辺地図




巌流島





武稽百人一首
佐々木巌流



早大演劇博物館蔵
花筏巌流島/花襷会稽褐布染



東京都立図書館蔵
宮本無三四佐々木岸柳仕合之圖
一孟斎歌川芳虎筆









巌流島 武蔵小次郎決闘像

上京して吉岡一門と対戦
 武蔵は新免の兵法家を相続し、一家をなす兵法者として自立し、さまざまな流派の兵法者と試合をしていたが、まだローカルな兵法者であった。兵法者武蔵を有名にしたのは、彼が当時の日本の首都・京都へ出て、吉岡一門と試合して勝ったという業績である。
 武蔵の『五輪書』によれば、彼が21歳のとき京都へ出た。それがはじめての上京だったかどうか不明だが、そこで日本有数の兵法者たち(天下の兵法者)と数度対戦して勝ったと記す(1)。したがって、この一件は武蔵が21歳と年齢を明記しているので、1604年のことである。
 武蔵自身は、『五輪書』でこの日本有数の兵法者たちの名をあげていないが、小倉の武蔵記念碑の碑文によれば、これは、吉岡一門の兵法者たちである(2)。もちろん、「天下の兵法者」が吉岡以外の兵法者を含む、とも考えうる。当時、京都には、兵法者が多数集っていたからである。
 この小倉の碑文では、吉岡との対戦のみを、しかもかなり具体的に――均衡を失するほど長く――記述している。おそらく、これが武蔵の兵法キャリアの中でも最も重要な功績だという認識があったのであろう。
 その碑文記事によれば、武蔵はまず、洛外蓮台野で吉岡清十郎と対戦して、彼を打倒した。清十郎は重傷を負い、兵法を捨て出家した。つまり吉岡一門の代表たることを辞したということである。次に、また洛外に出て、武蔵は吉岡伝七郎と対戦し、彼の長い木刀を奪って彼を打ち殺した。
 吉岡清十郎と伝七郎の二人を打ち負かされた吉岡一門は、こんどは吉岡又七郎を中心に数百人が洛外下り松に結集して、武蔵を包囲して殺害しようとした。武蔵は、まず最初に、彼とともに戦おうとする自分の門弟を撤退させ、それから多数の吉岡勢を相手に縦横無尽に戦い、彼らを蹴散らした。武蔵が京の町に帰ると人々は大いに賛嘆した。このことがあって、吉岡の兵法家は断絶した、という(2)
 以上が小倉の碑文の内容だが、後世の武蔵伝記は、これにさまざまな伝説要素を加えて、枝葉を茂らせている。たとえば、肥後系伝記は、吉岡清十郎を兄、吉岡伝七郎を弟とし、さらに第三番目に登場する吉岡又七郎を清十郎の息子と設定する(3)。このような続柄の設定は、最初の史料・小倉碑文にはなく、また他の武蔵伝記にはみられないことである。したがって、これは肥後で後世付加された伝説要素である。本来の史料(小倉碑文)では、清十郎、伝七郎、又七郎の3人の名は出ているが、彼らは吉岡一族という以上の情報はない(2)
 また肥後系伝記は、武蔵が吉岡又七郎を斬り殺したとするが(3)、これも初出史料・小倉碑文にはない要素である(2)。また、そのようなことは、筑前系武蔵伝記にも記されていない(4)。あるいは肥後系伝記は、この第3の決闘現場を、「一乗寺村下り松」とするが(3)、これも小倉碑文には「洛外下り松辺り」と記すのみで、一乗寺村とは記さない(2)。筑前系武蔵伝記も、小倉碑文の記述を踏襲している(4)。それゆえ、肥後系伝記のいう「一乗寺村下り松」は、おそらく肥後で後年発生した伝説要素であろう(5)
 このように、肥後系伝記には、恣意的な伝説増殖の傾向が見受けられる。ようするに、肥後系伝記が「一乗寺村下り松で、武蔵が、清十郎の息子・又七郎を斬り殺した」とするのは、根拠のない伝説である(6)
 武蔵が吉岡一門と三度対戦して、勝利したというのは、武蔵側の伝説情報である。これに対し、他の史料では、武蔵は吉岡と戦って引分けに終ったとするものがある。これはおそらく、地元京都の伝説を取り込んだ記事である(7)
 また、『吉岡伝』という吉岡側の文献もある。それによれば、宮本武蔵は吉岡兄弟の兄・直綱と対戦して、打たれて出血、ただし、相打ちだという声もあってこの勝負は不分明。直綱はさらに再試合を望んだが、武蔵は「すでに直綱との試合は終った、次に弟・直重と対戦したい」と答えた。そこで後日直重と試合することになったが、武蔵は忽然と姿を消し逃亡した。京の人々は「直重は座ったまま(戦わずして)勝った」と、評判したという(8)
 ただし、この『吉岡伝』の「宮本武蔵」は、越前少将松平忠直の家士であり、しかも奥羽北越の北国で有名な兵法者で「無敵流」を号するなど、実際の武蔵からかけ離れた、まったく無関係の架空の人物である。それは、吉岡兄弟の兄・直綱が「宮本武蔵」と対戦する前に、弟の吉岡直重が打倒したという、「朝山三徳」と「鹿嶋林斎」の二人が、架空の人物であるのと同様である(9)
 したがって、『吉岡伝』の「宮本武蔵」をもって、武蔵の伝記事実を語ることはできない。それゆえまた、小倉の碑文にある、吉岡清十郎と伝七郎を、『吉岡伝』の吉岡直綱と直重と同一視することはできない。この吉岡兄弟の対戦相手が架空の存在であるとすれば、彼らと戦って勝ったという吉岡直綱と直重の実在性も疑わしい。モデルはあろうが、『吉岡伝』が創作したキャラクターである可能性が強い(10)
 ともあれ、巌流島決闘の伝説と同様、この吉岡一門との決闘も伝説の蓋いに覆われてきた。しかし、この一件を記す最初の史料である小倉碑文に立ち返り、後世生い茂った余計な伝説の枝葉を切り払う必要がある。そうして、武蔵が21歳のとき京都へ出て、吉岡一門と3度決闘して、彼らを敗北せしめた、という単純な事実のみを採択すべきである。

(1) 『五輪書』地之巻。
(2) 1654年宮本伊織が建碑した武蔵記念碑の碑文。この碑文の記事が、武蔵と吉岡一門との決闘に関して記した最初の史料である。
(3) 肥後系伝記『武公伝』および『二天記』。
(4) 筑前系伝記『丹治峯均筆記』。この武蔵伝記では、吉岡又七郎を中心とする多数の吉岡門弟らと戦ったとき、武蔵は彼らを蹴散らし逃走した、とするのみで、武蔵が吉岡又七郎を斬殺したという記事はない。
(5) 北野天満宮(現・京都市上京区)の近辺一帯は松原で、秀吉の北野大茶会(1587年)の開催場所。そこに、有名な「下り松」があり、これが一条下り松。おそらく、肥後の口碑伝説過程で、この「一条」が「一乗寺村」に化けたのであろう、というのが我々の見立て。肥後系伝記の作者は京都の地理に不案内のようであり、その点チェックできなかったらしい。また、この下り松の決闘の前に武蔵が八幡社の前を行きかかり、勝利祈願しようとして、それを思いとどまった、云々の逸話も、肥後系武蔵伝記のみにある伝説増殖である。
(6) それゆえ、ファンには気の毒ながら、武蔵小説や映画のハイライトシーンの一つであるこの場面は却下される。しかも、吉岡又七郎が清十郎の子だとするわけにいかないのだから、又七郎を児童だとするのは、根拠薄弱な設定である。武蔵小説が好んで心理的題材にしたがる「児童斬殺」シーンは、ようするに空想の産物。むろん、いたいけな少年を真っ先に殺した武蔵は、勝つためには手段を選ばぬ残忍冷酷な人間だった、という非難がましい道徳的言説も、戦前からあった紋切り型の武蔵評論の一例である。
(7) 『本朝武芸小伝』(日夏繁高著 1714年)、『古老茶話』(柏崎永以著 1740年代)などにみえる異説。巌流島決闘についての地元長門の伝説と同様に、地元京都の伝説は、吉岡贔屓から、「負けたが、それでも負けなかった」という否認のポジションをとるものらしい。それが、両者引分け説の生成因である。
(8) 『吉岡伝』(福住道祐著 1684年)。この文献は吉岡染物屋の由来を語る物語であり、記述内容は荒唐無稽なものである。
(9) 『吉岡伝』に登場するこの三人は、超歴史的な架空の存在である。そのモデルらしきものをいえば、「朝山三徳」のモデルは天流の祖・斎藤伝鬼坊、「鹿嶋林斎」のモデルは新当流の祖・塚原卜伝のようであり、そして「宮本武蔵」のモデルは武蔵ではなく、むしろ富田流の祖・富田勢源のようにみえる。『吉岡伝』の「宮本武蔵」の記事は、地元京都の伝説に類似のものがなく、むしろ、物語として創作されたものであろう。
(10) それゆえ、武蔵小説を書く作家たちが、わけ識り顔に、ことさら「吉岡源左衛門直綱」「吉岡又市直重」と名を記して、武蔵伝記に登場する吉岡清十郎・伝七郎の役を演じさせるのも、不心得な混乱混同と謂うべし。




小倉碑文拓本




吉岡京都関係地図



武稽百人一首
吉岡拳法




一乗寺下り松
宮本吉岡決闘之地碑







宇喜田一實諱@北野天満宮蔵
北野大茶会図 部分

慶長諸国遍歴時代
 京都で吉岡一門を破ったというこの功績により、兵法者・武蔵の名声は確立された。21歳で最強の兵法者の一人と目されるようになったわけだが、それは早すぎる、と言うのは当らない。人間の運動性能のピークを考えれば、武術の世界ではむしろよくあることで、異とはしない。今日でも、たとえば21歳で横綱という例があるのをみてもわかろう。
 武蔵のもう一つの側面は芸術家としての顔である。この京都は日本の首都であり、同時に日本文化の中心地であった。慶長時代後期の文化状況のなかで、武蔵は学者や画家たちと交遊し、同時に、学問と芸術の修行をしたものと思われる。後年の武蔵の文化的教養の基礎は、この京都滞在時に築かれたのである(1)
 『五輪書』によれば、その後武蔵は、遍歴し諸流派の兵法者多数と勝負するも、無敗であった。諸国を遍歴しつつ他流の兵法者との勝負を繰返す、こうした兵法修行は、武蔵が20代の終りまで続けられたようだ(2)。ただし、その遍歴時代の試合に関して、具体的な記事を有する史料も口碑もなく、後世の武蔵諸伝記にも確かな情報はない。
 後世の武蔵伝記における唯一の例外は、肥後系伝記の『二天記』の記事である。そこには、武蔵の対戦履歴として、奈良の宝蔵院流鎗術の奥蔵院という僧に勝ったこと、伊賀国(現・三重県)で鎖鎌の名人・宍戸某と対戦して打ち殺したことなどが記されている(3)
 しかしながら、『二天記』の種本である『武公伝』にはそのような記事はない(4)。むろん筑前系の伝記にも存在しない記事である(5)。したがって、こうした対戦履歴は、もともと存在しなかった情報であり、18世紀中期に肥後で発生した伝説であろう。今日でも、宝蔵院流鎗術の奥蔵院や鎖鎌の宍戸と対戦して勝ったと、まことしやかに記す書物があるが、それは『二天記』の伝説を鵜呑みにした明らかな謬説である。
 なお、『二天記』の同じ段に、武蔵が江戸で、夢想権之助という者に挑戦され、一撃で打倒したことを記すが、こちらは明らかな誤伝である。オリジナルの仮名草子では、これは江戸ではなく、播磨の明石でのことである(6)。いずれにしても、『二天記』の記事は確かなものではない。
 ともあれ、具体的な情報は欠落しているが、『五輪書』によるかぎりにおいて、武蔵は28〜9歳のころまで、諸国を遍歴してさまざまな流派の兵法者と対戦して、負けたことはなかった。13歳のとき有馬喜兵衛に勝って以来、60回以上勝負をしたが無敗であったという(7)
 ところが、おもしろいことに、武蔵は六十余戦して敗け知らずというが、それは弱い相手ばかり選んで試合していたからだろう、という論評が近代になって出てきた。武蔵の相手は後世名を残していない者ばかり、かたや当時の名だたる剣豪とは試合していない、というわけである(8)
 これはほとんど子どもじみた話なのだが、武蔵に負けた相手が、「当時の名だたる剣豪」として後世名を知られている者らより下手であった、という証拠はない。もし彼らが武蔵と対戦しなかったとすれば、生き残って、「当時の名だたる剣豪」として後世その名を残したかもしれない。そういう意味で、六十余戦して無敗という武蔵は「当時の名だたる剣豪」の存在可能性を次々に消尽していった、迷惑な消費者だったかもしれない。
 ともあれ、そうして武蔵は、決闘勝負は二十代で卒業した。『五輪書』に記すように、これを武蔵28〜29歳のときだとすれば、1611〜12年ころのことである。
 武蔵二十代の、このような諸国遍歴は、たんに剣術修行のためではない。当時の状況と習俗をみれば、これにはさまざまな意味合いがある。
 ひとつは、言うまでもないが、一所不住の非定住・脱俗的修行者生活。これは武蔵の人生の根本的なスタイルである。それは、以後どこに住もうと変らず、武蔵はこの世の過客であり、仏僧よりも徹底して、一所不住のテーゼを生きた人であった。
 二つめは、文芸的な旅の生活。つまり全国の名所を歴訪して各地の文物に触れること。これは知的芸術的修行の旅である。諸国諸流派の兵法者と仕合しては勝つ、猛烈な兵法者である武蔵の反面が、まさにこれである。「知」も美意識も、旅して得られる。当時の知識人は書斎の人ではなく、芸能者として諸国を旅していたものである。
 そして、第三に、当時の状況を知れば、実は武蔵をして諸国を回遊せしめた理由が分かる。すなわちそれは、当時日本全国でいっせいに、諸大名による新しい城郭の建設が始まっていたことである。
 武蔵の諸国遍歴の時期(慶長後期)と、日本の新城建設ブームの時期は重なる。武蔵は軍事的視点から諸国の地理地形を見聞し、全国の新城建設工事を見て廻ることで、武蔵のいう「大きな兵法」(9)、すなわち軍事戦略の学識を深めていたのである。したがって、この諸国遍歴時代、武蔵は、小さな兵法と大きな兵法の両方について修行し学んでいた、というのが彼の諸国回遊の実態であろう。
 そうして、全国の名だたる兵法諸流派をすべて対戦し尽し、また諸国の地理や諸城もすべて見尽くした、という時期が来る。そのとき、彼の廻国遍歴も終るのである(10)

(1) もとより、武蔵が生まれた地域は、元龍野城主・赤松広秀(1562〜1600)や、儒学者・藤原惺窩(1561〜1619)ゆかりの地である。ことに武蔵と京都文化を結ぶ人脈の中心にいるのは、藤原惺窩である。徳川将軍家の儒学イデオローグ・林羅山(道春)(1583〜1657)は、後年、武蔵の肖像画に賛を寄せている(『羅山先生文集』1662年に収録)。羅山は京都の人で、彼が惺窩の弟子になったころ、武蔵も京都にいたから、その頃からの知人であろう。
(2) 『五輪書』地之巻。
(3) 肥後系武蔵伝記『二天記』(豊田景英 1776年)。
(4) 肥後八代で作成された武蔵伝記『武公伝』(18世紀中期)。この書物の著者は橋津八水(正脩)、つまり『二天記』の著者・景英の父である。景英の祖父・橋津卜川(豊田正剛)が残した記録草稿を柱にして、父・橋津八水が書いたのが『武公伝』だというのがこれまでの解釈。ただし豊田景英によれば、同書は未完成のまま残されたというし、また、景英が手を入れた形跡もある。したがって現存『武公伝』の成立時期も、宝暦5年(1755)とする通説は恠しい。
(5) 『丹治峯均筆記』(立花峯均著 1727年)。むしろ筆者は、武蔵の六十余度の勝負について、ほとんど口碑伝承もないと、嘆いている。18世紀前期には、それが実態だったのであろう。
(6) この逸話の初出は、仏教説話集『海上物語』(釈恵中著 1666年)。場所は播磨国明石とする。したがって、武蔵明石時代とすれば、これは武蔵が40歳のころの話である。『二天記』の著者は『海上物語』を読んではおらず、伝聞で仕入れた内容を誤って記載したようである。
(7) 『五輪書』地之巻。13歳から28〜9歳のころまで、約15〜6年間に、60回以上も勝負をしたというから、平均しても年に4回。しかも、後世とは違って、慶長のころまでは荒々しい時代だった。命を賭けた勝負だから、これは尋常なことではない。ふつうの武士なら、たった一回の決闘に勝っても生涯の勲章になった。いかに天才とはいえ、若き武蔵は、その意味で猛烈な兵法者だったのである。
(8) その皮切りは、『日本劔道史』(山田次朗吉著 1925年)。以後、この山田説の尻馬に乗った亜流説が続々出てきた時期がある。このように、武蔵は当時の名だたる剣豪とは試合していない、といって批難する者らは、可能性が整理処分された歴史の結果をもって話を組み立てていることに自身気がついていない。これは「存在」と「可能性」と「名」という3次元の問題である。「当時の名だたる剣豪」として知られている者らは、武蔵と対戦しなかったから、生き残って、「当時の名だたる剣豪」として後世その名を残した、という逆の話も可能である。ただし、それよりも、江戸は《天下の御膝元とあつて、各流の名家が雲集して居るに拘らず、武藏は之を避けて一人も訪問した形跡が残つて居らぬ。甚だ不審といはねばならぬ》などというのは、慶長期を後の元和寛永と混同した者の言い草である。武蔵が諸国遍歴したという慶長後期、江戸は天下普請の真っ最中で、まさに工事現場。山田次朗吉のいう「名家」なんぞは、まだ江戸にはないから、武蔵は訪問するにも相手はいないのである。
(9) 『五輪書』火之巻。武蔵は一対一の戦闘(一分〔いちぶん〕の兵法)のみを教えたのではなく、合戦のような多人数の戦闘も教えている。後者を「大分〔だいぶん〕の兵法」、大きな兵法と呼んでいる。
(10) この諸国遍歴時代、武蔵が剣術修行に明け暮れていた、というイメージが一般的である。だが、それは剣豪小説の影響を無意識に受けて、武者修行という固定観念で物事を見ているのである。ただし、武蔵の諸国回遊には軍事的研究の目的もあったときくと、早速、では武蔵を間諜(スパイ)に仕立てた小説はいかがか、と訊ねる作家もあるが、いやはや、病膏盲と謂うべし。





観智院客殿 床の間障壁画
伝宮本武蔵画 鷲 図







武稽百人一首
夢想権之助




個人蔵
柳生兵庫助利厳像





姫路城天守断面図






国立国会図書館蔵
藤原惺窩

個人蔵
林羅山



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